最初に酒を呑んだのは何時のことだったっけ。
 ぐうたらと、背もたれに寄りかかるように座りながら、ちびちびと飲んで、
そんなことを思った。
 乾家の台所兼、居間。
 そこで、ひとり、酒を呑んでいる。
 本来ならば、目の前に真っ赤な髪の友人が座っているはずだったのだが、そ
こには誰もいない。
 きっと、今狙っている、なんとかという女子校の女の子と出かけているのだ
ろう。
 友人の約束より、女の子との刹那を選ぶようなヤツなのだから。
 しかし、あいつ、これでふられるのは何人目だったっけ?
 ふられるのを勝手に確定しながら、口元だけを笑いの形に崩し、また一口、
酒を口に含んだ。





「酒精に漂う」

作:のち





 そうだ、酒を初めて呑んだのは、ここでだった。
 唐突に思い出して、目を天井に彷徨わせて、少し、記憶を掘りおこす。
 茫然とした顔で、盃を持ち上げたまま、俺は考えに耽る。
 ああ、そういえば、秋葉が考え事する時にはちゃんとそういう顔をして下さ
いって、小言を言っていたっけ。
 横からそんなことを思い出しながらも、俺は過去を振り返っていた。

 小学生の頃の話だ、あれは。
 いつものように、有彦の家に入り浸っていたら、一子さんが酔っぱらって帰
ってきたんだった。
 あれ? 一子さんが酔っぱらって帰ってきたのだから、夜のことだったっけ
か。
 胡乱な頭で、曖昧な記憶を修正していく。
 開いた方の手で、空に文字を書きながら、思い出そうとするが、結局詳しい
ことはまったく出てこなかった。
 まあ、たぶん、夜のことだったのだろうと決めつけて、その後のことを思い
起こす。

 あの日も、有彦がいなかったのだ。
 確か、そうだったと思う。
 ひとりで有彦の部屋で、漫画か何かの雑誌を読んでいたんだった。
 ぼんやりとした、あまり意義のない時間。
 その頃の俺は、そうした時間を良く過ごしたものだった。
 酒を啜りながら、あの頃のことを思うと、思わず苦笑いをする。
 ああ、なんて、醒めた子どもだったのだろうと、子どもの自分を思い出す。
 舌先に、ざらりとした感触が残る。

 ぐびり、と一息に飲み干してから、また注ぐ。
 注ぎながら、一子さんのことを思う。
 そして、乾家のことを思い出す。
 暖かでもなく、冷たくもない、そこにあるだけの、迎え入れてくれた家。
 それが、乾家だった。
 居場所というものに対して、執着の無かった俺にとって、それは唯一身体を
落ち着かせられる場所だった。
 茫漠とした、とくにすることもなく、そこにいるだけの場所。
 そういう居場所が、当時の俺にとって必要だったのだろう。
 まるで背景のようにしか、他人を認識出来なかったのだから。

 少しあふれそうになるところで、注ぐ手を止める。
 手に持つと、浮かんだ水面がゆらゆら揺れて、零れてしまいそうだ。
 口を近づけて啜り、それからゆっくりと杯をすくい取る。
 そうしながら、思い出に浸っていく。

 漫画を読む気もしなくて、起きあがる気もしなくて、ただ寝転がって天井を
見上げていた時のこと。
 夕闇が窓から差し込み、部屋が暗くなっても、電気ひとつ付けずに畳の上で
寝転がっていた時だ。
 扉を乱暴に開き、そしてまた乱暴に閉じる音がして、足音高く、廊下を歩く
音が聞こえてきたんだった。
 そう、夕方のことだ。
 季節はわからないけれど、とにかく夕方だったと思う。

 揺らめく水面を眺めながら、霞む瞳で遠くを思い起こしていく。
 水面に記憶を写すかのように、のんびりと考え込む。
 足音は、部屋の前で一度止まった。
 そしてノックもせずに、急に開いた。
 半目でそちらの方を見たら、一子さんが立っていた。

 あの時の、一子さんは制服姿だったと思う。
 いわゆるブレザー服のはずなのに、あの人はいつも上着を着ておらず、シャ
ツ一枚で学校へと通っていた。
 それが一子さんのスタイルなのだと、聞いていたので、それには特に違和を
持たず、そういうもんだと納得していた。
 けれど、その時の一子さんの姿は、どこか外れた雰囲気を持っていた。
 それは染めた髪の毛の色よりも、制服の形よりも、そう言う物質的ななにか
よりも、周りに出ていた匂いのようなものだったのだろう。
 俺は、そんな一子さんが、何とも言えずに好きだった。

 ぴちょん、と盃から酒が零れる。
 床に一滴、酒が落ちる。
 透明な物音のを聞きながら、透ける酒を盃から口に移す。
 腫れるような感触が、口の中でいっぱいに広がる。

 じっと俺を見下ろしていた一子さんは、いつもと違う感じがした。
 それがなんだったのかは、あとでわかったが、どうやら学校でなにか言われ
たということだ。
 どこで聞いたか良く覚えていない。
 有彦からだったか、一子さんからだったか。
 それがどちらでも良いのだけど、記憶が途切れる気持ち悪さが残る。
 頭を抱えて思い出すが、何がどうとか出てこない。
 ただ、俺の霧のような眼前に、あの時の一子さんの姿が浮かぶだけだ。
 まるで、その記憶を掘りおこすのを、咎めるように。

 盃を嘗める。
 気が付いたら、すぐに空になる盃を嘗める。
 日本酒独特の匂いが、舌先に痺れを残す。
 鼻の奥に、ツンとした香りが登る。
 机の上の酒瓶は、まだまだ続きが残っている。
 それに手を伸ばすが、届かない。
 指で絡み取るように酒瓶を取ろうとしながら、盃を嘗める。

 一子さんは、いったん引っ込んだ。
 その時、俺は体を思わず起こしたのだった。
 あのいつもと違う雰囲気と、そして何も言わず引っ込んだ一子さんの態度は、
今までに経験したことのない、一子さんだったらだ。
 空白になりそうな頭の中で、混ざり合うようにいくつもの感情が回っていっ
たのを覚えている。
 それは、衝撃もなく、放り投げられた赤子のような感覚だったのだろう。
 俺は、どれほどこの友人の家に、そして一子さんに甘えていたかを思い知っ
たのだ。

 酒瓶を掴む。
 冷え切ったガラスの器を掴む。
 ずっしりと手首に感じる重量感。
 それを味わいながら、酒瓶を傾ける。
 酒が口へ底へと波打ち、揺らぐ。
 震える手で酒瓶を傾ける。

 半分体を起こし、出ていった扉を見ながら、俺は微動だにしなかった。
 出ていった時と同じ感情が、ずっと絶え間なく体中を支配していたのだった。
 震える腕で、体を起こしながら、俺は扉を見続けた。
 喩えようのない孤独の海で、震える体を夕闇の中で浮かばせていた。
 
 酒を注ぐ。
 盃に、酒を注ぐ。
 太い酒瓶は、酔いきった手では支えきれない。
 ちょうど良いあんばいの傾きで固定できず、中の酒が波打ち、どぽりと盃を
包む。
 溢れた酒が、机の上で真円の海を作り、その中心で盃が揺らめく。

 再び現れた一子さんは、酒瓶を持っていた。
 いつも飲んでいる缶ビールなどではなく、どっしりとした瓶の日本酒。
 それを床に放り投げて、俺に開けろと命じる。
 その命令を、俺は耳に届かせることができなかった。

 盃が浮かぶ。
 まるで、一艘の船が湖に浮かぶように、盃が浮かぶ。
 透明な液体が、盃を中心に同心円の輪っかを作る。
 その輪っかが湖の端に辿り着くたびに、湖は広くなっていく。
 その真ん中で、盃が浮かぶ。

 茫然と彼女の顔を見続けていると、一子さんはコップを俺の目の前に置いた。
 もう一つ、一子さんは自分の目の前に置いた。
 そして俺の目をじっと見て、瞳で俺を促す。
 はっとして、俺は転がっている瓶を取り、捻り、口を開ける。

 盃を取る。
 湖から、盃を掬い上げる。
 膨らんだ酒は、粘液のように滴って、湖へと落ちる。
 湖に、揺らぎが生まれる。
 それを見ながら、盃を取る。

 あぐらをかいた一子さんは、コップを取って俺へ向ける。
 慣れない手つきで、酒瓶を傾ける。
 勢いが良すぎて、コップから酒が漏れる。
 慌てて瓶を立てると、中で水音が立った。


 啜るように酒を呑む。
 溢れ、零れそうになるのを、喉へ運ぶ。
 鮮烈な味と、ほのかな匂いが鼻孔と舌と、喉へと通る。
 口端から零れ、顎を伝って喉を落ちる。
 啜るように酒を呑む。

 俺がなにかをする前に、一子さんはコップを掲げて口を開いた。
 そして喉を弓のように反らし、天を仰ぐように唇を広げる。
 溢れた酒は手から手の平、二の腕、肘へと伝い、真っ赤な口腔へとこぼれ落
ちる。
 清水を受け取るような、その光景は、夕日の影の中で眩しく輝いていた。

 酒を呷る。
 盃を傾けて、はみ出るのも気にせずに、一気に喉へと流し込む。
 口を通過し、喉を通りすぎ、食道を過ぎ去り、臓腑へと行き渡る。
 真っ赤に燃えるような感覚が、腹の奥底からじんわりと広がっていく。
 酒を、呷る。

 溢れた酒を処理すると、コップを床に置いて、腕で唇を拭った。
 白い腕に朱色が染まり、上気しているように見えた。
 ちろり上唇を舌で嘗め上げて、一子さんは酒瓶を取り上げる。
 俺は空になった腕を、宙に浮かせて、一子さんをじっと見つめていた。

 盃を置く。
 しとどに濡れた、机の上に、盃を置く。
 湿った音が、机の上で鳴る。
 中途半端な打撃音は、俺の頬に雫を飛ばす。
 湖は、揺らめき、はためき、不可解な模様を作る。
 曲線を主とした湖で、盃は欠けている。
 盃を、置く。

 酒瓶の口で、床を差した。
 俺はようやく気がつき、コップを拾い上げる。
 どこかで見かけたやり方で、コップを傾け、一子さんの方へと差し出した。
 慣れた手つきで一子さんは、コップへと酒を注いでいった。

 酒を注ぐ。
 溢れるのも気にせずに、酒を注ぐ。
 机の上に生まれた湖は、領地を拡大していく。
 机はその広がりを支えきれず、湖は溢れ、床に零れる。
 それを気にせず、さらに酒瓶を傾ける。
 酒を、注ぐ。

 一子さんは酒瓶を置いて、自分のコップを手に取った。
 そして俺の方へと掲げ、手首を使い、コップを揺らす。
 なんのことかわからなかった俺は、茫然としていたが、やがて気がつき、コ
ップに手を伸ばす。
 そしていったん手にとって、持ち上げる前に一子さんの方へと目を向ける。
 一子さんは笑いもせず、怒りもせず、むっつりとした不機嫌そうな顔のまま
で、同じ姿で、コップを掲げていた。




 俺はコップを手に取り、

 それを持ち上げ、

 肩の高さまで掲げ、

 一子さんの方へと傾けて。



 コップとコップを、かつん、と鳴らした。



 夕闇に染まった暗い部屋で、硝子の音が響いた。




 ゆめうつつの音が、俺は現実へと引き戻す。
 はたと気が付くと、机の上にはもはや濡れる場所がないほどに、波紋が広が
っていた。
 急いで酒瓶を元に戻そうとすると、もはや中には何も入っていないことに気
が付いた。
 溜息をついて、俺は酒瓶を床に置いた。

 それから机を拭くのも忘れて、椅子にもたれかかり、天井を仰いで物思いに
耽る。
 手を腹の上で重ね、ぼんやりとした視界の中、あの時に思いを馳せた。

 そう、あの時が、俺が初めて飲酒を犯した時だったのだ。
 あの時、一子さんは黙って酒を呑んでいた。
 あの時、俺は黙って酒を呑んでいた。
 夕方は過ぎ去って、もはや明かりを付けなければ、何も見えないような暗い
部屋で、黙ってふたりで酒を呑みあったのだった。

 なんでそうなったのかは、良くわからない。
 今でも、どうしてかはわからない。
 思い出せないのではなく、単純に、わからない。
 ただ、わかっていることは、飲み合っているうちに、俺の瞳が濡れたことだ
けだった。

 初めて感じた、浮遊するような、ぼんやりするような感覚の中で、俺はなに
かが込み上げてきたわけでもなく、いきなり 涙がこぼれ始めたのだ。
 一子さんはそれを止めるでもなく、慰めるでもなく、黙って、目の前で、い
つまでも酒を呑んでいた。
 俺は、涙を零しつづけていた。

 はたしてあれがなんだったのか、どうしてもわからない。
 俺が涙を流した理由も、彼女が黙って酒を呑んでいた理由も、何もかもがわ
からない。
 ただ、たった今思いだしたその情景は、酔った俺の頭の中で、鮮烈に、輝き
続けていた。
 暗い光景にもかかわらず。

 ふと、机の上を見ると、欠けた盃が浮かんでいる。
 日々が一直線に縦に入り、きしみを上げるように浮かんでいる。
 ぼうっと、それを眺めていると、盃は横から伸びてきた白い手で、掬い上げ
られた。

 酒は白い喉へと注がれる。
 一定の期間に、喉は、上下に動いていく。
 そして張りつめられたその喉は、すっと縮まり、顎が見える。

 俺の目の前に、盃が差し伸べられる。

 底には空になった盃がある。
 ひびが入り、欠けのある盃は、俺の目の前で白い手で差し伸べられている。
 茫然とそれを眺めていると、いきなり唇が塞がれた。

 真っ白な頭とは対照的に、喉には真っ赤な液体が注がれる。
 鮮烈な芳香と甘かな香りが混じり合い、胃に直接注がれる。
 あまりの味に、俺は身動きすることができずに、なすがままになっていた。

 ようやく全てが終わって、唇が離れると、彼女はにっと笑う。
 そして盃を机の上に、ぴしりと置いて、「片づけておけよ」と言った。

 彼女は、背中も見せずに去っていく。
 俺はただその去った入り口を、ただ眺める。

 やがて、酔いはどこかへ飛んでいき、苦笑しながら辺りを見回す。
 すっかり暗くなった部屋の中は、しんみりと沈黙を保っている。
 静かに揺らぐ、盃は、机の上で、あわあわと浮かんでいる。
 床には空になった酒瓶が、どんよりと転がっている。

 息をついて、手を伸ばして、酒瓶を取り、盃を見ると、




 盃には、ひびひとつ入っていなかった。

                               了









                        2003年11月28日

                                のち


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