とおのをつぐもの

作:阿羅本 景

 
            



「兄さん?考えたことがありますか?」

 遠野秋葉は微かに微笑んでそう尋ねる。長い黒髪が垂らし、その人形のよう
に美しくも、どこか凛々しいところのある美貌がふっと柔らかくなり、硬い冬
の蕾が春に萌え出してきたかのような感じを受ける。
 ティーソーサーを手に取り、静かに紅茶を飲みながらもその口元が笑みを形
作っていた。

 夕食後の団欒の場で、秋葉の前に座る志貴は顔を上げて妹の問いに首をかし
げる。
 琥珀の入れてくれた紅茶にはまだ手を着けていないが、そこから立ち上る甘
くも感じる香気を楽しんでいた。しばしの沈黙の後に発せられた秋葉の言葉に、
志貴は考える。

 ――何を考えるのだろうか?と

 志貴の感じる秋葉というのは、話をする相手が自分並みにモノが分かってい
るのが当然で、それが分からないと相手の愚昧さに腹を立てる質の人間だった。
そして愚昧魯鈍と罵られるもっぱらの相手は志貴であった――だが、それも一
種の親密の情を示す態度であるとも。

 そんなことを感じながらも志貴は何を問われたのかを考えるが、前後の会話
はないし、今日昨日に交わされた内容でも懸案課題はない。二人から離れて控
える翡翠はもちろん何も知らないだろうし、厨房に居る琥珀を呼んで尋ねるの
もなにか気が引けた。

 つまりは――

「…………御免、何を?」

 ――わからない

 ということであった。ただ、今回は誰にこの状況で聞いても分からないと答
えるだろうし、と志貴の中では言い返す文句が渦巻いていた。ただ、口にして
も秋葉相手に勝てるものではないのだが。

 秋葉は聞き返された言葉に、眉をつり上げ音高くティーカップをテーブルに
叩きつけ、腕を組み胸を反らし傲然と見下ろし帝王が下僕に宣告するように雷
鳴がごとき怒号を発した――わけではなかった。ただ、そんな風に普段の癖で
志貴は身構えていただけである。

 秋葉は伏せていた目線をそっと上げ、明らかに身構えている兄を見つめる。
 その瞳に浮かぶ光はあくまでも穏やかであり、その底になにかうっすらと酔
っているような、そんな感情の動きを感じさせる。秋葉の姿はあくまでも優美
であった。

 秋葉はカップを置くと、両手を握り合わせて膝の上に置いた。
 組み合わされた指と綺麗な形の爪に、志貴が見とれていると、静かな声が流
れる。

「ええ、兄さんは想像もしたことがないかもしれません。一般に世の殿方はこ
のようなことを考えないとも言いますから……そう、私が考えていたのは」

 秋葉はほぅ、とため息を吐く。
 それはひどく悩ましげで艶っぽく、ぞくり、と志貴の背筋を興奮が走り抜け
るほどの。
 だが、秋葉が口にしたのは――

「兄さんと私の子供が、どんなに可愛いだろうって考えるだけで」

 ――――

 志貴はその言葉を聞いた瞬間に、何をすればいいのか分からなかった。
 いや、耳にした言葉を理解しようとする頭の動きすら放棄するというか、拒
否したいという衝動じみた思いすら己の身のうちを走り抜けた。
 秋葉と志貴の息子が、どんなに可愛いだろうか――いくつか重要なステップ
を踏み越した、見事に女性らしく飛躍した発想だな、と他人事の様にも感じる。
だが、それは志貴の感情のごく一部であり、大部分は真っ白になって動作停止
状態になっていた。

 まるで穴が空いたかのように、ぽかんとした志貴の顔。
 その顔を秋葉はうっとりとした、陶酔の瞳で秋葉は眺めている。膝の上に置
かれた手はもじもじと動き、まるでそれは自分の恋を告白した少女のようにな
気恥ずかしげで。

 志貴はどれくらい時間が経ったのか分からなくなっていたが、とりあえず咳
払いをした。コンマ数秒か数十分か分からないが、兎に角なにか動かないと思
考停止の虚無の流砂の中に飲み込まれていく恐怖に駆られたかのように。

「あー、あー、あー」

 まるで声帯の動作チェックをするような志貴の、平坦な声が響く。
 そして志貴の答えを今か今かと期待して待ちかまえる秋葉の前で、志貴は目
をきょろきょろと居間の中を漂わせて、手を慌ただしげに顎や耳、鼻にやった
かと思うと――

「あーあー、あ、有彦と今日用事があるからこれで!」

 いきなり撓めたスプリングが弾けるように、志貴の身体がソファから跳ね上
がった。
 脱兎の如く逃げ出そうとする志貴。だがそんな兄の動きに秋葉は動揺を示さ
なかった。そんなことはとっくに予期していました、といわんがばかりの顔で
秋葉は一声鋭く発する。

「翡翠!兄さんをお止めしなさい」
「かしこまりました」

 打てば響く翡翠の応対。
 志貴はソファーをジャンプでまたいで一直線に廊下に繋がる扉に向かおうと
するが、運悪くその間に立ちふさがる者がいる。それは、後ろで控えていたメ
イド服姿の翡翠であった。

 ――なんてこったい

 志貴はその翡翠を突き飛ばすわけにも行かず、右か左かに避けて扉をくぐり
抜けようと考える。そんな思考より早く志貴の膝はタックルするような低い姿
勢に屈み、目にもとまらぬ速度で――

 すっと

 そんな志貴の目の前に、計っていたかのように翡翠の手が伸びる。
 慌てて避けようとすると、その手は志貴の想像より伸びてきた。

「失礼します」

 翡翠の手は、違いなく志貴の肩口を掴んでいた。
 掴まれた志貴はバランスを崩して転びそうになるが、足を伸ばしてなんとか
重心を保った。だがそれは突進の速度を殺ぐことに他ならず、もう片手で袖口
まで掴まれると手荒に振り解くわけにもいかず、志貴は諦めたかのように立ち
止まる。

 そして、恨めしげに翡翠の顔をじっと見つめた。

「翡翠、その、なんでこんな真似を……」
「申し訳ございません、秋葉さまが志貴さまをお止めしろとのご命令で……こ
のような所行をするのは心苦しいのですが、なにとぞお許しください」

 志貴のジト目に射られて、翡翠は居所がなさげに俯く。
 でも、皺になりそうなほどぎゅっと志貴の服を握りしめていて――

「そうです、兄さんが翡翠を責めるのはお門違いです。責めるなら命じた私を
責めてください、、兄さん」

 苦しい立場の翡翠をフォローするかのような、毅然とした声。
 志貴がさもいやそうに振り返ると、そこには先ほどと変わらぬ落ち着き切っ
た様子で、秋葉が鎮座していた。自分の前から逃げ出そうとした志貴に対して
視線を注いでいるがなまじ憤激の様子を見せないのが、志貴にとっては不安で
ならない。

 ニゲロニゲロニゲロニゲロ、と自分の中の誰かが歌い出しかねない様な、息
苦しい不安と緊張。翡翠に服をしっかと掴まれたままで、志貴は首だけ秋葉に
向け――

「いや、その、用事がありましてね、秋葉サン?」
「こんな夜中に外出を許すわけがないじゃないですか、兄さん、門限破りをみ
すみす見のがす私ではないと兄さんもご存じの筈なのに。それに」

 ごく真っ当で非難のしどころのない理由を口にする秋葉に、ぐうの音も出な
い志貴。
 秋葉は嗜虐的にすら感じる薄い笑みを浮かべると、居所のなさそうな兄に向
かって次の言葉を口に乗せる。

「それに、私から逃げるために用事を捏造するのは感心しません」
「いや、そのほんとーに有彦と夜中にラーメン喰いに行こうって」
「兄さんの言葉には誠意が感じられません。それならば私が乾さんに自ら、兄
さんとのお約束があるか確かめても宜しいのですけども?」

 にっこり笑って手を詰めてくる秋葉に、たらりと志貴の額に汗が流れる。
 いや、いまは前哨戦に過ぎない。このまま秋葉が本題に入って俺にその回答
を求めてくればそれは想像するだに恐ろしい事態になると。ならばいっそ話を
こじらせて。

 志貴は顎をなでると、諦めたようにぺこりと頭を下げる。

「ごめんなさい、嘘をついておりました」
「ほらご覧なさい」
「いや、本当は先輩と夜の見回りの後に先輩のアパートでしっぽり一夜を過ご
すつもりで」

 へらへらと笑ってそんな不実なことを口にして、秋葉を怒らせて隙を作れば。
 そう志貴は考え、柄にもなく軽佻な言葉を口にする。さぁ、怒れ秋葉、そし
てこの駄目な兄を目一杯叱りつけてくれ!

 そんな、いつにもなく正反対の祈るような志貴は、秋葉を嗤いながら見つめ
ていた。
 普段ならこんな軽薄な真似をすると命はないな、と思いながらも。
 志貴と秋葉の視線が交差して、無言の競り合いが生じるが――

 反応は意外なところからやってきた。

「志貴さま……」

 そんな、切なく囁く声。
 志貴がその声にはっとすると、袖を締まるほどにぎゅっと握りしめている翡
翠に気が付いた。顔を伏せて前髪に目を隠しているが、口元を引き結んでいる
のが志貴の目にも分かった。翡翠の手は微かに震えていて……志貴はその頼り
なさげな様子にはっとするような。

「翡翠、その……」
「志貴さま、それは……シエル様といくらご昵懇の間柄とはいえ、私の前でそ
のようなことを仰られるのは……志貴さま、何かこの翡翠のご奉公にご不満が
ございましたら何とでもお言いつけください」
「え?あ?」

 思わぬ言葉に志貴はどぎまぎしていた。秋葉に向けた顔を翡翠に向け、カチ
ューシャが胸に着きそうなほど近くに顔を寄せている翡翠の身体から、汗と石
鹸の混じった微妙な薫りすら嗅ぎ取ってしまい、この翡翠の哀しげな様子と相
まって何ともいえない彩を――

 ――ええい、落ち着け、俺

 志貴は欲望に流れそうになる自分自身を叱咤し、この状況を理解しようとす
る。
 翡翠は秋葉と俺との丁々発止のやり取りを誤解している――俺が秋葉から逃
げようとしているのは、その話題の内容ではなくこの遠野家の暮らしへの不満
であると、翡翠は翡翠なりに解釈して自責しているのあろう。
 シエルへの嫉妬、という可能性もなくもないが――翡翠に限ってはその可能
性は低い。

 だが、何故そんな風に話題の内容を湾曲解釈できるのか?それが翡翠の翡翠
たる由縁なのか?
 わからない。
 
 だが、物思いに耽る間にも翡翠の震えはだんだん大きくなってきて、このま
ま放っておけば志貴の胸のすがりついて泣き出してしまうような、そんな危う
い感情の境界線の上にあった。秋葉の目の前でそんなことになれば――志貴は
咄嗟に翡翠の肩を掴んだ。

 翡翠の細い肩を、志貴の手が握る。
 その瞬間、翡翠の身体が志貴の手から逃げ出すように身じろぎをしたが、す
ぐに収まる。

「翡翠、その、それは誤解だ……翡翠はよくやってるし」
「では何故、夜中に外泊と仰られるのでしょうか……翡翠のお世話がご不満だ
と……」
「そ、そんなことはないよ!ただ俺は秋葉から――」

 しまった。

 そう口走ってから志貴は青くなった。
 翡翠を宥めようとして口に出した言葉は、別戦線の秋葉で墓穴に他ならない
と。
 志貴は自らの顔色が青ざめるのを感じた。血の気がさーっと下がっていって、
心臓の弁が壊れたかのような、そんな打撃を胸に受けた痛みに似た感覚を感じ
るほどの。

 志貴が絶望に目を見開いて振り返ると、そこには――目を細めて妖しく笑う
秋葉の不敵な姿があった。ソファーの上に腰を掛け、細く絞った瞳の底からは
ほらご覧なさい、と嗤う鋭い視線が伸びている。

 仲の悪いシエルの事をことさらに言い立てても、秋葉には憤激に身を委ねて
はいなかった。
 それどころか志貴の手の内を見透かしているかのような優越感に浸っており、
さらには自ずから手を下さなくても翡翠の前に自滅をした兄の愚行にもはや哀
れみすら感じている、そんな上から下へと落とされる視線。

 それに射られると、いつも以上に志貴の中に劣等感と敗北感の入り交じった、
口元が情けなくも歪んでしまいそうな負け犬の感情が広がり、この遠野家の居
間の空気を息することすら許されないような思いに駆られるのであった。

「あら?兄さん?兄さんは私から何がしたくてシエルさんの所に行かれるので
すか?」

 答えられるものならば答えてみなさいな、と言いたげな口調であった。こう
も言われれば憎らしげにも感じるのであるが、高雅さが骨身まで染みこんだ秋
葉はさらっと言ってのける。
 志貴は俯いた翡翠に抱き寄られ、秋葉の視線に胸を突き刺され――言うに言
えぬ、動くに動けぬ状態になっていた。

 そのどちらも、逆棘の鏃のように引き抜こうとすれば傷口を広げるような。
 居間の志貴の出来ることと言えば、ただ一つ――

「……ごめんなさい、それも嘘です」
「ではアルクェイド様の元に行かれるのですね、志貴さま……」

 潤んだ瞳を見上げる翡翠の、そんな台詞。
 それは本気で言っているのか、それとも姉譲りのボケなのか……志貴はそれ
を口にしてつっこみをすべきかせざるべきか悩む。そして、翡翠がそのような
高度な芸をすることはないという結論に至ると、頭を居心地悪げに掻きながら
ぼそぼそと口にする。

「いや、だからその秋葉から逃げるための口実で……誰の所にいく予定もない
って。それに翡翠は本当に俺の世話をよくしてくれるから、思い詰めることは
何もないよ」
「左様ですか、志貴さま……」

 翡翠はその志貴の台詞に救われたかのように、袖を離してそっと安堵に息を
漏らす。
 純情ゆえか思わず側面攻撃をされた翡翠を志貴は頷きながら眺めていたが――
本命の脅威は去っていなかった。いや、今このときもその刃を研いでいると言
ってもよい。

 ――じゃぁおやすみ、と言うわけにも行かないだろうな

 志貴は回れ右をして逃げ出したくなる……が、もうそんな行動の選択肢はな
いことは分かる。ただ、のろのろと秋葉に向き直ると、まるで刑場に挽かれる
犯罪者のような気取りのしない足取りで歩いていく。

「…………まぁ、そういうことで、秋葉」

 志貴はなんと秋葉に言って良いのかわからなかった。
 そもそも、なぜ秋葉から逃げ出そうかとしたのかさえ――そうだ、質問だ。
 あまりにも剣呑である故に、本能が逃走を選んでしまうほどの。

 志貴は手のひらに掻く汗を握る。
 そして、先ほどはジャンプして乗り越したソファーの背に手をつき、回り込
んで再び元の座席に戻る。まだテーブルの上の紅茶は湯気を立てていた――

 秋葉は静かに端座したまま、微笑して兄を迎える。
 そしてその赤い唇が動くと、静かに……

「私は怒っていません、兄さん」
「そ、そうか、助かるなそれは」
「兄さんが私の質問に答えて頂ければ……ですが。兄さん?私と兄さんの息子
か娘は、さぞ美しく賢く強い子供になるのでしょうね?」

 うっとりと、まだ見ぬ子供を虚空に見つめて微笑む秋葉。
 志貴は膝に手をつき、がちがちに身体を固まらせながらその言葉を聞いてい
た。
 再びこの質問を身に浴びると、七夜の闘争本能ではなく逃走本能が掻き立て
られる。そもそも、この質問に何と答えればいいのかがさっぱり分からないの
だから。

 志貴は震える手でカップを取ると、まだ暖かい紅茶に口を付ける。
 琥珀の煎れてくれる甘く美味な紅茶であるが――舌の上でそれは何の味もし
なかった。頭が味覚を解釈する余裕がないかのような。

「……秋葉」

 志貴は動きがもどかしい頭で考え、口にする。
 秋葉は言い答えを期待するかのように、頷く。

「……俺の息子はどうなるかどうかよく分からないし、秋葉の娘が生まれれば
母親似にてさぞかし美人になるだろう」
「まぁ、兄さんにしては珍しいお世辞ですね」
「別にそういうつもりは……まぁともかく、問題なのは」

 志貴はカップを手にしたまま、出来る限り真剣な表情で秋葉を見つめようと
する。

「なんで、俺と秋葉の子供って話になるんだ?」

 そう、それがそもそもの核心であった。
 なぜ、秋葉が志貴との間の子供を唐突に秋葉は口にするのか?それが分から
なくてはどうにも答えようがない――それが偽らざる志貴の本心であった。
 いや、それが分かっても答えづらいことにはあまり変わりはないのであるが
……今の志貴にはそこまで考えが及ぶものではない。

 そんなごく当然の志貴の疑義に対して、それが口にされることが信じられな
いような、呆れた顔が秋葉には浮かんだ。
 見開いた目で何を今更兄さんは言い出すのか?とも言いたげで。

「……それは当然じゃありませんか、兄さん」
「いや、どこも当然じゃないってばさ」

 翡翠並みに真顔でボケられる恐怖に志貴は戦慄していた。ソファーの上から
軽く腰を浮かして、まるで甲高い声で鳴く珍動物を眺めるかのような秋葉の視
線の前でぶるぶると首を振った。高速移動する視界の中で秋葉は――

 秋葉はキっと怒ったように目を細めると、志貴に言い放つ。

「兄さん、遠野の一族は血縁で継承される家柄ですから、跡継ぎが必要なのは
ご存じの筈ですが?」
「そりゃまぁ、ローマ皇帝みたいに養子を取るのも悪くはないけども……」
「そんな紀元前後の帝国の話なんかしていません。遠野の跡継ぎは当然、遠野
の血を継ぐものの子孫でなければなりません」
「確かに道理だけど」

 志貴は気色ばむ秋葉の勢いにたじたじであった。
 秋葉が斬りつけるような言葉で喋る内容は、今のところは間違っていない。
そう志貴が考えていた矢先に――

「であれば、兄さんと私の子供しかいないではないですか」

 …………わからない

 志貴は秋葉の向こうの、論理外の世界の虚空を眺めて心中で独語した。
 見事に論理的飛躍の現場を見せられ、スキージャンパーのようなその美しい
飛行姿勢に魅せられてしまい、問題点を指摘する隙も伺えなかった――

 秋葉の世界の中で完成したこの論理を打破するためには、千万言の言葉が必
要である気が志貴にはしていた。そしてその千万の言葉に億兆の反論を紡ぎ出
すことが出来る秋葉であればより一層質が悪い。

 志貴は腰を浮かしたまましばし、放心したかのように言葉がなかった。
 そんな兄の挙動を理解と納得と判断したのか、秋葉は頷き――そして頬を赤
らめた。

「それに、兄さんは……兄さんは私との子供が欲しいと考えているんでしょう?」
「なっ、なっ、なんで!」

 身に覚えがない爆弾発言を投げ込まれた志貴が、慌てて叫ぶ。
 このままぼんやりしていると、自分が秋葉との子供を望んでいるかのように
誤解されるという恐怖が全身を駆け抜けたからであった。

 だが秋葉は、そんな驚愕の態の兄をまるで見てないかのように――

「だって……兄さんが私にしてくださるときに、その――避妊しないで膣内射
精されるではないですか。それはとりもなおさず兄さんが私に妊娠して欲しい
という……」
「――――あ」

 迂闊だった。
 志貴の頭の中にある台詞はそれだけであった。
 迂闊だった迂闊だった迂闊だったとぐるぐると台詞が巡り、足下の地面が崩
れ去り虚空に堕ちるかのような、そんな墜落感を味わう。

 確かに秋葉とするときにはコンドームをしていない。記憶の中でもゴム製品
にお世話になった記憶は全くない。それをそういう風に解釈されるのは――
 志貴はどすんとソファーに腰を下ろすと、真っ白な顔色で虚ろに呟く。だが、
その声は喉の上で消え去りそうに弱くくぐもる。

「そ、それはそのそういうつもりでは……」
「それに、兄さんったら私が生理の時もあんなことやこんなことを……それに
危険日でもたっぷり中に出されるので、兄さんは私に兄さんの子供を欲しいと
しか」

 秋葉は赤い頬に手を当てて、そう――うっとりと答えた。
 志貴は座りながらも、まるで柔らかいクッションが底のない沼にずぶずぶと
腰からはまり込んでしまっているかのような錯覚に捕らわれていた。水平感覚
も失われて、座りながらも視界がぐらぐらと揺れ動くかのような――今、ちょ
うど都合良く体調が悪くなってそのまま気絶しないかと祈りたくなるほどの。

「……そう思われているのですよね?兄さん?」
「………………」

 同意を求められるが、志貴には答えはなかった。
 ごめんなさいそんなつもりじゃなかったんですこれからはちゃんとゴムを着
けます――そう言って謝って済むというものではなく、今の秋葉は中東の民族
紛争のように入り組んだ誤解の結び目の中にいるのだから。

 志貴は最後の救いを求めるように、背後の翡翠を振り返る。
 そこには困り切ってしまっていて却ってなにも考えてないように見える翡翠
と、その背中にいつの間にか戻ってきていた琥珀を認める。
 志貴は追いつめられた小動物のように、メイド服と和服エプロンの双子に瞳
で救いを求めると――

 それに頷いたのは、琥珀であった。

「秋葉さま秋葉さま」
「……何?戻ってきたのね?琥珀」
「志貴さんと秋葉さまは戸籍上は兄妹になられるのですから、結婚はできませ
んよー」

 琥珀は翡翠の背中に隠れるように立ったまま、秋葉に告げる。
 なんで秋葉に直に向き直らないだろう?と志貴は怪訝に思うし、いいとこと
で邪魔された秋葉の不快そうな瞳の前に立たれている翡翠は、困惑して背中の
姉を振り返っていた。
 秋葉はふん、と鼻で笑うと――

「そんなことは琥珀、貴女に説明されなくても分かっています。でも子供を産
むのに法律は関係ないじゃない?それに兄さんと私は直接は血が繋がってはい
ないわ」
「ですが戸籍は繋がられていますし、そのお子様が遠野家を嗣がれると言うこ
とであれば、やはり非嫡出子ではいろいろ親類一同で難しいことがあるかとも」
「……そうかしら」
「それに志貴さんから昔聞いたことがありますー、やっぱり秋葉さまとのお子
様が生まれると、親の関係故にいろいろ苦労することになるだろうって」

 さらり、と琥珀は口にするがその言葉に、再び目を剥く志貴。
 いつ誰がそんなことを言った――と問いたかったが、自分の言葉を発する機
能が秋葉の衝撃以来著しく減退している志貴はむなしく口を開けるばかり。

 ――琥珀さんお得意の嘘にしても、いったい何を考えて

 秋葉は眉根を寄せて琥珀を、そして志貴を見つめる。
 志貴は沈みつつある身体を上から下へと串刺しにするような瞳を受けながら――

「本当ですか?兄さん?」
「ま……ぁその、そういうこともあるんじゃないのかなぁと思ったこともなき
にしも……」
「そこでです、秋葉さま!」

 しどろもどろの志貴と詰問する秋葉のふたりの腰を折る様に、琥珀が声を上
げる。
 そして背中から翡翠の背中をぐいぐいと押して進んでくる。困惑しきった瞳
で翡翠は姉を振り返って真意を確かめようとしているが。

「ね、姉さん?」
「ここは一つ、志貴さまのお子様は翡翠ちゃんに産んで貰いましょう、それで
育ての母として秋葉さまがお育てになられれば宜しいのですねー!」

 意気軒昂に声高らかとそんな、新種の提案をする琥珀を……志貴はまたして
も呆然と眺めるだけであり、秋葉も今度はあっけにとられて見守るばかりであ
った。
 琥珀は今にも歌い出しそうなほどノリに乗っており、ただ翡翠だけが慌てて
肩に掛かる姉の手を掴む。

「そ、そんな私が志貴さまのお子様を……」
「もう、私は知っているんですからね、翡翠ちゃんも志貴さまと関係があるこ
とをちゃんと〜」

 よりにもよってその関係を持った相手と、その生殺与奪を握る妹を前に恐ろ
しげな事を何事もなかったかのようにさらりと琥珀は口にする。
 ぐさっと――物体化した視線が喉元に突き刺さったような気が志貴にはした。
きっとアルクェイドに視線の具現化をお願いするとこんな感じになるのだろう、
と言うほどの、略奪されなくても痛い秋葉の視線。

 もう、殺すならなぶり殺しではなく一発で……とすら思う志貴。

「それは本当ですの?兄さん」
「え?あ、まぁいや琥珀さんともいろいろありまして……」

 墓穴を掘った以上は、底まで掘らずには気が済まないかのような志貴の告白
。
 
「もう、志貴さんったら大胆〜。とにかく翡翠ちゃんが志貴さまのお子様を産
めば、使用人と主人の愛の結晶と言うことで世間の受けもいいですし、秋葉さ
まも志貴さんのお子さんを育てられますし、それに私も翡翠ちゃんの赤ちゃん
が見られるので大満足、一石三鳥とはこのことですねー」

 琥珀は翡翠をとうとう志貴の真後ろまで押し込むと、そんな都合の良い解釈
を述べていた。
 志貴は――俺の立場が何にしても絶望的ではないのか、と唸らずには居られ
なかった。秋葉はその言葉に耳を傾けていたが、やがて不満そうに口を尖らせ
ると――

「兄さんと私の愛の結晶の方がふさわしいのに……それに、その子が琥珀、貴
女を『叔母さん』というのは何か許せなくてね……分かりました」

 秋葉はすっくと立ち上がると、じろりと場を一瞥する。
 志貴は首を竦め、翡翠ははらはらと落ち着き無く視線を彷徨わせ、琥珀もは
しゃぎを止めて神妙に……だが笑顔のままでいた。

「それでは、こうします。兄さんの子供を産むのは瀬尾で、その子を私が引き
取ります」

 ……………わからない

 二度目の秋葉の、論理的にバッケンレコード物の飛躍を目の当たりにして志
貴は心中、そう力無く漏らすのが精一杯であった。完璧なアイデアでしょう――
とでも言いたそうな秋葉の胸の張り様。

 瀬尾晶をよく知らない翡翠はきょとんとするが、琥珀はぱっと手を挙げる。

「秋葉さま秋葉さま、瀬尾さまと仰るとあの女学院のご後輩の?」
「そうよ?もしかして兄さんが浮気している他の瀬尾という名前の女が居ての
こと?」
「…………そ、そりゃないよ秋葉……」

 志貴はこめかみを指で揉みながらそう小さく呟いた。
 いったい自分がどんな不実な男だと今思われているのか――いや、実際に関
係がいろいろと派生しているのであまりえらそうなことを言えない志貴ではあ
るのだが、それでもここまで不可思議に思われていると萎える物があった。

「ですが、瀬尾さまはそのことはご承知なのでしょうか?」
「もちろん知らないわよ。でも瀬尾は私が許して兄さんに抱かれると知ったら
きっと喜ぶでしょうね……それに、生まれた子供と生き別れで母と名乗ること
も許されないという状況は、いかにも瀬尾好みの耽美なお話ね、ふふふ」

 うっすらと笑みを浮かべ、人非人なことを口ずさむ秋葉を志貴は震えながら
見上げていた。アキラちゃんはお前のオプションかい、と人を人と思わぬ態度
に腹立たしく感じるよりも、この不条理の世界を自然体で作り出す秋葉のすさ
まじさに感心してしまう。

 ……それにしても、わからない。

「あ、あの、秋葉……」
「あらなんです兄さん?兄さんならさぞ瀬尾の処女を頂くのを楽しみにされる
でしょうね」
「いや、そーゆうことじゃなくて、重要な問題が」

 笑顔でとんでもないことを喋る秋葉に内心辟易しながら、志貴はのろのろと
話し出す。
 翡翠も琥珀も、後ろから興味深そうに志貴を見守っているのを感じている。
志貴は手をもみ合わせ、うなじを何度も撫でながら――

「その、片親であるところの俺の立場はいったいどういう事になっているので?
秋葉」
「……あら、そんなことは気にされていたのですか?兄さんのことだから産ま
せっぱなしかと思いましたのに……でも安心してください、兄さんの子供は私
が立派に育ててみせます」

 毅然とそんなことを言ってのける秋葉であった。
 そしてその表情には、自分の血を引かないけども愛する兄の子供を育てる、
という自分に酔った熱が瞳が宿っている。あはは、と志貴は力無く乾いた笑い
を浮かべるのが精一杯だったが……

 そんな、貧血の青い顔色で再びソファーの中にめり込みそうに沈んでいる志
貴をじろりと秋葉が睨む。

「……もしや不満があるとは兄さんは言いませんよね?」

 ――俺が抱いているのは不満じゃない、不条理なんだ

 そう声を上げたい志貴。そもそも高校生の自分が子供を持つと言うこと自体
想像できない上に、晶に子供を産ませて秋葉が育てる、などという正気とも思
えないプランを聞かされているのだ。志貴が頭の中が真っ白になっていたとし
ても誰が彼を非難できようか。

 志貴は頬から顔を撫でる。眼鏡が指に触るが、なにかそれも手袋一枚を通し
て触っているかのような鈍い感覚でしかない。志貴はしばし顔を覆ったまま、
その目の前の闇に身体を投じたいという衝動と戦っている様であったが――

「……秋葉の言いたいことはよく分かった」

 そう、志貴は呻くように囁いた。
 だが、分かったけどもそれには俺はいろいろ同意できない所があるし、そも
そもなんでこんな話を――というくろぐろと渦巻く様々な反論が志貴の中には
あったのだが。

 それを志貴の同意と取ったのか、秋葉はぱんぱんと手を叩いて喜々として命
じる。

「兄さんも決心が定まりましたか、翡翠!兄さんの初夜の床を用意しなさい。
琥珀は今から浅上女学院の中等部寄宿舎に電話をして瀬尾を呼びなさい!迎え
の車は私のを使って構いません」
「待て!何でそんな気ぜわしい話になる!」

 矢継ぎ早に二人に命じる秋葉に、今度ばかりは色を変えて志貴がソファの上
から飛び上がった。そうして秋葉の命令を聞いたものか、頭を下げ欠けた微妙
な姿勢で硬直している翡翠と琥珀の前に立ちふさがって手を振り回す。

「俚諺に曰く、善は急げ、と申すではありませんか?」
「どこも!どこも善じゃない!それにまだ俺たちは若いんだから子供なんかも
っと先の話で」
「この少子高齢化社会の最中に何を悠長な事を言っているのですか?」

 ほとんど全身をくまなく動かし、バスケットボールのディフェンスの様な阻
止の動きをする志貴と、腕を組んでいらだたしげに吐き捨てる秋葉。その後ろ
で翡翠は呆然と、琥珀はにやにや笑いながら妹の肩を掴んでいた。

「そーゆー社会のマクロな問題は関係ないー!」
「マクロでもマグロでも構いません!ではどうするというのですか、兄さん!?」

 ならば最善策を上げてみなさい、とでも言いたげないらだたしげな秋葉の声
がびりびりと窓硝子を震わせる。絶叫した訳ではないのにこの迫力であった。
 志貴はぴたっと動きを止めると、ゆるゆると姿勢を戻す。そして顎に指を当
て、苦いものでも飲まされたかのように顔を歪ませながらちらちらと秋葉を見
つめる。

 胸を反らし、傲然と王者然とした腕を組んでいる秋葉に志貴は、歯切れ悪く
答える。

「……俺の子供が欲しい、と」
「ええ」
「それは秋葉が産まなくても構わない、と」
「ええ、ですから瀬尾に。それでしたら兄さんもご満足でしょう?」

 ――なんでそんなことになるのだかな

 などと志貴は内心愚痴っていたが、しばし思考を頭の中で巡らせる。
 やがて、志貴はなにかを思いついたらしく指を鳴らせるが――すかっと掠る
音しか聞こえなかった。これしか反撃の手はない

 秋葉の不条理の手に対しては、手にするのは理性では武器にならない――

「じゃぁ……わかった。ではこうしよう……」


         §              §


「と、これが俺の養女となった都古。そういうことでかわいいむすめとしてこ
れからかわいがってくれ、秋葉」
「むーん!アキハもお兄ちゃんもなにか騙されてるよー!目を覚ませお兄ちゃ
んー、とぅえー!」

                              《END》



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