『月下』


作:春鐘



 ふと、目が覚めた。
 外からはまだ夜の気配。朝になってもいないのに起きるなんて、珍しい。寝過ごすことはないけれど、私の眠りは比較的深い方なのに……
 まだ幾分重たい頭のまま、惚と天井を見上げる。
 木の飴色は宵闇に沈み、窓の障子戸を透ってきた光が仄白く帯を引いている。

「……………」

 その蒼白い線を眺めるうちに微睡んでいた意識が醒めてきて、そこでようやく、隣で眠っているはずの人が居ないことに気がついた。
 そこにあるはずの手を掴もうと腕を伸ばし、触れてみる。彼が眠っていた場所はまだ微かに温かく、けれどすぐに戻ってくると思わせるには冷たすぎた。
 窓際に置かれた文机の上には二つの燐光が浮かんでいて、規則正しい音に急かされるように片方がジリジリと歩を進めている。時刻は午前3時を少し回ったくらいのようだった。
 不意に、胸の奥がざわつき始める。

 こんな時間に、どこにいったのだろう………

 別に、目覚 めたら彼が居なかったことを不安に感じたわけではない――――ないと思う。彼が私の前から消えてしまうことなどある筈はないし、その逆だってもちろん無いのだから。
 だから今、私の心に細波を立てているのは、眠る前に繋いだはずの手がないことへの少しばかりの不満だけ。
 だって、今日は二人きりの夕食で。
 だから、二人きりの夜だったのだ。
 彼の部屋に一組だけ布団を敷いて、月明かりの中、何度も何度も肌を重ねて。朝になって、もし桜やイリヤスフィールが来るよりも早く起きられなかったら……なんて、そんな他愛ないことで笑いあって、二人で眠りについたのに。
 どうやら彼は、私と朝まで過ごしてはくれないらしい。

「―――――」

 体を起こし、布団の脇に畳んであった服に袖を通す。少し前の休日に彼が買ってくれた服。これを着ていると彼が恥ずかしそうに笑ってくれるから、最近の私のお気に入り。
 素肌に触れた布地から夜の冷たさが伝わってきて、彼に貰った熱が失われていくような錯覚。
 もしかしたら、 私は今、もの凄く不機嫌そうな顔になっているかもしれない。

 服を着終えて、襖を開ける。足を踏み出した板張りの廊下は、彼の部屋の中よりも硬くて冷たい。凍えて止まった夜気に身を竦ませながら、先ずは居間を目指すことにした。
 月明かりに照らされた縁側を抜けて、暖簾を潜る。
 居ない。
 食卓の上に一つ置かれた彼の湯飲みに、すっかり冷たくなったお茶が残っていた。ここに寄ることは寄ったようだった。
 台所も覗いてみたが、彼の姿はやはりない。
 居間を出て、縁側よりはまだいくらかは暖かい内廊下を進む。
 洗面所の前を通る。物音はしない。ドアを開けてみたけれど、当然灯りはついていなかった。もしかしたら、と思ったのだが、入浴中ということはなかったようだ。
 そうなると、土蔵だろうか。
 後で戻ってくるつもりでいつもの鍛練に行って、そのまま眠ってしまったのかもしれない。

 まったく、貴方らしいですね―――――

 胸の裡だけで、そっと呟く。
 気まずそうに笑う彼の顔が浮かんで、 思わず苦笑が漏れた。
 自分なりに納得できる理由が見つかったからだろうか。胸中の細波は、初めからそんなものは無かったかのように綺麗に消えていた。
 そのお陰かどうかは判らないけれど、他のことを考えられる余裕が出来てくる。
 つまり。
 こんな夜に、あの土蔵で、彼は、大丈夫だろうかと。
 今夜は冷える。暦の上ではまだ秋のはずだけれど、どうしてか、あの冬のように寒い。もし本当にそのまま土蔵で眠ってしまったのなら、この寒さではきっと風邪をひいてしまうだろう。
 それは困る。困るから――――

「そうだ………毛布」

 ――――一度、部屋に戻らなくては。

 まだ僅かに人の温かさが残る室内にも、彼の姿はやはりなく、入れ違いにならなくて良かったと思う一方で、自分の予想がさっきよりも正解に近付いたことに心の奥の方が暖かくなった。
 押入から新しく掛け布団を出しながら、一日くらい休んでも誰も彼を怒りなどしないのに、と思って、ほんの一瞬、拗ねたような凛の顔が浮かぶ。 でも、彼女だって彼を責めたりはしないだろう。嫌味の一つくらいなら、言うかもしれないけれど。
 なのに彼だけは、自分の目指すモノのために、そんな自分を赦しはしないのだ。その厳しさも、彼の良いところだとは思う。

 ……………端で見ているこちらが心配になるくらいに、少し行き過ぎだと思うこともあるけれど。

 そんなことを考えながら、庭へ降りて土蔵へ向かう。抱えた毛布に視界を遮られたままだった所為か、サンダルを履くのに少しばかり苦戦してしまった。少し体が鈍ってしまったのかもしれない。頭の中のメモ帳に、訓練メニューを一つ追加する。毎日はとても穏やかで、それでも、この身は騎士なのだ。彼の目指す路を共に歩むと決めた以上、それを棄てるわけにはいかない。マスターとサーヴァントの縛りなどなくとも、私は彼の剣なのだから………

 土蔵の影が大きくなる。
 雲がないのだろうか。蒼白い光で満たされた庭は思いの外明るく、茂みからは虫の声が響いている。澄んだ鈴の音のようなその音は、冴えた夜によく透った。
 黒い鉄扉が目の前にやってくる。鍵は開いているようだ。
 毛布を抱えたまま取手に手をかけて、そのまま肩で押す。開いた隙間から光が入り、床にすうっと影が伸びて、閉まる扉に塗りつぶされた。
 土蔵の中は、静まり返っていた。
 浮かんだ考えに心が竦んで、でも、それに気付かないふりをして奥へと進む。
 格子の影が縫いつけられた床には、彼の姿はない。
 ここにも、いなかった。

「――――どこに……いるのですか?」

 声ともしれぬ声が零れて、胸の奥がチクリと痛んだ。それまでは影も形もなかったのに、ひたひたと不安が押し寄せてくる。
 まだ見ていない所といえば別棟くらいなのだけれど、庭を歩いてくる途中に客間の灯りを見た覚えは無かった。凛も桜も居ないのだから当然と言えば当然か。
 抱えた毛布が、いやに重い。
 どうしよう………
 僅かの間逡巡して、母屋へ戻ることにした。
 迷路のような屋敷だから、どこかで行き違いになって、彼も私を捜しているのかもしれない。 もしそうなら、ここにいるよりは彼の部屋で待っている方が賢明だろう。
 重い扉を引いて、再び月下へ歩み出る。月明かりに目が眩んで、でも、それにもすぐに慣れる。
 踏石の上を歩きながら屋敷へと戻るその途中、別棟に視線を向けたが、やはりそこに灯りはなく、人の気配をさせないままにただ閑かに眠っていた。
 それを見送りながら歩を進めて、縁側の様子が次第にはっきりと見えてくる。庭に面した部屋の襖は閉じられたままで、さっき消し忘れたのだろうか、居間のある方から薄く灯りが洩れていた。

「―――――?」

 と、その光景に違和感を感じて立ち止まる。
 灯りが洩れていたからではない。
 それとは違う、何かが合っていないような、余分なような、そんな感覚。
 記憶の中の縁側と目の前の風景を比較する。何が、何処が違うのか…………

 ―――――梯子?

 梯子だ。
 モノクロームの月夜の所為か、在ると気付いてもまだ、その存在感は稀薄だったけれど。
 彼が庭木の手入れの時に持ち出 すあの梯子が、ひっそりと軒に立て掛けられていた。感じた違和感の正体は、どうやらそれだったらしい。
 それにしても、どうして梯子など。しまい忘れでないのなら、誰かがそれで屋根に登ったのだろうか。
 ずっと下ばかり向いていた視線を上げる。もしかしたら、そこに彼の姿を期待したのかもしれない。
 そうして、見上げたその先の。

「っ………………」

 映る、その姿に。
 知らず、息を呑んだ。

 ふっ、と。
 今にも消えてしまいそうな儚さで。
 彼が、遠く空を見上げていた。

 目も心も、その光景から離れない。声を掛けるのは躊躇われて、代わりに、真っ直ぐに彼を見る。
 月が陰り、顔を出す。庭の芝生には、雲の足跡。
 彼は、まだ私に気付かない。
 なぜだか無性に怖くなって、抱えていた毛布を縁側に投げ置くと、軋む梯子を登っていく。
 初めてではないけれど、やはり歩きづらい瓦屋根をそろそろと進み、彼の傍に腰を下ろす。自分でも気付かないうちに、僅かに距離を置 いていた。
 冷たくて、静かな時間。でも、不思議と居心地は悪くない。
 時折響く虫の声と、遠く聞こえる車の音。吹いた風に、私の髪がさわさわと揺れる。
 チリン、と硬く澄んだ音がして、軒下に下げられたままの寒そうな風鈴を思い出した。

「―――――月」

 不意に、彼の声が響く。

「……月、綺麗だな」

 言われて、初めて空を見上げる。
 すでに中天を下り始めていたけれど、深い闇の中に一つ、蒼白い真円が皓々と輝いていた。薄く、月を囲う虹色の輪も見える。月虹、というものだろうか。

「―――そう……ですね」

 少し迷って、

「とても、綺麗な月です」

 思ったままを告げる。
 彼の視線は、まだ空を向いたまま。少し寂しい。
 また、無言。
 微かに吹く風はそれでも冷たくて、私の中にある彼の熱を逃さないよう膝を抱える。

「ごめん………起こしちまったか」

 また、彼の声。

「……いえ。気にしないで下さい」

 流れる雲が月にかかるのをのを目で追いながら、答える。

「ごめん―――――」

 そう、彼が繰り返すのを聞きながら。
 視界の端まで見送って、また、次の雲を追う。今度の雲は、少し流れが速い。さきほどの雲よりも私に近いのだろう。
 その雲が月にかかる頃、風の音に混ざって微かな衣擦れの音がした。
 自然と、音のした方へ振り返る。
 映ったのは、私を見る、鳶色の瞳。
 深く澄んだその瞳に言うべき何かを見付けられず、言葉無く見つめ返す。思えば、今の穏やかな暮らしの中で彼のこんな視線を受けるのは初めてのような気がする。
 視線を私から外さぬまま、彼が何かを言いかけて、けれどすぐに口を噤んで。
 読心術などない私には、彼が何を思っているのかなどわかるはずもなく、ただ静かに言葉を待つしかできない自分が悔しかった。

 ややあって。
 再び月へと視線を戻しながら、ポツリと、彼が言った。

「…………今夜みたいに、綺麗な月だったんだ」

  見つめたままの横顔は、懐かしむように、何か大事なことを思い出そうとするかのように。

「まだガキの頃のことだし、細かいとこなんか、もうあんまり憶えてないんだけどな――――」

 天を射すその視線は、雲を越え、空を越え、星を渡ったそのさらに向こうにいる誰かを見付けようとしているようで。

「――――どうしてだか、それだけははっきり憶えてる」

 あの冬に見た、彼の記憶を思い出した。
 そうだった。あの夜も、今夜のように月の綺麗な夜だった。
 遠く浮かぶ蒼い真円を見上げながら、切嗣は、自分は正義の味方になりたかったと彼に言って、怒った彼に、自身の心を殺さなければならなかった辛さを吐き出したのだ。
 それでも、

「俺が代わりに正義の味方になってやるって……」

 まだ幼かった彼は当たり前のようにそう誓って、そんな彼に、切嗣は静かに微笑んで――――

「安心した、って………」

 ――――穏やかに、逝ったのだ。

 言葉が出ない。< br>  言いたい想いはあるはずなのに、それは声には成らなかった。
 まるで自分のことのようにそれを知ってしまっている私が何を言っても、きっとそれは嘘にしかならないような気がして。

「笑ってたんだよ………親父」

 付け足すように彼が言って、また、ゆっくりと風が流れる。
 何も言えないままの私に、彼が口元を綻ばせた。

「………その時さ、俺はきっと、喜んでたんだと思うんだ」

 響く声が、どこか哀しそうに聞こえてしまう。

「あの時は不思議と悲しくはなくて、ただ目が熱かったのしか憶えてないんだけど……それって、目が熱くなるくらい泣いてたってことだろ?
 だから、きっとほんとはもの凄く悲しかったと思うんだ。悲しいのかどうかも解らなくなるくらい。
 でさ……悲しくて、この先涙なんて出ないんじゃないかってくらい泣いたんだけど、でもやっぱり、どこかで喜んでたんだよ、きっと…………」

 彼はあんなに穏やかな顔をしているのに…………

「最期にあんな顔で笑えたなら、 きっと俺は親父になにかをしてあげられたんだって、そう思ったと思うんだ。
 この命だってそうだけど………もらってばっかりだった俺が、最期に親父を安心させられるような事ができたんだって」

 言葉が途切れて、月が陰る。
 星が少ない所為か、それだけで、彼の表情は見えなくなった。
 それでも。
 その横顔を見つめたまま、夢に見た、幼い彼の姿を思う。
 夢の中、永い眠りについた切嗣の隣に座ったまま、静かに、ただ涙を流していた。
 泣きながら月を見上げていたあの瞳は、いったいどんな色だったのだろう。
 切嗣の死を悼んでいただろうか。また一人きりになってしまったと嘆いていただろうか。それとも、まるでブレーカーが落ちたようになんの感情も浮かんでいなかったのだろうか……
 それを思ったら、胸が締め付けられたように苦しくなって。

「――――だから、俺が親父の夢を継ぐって決めて、それで親父が安心して逝ってくれたならって、喜んでたんだと思う」

 また、私は何も言えないまま。
 ただじっと、彼を見つめて。
 それからまた、音のない時間が流れて。
 不意にこちらを向いた彼と、目が合った。
 彼は少し驚いたような顔になって、空いていた隙間を埋めるように近付くと私に手を伸ばした。私の髪を撫でながら、困ったように「そんな顔するなよ」と言って、でも、そう言った彼の方が悲しそうで。

「――――ごめんな……なんか、つまんないこと言っちまったな…………」

 思わず目を伏せてしまった私に、本当に申し訳なさそうに彼が言う。手の温かさはそのままで、私はますます俯いて、そよ風にさえ掻き消されそうな小さな声で「そんなことはありません」と言うのが精一杯だった。
 けれど、そうして紡いだその言葉は、きっと途切れ途切れだった。

 なにを、やっているのでしょうか……私は。
 こんな……安い同情を押しつけるような姿を見せるなど………

 ガシャリと、隣で彼が立ち上がるが音して。
 下げていた視線を向けると、彼は、いつもの笑顔で私を見ていた。

「寒くなってきたし、降りよう」

 彼の手が、私に差し出される。
 月を背に、私を見つめている。

 ――――ただ頷いて、彼の手を取ればいい。
     今ならまだ、いつもの毎日に引き返せる――――

 けれど、逃げるように俯いて…………

 ただ、“現在(いま)”が有ればいいのなら。

「? どうしたんだよ?」

 きっとそれは。

「――――本当に……そう思いますか?」

 言わなくてもよかったはずの事で。

「そう思うって、なにがさ?」

 そこから先は。

「切嗣は―――貴方が夢を継いでくれるから『安心した』と言ったのだと……本当に思いますか?」

 言ってはならないはずの事だった。

「―――――」

 息を呑む、彼の気配。
 彼の顔を見るのが怖くて、さっきよりも風が冷たくなったような気がして、きつく抱えた膝に顔を埋める。彼は立ったまま、屋根から降りることも、座り直すこともしなかった。

 どれくらいそうしていただろう。
 雲がいくつか過ぎていって、月が何度か隠れた後。

「どういう―――意味だ?」

 硬く重い声で、彼が言った。
 その声音に胸の奥が痛くなって、全てを誤魔化してしまいたくなる。
 けれど。
 言い逃れなど、今更出来るわけがない。

「……貴方が私の過去を夢に見たように」

 嘘を並べて、なんでもなかったように取り繕うなど、してはならない。

「私も貴方の記憶を見知っている…………」

 だから。

「ですから……あの夜のことも、知っています」

 声の震えを押し殺して。

「あの夜の、切嗣の顔も……」

 彼がそうしてくれたように。

「確かにあの時、切嗣は笑っていました」

 私も彼に気付かせてあげなければ。

「でも、私には……泣いているようにしか、見えなかった」

 顔を上げて、彼を見る。屋根に立ったままだった彼は、私を真っ直ぐに見下ろしていた。

「――――私のマスターだった頃の切嗣は、まるで機械のように冷たくて、ほんとうに魔術師らしい魔術師でした。
 けれど……今思い返せば、この家にいる時の彼はとても人間らしかった。私に向ける視線は無機質でしたが、それでも、時々そこにほんの僅かに感情が入り込んでいたように思います。
 夢を追い、理想を求め、そのために自分の志を捻じ曲げて……そうして心を磨り減らしていた彼には、きっと私の間違いがわかっていたのでしょうね。その時は考えすらしませんでしたが…………」

 真摯な輝きは私を見つめたまま、少しも揺らぐことなく、彼の瞳が心の奥に貫る。耐えきれず、外した視線は蒼白と黒とに埋め尽くされて。
 彼が隣に腰を下ろして、私は、途切れた言葉を紡ぎ直した。

「初めて貴方の記憶を見た時、私は目を疑いました。切嗣があのように穏やかに笑えたのだということが信じられなかったのかもしれません。
 ですが、少しもぎこちないとは感じなかった。
 彼への感情など憎悪しかなかった筈なのに、 私の目には、あの惨劇の中で貴方を見付けた時の彼の顔にも、この屋敷での暮らしの中で貴方や大河に向けていた顔にも、違和感などまるでなかったのです。
 けれど、今なら………今ならば、私には見せたことのないその表情こそが彼本来のもので、私に見せていた顔の方が偽りだったのだと解ります。
 衛宮切嗣という人は、感情を素直に面に出す人だったのだと」
「――――だったら……どうして、泣いてるようにしか見えなかったなんて」
「…………そうですね。確かに彼は、笑っていました」
「なら、なん――――」
「ですが」
「っ――――」
「ですが、私には……泣いているようにしか、見えないのです」
「………………」

 視線を月から彼に戻す。
 私を見つめる彼の瞳からは、感情の光が薄れていて。

「一つ……聞いても宜しいですか?」
「ああ……」

 痕を抉っているのだと自覚しながら。

「貴方は―――切嗣は何に安心したのだと思いますか?」

 その言葉を、口にした。

「何にって……それは、俺が親父の代わりに正義の味方になってやるって言ったから…………」
「本当に?」
「本当にって、おまえ……」
「――――私は、違うと思います」
「じゃあ―――おまえは、なんだって言うんだよ…………」

 やはり彼は解っていなかった。彼が何に気が付き、何を思ったのか………

「――――貴方は言いましたね……切嗣に何かをしてあげられたのかもしれないと。
 そのことは、間違ってはいないと思います。以前貴方が言っていたように彼が聖杯の毒に冒されていたのなら、貴方は確かに、それを和らげてあげられたのでしょう。あのように穏やかな顔で居られたのですから、それは確かだと思います。
 ですが……それを言うのなら、あの焼け野原で彼が貴方を見付けた時に、切嗣は既に貴方に救われていたはずだ。雨の中のあの顔を見れば、貴方だってわかるでしょう?
 貴方が彼に命を救われたことだけで、彼はもう、貴方に十分与えられていたのです。
 だから、貴方が彼の夢を継 ぐと誓ったから『安心した』と言ったのではありません。自分に成し得なかったことを貴方が代わりにやり遂げると誓った事に救われたのではない」
「なに、を――――」
「切嗣は―――彼は、気付いてしまったのです。
 外に行かず、家に居着くようになって、そこで彼は気付いてしまった。
 確かに彼は、貴方の命を救うことが出来た。ですが――――」

 切嗣が助けた少年。自らが引き金を引いた災厄の中から、ただ一人、その手で掬うことが出来た命。自分を救ってくれた命。
 でも、その少年の心は――――

「――――貴方の心は死んだままだった。止まったまま、あの赫い日から動いていなかった」
「―――――」
「…………貴方が魔術を習おうとしたり、人の助けになろうとしていた事を、切嗣は単なる憧れだと思っていたのでしょう。子が父に憧れるようなものだと。
 けれど、貴方のそれは憧れなどではなかった。
 あの惨状の中で、貴方の心は空になってしまった。そうして、生きる意志も、そのための目的 も、何もかもを喪った貴方が、無くしてしまった物を埋め合わせる為に見付けた事が、“切嗣のようになる”という事でした」

 それは、私と似ていたのかもしれない。
 人である事を棄て、自身の意思を殺し、心を空にした私が、自分でも気付かぬうちに磨り減り、戻れなくなるほど疲弊してもまだ、“王の使命”を寄る辺に在ったことと……

「―――――だから彼は、呪いを遺すことにした。
 代わりとなる目的を、誰かの蹟を倣うのではない自分だけの標を、遂に彼は貴方に見付けさせてやれなかった。
 そう、思った。
 だから、あの夜…………
 貴方が言った言葉に安堵してみせることで、彼は貴方に呪いをかけたのです」

 私を見る彼の目が、張り詰めたように見開かれる。

「笑顔を偽り、言葉を遺して、彼は貴方の心を縛った。
 自分が死んだ後も、“正義の味方になる”という意志を貴方が無くさないように」

 目が熱い。咽がひり付いて、息が詰まる。苦しい。

「―――――詛いなど、 それに抗う意志さえあればただの言葉でしかない。貴方が自分だけの目指すべきモノを見付けたのなら、自分の言葉に意味は無くなる。
 そう考えて、切嗣は『安心した』と笑ったのだと思います。出来る限りの笑顔で…………」

 けれど、そんな形でしかこの人を護れなくなる事を彼が悔やまないはずはない。
 以前の私なら、きっとそんなことは思わなかった。気付けなかった。でも、この人と同じ時間を過ごしてきた今なら解る。
 あんなに優しい顔になれる彼が、それを納得できるわけなどないと。

「だから―――――私には、泣いているようにしか見えなかった。
 あんなに……綺麗な笑顔なのに…………」

 目を伏せたまま、彼は何も言わない。
 私も、もう何も言えなかった。今まで溢れるように出てきた言葉はふっつり途切れてしまって、私の心も、きっと空っぽになってしまったのだろう。
 風が吹き、雲が流れて、月が陰り、また顔を出す。
 いつの間にか息を潜めるように止んでいた虫の声が、遠慮がちに響き始 める。
 そうして。

「――――そん……なの」

 雫が落ちた。

「……お前が、勝手に言ってるだけじゃないか」

 呟く彼の声に力は無く。

「―――――そう……ですね」

 ポタリ、ポタリと。

「お前が……そう思っただけじゃないか」

 俯いた彼の頬を伝って。

「でも、わかるのです」

 落ちる雫が、黒い跡を刻んでいく。

「どうして――――そんな……こと」

 どうして、なんて、そんなことわかるに決まっている。

「理由……ですか?」

 だって、あの黎明、あの黄金の野原で別れた時………

「あの時の私も、そうだったから」

 でも今は、あの夜明けとは違う。
 手を伸ばせば、届く距離。
 触れられる。抱きしめられる。

―――――ならば。
 すべきことなど、初めから決まっている。

「セイ……バー…………」

 彼の頭を、胸にそっと掻き抱く。
 ふわりと香ってくるのは、 私の好きな、日向の匂い。
 腕の中で、彼が小さく声を漏らす。
 染み込む彼の涙が温かい。

「――――貴方の傍には、いつだって大河が居たでしょう?
 切嗣が居なくなって、また独りになった貴方の隣で、どんな時も彼女は貴方を支えていたはずです」

 そう。彼の中には、ずっと前から、大河が居る。
 今の私では入り込めないところにだって、彼女は容易に入り込めるのだ。
 それは少し悔しいけれど、

「それに……今は、私もいます」

 いつかきっと、私もそうなれるはず――――なってみせる。

「桜も、凛も、イリヤスフィールも………いつだって、貴方の隣で貴方を支えたいと思っているはずです」

 語る声音は、不思議と優しく。

「みんな、貴方が貴方だから、貴方を好きなのです」

 紡ぐ言葉は、穏やかで温かい。

「貴方の中には………もう、たくさんの人が居る」

 それを、この人に教えてあげるために。

「ずっと前から、貴方の心 は貴方を思う人で一杯だった」

 少しだけ、それまでよりもきつく抱きしめる。

「貴方はそれに気付かないまま、ずっと切嗣の蹟を走り続けてきた。
 たった一人で、ずっと…………
 でも……本当は今までだって、貴方の隣には誰かが居たはずです。貴方と共に進もうと思ってくれる誰かが」

 そうして。

「だから――――」

 私の中の、この想いが届くように。

「――――貴方はずっと、独りではなかったのですよ。シロウ――――」

 そっと離した手を彼の頬に添えて。
 蒼い蒼い月の下。
 そっと、彼に口付けた。





   おわり


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