期待通りの彼の姿に、呆れと不満の吐息を洩らし。


 舟漕ぐ彼に障らぬ様に、扉を後ろ手に閉じる。初春と言えど、夜の帳が下りた今では纏う空気も肌寒い。それこそ私や彼女ならともかく、彼は生身の人間だ―――厳密にはともあれ、冷気で健康を害するカラダな事に変わりは無い。
 ……よくよく見れば、見事なまでに包帯と絆創膏とで梱包されている彼の姿。何箇所かからは、薄らと鈍い赤さえ見て取れる。
 砂粒混じりの石の床。音無く歩み寄る度に、それでも僅かに埃が浮かぶ。痩せ始めた月の、青白い光がその輪郭を薄闇の中、朧に刻む。
 雪が落ちる様に、羽毛が舞う様に。
 ……片膝を抱え、眠る彼。蒼の光が、その身を飾る。
 ―――何も。今更の様に彼女を思い出したのは、その静謐な色から連想したというだけでは無かった。不快と言う程では無いにせよ、確かに微かに香る匂いと。
 ……積もる埃と雑多な品から、僅かに覗く床に積もった。
 黴の匂いと汗の匂いに隠れて混ざる、まだ新しい血の薫り―――と。

 月の明かりに照らされ浮かぶ。
 幾振りもの。
 虚ろに軽い、外見だけは豪奢な―――黄金の、装飾剣。

 ―――嘆息と共に、得心が入った。彼があの冬からこっち、この土蔵へと立ち入る頻度を激減させた、その訳と。
 それでも月に何度かは、必ずここで夜を明かし。
 ……『目覚めて』以来。決してサクラを近付けようとはしなかった、その理由とが。
 それは恐らく、サクラを疎む気など微塵も無く。ただ、彼女に二年前の悪いユメを思い出させたくなかっただけ、なのだろうけど。
 歩み寄る。眠りに沈む彼との距離を、一歩と半に保って暫し。
 揺れる赤毛を、ぼんやり眺め。胸に手をやり、息を吐く。

 ……主に、胸中頭を下げて。

 一歩を歩み、跪く。視線は近く、高さも合わせ。
 柔らかく閉じられた、その瞼へと指先を―――
「…………ぅ」
 彷徨わせ。
 自分の、胸元へと伸ばす。大きく深く、もう一度だけ息を吐き。
 閉じた瞳を、胡乱に見つめ。

 ―――問おう。

 口には出さず、胸元を握り締めたまま。
 虚空に向けて、呟いて。

 ―――あなたは―――

 それ以上は何も続けず、無言のままに。
 ぎこちない足取りで、柔らかく上下する彼の胸許へ。


 僅か半歩のその距離を、寄り添う様に静かに埋めた。












『手を合わせて』


作:うづきじん













『いただきます』

 いつもと同じ朝の風景。声と手を合わせ、頭を下げる。頬をくすぐる白い湯気と、内腑を起こす味噌の香気と。
 慣れはすれども飽きぬ品々。―――とは言え今朝のその味は、味蕾に酷く鈍く感じられた。
 溜息を一つ。薄ぼんやりと曇った頭を軽く振り、箸と思考を巡らせる。

 ……サーヴァントは、夢など見ない。

「……ふー。やー、最近は士郎の朝食だけが一日のエネルギーだなー」
「?何でさ。仕事、忙しいのか?」
「そういえば先生、最近夜はいらっしゃいませんね?」

 ……そもそも本来ならば、眠る事すら必要は無いのだ。主よりこの身を与えられ、人の世界で暮らして一年。必要とする理由も持たず、強制される訳も無い。加えて届く力は深く、汲めども尽きる事は無い。
 だから、夜―――帳が降り切ってから開け始めるまでの、ほんの短い間とは言え。瞳と意識を閉じる日課は、言ってしまえば単なる付き合いに過ぎなかった。

「あのねー。もう三月も末なのよ?進学に就職、卒業に入学……この時期になると、そんな諸々の始末と準備が一斉に襲い掛かってくるんだから」
「……ああ。そっか。もうそんな時期なんだっけ」

 とは言え、これも。椀を啜って、息を吐く。一日三度のこの営みも、当初はあくまで付き合いとしか思ってはいなかった。それどころか食材と時間の無駄と、内心眉を顰めていた覚えすらある。それが今や、表には出さないまでも胸中密かにこの時間を待ち望んでさえいるのだから。

「……思いっきり他人事ー。誠意が感じられないー」
「他にどうしろと」
「先生に対する労いが感じられないー。そんなだから留年するのよぅ」

 実際、一月と経たない内にこれはこれで悪くは無いと思えてはきたのだ。戦や魔術によるもので無く―――意識的に意識を切る、という行為。無意識に意識を泳がせる、その感覚。
 最近などは主との霊脈を限界まで細くして、文字の通りに『眠りに落ちる』事すらあった。見えず聞こえず、動けず気付かず。まるでこの身に纏わる伝説、その末の路の様にして綿の海より首から上をさらけ出し。
 妙な緊張感、被虐感―――俎上の鯉の感覚を、快く思っていたりして。

「……あ、せ、先輩!私は、その、嬉しいんですよ!?一緒のクラスで一年間過ごせるかもしれませんし!」
「そ―――そう、そう!仕方ないよね、交通事故は!不可抗力不可抗力!士郎は悪くない!」

 この国の冬は頓に寒い。陽が香る布団の抱擁は、確かに離れ難く魅力的なものではあったけど。
 それでもやはり、日がな一日炬燵を駆るライダーなど、他に居はしないだろう。
 ……これがむしろ、私の堕落にその因を見出せるのなら、話は簡単だったのだけど。

「―――藤ねえ、時間」
「う……士郎、目が怖い」
「えと、その、先生?今晩はどうされるんですか?」

 ―――まさか。胸中首を振る。私はあくまでも英霊であり、人間ではない。それに似せた機能は備えてはいるが、その中に『夢を見る』などという項目は持ち合わせてはいない。
 そういう風に出来ている。
 人々の希望と畏れ、幻想と伝説。
 彼らのユメで編まれたこの身が、人の夢など見る筈が無い。

「んー。しばらく夜は無理っぽいかな」
「―――そう、ですか」
「……あんまり無理するなよ?」

 心当たりが、無くは無いのだけど。横目に彼女の姿を見やる。
 霊脈を通してマスターの夢がサーヴァントに流れ込む―――サーヴァント自身が夢を見る、等という話よりは余程有り得ると思う。
 ……ただ、気軽に聞ける話題では無い。この二人にとって、あの戦―――あの夜と彼女の事がどれだけ深い傷となっているかは知っている。主に尋ねたその答えが否定であれ肯定であれ、それは乾いていない傷跡を掻き毟る事に他ならない。
 『人の振り見て我が振りなおす』……一年近くの間士郎と共に暮らす中で、藪蛇を突付く事の愚かさは理解しているつもりではあった。

「士郎もね」
「?何がさ」
「わたしが居ないからって、無理し過ぎないよーに」
「はい?」
「二人とも」
「―――ぶっ」

 ―――それに。どうもあの夢には不可解な点が多かった。このところ連日同じものを視ている、という以外にも。
 士郎から借り受けた胡散臭げなその手の書物。何故だか妙に平仮名の目立ったその内容に従うならば、成程私が見る訳ではある。枕元に立たれる条件は、充分過ぎる位に満たしているだろうから。
 ……しかし。だとしたら、単に八つ当たりをされてるだけの様な気もするのですけど。
 横目で彼の姿を見やる。何故だか隣のサクラと共に、真っ赤な顔で口元に散った味噌汁を拭う赤毛の少年。
 どちらかと言えば。私よりも、彼の方が。

 ―――まあ。
 確かに彼を恨むなど、彼女に出来る訳は無いのでしょうけれど。

「……大体、二人きりな訳じゃないだろ」
「そ、そうですよ藤村先生!ライダーも一緒なんだし―――」
「ライダーさん“も”?そんな……!」
「……こ、この馬鹿とらー!」
「―――ああもう、ライダーも黙ってないで何か言ってよ!?」

 振られた叫びに視線を返す。思いに耽るその間にも、慣れ親しんだ朝の日課はこなしていた様だった。少なからず勿体無い思いで殆ど空になった自分の膳を見やり、何故かその名の通りに花の色に染まった主に頷き、答えを返す。


「士郎、おかわりをお願いします」


 ……なんで二人とも、真っ赤になって突っ伏しているのでしょう。  眉を顰めて、湯呑みを啜る。堪えきれないとばかりに漏れる、タイガの笑いが気にはなったけれど。
 ―――首を捻って、箸を進める。


 ひなたの色の沢庵が、小気味良い声で御飯を呼んだ。













「……行って来ます」
「お気を付けて」
 何故か憮然と出発を告げる彼女の声に答えを返す。
 いつもより微妙に距離を空けて歩く二人の背中が見えなくなるまで見送って、屋敷の中へ。我ながら不必要だとは思うのだけど、士郎にしつこい位言われた留守中の『決まり』―――防犯の為の施錠を果たし、居間へと戻る。

 ―――しかし。

 ほんの三十分前までは騒がしかった食卓を横目に眺めつつ、手早く机を組み立てる。脚を四隅に嵌め込んで、押入れから布団を取り出して。机の上に布団をかぶせ、それを天板で挟み込む。
 コードを伸ばし、コンセントに差し込んでスイッチ。折も良く台所から鳴る笛の音を、抓みを捻って鳴き止ませ、朝食時に使ったままの急須へと湯を注ぐ。色も味も香りもやや薄めだが、これはこれで冷めても味が落ち難いと言う利点もある。再び淹れ直すのが面倒な時は、これに限るというのがここ一週間で得た結論だった。
 ―――頃合を見て、食卓から笊を拾って机の上へ。潜り込む布団の中から漏れるは、じんわりと柔らかな熱と赤光。
 笊に手をやる。掴んだその実の、黄金の色の皮を剥き、房ごと口へと放り込む。
 湯呑みを啜り、吐息を一つ。

 ―――平和です。

 緩慢に蜜柑の筋を剥きながら、胡乱な思いで窓を見る。白い雲が棚引く薄い空色の天蓋。春も近いとは言え未だ陽は低く、落ちて来る熱も乏しい。それが原因で健康を害する事など有り得ない話ではあったが、肉を持つこの身はかつての名門魔術師、その三家の偏執振りを思わせる出来ではあった。外は寒いし炬燵の中は心地良い。
 思わず口の端に苦笑が浮かぶ。魔術師としての素養に凝り性であるという事が上げられるならば―――疑いようも無く、彼は魔術師に相応しいだろう、と。
 一日三度の時間を想い、無意識の内に湿り気を帯びた口内を温かな茶で洗って落とす。人に準じるどころか、そのものと言ってすら良い五感をこの身に持つことなど、ここフユキの聖杯でしか叶わない事だったろう。視覚や聴覚はともかくとしても、味覚や触覚すらもここまで細やかに再現する意味が果たして何処にあったのか。
 まあ、そのお陰でこうして、人としての生活を愉しむ事が出来ているのだから。感謝こそすれ、非難すべき事では無いけれど。
 それにしても。

「平和ですねえ……」

 繰り返し呟く。
 ほんの一月前までは、ここまで暇ではなかった。タイガとサクラは学園に通ってはいたが、ここの家主であるエミヤ士郎―――彼は始終この家で日々を過ごしていたのだから。
 『原因不明の大災害』より、姿を消して三ヶ月。説明出来ない空白と、その後の体の不調を全て『交通事故』で包んで隠し、彼が『こちら側』に戻って来たのは、既に夏も半ばを過ぎてからだった。
 その士郎も日常生活をこなせる程度には快復し、現在は新しい身体の慣らしも兼ねて弓に興じる毎日である。春休みとやらが終わって後は、サクラと共に再び学び舎へと通う事となるだろう。
 ……三ヶ月前までは、それどころではなかった。静かな、けれど彼の帰還と言うとても大きな喜びの秋と―――酷く局地的ではあるけれど。水面上下に嵐が吹き荒れた、例年に無く暖かな冬。
 エミヤの家への、士郎の帰還。
 それからこっち、この家からは終始二人より住人が減る事は無く。加えて少年の友人達も毎日の様に訪れていた。リンなど、遠く英国とこちらとを行き来している程だったのだから。
 一見地味なあの少年が、どれだけ他人に慕われているのか―――それが実感できる三ヶ月ではあった。
 ……全てがそうとは言わないけれど。
 些か邪な目算を持った者も少なくは無かった、けれど。
 床に臥す彼の世話に関しては、候補者が引きも切らなかった為に私自身はあまり手がけてはいなかったが、それでも。

 ―――それでもやはり。
 身動きが取れない上に意識が有る、という状態の男性―――異性を看る、という事は。
 決して、容易な事ではなくて。

「…………」
 妙な熱さとむず痒さに、炬燵に沈めた身体を揺らす。


 何処か感激した面持ちで、半ば放心の態だったタイガ。
 真っ赤に熟して一言すらも発しなかったリン。
 満面の笑みを浮かべ、怖い位に輝いていたサクラ。


 ……期間にしては一月に満たない間ではあったが、当時のエミヤ邸はまさに戦場という言葉が相応しい態だった様に思える。エミヤ士郎の看病という聖杯を巡っての大戦―――結局の所その軍配は彼の恋人という大義名分と、私に次いで時間的な余裕を併せ持つサクラに大きく傾いたまま終わったのだけど。
「…………」
 当時の嘆息と疲労感を反芻し、炬燵に頭を突っ伏した。

 まさか、あんな戦の中でもサクラのサーヴァントとして立ち回る事になろうとは。

 ……それを考えると、重荷―――と言っては、士郎には失礼だけど―――が無くなってからまだ間もない今。今までずっと、多忙を極めた身、なのだから。
 今、この時間を多少怠惰に過ごすくらいは、見逃されるべきではないだろうか?
 言い訳染みた思案に耽るその間にも、降り注ぐ量を増した橙色の陽光に身を浸す。……とめどない思い。
 安穏とした、陽だまりの今に至る道程を思い描く。冷たく心地良い天板に頬を埋めたまま、目を閉じ記憶を遡る。
 とても長い様な。瞬きする程に短い様な一年間。
 一月前に、三月前。
 ……半年に及ぶ眠り姫をただひたすらに見守る日々と。
 ―――その、三ヶ月の以前。
 三人共に死力を尽くし。茨を掻き分け、彼を救うに至った日々と。

 全ての始まり。
 私の記憶の底に埋もれた。
 聖杯を巡る二週間。

 ……その果てにまさか、こんな結末が待っているとは思いませんでしたけど。
 ぼんやり微笑い、まどろみの中目を閉じる。

「あれからもう、一年……経つんです、ね」

 思い出すだに、戦慄にも似た震えが背筋を走る。かの英雄王程では無いにしろ、私自身もあの時は相当にイレギュラーな英霊だった、と今更ながらに思い出す。

 聖杯を求めず、その破壊を望み。
 主は二転三転し、最後には刃すら向け。
 主のサーヴァントを打ち倒す為に、その元主と共闘し―――

 ……我ながら、よく生きていたものだと思う。実際、今回の―――そして最後の聖杯戦争に於いては、イレギュラー中のイレギュラー、アヴェンジャーを除けば、私以外のサーヴァントはその全てが道半ばで滅ぼされているのだから。
 それは、多くの幸運と絡まりあった要因と―――何より、彼。赤毛の少年による所が大きかった、と、今でもそう思う。

 身体は剣で出来ている、と。何時の頃からか口ずさむ様になった、彼。
 文字通りその身を剣と成して数多の障害を斬り裂いた。
 ―――もう一振りの、剣を、も。

 彼女を、想う。剣の少年に仕えた剣の少女。
 泥に呪われ刃を翻した彼女は、私と相打ち、士郎に討たれ―――泥の海へと、還って消えた。
 ……心なしか、頭の奥で痛みがぶり返す。このところ、毎朝覚える鈍い感覚。

「……サーヴァントは、夢を、見ない」

 低く呟き、目を閉じる。
 予感があった。恐らく外れ様の無い、確信にも似た予感。
 一週間の間、床に就く度に憶える予感。
 彼女に逢える、と。
 ―――それは正直、悪い感覚ではなかったけれど。
 ……頭痛の素では、あったのだ。













 夢を見る。

 それは昏い暗い杯の下で。
 遥か上から零れる淡い光に照らされた、黒の少女の夢。


 華奢な左の手の杖に、闇を纏った剣を突き。
 抜ける空色を拭われた、真黒の影に鎧われて。
 濁り無い、しかし虚ろな鈍色をその双眸に燈らせた。


 一年前に見た姿そのままの、黒く染まった『剣』の少女。

 ……最初は、驚いたものでしたけど。

 何処となく半眼で、朧に浮かぶ姿を見やる。もう一週間連日である。飽きたとまでは言わないが、いい加減慣れがきた。
 瞬きを一つ。……いつも通り。反転する視界の中で、変わらず彼女は立ち続けている。
 立ち上がる。……これもいつも通り。視点は変わらず、彼女の胸元より動かない。立ち上がれないと言うよりも、身体が亡い、と言った方が近いのだろうか?『目』を除く身体の全てが―――意識以外の感覚全てが溶けて落ちたかの様。
 言葉を投げる。……同じ。投げた言葉は生まれず消える。
 いつもの通り。
 ただただ、無言に見詰めあう。……いつもの通り。
 いつもの通りに、頭痛を覚え。
 音も無く。間近に歩み、かがみこみ、合わせた視線に映るのは。


 幼子の如く、膨らんだ頬。
 なだらかに弧を描いて、鼻梁に寄せられる眉。
 大粒の雫。零れる涙を浮かべた半眼。
 ―――人差し指を咥える姿すら幻視する。
 まるで市井の少女の様な、年相応の態を晒す―――円卓の、騎士王。

 
   ……絶え間ない、脱力感に囚われながら。
 いつもの通り、延々と。
 無言で何かを訴える彼女に、身動きも出来ず言葉も出せない身では。

 ……引き攣った、口の端を硬直させた歪な笑顔と。
 滝の様に流れ落ちる。
 冷や汗と、脂汗とで応える以外他は無く―――


 ……頬を抓ることなど、出来よう筈も無く―――













「お粗末さまでした」

 サクラの声に我へと帰る。微笑みながら下げられる士郎の膳と、代わる様に彼に差し出される、湯気を立てる湯呑み。
 いつもと比べて席が一つ足らないとは言え、変わらず平和な夕餉の最中。
「……ライダー?」
 視線が私に向けられる。その先を辿れば、目の前の食卓―――細切れになったハンバーグと、冷たく澄んだコンソメスープの湖。
「美味しくなかった……?」
 憂いを帯びた問い掛けに、慌てて大きく首を振る。
「いえ―――すみません、サクラ」
 少し考え事をしていたもので、と取り成してから、追い立てられる様に箸を躍らせる。
「身体、大丈夫か?」
「え―――ええ。特に異常はありません」
 士郎の言葉に頷きを返す。……あるとしたら業腹ではあるが、頭の方だろう。
 悪夢にうなされる英霊が私以外の他に、どの世界に居ると言うのか。
 士郎はにっこりと笑いながら、
「そっか、良かった。あんな格好で寝てたから、風邪でも引いたんじゃないかって」
「―――士郎?」
 意識して―――満面の笑みを、返す。
 日暮れ時、帰宅してきた彼にに目撃されてしまった醜態。
 炬燵に突っ伏したまま、うなされ悶える英霊の姿。

 それはサクラには口外無用と、約束した筈ですが?

「…………」
「…………」
 熱々の煎茶のそれには敵わないものの、士郎のハンバーグは冷めても美味しい。互いに発揮する誤魔化しの健啖振りに、当惑顔を向けるサクラに曖昧な笑みを投げる。
「おかわりあるからね、ライダー」
 柔らかな笑顔が返った。
 ……この家で暮らしていると、リンならずとも小食を気取っては居られないらしい。今は明後日の方向を向いている、限度知らずに世話好きな士郎、唐突に食事量を競ってくるタイガ。加えてその食事は私にも分かるほどに美味で、種類も細工も富んでいるというのだから。
 マスターであるサクラにしても、『ダイエット』とやらで自分の食事量は控えめに保ちながらも、私には笑顔で大食を勧めてくれる。
 正直、未だに慣れたとは言い難いけれど。
 この世界、この家での暮らしが、私は、きっと―――
「……?ライダー、どうしたの?」
 怪訝な顔で、足元に転がってきた箸を手に取る。思わず見詰めるサクラの顔には、心配の色しか見ては取れない。
 視線を巡らす先の士郎も、気遣わしげにこちらを見遣るのみだった。
 ……気のせい、でしょうか。
 妙な気配と言うか。
 視線―――の様なものを、受けた感じが膚に残っている。
「いえ、何でも」
 箸を受け取り拭いながら、要らぬ心配を掛けぬよう、努めて素っ気無い答えを返す。殺気―――と言うほど強くは無いにしろ、何処と無く怨念染みた気配は未だうっすら肌へと障る、とは言え。
 私は夢でうなされる様なサーヴァントなのだから。
 白日夢、錯覚を覚えること位有ったとしても、おかしくは無い。
「……なんか落ち込んでないか、ライダー?」
「いいえ」
 断言を返しながらも、眉を顰める。夜どころか昼もあの様な夢を見たせいで、調子を崩しているのかもしれない。
 かと言ってこの為に、既に習慣となってしまった睡眠を摂らないと言うのも、癪な話ではあった。気に病んでいる事を自覚はしていても、それを認めるのは矜持が傷付く、とでも言うか。
 それに。

 ……こわいゆめをみるからねむらない、などと。

 私には似合わない台詞ではあるし。
「でも……顔色、悪いわよ?」
 鏡を覗けない身では気付きようも無いとは言え、今の私は傍目にも調子が悪く映っているらしい。眉を顰めて、答えを返す。
「―――そうですか。では念の為、今日は早く寝みましょう」
 この二人は揃って世話好きと言うか。心配性に過ぎるところがある。それ自体は美点だとは思うのだが、献身も度が過ぎると対応に困るのだ。
 ……特にサクラは、母性本能と嗜虐心とを混同しているきらいがあるし。いつだったか風邪に臥せったリンがやられていた様に、食事や治療にかこつけて悪戯をされるのは避けたかった。
 匙を口に運ばれるくらいならまだしも。


『駄目ですよ姉さん。―――さーて、お熱は下がりましたかー?』
『下がった!下がったから、桜ッ!』
『ふふふ駄目ですよ姉さん。お顔が真っ赤じゃないですか』
『違う!これは違うんだってばっ!』
『いけませんこんなに汗をかいて。ほら姉さんこれは良く効くんですから』
『……お、お願い、桜、許し―――』
『力を抜いてくださいね?はーい大きく息を吐いてー』
『さ、さく―――』


 脳裏に甦る妙に艶めいた断末魔を思い出し、身を震わせた。

「……寒気とかするの?ライダー」
「いえ全然全く」

 申し訳ないけどサクラには、検温されるのも投薬されるのも御免だ。手早く膳を片付け、席を立つ。食器を流しへと運ぶ士郎に感謝を返し、心配そうな―――しかし、何処か残念そうな色も残る―――表情で見上げるサクラへと視線を投げた。
「先にお湯を頂いても構いませんか、サクラ?」
「いいけど……身体を冷やさない様にね?上がったらすぐ布団に入るのよ?」
「はい」
 幼子に言い聞かせるような口調に苦笑を返す。士郎もそうだけれど、この二人は英霊と言う存在を何だと思っているんでしょう。

 ……悪い気はしませんが。

「……炬燵なんかで寝たら駄目だからね?」
「…………」
 押し殺された笑いを背にして、硝子越しの殺気を投げる。最近とみに危険察知に長けてきた彼の姿は、廊下の果てへと消えていた。
 ……喋りましたね士郎。













 ……湯船に広がるすみれの花を、持て余し気に弄ぶ。

 浴槽の淵から溢れる波は思っていたよりも高く、身体のみならず心をも微妙に湿らせた。この家では大抵の場合、入浴を最も好むサクラが一番湯を使う。入浴の準備をする者が三人の内の誰であれ、そこに張る湯の水位は常に心得た、サクラを基準としたもので。
 ……半眼で波の行く末を追う。古の賢者は、これを見て何やら歴史に残る発見をしたらしいけれど。
 私と言えば、視覚と聴覚の両方で自身の劣等感を刺激しただけだ。
 半分意地になったまま、顎の先までを湯船に沈める。嫌がらせの様に零れ落ちる小さな滝の音と―――立ち昇る湯気、ほのかに甘酸っぱい香りが嗅覚をくすぐる。柑橘系の、胸が空く様な香り。
 昼間。不覚にも炬燵で眠ってしまう前にも覚えた香りにも似た。
 確か、以前食卓でも嗅いだ事がある―――
「柚子、でしたか」
 芳香の海に浸ったままに呟き、目を細める。白く曇った視界の中で、埒も無い錯覚を覚えた。
 鍋、と言ったか。その時囲んだ、色取り取りの食材を出汁で煮込んで頂く料理。
 まるで自分が、その具材になったかの様な。
「―――うん。あれは美味でしたね」
 食事を必要とはしないこの身ではあるが、味覚はしっかり備わっている。サクラにリン、何より士郎―――一年に渡って繰り広げられた食卓での競演は、睡眠と共に英霊に有るまじき嗜好を植えつけるのには充分な程だった。
 殊に夕食は仕事を終えて開放感に漲るタイガと、これからが勝負とばかりに張り切るサクラのせいもあり。一際手が込んだ一品が主菜の座を占める様になっていた。

 一昨日は士郎のクリームシチュー。
 昨日はサクラの海鮮フライの盛り合わせ。
 そして今日は、士郎の特製ハンバーグ―――

 ……思い出すと軽い後悔が脳裏を過ぎった。
 もっと味わって食べるべきだったでしょうか……そもそも冷める前に食べるべきでした……ソースも玉葱ベースと生クリームベースの二種類有ったのだから、両方試してみるべきでした……。
 巡る思考と、香る油の匂いと共に。

 ―――そう言えば彼女も食べる事が滅法好きだったと聞いた。

 ……閃く記憶に、棘が疼いた。小さく一つ息を吐き、何とはなしに目を伏せる。
 温かな湯に身体を伸ばす。髪と肢体につられる様に、止め処無く嗜好が広がってゆく。
 ……私は一年前の事を、まるで後悔してはいない。私はサクラのサーヴァントだ。のみならず、個人的な好意と敬意も備えている。
 正直言って、あの時の私はサクラを救う事としか考えていなかった。……考えない様にしていた。協力者であった士郎、リンに対しても、極論してしまえばその戦力を当てにしたに過ぎない。

 聖杯の入手はどうあれ、サクラをあの戦より生還させる事。その為には私は彼らを犠牲とする事すら厭わなかっただろう。
 ……叶うならば、その後も幸せである様に。その為には私は彼らを死なせる訳にはいかなかったのだけど。

 それでも彼女に関しては、まるで後悔してはいなかった。
 呪いに蝕まれ正気を失った英霊など、人々の幻想の産物である私達と比べても。さらに虚ろな、いうなれば悪夢の残滓に等しい存在に過ぎない。
 加えて彼女個人に対しても、好悪の念などは皆無に近く。そも、あの戦ではゾウケンの細工のせいもあって英霊同士の面識は皆無と言って良い位に薄かった。私とて戦況の全てを知っていた訳ではないが、曲がりなりにも『生前』に面識の有った英霊と言えば、青の槍騎士と髑髏面の暗殺者―――ランサーとアサシンの二体のみ。それもサーヴァントとしては当然の関係―――最初から定められた『敵』同士として、なのだから。
 好悪、敬い憎むと言う以前の殺伐とした立場同士―――だった。
 筈なのだ、けど。
「…………」

 この街全てが泥に飲まれ、十一年前のそれを遥かに超える地獄が顕現したかもしれない。
 内に巣まう蟲に魂まで蝕まれた、虚ろな人形が一体、残るだけだったかもしれない。
 その身を砕き。血に錆びながらも、永劫に振るわれ続ける剣が一本、生まれ落ちたかもしれない。

 ―――いや、きっと。
 そうなる可能性の方が、遥かに大きかったのだから。 
 奇跡的と評して良い程に、数多くの幸運に恵まれた末の現在なのだから。
 文字通り。泥の中から掬いきれなかったものを嘆く事は、それこそ彼の。かつての夢を冷たく諌めた言葉の通り。
 ―――理想に溺れて、溺死する道に他ならないと。
 リンのみならず。
 士郎でさえも。
 無論、私も。
 ―――理解、している筈だった。

 後悔などしてはいなかったのだ、けれど。

 あの二人が、そう口にする筈は無い。けれども私自身が穏やかに日々を過ごす中で、否応無しに覚える感覚は有った。
 この身に向かう彼らの視線。時折隠し切れなく灯る、暗く翳った既視感と。
 何より私自身が誰より強く感じている、違和感。
 私にこの様な日々は似合わない、と。……大きく頷ける思いではあったけれど、それ以上に。
 針の様に細い。
 けれど鋭く、時に脈打ち胸を微かに掻き毟る。
 そんな思いが、常に背中を付いて回る。

 平和な日々。
 暖かな陽の光と笑顔の言葉を浴びて。
 安穏と言ってよい程に眠気混じりの、留守番役。
 賑やかな食卓には、大いに舌鼓を打って。
 一日の埃を拭い去り、想いと共に湯を浴びて。
 綿に包まれ、また暖かな朝を待つ。


 そんな暮らしは、私では無く。
 彼女が担う筈だったのでは、と。


 ……皮肉な話だと思う。彼女の事など殆ど知らなかった。知らないままに剣を交え、果てる姿を見守った。
 ―――その私こそが、今。恐らくこの世の誰よりも、彼女の事を意識している。


 私では無く。彼女こそが、衛宮の家の住人として。
 士郎達を護り、共に暮らす。
 そんな未来も、有り得たのではないだろうか、と―――


 そんな、埒も無い思い。
 既に至る道を絶たれた、他愛も無いイフの話ではあったけれど。
「本当に、埒も無い」
 苦い笑いを吐息に洩らす。妙な夢のせいで、変に感傷的になっているのかもしれない。
 七色に煌く宝石の刃が脳裏を過ぎる。無数に広がる平行世界の中では、もしかしたら―――そんな世界もあるのかも知れない。
 少なくとも、私にその可能性までも否定する事は出来ない。


 彼女が最後までエミヤ士郎の、唯一無二の剣として振るわれた世界。
 のみならず聖杯が砕けた後も、エミヤ家の住人として平和に、穏やかに暮らす世界。
 可能性としては。そんな暮らしを経ていく中で。
 サクラやリンに替わり、もしくは共に。
 赤毛の彼と添い遂げる。
 ……褥を共にする様な世界も、あったのかも知れない―――


「―――ああ」
 納得に、大きく息を吐く。
 柏手でも打ちたい程に、綺麗に氷解する疑念。絡み付く熱を言い訳に、相好を崩し湯に埋もれる。
 茹だった頭で。


 ―――それは、腹が立つかもしれませんね。


 知らぬ彼女に、首肯を返す。
 ……とは言え。
 彼女が夢に『出て来る』理由も考え付かない訳ではないのだ。稀ではあるが人でさえも思い、想念を糧としてその死後も現界すると言う例はある。それより遥かに『こちら側』―――幻想、精霊に近い出自を持つ、私達ならば。
 真に顕現する事は叶わなくとも、その意、存在の切れ端や残滓が私に作用していると―――そう考えるのは、それ程荒唐無稽な話では無かった。
 もともとその時々の必要に応じて『座』から呼ばれ、平行世界を駆け巡るのが私達英霊なのだから。性質からして生前、死後などと言う分類には囚われ難い性質ではあるのだ。

 ―――心当たりも、少し、ある。

 溜息は、泡を描いて弾けて消えた。思考が再び、一年の前に遡る。
 それは赤い闇の中でそびえ立つ、悪夢染みて捻じくれた真黒の大樹。
 テンノサカズキと冠された、魔術師の秘蹟―――大聖杯。
 一年前のあの日。彼が命を賭け、その身を犠牲に砕いた杯の中身。
 万能の釜をすら染め上げた、呪われた泥。
 けれどそれは確かに―――この冬木に眠る聖杯、その一部に他ならない。

「…………」

 あの戦の中で。
 私以外のサーヴァントは、その全員が破れて消えた。
 『死んだ』サーヴァントはどうなったのか―――それは、思い出すだに不快な事ではあった。
 確かに私達は聖杯を掴み、自身の望みを果たす為にこの地へと喚ばれた。その道程で仮初めとは言え滅びを迎えるやもしれぬ、など。言われるまでも無く、皆が承知していた筈だ。
 それにしても、その骸が聖杯の呼び水として―――器を満たす『泥』の糧となったという事実は、聞いて気分の良いものでは無かった。  のみならず、その後も文字通りの泥人形として喚び起こされるとくれば。
 一時でもあの様な物を望んだ自分自身に腹が立つ。

「…………」

 あの時。士郎の剣によって、聖杯はサクラを蝕んでいたアヴェンジャーのサーヴァント諸共に砕かれた。最早聖杯はこの地に顕れる事は無い。フユキにおける聖杯戦争は、五度にして幕を下ろした。
 ―――けれど。
 ……この点に関しては、複雑な思いではあった。他のものはいざ知らず、この地に於ける聖杯などには最早興味は無く、正直言えば良い印象も無い。私の手で砕けなかった事を、残念に思っていた位だ。
 しかし私がこうして現界していられる事それ自体が、当の聖杯の恩恵によるのだから。
 トオサカ、マキリ、アインツベルン―――五十年の昔。三家の魔術師が構築した聖杯召喚装置とでも言うべき魔方陣、大聖杯。魔術師達にとっては偉業ではあるのだろうが、同時に全ての元凶でもある。
 今は既に微塵に砕かれ、喪われた秘宝。
 その崩壊が私やリンの予想に反し、極めて静謐に幕を下ろしたのは、アインツベルンの魔術師にしてバーサーカーのマスター―――そして、あの様な容ではあれど半ば以上死に体だった士郎を救けた少女。イリヤスフィールの功績だ。
 彼女はその身を以って大聖杯を鎮め、外界への影響を最小限に抑えた。
 しかし、その封はあくまで太源の大聖杯に関しての事だ。既に顕現してしまった小聖杯、アンリ・マユに侵された『泥』が満ちたそれは、その中身が溢れぬ様鎮められはしたものの、確かにこの地に遺された。

 マトウサクラという聖杯は、今も変わらずここに在る。

 完全とは言えない状態ではあるけれど、それでも尚彼女と『向こう側』との繋がりは未だに消えてはいない。
 そして私は、その『聖杯』と霊脈を通じ、魔力供給すらも受けている。
 詰まる、所。


 私は間接的ではあるにしても、聖杯と繋がっている―――そうも言えるだろう。
 そして、聖杯はあの戦争の中で注がれた中身で満ちている。
 聖杯の中身―――七体の英霊の亡骸とアンリ・マユ。それは私ですら呆れ返る程に膨大な魔力と、旧い古い呪いの残滓。
 ……彼女自身は、当の昔に。士郎にその胸を貫かれた、あの瞬間に『座』には帰っているだろうけど。
 聖杯に注がれた、彼女。その残滓の一欠けが、未だに器の底に留まり。
 それがサクラとの霊脈を介し、私に働き掛けている―――と。


 戯言ではある、と。自嘲混じりに思いを馳せる。
 ―――正確に言えばもう一つ。彼女には、その顕現を助ける要因こそはあるけれど。
 それにしても、と思いに耽る。
 便利屋、掃除人、始末番―――英霊はそういった『人材』が、役目が必要な場にしか喚ばれる事は無いし、顕れる事は無い。そしてそれこそが存在意義の全てでもある。
 用途に応じて『座』から供給される、無数の歯車。幻想で研がれ、陳列された無限の刃の内の一振り。
 そんなものが、一つ一つの『仕事』の度に無念など遺して逝く訳が無い。例えどれほどの遺思であれ、それは英霊自身―――膨大で簡素な書物の一ページとして記録されるに留まる、ものだ。余程の事であれば本体に影響が届くのかもしれないが、それにしても無限に存在する世界。その一つの仕事に拘る者など―――まして、死後に『化けて出る』英霊など、と。
 本当に―――戯言も良い所だと。
 ……思っては、いるのだ、けれど。


 曲りなりにも高貴な幻想に連なる彼女が、『従僕』などという役を与えられ。
 その大半が滅びる事が、聖杯と言う目標を喚ぶ大前提である様な戦の中で。 
 骸すら『養分』として活用され。
 あまつさえ、その抜け殻すらも辱められるとくれば。


「―――気持ちは、分かります、けど……ね」
 私とて。
 サクラならともかく、もう一人のマスターの為に滅びていたらと思うと。
 ……あ。
 それは……枕元に、立ちたくなる、かも知れない。
 同情などは、おこがましい上に彼女に対し失礼極まりない事では……あった、けれど。
 私でも。
「―――ふう」
 剣を合わせ。
 その死を看取り。
 ……何よりも、たとえ入れ違いとは言え。


「……仕方、ありませんね」
 この家で暮らす『先輩』に、餞くらいは贈れるのだと、思うから。


 嘆息混じりに、覚悟を決める。私も士郎に似てきたかもしれない。
 正義の味方。万人の為の剣を、気取る気などは無いけれど。

「私の、安眠の為……でも、あるのですから」

 言い訳染みた言葉を紡ぐ。……ああ、でもサクラは納得してはくれないだろう。
 一から相談したならともかく―――いや、そうしたとしても。解決法など、結局は一つしか無いのだから。
 サクラと士郎との間に、隙を作るのは好ましくない。累が及ぶのは、私で留めておくべきだろう。
 ……それでも結局は、一番割を食うのは士郎なのだろうけれど。
 それでも―――


 彼には。
 サクラと共に、曇りなく。
 こちらの側で、いつも暖かに笑っていて欲しいと。
 そう思う、から。


(……先に謝っておきます、士郎)
 掌を合わせ、謝罪を洩らす。サクラ、リン、タイガ―――エミヤの家に訪れる女性絡みの厄介事は、廻り回って必ず彼に辿り着く。今まではそれを、半ば呆れながら見守っていたものだったけれど。

 ―――私も、どうやら。他人事の様に、言ってはいられなくなりそうです。

 極力、人目は避けますけれど。英国に居るリンはともかく、見かけによらず目敏いサクラと奇妙な程に間の悪いタイガ―――二人の疑念を掻い潜れるかは、正直自信がありません。
 始業式―――でしたか。記憶を掘って、慣れない単語を拾い出す。サクラ達の通う学び舎、その新たな一年の始まりを告げる祭典。  長らく床に臥せていた彼が、一月後に控えた日常への回帰の式。

 最悪の場合でも。その頃までには、治る位に留めますから。

 ―――しかし。
 これも些か奇妙ではあるが、『女性絡みの厄介事』には違いない。
 そしてあの闇の中、彼女が瞳に浮かべた色に私は心当たりが有った。今まで散々目にした表情。外に顕れぬ様に、けれど隠し切れずに時折閃く。
 タイガがリンが、サクラに向ける―――
 ……その時は、まさか。閃きはすれど、あまりに馬鹿馬鹿しかったので、仮定としてすら否定したものだったけど。
 少女のかおを思い出す。眉を寄せ、唇を結び、指さえ咥えそうな、おんなのこのかお。
 涙目で見上げる双眸に、灯った色の正体は。
 恨みでは無く。
 ましてや殺気などでも無くて。

 あれは確かに。
 とても幼稚な、けれど見事にまっすぐな――― 

「―――けほ」
 思考を掻き混ぜ、咽喉と肌とに張り付く湿気に小さく噎せる。……思ったよりも長い間、湯船に浸かっていたらしい。
 この時代のお風呂は便利なもので、常に湯の温度は一定に保たれているものの―――熱めの湯を好む人間にとっては、換気をする事が欠かせない。
 考え事をしていたせいで、入る際に換気扇を付ける事を忘れていた。視線を巡らせば湯船の周りのみならず、浴室全体が伸ばした指先が見えない程の真白な湯気に覆われている。
 雲の中を往くときの様な、咽喉と鼻とを塞ぐ程に濃密な空気。私にとって呼吸は不可欠なものでは無いにせよ、鬱陶しい事この上無い。  と―――
 霧の奥から届く、衣擦れの音に俯いていた顔を上げる。……長湯し過ぎただろうか。
 ともあれこの家の浴室は、狭くは無いが広くも無い。それこそ彼女の様な体格ならばともかく、私とサクラとでは些か手狭だろう。
 ……微妙に落ち込みながらも浴槽から腰を上げる。勢いよく下がる水位を半眼で一瞥し、視線を扉に巡らせて、

 ―――え。

 からから、と。軽やかな音を響かせて扉が開く。勢いよく雪崩れ込んでくる冷気が太腿から上―――湯船に呆然と立つ私の身体を撫でて来る。
「うわ、……何だこれ」
 呆れた様な呟き。ききなれたこえ。  無遠慮に訪れた冷気と入れ違いに、純白の湯煙が見る間に薄れ、扉の隙間より遁走を始める。
 遮るものの無くなった、視界の先には顔を顰めた―――
「換気扇くらい点けろって、桜。湿気で風呂が黴びるだ」


 見慣れた彼の、いっしまとわぬあですがた。


 ろ―――と。半ばで途切れた言葉の端が、空いた口から虚ろに漏れた。両の瞳の、硝子を隔てて映るその姿は。
 そんな筈は無いのに、まるで石で出来ているかの様に、堅く、硬く、静止していて。
 ……そんな筈も無いのに、まるで石になったかの様に、固く、難く、身動ぎも出来ないままに。
 士郎の視線が静かに下がる。私の眼、胸元、腹部、そして―――
「シ…………っ!」
 呪縛が漸く融けた。先に倍する滝を零して、うずくまる様に湯船に嵌まる。
 未だに身動ぎ一つせず、ただ引き攣った顔のまま、見る間に身体を紅に熟して。
「あ―――ライ、ダー」
 じりじりと脱衣所に下がりながら届く弁明に、塞いだ視線を上目に投げる。
「すまん、悪かった。シャワーを使おうと思って、いや、こんな時間に誰か入っているとは思っていなかったんだけど、普通気が付くだろそんなコトって思われるのはもっともなんだが―――」
 ……む。
 あまりにあまりな彼の態を間近に眺め、頭が醒める。
 士郎の嘘、というのも中々聞けるものではない、貴重なものではあったけど。

 ……サクラで無くて悪かったですね。

「―――まことに申し訳有りませんが、士郎」
 努めて冷静に。
 抜けた腰を気取られぬ様に。
「今は席を外してもらえませんでしょうか」
 言い放つ。ぶんぶんかくかく、と、音が聞こえそうな位に首から上だけを上下させ。
 ……真っ赤なままに、漸く視線をゆっくり逸らし。
 脱兎、と言う言葉が相応しい程に速く、脱衣所に駆け込んで。
 僅かに―――細く、開け放たれた扉から、負けない程に細く、小さく。
 ごめん、と小さな呟きが届いた。苦笑を零し、赦しを投げる。

「いえ、お気になさらず」
「―――ライダー、怒ってないのか?」

 心細げな、……妙に嗜虐心を煽る仔犬の問いに。
 もともとは私の長湯が原因だ。ついでに言えば脱衣所の時点では無く、こんな至近まで接近されてしまったのも私に責がある。多少なりとも冷めた頭で考えれば、怒る様な所では無い。
 ―――まあ。

「……素肌を見られる事は、問題ではないのです」
 少し拗ねるくらいは、八つ当たらせてもらうとしましょう。

 ただ、私の体はサクラの様に、魅力的なものではありません。ですから―――」
 ……先程からとみに、自傷じみた事ばかりしている様な。微妙に本気で落ち込みながらも、自暴に染まった応えを返す。

「士郎には、あまり見て欲しくない。この様に大きな体では、殿方には見苦しいでしょう」
「―――へ?」

 空白。
 滝が一筋、波となり浴槽を伝い、排水溝へと落ちていくだけの間を置いて。
「ば、ばか、そんな事―――」
 我に返った、言葉を成さない呟きと。
「―――何言ってんだ!」
 続く、本気で憤った彼の声。
 ―――再び、間。咳払いの後に、照れ混じりの早口が付いて来た。
「……ライダーみたいな美人がそんなこと言ったら、嫌味にしか聞こえないって」
 ……おかしいですね。湯温調節の弁を弄った覚えは無いのですが。
 量を減じた湯の中に、羊水に浸かるかの様に身体を丸めたそのままに。
「……士郎。貴方の目から見て、私は見苦しくは無かったのですか?」
 思わず零れた、言わずもがなの愚問に対し。
「あ―――当たり前だろ!」
 拍も置かずに、憤ったままの声が返る。「凄く―――」
「…………」
「……す、凄く……」
 尻すぼみに消えていく声に。
「―――士郎」
 良いですよ無理しなくても、と。
 流石に苛め過ぎたかと、少なからず後悔しながら投げ掛けた言葉は。

「―――凄く綺麗だった!自信持って良いぞライダー!」

 放たれた、半ば自棄じみた叫びに遮られた。
 瞬間、先刻までの浴室色に染め上げられた頭の中を。

「……それはありがとうございます」

 諸手で掻き回しながら、平坦な声で答えを返す。心なしか、微かに濃くなった周りの湯気を無理矢理落とした咳払いで掃いつつ。
 ぼんやりと上げた視線に映るのは、大方湯煙が晴れ渡り、一面に広がるクリーム色のタイル床であるとか。
 そこから伸びる、引き締まった二本の肌色だとか。
 その上の―――いつの間にか自分が脱衣所から身を乗り出してしまっている事に気付いたのか、再び石になっている少年だとか。
 思ったよりもお湯が零れ落ちた浴槽の中。最早臍までにしか至らない水面から覗く自分の肌とか。


 ……湯気に張り付いた赤毛の先に。
 にこにこ笑顔でこちらを見やる、薄紅色のあくま、とか。 


「―――何が綺麗なんですか?先輩」
 振り向く暇も与えずに、石が無残に砕け散る。
「サクラ。手加減を」
 ……思わず視線を逸らしながらも、せめてもの慈悲を乞い願う、と。
「分かっています」
 士郎の『無理はしない』と双璧を成す信頼度を誇る応えと共に、彼女の視線がこちらに向かう。
「ライダー。お話がありますから、後で部屋にいらっしゃい」
 リンが『衛宮くん』を呼ぶ際の笑顔を貼り付けたまま、告げるサクラの言葉に。
「……はい。サクラ」
 黒々と渦巻く影をその背に幻視しながらも、否応の無い迫力に圧され、答えた。
 脱衣所に消える二人と、遠ざかっていく足音と。
 水気を含んだ筆が引き摺られ、タイルに残した朱を見やって。
 ……これまでにも何度か受けた。
 英霊ですら二の足を踏む、精神的折檻を間近に控え。
 忙しく上下した体温。その産物の冷たい汗を、湯船に落としながら。

「……羨望、だと思ったんですが……」

 彼女が覚え、私に向けるまっすぐな想い。
 数分前とは打って変わって。
 微妙に確信の持てなくなった、彼女の真意に思いを馳せた。













 不幸中の幸いだったかもしれませんね、と。

 痺れる足と、痛む頭と。……鳴り出しそうなお腹を押さえ、せめてもの慰めを自身に投げる。
 既に窓から見える空のみならず、衛宮の家にも夜の帳が降りていた。もともと消灯自体は早い家ではあるのだけれど―――それは家人の活動時間が短いと言う事と同義ではない。私にしても繕い物や読書などで夜を更かす事は珍しい事では無い。士郎も頻度は減ったとは言え魔術の修行は度々こなすし、サクラに至っては。
 ……彼女の機嫌を損ねた御陰で。事が終わったその後に、寝室に忍び込む様な真似をしないで済んだのだ。 
 『お仕置きです』の一言で見事な程に痩せ細った霊脈は、今も切なげに空腹を訴えかけてくるけれど。身体の維持に支障は無いし、朝になれば士郎の朝餉が最低限は解消してくれるのだろうし。
 三時間に及ぶ折檻を受けた、甲斐は有ったと思いたい。
 ……士郎も。気の毒な事になったとは思うけど。
「―――まあ、いつもの事ですけれど」
 慣れと言うものは怖いですね―――ふらふらと歩みながら、色々なものに嘆息を洩らした。とかくこの家に出入りする女性達は、口より手の方が先に出る傾向が強い。その対象は専ら士郎ではあるけれど、サクラに関しては例外である。肉体的な能力ではともかく、霊脈を握られているから始末に悪い。
 サクラのみならず、タイガの竹刀やリンのガンドに翻弄される士郎の姿。それが好意の裏返しとは言え、生傷の絶えない彼の姿には同情しつつも―――今までは、どこか他人事の感が有ったのは否めなかった。

 ……士郎。今更ですが、私達は良い友人になれそうですよ……。

 けれど、それでも。日々真っ暗に塞ぎ込み、唯々自戒に耽るあの姿と比べれば。
 嫉妬深く、直情に過ぎる所はあっても。サクラにに仕え、士郎と共に過ごした日々は無駄では無かったとは思うのだけど。
 ……これからは観客ではいられなくなりそうですね、と。苦笑混じりに、息を吐く。
 ―――気を付けなければ。
 気を引き締めて、視線を細め。

 ―――今晩。これからやる事も、もしもばれたらただでは済まない。

 何しろ一度前科の有る身だ。サクラならずとも、他の人間に見られようものなら―――言い訳の仕様が無いだろう。それで無くとも、つい先程も一悶着あったばかりだと言うのに。
 かと言って、一から説明する訳にもいかない。彼女の話題は、あの二人にとっては鬼門だ。ただ口の端に上るだけでも、容易に瘡蓋を剥がさせる。
 ―――結局。
 気付いて、一人苦笑する。成程、これは―――もしも意趣返しのつもりならば、実に見事と言う他は無い。

 全く、見事な貧乏籤だ。

 それを私に押し付け引かせた、彼女の手腕に応える為にも。
 ―――音を殺して、庭へと降りる。
 湿った草を踏みながら、硝子を通してその部屋を振り返る。襖で隔てられたその部屋は、畳敷きの寝室―――士郎とサクラが褥を共にする場だ。いつもならまだ、この時間。中の灯かりに透ける障子は、青白い輪郭を貼り付けたまま沈黙している。
 耳を澄ます。襖と硝子戸を隔てても、微かに届く荒い息遣い―――艶めいた、呻き。

「……すみません、サクラ」
 せめて朝まで、堪能して下さい。

 屋敷を背にして、歩みを進める。折りしも季節は初春であり、同時に冬の末でもある。漏れる呼気が白に彩られ、夜闇に浮かぶ程には未だ冷めていた。
 この辺りは夜になると車はおろか、人通りすら殆ど絶える。庭へと歩み草を踏む、柔らかな足音だけが小さく響く。
 不意に草の絨毯が、一つ色調を重ねた。空を見やる。流れる雲が、弧を描く月を覆い隠していた。
 足元から、流れる音の波が響く。風が強い。梢を鳴らすその音が段々と遠ざかっていく。
 天蓋の切れ目より落ちるひかり。流れるかぜ。
 揺れる影絵が地面に踊る。舞踊を踏み付け歩みを続け、身動ぎしない影を踏む。
 ―――黒い門扉の、間近に立って。
 彼が籠もった、古びた土蔵。
 それを見上げて、小さく唾を飲み込んだ。
 ……緊張、しますね。
 ひたりと、扉に手を当てて。


 ……柄でもない事をやっていると自覚してはいる。
 これが、少なからず彼の傷を掻き毟る行為である事も。
 今は座に在る彼女の意志に、沿わぬ行為かもしれない事も。
 今ここに在る彼女の遺志に、沿った行為かも知れない事も。
 ―――突き詰めるなら。これが私の、自己満足に過ぎない事も。


「…………」
 けれど、私が彼女なら。
 胸元を握り締め、意を決する。鈍い軋みを立てながら、儚いほどに微かな月明かりが土蔵の中へと差し込まれていく。

 せめて、最期の最後くらいは。
 別れを惜しみ、言葉を交わす時間くらいは望むだろうと思うから―――













 思い出す。

 一年足らずの遠い過去。聖杯戦争が幕を下ろしてから未だ三日と経たぬ、あの夜。
 サクラは昏々と眠り続けたまま、リンは殆ど殺意に等しい色を向けてくる協会と鍔競り合っていた、あの頃。
 私ですら、漸く行動可能なまでに快復したばかりの、あの時は。
 敢えて言葉になどしなかったし、また協会の分厚い監視の最中。迂闊に二人とも動ける状況ではなかったのは、確かだったけれど。

 ―――それ以上に、確かめるのが怖かったのだ。

 大聖杯の崩壊。
 今でも表向きは魔術師トオサカリンが単身行った愚行として知られるそれが、その実一人の歪な魔術使いの手によるものだと―――それを目の当たりにせずとも、彼自身から伝えれずとも。私達は、確信していたのだから。
 夢に背を向け、ユメを編むことでその命を磨耗させた一人の少年。
 あの地へと向かう、その前に。既に半ば以上壊れていた彼が。


 恐らくは、その最期に成し遂げた正義だと言う事を。


 ……だからこれは、今と同じ。
 物理的にも立場的にも、身動き出来ないサクラとリンに。
 二人に代わり、私が引いた貧乏籤だと。
 ……偶々、私が、引くだけだ、と。
 彼女達を責める気など毛頭無いが、既に半ば以上その答えを覗かせている、その紙に。
 記されている内容は、誰が引いても同じ事だと。
 そうやって、幾度も自身に言い聞かせた。
 ―――暗い確信と、歪んだ覚悟を身に纏いながら。

 それでも『はずれ』を引く事を、あの瞬間まで望み続けたのだ、けれど。







 薄く小糠雨の落ちる中。
 岩と土との茨を掻き分け、漸く辿り着いた暗い地の底、その涯に。
 既にその容を失った大聖杯。その間近に、誂えたかの様にぽっかりと空いた岩肌の空間。
 握り締めた紙切れは、なけなしの期待に違う事は出来ず。


 そこに転がる二つの死体を、ただ呆として眺めやった。


 ……あの時私は、一体何を思ったのだったか。正直なところ記憶に無い。
 呼んだのだと思う。叫んだのかもしれない。嘆く暇は無かっただろう。
 過ぎるのは笑顔。彼が護ろうとして奪われ、そして取り返そうとした掛け替えの無い彼女の笑顔。
 彼がただ支えられ、ただ純粋に求めた笑顔。
 告げる。
 目の前に転がる、冷たい抜け殻が。
 それが本当の意味で取り戻される事は、もう二度と無いのだと。

 膝を、落としたのだと思う。

 見覚えのある様な、黒衣を纏った男。目の端にその骸を収めながら、彼のその顔を眺めやる。
「士郎」
 ひび割れた呟きを洩らした事は、覚えている。
 満ちるものは怒り。彼に向ける、理不尽なまでに強い怒り。無尽に撹拌される胸の内を更に塗り潰す程に強い。
「―――貴方、は」
 セイバーを解放した。泥に囚われ剣を汚す彼女の影を、在るべき場所へとその手で還した。
 リンを助けた。最後まで自分自身の甘さを誇りも貴く貫いた、その命と目的を。
「……何故……!」
 サクラを、
 ―――サクラを救った。夢を捨てユメを斬り、文字の通りに命を賭けてサクラを救った。
 なのに、どうして。
 本懐を遂げた、正義の味方の浮かべるかおが。


 何もかも全て喪って、虚ろに壊れた様なのか。


「……駄目です、士郎」
 私は、サクラ達に伝えなければならないのだ。
 連れて行く事は叶わなくとも、伝えなくてはならないんです。
 貴方は、後悔していなかったと。
 エミヤ士郎は、全てを救う正義の味方にはなれなかったけれど。
 マトウサクラだけの正義の味方になる、と言う夢を立派に果たし。


 満ち足りた、穏やかな顔で眠りに就いた、と。


 タイガはきっと泣くだろう。わたしより先に死ぬなんて許さない、と。理不尽に、外聞も無く叫ぶだろう。
 リンはきっと呟くだろう。あいつらしい、とただ一言。一人きりになるまで、死に物狂いで平静を纏うに違いない。
 サクラは間違いなく壊れる。謝る事も出来ず、泣く事も許す事が出来ず。無言のままに、ただ自分を呪い続ける。
 ……きっと、彼女も。
 剣の胸に突き立てられた、蒼の刃を瞼に描く。

「駄目です、士郎」

 貴方はまだ、サクラを解き放ってはいない。
 リンが居る。タイガが居る。私も居る。
 貴方の代わりに、私達が許す。その是非などは、今更貴方に聞くまでも無いでしょうから。
 貴方の代わりに、私達が癒す。替わりなどは居なくとも、三人集まれば代わり位にはなるでしょう。
 けれど。

 呪いを解けるのは、貴方だけなんです。

 熱を失った肌に触れる。全身を彩り飾る、乾き黒ずんだ赤。彼の内を流れるそれすら、その温もりを失っている。
 光を失った瞳を見やる。乱れ、揺らいだその果てに燈った、まっすぐな輝き。今は静かに濁りさえ浮かべた。

「―――駄目です、士郎」
 答えなど期待せぬまま、胸倉を掴み上げる。

「貴方は一生、サクラを離さないつもりですか」
 エミヤ士郎と言う呪いはサクラを永劫に苛むだろう。

「それを許す事が出来るのは、貴方だけなんですよ」
 こんなかおで斃れる事など、私もリンも許さない。
 許さない。

「―――はなを」
 許さない。
 彼の胸をかき抱く。熱を失った肌。乾ききった血の跡。熱く濡れた水の感触。
 彼は、確かに言ったのだ。
 春に、なったら。


「花を、……サクラと、見に行くんでしょう?」
 約束を違えるなどと、許さない。


 堅く、凍り付いた彼の体。出来の悪い人形の様に重く、永い間打ち棄てられていたかの様に血と埃に塗れ。
 掴み上げた胸元を支点にぎこちなく、力無く揺れる。
 俯く様に崩落れた、蝋色の肌を彩る赤毛。
 間近で見ると、今更ながらに分かる。古くから傷んでいた彼の身体。破れ、覗いたその肌にはまだ新しい傷跡と、深く大きな傷痕と。私のこの眼を通して視ても、彼が尋常では有り得ない程の古傷を抱えていた事が。
 ……これが、十年前の聖杯戦争に巻き込まれた印なのか。その十年の後、現在の彼を死に至らしめたその傷すら色褪せて見える程の、呪いの爪痕。
 何時しか彼について、サクラから聞いた言葉を思い出す。前回の戦の中で地獄と化したフユキの街。その生き残りが幼かった彼、エミヤ士郎であり。
 それを助けたのが―――エミヤキリツグ。
 彼の養父にして、前回のマスターの一人。士郎がかつて憧れ、そして道を違えた―――『正義の味方』。

 エミヤ―――キリツグ。

「……教えなさい。貴方には、その責任が有る筈だ」
 死体を胸に、死人に声を。無意味だと思いこそすれ、理不尽だとは露とも思わない。
 彼こそが今へと至る、その発端と結果なのだから。彼がここで朽ちる事になった、その全ての始まりは彼にある。
 聖杯から溢れた呪いに侵された士郎。魔術師でも、ましてや英霊でも無い少年が。
 ……この、今はもう朽ちかけた魔術使いが。
 つい、数日の前まで―――生きて、暮らす事が出来た、その訳を。
 その、奇跡の種を。
「……教えて、下さい。魔術師」
 もう、見る影も無く。光を失い、白く濁ったその両眼を睨みつけ。

「どうやって―――貴方は士郎を、救ったのですか」

 返る訳の無い答えに、代わる様に。
 強張り握り閉められた少年の拳が、力を失い落ちて開いた。





 ―――それが答え。
 結局のところ。





 彼と彼女は最後まで、今も変わらずこの少年を見護っていてくれたのだ。













 月明かりに煙る彼の姿。土蔵の壁に背中を預け、微かながら間断無く上下する肩がその眠りの深さを伝えてくる。
 この一年間で急速に成長した彼。その身が義体である事など微塵も感じさせない程に、少年から青年へと雄々しく伸びた肢体は、魔術使いと言う以前に戦士のそれを思わせる。
 その身を横たえ傷を癒す獣にも似た、何処か静謐さすら感じさせる寝姿。

 ……と、事情を知らなければ思ったものでしょうけど。

 苦笑混じりに、一際目立つ頬の綿布へと触れる。白いテープで留められた、僅かに湿ったその感触は軟膏のものか。膝を落とし隣り合ってみると、頬だけではなくそこかしこに同様の『修繕跡』が見受けられた。
 一つ一つは大した傷ではないのだけれど、何しろ数が多い。余程今回はサクラの気に障ったのか。確かに半ば事故の様なものだったとは言え、あれは―――傍目に見たら、士郎から堂々と不義を働いたとしか、見えなかっただろうし―――

「………………」
 ……誤解ですサクラ。

 とは言え。たどたどしい手当ての跡から見るに、赦しは貰えたのだろう。まあ、そうでも無ければ士郎のみならず、私も今ここに無事に居る訳も無いのだけど。
 近寄ってみれば、彼がこうして寝ている訳も見て取れた。地肌が見えない程に梱包された両腕。特に手の甲は、頬のものより大きな布が手甲の様に肌を覆っている。
 恐らく、酷く抓られでもしたのだろう。確かにこの状態では、普通に横になって眠る―――肌に布団が触れる事すら障るだろう。灯かりを消す前のサクラが、何処と無く寂しそうにしていたのも―――自業自得と言えば、それまでだけど。これで褥を共にするのは、彼にとっては酷な話だ。

 ―――私には、関係の無い事だとは言え。

 ……唾を、飲み込む。
 初めてという訳でも無い。士郎もリンも、サクラすら知らない事ではあるが、この身は既に彼の精気を知っている
。  抵抗などがある筈も無い。私は吸血鬼と夢魔の特性、その両方を併せ持つ英霊。単なる食事に過ぎないそれを、恥じる理由など有りはしない。
 決して―――硝子越しに見る彼の寝姿があの時とは違って新鮮だとかああ睫毛が長いのですねとか月光に透ける赤毛が綺麗だなとか目の高さが私と同じで良いなあなどと考えては、いない。
 いない。
 頭を振って、巡る雑念を追い払う。
   ……これは。今夜これからの事は、私の単なる自己満足だ。


 彼女への遅すぎる餞と、鳶が果たすせめてもの償いと。
 せめて彼女が願っただろう、かつての主の幸せを願って。
 ……ただ、もう一度。
 例え仮初めに過ぎないものでも。
 せめて一言。彼女が遺すべきだった、あの夜の言葉を私が継ごう。


 ―――それが、きっと。
 彼の傷が、多少なりとも和らいだ今。
 士郎でもサクラでも無く、私の前に現れた。その理由だと、思うから。

 ……胸元に握り締めた掌を、ゆっくり開ける。
 爪の先程の、小さな金属片。目も醒める様な青と柔らかな白で彩られた、彼女の欠片。 
 十一年と一年前の、二度に渡った奇跡の種がここに在る。


 幼かった少年を死の顎から救い出し。
 非力で未熟な魔術使いと、最高位の英霊である彼女とを縁で結び。
 幾度も。恐らくは意識もしないままに、あの戦の中で彼を護った。


 聖剣の鞘。
 それは遠いむかし。いつか彼女が眠り臥す、その楽園の名を冠す―――



「―――遥か遠き、理想郷」
 小さく呟いたその真名が。彼が今もここに息づいている、その奇跡の種。



 彼が―――彼の死体が。あの時、握り締めていたもの。
 聖剣の鞘、彼女の宝具の一欠片。
 脆く儚いヒトの魂。イリヤスフィールの計らいだったか、彼女の遺思の賜物か。詳しい事は今となっては分からないけれど、確かな事実が一つある。
 全てが終わったエミヤの家で、リンはしみじみとこぼしていた。曰く。
『あれはもう駄目。例え聖杯の願いでも、修繕の仕様が無いくらい壊れ切ってる』―――今日まで形を保っていられたのが不思議なくらいだ、と。
 度重なる投影魔術と、左腕の呪いと。内側から崩れかけていた士郎の身体は、朽ちる間もなく塵へと消えた。
 ならば今ここで眠る彼は、何だと言うのか―――考えるまでも無い。聖杯でも叶わない程の願いを、実現させる。それはもう、魔法以外に有り得ない。
 イリヤスフィール・アインツベルンが最期に示した第三魔法


 ……だけどそれでも、この奇跡にはまだ少しだけ届かなかった。


 ヒトの魂を物質化させるという彼女の魔法。けれどそれは、十全な依り代が有って初めて意味を持つ。
 初めからイリヤスフィールが彼女を当てにしたのか、彼女がイリヤスフィールに手を貸したのか―――最早永遠に解けないだろう、ささやかな疑問。
 けれど私もサクラもリンも。きっと後者である事を、何とはなしに確信していた。……彼に至っては、誰何する必要も無いだろう。  彼女は消えず。その身を救えなかった自分達の為に手を貸してくれたくれたのだ、と―――
 ……例えそれが、少なからず罪の意識から出た願望であっても。
 私とて、その例外では無い。
 エミヤの家で、暮らした彼女。話題に昇る事こそ稀だが、彼らが彼女に憶えた色は、決して悔悟の苦味だけでは無かったのだから。  それは信頼と、親愛と。
 束の間だけの家族を悼む、敬いにも似た綺麗な感情。
 だから、こそ―――

「…………ぅ」

 彼の瞼に、触れ掛けた手を彷徨わせ。
 胸元に手を。返る答えは、掌中の汗に僅かに湿った金属の硬質感。握る応えに、その先端が軽い痛痒感を返してくる。

 ―――しっかりしなさい。この期に及んでだらしが無い。

 ……幻聴を胸に、一つ大きく息を吐く。
 胸元に手を。視線は彼に向けたまま。

 ―――問おう。

 蒼みがかった薄明の下、座る少年を見下ろして。

 ―――セイバー。

 胸にその名を、呟き落とす。


 貴女は―――今になって。何を、望むのですか……?


 勿論、返答など期待した訳では無いけれど。
 ……それでも一拍。静寂の応えを確認し。

 僅か半歩のその距離を、寄り添う様に静かに埋めた。













 ……それは昏い暗い杯の下。
 色の乏しいその風景。夜の色だけが奇妙に目立つ、岩と砂の荒野。
 肌に障る程に無彩の空気、刺々しいまでに平坦な一面の鈍色。
 ……眩暈がする。
 やはり―――この土蔵に居る限り、彼は一年前の士郎だ。故の無い自責とかつて憧れた夢だけで編まれた、殺風景で歪な世界。
 彼女への想いは、未だ呪い染みた強さで彼を惹き寄せている。
 ―――けれど。
 意を決し、歩を進める。

 それも、今夜を峠としよう。

 彼は、これから幸せにならなくてはいけない人だ。
 忘れろなどと言いはしない。
 背負うな、となど。言っても聞きはしないだろう。
 だから、私達はただ一言。サクラの手を引くその分も込めて、ただの一葉を彼の手に。
 ……俯く士郎の前へと歩み、細く短く言葉を継げる。

「―――士郎」

 耳に届いた鈴の音に、彼は微かに震えを返し。

「……セイ、バー」

 顔を上げ。嗚咽にも似た答えを洩らした。
 ……小さな痛痒感を憶え、胸元を見やる。
 既にこの身は彼女―――セイバーの似姿を採っている。視線も低く、身に纏うものも素っ気無いトレーナーやズボンなどでは無論、無い。簡素なドレスにも似た青のワンピースに、白銀色の騎士鎧―――あの時ここで出遭った彼女では無い。セイバーのサーヴァント、円卓の騎士王アーサー。彼女が士郎の傍らに在った、その時の姿。

 ―――その鎧に、染みる様に夜の色が降りていた。

 紅の紋様が刻まれた黒。文字通り蝕む様にその領土を広げる色は、彼に渦巻き、内を流れる血の色だ。
 絶え間ない後悔と罪悪感。
 救ける事が出来なかった、と。
 この手で殺めてしまった、と。
 ……今更ながら、確信する。エミヤ士郎の内の世界にとって、彼女の姿は劇物に等しい。何よりも彼自身が、この姿を赦さない。
 お前には、この姿を視る資格など無い、と。それ程までに。
 その傷痕は深過ぎて―――この良薬は、苦過ぎた。

「―――士郎」

 ……今更、何を。舌打ちでもしたい気分で、言葉を紡ぐ。
 小さく、深く息を吐く。巡る呪いを、纏わり着く自傷自責を圧した息吹で拭って祓う。
 瞬き一つもしない間に、青と銀とが洗われた。
 小さく息を呑む彼に、色の無い無機の視線を放つ。……予想の通り。

「―――セイバー……」

 体内の圧を高め、染みる痛みを隠して閉ざす。先刻に倍する痛み、圧力は彼の視線に応えるものだ。
 黒く染まった彼女の姿。彼の意識はその姿に絶え間ない痛みを覚え、しかしその色が拭い去られる事は拒んで阻む。
 それは自責。彼女を手に掛けた自分が、その姿を忘れる事は出来ない、と。
 決して望んだ末の結末では無かった。それでもセイバーを討ったのは自分だ、と。
 それは純粋な程に透明な覚悟。
 この場所に至る道がどんなに悔悟に塗れていようと、否定する事は掻き分けた茨と流した血に浸る全てへの、侮辱だと。

 だから彼は、この似姿を否定する。
 何度も何度も。
 幾度も幾度も。
 悪夢を咀嚼し傷に爪立て、内腑を侵し血を流す。

 ……その姿を、お借りします。
 胸中、『彼女』に呼び掛けて。

「セイバー―――」

 呆けた様な、彼の声。瞳に浮かぶ幾つもの感情。驚愕、恐怖、そして絶望。巡り混ざったその色は、程無く瞼に隠れて消えた。
 ……軋み、擦れる音が聞こえる。
 内に響く、脳裏を満たす咥内の声。軋る奥歯を、意識し止める。
 指先に伝わるのは、夢とは言えど確かな重み。冷たい金属と硬く乾いた柄の感触と。

 皮一枚に刃の触れた。
 乱れ脈打つ、その首筋を奔る熱。

 既に観念したかの様に、断罪の刃を待ち構える、彼。瞼は開かず、首筋に触れさせた聖剣より伝わる熱さえ、徐々に平静を取り戻している。
 ……その姿に、嫌でも気付かされた。決して私が、招かれざるユメでは無かった事を。
 『セイバーの刃に掛かる』。それがエミヤ士郎と言う少年が内に抱いた夢であり、待ち望んでいたユメ。
 ―――無言のままに、刃を返し。



 腹で額を、力の限り打ち据えた。



「■■■■■■ッ!?」 
 意味を成さない咆哮を滲ませ、臥して悶える赤毛の少年。額からは汗で解れた髪だけでは無い、赤いものさえ見て取れるけれど。今回ばかりは同情する気にはなれなかった。
 剣を鞘へと納め、深く大きく息を吐く。


 ……全く、本当に。なんて良く似た二人である事か。


 『その時』を待つ士郎の姿に、彼女の姿が重なり消える。一年前、自罰の意識に潰されそうだったサクラの姿。それを支え、その手を引っ張り導いたこの少年も、一皮剥けばサクラと同じだ。
 内に籠もって外に露にしない分、却ってその根は深いかもしれない。……荒療治ではあるけれど、今夜でしっかりその根を絶っておかなくては。
 胸元の欠片。彼女の残滓が、心なしか血相を変え騒ぐ気配に背を向けて。

「士郎」

 額を押さえ、涙目のまま跪く彼に手を差し伸べる。殆ど反射的に返る視線は、私の姿を目にした途端に慌てた様に伏せられた。
 多少なりとも緊張は途切れた様だが、まだ『セイバー』の姿は受け入れ難い様だった。手には応えず膝を立て、立ち上がり―――よろけ、崩れ落ちる。その繰り返し。
 生まれたての四足獣の様なその態は、健気でも可愛らしくもあったけど。
 私としても、この好機を逃す気は無かった。今ならこちらの手を振り払う事は出来まい。
 差し伸べた手はそのままに、左の腕で引き寄せる。

   容易く落ちる彼の身体を、彼女の肢体で抱き留めた。

 ……耳朶に触れてくる、息を呑む音。声にならない呟き混じりの吐息の音。
 瞬きの間に拍は速く、纏う熱はその衣を重ねる。鎧の隙間越しに肌に触れる濡れた感触は、冷たく滲む彼の汗。未だに続いているだろう痛みに悶えながらも、身を捩り私から離れようと、遠ざかろうと腐心する。

「……逃がしません、よ」

 戯れめいた答えを返し、抱き留めた彼を抱き締める。程無く抵抗は止んだ。拍も呼吸も、低く静かに沈んでいく。
 二十と七つ。胸元から打ち寄せる彼の波音を数え続ける。
 音も無い。色も無い。それでも抱き締めた彼の身体、その沈黙は決して寒々しいものでは無かった。いつの間にか、先刻まで絶え間無く寄せる痛み。身を侵食する夜の色も、その足跡を消している。
「……全く。貴方は酷いマスターだ」
 沈黙を破る呟きに、彼の身体が小さく跳ねる。―――ああ、そういう意味ではありません。

「一年振りだというのに。私に触れられるのがそんなに嫌なのですか?」
「な―――」

 口早に続ける問いに、絶句が返る。……彼女の性格とは多少異なるかもしれないが、今は眼を瞑ってもらおう。士郎のペースで話していては、幾晩掛けても埒など空かない。

「……違うのですか?」
「そんな、訳―――」

 ……それに。
 生前どうかは知らないけれど。毎晩夢に出てきた彼女、あの黒い童めいた少女なら。

「ならば、士郎は……私の事が嫌いでは、無いのですか?」
「な」
 これくらいの事。容易く平気で言うのだろうし。

 硬直しきった士郎の身体。抱きとめたままに視線を合わさず、互いの背中へ言葉を投げる奇妙な姿勢を保ったままで、彼の答えを待ち侘びる。
 逡巡の呟き。曖昧模糊な言葉の切れ端を二つ三つと洩らす彼へと、

「―――どうなんですか?士郎」

 誰何の声を再び投げる。
 ……深呼吸。胸に抱いた彼の身体が、僅かに膨らみ静かに締まり。

「……当たり前、だろ」
「―――あ」

 震えて響く囁きに、今度はこちらが身を震わせた。
 その腕に絞られたかの様に、唇から些か間の抜けた声が漏れる。頭の中が掻き回される様な感覚。けれど決して不快では無い、内を暖かな熱が巡る感覚。
 背中に回った彼の腕に、左の肩の熱が高まる。温かく柔らかな、士郎の頬。甘える様な、むずがる様な彼との距離が至近を超えて近くなる。

「……逢いた、かった」
「……私も、です」

 届く呟きも、返す答えも。彼と彼女の、心底からの想いの言葉。
 少なからず動転した意識でも、これは確信があった。例え彼女自身であっても、返す答えはこの一葉に違いない、と。
 死して後も士郎の身を護るこの少女が、彼を恨んでいる筈等、無いのだから。

 ……それにしても。

 その感触に身動ぎ一つ。強く抱きすくめられたままの、この身には避ける術が無い。
 首筋に掛かる吐息。背中に感じる掌。鎧を通して尚、身体の芯まで炙られる様な熱が、ゆっくりと意識を灼き続ける。
 私とて、閨を前提にした誘惑ならばいざ知らず。この様な……真正面からの、しかも呆れる程に真っ直ぐな言葉を受けるのは、あまり経験が無い。
 懐中の彼女の事もある。今は眠る、我が主の事もある。些かならず後ろめたい思い、二重の不義の罪悪感が首筋を撫ぜる感触―――柔らかな刷毛にも似た、彼の赤毛の感触の様に。絶えず、肌と胸とを微かに刺し続ける。

 ……それでも何故か居心地の良い、その抱擁に身を預け。

「―――セイバー」
 落ちる言葉に意識を戻す。
 士郎の言葉は短いけれど、その響きは重く、内を貫く芯を感じさせた。単なる呼び掛け、呟きでは有り得ない重さ。苦しくも心地良い沈黙の帳を破るその言の葉は、覚悟の色を滲ませた促しのそれに他ならない。

 どうして来たのか、と。

 ……剣を差し向けられたとき、彼は確かに覚悟を決めた。未練と無念を出来得る限り内に秘め、落ちる刃を待ち望む。
 彼女にならば、斬られても仕方が無い。
 彼女。セイバーにはそうする資格があり。
 エミヤ士郎にはそうなる理由がある、と。
 気付く。触れ合う彼。意を向けなければ分からない程に小さく震え、布を通して肌へと触る、未だ冷たく濡れた汗の感触。
 真摯な程に堅い誤解を、呆れ混じりに苦笑で迎え。

「言い忘れた事が、あったもので」

 瞼を下げて、詠うかの様に答えを紡ぐ。
 彼女の言葉。あの夜伝えられなかったその二言を、今夜私が引き継ごう。
 名残も惜しく身体を離し、視線を彼の双眸に。強張る肩を両手で抑え、一年越しの言葉を贈る。


「申し訳、ありませんでした」


 それは悼み。
 力至らぬその為に。望まぬ刃を突き立てざるを得なかった、かつての主に首を垂れる。


「―――ありがとう、士郎」


 それが、彼女が遺すべき言葉。
 短く無骨な言の花束。けれど彼女に相応しい、彼に最後に贈る一葉。
 英霊として、サーヴァントとしてだけでは無く。一人の少女として彼と過ごした、短い日々と。
 心ならずも翻した刃。その凶刃を阻み、砕いてくれた少年への想い。
 彼女自身が鞘を介して無言の内に贈る言葉を、移し身を介し改め告げる。
「―――セイバー」
 視線を逸らし、苦渋に染まる答えが返る。
「……俺には、お前を救うことが出来なかった」
「いいえ。貴方は、確かに私を救けてくれました」
 遮る様に言葉を重ね、両の掌を彼の頬へと差し伸べる。
「私だけでは無い。貴方はサクラを救い、リンを救った。貴方が居なければ、私達は皆ここには居ない」
 指を伝う暖かな流れに、掌を浸す。
「胸を張りなさい、士郎。貴方は今でも、私の主だ」
 知らず。頬を伝う暖かな流れに。視界を潤ませて。

「……でも、セイバー。俺はお前を殺してしまった。お前だけじゃ無い。イリヤだってそうだ。俺がもっと強ければ、二人とも死ななかったかも知れないんだ」

 ……イリヤスフィール。
 アインツベルンの魔女、その身を賭して一度だけ、魔法使いの座に就いた―――銀の、少女。
 ホムンクルスが故の短命など、この少年の免罪符には成り得ないのだろう。
 けれど、それでも。
「―――全く。勝手な事を言ってくれますね」
 努めて冗談めいた応えを。再び彼を、引き寄せ抱き。
「私達を、勝手に殺さないでくれませんか?」
 拗ねた口調で言葉を続ける。……実際、愉快な気持ちではなかった。
 第三魔法を顕現させた、銀髪の少女。
 鞘に宿って主を護った、円卓の騎士王。
 彼を見据える。エミヤ士郎。未熟で愚かな魔術使いが、今ここに在る事こそが。


「……何故、私達は貴方と共に生きているのだと、そう思ってくれないのですか」


 詭弁でも詐術でも無い。これが真実。少なくとも彼女達にとって、紛れも無い認識の筈なのだから。
 当の本人だけが、言われも無い自己嫌悪に身を焦がしても。そんな事では、誰一人として救われない。
 息を呑む声。構わず強くかき抱く。息苦しい程至近に触れる彼の胸元。激しい拍の音が額をくすぐり、徐々に静かに退いていく。
 彼の身体。その魂。その命は。
 リンが探し出し、イリヤスフィールが救い、セイバーが護り。
 そして、サクラと共に在る。

「士郎」

 再び視線を双眸へ。古い土の色に灯る瞳は、戸惑いながらも曇りは無い。
 救い難い程に不器用な彼。彼一人では生涯気付かないだろう事。
 たった一つの、単純な事実を。


「私達は―――決して、自らを不幸だったとは、思っていないのですよ」


 イリヤスフィールは誇りに思っているだろう。大袈裟では無く、世界を救った彼女の弟。壊れ崩れる意識の中で、それでもシロウは彼女の事は忘れてなどはいなかった。
 エミヤシロウは永遠に、幼い姉の笑顔と声を忘れない。
 ……セイバー。
 円卓の騎士王アルトリア。剣の英霊。
 それは自責と後悔に駆られ、その為にただ虚ろに空しく回り続ける、歪な歯車の名。


 それでも彼は、私の事を忘れない。


 剣を翻した事を責めもせず、阻めなかった自分自身を苛む程に。
 彼の内では今も尚、私はただ一振りの護り刀であり続けている。
 最期に遺した、聖剣の鞘。彼の魂の苗床と役目を変えた私の欠片は、今も変わらずシロウの内でその任を果たし続けている。

 ―――それを、伝えたかった。

 背負うな、などと言う気は無い。言っても聞きはしないだろう。
 ただ、彼に。瞬きの間と言え、私が己の剣を預けた、この少年に。
 知っておいて、欲しかったのだ。

「シロウ」

 微かな懐古と淡い思慕。その名を乗せるその度に、温かな想いが胸へと灯る。
 閃くのは、苦笑混じりの安堵。私が生まれて初めて憶える、不肖のこの身に対する感謝。
 泥と闇とに蝕まれ、僅かに残った残滓のこの身。
 けれど。無様で未練極まりない、この様な姿だからこそ。


「―――誓おう。私は常に、貴方と共に在ることを」
 叶う願いも、確かにここにあるのだから。


 ……たたらを踏む。背中に回された彼の掌。先刻まで力無く答えるままだった少年の、突然の応えに面を食らって言葉を失う。
「……酷いな、セイバーは。いつまでも、俺を子供扱いしてる」
 僅かに濁ったその鼻声に、思わず釣られる涙腺を引き締める。温かな彼。大きく一つ息を吐き、触れ合うままの胸を張り。
「―――ええ。全く、マスターが未熟者だと苦労します」
 努めて飄々と、澄ました声で答えを返す。

「……この一年も、随分と周りに迷惑を掛けていた様ですし、ね」

「む」
 笑い混じりに続けた言葉に、不満の色を滲ませて。
「……仕方無いだろ。動ける様になったのだって最近なんだから」
「それにしては、随分と―――楽しそうに見えましたが?」
 ぐ。と、無形の苦味を飲み下すシロウ。微妙に冷めた彼の身体に気付かぬ振りで、締める腕に力を込める。
「シロウは幸せ者ですね。見守ってくれる人が沢山居る」
 微笑み、告げる。脳裏に過ぎるのは木目の天井。リンが義体を調達してきてからの三ヶ月、碌に身動き出来ない彼を取り巻く見慣れた女性達の姿。
 騒ぎ拒んで、視線を逸らし。
 それでも結局。形ばかりの抵抗の末、その身を委ねる彼の姿に。
「……セイバー。痛い」
 落ちる言葉は黙殺しながら、不承不承に踵を外す。
 こういうところまで親に似なくても良いのです、と、言葉に出さず胸中零す。シロウにも増して僅かな機会だったけれど、幾度か覗いたその片鱗は、確かに彼にも見えていた。

 意識をしての事では無い分、却って余計に性質が悪い。

「自業自得です」
 再び頭を埋めながら、憮然の態で答えを返す。
 ……だって、仕方無いではないですか。

 私はシロウと共には在れど。
 ―――否。共に、在るからこそ。

「……自業自得、です……」

 彼の隣に立つことだけは、叶わぬ願いなのだから。













 ……それは兎も角、いつまで抱き合っているつもりなんでしょうね。

 間近に見える士郎の肩を、溜息混じりに見やってぼやく。嗜む趣味は無いけれど、眼前のやり取りを見ていると煙草の一本、酒精の一杯も欲しくなる。
 両掌で編んだ枕に、当てられ火照る頭を預ける。……一年ぶりの再会に際する彼女の気持ちは分からないでも無いが、傍で見ていると居心地の悪い事この上無い。くすぐったい様な痒い様な、甘やかな苦痛。砂糖製の蟻走感とでも言うべき感触に浸りながらも、視線と耳を外せない。
「……魔法を使うのは、リンの役目なんですが」
 聞いた寓話を思って呟く。不遇の少女に硝子の靴も、南瓜の馬車も用意出来ないその代わり、続く時間は朝まで遠い。手短に済ませろ等とはとても言えないけれど、だからと言って覗きに耽る様な真似は気が進まない。

 ―――これも、自業自得と言うんでしょうか。

 耳に届いた彼女の声に、期せず同じに肩を竦める。
 眼下に広がる逢瀬の様は、意図したものではあったけれど。あくまで私はその振りをして、士郎に言葉を告げるだけ―――そのつもり、だった。殆ど感嘆の色に染まった苦笑を口の端に浮かべながら、白皙の頬を眺めやる。

 ……余程、未練が有ったんですねえ。

 何時の間にやら押し込められた真白の鞘のその中は、狭くも暗くも無かったけれどものの見事に何も無い。娯楽と言っては失礼だけど、自然と意識が外へ向く。
 ……遺した宝具の影響も有るとは言え、この中で私から主導権を奪い取るというのも、並大抵の事では無い。この一年間、自分の事を意識はすれど交信出来ないその日々は、彼女にとっても余程不本意だったのだろう。
 投げた視線に写るのは、日向で眠る猫にも似た、無我に至る程に幸せに蕩けた表情。

 ―――全く。
 そんな表情を貴女にされたら、手を出せよう筈が無い。

 サクラに黙っていて良かった、と、苦笑混じりに吐息する。あまりに真っ直ぐな、見ているだけで当てられる程に濃密な親愛の様。その雰囲気は罪の意識とか彼女への引け目とか、そういう諸々を飛び越えて影が滲み出しかねないくらいに破壊力があった。
 士郎の方も、彼女程単純では無い様子ながらも色の濃さでは引け目を取らない。元来頑なと言うか、色んな意味で追い詰められないと本心を出さない少年の、それは希少な笑顔だった。
 時折鼻を鳴らし、目の端に光るものさえ見て取れる、正しく年相応の少年のかお。
 彼女を猫とするならば、こちらのかおは子犬と言うか。

「……なるほど」

 赤の少女の姿を思う。遠い英国の空の下、相も変わらず励んでいるだろう彼女。
 赤いあくまと評された、その行動を取る目的が漸く分かってきた様な。
 ……今度サクラが居ない時、少しつついてみましょうか、と、胡乱な思いで考えながら慣れた単語に耳を澄ませる。現界してから一年の間、数限りなく呼ばれた名前。
 流石に真名で呼ばれることには抵抗があった。当時から変わらない呼称、最早起こる事の無い戦に於ける私の名。

『……じゃあ、ライダーが手を貸してくれたんだ』

 感心した様な、得心がいった様な態で頷く彼。取り敢えず波が去ったのか、ややぎこちなく身を離しながら赤らめた顔で言葉を紡ぐ。 『ええ。……彼女は夢魔としての側面も持った英霊ですから。力を貸して頂きました』
 名残惜しげに眉を垂らして、しおらしい声でセイバーが答える。
 よく言いますね、と、今度は混じり気無しの苦笑が漏れる。力を貸したと言うよりも、半ば脅して付き合わせたのでしょう?
『そっか。後でお礼言っとかないとな』
『……わざわざシロウが頭を下げる事はありませんよ。私から言っておきます』
 やや膨れながら、憮然の態で彼女が返す。
『それよりも、気を付けて下さいね』
『?何がさ』
『朝、サクラに見付からない様に。見付かったらただではすみませんよ?』
 一転。過ぎる程に真面目な顔と口調で告げるセイバーに、士郎が面を食らって瞬く。顎に手をやり暫く迷い、
『だから、何を?』
 眉根を寄せて尋ねた問いに、笑顔を拭って瞼を下げる。

『……いいですか?ライダーが、手伝ってくれて、いるんです』

 一言一言を区切り、無用なまでに力を込めて言い放つ。流石士郎と言うべきか、それでもすぐに真意を掴めず視線を虚空に彷徨わせ。 『……あ。ああ!ああ、そういう事か、うん』
 ややあって、挙動も不審に意を掴む。……収まり掛けた肌の赤味が見事に熟していく様は、見ているだけで気恥ずかしい。  それは、確かに。土蔵で一人眠る彼。
 その傍らに寄り添う様に、至近で眠る私の姿は嵐を呼ぶに相応しい、けど。

「……わざわざ士郎に言わなくても、良いでは無いですか」 

 居心地悪い熱を感じて、映る景色に身動ぎ一つ。
 眠る彼を前にして、私一人でも相当に覚悟が要ったその行為。
 しかし目の前でそれを確認されるのは、既に一種の拷問だった。主への申し訳なさに士郎への罪悪感、何よりも名状し難い程に纏わり付いて来る熱が、頭と肌を茹でさせる。
 ……これが曲がりなりにも力を貸した者への仕打ちですか。騎士王。

『―――ライダーには弱いのですね。サクラと言い、シロウはああいう女性が好みですか』

 悪意は含まれていなくとも、強く抑揚を傾けた枕詞に眉根を寄せる。
 ―――そういう言い方は止めてくれませんか。リンやタイガじゃ無いんですから。
 彼女の声に視線を上げて。

『ああいう、って?』

 ……つくづく彼は好んで死地に赴く性質らしい。
 頭を抱えるその上で、鋭く鍔鳴る彼女の怒気に大いに泡を食った制止が被る。
 ……言っては悪いが、彼女の本質は泥を被ったその上に、杯の底に溜まった残滓だ。夢で示した珍態と言い、彼女本来の性格からは少なからず歪んでいる事など、覚悟はしていたけれど。
 邪悪では無い。愚かでは無い。けれど安全かどうかとなると、今更ながらに自信が無い。真正直と言うか、欲求に忠実とでも言うべきか。流石に抑えてはいるものの、渦巻く風に足をとられて無様に転ぶ彼の姿を、溜息混じりに見やって思う。
 とは言え、文字通り年中彼等を見守っている私からすると、このまっすぐさは心地良くもある。士郎もサクラも随分ましになったとは言え、未だにどこか回りくどい。希少な例外、褥の時とまでは言わないが、折角文字通りの艱難辛苦を乗り越えてきた身なのだから。
 一年前の事を思えば、それは確かに割り切れない物もあるのだろうけど。もう少し位あの二人には、胸を張って目の前の幸せを享受する権利が有ると思うのだ。
 それでも漸く士郎には、自ら湯浴みを共にするくらいの甲斐性は出て来たみたいだけれど―――

「……まさか、彼女の影響じゃないでしょうね」

 訳無く不意に閃いた疑念は、しかし否定の材料が見当たらなかった。これも汚染と言うんでしょうか―――などと、彼女が聞いたら激怒するだろう予測を胸に納める。
 こちらも何とか赦しを得たのか、剣と共に怒りを納める彼女の声が脳裏に響く。
『……全く。貴重な時間だと言うのに、こんな事で浪費させないで下さい』
 忌々しげなその声に、臣下の如く平伏す彼が訝しげな表情を向ける。見上げる視線に気付いたのか、

『―――私は、幽霊みたいなものですから』

 一転、儚げな笑みを返す。
『朝になれば、生きている者達の時間です。私の出る幕はありません』
『―――でも、』
 反射的に口を衝いた否定。続く思いを飲み込んで、続く言葉を小さく洩らす。
『……また、夜になれば』
『言ったでしょう?シロウ』
 柔らかく遮り、小さく背伸びを。恐らくは無意識の内に詰め寄る彼の、低い視線に目を合わせ。

『―――私は常に、貴方と共に在る』

 透き通る声は、言外の否定。
 今夜の逢瀬が最初で最後と、九分の慈愛と一分の寂寥で編まれた答えを主に返す。
 会うまでも無いと断じるそれは、少なからず意地を張った物なのだろう。
 確かに第三魔法の産物、文字通り神秘の塊とも言うべき、士郎の魂。
 今は順調に働いているとは言え、それが再現も解析も不可能なものだという事には違い無い。如何に英霊とは言えど、必要以上に干渉しない方が無難である事に間違いは無い。
 けれど、それでも。

「……それでも貴女は良いのですか、騎士王」

 知らず。痛ましく滲む苦の葉を、低く口の端に滑らせる。だからと言って、こうも見事に彼への未練を断ち切れるとは、正直思っていなかった。それどころか。毎夜毎晩の逢瀬の手引きを、どう断るか、思いあぐねていた位だったのに。
『……そう、か』
 納得している訳では無いのだろう。それでも瞳を揺らしながら彼女の言葉に従う士郎は、見ていて何処か痛々しい。
 彼の想い。一年に渡り心ならずも育まれて来たそれを、我侭、駄々の一言で斬って捨てるのは酷だろう。

 ……私とて。度が過ぎない程度にならば、手を貸すのに吝かでは無いものを。 

『ほら、シロウ。今からそんなに暗くなって、どうするのですか』
 こつんと額を額に当てて、冗談めかした態で、彼女。感心する程その表情は、次々多彩に切り替わる。円卓の騎士王としての貌、整ってはいるが荘厳実直を巌と留めたその顔からは、想像し難い様ではあった。泣き、笑い、蕩け、怒り―――内に広がる心のままにくるくる変わるその表情は、傍目にも心を和ませる。
『―――だな。まだまだ時間はあるんだし』
 相も変わらず赤いかおで、それとなくセイバーから距離を取る。意識しなければ分からぬ程度、微かに膨れる少女に向かい。
『じゃあさ、セイバー』
『はい?』
 咳払いを一つ。頬に浮かぶ色はそのままに、それでも視線はひたり、と逸らさず。

『俺に何か―――して欲しい事って、無いか?』

 短い、今夜限りの逢瀬。せめてこの時位には、力の限りのもてなしを、と、灯る光が語っている。
 セイバーの方も、それが分かったのだろう。柔らかな微苦笑を浮かべながら口を開く。
『私は、シロウが傍に居てくれれば』
 それで良い、と。
 恐らくはそう言いかけ、何故か途切れた言葉の主を、怪訝な顔で見つめやる。
 無言のままに、暫し俯き。
 ―――その、ほんの一瞬。多分彼は気付かなかっただろう、刹那の間。
 鼻梁に垂れる黄金の髪の隙間から、僅かに覗くその口許に。
『―――そうですね』

 ほんの一瞬閃いた孤が、何故か身体を震わせた。

 生真面目な程厳粛な、真顔の下を右手で隠す。
 ……悩んでいる筈のその姿は、どうしてか不穏なものを感じさせた。
 ―――ややあって、視線を彼に。何処かわざとらしく大仰に、胸元にやった手を合わせ。

『シロウ。おなかが、すきました』

『……変わらないな。セイバーは』
 思わず噴出し、士郎が答える。その様子から見ると、彼女は以前も頻繁に空腹を訴えていた、という事だろうか。
 余程に食事を嗜好していたのか、それとも士郎の魔力供給が少なかったのか。この状況下で望む以上は、恐らく前者なのだろうけれど。
 人間を由来とする英霊は、習慣も人に似るのでしょうか―――埒も無い考えに浸りながらも、彼女の望みに眉根を寄せる。

「……食事、ですか」

 今更ながらに彼等を見やる。
 灰色の風景。
 一面の土と砂と岩、陽の光さえ差さない地の底。
 例えばここがエミヤ邸だったなら、彼女の望みは容易に叶うのだけど。夢とは言えど、これは現実の記憶を基にして創り上げた世界。宝具故の完成度が災いしてと言うべきか―――そこに無かった物を出せと言われても、これは困る。
 それでも私が望むなら、難しい事では無いんですが。
 渋面のまま一人ごちる。流石にこの状態では如何ともし難い。一度『ここ』から出て、彼女と替わる必要がある。
 ―――いや、だけど。
 それはつまり。初めの内に抱き締められていたのが自分だという事、それから後も不可抗力とは言え、延々覗きに耽っていた事が士郎に知られかねない訳で。
 大体にして。二人をエミヤの家へと運び、食材なり道具なりを用意した挙句にそれでは後はごゆっくり―――と言うのも。
 幾らなんでも、それは。私にすら分かる程に無粋と言うか、雰囲気を害する事甚だしいのでは無いだろうか。
 ……どうしましょう。

『けど……食事、か』

 細部は違えど思いは同じの様で、渋面の士郎が小さく呻く。辺りを見回し腕を組み―――曇りの晴れないままに、視線をセイバーへと戻す。
『材料とか道具とかって出せるのか?』
 当惑混じりの問いに、彼女はきっぱりと首を振り。
『いいえ。わたしにはむりですね』
『そっか』
 首を捻る。とは言え、もともと考えて解決する様な問題でも無い。程無く大きな吐息と共に、再度視線が戻される。
『……さっきの今で悪いけど。次の機会に、ってのは……』
『おなかがすきました。いま、たべたいのです』
 セイバーの妙に平坦な声が提案を遮る。三度渋面で思案に耽る士郎を見下ろしながら、こちらも思わず眉根を寄せた。
 ……何かおかしい。
 彼女の食い意地が相当に張っていたらしいとは、リンから聞いた事があるけれど。その話から描かれた人物像は、無理を通せば道理が引っ込む―――などと、考える様なひとでは、間違っても無い。
 大体、士郎ならともかく。彼女ならば、私に頼むと言う選択肢も出てきても良い筈なのですが。

「……と言うか、そもそも幽霊ってお腹が空くんでしょうか?」

 些か間の抜けた疑念が頭を過ぎる。今更だが、英霊は食事など必要としない。まして『死後』にまで空腹を訴える幽霊など、人のそれにすら珍しい気がする。
 余程特殊な出自の英霊なのだろうか。今となっては確かめ様の無い事だけれど。
『……どうしても我慢できないか?セイバー』
 幼子の我侭に弱る年長者の様な態で、士郎。
『―――はい』
 無理を言っている事に、自分でも少なからず気付いているのか。気遣わしげに眉を顰めて、それでも小さく、きっぱりと。


『……がまん、できません』


「――――――」
 思わず。  眼鏡を外し、目を擦る。映るのは士郎と―――彼女。変わる訳が無い。
 剣の英霊、セイバーの姿。
 黄金の髪、翠の双眸。空色の鎧を纏った矮躯痩身の少女の姿。
 全く、似ても似つかない。

『じゃあ……どうするかな』
『―――シロウ。一つ、心当たりがあるのですが』
 それなのに、何故。

『え―――本当に?』
『はい。食材も、調理法も、共に』
 確かに、今。

『早く言えってば。どこにあるんだ?』
『栄養価は抜群。恐らく味も最高でしょう』
 微笑う彼女の、その姿、が。

『……でしょう、って。食べた事無いのか?それ』
『はい。……一度、どうしても食べてみたかったんです』
 見慣れた彼女の、その姿、に。

『……そっか。じゃあ、精一杯作らせて貰うよ』
『……そうですね。一緒に頑張りましょう』
 どうして。

 音も無く近付き、額を胸に。
 固まる彼の胸元に手を。
 退く彼の足を払って。
 跨り、彼を間近に見据え。
『―――それでは、シロウ』
 輝く様な、笑顔を浮かべ。


『いただきます』


 重なる主のその面影に、何故重なって見えたのか―――






















 ……その後の事は、あまり憶えていない。
 断片的に浮かぶ記憶は、その殆どが感覚だ。得体の知れない罪悪感に焦がされて、終始眼を瞑っていたせいも有る。
 彼女の姿と肌を通して、漏れて溢れる波に滝。
 触れる肌と。
 触る吐息と。
 届く囁きと。
 それと―――

























 ……瞼に落ちた光に呼ばれ、抗い混じりに目を覚ます。

 久方振りの、憂鬱な朝。前にこの様な朝を迎えたのは、もう一年も前になる。
 聖杯戦争の明くる朝。力の殆どを絞り尽くし、生まれて始めて布団との抱擁を別れ難く思えた、あの朝。
 今朝も、同じ。
 肌に触れる空気は冷たく、石造りの床と相まってなけなしの体温を奪い去っていく。
 ―――だから余計に、この抱き枕の温かさは何者にも代え難く、離れ難く。
 叶うのならば。一日中こうやっていたい程に、その温もりは蠢惑的で。
 せめて。
 せめて誰かが起こしに来るまで、このままここでまどろんでいたい、と―――

「……そういう訳にもいきません、ね……」

 不承不承に身を離す。もしも誰かが起こしに来たら、私達は二人共に好きなだけ眠る羽目に陥るに違いない。流石にそんな事で彼女の―――セイバーの誓いを、無にするのは忍びなかった。
 身を起こす。目の前には静かに寝息を零す蠢惑の枕。未だに彼女の残り香を夢見ているのだろうか。
 心なしか頬はこけているものの、とても安らかで―――幸せそうな、眠り姫の姿。

「……サーヴァントは、夢を、見ない」

 呟きを転がす。それは確かな事実であり、私達にとっての常識でもある。
 そうそう彼女の様に、非常識なひとは居ない。私も漸く今夜からは、静かな眠りに就けるのだろう。
「だから、士郎」
 身を屈め、眠る彼に呟く。それなりの安堵と、一抹の寂しさを滲ませて。


「―――これからは、貴方が夢を見てあげて下さい」
 身の裡で眠る、彼女と共に。
 平和な日々と言うユメを、その身が朽ちて還るまで。


 舟漕ぐ彼に障らぬ様に、緩慢に開いた扉の隙間に身体を滑らせる。
 空気こそ肌寒いものの、降り注ぐ陽光は確かな温もりを伝えてくる。踏みしめる草の絨毯は朝露に輝き、柔らかな音を奏で。抜ける様な青、彼女を思わせる一面の晴れ渡った空からは、耳に心地良い雀達の調べ。
 今更ながら、漸く気付く。過ぎる位に心地良い朝。天気その他の諸々以前に、この身を苛む昨夜の咎が、綺麗さっぱり消えている。

 ……ああ。

 頬が熱い。……気付いて良かった。朝食の席で思い出したりしたら、二人揃って赤面を並べる羽目になっただろう。
 そう言えば、中身が彼女であっても容れ物が私な事には変わりなかったんですね……。
 怪我の功名、とでも言うべきか。サクラの折檻に耐えた御蔭で、過剰な程にくちたお腹を悟られずに済みそうではあった。未だ拙い霊脈は、数日後に訪れるだろう再びの空腹を力強く確約して来るけれど。
 ……怪我の功名、とでも言うべきか。

 ……世の中には、非常食という言葉が有るそうですし。

 気付いた備蓄食料を、心の棚にしまい込む。夢の中とは言え、進んで不義を働く気は無いけれど―――どうもサクラは私達にとって、魔力の欠乏がどれだけ苦痛かを理解して無い節が有る。備えておいても損は無い。
「…………」
 理論で武装を試みながら、庭を横切り邸内へ。体調は万全、備蓄も充分。今すぐ戦闘する事になっても過不足無い程の状態ではあるけど、それでも確かに重い疲労が澱の様に残っている。
 魔力体力的なものでは無く、精神的な疲労。
 真綿で一晩中絞められ続けた様な、甘味を含んだ粘性の疲労。
 まだ時間は早い。二人に朝食の席で対面する前に、もう一眠りといきましょう。
「―――ふふ」
 サクラに用意された、広くも無い簡素な私の部屋。冷めた日向が香る布団に、蓑虫の態で丸まりながら笑みを零す。
 サーヴァントは夢を見ない、食事は不要と断言しながら、今の私は何たる様か。お腹を空かせ夢を見て、疲れて二度寝の床に就く―――英霊としてこれ以上の醜態は、一寸思い付かない。
 中でも一番可笑しい事は、私自身がそれを厭わず。むしろ嬉しく、誇らしく。
 その感覚を、待ち遠しいとすら思っていると言う事で。
 かの騎士王は驚く程に早く、そして見事にこの生活に適応したそうだけれど。その気持ちが分かった様な気がした。
 空腹や疲労。英霊として可能な限り避け得るべきその感覚は、彼の周りではすぐに温かなもので満たされる。その感覚は酷く快く、習慣性すら備えていると言うのだから。
 セイバーに教わった。彼女の口癖、魔法の言葉。それを伝えれば、彼はきっと手を差し伸べてくれる。
 ―――思い出す。リンに刺された、太い釘。贖罪と安寧の日々をこの街で過ごす私達と、彼女自身に向けて投げられた言葉。

『あのねー。これだけトラブルの要素を持った連中が、こんな片田舎で安穏と生活できるワケがないでしょ?』

 殆ど確信を持って告げられたその言葉は、苦笑混じりとは言え肯定せざるを得ないものではあった。
 何しろ士郎はあの性格だ。手の届く距離、目に映る範囲で厄介事が起ころうものなら首と手とを出さずには居られない。自身の罪業を抱えるサクラも、手助けこそすれ止めはしないだろう。そうなれば結果的に、私も随行する事になる訳で。
『だからさ、ライダー。その時は―――貴女が、あいつらを見てやってよね』
 妹と彼とを想う少女の言葉に、諾としっかり答えを返し。
『しかし、リン。一番その種を持って来そうなのは、貴女なのですが』
 鋭い釘を刺し返す。良くも悪くも、彼女はそちら側の世界に最も近い。加えて言えば、敵を作る事と敵と争う事を畏れない、ある意味では二人以上のトラブルメーカーだと熟知させられてもいた。
『……はっきり言うわね、あんたも』
 まったく、サーヴァントって奴は……と、電話越しでも明確に伝わる些か憮然とした空気を空とぼけて流し、苦笑と共に再会を約した彼女。その帰国は、未だ先になりそうだと零していたけれど。
「……はい、リン」
 遠い空の下。励む彼女に、布団の内から誓いを投げる。それは妹を思う少女と、主を想う少女に向ける、誓約の言葉。

「―――私は、二人の剣になりましょう」

 だから、士郎。
 平和な日々を送る中。私が困ったその時は、彼女の言葉を借りる時には。
 ―――きっと助けて下さいね、などと。
 貴方には、言うまでも無いのでしょうけれど。

 思案に巡る意識を落とす。回想に耽るその間に結構な時間が経っていたのか、それとも既に夢なのか。
 音楽的な包丁の音、溶けて広がる味噌の香気。ほのかに漂う朝餉の気配に、目を閉じたまま唾を飲み。

「……士郎。お腹が空きました」
 魔法の言葉を、転がり落とす。


 胸の彼女が、同意とばかりに微かに頷き脇を突付いた。





























「……ねえ、ライダー」
「はひ?」
 不意の問いに、我ながら間の抜けた答えを返す。
 多分必要無いだろうとは思うものの、サクラ曰く食事を摂っている以上対になる習慣はこなしておくべき、との事で毎朝晩の日課になった洗顔と歯磨き。朝食前に歯を磨くと言うのも変な感じだが、この家の朝の水場は忙しない。どの道気休めなのだから食前食後の違いくらいに構う事は無いだろう。
 ただ、メデューサの英霊であるこの身は今もなお、世に伝わる数々の伝説で縛られている。
 ……その中で最も有名な故事に基づく結果が、この姿な訳で。
 歯ブラシを咥え、洗面台に向かい堅く目を閉じたそのままに、背後から投げられるサクラの声に。
「ライダー。今朝は妙にお肌の艶が良くない?」
 言葉と共に、ほのかに石鹸が香る。眼を閉じている為余計に聡くなっているのか、先程までかなり長めの湯浴みをしていた少女からは熱っぽい湯気と、その火照りが背中に触れてくる。
「―――気のせい、でしょう」
 一拍置いてしまった事を即座に悔やみながら、素知らぬ振りで歯磨きを再開する。
 今朝、サクラが凄みと共に開いた霊脈からは昨日通りに充分な魔力が供給されている。幸いサクラの魔力貯蔵量は私から見ても呆れる程に大きい。その為に、半日振りの供給の量―――蛇口の捻りが妙に細いものであっても、気付かれずには済んだ。
 ……それでも見た目に不審を覚えるのだから、侮れない。これがタイガの言う所の『女の勘』と言うものでしょうか。
 耳にした時は色々な意味で説得力を感じなかったけれど。

「それより、サクラこそ。今朝は随分上機嫌の様ですが」

 見えない鏡越しに、こちらの背中へと不審の眼差しを送っているだろう主へ向かい話題を変える。露骨だとは思うが、丸きりの嘘と言う訳でも無い。『お仕置き』が解かれた事、つまり私への霊脈が開かれているのが何よりの証拠でもある。

「……あは、分かる?ライダー」

 果たして、その目論見は成功した様だった。殺気と言う程鋭くは無いが、単に視線と言うには重過ぎた圧迫感が瞬きの間に蜂蜜の様な甘さに変わる。
「ちょっと、ね。……うふふふふふふふ」
 虚ろな声で何かを反芻するサクラを背に、うがいを二回。口の中の泡を洗い落として、眼鏡を外す。
「ふふふふふふふふふふふふふふ」
 ……ちょっと恐いですサクラ。
「―――サクラ」
 手繰り寄せたタオルの手触りを楽しみながら、呼び掛ける。
「ふふふふふふふ……え、なに?ライダー」
「士郎は優しくしてくれましたか?」
「うん。とっても。それに凄く積極的で」
 はた、と、熱っぽい答えが止まり。
「―――な、なんでライダーがわたしの夢の事っ……!」
「ああ、やっぱり士郎の夢でしたか」
 素知らぬ態で、焦る叫びを受け流す。たまにはこちらからの意趣返しと言うのも、悪くない。

「サクラ。私も女性なのですから、気にしなくても良いのですよ?」

「……何をよ」
 憮然とした声に、含み笑いを鏡越しに返し。

「いえ。洗濯はお任せ下さい、と」

「…………!」
 真紅の絶句に込み上げる笑顔を噛み殺しながら、蛇口を捻る。冷たい水が汗と埃と、頬の火照りを拭ってくれるのが心地良い。
 大きく息を吐き、タオルで顔を拭う。ささやかながら下がった溜飲と相まって、清々しい気分が胸を満たした。居間で待ち受ける朝餉を思い、頬が緩むのを自覚する。
 今朝はあれから程無くして起きたらしい、士郎の手による和風の朝食だ。サクラの機嫌を取る為だろう、垣間見た食卓の品々は、いつもより明らかに力の入った様相だった。
 ……これならたまには夫婦喧嘩もあっても良いかも知れませんね。
 我ながら現金な思いを浮かべながら手を伸ばす。指先が滑らかなプラスチック―――洗面台を撫でる感触。
 二度、三度―――指先がその感触を確かめる様に、彷徨わせる。
 眼鏡眼鏡。
 四度目で、漸く蔓が手を掠めた。鏡に背を向け耳に引っ掛け、閉じた瞼をゆっくり開く。
「サクラ。風邪を引きますよ?」
「……分かってます!」
 未だ半眼でこちらを睨み付ける、バスタオルを纏った主が仏頂面はそのままに、漸く身体を拭き始める。その姿を背に、洗面室を後にした。
「ああ、サクラ」
 ―――と。忘れていた。
「……何」 
 扉越しに返る声。長くも無い廊下を隔て、味噌と醤油が香る居間で忙しなく動き回る士郎の気配を見て取る。小ぶりの鍋から四つの椀に、慎重に味噌汁を注ぐ彼。
「あの、ですね」
 意識して抑揚を上げた声に、彼の横目が応じた事をこちらも横目で確認し。

「―――洗った下着は浴室に。後で干しておきますので」

 何かを取り落としたらしい、騒々しい音が耳に届く。
 一拍置いて。
「―――ラーイーダーッ!」
 怒気と殺気に満ちた叫びが、曇り硝子を震わせた。
 何かが勢い良く零れる音を、背中に受けながら足早に庭へ。朝食までの暫しの間、目の届かないところに避難する事にしましょう。
 一息に満たない間に、庭を横切り。
 ―――まあ。
 ふと、足を止める。土蔵の陰。居間から姿を隠したままに、視線を高く、高く上げ。
 ―――私が代わる様な事では、無いのですが。
 抜ける様な青。輝く柔らかな黄金。
 セイバーの色を冠に、小さく口の端を歪め。
「これくらいの仕返しは、甘受して貰うとしましょう」
 困った様に笑う少女を幻視する。陽光に透ける彼女の欠片。指に抓まれた金属片は、何も応える事は無い。
 不思議と、それで良いと思えた。最早、彼女に会う事は無いのだろう。

 ―――告げた言葉を覚えている。
 私は士郎と常に在る、と。

 潔い位にその身を退いた彼女の真意は、彼には後ろではなく前を向いていて欲しい、と。
 貴方の隣には大切な人が居るのですから、と。
 ……それでも消えない未練が高じて、私に白羽の矢をしつこく突き立て続けた。
 多分、それは嫉妬と羨望故なのだろう。私はサクラと共に在る。それは、士郎と共に在る事と同義だ。
 エミヤの家で、その住人に囲まれた生活を。
 自分がたった数日間しか得られなかったその願いを、存分に叶えている私に対しての八つ当たり。
「―――ええ。ならば私も、仕返しといきましょう」
 彼女を睨み、握り締め。
 士郎の内に眠る英霊。
 エミヤ士郎を模したヒトガタ、その人形の核に向かって小さく誓いの言葉を投げる。
「覚悟しておきなさい、セイバー」
 私の命に賭けて。


「貴女は、当分、寝ませない」
 微笑うサクラの傍らで。
 馬車馬の様に、長い永い時間を働かせてあげましょう。


 ……耳に届いた聞き慣れた声。妙に上擦るソプラノに、彼女を胸元へしまい込む。
 昨晩から待望の朝食が待っている。先刻から徐々に細まっている霊脈も、空腹に拍車を掛けていた。
 素知らぬ態で陰から離れる。縁側で視線を巡らす二人。こちらを見やって膨れるサクラと、苦笑混じりに宥める士郎。
 努めて自然に笑みを返して。

 ―――さて、一日の始まりです。

 落ちる日差しに目を細め。

 この一日が、願わくば。
 我侭な王様がまた、妬み愚痴りに訪れるくらい。
 幸せな日で、ある事を。

 願いを胸に。
 不肖の剣は、鞘達の下へゆっくりと歩きだした。































『いただきます』

 ……我ながら、情けない顔を浮かべているだろうとは思う。

「このお魚、美味しいですねー。焼き加減も絶品!流石先輩です」
「あ、ああ。ありがと」
「……ねえ、桜ちゃん」

 伝聞とは言え、食卓でのセイバーの振る舞いを耳にして呆れていたのが遠い昔の様に思える。

「お味噌もいつものじゃ無いですね。土蔵に寝かせてあったとっておきを使いました?」
「あ、ああ……」
「桜ちゃんってば」

 嚥下の音が、やけに大きく響く。聞こえはしないだろうかと危惧しながらも、湧き上がる唾を止められない。

「おひたしも歯応えが良いですねー。この火の通し方はなかなか真似出来ません」
「…………」
「ねーってばー」

 いつもながら、サクラの学習能力には恐れ入る。つい最近までは恐ろしく不安定だった霊脈は、今はそれこそ手綱を握っているかの様な正確さで私を縛っていた。

「煮物も。しっかりお芋の面取りがしてありますね。良くお味が滲みてます」
「………………」
「さーくーらーちゃーんー」

 ……必要以上に士郎の朝食の素晴らしさについて解説するサクラを、上目遣いで睨み遣る。

「なあに?ライダー」
 跳ね返る極上の笑顔に、最近漸く覚えてきた実感が確信に変わる。血は水よりも濃いとは、良くも言ったものだ、と。


 士郎。
 ここにあくまがいます。


「……なあ、桜」
 おずおずと、絡む視線を士郎が遮る。怯えと苦笑が半々と言った態で、正面に座る私を見やり、隣のサクラへと視線を移し。
「ライダーも反省してるみたいだし。もう許してやれって」
「……先輩は甘いです」
 一転膨れた仏頂面に、垂れた蜘蛛糸が断ち切られる。
「まま、桜ちゃん」
 曖昧な笑顔を浮かべながら、タイガが急須を捧げ持つ。サクラの湯呑みにお茶を注ぎながら、
「事情は良く知らないけどさー。ごはんはみんなで食べようよ」
 その方がおいしいよぅ、と続ける、太平楽な日向の笑顔に。
「―――もう。これじゃわたし一人悪者じゃ無いですか」
 溜息混じりに漏れた自覚の無い声に、敢えて反応はしないまま。
「……はい、分かりました!ライダー、食べよ」
 次にやったら許さないからね、と、言外の意を込めて投げられる赦しの言葉に。
「はい。すみませんでした、サクラ」
 素直に首を垂れ、整えていた正座を崩す。この先ずっと口を滑らさない自信など、それが無意識であれ意識しての事であれ皆無ではあったけど。

「―――ん。ライダー」

 言葉少なに、渡された茶碗を受け取る。困った時の頼みの綱、サクラにすら知られていない非常食。白く輝く御飯を差し出す、少年の顔はほのかに赤い。

「……ありがとう、ございます」

 無理も無い。士郎にしてみれば、セイバーとの逢引を手引きしてもらい―――睦事すらも、見られていたと言う自覚があるのだろうから。恐らく途中からはそれすら頭に無く、丸一夜を彼女と過ごした身だ。
 サクラとタイガが来たせいもあって、その事にはお互い触れてはいなかったけれど。
 ……正直、この二人が居てくれて助かったと言う思いは有る。夢魔の端くれともあろう者が、今更何を言っているのか。自覚は有れど、過剰な意識が止まらない。
 何しろ。士郎が私に向ける思いは、一部始終を見られた事の。―――つまり、傍観者への気恥ずかしさに過ぎないのだろうけれど。
 私にしてみれば。
 目の前の彼は、些か奇妙な形とは言え。肌を合わせた当の本人に違いない、訳で。
 今も全身至る所が、再び枯れた身体の奥が。
 ぎこちなく触れる指先と、熱く届いた奔流の、その感覚を強く覚えて―――

「……ごはんが食べたくないのなら、止めませんけど」

 黒く滲んだサクラの声に、忘我の淵より這い出て正す。士郎と共に、向かいの少女に視線を臥せた。
 テーブルに並ぶのは、いつもよりも五割増の品々が並ぶ、賑やかな朝食。
 鯵の開きに、玉子焼き。おひたし煮物に漬物各種。ややお味噌汁の量が少ない事以外は、文句の付け様が無い。
 横目で彼の姿を見やる。未だに頬に赤を散らせたままに、それでも笑顔で頷いてくれる、彼。

 ……そういえば士郎は下着を汚さなかったのでしょうか。

 下世話な懸念が頭を過ぎる。この場で聞く様な愚行は起こさないけれど。
 視線を前へ。慌てた様に顔を背ける彼、色鮮やかなその耳に、悪戯心が湧き上がる。
 ―――うん。
 これは是非とも、聞いてみましょう。
 彼の事だ。素直に答える筈も無い。けれど、彼の事だ。その反応だけで答えは分かるでしょうから。
 それに。些か奇妙な形ではあるが、お礼も言っておきたい。
 短い時間ではあったけれど、私の空腹を癒してくれた事と。

 ……彼女の想いに。ただ一時の間と言えど、応えてくれたその事に。

 昨夜士郎を『美味しく戴いた』セイバー。らしくなかったのは、確かだったけれど。
 それでも彼が本気で抗えば、彼女の夢は叶わなかったに違いないのだから―――


「――――――」
 ……うん。
 だから、お礼を言わないと。


 それは、まるで天啓の様に。
「ほらライダーさん、早く食べようよー」
 律儀に自分も箸を止めたまま、笑顔で急かすタイガに頷き。
「―――そうですね」
 視線を外す。余程に私の視線に重圧を感じていたのか、傍らの彼があからさまに安堵の息を吐いた。

 ―――シロウ、油断をしないで下さい!

 聞こえる筈の無い声を、素知らぬ顔で聞き流し。
「……はい、ライダー」
 苦笑混じりに箸を手渡すサクラに頷き。

 起こりかねない嵐に備え、微妙に彼から身を離し。

「今朝は自信作だからな。一杯食べてくれ」
 多分、これが彼なりの、私への御礼なのだろう。口に出しては言わなかった筈の、私の嗜好。舌の好みに合うものばかりが、私の前に並んでいる。
 目聡いと言うか、何と言うか。
 そういう所がサクラとの火種になるのだと、きっと彼は気付いてもいないのだろう。
「……ライダー?どうした」
「いえ。―――そうですね。しっかり味わわせて貰います」
 それでも何故か、指摘する気にはなれなかったけれど。
 気を取り直し、咳払いを一つ。

「―――それでは」

 三度の頷きを返し、いつもの様に。
 一日三度、身に染み付いた慣習を。
 この家に住む人々と、姿を遺す彼女へと。
 何より、私の傍らで。色々なものを味わわせ、護ってくれる少年に。
 深く巨きなこれまでの感謝と、これから永の願いを込めて。
 ……ついでに一つ。
 僅かばかりの悪戯と、私自身の感謝を混ぜて。
 湯気立つ椀と香る料理を、頂く前のその前に。
 伸ばした両の掌を、胸の手前で静かに合わせ。

 小さく、息を吸い込んだ。





























「ごちそうさまでした」




               <了>



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