二月十四日昼の出来事

作:しにを

            




「どうしよう……」

 迷う声。
 鮮花にしては珍しい事だった。
 怒った顔も、泣き顔も、もちろん笑顔も、見目麗しき美女がその表情を浮か
べたなのであれば、それはこのうえなく似合った表情となると言う。
 今の鮮花についても、その言葉の範疇にあっただろう。

 艶やかな長い黒髪。
 意志のはっきりとした瞳。
 人目を引くほどの端整な顔立ち。
 単に見目が良いと言うだけでなく、聡明さや生き生きとした様があふれ出て
いる。
 その少女が、常ならず憂い顔をしている。
 溜息をつき、迷いに迷っている。

 それは鮮花らしいと思える姿ではなかったが、それでも、あるいはそれ故に、
いつもとは違った魅力あった。
 眺める者がいれば、感嘆しただろう。
 もっとも、今の鮮花にとっては、そんな誰とも知らぬ他者は知った事ではな
かった。
 何故なら、この瞬間に彼女の心を占めているのは一人、ひとつの葛藤だけで
あったから。

 時に2月14日。
 聖バレンタイン・デー。
 要するに、鮮花は他の数多くの少女達と同じ悩みに胸焦がしていたのだった。

 己が人生全てを賭しての選択。
 想いの結晶たるチョコレート。
 渡すや、渡さざるや。
 
 しかし、本人にとっては世界の存亡よりも重要な関心事であったが、表面上
はさほど物珍しくない葛藤。
 ……の筈なのだが、この鮮花の迷いは少々風変わりであった。
 単に勇気を出せば良いというのではない。
 玉砕を覚悟し、心の剣を握れば済む訳ではない。
 鮮花の悩みには、解決策は何もなかった。
 少なくとも前向きに行動するのであれば、どちらも袋小路に辿り着くだけ。

 正面から、愛する男性の目を見つめ、チョコレートを差し出す。
 あなたが好きですという告白の徴として。
 そして、心からの想いを瞳から伝える。
 ……。
 想像すると、少し心のときめきを覚えたが、鮮花は慌ててすぐにも行動した
くなる衝動を封殺した。
 出来る訳が無い。
 そんなものを幹也に渡し、意思表示できる訳が無かった。
 これまでの長い計画を放り投げて、そんな衝動的な真似など出来ない。

 でも、チョコレートは渡したい。
 迷った末に買って、こっそりと加工し、丁寧に包み紙で飾った小箱。これを
幹也に渡したい。
 愛の告白とかでなくて、もう少し穏便に受け取って貰いたい。
 ではもっと意味を薄らげたもの、親しい異性、家族に半ば儀礼的に渡すのを
装ってはどうか。
 それも鮮花には出来なかった。
 妹からのプレゼント、家族からの親愛の情、そんなスタンスで受け止められ
ては堪らない。
 これまた、妹である事からの脱却を図った幼い頃からの努力を御破算にする
ような真似。

 匿名でこっそり渡しても意味は無い。
 しかし、どう考えても渡せる訳が無かった。

 何もしない現状維持。
 こちらからの溢れんばかりの恋心を告げる必要も無く、兄と妹という関係を
再認識させる危険性も無く。
 もしかすると、ある種の寂しさを与えて、微弱とは言え、幹也は鮮花を意識
するかもしれない。
 理性的に判断するなら、答えなしもまた答えなりと結論付けるのが最良の道。
 でも、鮮花は、理性的存在になり切れなかった。
 故の煩悶、堂々巡り。

「なんだ、まだ渡していないのか」

 急に聞こえた声に雷鳴が響き渡ったようにびくんと体をさせる。
 声を掛けた方がむしろ驚くほどの反応。

「と、と、と、橙子師」
「あ、ああ」

 傍から見れば何をしているのだとと奇妙に思えるであろう構図。
 びっくり顔での見つめ合い。
 しかし、共に常人とは違う数々の技能を有した身、瞬時に冷静さを取り戻す。
 それはそれで、変ではあった。

「何の事でしょう」
「何のって、黒桐にチョコレート渡さないのかね、鮮花は」
「……」

 あまりの直球勝負の言葉に、ポーカーフェイスでいられず鮮花は動揺を露わ
にする。
 さすがに年季の差は顕著であった。これが例え攻守逆であったとしても、鮮
花の師であれば、もう少し柔軟に、あるいは厚顔に対処し得たであろう。
 ともあれ、軽い混乱から抜けられず、どう答えたものかと、鮮花は答えあぐ
ねていた。
 それを見て、既に答えは不要となったのだろう。鮮花の返答を待たずに、橙
子は次なる導火線に火をつけた。それも、複数に枝分かれする線に。

「式はもう、黒桐に渡したぞ」
「えッ」
「なッ」

 鮮花だけでなく、ソファーの方からも、絶句したような声が聞こえた。
 我関せずとソファーに寝そべっていた式が身を起こす。
 唐突に名前を出されたと言うだけでなく、珍しくも、動揺や狼狽の色が浮か
んでいる。
 鮮花もまた、驚愕の表情で、固まっている。
 それを楽しそうに眺める橙子。
 二竦み一強たる構図が出来上がる。

「トウコ、おまえ、なんで、知っているんだ」
「単なる推測だがね。おまえの様子と、黒桐の反応を見れば察しはつこうと言
うものだ」

 引っ掛けかと悔しそうに呟く式に、いやいやと橙子は否定する。

「ある時を境に、黒桐が急にアグレッシブになったからな。
 この寒空に外の仕事だと言うのに、弾んだ足取りで。
 何があったのか、そんなもの苦でもないという顔
 いやいや、若いって素晴らしい事だな」

 煙草の煙を吐きながら、妙にしみじみと口にする。
 そして、ニヤリと笑みを式に向ける。

「いったい何が黒桐のカンフル剤になったと思うかね、式?」
「……」
「午前のテンションだと、仕事として出掛けはしただろうが、あれほど嬉々と
しては外出しなかった筈なんだが」
「……」
「つまらん板チョコ一枚でああも動くとは、お手軽な男だな」
「ふざけるな。ちゃんと、さんざん迷って…ふん」

 黙秘を決め込んでいた式は、いまいましげに橙子を睨む。
 まったくに痛痒に感じず、その視線を橙子は受け止める。

「まあ、いいじゃないか。
 私は別段、難癖を付けるつもりはない。
 むしろ、喜ばしい事ではないかと思うぞ。なんとも微笑ましいしな。
 そうは、思わないかね、我が弟子は?」

 完全沈黙を保っていた鮮花に、思い出したように式は顔を向けた。
 じっと、鉄の塊の如く強固に存在感をもって、鮮花は式を見つめていた。
 睨むと言うよりも、射通す、そんな視線。
 常人であれば、それだけで後ずさりしそうな視線。

「何か文句でもあるのか」

 互いに視線を合わせる事、数秒間。
 沈黙に耐え切れずと言う訳でもないのだろうが、式が口を開いた。
 話を振っておいて、橙子はいつの間にか傍観者に転じていた。
 もっとも、式も鮮花もそんな事に注意を払っていない。

「文句、無いわ。あなたの行動に口を挟むつもりもないし」
「そうか」

 表面上は言葉として発せられないものの、無数の生まれ出でない言葉が水面
下で絡み合っているような雰囲気。
 が、鮮花は、内心に渦巻く何ものかを外に出すのではなく、内で固めて飲み
込んでしまい、溜息をついた。

「ふうん、式は幹也にあげたんだ」

 小さな呟き。
 かえって式が戸惑うような、声。

「でも……」

 しかし、一瞬。
 弱々しく見えたかに見えた表情は、すぐに元通りに回復する。

「そんな事するキャラクターじゃないでしょうに、あなたは」

 意外な言葉に、式は僅かに目を丸くする。
 ある意味、壮絶なまでの言い掛かり。
 しかし、直接的な反発でも、無視でもなく、式は考え込むように眉を顰める。
 鮮花の意図以上に、言われた言葉に反応していた。
 ようやく、結論が出たのか言葉を返す。ほんの一言。

「そうだな」
「そうだなって、納得している訳?」
「ああ」
「なら、そんなチョコレートなんて用意しなくてもいいじゃない」

 自分でも何を言って、何を待っているのかわからない。
 そんな顔をしつつも、鮮花は答えを待った。
 さきほどの黙考で解答を見出していたのだろう、式は簡潔に答えを戻す。

「そうすると、幹也が一つも貰えない事になる。それは何か嫌だ」
「なッッ」

 予想し得ない答え。
 しかし、それはどこか鮮花の琴線に触れた。
 あり得ない共感を持って式を見つめる。
 一瞬だけ。

「じゃあ、式は幹也に好意は持っていないんだ。そうなるわよね」
「そんな事、おまえの知った事じゃないな」

 再び、噛み合うように対峙。
 いつものような冷たくもあり、熱くもある言葉の応酬が交わされようとして
いたのだが、およそ平和を愛するとは思えぬ第三者によって中断された。
 橙子の忍び笑い。
 
「なんだよ、橙子」
「何を笑っているんです、橙子師」
「ああ、すまん。つい、な。
 気にせず、心ゆくまで、舌戦を繰り広げてくれていいぞ。
 黒桐も当分戻らないだろうしな」

 橙子の言葉に、いや、黒桐と言う言葉に、二人は反応する。
 沈静の方向へ。

「なんだ、止めるのか。つまら…いやいや。
 まあ、屈折した心持ちをもって式を責めるのも、やめておいた方が良かろう。
 しかしだな、そうした理由ならばだ、早めに言っておけば良かったか。
 すまんな、式」
「どういう事だ?」
「別に式が黒桐の気遣いする必要は無かったんだ。黒桐なら、既に一個は貰っ
いたのだからな」

 特に起伏無く紡がれる言葉。
 しかし、それに、その言葉に、二人の少女は間違う事無く反応した。

「え!?」
「貰った?」

 予想もつかぬ事実を突きつけられたように、二人はぽかんとする。

「嘘だ」
「誰に」

 微妙に違った反応。

「何、嘘なものか。間違いない事実であると言う事は、蒼崎の名に掛けて誓っ
てもいい」

 大真面目な顔。
 式と鮮花は、それぞれに考え始める。
 可能性の抽出と妥当性検討。
 与えられた情報からの演繹。
 情報ソースの信頼性の判断。

「……」
「……」

 一人悠然と、橙子は新たな紫煙を作り出している。
 その姿。どう見ても、その顔が意地の悪い笑みを隠していると、二人は同時
に着目した。

「もしかして、橙子師?」
「トウコ、おまえか?」

 ふう、と答えずに煙の輪を作ってみたり。
 返事無き事務所の主に対し、殺気じみた空気が纏わりつく。

「なんだ、やっとわかったのか。
 他に、誰がいる?」

 二人は答えない。

「この事務所唯一の男手だ。大人の女性として気遣いしたとて、不思議ではあ
るまい。
 たまにはこんな俗事に参加してみるのも、そう悪くはない。
 黒桐も何だかんだ言って、喜んでいたしな」
「幹也がか?」
「ああ。朝から見違えたように。
 まあ、ああいった姿を見ると、黒桐とは言え、可愛く見えなくもないな。
 誰かさん程には効力がないがね」

 ふん、とそっぽを向く式。
 一仕事終えたような満足した笑みをそちらに向けると、橙子は視線を横に転
じた。
 彼女の優秀な教え子が、黙って立っている。
 どこか途方に暮れたような顔をして。

「と言う事で、黒桐は充分にチョコレートには恵まれた訳だ。
 良かったな、鮮花」
「良かったって……」
「さっきから迷っていただろう、用意したチョコレートをどうしたものかと。
 私には鮮花が何を思い悩んでいたのかはわからない。
 ただ、渡したいと思ったのなら、如何なる障害があろうと、我が弟子は逡巡
なく実行に移していた筈だ。
 そうしなかったと言う事は、したくなかったからだ。
 理由は知らないが、黒桐幹也に、黒桐鮮花は、この日にチョコレートの包み
など渡したくなかったのだ。
 だから、良かったと言った」
「わかりません。何が良かったのです?」

 橙子は次第に、朗読でもする様な口調になっていた。
 耳に通りやすいその言葉を、鮮花は抵抗無く聞き、釣り込まれるように問い
を口にした。
 それを最初からの既定事実のように、橙子は説明する。

「既に黒桐は私と式に、貰っているのだ。
 あと一個や二個増えたとて、さして大勢に影響はないだろう。
 黒桐の心理的比重はかなり下がっている。
 鮮花が渡そうが渡すまいが、さして問題が無くなるほどにな。
 ならば、渡さなくても良かろう。
 そんなに渡す事に躊躇い続けていたのだ。
 問題が解決して、良かっただろう?」

 師の決して短くは無い言葉を鮮花は黙って聞き、そして頭の中で噛み砕いて
いく。

「渡そうが渡すまいが、さして問題が無い……。
 私が渡しても、たいした影響は無い」
「ああ」

 自分の手にしたものを見つめる。
 何か考え始める。
 さんざん迷っていた迷路から、新たな道を見つけ出した顔。 
 その鮮花を見つめ、打って変わった事務的な口調で、橙子は誰にともなく話
し始める。

「ところで、特に用が無いなら、ひとつ頼まれてくれる者はいるかな。
 さっきも言ったように、下見と言う事で、吹きっ晒しの更地に黒桐は出掛け
ていてね。
 しばらく戻らないだろうし、熱いコーヒーでも差し入れしても罰は当たらな
いなあと思っていた処だ。
 それで…」
「行きます。私が行って来ます」
「いや、無理しなくても。そこで式も暇そうに…」
「ああ、いいぞ。何処だ、場所は?」
「私が行くってば。はい、……わかります、そこなら問題ありません。
 では、行って来ます」

 コーヒーセットから湯気立てる黒い液体を、どぼどぼと水筒型の魔法瓶に注
ぎ込むと、鮮花は飛ぶように部屋を後にした。
 さほど耳を澄まさなくとも、階段が悲鳴を上げているのがわかる。

「意外と優しいな、式」
「何が?」
「すんなりと行かせてやるとは」
「あまりに鬱陶しかったからだ」
「まあ、そうだな」

 残りのコーヒーをカップに注ぎながら、魔術師は頷く。
 顔を動かさず、視線だけで式はそれを追う。

「しかしだな、トウコ」
「何かね?」
「おまえこそ、やけに優しいじゃないか。らしくもない」
「そんな事はない。世界に平和をなどとは夢にも思わないが、ささやかな身の
回りの平穏くらいは願っている。私は身内にだけは心を配るんだ」
「ほほう」
「だいたい、単に事実を述べただけだからな。
 良い方に解釈して、心理的抵抗を減じたのは、あくまで当人だ」
「そんなものか」
「ああ」

 自分のと別に、もう一つのカップに残りの残りを注ぎ終え、橙子は式の前に
置いた。

「それに、もう一つ」
「うん?」
「ここで二時間ばかり、いや少なくとも昨日から葛藤していた我が弟子が、勢
いとは言え飛び出して、ほんの小一時間で心に折り合いがつけられると思うか
ね、式は?」
「思わない」

 橙子の顔が、何とも言えない笑みを浮かべる。
 式もまた。僅かに唇の端にうっすらと歪みを浮かべた。

「性格が悪いぞ、式」
「おまえにだけは言われたくない」

 さらに一人の笑みと、もう一人の笑みらしき徴が色濃くなる。

「結果が楽しみではないかね」
「さてね」

 二人顔を見合わせる。
 そして、同時に口を開く。

「気落ちして帰って来る」
「いや、怒りながらだろう」

 乾杯の合図のように、コーヒーカップが持ち上げられ傾く。
 健闘を祈るように。
 あるいは、未来予想に哀悼を表すように。

 そんな、二月十四日の午後。


  了











―――あとがき

 と言う事で、昼のお話でした。
 どうも、幹也がいないと書きにくくて堪りません。
 
 久々に「空の境界」で書いたので、今ひとつ掴み難かったですが、やっぱり
橙子さん、あるいは彼女の台詞を書くのは楽しいです。
 鮮花は……、鮮花ならではという内容が、多分に秋葉でも表現できるので、
難しいですね。時折、何か書きたくなるし、書き掛けのもあるのですが。
 
 お読み頂き、ありがとうございました。

  by しにを(2004/2/14)


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