バレンタイン寸劇


作:10=8 01






「ばれんたいん、ですか?」
 朝食を終えた衛宮邸の厨房には二つの人影があった。一方は細やかで美しい金髪を一つに纏めた少女。もう一人は艶やかな黒髪を二房に纏め、背中まで伸ばした少女。ちなみに家主である少年は、生徒会の手伝いで早々に登校していた。
 凛が投げかけた話題に、セイバーが小首を傾げる。
「そ、起源は外国の方だけど、チョコレートを好きな人にプレゼントするってのは日本独特の風習ね」
「成る程……ばれんたいん」
 呟きつつ、セイバーは止めていた作業を再開する。手元では朝食で使われた食器が泡に包まれてゆく。
 泡の量が増えてゆくのに合わせて、二人の間にゆったりとした沈黙が訪れる。
「って、セイバー! そ、それで終わり?」
「はい? あの、それで終わり……とは?」
 別段、ふざけているわけでもなく、この上なく真面目そうな顔を向けるセイバー。
「いやいやいや……ほら、士郎にチョコレートあげたりしないのかな、って……」
「――――っ」
 ぼふっ。
 一瞬でセイバーの顔が真っ赤になった。
 頭からはまるで茹で上がった蛸ように湯気が立ち込めていたりする。
 さらに付け加えるなら、彼女の手元にあった皿に異様な力が込められた。ぱりーん。
 ぎ、ぎ、ぎ、と錆びたゼンマイ式人形のような音を立てながら、ゆっくりとセイバーは凛に顔を向ける。
「な、ななななななな、何を言っているのですかっ、り、りり凛っ。わ、私がば、ばれんたいんなんて……そんな」
「別にそんな反応する必要ないじゃない」
「いえ、ですが……私は……その」
「あのね、セイバーは士郎の恋人でしょう?」
 慌てふためく相手とは対象的に、落ち着きを湛えた視線で問う。
 セイバーは視線を逸らすが、それで話題を変えられるはずも無い。
「……………………は、はい」
「ならいいじゃないの」
「しかし、その今日突然そんなことを言われましても……」
「ふーん。でも、どうだろうねえ……」
 泡の付いた手を洗い、腕組みしながらしみじみとした声を凛は響かせる。
「一年に一度のバレンタインデー。そりゃ義理とかあるからゼロじゃあないだろうけど、本当に好きなセイバーから貰えないとなったら……士郎はどんな気分かしらねぇ、うんうん」
「り、凛っ、その言い方は卑怯です!」
「じゃあセイバーは士郎にチョコを贈りたくないのね」
 さらにカウンターを一撃。
「ううっ。そ、それは……」
 さて、その結果はというと。

■■

「ふむ……チョコを湯煎にかけて……」
 いつもの髪型、いつもの服装、しかしその上には三角巾とエプロンという格好のセイバー。つい先程、皿を洗ったばかりの厨房はボウルやらチョコやらで、乱雑という言葉をそのまま形にしたみたい。テーブルにはそんな調理器具や食材に混じって一冊の本が置いてあった。
 凛から譲り受けたバレンタインの特集が掲載されている女性誌だ。見開きに可愛らしい文字が大きく記されている―――薔恋蛇印・絶対攻略・劇的美味血世個零闘の作り方。バレンタイン司教の追悼の為に中国から伝わった文化で、本来は血を固めたものを供えていたのだが、時代が廻ってチョコになったとか民明くさい解説で説明されている。
 何だか激しく間違っている気もするけれど、とりあえずチョコの作り方は掲載されているので問題は無いだろう。
「しかし……こんな単純な作り方でいいのでしょうか」
 チョコを刻む。湯煎にかけて溶かす。冷やす。以上。
 これだけである。
 ぶっちゃけ、溶かして固めただけ。
「………………むう」
 思い返す。
 士郎が作る料理にはもっと手間隙がかけられ、よっぽどのことが無い限り雑な料理など作りはしなかった。しかし、どうだろう。目の前にある自作のチョコは、溶かして固めるだけという粗雑この上ない出来。
 このままでは……

 ―――し、シロウ。わ、私のチョコを……
 ―――あ、ありがとう。それじゃ早速、頂きます……あむ………ん?
 ―――シロウ?
 ―――う、ん。何か市販の味がする。
 ―――ぎいいいぃぃぃーーーーくうううううぅぅぅ。
 ―――セイバーの愛って市販のもの程度なんだな……がっかりだ、残りの令呪を使うから契約を解消しよう。

「いやあぁぁーっ!! シロウ、待ってええええええ……………って、このままではいけません!」
 とりあえず作りかけのチョコはそのままにして、雑誌の隅々まで目を通す。もっと手間隙が掛かったものはないだろうか。
 いや、待てよ。
 相手はあの衛宮士郎だ。こと料理に関してはセイバーの歯が立つ相手ではない。何せこちらは料理の経験が絶無。それこそセイバーと士郎の剣の腕の差ほど、料理の腕は向こうが優れているだろう。そんな相手にチョコレート。駄目だ、無謀すぎる。満足なものも作れないくせに、それを食べてもらおうというのは傲慢もいいところではないだろうか。
 いや、それも待て。
 だとすれば、士郎が自分に剣の鍛錬を申し出ることも傲慢だということか。いや、それは違う。あれは鍛錬であって、自分に戦いを挑んでいるわけではない。セイバーが士郎に料理を教えてもらうようなものである。
「ん?」
 小首を傾げたセイバーが、ふと思い至る。
「そうですっ! シロウに教えてもらえばいいではないですかっ!!」
 何のことは無い。  下手なら上手い者に教えを乞えばいい。そんな単純なことに今まで気づかなかったとは、自分の思考も相当錆びれている。
料理が上手な者と言えば、自分には衛宮士郎がいるではないか………
「…………………」

 ………………………………………………………………………………

「―――って! それじゃあ意味がありませぇぇぇぇんっ!!」
 渡す相手に教えてもらってどうするのか。
 どうやら本気で思考が錆びれているらしい。
 となると、他に頼れる相手は凛か桜だろう。大河にだけは絶対に頼ってはいけない。心の中の奥深く、セイバーの直感がそう告げていた。彼女ならチョコを作ると言い出して、もんじゃ焼きが完成しても何ら不思議ではないだろう。だからこそ恐ろしい。
 しかし、凛も桜も頼るとしたら一筋縄ではいかなそうである。凛に頼ればからかわれるのは必須であろうし、桜は……何だか知らないけど危険なニオイがする。それに、そもそも人の手を頼るのではなく、自分の力でやりとげなくては意味が無い。
「シロウへの愛情を示すのです、か、ら……あ、あいじょ、あいじょう……」
 ぼふっ。
 自分で言い聞かせ、自分で赤面してしまう。
 いや、おかしなことなど何一つとして存在しない。聖杯戦争終結からかれこれ一年が経過するが、少女としてのセイバーを支えてくれた士郎を愛している。そして士郎もセイバーを愛してくれている。魔力供給としてではなく、感情の赴くままに身体を重ねた事だって何度もある。
 セイバーと衛宮士郎は相思相愛。
 それは当然のことであって、今更、生娘のように恥ずかしがることなど……
「ことなど………あ、あう………」
 ぼふっ。
 真っ白な湯気がセイバーの顔面から沸き立った。
 なんというか。
 早々簡単に照れは無くならないものらしい。

■■

「ただいまー、って……うあ、何、このチョコの匂い」
「し、シロウっ。きょ、今日は随分と早い帰りでっ」
 帰宅した士郎の目に飛び込んだのは、雑然とした厨房の光景。溶かしてそのままボウルに入れっぱなしのチョコレートに、出しっぱなしのトレイ。湯煎に使ったであろう鍋には水がまだ入っている。幸いにしてコンロは付けっぱなしではないらしい。包丁もチョコを刻んでから洗っていない。雑誌は相当読み込んだのか、数枚ほど剥がれたページがある。
 一通り厨房の惨状を眺めた後、士郎は視線をセイバーへと向けた。
「えーと、これって……」
「すいません、シロウ。すぐに片付けますっ」
「ああいや、続けるのならそのままでいいよ……」
 とは言ったものの、こういう場面に遭遇してしまったのは、男としては微妙に気まずい。今日が何の日なのか知らぬ士郎ではないし、セイバーがチョコを作っているということは彼女もそれを知らぬはずがないだろう。
 さて、どうしたものか。
 本来ならば、ここで何も知らぬフリでもして引くのが男というものだろう。
 だろうけど。
 ここまで散らかった厨房を見ると、どうしても“片付けたい”という欲求が湧き上がってくる。単純に言えば家政夫魂というヤツ。
「と、とりあえず……使わないもの片付けよっか。包丁とか洗わないと」
「あ、そ、そうですねっ」
 硬直していたセイバーが弾かれたように同意するのを聞きながら、士郎は包丁を洗い、使う必要が無さそうな道具をしまい始める。手際の良い動きに、ほう、という感心の吐息が聞こえた。
「すいません……シロウ」
「あー、いいっていいって。それにしても、随分と使う必要の無い食材とか出してたけど……」
「その……ただチョコレートを作るだけでは、雑な作りになってしまうと思い……もう少し手の込んだものを作ろうと……」
 成る程、と士郎が頷く。確かにチョコケーキなど、手の込んだものを作るとなると材料や器具もそれなりに必要になる。だとしても酷い散らかり具合だったが、それはセイバーが料理に関して素人だからだろう。
 そこまで無理しなくていいのに、と思う一方で、一生懸命になってくれるセイバーを可愛らしくも思っていた。
「ありがとな……うん、でもさ、俺は雑とかそういうことを気にしないよ。セイバーが作ってくれた、そのことが俺にとってはすごく嬉しい」
「………あ。で、ですが、やはり申し訳ない気持ちにもなります。溶かして固めただけなど市販の味と変わりません。それでは、あまりにもぞんざいですし―――」
 一端言葉を切り。
 一息ついて、言葉を繋げる。
「その……何と言うのでしょうか、士郎をあ、あ、愛しているから、だから中途半端にしたくなかったのです」
「う、うあっ」
 これは。
 くらりと、きた。
 上辺では平静を装うとしているが、そんなものは紙みたいに薄っぺらくて、セイバーが照れている様子がはっきりと表情にあらわれている。
 鼻腔の奥まで突き抜ける甘い香りが脳内にまで押し寄せてきたみたいだ。それは麻薬のようにこちらの脳髄を犯し、くらくらと揺れる思考はまともに動こうとしてくれない。
 何か、今なら物凄くこっ恥ずかしいことも出来そうな、そんな感覚。
「あ、あのさ―――」
「は、はい」
「市販の味しかしなくても、ちゃんとセイバーだけにしか出せない味が……出来ると思うよ」
「……そうでしょうか?」
 疑問符を浮かべるセイバーに行動で答えを示す。ボウルに入ったチョコを指で掬い取って、そのまま彼女の口に突っ込む。柔らかい唇と人差し指とが擦れあって少しこそばゆい。
 最初は突然のことに軽い抵抗があったが、すぐにセイバーの口腔は士郎の指を受け入れた。舌先が指先に絡まり、チョコレートを舐め取ってゆく。代わりに塗りたくられるのは彼女の唾液。
「ん……む、あ……んんっ」
「セイバー。チョコはそのまま口に含んで」
 士郎が告げるまま、セイバーは唾液と混ざったチョコレートをもごもごと口の中に溜める。そこから、ゆっくりと人差し指を引き抜いた。唇に擦られながら抜け出る指先が糸を引き、甘い匂いを士郎の鼻腔に満たしてゆく。
 それを呆けたように見つめるセイバーの眸は、それこそチョコのように蕩けていて無防備だった。
 だから、セイバーの唇を士郎の唇でふさぐのも、そこに舌を割り入れることも簡単だった。花が開くように慎ましやかに、こちらの舌を受け入れたセイバーの唇。そこから、とろりとした温かいものが流れ込んでくる。舌先を優しく刺激するビタースウィート。甘い。チョコレートの味がした。
 だけど、それだけではなかった。
「ん、ぷ……はぁ、あ……セイバーの、味がする」
「あぅ……シロウ……その……」
「これなら、誰にも、他の何にも変えることが出来ない味になるし―――」
 一端言葉を切り。
 一息ついて、言葉を繋げる。
「それに、絶対に中途半端にはならない―――んっ」
「ん……ふぁ、あ……んん……」
 強く、強く互いを求め合う。
 互いの口腔を移動する蕩けたチョコレートは、まるで二人を繋ぐ役目を果たしているかのよう。
 自分にしては大胆すぎたかもしれない。思考の端でそう思う士郎だったが、たまにはそういうのも悪くは無いとも同時に思う。
 セイバーの背中に手をやって、そっと、それでいて力強く抱きしめる。触れ合う身体と身体が、まるで互いの口腔の中を流れるチョコレートみたいに蕩けて、一つになってしまいそう。
 舌先の甘さから覚えるそんな錯覚が、今は蕩けるほどに心地良い。

   <了>



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