奏でる

作:しにを

            




 ケースを開ける。
 取り出すのは、ヴァイオリン。
 随分と久し振りの事だった。

 手に取ると、すんなりと馴染む感触。
 触れていないと空白がどうだろうかと思ったけど、まだ、関係は切れていない。
 でも、弾いてみたらどうだろう。
 私の腕は落ちていないだろうか。

 もともと専門の演奏家を目指していた訳ではない。
 生け花やその他の習い事同様に、何か楽器のひとつもと始めた物。
 遠野家の一人娘として、それぐらいの嗜みも必要という事だろう。
 なんでヴァイオリンだったのかは憶えていない。
 かなり大きなグランドピアノだって家にはあったのに。
 誰かの趣味だったのだろうか。
 
 他の教育と同じように、私には拒否する権利はなかった。
 それに、拒否しようという意志もなかった。
 そういうものなのだと幼い時から思っていたのだから。

 それでも、楽器の演奏という行為を、私は気に入った。
 音もろくに出せない状態から、何とか音階を取れるようになるまで。
 音色と呼べるものを奏でられるようになるまで。
 決して投げ出す事無く、そうしたくとも許されなかっただろうけど、続けてき
たのだ。 
 教え方も良かったのだろう。
 
 兄さんが帰って来てから、そう足しげく通い、練習に時間を費やす事は無くな
ってしまった。
 それが少し残念に思うほどには、私は音を奏でる事を好いていた。
 でも、取り捨てて省みない程度のものでしかなかったのかもしれない。
 こうして思い出したように取り出して、掻き鳴らしてみようかなと考えはする
けれど。

 弓の調子を確かめる。
 時々手入れもするし、きちんと保管してある楽器は、前にしまった時から変化
はない。
 もしも以前と違った音を出すとすれば、それは私の側の問題。
 
 特に力み無く構える。
 この重み、感触。
 肩、腕、体全体が自然に動く。
 うん、しっくりと来る。

 右腕を動かす。
 運弓法を意識して、同時に脳裏から消す。
 弓を使って音を出すのではなく、手で弦に触れるようなつもりで、音を出す。

 最初の一弾き。
 音が奏でられる。
 手に伝わる接触面の摩擦。
 肩と顎に伝わる響き。
 正しく音が出たと、耳だけでなく体に伝わる。

 ああ、これだ。
 体はきちんと覚えていてくれた。
 そのまま、一曲奏でる。
 簡単な曲。
 小さい頃から練習として弾かされた曲。
 
 それでも初心者と熟練者ではまるで違うのです。
 先生はそう言って、何度となくこの曲を演奏させた。
 確かに、手本として弾かれたこの曲は、同じヴァイオリンから出たのが不思議
なほどの音色だった。
 
 うん、自然に弾けている。
 変な力みもなく、伸びやかに音が出ていると思う。
 ささやかな快感を覚える。
 自分の手が綺麗な音を奏でている。
 その事に喜びを感じている。

 思い出す。
 耳を塞ぎたくなるギーギー音。
 それが色を変えた日。
 まったく同じに子供には大きなヴァイオリンを手にして。
 精一杯手を動かして。
 同じ事を何百回とやって。
 その挙句に、どんな違いなのか、軋みが音になった時の。
 あの、何ともいえない喜び。
 
 今ならばわかる。
 どんな角度で、どんな力で、どんなタイミングで手を動かせばいいのか。
 低音を、高音を。
 澄んだ音色を、震える響きを。
 それなりには自在に操れる。
 けれど、あの時には、ちょっとした魔法を手に入れたみたいな歓喜があった。

 きっとそれだから、僅かにでもあの喜びが心のどこかにあるから。
 私は時々、こうしてヴァイオリンを手に取るのだろう。
 
 最後の一弾き。
 消えていく、音の余韻。
 
 小さく溜息をつく。
 驚くほどの満足感。
 自分で弾いて陶酔しているみたいだけど、少し違う。
 どう云えばいいだろう。純粋な音楽への喜び。
 少し気取った言い方だけど、そんなに特別なものではない。
 子供が大きな声で歌を歌うみたいなものに近い。
 行為それ自体への喜び、そして少しはよく出来たという喜び。
 
 一曲弾き終わって、まだ手にしたものは下ろされていない。
 ちょっと弾いてみるだけという気持ちが、もっと膨らんだ。 
 今度は、何の曲にしよう。
 そう考えていると、扉を叩く音。
 こんな時間にやって来るのは……。

 琥珀に少し水を差されたと思いつつ、声を返した。
 開けてもいいと。
 扉の小さな音に、顔を向けた。

 あっ。
 驚いた。
 何故なら、そこに覗いていたのは思いがけぬ顔だったから。

「兄さん、どうなさったんです?」
「うん、ヴァイオリンを弾いているんだなって思って」

 少し首を傾げた。
 殊更に防音の造りとはなっていないが、そうそう音が外に洩れるとも思えない。
 さすがに近くまで来れば耳にする事はあるだろう。
 でも、兄さんの部屋まで届くなど、まずありえない。

「聞こえたのですか?」
「ああ、たまたま秋葉の部屋に行こうとしてたから。
 小さくだけど、音色が耳に入った」

 それならばわかる。
 でも、今度は別の疑問。
 何をしようと兄さんは私の部屋まで、と。
 私の表情で読み取ったのだろうか。質問として形になる前に、兄さんは説明を
はじめた。

「下で琥珀さんに会ったら、秋葉の部屋に行ったらどうかって勧められたんだよ」
「琥珀がですか? どうして……」
「それは教えてくれなかったから、ここに来るまで俺もわからなかった。
 行ってのお楽しみです。面白いものにお目にかかれますよって。そう楽しそう
に言ってたっけ」
「なるほど、わかりました。これを出すように言ったのは、琥珀にでしたから」

 手にしたヴァイオリン。
 私が興がのって弾いていたとしても、ただ部屋に置いあるだけだったとしても、
兄さんには珍しい一品だろう。
 そんな事を考えての、琥珀らしい悪戯じみた行為。
 いや、絶対に私が手に取り音を出すに違いないと、確信していたに違いない。
 演奏の最中に兄さんが訪ねたら、私は慌ててしまっただろう。
 そんな様子を予測して、くすくす笑っていそうだった。

「邪魔しちゃいけないと思って、外で様子を伺ってたんだ」

 残念ね、琥珀。
 でも、そんな兄さんの行動を知ったら、それはそれで楽しそうに笑うかもしれ
ない。
 兄さんのいろんな反応もまた、琥珀だけでなく私達の笑みを誘う。
 表面上はそう見えないとしても。
 例えば、こんな事を言ってみるのも、楽しい反応が返りそうだ。

「そうですか。では種明かしをされて、兄さんは興味を失ってしまいましたね」

 なるべく感情を込めず。
 僅かに、ほんの僅かにだけ、失望の色を。
 わざとらしくない程度のささやかな演技。
 
「え、秋葉?」

 予想通り、兄さんは慌てた顔をする。
 私は努めて冷静にしているのに、兄さんはかえって動揺してしまうご様子。
 黙っている。
 黙って兄さんを見つめる。
 助け船なんて出さない。
 さあ、兄さん、どうなさいますか?

「秋葉さえよかったらだけど、もっと聴きたいな」
「え」
「確かに琥珀さんの言う通りだった。秋葉の知らない姿が見られたから、来てみ
て良かった。
 できれば外からこぼれ聞くだけでなくて、きちんと弾いた曲を聴きたいな。
 俺の為に秋葉が一曲弾いてくれたら、嬉しい」

 言い訳がましい事を言うかと思った。
 あるいは困って黙ってしまって、許しを求める瞳。
 そんな反応を予想していた。
 少しじらして、それから……、そんな事を少し考えていた。
 けれど、兄さんは、訥々と言葉を口にした。
 とんでもない反撃を、うわべだけでない言葉で行ってくれた。
 それだけを口にすると、私をまっすぐに見ている。
 お願いの雰囲気で。

 ああ、駄目だ。
 これは、耐えられない。
 冷静にして、もっと焦らせば、きっと快感すら覚える事だろう。
 でも、顔が崩れる。済ました顔が、ひとりでに笑いを浮かべてしまう。
 
「いいですよ。兄さんがそう仰るのなら……」

 何とか冷静に応える。
 神妙にした兄さんの瞳が、少し笑みを浮かべた気がするけど。

 楽器と云うものは、もちろん技術の裏づけがあって初めて、扱えるものである。
 まともな音の出し方、音階、強弱に、特殊な技法。
 それが身について初めて、音を出す器具から楽器にと転じる。
 ただ、それだけでは足りない。単にまともな音を出したというだけ。
 それがたまたま聴こえの良い音の連なりになったというだけ。
 ひとつの曲とする為には、音を紡がねばならない。
 その紡ぐものは、演奏者の想いである。

 これは、先生の言葉。
 中でもヴァイオリンはそうなのだそうだ。
 それは先生がヴァイオリニストだからで、ピアニストや他の吹奏楽の演奏者で
あれば、別の見解かもしれない。
 けれど、子供の頃の私はそれを信じた。
 何かの想いを持ってヴァイオリンは音楽を奏で、そしてその音色には想いが溢
れるのだと。

 だから、いろんな想いを込めた。
 私の中にある感情を。
 願いや、鬱屈したものも。
 兄さんへの想いを。
 会いたい、と。

 今の一曲で、だいたいの感覚は把握したので、別な曲を弾く。
 少し難しい、けれど綺麗な曲。
 私の好きな曲。
 元は何かの歌曲。
 離れた恋人を想う歌。
 
 それを丁寧に、そして熱意を持って弾いた。
 繊細に。大胆に。
  
 当時、兄さんを想って弾いた曲。
 今は手を伸ばせば触れられる兄さんに聴かせている。
 何と云う大きな違い。 
 
 その距離の差は、音にも現れている。
 今は少し込められた想いは変わっている。
 会えたから。
 傍にいるから。
 だから、あの時の泣きそうな程の感情は、そのままには甦らない。
 別離の時の寂しさの表現ではあっても、少し異なっているだろう。

 そして、そのまま続きを弾く。
 当時はうまく弾けなかったけど、今ならばきっと弾ける筈。
 別離していた恋人の再会の詩。

 喜びと思慕。
 直接的な愛の表現。

 表現しようという気持ちすらなく、ただ、兄さんに向けて演奏する。
 弓の運びが少し拙いかもしれない。
 よくよく聴けば、音の冴えも完璧からは遠い。
 でも、単に想いを溢れさすのでなく、音色に込められたと思う。
 ただ叫ぶのではない。
 溢れるほどの思いを、一語一語しっかりと丁寧に。
 急ぐ必要は無い、ゆっくりでもいい。

 過去の、夢に見た兄さんとは違う。
 突然消える事はない。
 目覚めと共にいなくなる事もない。

 兄さんはじっと聴いている。
 こちらを優しく見つめて聴いてくれている。
 
 兄さんへ喜びを伝える。
 私からの想いを伝える。
 どれだけ私が幸せなのかを、兄さんに伝える。
  
「どうでしたか?」
「うん、技術的な事はわからないけど、聴いてて、いいなって思った」

 簡単すぎる言葉だけど、賞賛の言葉に顔がほころぶのがわかる。
 兄さんはなおも言葉を続けようとして、少しためらうような表情。
 どうしたのだろう。
 やっぱりどこか、音の乱れが表れてしまっただろうか。

「それとね、何だか変な言い方なんだけどさ……」
「はい」
「聴いてて、恥ずかしかった。あ、誤解しないでくれよ。
 ヴァイオリン弾いている秋葉は凄く似合ってるし、弾いていた曲だって綺麗だ
って思ったけど……。
 けれど、何でかな。聴いてて、凄く恥ずかしくなったんだ」

 兄さんは少し慌てて、言葉を重ねる。
 それをきちんと聴いていて、同時に私は別の思いに心を満たしていた。
 伝わっている。
 うん、ヴァイオリンの音色に、確かに演奏者の想いや感情が乗っている。
 それを受け止めて貰えた。
 兄さんが感じ取ってくれていた。
 何という嬉しさ。

「もう一曲弾きたいです。聴いてくださいますか?」

 兄さんは、うんと頷く。
 私は弓を取った。
 今度はどうしようかな。
 少しおとなしめな曲を思い浮かべる。
 兄さんは受け止めてくれるかしら。

 さっきのような起伏に富んだ調べに、直接的に乗せるのではなく。
 落ち着いた音階に、けれど少しだけ強い想いを託してみよう。
 心から手へ。
 手からヴァイオリンヘ。
 音色へと。
 
 
 





―――あとがき

 何だか秋葉ばかり書いている気が……。
 ただ、今回は粘着性のある擬音とか、普通には文字変換してくれない語句とか
は無しの一般向け。
 たまには、肉体接触以外の秋葉と志貴の姿も書きたくなりました。
 のちさんとか、短い作品の中で魅了するような描き方をされるので、少しお手
本にさせて貰ったり。

 時期的に「Quartetto!」プレイした影響で書いたみたいだけど、その前にあ
らかた書いていたりします。

 お楽しみ頂ければ嬉しいです。

 
  by しにを(2004/5/17)


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