別離

作:しにを

            



「ただいま」

 玄関の戸を締めながら、言葉を口にする。
 呟きではないが、小声。
 中にまで届くような大きな声ではない。
 もう夜は深く、むしろ夜明け前といった方があっている時間帯。
 物音を立てて騒ぎを起こすのは、非常識だった。
 
 けれど、黙ったまま屋内に上がるというのもしまらない。
 故に、誰にと言うより自分に対して、帰宅の言葉を告げる。
 ほとんど自動的に。
 同時に意志をもって。
 長年の習慣は、そうは変えられない。
 変える必要も無い。

 でも、本当は、そんな気遣いは必要ない。
 この玄関口で少々声を上げても、外に対しての迷惑にはならない。
 家内に対しては、そもそもそんな心配は何も無い。
 この家に、うるさいと俺を咎める者はいない。

 しんと静まり返っているのは、皆が寝静まっているからではない。
 外よりもなお暗く感じるのは、決して気のせいではない。
 ここには誰もいない。

 藤ねえも、セイバーも、遠坂も。
 言葉にせず、呟いた。
 そしてもう一人。
 桜も。

 桜……。

 不思議に平静にその名前を浮かべられた。
 外でならともかく、この家の中では、もう少し心が動くかと思っていた。
 けれど、心は乱れない。
 心にどうしようもない事実だと、刻まれているからか。
 それとも、まだ何処かで信じていないからか。

 いや、答えはわかっている。
 桜はいない。
 もう、桜はいない。
 ここだけではなく、どこにもいない。
 世界中をくまなく捜しても、もう桜の優しい笑顔は見られない。

 そうだ……、自問自答にまでも至らない。
 疑問として顕在する前に、冷徹な事実が踏みにじっていく。
 
 桜は死んだ。
 遠坂の手によって殺された。
 助けなかったという一事を持って、衛宮士郎に殺された。
 もはや厳然たる過去の事実。
 覆る事は無く、疑う余地も無い。

 だから、桜はここにはいない。
 馴染んだ姿はここにはない。
 
 見捨てた。
 助けなかった。
 守ろうと思ったのに。
 好きだったのに。

 過去形。

 けれど、桜を大事に思った事実は、決して変わりは無い。
 一年以上の間、共に過ごした日々を、大切に思う気持ちは、決して褪せたり
はしない。
 朽ちず、滅せぬものもある。

 しかし同時に、変えようの無い事実。
 桜を殺す選択をした事実。
 思い出すだけで、体が強張る。
 選択の時が、あの時の絶望が、甦る。
 死んだ心すら、うごめき出す。

 けれど、あれは間違いではない。
 何度繰り返そうと、今の俺は同じ事をするだろう。
 百あれば百、千あれば千、目の前に現れる全ての機会を。

 それは、桜を愛した事実と矛盾はしない。
 桜を選んで、これまでの衛宮士郎を、過去を捨て未来を閉ざす選択。
 信念を選び、過去と未来の為に、今一番大切な存在を捨て去る選択。
 どちらを選ぶかという岐路で、ひとつの絶望的な道を歩み、もう一つの絶望
的な道を選ばなかっただけ。
 
 間違いで、桜が死ぬなんて事は許されない。

 無言で、靴を脱ぎ、廊下を歩いた。
 僅かに足を引きずる。
 体中に疲労が溜まっていた。
 すぐにでも、布団に倒れこみ、心ゆくまで眠りたいと感じていた。
 手も、足も、何処もかしこも、休息を求め悲鳴を上げていた。

 けれど、まっすぐに部屋に戻る事無く、居間へと向かった。
 そこまで来て、崩れるように座り込む。
 壁に背をつけて、体重を預ける。

 立っているだけでも辛いほどだったのに、多少なり楽になった途端に、さら
なる苦痛が押し寄せる。
 歯を食いしばって、悲鳴を堪える。
 数秒そうしていると、ようやく今の姿勢に馴染んだ。

 内に、内にと向かっていた意識がようやく余裕を持つ。
 珍しいものでも見るように、部屋を見回した。

 誰もいない衛宮の家は、寒々しいものだった。
 こんなに静かで、こんなに冷たかったんだ。
 ぼんやりと考え、そして思い直す。
 これが普通だったのだと。
 別に目新しいものではない。
 ほんの少し前までは、いつもこうだった。
 ここに住んでいるのは自分だけ。藤ねえや桜はあくまで、帰るべき場所が他
にあった。
 夜は一人なのが当たり前。
 なのに、なんで一人でいる事に、こんなにも違和感があるのだろう。

 答えは出なかった。
 出ていても、見なかった。

 そうして座しているうちに、喉の乾きを感じた。
 体の痛みに、唸り声を洩らしながら、立ち上がる。
 ちょっと座っていただけで、体が固まったように、動くのが困難だった。
 けれど、いったん立ち上がると、後は体が動いた。
 水でも飲もうと台所へ行く。

 蛇口を捻る。
 水が流れる。

 じっとそれを見つめる。
 見入ってしまう。
 透明で清涼な水の流れ。

 台所。
 朝と夕に、エプロンをつけた桜がいた場所。
 多分、いちばん、桜と過ごしたとも思える空間。
 思い出した。
 した会話を。
 その姿を。
 慣れぬ手つきで包丁を握った姿を。
 会心の出来に、にこりと笑った姿を。
 全部、覚えている。
 声も。
 手も。
 顔も。
 匂いも。
 動きも。
 表情も。
 
 どれだけのものを桜から貰っただろう。
 どれだけのものを桜に与えられたろう。

 桜が使っていたティーカップが目に付いた。
 一度誤って割ってしまって、代わりをプレゼントしたもの。
 あの時の嬉しそうな桜の笑みが、今も忘れずに残っている。

 ヤカンに水を注ぎ、火に掛ける。
 お茶の葉を急須に入れる。
 しばらく、桜のカップを眺めた末に、食器棚へと仕舞う。
 もう使うものがいないカップをそれでも、すぐに手の届く棚へと置く。

 お湯を急須に入れて、自分の湯呑みを手に居間へと戻る。
 テーブルに持ってきたそれぞれを置き、お茶を注ぐ。
 暗がりに、お茶の香りが漂う。

 ゆっくりと啜る。
 熱い液体が口から喉に流れる。
 そこで初めて、自分の体が冷えている事に気づく。
 半分ほど飲み、急須の残りを注ぎきる。

 溜息が洩れた。
 自分の家にいる。
 お茶を啜っている。
 当たり前の事。
 なんて事の無い日常。
 それが、無性に痛かった。
 もう帰って来ない日々を思い起こさせたから。
  
 桜を選ばず。
 自分の信念を曲げず。
 正義を貫くという道を違わず。

「意見はない。ただ―――代わっていいのなら、代わる」

 決断し、教会へと戻り、そして遠坂の問いに答えた。
 この言葉に嘘は無かった。

 あの瞬間から―――、
 我が心は鉄。
 強く折れぬ鋼。
 貫き、斬り、断つ、剣。

 それ故に今の俺は、何にも心が動かない。
 鉄に、鋼に、剣になるのだと、そう誓ったのだから。
 そうでなければ、もう生きる事は出来なかったから。

 何かに、自分でも理解し得ない何かに、決別したのだ。
 それで、変わったと思っていた。

 でも、違っていた。
 鉄の心。
 強き意志をもって、情実を踏みにじり求めるものを手に入れる。
 それでも、それは決して、痛みを感じないと言う事ではない。
 人である限り、それは存在する。
 喜怒哀楽、それを失ったら、何を持って人と見なすのだろう。
 魔術師ならそれでいいのかもしれない。
 けれど、俺がなりたいのは正義の味方だった。
 人の痛みがわからない奴に、人の痛みを止める事が出来るだろうか。
 人の涙を見る事の無い奴が、人の涙を止めさせてやれるだろうか。
 きっと、できない。
 
 鉄の心は、外へ向ける剣となる。
 同時に。
 己の張り裂けそうな何かを包み抑える拘束だった。

 初めて、本当に初めて、衛宮切嗣という存在が理解できた。
 俺や藤ねえの知る親父と、言峰やイリヤの語るキリツグとの違いがわかった。
 近しい存在になって初めて、どれだけの傷を隠しているのかが理解できた。

 今の俺を見たら、親父はどう思っただろうか。
 衛宮士郎をどう見つめただろうか。
 わからない。
 まだ、今の俺にはわからない。

 思考が止まる。
 ただ、何もしない時間が流れる。
 形を取らない感情の波に、身を委ねる。
 ただし、感傷に浸れるのは今だけだ。
 自分で自分に告げる。

 休息はもう終わると。
 鉄の心を捨てて此処を住まいとした切嗣と違い、おまえは出て行くのだと。
 使命を果たせと。
 鉄の心をもって打ち捨てたものの為に、戦えと。

 あらゆる感情も、躊躇いの心も、眠らせるのだ。
 捨て去る事はできない。
 捨てる必要も無い。
 だから、感じようとも感じない。そうなるしかない。
 
 イリヤの言葉が、思い出された。
 泣きそうな顔。
 確か、そう言っていた。
 今はどうなのだろう。
 自覚はあの時同様に無い。
 けれど、きっと今は表情自体が無い気がする。
 悲しみであれ、痛みであれ、
 僅かに気が緩んでいるけれど、きっとそれは外へとは洩れ出す事は無い。
 
 ひとたび外へ出れば、今の衛宮士郎ではなくなる。
 悲しいと言う感情は置き去りにする。
 いや、もうそうなりつつある。
 感じるのは空っぽの心。
 喪失ではなく、ただの空虚。
 当然だろう。
 鉄で出来た心が、感情を持つ訳が無い。
 持ってはいけない。
 錆びと、消せぬ曇りとに満たされたとしても、ただそれだけ。
 
 我が身が倒れるまで、血に塗れ、憎悪を浴びよう。 
 我が信じる道を行く為に。
 正義を貫くために。

 立ち上がる。
 もう一度だけ、周りを見る。
 今度はいつ、ここに戻れるだろうか。
 戻る事はあるのだろうか。

 この家に戻ったのは身を休める為ではない。
 眠り、新たな日を迎える為ではない。
 夜に紛れ、衛宮士郎は闇に消える。
 決別。
 別れの為に、この誰もいない家に戻ったのだ。

 衛宮士郎に別れを告げる為に。
 そしてもう一人。
 この家にいた少女に。
 桜に別れを告げる為に。

 さあ、最後の言葉を。
 けれど、迷った。
 いざとなると何の言葉も浮かんではこなかった。
 考え、考え、やっと口から出たのは、一番、そぐわない言葉。
 
「行ってくるよ、桜」

 震えているのか。
 鉄の心を持った衛宮士郎の声が。

「もう、苦しまなくていいから」

 湿っているのか。
 感情を捨てた衛宮士郎の声が。

「おまえを苦しめていた奴は、みんなもうおまえを苦しめられない」

 今度はきっぱりと言えた。
 強い声で。
 そうだ、もう誰も桜を傷つけない。
 苦しめたりもしない。
 間桐の家の者も。
 遠坂の家の者も。
 アインツベルンの家の者も。
 この冬木の町で、聖杯戦争なんてものに関わっていた者は全て。
 マスターもサーヴァントも、もう誰も残ってはいない。
 元凶たる聖杯も破壊し尽くした。
 そんな事を桜が望んだのかはわからないが。

「後は俺だけ。でも、桜と一緒になれなかった俺は、まだ死ねない。
 ごめんな、桜」

 涙は出なかった。
 胸に悲哀はあり、油断をすれば瞳からこぼれるものがある。
 だから耐えた。

 まだ、終わりではない。繰り返そうとする者達が残っている。
 北の地へと行く。
 千年の愚行を、俺が止める。

 でも、その後はどうしたらいいのだろうか。
 わからない。
 何も浮かばない。

 ただ、一つだけはわかっている。
 もう立ち止まれない。
 どれだけ目の前に荒野が広がっていても。
 歩き続けねばならない。

 衛宮士郎は前だけを見て歩く。
 正義をなすモノとして。
 
 もう一度だけ、桜の顔を思い浮かべた。
 言葉はもう掛けなかった。
 それが衛宮士郎の、もう戻らない暖かい日々への―――、別離だった。 


   了










 



―――あとがき

 また、不似合いなものを……。
 見ての通り、桜ルートでのバッドエンドのひとつ「正義の味方エンド」後の
士郎です。
 言峰に「おまえが聖杯を……」と言われて、それを成した後の士郎です。
 わかりますよね?(ちょっと不安)

 じゃあ、その後はどうなるのだろう。
 そもそも鉄の心とは何だろう。
 といった考察かたがた書き綴っております。
 その中で、桜の死を契機に正義の味方に成らざるを得なくなった士郎は、切
嗣にはなっても英霊エミヤにはならないのではないかなと思ってみたり。

 それと、須啓さんの「ある姉妹の終わりの情景」(傑作です。必読)を読ん
で思いついたお話だったりします。
 こそっと、謝辞を。
 
  by しにを(2004/3/20)


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