8畳の居間に、4畳間、台所、トイレに風呂。
 押入が3つに、クローゼットが1つ。
 それが俺の城、別名警察官独身寮だ。
 まあ、ひとり用にしてはそれなりに広いが、古さは格別。
 つまるところは小汚い独身男の館となる。

 そんな俺の家に、ひとつ、場違いなまでに大きな水出しコーヒー機があった。






「時を刻む」

作:のち







 水出しコーヒーとは別名ダッチコーヒーと言われていて、オランダ人が考案
したと言われている。
 ポットにひとつ分作るのに、優に数時間かかるそれは、おそらくは貴族階級
か裕福な商人が考え出したのだろう。
 一滴、一滴と落ちる水滴が溜まっていく様は、どこか幻想的ですらある。
 またそのような風情だけでなく、味わいも格別で、ホットコーヒーのような
強い苦みが無く、柔らかい深みのある味を引き出す。

 ……というのは、全て橙子さんからの受け売り。
 この機械とともに、受け取った知識だ。
 あの人は時として、どうしてこんなに、と思わされるほどにいろんな知識を
さらけ出す。
 そんなところもまた、いいのだが。
 うむ、知的な美人、いいじゃないか。

 などと、ひとりでにやにやしていてもしょうがない。
 と言っても他にすることもない。
 橙子さんの説明の通り、このコーヒー機は非常に時間がかかる。
 一滴一滴、ぽつり、ぽつり、としたたり落ちるので、とても、もどかしい。
 普段インスタントしか飲まない身としてはなおさらだ。

 仕方ないので、新聞でも読むことにする。
 手に取った紙切れを、がさりと音を立てて広げる。
 大きな字で書いてある見出しを流し読みして、気になる記事を拾い読む。
 ぽたり、ぽたり。
 その音が耳について集中できない。
 溜息をついて、ばさりと新聞を畳み、床に放り投げる。

 今度はテレビだ。
 ドラマなどには興味はないが、今の時間ならニュースのひとつでもやってい
るだろう。
 リモコンのスイッチを入れると、ぱちりと音を立てて部屋にもうひとつの明
かりがつく。
 目的のものを探すために、チャンネルを連続で切り替えていくと、途切れ途
切れの声が耳に入ってくる。
 けれども、ぽつり、ぽつりという音は、耳の奥から聞こえてくる。
 やはりそれが気になって、テレビを見る気もしなくなる。
 仕方がないので、電源を落としてリモコンを机の上に置き、もう一度コーヒ
ー機に向き直す。

 ぽたり、ぽたりと水滴が落ちている。
 定期的に、間断なく、その水滴は落ちている。
 することが無くなってしまった俺は、椅子に座って、それを眺めている。
 まったく、こんなに無為に時間を過ごすのは、いつ以来だっけか。

 ぽつり、ぽつりと黒い水滴は落ちている。
 俺は別に小さい時から、警察官になろうとしていたわけじゃなかったんだよ
な。
 そうそう、高2までは、特に何になろうなんて、考えていた訳じゃなかった。
 そこら辺にいるクソガキとおんなじように、遊ぶことを考えていたっけ。

 ぽたり、ぽたりと、上から下へ、黒い水滴は落ちていく。
 警察に入ろうという動機は、最初はたいしたことじゃなくて、公務員になろ
うと思ったんだよなあ。
 普通に高校出て、大学にはなんとか潜り込んで、その頃にそれが一番楽そう
だと思ったんだ。
 入ってみたら、それは大きな間違いだって事が分かったんだけどな。

 ぽつり、ぽつりと、ひとつずつ、確実に黒い水滴は落ちていく。
 そうそう、大学4年の時に公務員試験を受けて、それでキャリアにはなれな
かったんだよ。
 それはそれで、全然かまわなかったし、そっちの方が気楽でいいとすら思っ
たんだったな。
 そんで、警察はいって、まあぼちぼちやろうとしていたんだけどなあ。
 まったく、こんな正義の心があったなんて、俺も知らなかったぜ。

 ぽたり、ぽたりと、黒い水滴は時を刻んでいく。
 別に、あの野郎を助けようなんて思っていたわけじゃなかったし、単にいつ
もの事件だと思って、普通にやろうとしていたんだけどなあ。
 いつの間にのめり込んでいて、関わりをもっちまって、一生懸命かけずり回
ったけか。
 結局、くたばっちまったけど。

 ぽつり、ぽつりと、黒い水滴は時を重ねていく。
 あの後、ほんの少しだけ落ち込んでいる時期があったんだよ。
 そう、あの先輩刑事にぶん殴られるまで、俺は無断欠勤を繰り返していたっ
け。
 良くもまあ、クビにならずに済んだもんだ。
 まあ、公務員だから、クビはないけどな。

 ぽたり、ぽたりと、黒い水滴は時を溜めていく。
 ちょっとだけ、ほんのちょっとだけど、あの後からは刑事という仕事を真面
目にやってやろうと思ったんだ。
 ほんのちょっとだけ。
 今でも、そう思ったことは忘れちゃいないさ。
 ああ、俺は刑事という仕事にそれなりの責任を持ってやっているのさ。

 いきなり、携帯が音楽を鳴らす。
 俺はすぐにそれを取って、手帳にボールペンを走らせながら、ひとつひとつ
丹念に用件を聞いた。
 それから携帯を切ってから、メモを確認する。
 まあ、良くある事件だが、いかなきゃならない。
 それが、俺の仕事だし、仕事をやらなかったら、メシが食えなくなるからな。

 慌ただしくスーツを着込んで、火の元を確認していると、時を刻む音が聞こ
えない。
 テーブルの上に目をやると、琥珀色の液体が、きっちり一杯ぶん、そこにあ
った。

 もったいないので、それを取って飲み干す。
 すらりとした濁りのない味わいと香りが、俺の喉を通っていく。
 こくり、こくりと俺の喉を潤していく。
 淀みなく、体に染み渡るコーヒーを味わっていく。
 全部一気に飲み干すと、俺はカップをテーブルに戻して、扉へと向かった。

 出ていく時に、にやりとひとつ笑う。
 まあ、こういうのも、たまにはいいもんだ。
 お陰で、ちょっとはやる気が出てきたぜ。

 さあて、お仕事といきますか。
 
  了








 2003年8月9日

 のち


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