月の雫

作:しにを

            




「こんなつまらない真似……」

 秋葉は呟く。
 だが、その声は強さを伴っていない。
 切って捨てて省みぬ、そんな断言の力は無い。
 どこか弱い。
 すがるような響きがある。

 もう一人秋葉がいて傍らから自分自身の行動を眺めたら、もっときっぱりと
断じていただろう。
 その馬鹿馬鹿しい行為を。
 その馬鹿馬鹿しい行為を信じることを。
 その馬鹿馬鹿しい行為を信じて実行に移す愚かさを。
 あげつらい、断罪し、冷笑していたかもしれない。

 だが、今の秋葉は己の愚行を自覚し自分に呆れながらも、行動し続けていた。
 理性により、己を止めようとはしていなかった。

 その行為。
 月夜に一人、寒空にわざわざ外へ。
 逍遥にはもう少し時を選ぶべきと思える。
 しかし、足取りはゆっくりであっても、迷う表情が残っていても。
 秋葉は立ち止まろうとも、戻ろうともしなかった。

 目的地へ来る。
 冴え冴えとした月が頭上に見える。
 妨げるものとてない、月光の注ぐ場所。
 そして始めるのは……。

「恋のおまじないですって。本当に……」

 馬鹿みたいと口にする。
 弱々しく笑おうとする。
 でも、その声には、否定の力が無い。
 嘲笑になりきれぬ笑みは、むしろ泣きそうに見えた。

 

 原因は何だっただろうか。
 はっきりとは秋葉も憶えていない。
 途中は憶えている。
 激しい言葉の応酬は憶えている。
 秋葉にしてみれば、志貴への不満は山ほどある。
 遠野家に相応しくない振る舞い、不穏な行動、自分への態度。
 志貴にしてみれば、それぞれ理由はある。
 時に言い掛かりに近い物言いをする妹に、兄として唯々諾々と従うのを良し
としない心持ちもあろう。 
 それ故の衝突。
 口論。

 いつもであれば、志貴が折れる。
 あるいは、秋葉が言い過ぎと気がつく。
 共に互いが大切な存在なのだ。
 我を通して相手に痛みを与えるよりは、自らが引く事を選ぶ。
 しかし、その日は、その限度を超えた。
 志貴は怒りに顔色を変え、秋葉もまた氷の表情で兄を睨んだ。

 それから、口を利いていない。
 顔は合わせる。
 食事を共にし、団欒の場に共に顔を出している。
 しかし、会話は無い。
 いつもならあり得ないほど早起きをする志貴。
 必要以上に帰宅時間を繰り上げる秋葉。
 その事実は何事かを物語っているようであるが、二人はいつもより接触する
時間を多くして、なおかつ言葉での交わりを絶っていた。
 翡翠や琥珀があれこれと修復を図ろうとするも、まったく効果はなく、重苦
しい雰囲気が遠野の屋敷に満ちていた。

 当然ながら、ここ数日の間、秋葉の部屋に志貴が忍ぶ事も無い。
 秋葉が顔を赤らめつつ、志貴の部屋の扉を小さく叩く事も無い。
 それほど、毎日毎日、夜の逢瀬を堪能していた訳ではない。
 それでも僅かな時間の抱擁、おやすみのくちづけ、そんな触れ合いでどれだ
け満たされていたか。
 眠れぬ夜に、寝返りを繰り返しつつ、秋葉はそんな事を思っていた。
 後ろから抱きしめる腕。
 頬を柔らかく撫でる掌。
 長い黒髪を弄ぶ指。
 首筋に触れる唇。
 名前を囁く声。
 
 兄さん。
 秋葉は呟き、驚く。
 何て甘美な響き。
 そして痛み。

 その時、窓から見えた微かな明かり。
 月の光。

 それが、天啓のように秋葉に思い起こさせた。
 いつか何かで見た、その時の自分には冷笑を誘った行為を。
 妖しげな魔術、まじないの行為。

 仲違いをしてしまった相手との修復をするまじない。
 愛する人へ謝罪の心を伝えるまじない。

 馬鹿馬鹿しい。
 それに、悪いのは兄さん。
 謝るべきは兄さん。
 兄さんが、一言……。

 既に、そのまま部屋を出ていた。
 外へと。
 階段を降りて。
 外へと。
 玄関を出て。
 外へと。

 白い夜着の裾が風に揺れる。
 剥き出しの腕と足に冷気がかすめる。
 それは気にならない。
 月夜故の魔力か。
 ルナティック、軽い狂気の沙汰か。

 いや、そんなものが入る余地は無い。
 狂っているのは確かだが、その原因たるは恋情。
 兄への想い、寂しさ、悲鳴。
 そして涙ぐむほどに後悔していても、自分からは謝れない愚かな意地。
 頭を下げれば、いや、一言謝れば志貴は許すだろう。
 いや、今の後悔を顔に浮かべた妹の姿を見れば、それだけで。
 
 風が髪を揺らす。
 頬が冷たくなる。
 罰だと秋葉は思う。
 素直にならない、意地っ張りな自分への。
 そう考えれば、むしろ心地よかった。
 凍み入るように体が冷えていくのを、むしろ喜ぶ。
 
 そして、到着した。
 相応しき場所、条件を満たした場所に。
 ここに来たからには、そのまま戻れなかった。

 月の輝く夜。
 そのある時間に。
 庭へ出て、土に指で名を刻む。
 想い人の名前を土に刻む。

 そして、それを自分の名前で消す。
 そうすれば、二人の名前が交わり合わさるように。
 二人の目に見えぬ絆も深まり、想いは通じる。
 二人の間を妨げる諍いも障害も消えてしまう。

 他愛も無いおまじない。
 都合の良すぎるおまじない。
 起源を辿れば、呪術的な説明もあるのかもしれない。
 けれど、とてもそんな事で人の運命を左右できるとは信じられない。
 それでも。
 それでも、一人思い悩むだけの状態と比べれば、ずっとマシに思えるのは確
かだった。

 秋葉は懐疑も自嘲も無く、淡々と、しかし真面目な顔で一連の動作を終えた。
 心から信じていなければ浮かべられないような、厳粛ですらある表情。
 屈んだまま、呪術の跡を見つめる。 

「これで、願いは叶うかしら。
 兄さんは私を…………」

 最後の言葉は消えてしまう。
 傍にいたとしても聞こえない。
 でも、確かに声にはなっていた。

 許してくれるかしら。

 そう呟いた声。
 ある意味、罪を認めた言葉。
 非は自分にあるのだと意味した言葉。

 独り言。
 答えなどは当然無い。
 けれど秋葉は、少しだけ満足したように微笑んだ。

「寒い……。部屋に戻りましょう」

 立ち上がり、自分を抱くような格好に。
 体が震えていた。
 今更のように寒さを感じた。

 足早に立ち去ろうとしても、体の動きがぎこちない。
 ゆっくりと、屋敷の一角まで歩き、そして……。

「え、兄さん。どうしたんです」

 ぶつかりそうになった人影に、秋葉はびくりとし、そして誰であるかを認め、
さらに驚きの表情を浮かべた。
 想像もしなかった志貴の姿。
 まるで、夢か幻のようにすら思える。
 その秋葉の目を、志貴はまっすぐに見つめている。
 表情はほとんどない。
 何を考えているのかは、秋葉には読み取れない。

「どうしたって、秋葉が外にいるのを見たから、どうしたのかと思っただけだ」 

 ぶっきらぼうな言葉。
 だが、この寒空にわざわざ外へやって来たという事実。
 それに普段ならば、志貴は寝ている時間だった。

「まったくこんな薄着で、風邪でも引いたらどうするんだ」
「は、はい」
「寒いから、早く戻るぞ」
「はい、兄さん」

 志貴はそれだけ言うと、さっさと背を向けてしまう。
 だが、その手は秋葉の冷え切った手を掴んでいた。
 その手に引かれるように、秋葉も足を動かす。

 言葉はない。
 寄り添う事も無い。
 肩を抱かれる事もない。
 ただ、手でつながっているだけ。

 でも、それだけで十分だった。
 手の暖かさ。
 背中を向けられている事すら、視界が潤み曇りかけた今の秋葉にはありがた
かった。

 少し、秋葉の手を握る志貴の手に力が入る。
 秋葉も手に力を込める。
 
 あと数歩。
 屋敷の中へ。
 温かい屋内へ。

 そこで、志貴は手を離してしまうだろうか。
 そっけなく背を向けたまま自分の部屋へ戻ってしまうだろうか。
 それとも……?
 
 


 少し後で、明かりが灯った。
 一室にだけ。
 灯り、明かりは細くされた。
 
 外からわかるのはそれだけ。
 後は見て取れるのは、庭の様子くらいだろうか。
 しかし、そこにも大したものは見る事が出来ない。
 志貴の名を刻んだ跡は、今は崩れて見られない。
 想い人の名の上から書かれた少女の名もまた、消え去り読み取れない。
 かろうじて見て取れるのは、月光の雫で描いたような、きらきら光る跡。
 ただ、それだけ。















―――あとがき

 しまった秋葉の誕生日じゃないか。
 と、気がついたのが前日。
 ストックを見ると、完成品は無し。
 書きかけは数本あるものの、誕生日として相応しいものは見当たらない。
 かろうじて、使えそうなものとして本作品を引っ張り出し、何とか形に。
 いざ、書くと思ったより長くなるし。

 季節が、ほとんど冬のようですが、まあ秋でも冷え込む事はありますね。

 お楽しみ頂ければ幸いです。
 ……実は、これで完成でそのまま「にょー・しょー・すとーりーず2」に収
録できる一品だったりするのですが。


  by しにを(2004/9/22)


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