通/覚/斬/瘤《Tu-Kaku-Zan-Ryu》

作:狂人(クルートー)

            




 もうこれ以上君に嘘をつかない。
   それが最後の悪足掻きでもいいから。
                    ――山崎まさよし「アドレナリン」




                    0/

 ――――先輩。わたしは、嗤っています。
 ――――先輩。誰かを殺してしまいたいと、嗤っています。
 ――――先輩。私は、貴方のようには笑えない。

「――――ふぅ」

 鏡に映る凶(マガ)笑いの己を見て、私は澱んだ息を吐き捨てる。
 今日もまた、夜が明ければ太陽が昇るのと同じように、私の胸に痛みがある。
 折れた背中、病んだ内臓が癒えても、この痛みだけは消えてはくれない。
 だから、私の中でどろどろと蠢く殺意も、居なくならない。
 一度は決着したはずの自分の中の暗黒は、ある一通の手紙によって墓の底から蘇った。

 “会いたい”とただ一言、それだけを書いた手紙が届いたのが数日前。
 整然とした字面で書かれた言葉はどこか遺書じみていて、意外すぎる差出人の名を知れ
ば、それは私にとってまさしく遺書だったのだけど。

 湊啓太。
 私を陵辱し、私が報復した男たちの、最後の生き残り。
 両儀式との殺し合いですっかり失念していた――見逃してあげていた――あの男。
 どういうつもりだろう。
 こんな手紙を寄越さなければ、忘れていてあげたのに。
 おかげで  ずきずきと  ムネが  疼く。
 身体の奥で瘤が膿み爛れるように、じわじわと染みるような痛みがある。
 彼を思い出したとともに、忘れていた痛みまでが戻ってきてしまった。
 ……うんざりする。
 あの男は、一体どれだけ私を犯せば気が済むんだろう。

 でも、まあいい。
 痛みの再来は、忘れていた復讐を終わらせなさいということ。
 まだすべては終わっていない。
 だから、まだ私の中に痛みが残っているんだ。
 ――――私の中の傷が、決着を望んでいる。

「――――だから」

 だからもう一度、あと一度だけ人を殺めよう。
 そうすれば、きっとこの胸の濁りも消える。
 ……ごめんなさい、先輩。
 藤乃は、やっぱり貴方に顔向けができそうにありません。

 逃げるように、鏡から顔を背けて部屋を出る。
 最後に映った自分(ワタシ)も、やっぱり嗤っていた。



                   1/

 仄暗い店内を、窓から差し込む陽射しが爛々と照らす。
 でも、私の闇が晴れることはない。
 きっとこんな色をしているのかと思いながら、半分ほど減ったコーヒーにまた口をつけ
る。
 結局、他に心当たりもないから、私は待ち合わせにこの喫茶店を選んだ。
 親しい友人である黒桐鮮花との憩いを愉しむ場でもあるこのアーネンエルベを、湊啓太
の足に踏ませるのは抵抗があったが、それも一時のことだ。
 ――――彼は、今日で最後なのだから。
 手紙に添えてあった携帯電話の番号を押して、短く要件だけ告げた。
 彼の反応を確かめる暇もなかったけれど、“わかった”と了解の意だけは取り付けた。

 ……そう、私は湊啓太に電話をかけた。
 夜毎に男達を捜し歩いたあの頃のように、電話をかけた。
 今日は誰を殺した、もうすぐ貴方の番だと、何度も何度も囁きかけた。
 あの時の、彼の声。
 震えて、崩れて、噛み合わない歯がかちかちと震えていた。
 ――――それを、愉快だと思った。
 滑稽なくらいに怯えている湊啓太を、彼から染み出す恐怖を、心地好いと思った。
 だって、私にはそれすらも無かったのだから。
 惨めな怯えさえ、狂おしいくらいに羨ましかった。
 彼が私の身体を犯したように、私は彼の心を侵した。
 それは、私にとってのささやかな復讐だったのだけど。
 失敗した。
 彼が私の声にどんな反応をしたのか、確かめておけばよかった。

「ん、っ……」

 昏い衝動に、また胸がざわざわと疼きだす。
 痛みなんてないのに。私は、確かに傷んでいる。
 でも大丈夫。もうすぐ私は救われる。
 最後の後始末をして、この痛みから解放される。

 ――――ああ。早く、来てください。

 時計の針は午前十時三十分。
 約束は十一時だから、まだ三十分の空白がある。
 その間に狂ってしまいそうだ。
 渇きを癒すように、残り少ない闇色の液体を口に運んだ。

 カップの底が見えて、唇を離そうとした時、背中に静かな声がかけられた。

「前、空いてるか」

 振り向くまでもなく、声の主は分かりきっていたから、小さく頷きを返す。 
 肩の脇を影が通り過ぎて、私の正面に音もなく腰掛けた。
 ――――さあ、最後の晩餐をしよう。
 私は、まっすぐにユダの顔を見上げる。

「え――――?」

 そこには、私が見たこともない湊啓太がいた。
 呆気に取られた私に苦笑するその顔は紛れもなく彼だが、ところどころが歪に
変容している。
 真新しい擦り傷や裂傷、包帯に覆われた左腕、そして――――左眼に、眼帯。
 まるで死地から帰ってきた兵隊のような、ぼろぼろに傷ついた姿。
 血の気の退いた肌は、まるで別人のようだ。
 一体、なにが。

「あなた――――」
「これか。ちょっと、事故った」

 すっかり動転している私を置き去りに、彼は落ち着いた声で気軽にそう言った。
 きっとぽかんと口を開けたままの私を、右だけ残った瞳がじっと見つめている。
 そして、伸ばした手で私の小脇からするりと伝票を抜き取ると、湊啓太は傷ついた姿か
らは意外なくらいの身軽さで腰を上げる。
 まだわけが分からない。

「出ないか。連れていきたい場所がある」

 短く一瞥して、湊啓太は会計を済ませにカウンターへと足早に歩いていく。
 私はといえば、追いかける意思はあったのだけど、ほんの何秒か放心してしまっていた。
 だって、
 促すというよりは願うような彼の声は、まるで先輩みたいに優しかったから。



                    2/

 彼の背中を追って歩く間、あの汚れた酒場へと向かう自分を思い出して吐き気がした。
 どこへ向かっているのかわからないけれど、私が見失わない程度の緩やかな足取りで
導くように進んでいく。
 連れていきたい場所ってどこだろう。
 彼と私が知る共通の場所なんて、あの忌々しいバーくらいしかないのに。
 でも、私達は次第に街を離れていく。
 バーは繁華の真っ只中、ここからではまったくの反対側だ。
 外れに近付くたび、昼間だというのに少しずつ人影も疎らになって、孤独を感じる。
 やがて辺りに人気もなくなった頃、私達は港の近くまで来ていた。

「あ――――」

 湊啓太は不意にアスファルトで舗装された道路から脇へ抜けて、植え込みに囲まれた中
へ踏み込んでいく。
 私も小走りに後を追うと、錆びた看板に公園、と記してあった。
 上に名前がついていたようだけど、腐敗が酷くて読み取れなかった。
 豊かに茂った木々の枝を避けて奥に進んでいくと、急に視界が開ける。
 ――――けれど、心は逆に閉塞した。

 そこは港に程近い寂れた公園で、
 整然と並んだ植木の間から、私が捻じ曲げたブロードブリッジの死骸が嫌味なほどよく
見えていた。
 ……思い出してしまった。
 両儀式と、死に飢えた浅上藤乃が命を削り合った、あの血みどろの夜を。

「――――く、ッ……」

 血の匂い。喉を駆け上がる、粘りと灼熱。何もかもを回帰する。
 きもちが、わるい。
 痛い。胸が、砕けてしまいそうに痛い、痛い、痛い痛い。
 なんで。
 よりにもよって、どうしてこの場所に私を連れてきたの?

「この辺りも住宅公園が一杯出来てさ、こういう古い所は危ないからって用済みになっち
まった。確かに危険は危険だろうけど、こんな見晴らしのいい公園なんてそうないと思う
んだけどな」

 聞いてない。そんなことは、聞いていない。
 見晴らしが良いなんて、酷い嘘。
 私は、もう二度とあの橋なんて見たくはないのに。
 痛い。胸が痛くて、泣いてしまいそうになる。
 ――――こんなに痛いなら。
 私はまた螺旋を描けるかもしれない。
 家を出る時は少し不安だったけれど、この場所に来て痛みは顕在化した。
 今なら、捩れそうな気がする。
 ああ、私はちゃんと復讐できそうだ。
 陰鬱な喜びに唇が弛みかけて、酷く惨めな気分になった。
 そして、歪んだ橋をはるか向こうに、私の罪を背にして湊啓太は振り返る。
 私も、身体の内側で暴れる痛みを押し殺して立ち止まった。
 彼は、どこか遠くへ投げかけるように――けれど、確かに私に向かって、

「――――猫を、助けたんだ」

 彼は、突然そんなことを言った。

「猫……?」
「事故ったって言ったろ。いくら俺が馬鹿だって好きで車に突っ込みはしないさ。
 こいつはその時の名残って奴」

 言って、湊啓太は左眼を隠す眼帯を取り除く。
 吸い込まれるように、その奥に目を凝らす。

「――――――」

 眼球は在るべき場所に存在している。
 しかし、ソレは既に自らの光を完全に失っていた。
 私にも、彼の左眼が視力を失っていることは容易く見て取れた。

「黒い――――チビの猫だった。そいつがあんまり黒くて、なんでか思い出したんだ。
 おまえの服も、髪も、そんな色をしてたな――ってさ。
 気がついたら走り出してて、何かに触ったかと思ったら横殴りのすげえパンチが来て、
そのまま一月ほどおねんねしてた。
 おかげで、その猫がどうなかったかまでは知らないけどな」
「……猫が私に似ていたから助けた、と?」

 呆れた。そんな法螺話をするためにこんな場所へ呼んだのだろうか。
 命乞いにしてももっと上手なやり方があるだろうに。

「別に似ちゃいなかったよ。ただ、そいつを見ておまえを思い出したのは確かだ。
 柄にもなく助けようなんて思ったのは、脛に傷持つ身だったからだ。
 自分で滅茶苦茶にした女がトラックに撥ねられそうになったら、俺だって少しは後ろめ
たい気持ちにもなったんだ」
「……虫のいい話。私、聞きたくありません」

 緊張も、暗い気持ちも、綯い交ぜにして白けさせられた。
 まだ螺旋を作れるほどではないけれど、私は敵意を乗せて湊啓太を視圧する。
 彼は目を逸らさなかった。
 代わりに一歩踏み出して、光と影の入り混じった双眸で私を捉える。

「分かってる。聞いてほしいのはこの先なんだ。
 あと少しだけ付き合ってくれたら、そのあとはお前の好きにしてくれていい。
 今日は、全部終わらせるつもりでここに来た」

 言葉には、何か目に見えない強さが感じられた。
 私が拒絶を忘れるほどに、
 私が痛みを忘れるほどに、
 湊啓太の声には、私へと訴えかける強力な意思が込められていた。
 
 ……すべてを終わらせるために来た、とはどういうことだろう。
 それに、私の好きにしてもいい、と言った。
 私が彼に抱く感情は憎しみであり、望むものはひとつしかない。
 誰よりも、彼自身がそれを知っているはずだ。
 私が望みを叶える時は、即ち湊啓太が死を迎える瞬間(トキ)であることを。
 だというのに――――理解しながら、彼はここに来たのか。
 “終わらせる”ために?

「――――聞かせて、ください」

 彼がなにを考えているかは分からない。
 でも、もう少し時間を与えても良いだろう。
 どの道、痛みの薄らいだ今の私に彼は殺せない。
 すべてを明かした後でもう一度考えてみればいい。
 見せてもらおう。
 私を犯した男性が導いた、一つの結末のカタチを。

「ありがとう」

 心からの感謝を笑顔にして、彼は深く頭を下げた。
 そんな態度は予想していなかった。
 この世で最低の暴力を与えられてきた相手に、突然誠意を見せられても、どうやって答
えたら良いのかなんて分からない。
 たじろぐ姿は、下を向いたままの頭に隠されて見られはしなかったけれど。
 溢れ出す違和感――居心地の悪さ――に、私は冷静さを失いかけていた。

「猫を助けに道路へ飛び出して、そこで一旦俺の記憶は途切れてる。
 繋がったのはつい一月ほど前さ。いわゆる意識不明って奴で、ずっと病院のベッドで眠
りこけてたらしい。
 ……で。目は覚めたんだけど、半分しかなかった」

 輝くことを止めた眼球に指先で触れて、湊啓太は苦笑する。

「大型トラックと正面衝突して、吹っ飛ばされながらあちこちぶつけたらしいんだ。
 らしいってのは、俺は早々と気絶しちまってそんなのを感じてる暇もなかったからさ。
 結局やられたのは左眼の神経と――――脊髄だ」

 脊髄。その場所が傷つく意味は、私もよく知っている。
 あの重苦しい閉塞感。不自由さ。おさまらない吐き気。
 鉛のような重い足を踏み出すたび、
 地面に吐き出す鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱。
 人間にとって重要なソレを傷つけられた私は、
 人とはさかしまに忘れていたものを思い出した。
 即ち、感じることのできなかった痛みを。
 でも、湊啓太は私とは違う。
 羨ましい、妬ましい、健やかな身体を持つ人間だ。
 ――――それじゃ、
 そんな健康な脊髄がズタズタに傷つけられたら、彼はどうなってしまうのだろう?
 私は彼とさかしま。
 彼は私とさかしま。
 だから――――

「おまえの気持ちが、少しだけ分かった気がするよ。
 何かを感じられないってことは――――間違っても有利なんかじゃない。
 こんなに……ぞっとするくらい怖いことだったんだ」

 言って、湊啓太は。
 死した左の眼窩に、自らの指を槍のように進ませた。
 その光景にぴくりと身を竦ませたのは私のほうで、彼は震えるどころか身動ぎ一つもし
ない。

「――――時々な、痛みを感じられなくなっちまったんだ。
 場所が脊髄だけにってわけさ。
 目だけじゃない。耳を抓っても、ナイフで指を斬っても、舌を噛んでも、全部空振りだ。
 血は流れるし、触ればそこはちゃんと裂けてる。
 でも、どうしてもそれが痛いって分からないんだ」

 ――――ああ。
 まさかと思ったけれど、そういうこと。
 彼は私になったんだ。
 私と同じ、何も感じられない呪わしい身体になったんだ。

「わけが分からなかった。感覚がまるでないんだから、現実感なんてあるはずもなかった。
 怖くて、むかついて、意味もなく怒って……でも結局は怖くて。
 だんだん一人でしかいられなくなってさ、ぼんやりしてるうちにふと思いついたんだ。
 もしかしたら、浅上藤乃――――おまえも、こうだったんじゃないかって」

 紅い斑の混じった涙が、彼の左眼から伝う。

「――――藤乃、今ここで俺を殺せ。おまえの復讐を、終わらせろ」

 湊啓太は、凛と揺ぎ無い声で言った。
 なんてことだろう。
 私と彼の望みが、今この瞬間に一つに重なった。



                   3/

「……なにを、考えているんですか」

 ようやく紡いだのはそんな弱々しい詰問だった。
 何時の間にか、胸にどっしりと構えていた殺意を見失っている。
 湊啓太。
 彼のすることも、口にする言葉も、考えていることも。
 何もかも分からなくて、心を乱されてしまう。

「考えることは考え尽くした。決めることは決めた。だから、今日ここに居る。
 ……人が死ぬ時にさ、走馬灯ってのを見るっていうだろ。
 俺は見られなかった。情けないことになっちまったけど、結局今も生きてる。
 だから――――ひとりきりの時、ずっと考えてた。
 死ななかった分だけ、思い出したおまえのことをずっと考えてた」

 湊啓太に残された隻眼は、私が知るよりもずっと鋭く活きていた。
 一つを失う代わりに、彼はその目に死を垣間見てきたのか。
 誰かに一方通行に与えるだけの私とは違う死のカタチを。

「おまえは、幸せになれてない奴だったんだ。
 もっと幸せになっていいのに、不自由で不器用だからその方法が分からなかった。
 それでも自分なりに平和にやってたんだろ?
 そいつを、俺たちが跡形もなくぶち壊したんだ」
「……ええ。痛みを感じられなくたって、私を安らげてくれるものは沢山あった。
 友達、学校、静かな時間。触れているだけで満たされる気持ちがした。
 ――――貴方たちが、土足で上がり込んでくるまでは」

 声が、震える。
 何事もなく鮮花や級友たちと過ごしていた日々が思い出されて。
 あの日、彼等に捕らわれ闇に落とされなければ、きっと今日は違っていただろうと夢想
して。

「そうだ。おまえよりずっと自由な俺たちが、ふらついてるおまえを踏み躙った。
 感覚のなくなっちまった身体でその意味をずっと考えたよ。
 それは、何かを感じることができる奴なら、絶対にやっちゃいけないことだったんだ。
 おまえと同じ身体になって、俺はようやく自分がそうされたら――って考えられたのさ。
 おまえはあの夜からずっと復讐してる。復讐しなきゃいけなくなったんだ。
 そうさせたのは俺たちだよ。
 ――――俺なりに頭を使って出した結論だ。
 おまえ、俺達に捕まったあの日から一度だって本気で笑ってないだろ。
 先輩達はもう居ない。俺だけが残って――まだ終わってないから、おまえは笑おうとす
ることもできないでいる。
 だったら、せめて笑えるようにしてやらなきゃ嘘だろ。
 だから、おまえは俺を殺していいんだ」

 震えも迷いもなく、湊啓太はすべての言葉を澄んだ響きで私に捧げた。
 自分を殺してもいい。
 その、絶望的で後のない誓いを、怖れることなく切り結んだ。
 ――――終わらせるとは、そういう意味か。

「っ――――」

 けれど、彼の死を渇望していたはずの私、彼を殺しにここへ来たはずの私は、供物のよ
うに捧げられた彼の命を前に、立ち竦んでしまう。
 怖い。身体を血に染めるのが怖いと、ここまで来て尻込みしている。
 ここに来て分からなくなってしまった。

 湊啓太の死が目の前にある。
 手を伸ばせば、私はそのトマトを握り潰せる。
 ……でも、さっきからずっと頭に引っかかっているコトバが。

 “殺してもいい”

 私の渇望、その充足を許可するはずの言葉が、私を踏み止まらせる。
 ――――どうして?
 コロシテモイイのに、私は殺せずにいる。
 こんなのは変。辻褄が合っていない。
 ――――どうしたらいい?
 なにをすればこの不条理から抜け出せるの?
 誰か、教えて。教えてください――――――先輩。

「せん――――ぱい」

 先輩。あの人なら、この迷路の抜け道を教えてくれるだろうか。
 あの人はいつだって優しいから。
 そう、一方的に見知って――覚えて――いた私を、訝ることもなく休ませてくれたいつ
かの夜のように。

「あ、っ……」

 小さな言葉を思い出した。
 私が紡いだ、今の私とは正反対のココロの悲鳴を。

 そうか。
 あの言葉が、今、私を意固地に押しとどめていたんだ。
 沢山の血を浴びてしまった今でも、それを否定せずにいたいんだ。

 “殺されて仕方のない人なんて、いません”

 先輩の前で、私は確かにそう叫んだんだから。
 ――――でも、今この瞬間に、その言葉はなんて空しい。
 復讐の中で、私は七つもの命を奪ってしまった。
 彼等は私を汚した――殺されても仕方のないことをしたと、怒りのままに終わらせた。
 私は、自分で自分の祈りを捻じ切ってしまったんだ。
 身体から、根こそぎに力が抜け落ちていく。
 魂まで空に吸い込まれていくような錯覚。
 湊啓太(カレ)は私という人間を犯したけれど、
 浅上藤乃(ワタシ)は人間の命に飽き足らず、自らの魂までも犯した。
 哀れに踊っていたのは、一体どちらなんだろう。

 “殺されて仕方のない人なんて、いません”

 先輩の前でそう呟いた私が、自ら欲望して人を殺してきた。
 あれは、詭弁? いいえ、本心。
 けれど、私はどこかで間違えてしまった。
 間違えたまま、今日まで歩きつづけてきた。
 知らない道。先の見えない道。終わりなんて無い道。
 私は、まるで――――

「おまえは、迷子だったんだ」

 沈黙を破ったのは、湊啓太の声だった。
 私の夢想を、彼が言葉にした。

「左眼を失って、身体が不自由になって……俺は、はじめてわかった。
 自分を触って突付いてみて痛くも痒くもないと、無茶苦茶不安になった。
 石かなんかみたいに、自分に触ってるって実感がなかった。
 実感がないから、自分がここにいるんだって時々わからなくなっちまう。
 自分の居場所も、自分そのものも見失って迷子になったんだ。
 狂いそうだったよ。見えないのは聞かされてたけど、目ン玉に爪先を押し込んでみても
全然痛くない。普段だったら叫びだしてるところなのにさ。
 初めての日は、胃の中を全部吐いた。
 でもな――――おまえは、ずっとそんな中で生きてきたんだ」

 残った一つだけの目で、彼は深い感情を込めて私を見ている。
 彼が宿す心の色は分からないけれど、不思議と不快も不安もなかった。

「おまえは俺みたいに怖がらなかった。犯されても声さえ上げなかった。
 でも、耐えてたんじゃない。
 おまえは、それが辛いことだってさえ感じられなかったんだ。
 迷子になってとぼとぼ歩いてても、誰かに助けを求めたりしなかった。
 ――――声を上げることを知らなかったから」

 凍えるようにわなわなと肩を震わせて、湊啓太は淡々と言葉を紡ぐ。
 段々と、彼が含んでいる感情が表に染み出してくる。
 際限なく強まっていく声に、私は射竦められた動物のように足を動かせなかった。
 瞳だけが、魔法にかかったように隻眼の彼を見つめている。

「そいつを知った時、俺は本当におまえを犯してたんだなって思ったよ。
 単なるレイプじゃない、それよりもっと反吐が出るようなやり方で傷つけてたんだ。
 あの時、お前が悲鳴の一つも上げてくれりゃ、もっと救われてたんだろうな。
 でも、おまえは悲鳴を上げられなかった。上げられないおまえを、面白がって犯した。
 ガキだったな。その時は自分がこんな身体になるなんて思ってもいなかったし、
 ……そんな身体で襲われる奴の気持ちなんざこれっぽっちも考えなかった。
 痛がれるだけ俺達は解かり易い、俺達はマシなんだなんて思わなかった。
 解からないことがこんなに怖いなんて、思わなかったんだ!」

 ……彼は、泣いていた。
 私に憚ることなく、むしろぶつけるように感情を爆発させていた。
 紅い涙ではなく、ヒトが表すことのできる最も熱い雫で、しとどに顔を濡らしていた。
 降り注ぐ意思はあまりにも力強くて、打ちのめされた私は、息をするのも忘れかけた。
 そして、湊啓太は清々しささえ帯びた声で言った。

「その時にさ、先輩たちにゃ悪いけど、ああ、俺達殺されても仕方ないかって、
 驚くほど思えちまったんだよ。
 そりゃ死ぬのは怖いけど、おまえから逃げ切ろうって気持ちはどこかに消えた。
 だから、気持ちに整理をつけてこうして会いに来れた」
「――――私に、殺されに来たんですか」
「少なくとも、おまえには俺を滅茶苦茶にする権利があるよ。
 女にしてみりゃ殺された並みのことをしちまったわけだからな。
 ……すまなかった。とっくに手遅れだろうけど、謝らせてほしい。
 ここに来たのは、半分そのためだから」
「啓――太、さん」

 ここに来て初めて、私は彼をそう呼んだ。
 目の前に立つひとが、驚くくらいに眩しく見えたから。
 憎しみが視界を濁らせていたんだろうか。
 今、私が見ている湊啓太には、傷ついていても内側にある芯を失っていない凛々しさが
あった。

 両儀式曰く、私――浅上藤乃は殺人を悦しんでいるという。
 復讐ではなく殺人を、だ。
 だとすれば、ここで彼を殺せば復讐は終わりを告げるかもしれない。
 けれど、殺人は終わらない。
 浅上藤乃の渇望がヒトゴロシであるのなら、その標的が湊啓太に限定される理由は無いから。
 私はまた誰かを殺すだろう。
 癒えない痛みに浮かされて殺すだろう。
 ……そんな私(ジブン)は、嫌だ。
 そんなことがしたくて、今日まで生き延びたわけじゃない。
 そんなことをするために、生まれてきたわけじゃない。
 そんな闇色の生き方を、認めたくない。

 ……私は、何がしたかったのだろう。
      何になりたかったのだろう。

 夢見ていた形。
 母のような麗しい貞女に。父の誇りとなるような優秀な人間に。
 平凡でもいい――いや、誰とも確執無く生きていけるように、平凡でこそありたかった。
 でも、私は相変わらず胸に死を飼っている。
 じわりじわりと未練がましく消えない、殺意のかさぶたを病んでいる。

 彼――湊啓太は、死と直面してどこか変わった。
 少なくとも、あの薄暗い酒場で嬉々として私を犯していた頃とは違う。
 私が彼の陵辱を許せるかは別として、今の彼がそれを悔いているのは理解できる。
 死が彼を変えたのか。
 けれど、死に直面し、死を増殖させながら生きてきた私は、何も変わっていない。
 どうして?
 私も変わることができたなら、この胸に残留しつづける痛みも消せるかもしれないのに。

 復讐は終わるといったけれど、あれは間違いだ。
 私を犯した彼を侵して、死で侵して一つの終わり。
 けれど、その先でまた誰かが私を憎んで、私を殺せば誰かがその人を憎む。
 全部繋がっている。復讐だって永遠なんだ。
 永遠に続く、痛みだ。
 ――――こんなコトを続けていたって、私の中の痛みはなくならない。
 変わりたい。私も、彼のように変わりたい。

 湊啓太は、死を受け容れに――私の復讐を終わらせに――ここへ来た。
 それが彼なりの結論であり、贖罪なんだ。
 でも、私はどうなのだろう。
 彼を殺して、私は本当に終われるんだろうか。
 それで救われるんだろうか。
 この胸の痛みは、消えるのだろうか。

「私、は――――」

 ……もう、わかっているはず。
 いくら血を浴びて、悲鳴に耳を浸しても、私は心から笑うことなんてできない。
 私は人殺しなんてしたくない。誰かを傷つけるのも嫌だ。
 でも、ソレをする時、私は痛みの中で笑っている。
 ぞっとするような壊れた笑顔で、笑っている。
 そんな笑顔は嫌いだ。
 そんな風に笑う自分も。人を殺すことで快楽する自分も。
 誰かを殺せと掻き立てるための痛みなら、そんなものは要らない。
 痛みを捨ててでも、私は誰かと安らいで生きたい。
 変わりたい。
 血を好み、殺しに魅入られた死神のような生き方を捨ててしまいたい。
 この胸に残る痛みとともに。
 彼と同じように、罪深い過去との決着をつけなくてはならない。
 私達は、互いに互いを侵し合ったのだから。

「――――藤乃?」

 彼の声が、何処から聞こえてきたのか分からない。
 記憶は過去へ。
 同じ名を呼ばれる。けれど、そこは暗く生臭い地の底で。

「――――ぁ、ッ……」

 笑い声。下卑た言葉。乱暴に剥ぎ取られる服。
 痛みなどないままに、誰かの体重がのしかかる。
 蛇のように蠢く舌。玩具でも扱うように無作法な、幾つもの手。
 穢れる。どこもかしこも、遠慮なんてなしに弄ばれる。
 吐き気。吐き気がする。
 終わりのない陵辱。けれどソレを陵辱と感覚できない矛盾が胃腑をざわつかせる。
 キモチワルイ――――自分。彼等。世界。
 浅上藤乃という女のカタチを侵略(オカ)される、侵入(オカ)される。
 その中に湊啓太もいる。
 私はあの闇の中で目覚めて、
 彼はあの闇の中から逃げ出した。
 そして、ようやく光の下に辿り着いたんだ。
 でも、私はまだあの闇の中。
 あの暗黒で生まれた疼くような痛みを引き摺っている。

 私は彼等の多くを殺すことで復讐した。
 けれど、それは正しい方法だったんだろうか。
 ……正しい復讐なんてない。ソレは、ただ永遠に憎悪を連鎖していくだけの地獄だ。
 彼等の家族を憎悪させ、私からも憎悪を絶やさない。
 きっと彼を殺しても、ふとしたきっかけでまた胸は痛むだろう。
 人殺しの正当性なんてどこにもない。
 奪った人間、奪い返す人間。どちらも正しくなんてない。
 背徳は傷になり、誰もが痛みつづける。
 どうして分からなかったのか。
 復讐なんて、こんなに馬鹿馬鹿しく非生産的だったんだ。

 湊啓太を罪人というなら、復讐という建前で幾つもの命を弄んだ私も同じだ。
 私にも大きな咎がある。彼は償おうとしている。
 ――――私も、忘れた振りをしているわけにはいかない。

 永遠に出口には辿り着けない――家には帰れない――悲しい迷子。
 でも、そこから抜け出すのは簡単だって、先輩は教えてくれた。
 悲しみも、不安も、怖れも、迷いも。
 すべての痛みは、耐えるものじゃなく、誰かに訴えるものなんだと教えてくれたから。

「わたしは――――私を、変えたい」

 もう、闇の底で痛みに震えるのは終わりにしよう。
 彼を許せるかどうかは、まだわからない。
 でも、彼を殺したって何も救われないんだと気付くことはできた。
 死んでいい人なんていないと言ったあの頃のキモチを、思い出せた。
 だから。

 ――――私は、彼を許してみようと思う。
 許すことの不安を、受け容れてみようと思う。
 その中で、血塗られた私自身を変えていくんだ。
 犯してしまった罪、奪ってしまった命に贖うんだ。
 誰かの血に濡れながら笑ったりしないように。
 不器用に、意地っ張りに、痛みを我慢しないように。
 そしていつか、心の底から笑えるように、生まれ変わる。
 そう――――傷(イタミ)は、癒すことのできるものだから。

「死んでいい人なんてどこにもいない。誰かを殺してもいい人も――絶対に、いない。
 だから、私は貴方を殺しません」

 彼と、自分と。
 二人分に言い聞かせる呪文のように、私ははっきりと口にする。
 驚きに引き攣った顔で、彼が私を見上げる。

「藤、乃――――」
「……でも、私、不器用です。今すぐにすべてを過去にすることなんてできない。
 だから、一つだけ確かめさせてください」

 強い緊張を走らせながらも、彼は迷わなかった。
 大きく喉を鳴らして、まっすぐに私を見たまま頷く。

「俺が証明できることなら、なんでもする」

 私も頷いて、立尽くす彼に一歩踏み出す。
 がんばろう。
 どっちが欠けても駄目。
 同じ場所で間違えてしまった私達は、これ以上ここで立ち止まっていられない。
 さあ、勇気を出して――――最初の一歩を。

「貴方の目を見せてください。私、笑ってみます。一生懸命笑ってみます。
 ここには鏡がないから、貴方が教えてください。
 もし、瞳に映った私がちゃんと笑えていたなら――――私、きっと許せると思います」

 ソレは願い。ソレは確信。ソレは、革新。
 私を変えるために、私が踏み出す第一歩。
 あなたは、見届けてください。  ――――私を犯した人。
 あなたが、見届けさせてください。――――私が犯した人。
 言葉はない。うっとりするほどの静寂。
 彼は、一つきりの瞳に私を映している。
 
 そして、私は私に囁きかける。

 ――――さあ、笑ってごらん。
 ――――自分はこんなに生きてるんだってキモチを、世界に放り投げてごらん。

 そうだ。生きているんだって感じる方法は、痛みだけじゃない。
 笑って、怒って、泣いて、喜んで。
 こんなにも沢山のカタチで、私は生きている。
 それは、痛みを与え受けるよりも、ずっと嬉しい方法。
 痛まなければ、生きているとわからないなんて不安は、空に溶けて消えていく。

 ――――ああ、痛みが。
 身体の内側にずっと瘤のように張り付いていた最後の痛みが、消えていく。
 革新の決意は刃のように清く鋭く、私の闇を斬り捨てた。
 もう怖くはない。
 遠いようで近い未来、誰かに触れる喜び、触れられる喜びを取り戻したとしても、
私は迷わない。流行り病のような黒い殺意に支配されることはない。
 私は覚醒した。今、新しい私と通じたんだ。

 風にさらわれる綿毛のような、自由で心地好い気分。
 祝福に包まれて、私は彼が映す自分と向かい合う。
 深く澄んだ水晶の中、
 浅上藤乃は、優しく穏やかな顔で、赤緑のラセンをほころばせていた。


 ――――先輩。わたしは、笑っています。


                           【Cutie Baby Stray Cat,
                             Where Is Your Home?】


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