「最近やけに騒がしいと思わないか、衛宮」
 久方振りに、生徒会室で弁当に箸を踊らせている時の事。
 出し抜けに。
 投げ掛けられた言葉に、視線を返した。




《紫の桜、茜の柳》

作:うづきじん




「何がだよ。うちが騒がしいのはいつもの事だろうに」
 まあ、その大半の責任は自分の同居人に有るのだけれど。藤ねえは相変わら
ず部活に授業にと大暴れしているし、最近の遠坂は俺や桜以外の相手でも本性
を隠さなくなってきている(ぼろを出す様になった、と言うのが正確かもしれ
ないが)。桜は物静かな性格なのは変わらないにしろ、最近は以前よりずっと
明るく、綺麗になった―――周りが放って置かない位に。時折ふらりと学校に
現れる銀髪の少女は、大多数の生徒と極一部の生徒にそれぞれ好意と熱烈な好
意を受けている、らしい。もともと静かな学生ばかり、という訳でもなかった
うちの学校は、未だ夏休みの最中にある様に活気に溢れていた。
 それでも。半年前の様に、学校でも町でも集団昏睡事件なんて物騒な事件は
起きていないし、妙な奴等も侵入してはいない。あくまで学校内は日常の延長
として騒がしく、活気を保っている。
 それは喜ばしい事だと、思えるのだけど。
 答えた自分に妙な半眼で、この部屋の主―――柳洞一成はこちらを見つめて
くる。甘く煮付けた高野豆腐とトレード済みの鳥の空揚げを不満そうに口に放
り込んで、
「たわけ。校内の事ではない。衛宮の周りの事を言っているのだ」
「俺の周り……?」
 一瞬、考えて。
「―――ああ」
 流石に、思い当たる。今の自分の、ある意味―――いや、外から見ればあら
ゆる意味で恵まれ過ぎているだろう、現状を。
「月の無い夜は気を付けた方が良いぞ」面白くもなさそうな顔で、一成。「先
日の生徒会では、血迷った役員が校則に一夫多妻制禁止条約の追加を求めてき
た。言っておくが、賛同者は少なくなかったぞ」
 もちろんそいつは罷免したが、と仏頂面で言ってくる友人に、乾いた笑みを
返す。
 ……半年の前。この町で一つの戦争が起こった事を知る人間は少ない。巻き
込まれた人間は何十人、何百人と居たが、半年という月日はその傷跡も概ね綺
麗に洗い流してくれていた。あくまで当事者以外の、ではあるにしても。
 聖杯戦争。半月に及んだ短く永い戦いは、衛宮士郎という一介の学生に多く
のものを失わせ、遺し、終わりを告げた。
 その中でも。誇り高き金髪の少女。最期の最後まで、紛れも無く王であった
彼女。その少女から受け取ったものは、今も変わらず自分の中で唯一無二の輝
きを放っている。
 ―――それと同時に。衛宮士郎という学生は、一介の学生の持つ―――否、
持っていた、日常生活を失った。平穏な食卓。平和な学園生活。そういった諸
々のものは確かにこの手の中にあり、確かに無二の輝きを放っている。
 しかし、とは言え。
 それが或る意味絢爛豪華に過ぎる明度だと言う事は、誰よりも自分自身が理
解していた。
 

 ……契機は三箇月程前に遡る。
 聖杯戦争の後。初夏の静かな或る夜に、間桐邸は崩壊した。炎上や倒壊では
無く―――文字通り、崩れ落ちたのだ。遠坂から連絡を受け、血相を変えて駆
けつけた俺達の前に現れたのは。粉々に崩れ落ちた残骸の下、意識を失った桜
を抱きかかえている、遠坂の姿だった。
 一週間程の入院の後、病床の遠坂と桜が言うことには、桜の祖父が屋敷内で
ある魔術の実験を行い、それが失敗したのだと云う。その時偶々屋敷を訪れて
いた遠坂は、桜を庇って―――と言うのが事の顛末らしい。
『……でも遠坂。この傷って火傷とか打撲じゃなくって、何かに咬まれたっぽ
い傷だぞ?こっちのは刀傷じゃ―――』
『……っ。うっさいわね。私の言うことが信じられないの!?』
『桜、本当に事故だったのか?』
『―――はい、遠坂先輩は私を助けてくれて、それで―――』
『オーケイ、災難だったな。……しっかり養生しろよ。明日は特製のアップル
パイ、持ってくるからな』
『あ、……はい。―――ありがとうございます、先輩……』
『気にするなって。桜は家族なんだから。こういう時くらい、我侭言ってくれ
て良いんだぞ』
『―――はい、先輩』
『……なんかむかつくわね。あんたら……』
 ―――らしいのだが。まあ、いずれ時が経てば桜の方から話してくれるだろ
うと思う。それに、何だかんだ言っても遠坂のことは信用している。あいつが
何かを隠しているのなら、それは俺に隠すべき理由が有るんだろうから。
 とまれ、現実の問題として桜はこの三ヶ月の間に兄と祖父とを立て続けに失
った事になる。魔術師であったというその祖父の遺産は少なくないとは言え、
住むべき屋敷すら無くなった『家族』を、一人きりになんかしては置けなかっ
た。
 結局、桜は退院してからすぐに藤ねえの家に移り住むこととなった。他の二
人の『家族』も賛同してくれた現在、桜は表向きは『新しい住居と身の振り方
が決まるまで』藤村先生宅に身を寄せている、ということになっている(……
もっとも、俺達から「出て行け」なんて言う気は毛頭無いし、今のところ桜が
転居先を探している様子も無いのだけれど)。
 とは言えイリヤの気紛れとか藤ねえの無精とか、桜本人の希望とかで誰かが
うちに泊まることも多く。そうなると、藤ねえを始めとした三人全員が(何故
か)泊まることになる為、実際は同居に近い。
 これに関しては『何か間違いが有ったら私の監督不行き届きだからねー』と
いうのが藤ねえの言だが、最近は冗談で無く本気の殺気が混ざる様になって来
たのは、気のせいだと思いたい。
 まあ、それはともかく。
「……なんだよそれ。困っている人を助けるのを非難するのか、聖職者」
「む。ならば人助けの善意以外に理由は無いと?」
「…………」
 最近、一成はやけに鋭くて困る。こいつから見れば今の俺は裏切り者なんだ
から、仕方ないと言えば仕方ないのだけれど。
「……そういう訳じゃないけどな、確かに」
 本音を返す。確かに桜のことは家族だと思っているけれど。それだけか、と
問われれば―――否、と。そう答えるしかなかった。実際、接する時間が多く
なって自分を誤魔化すのも辛くなって来てはいた。桜は物凄く可愛い、綺麗な
女の子で。藤ねえの危惧も尤もだよなと、他人事の様に思うけれど。



  ―――けれど、今は。

     剣を携えた彼女の姿が、眼に焼きついて離れない。



「ふん。まあ、間桐の妹は構わんのだ。俺の眼から見ても、あの娘は良い子だ
と思うしな」
「…………」
 成程。
 一成が御冠なのは、やっぱりあいつのことか。
「しかし、最近では遠坂とも懇意らしいではないか。奴の毒気に中られたか、
衛宮」
 そう。
 学園のアイドルにして目前の友人の宿敵、巨大な猫を被った天才魔術師であ
る遠坂凛は、聖杯戦争が終わって後も度々うちを訪れる様になっていた。「私
は士郎の師匠だからね。最低限の事は教えておかないと、危なっかしくてしょ
うがないじゃない」というのが彼女の言である。
 その事自体は有難く、また本音を言えば憧れていた女の子が自分の為に色々
と手を尽くしてくれる事は、素直に嬉しかった。聖杯戦争の二週間を通じて、
遠坂凛という奴がどれだけ頼りになる、信頼に値する奴かというのは身に染み
て分かっていた事でもあったし。
 とは言え衛宮家の内だけで無く、学校内でも頻繁に彼女と関わる事は色々と
厄介事の元ともなった。殺意を伴った周囲の視線は、当の本人がその手の感情
に全く頓着しない(と言うか、最近は開き直ってきた)せいもあって、その殆
どが俺へと向けられている。
 実際、何だかんだ言っても藤ねえは生徒には人気が有るし、イリヤと桜が半
分同居状態なのも公然の秘密となりつつある。この上遠坂が加わるとなると、
傍目にはとんでもない女たらしに見えるのも仕方無いかと思う。
 思いはするが。
「らしくないぞ、一成。悪口なら本人に聞こえるように言え」
 後半は藤ねえの受け売りである。何にしても、陰口は目の前の友人には似つ
かわしくは無い。相性というものは確かに有るにしろ、
「俺は遠坂も一成も大事な友人だと思ってる。仲良くしろとは言わないが、出
来れば喧嘩して欲しくない」
 それが、掛け値無しの本音だった。
「……っ。すまん、言い過ぎた」
 自重する、と呟いて黙々と箸を口へと運ぶ。
「?―――顔赤くないか?一成」
「やかましい」
 黙々と。
 互いの弁当を片付ける。どちらかと言えば洋風の弁当は量もたっぷり、味も
申し分ない。悔しさ交じりの満足感に、吐息する。―――明日は負けないから
な。
「……それにしても」
 ふと、感心した態で一成が呟く。拗ねた様な表情で、空になった弁当箱を手
早く仕舞いながら、
「間桐の妹さんはなかなか料理が上手いようだな。衛宮には敵わんが」
「……よく分かったな。俺が作ってないって」
「分からいでか。二年以上お前の弁当を頂戴しているのだからな」
 にやり、と微笑う。
「くすねてる、の間違いだろ」
 訂正しながら、ふと思った。目の前の友人が、この弁当の―――自分が口に
した物の、本当の製作者を知ったらどんな表情をするだろうか、と。





「―――へえ」
 ふと、感心した態で蒔寺が呟く。拗ねた様な表情で、空になった弁当箱を手
早く仕舞いながら、
「嫌だねえ、優等生は。やる事為す事隙が無くてさ」
 こら。悪態をつく前に箸を仕舞え蒔寺楓。
 電光の速度で飛来する箸を、弁当箱の蓋で防ぐ。……おかしいなあ。どうも
最近、我ながら優等生っぽくない行動が目立つ様な。
 そんな事を考える。まあ、もともと世間体なんて物に大した価値があるとは
思っていないのだけれど。
 なんとも無しに、時計を見やる。今の時刻は十二時半。待ちに待ったりお昼
の時間である。
 珍しく自作のお弁当などを持参してきた私は、蒔寺の所の三人と一緒に食べ
ることになった。
 ……と言うか、誘われたのだ、三枝さんに。食べる場所と相手の当てが無か
った訳でもないのだけれど。
 何にしろ、私は食事に誘われたのであって、チャンバラの真似事をしたい訳
では断じて無い。おのれ蒔寺。
「……ふむ。遠坂さんは料理も上手なのだな。その若さで大したものだ」
 その横で、若く無さそうな物言いをしているのは氷室鐘さんである。細く綺
麗な瞳を弁当箱からこちらに向けて、
「しかし。蒔の字の言う事は正直半信半疑だったのだが……本当に猫を被って
いたのだな」
「だからそう言ってたじゃんか。流石の氷室も、こいつの擬態は見破れなかっ
たか」
 不承不承という感じで箸を下ろす蒔寺を見やり、盾を降ろす。二人の方に振
り向いて、
「すみません氷室さん。蒔寺さんと一緒にいると、ついつられてしまって」満
面の笑み。
「……私のせいなのか?」
 不満そうに呟く蒔寺。氷室さんは一瞬きょとんとこちらを見やり、
 吹き出した。
「―――いや、すまんすまん。いや、こんな愉快なのは久し振りだ。
  氷室で良い。改めて宜しく、遠坂さん。貴女とは良い友人になれそうだ」
 ―――うん。同感です。懐が深そうな人だ……蒔寺とは違って。
「こちらこそ。私も遠坂で良いわよ。あ、凛でも良いけど」
「ん。では凛と。―――ああ、この響きは貴女に良く似合っているな」
 ――――――――――――。
「……?何か気に障ってしまったか?」
「あ、いえ。……何でもない。ちょっと、知ってる人に似てたから」
 ……全く。
 だらしないぞ遠坂凛。
「知ってる人、ねえ」
 妙なアクセントで、蒔寺。……あー、何を考えてるのかすぐ分かる。
「そういうんじゃないからね」
 先に釘を刺しておく。にやにやと猫の様な―――藤村先生もあんな顔するん
だよな―――笑みを浮かべる蒔寺に、
「今はそういう人はいないって、こないだも言ったでしょ」
 実際は今も昔も居た試しが無かったのだけど、そこまでばらす気は無い。
「む。そうなりたい人なら居る、といった口振りだな」
 ……やばい。氷室さんって、結構。
「え……そうなんですか、遠坂さん?」
 と、三枝さん。ふるふると揺れる瞳はとても可愛らしい。とくん、と胸が鳴
る。
 ……むう。セイバーで目覚めてしまったんだろうか。やばいかな。
「居ない居ない、そんな奴」
 きっぱりはっきり断言して、御飯に取り掛かる。……ん、我ながら良い出来。
でも―――うん。悔しいけど、こういう携帯食に関してはあいつの方が一歩上
か。
 まあ、次は負けないけど。―――と。
「衛宮士郎」
 不意に。
 ぼそりと、蒔寺が呟いた。
 ――――――慌てるな。ここで慌てたら思う壺だぞ。冷静になって、何でも
無い事の様に。落ち着き払った声で、
「士郎がどうかした?」
 墓穴を掘った。
 ……ああ。
 どうして私はこう、肝心な所でトンデモナイミスをするのだろう―――



「いや、昼休みは笑かして貰ったよ。あの遠坂が真っ赤になるとこなんて、親
友の私も初めて見たわ」 
「……いーわよもう。好きなだけ笑いなさい、赤の他人」
 放課後、弓道場の外の雑木林。
 私こと遠坂凛は、休憩と称して人を苛めに来た自称親友をあしらうのに忙し
かった。
 と。意に反して彼女―――美綴綾子はどこか晴れ晴れとした態で、傍らの木
の幹に寄りかかり、
「あーあ。ついにこの手の事でも先越されちゃったかー」
 遅くはなったけど賭けは私の負けか、などとのたまう奴に、
「だから、そんなんじゃないってば」
 無駄とは思いつつ否定する。ここで頷いたら、明日には学校中に広まりかね
ない。目の前の女は、そういう奴だ。
「―――へえ」
 にやり、と。蛇の様な―――遺憾ながら、鏡を見ている様だった―――笑み
を浮かべて、綾子が呟く。
「じゃあ、私が衛宮のコト好きになった、とか言ったらどうする?」
「―――な」
 馬鹿な事言ってんじゃないわよ、と続ける筈の言葉を飲み込む。綾子の顔は
笑ってはいるけど、その眼には。
 冗談事では無い、強い光があった。
「……綾子。本気?」
 我ながら、硬く―――震えると分かる声が、漏れる。
 暫しの間。
 無言のままに、見詰め合い―――
「ん。冗談」
「…………。」
「そう殺気立つな。まあ、正確には半分だな」
 飄々とした言葉に、振り上げた拳を渋々ながら収める。その表情にも、台詞
にも。風変わりでは有るが、真実の色が有ったから。
 ついでに言えば、綾子が男を褒めるのを聞いたのはこれが初めてだった訳で。
正直言って、興味を引かれた。
 まあ、それに。
 ……ああ、仕方が無い。認めよう。私は綾子に『あいつ』を取られるのを嫌
がっている。
「半分って。どういう事よ」
「殺気立つな、と言っただろ?そのままの意味さ。自分から告げる気は今の所
無いが、告白されたのならそういう関係も悪くない、と思う」
「ふん。らしくないじゃない、受身なんて」
 心にも無い言葉を返す。ああ。それなら、心配は要らない。あいつが誰かに
告白するなんて事は、まず有り得ないから。
 少なくとも、今暫くの間は。
 立て直す。返す刀で軽口を、
「それよりどういう心境の変化よ。あいつの何処が良いの?」
「さて。それは遠坂の方が詳しそうだが」
 ―――ばっさりと切り返される。思わず答えを『選んで』―――探して、で
は無く―――しまったのが二重に屈辱だった。
 流石は美綴綾子。正直言って、蒔寺なんかとは格が違う。
 我が宿敵は不敵な笑みを浮かべる。―――と、目を閉じて。
「まあ、答えてやるかな。―――うん、そう。何と言うか……」
 何かを思い出す様に、口元に手をやった。
「―――吹っ切れたところ、かな」
「何よそれ。漠然とし過ぎて分からないんだけど」
「いやさ。衛宮の事は前から気になってたんだ。化け物じみた弓の腕とは別に
さ。
 あいつはほら。他人をとにかく大事にする奴だったから。先輩には素直で、
後輩には面倒見が良くて、同級には便利屋扱いされて」
 ―――ああ。分かる気がする。衛宮士郎という奴は、いつだって自分よりも
他人の事を気にかけていた。それは他人の目には信頼の基とも、軽蔑の種とも
映ったのだろうけど。どちらにしても、あれは度が過ぎていたとは思う。綾子
みたいな『個』の強い人間には、さぞ印象的に見えたのだろう。
「挙句、慎二の馬鹿みたいな奴の言葉を真に受けてあっさり退部しちゃうしね。
 ―――正直、何様かと思ったよ。慎二じゃなくて衛宮がね。幾ら弓が詰る所
個人々々の鍛錬に過ぎないったって、優劣や勝敗と無縁な訳じゃないんだ。あ
いつはさ、自分が持ってるもの、身に付けているものを質量関係無く、躊躇い
無く捨てる事の出来る人間だった。
 それ自体は凄い事だと思うけどね。私が腹が立ったのは、その選択権を他人
に委ね切ってるとこだった」
 でもね、と綾子が続ける。穏やかな表情で、どこか唄う様に。
「三年になって。またちょくちょく顔を出す様になってからは、ちょっと変わ
ってた。どうかと思うくらい素直で、好んで貧乏くじ引きたがるとこは変わっ
てないけど。それは自分の義務、みたいにして気負ってたとこが無くなってた。
人の言葉も、ただ従うんじゃなくてちゃんと『意見』として考えるようになっ
てた。
 んー、……何て言ったら良いのか。苦労を進んでするんじゃなくて、好んで
する様になった、って言うか」
「……悪化してない?それ」
 突込みを入れつつも、まあ分かる気はする。衛宮士郎という人間は、以前は
得体の知れない使命感に突き動かされていた変人だったのだろう。『正義の味
方』になる。そんな、どこか曖昧な目標。
 それがあの半月を通して、確たる目標を見つけた。
 聖剣の主。最後まで王で在り続けた、古代の英雄王。
 彼女を愛し、愛されていた。それに足る人間で在る様に。
 いつか彼女が。
 自分の元に帰って来たその時に、胸を張って逢える人間である様にと。
「―――全く。馬鹿なんだから」
「そうだな。賢過ぎる誰かさんには、衛宮みたいな奴が丁度良いのかも知れん」
 知らず、口に出ていた呟きにいらいが返る。
 我に返って。
「……っ。な、何よそれ。勝手なこと言わないでよ。別に私は―――」
「うむ。堅物の柳洞にはぴったりだ」
 ……こいつは。にやにやと微笑う綾子を半眼で睨み付ける。この時程魔眼を
身に付けなかったのを悔やんだ事は無い。石になれよとばかりに視線を投げて、
「大体、なんでそこに生徒会長が出てくるのよ」
 三年生に進級した今、士郎の友人であり私を毛嫌いしている柳洞一成は既に
生徒会から退いている。とは言え今更「柳洞くん」などとは(嫌がらせ以外で
は)呼び難いので、私はかつての呼称であの堅物を呼ぶ事にしていた。実際、
柳洞一成は未だ生徒会全体に暗然たる影響力を持っている、らしいし。
 と。珍しく驚いた態で、綾子は私を見つめてきた。
 ……何かおかしな事を言っただろうか?心の内で首を捻る。確かにあの二人
は良くつるんでいるらしいが。変人同士気が合うのだろう。
「知らんのか?―――いやまあ、或る意味その方が健全なのだろうが」
 あ、本当に珍しい。『何かを言い淀む』美綴綾子の姿なんて、『怒りに我を
忘れる』間桐桜くらいにはレアだ。と言うか、初めてかも。
「知らないって何が。あいつらが相思相愛だとでも言いたいわけ?」
 軽口を返す。
 ―――と。綾子は、眉を顰めてこちらを見返してきた。
「何だ、知ってるんじゃないか。人が悪いぞ、遠坂」
 ………………。
 はい?





「……四千万円か」
「そう。四千万円」
 夕暮れ時の帰り道。衛宮士郎は両手にずっしりと中身の詰まった買い物袋を
手にした姿で、坂を降りていた。
 傍らには同じ様なシルエットを路面に落とす、一成の姿。生徒会室で雑務を
手伝った御返しにと、商店街での買い物に付き合ってくれた為である。
 ここ最近で身に染みて分かった事は、衛宮の家はその敷地程に冷蔵庫が広く
ない、と言う事実だった。今までも俺だけでなく藤ねえと桜と言う食い扶持は
居たのだが、現在ではそれに加えて来客が矢鱈と盛んになっている。
 親父―――切嗣は俺が大学を悠々卒業するまで食べていけるくらいには遺産
を残してくれてはいたが、不肖の息子のささやかな矜持として、軽々しくそれ
に手は付けたくなかった。結果として、使う当ても無いとはいえコツコツと貯
めて来たアルバイト代はじわじわと目減りしていると言うのが現状である。
 何にしろ、人が多くなればその分食べるものが要る。そうなると以前と比べ
て買い出しの過酷さも段違いで、桜にばかり任せておく訳にもいかない―――
イリヤでは純粋に運搬量に問題が有るし、暴れ虎と赤いあくまは問題外である。
前者は食材の目利きに問題が有り、後者に頼むには俺の勇気が足りない。
 大体にして当の約一名、頻繁に訪れるその『来客』が当然の様に衛宮邸に自
前の箸と茶碗を常備させている、と言う辺りから既に問題が有る気がするが。
勿論色は赤である。
 ―――その道中。不意に一成が俺に尋ねて来たのだった。
『衛宮。不躾だが、この様に食費に金を掛けていては色々と問題が有るのでは
ないか?』
 誇張で無く。中身が山と詰まった袋を掲げながら掛けられた言葉に、
『そうでもない』答える。遺産の事、アルバイトの事。少なくとも今すぐ餓死
する程には衛宮の財布は薄くない。
 ……エンゲル係数は考えるだに怖いけど。
『そうか。いや、藤村先生のことを考えるに不安だったのだがな』
 ちなみに藤ねえは一成五人分(当社比)くらいの量は軽く平らげる。タイガ
ーの異名は伊達では無いのだった。
『……まあ、心配事が無い訳じゃないけどな』
『ぬ?』
 不審気な呟きが返る。そう。毎日(殆ど、なのだ。最近は)の食事程度で免
責してくれるのならば、それはとても有り難い事なのだ。この身に背負った負
債は、学生の身ならずとも大き過ぎて。現在の所、何とか思い出してくれない
様に、食事に手を凝らして債権者の機嫌を取っている、と言うのが正直な所で
ある。
 実際問題、あいつには使用無制限の切り札を握られたに等しい。あの朝。そ
の前夜の睦事とその後に待ち受けた戦いは一生忘れる事は無いのだろうが、そ
の合間に交わした約束は自分を一生縛る気がして仕方ない。それに。
 致命的なのは、その境遇を衛宮士郎自身があまり嫌だとは思っていない所で。
『……遠坂に金を?』
『ん。有る時払いの催促無し、って条件だけど』
 俺の答えに、渋面で呟く一成。……ああ。この盟友は、きっと今、頭の中で
自分の財布の中身を数えているのだろう。
 有り難くはあるのだが、多分想定してる桁が三つ四つばかり違うんだ。
 普通の高校生は、大粒の宝石三個半分(折半)の金額なんて自由にはならな
いんだから。
『―――衛宮。具体的に、幾ら借りたんだ?』
 真面目な声で投げる疑問に、正直に答えたのがつい先程の事だった。こちら
も真剣に答えたのは確かなのだけれど。
「……俺は真面目に聞いているんだが」
 そうは受け取ってもらえないだろとも思った。
「こっちだって真面目だ。別に俺が遣った訳じゃないぞ。ただまあ、何と言う
か―――」
 軽口のつけ。家庭の事情。背に腹は変えられなかった。
 どれも正しいが、説明するのは難しい。
 と。一成は小さく息を吐いて、
「ならば、最近のあれがお前の家の食客染みて来ているのはそれが原因なのか」
 取り敢えず、金額に関しては言及する気を無くしたらしい。
 その問いに、歩を進めながら考える。遠坂がそれを盾に連日大飯を喰らいに
来ている―――どうしてか、俺の周りには大食らいが多い。指摘は出来ないが
―――のは確かなのだけど。
「うーん。そう言われればそうかもしれないな。けど、別に嫌々作ってる訳じ
ゃないぞ」
 実際、遠坂凛と言う女の子がうちに来てくれる事は、素直に有り難かった。
自分の魔術の師匠としてだけでは無い。慎二の事からか、時折物思いに沈む桜。
朗らかではあるが、驚く程物を知らず狭い世界に閉じこもりがちなイリヤ。そ
して何より、衛宮士郎という未熟者が半年前の夜明けの後悔に囚われなかった
のは、あのいつだって傲岸不遜で人を振り回してくれる、赤いあくまの御蔭な
んだから。
 とは言え。
「―――飯は大勢で食った方が旨いだろ。気心の知れた奴とだったら尚更だ」
 口には出さず、言葉を濁す。わざわざ目の前の友人の気分を害する事は無い。
ここで遠坂の事を褒めると、今晩の食卓の雰囲気が刺々しさを増すのだろうし。
 ……と、そう言えば。
「一成。今日はどうする?」
 買い物にも付き合ってもらったのだ。ここでただ帰すのは失礼と言うものだ
ろう。半ば答えを予想しながら続けた言葉に、
「―――うむ。衛宮が良いのならば、是非」
 何故だか視線を逸らしながらも、予想通りの答えが返る。
 うん。これで今晩の衛宮邸の夕食が一人分旨くなった、と言うところだろう
か。
 
 ―――聖杯戦争の折り。彼女と英雄王ギルガメッシュとの戦いは、その舞台
となった柳洞寺に多大な損害を遺した。加えて裏手の池では『この世全ての悪』
などと言う物騒な呪いが物質化し、その以前にも一成を含めた住人達はサーヴ
ァント・キャスターに生命力を奪い取られ、衰弱の態にあるという散々な状況
で。
 諸々の出来事の関係者として少なからず責任を感じた事もあり、せめて夕食
だけでも、と、この友人を連日自宅に招待していたのは三ヶ月前までの話であ
る。夏も過ぎた現在、柳洞寺は概ね復興を果たし住人達も回復を遂げている。
 その名残からか、それからもちょくちょくこの友人はうちの食卓に参加する
様になっていた。
 ―――食事中の心底幸せそうな表情を見るに、そんなに寺の精進料理は味気
ないのだろうか、とつくづく思う。不憫なので、一成が参加する時の食事は特
に腕に選りを掛ける様にしていた。
 衛宮邸での一成の評判は概ね上々である。藤ねえは基本的に自分の生徒はみ
んな好き、と言う人だし、イリヤも堅物ではあるが誠実な一成の人となりに懐
いていた。
 ……桜が何故か、俺が家に一成を連れてくる度に、眼を変に輝かせているの
が気になると言えば気になるけれど。
 詰る所、遠坂以外とは問題無しという事である。俺から見るとこの二人は案
外似たもの同士な気もするのだけれど、同属嫌悪と言う奴なのか。
 ともあれここまで来ると相性という他は無い。二人とも食事時の団欒の雰囲
気を壊さないと言う程度の節度は持っているから、助かってはいた。
「おう、荷物持ちの礼だ。楽しみにしててくれ」
 既にうちの玄関は近い。食材の重さに痺れ始めた両手に力を込め直し、道を
急ぐ。
「これは生徒会の手伝いの礼だというのに。全く……」
 苦笑しながらも一成が後に続く。玄関を潜り、扉を開けて。
「ただい」
「おかえり」
 目の前には。仁王立ちのまま、針の様な眼光でこちらを貫いてくる赤い人影
の姿。
 思わず回れ右、とか号令を掛けたくなる様なその威圧感は、件の食客に他な
らない。
 その少女。遠坂凛は更に荷重を増した視線で、俺と―――その後ろの人影と
を、睨み続けていた。





「わあ―――どうしたのよ士郎。凄いご馳走じゃない」
「ホント。ね、今日は何かのお祝い?」
 ……無邪気にはしゃぐ二人を尻目に、黙々と料理を居間へと運んでゆく。男
二人で買い出した分はおろか、それなりには残っていた冷蔵庫の中身まで空に
する勢いで拵えられた料理の数々。―――と言うか、明らかに今朝までは無か
った筈の食材を使った料理が並んでゆく。
 豊かな野菜の匂い。爽やかな果物の香り。 

 そして、それを圧倒する様に満ちた、肉と油の大芳香。

 大蒜をふんだんに使った本格中華風の麻婆豆腐。
 ニラの緑と牛肉の褐色のコンストラクトが眼に鮮やかな、肉野菜炒め。
 一つ一つが掌程もあるハンバーグと、大皿に山を作る鳥の空揚げ。
 何故か美味しそうな音を鉄板の上で立てる、巨大なステーキまでが各人に配
膳されている。
 落ち着いて見回すと、他にも正気かと思える様なメニューが所狭しと並んで
いた。牛テールのスープ。鰻の蒲焼。鯛の尾頭付きに、色取り取りの刺身。蓋
のされた土鍋の横には、何のつもりか真紅の液体がコップに並々と注がれてい
る。漂ってくる匂いからするに、これはスッポンではなかろうか。とすると、
あれはその血、か。御丁寧にそれを割るためのワインまで用意されている以上、
遠坂は本気だ。並ぶ料理の一つ一つは非常に旨そうではあるのだけれど、
「……見ているだけで胸焼けがしそうだな」
 いつもの指定席に腰を下ろしながら、傍らで呟く一成に内心で同意する。普
段動物性タンパクに飢えている一成からしてそうなのだ。肉食の藤ねえとお祭
り好きのイリヤはともかく、正直、俺はどれか一つで十分なのだけど―――
「―――『衛宮くん』?お待たせ、これで最後よ。お腹一杯食べてね」
 満面の笑みで。
 ドン、と目の前にこの家最大の大皿が置かれる。続いて差し出されたのは、
山盛りの丼飯。
 大皿には。大蒜とニラと牛肉とを胡麻油で炒めた上にサワークリームをあし
らった、凶悪な代物が鎮座ましましていた。
 ……何なんだ、この倦怠期も一発みたいなメニューの群れは。
 考える。魔術の修行染みた速さで。剣を投影する様にして、緻密に記憶を走
らせた。
 ……今朝は五時半に起きた。いつも通りの日常。六時過ぎには藤ねえと桜と
イリヤが朝食を食いに連れ立ってやって来て。遅れること十五分、これまたい
つもの様に遠坂がやって来て、朝食を平らげた。勿論目玉焼きはそれから新し
く作ったものだし、味噌汁だって温め直した。米は新潟産のコシヒカリの炊き
立て。食後のコーヒーだって、インスタントではなくドリップ式の代物だった。
 朝錬の桜に付き合って、三人連れ立っての少し早めの登校。道中の会話。部
活の事。成績の事。今日の夕食のリクエスト。確か遠坂は、さっぱりしたもの
が食べたいとか言ってた覚えがある。
 二人と別れ、生徒会室へ。昨日一成から頼まれていた書類の整理の手伝い。
HRのチャイムの音。授業を半分眠って過ごし、2―Aの教室を覗くと遠坂は
友人達と仲良く食事している様なので、一人生徒会室へ。一成と昼食をとり、
放課後。桜は部活、遠坂もそれを見学に行ってたらしい。二人にも美綴にも、
今日は部活を休む旨は予め伝えてあった。その後は朝の続きをしに生徒会室へ。
それから商店街で買い物、帰宅―――
 わからない。
 何でこいつが、怒っているのか。
 家に着いた時はもう、手遅れだった。玄関の俺と―――何故か一成を、殺人
級の眼光で睨みつけ。食材を奪い取ると鬼神の様で調理を始めた。俺たちとは
別に、自分でも買出しに出掛けていたのだろう。俺達が帰宅した時点で既に半
分がた埋まっていた食卓は、今や箸を置くスペースすら見当たらない程に料理
が密集しつつあった。
「……えーと。今日は何の日だったっけ。遠坂」
 恐る恐ると問い掛ける。
 ―――慎重に行動しろ、衛宮士郎。
 何故遠坂が怒っているのか。下手な行動は、死に直結するぞ。
「別に?特に理由は無いわよ。まあ、強いて言うなら―――」
 変わらぬ笑み。にも関わらず、見る者の心胆を寒くする何かがそこには在っ
た。藤ねえとイリヤは気付かない。食欲と好奇心が観察力を鈍らせているのだ
ろうが―――正直なところ、二人が羨ましかったりする訳で。
 遠坂は続ける。以前に聞いた、魔眼もかくやという視線を微笑の間から僅か
にずらし。
「柳洞君を、歓迎して。ってとこかしら」
 ……うわ。
 それが、原因か。遠坂の奴。
「ほら、柳洞君も遠慮しないでね。どうかしら、これなんて自信作なんだけど」
 肉野菜炒めを手早く小皿に分けて、一成へと差し出す。ニラ―――煩悩を呼
び起こすと言う理由から、大蒜や肉、魚と共に仏門ではあまり勧められないと
される食べ物だ―――を必要以上に選り分けられたそれを、一成は渋面で睨ん
だ。空揚げを一つ二つ摘む位なら兎も角、一応僧侶志望の身としては褒められ
た食事ではない。
 第一、あんなに食べては寺に帰った後も匂いが残ってしまうだろう。
「遠坂、貴様―――」
「遠坂」
 一成を制して。
 意を決し、繰り返す。―――まあ、直接の原因が自分で無い、という事でや
や身軽になった感は否めないが。それにしたって、こんな直球の嫌がらせは。
「らしくないぞ。どうしたんだよ」
 お金も掛かっただろうに、とは口に出さない。その面に関しては、下手に非
難すると俺自身に累が及ぶ。
「……何の事よ。気を利かせてあげたんじゃない」
 空惚けた顔で。視線を外しながら言っても、説得力が無い。「ちょっとこっ
ち来い」、有無を言わさず廊下へと連れ出す。
 ……後が怖い事を覚悟した行動だったのだが、予想外に遠坂は素直に従った。
 拗ねたような表情。なるべく真っ向からこちらを見ないその様子は、妙に可
愛らしくて―――違う。
「らしくないぞ」
 気を取り直し、繰り返す。実際、そう思う。こいつは人の好き嫌いが結構激
しいし、見事に被った猫も必要とあらば躊躇無く脱ぎ捨てる奴だ。にしても、
ここまで手を掛けて嫌がらせするなんてのは断じて遠坂凛らしくない。こいつ
はこれで、一成との掛け合いを割りと楽しんでいた節があるし―――そもそも、
そこまで嫌いな奴とは同席自体を避ける筈。
「―――だって」
 視線を上げる。見たことも無い遠坂の表情。焦っている様な、悔しがる様な、
恥ずかしがる様な。面白い位に紅潮したその表情に面食らう。
 可憐な横顔を、ただ見つめる事しか出来ない。
 見惚れるままに、胸の鼓動が。
 高く、激しくなって―――
「―――私にだって、プライドが有るのよ」
 訥々と。
 言わずもがなの事を、遠坂は呟く。
「……士郎が、セイバーの事を忘れられないのは知ってる」
(セイバー……?)
 話が見えない。
 所在無げに伸ばした腕が、強く引き寄せられた。
「桜なら、納得したげる。イリヤでも、藤村先生でも。綾子でも―――嫌だけ
ど、我慢してあげる」 
 桜?……美綴?
 納得とか我慢とか。
 話は見えないけれど。
「……っお坂」
 上擦った声。息が掛かる程に近い、遠坂の顔。抱きしめる様にその、胸に触
れる、腕が熱く。
 潤んだ瞳から、視線が離せない。
「だけど!」
 強い声。必死の面持ち。身動きも出来ないままに、ただ凝と見つめ合い―――



「一成に渡すくらいなら!私が貰うんだから―――!」



 …………。
 はい?
 ふーっふーっ、と荒い息を吐いてこちらを見つめ―――否、睨んで来る少女
を呆然と見やる。……何だって?
 と言うか。
 良い感じに激昂して、何を言ってるのか、こいつは。 
「……あー。」
 回らぬ頭で応えを返す。



「……一成に、何を渡すって?」



 心底からの問い。桜達や、美綴。遠坂に一成。この面子が欲しがる様な。
「そんな大層な物。俺、持ってないけど」
「な―――」 
 俺の答えに。何故か遠坂は、絶句して、こちらを見つめて来た。唖然とした
表情。よろめく様に二、三歩後退り。「だって、あんた―――」
 ぱくぱくと、口を開閉させる。言いたい事は有るのに、言葉にならない。
 ……半年の間に、何度か見た風景。経験則からするとこの後は、呆れるか激
怒するかの二択なのだけれど―――
「……っじゃないわよこの唐変朴―――!」 
 ―――今回は後者の様、だった。




『さ、どうぞ柳洞先輩♪』
『む。すまんな、間桐君。ところで……』
『あー、士郎の事なら放っときゃ良いのよ。どうせすぐ仲直りするんだからさ』
『そうそう。いつもの事なんだから』
『……そうですか。しかし、なんかさっき鈍い音が』
『それもいつもの事だし』
『止めなくて良いのですか?』
『犬も喰わない、って言うでしょ?』
『…………ぬ』
『―――あ、でも。今日は先輩、少し怒ってたからそのせいかも知れませんよ?』


 明かりの漏れる居間の光景を、揺れて回る視界で追う。


『え、シロウが?』
『そう?気付かなかったけど』
『いいえ。―――先輩はいっつも、柳洞先輩が来る時は張り切ってご馳走作り
ますから。
 遠坂先輩に先に作られて、悔しかったのかもしれませんね』
『。……そ、そうか』
『ええ。先輩、柳洞先輩が来ると張り切っちゃいますから♪』
『んー、それはあるわね。私のリクエストなんか無下にする癖に、柳洞くんの
は素直に聞くんだから』
『うん。カズナリが来ると、御飯がいつもよりもっと美味しくなるわね』
『……衛宮は友人思いの奴ですから。気を使ってくれてるんでしょう』


 歪む視界と掠れていく音の中で最後に残ったのは。


『―――本当にそれだけなんですかねー……?』


 見た事も無い、邪なかおで。
 一成にぼそりと耳打ちする、桜の姿―――




















 そして、春が来た。





 今、私の―――間桐桜の手の内には、一冊の本がある。授業中も楽しめる様
にと、教科書を模して作られた簡素な表紙。ところどころが擦り切れた、ぼろ
ぼろの紙の束。それはさして厚くも無いその本を、私がどれだけ繰り返し読み
返したかという証でもある。
 学内の有志達の情熱と愛が込められた、珠玉の一冊。
 何物にも代えられない。そして。恐らくは、現存する最後の―――
 ……静かにその時を待つ。夕暮れ時の弓道場は、今やその利用者の大半を失
って。ただ静謐に、そこに在る。
 恐らく、由紀香さんももうやられてしまったのだろう―――ページを捲る。
紙面に溢れる数多の写真、絵、詩、小説、目撃談―――その中に一際輝く、一
枚のイラスト。最早描き手を失った。絡み合い、愛を囁く彼等の姿に心を決め
る。
 ―――師匠。
 貴方達の遺志は、きっと私が。

 ……背後から響く足音に、覚悟を決める。

「来たわよ、桜―――」
 




「卒業式は―――終わったんですか?姉さん」
 ゆらり、と。
 振り向いたその瞳に、肌が粟立つ。
 ―――何かあれは、よくないものだ。
「―――ええ。おかげ様でね」
 怯みを悟られない様に。
 答えを返す。思っていた以上に、敵は強大で。そのささやかな余禄として、
卒業生、列席者――それぞれ、その半分ずつが欠けるという状況でありながら
も、ともあれつつがなく式は終了した。
 じりじりと。
「……姉の門出を祝いに来てくれないなんて。妹として、どうかと思うけど」
 軽口を叩きながら、近付いて行く。懐に入れた宝石に、手を伸ばし―――握
り締めた。
「ごめんなさい。本当は私も、行きたかったんですけど」
 私はこういう事には不慣れなんで怖くて、と微笑って続ける。その姿、その
瞳には。かつての様な、甘さは無い。
 あれは、魔術師の眼だ。目的の為なら如何なる事をも躊躇わない。そんな。
 ―――ふん。
 成長したじゃない。
 教え子に警戒を抱く自分を皮肉に思いながらも、こちらから迂闊には動けな
い。―――先刻の言葉は、実質的な『罠』の宣告だ。この場所でなら戦うのは
怖くない、とあの娘は言っている。
「まさか、こんな身近に黒幕が居たなんてね。……尻尾が掴めない訳だわ」
 慨嘆の吐息。半眼のまま、桜を睨み付けた。

 ―――士郎と生徒会長という『カップル』を熱烈に支持する集団が居る。半
年の以前綾子から聞き出した、弓道部に於いても蔓延し始めたというそのグル
ープの末端を、日々手繰り寄せていく毎日。何度も逃し、捕まえ、また上を知
る。我ながら不毛なその行為の果てに、今漸くその黒幕が前に在る。
 ブロマイド。イラスト。ポエム。見ているだけで頭が溶けそうな、そのこと
ごとくを奪い、焼き捨て―――その中には、集大成とされる『めもりあるぶっ
く』なるものも既に九十と九冊を数えた。
 一度目を通したが―――あれは危険だ。
 私はすぐに我に返ったけれど、全部読みでもしたら何かに目覚めてしまう程
の、呪い染みた念が籠もっていた。精神統制の訓練を欠かさない私ですらそう
なのだ。もしもこんなものを、他の一般生徒が読みでもしたら。
 そして結局、その凄まじいまでの『出来の良さ』が捜査の決め手となった。
単純に創作行為が得意と言うだけでは無い。常識を超えて、使い手に影響を与
える程の『意志』を、物品に籠めることの出来る人物―――
 そして長きに渡って、私の調査をそいつらが掻い潜れた理由―――
 半年以上に渡る、一連の捜索と掃討。極力魔術の使用を控えたせいもあると
は言え、予想以上の手間と労力を要した。それと言うのも、こちらの情報が逐
一漏れていた為。
 けど―――それも、今日で終わり。

「三枝さんと―――氷室は片付けたわ。あなたが最後よ、桜」
 宣言する。かつての友を踏み越えてきた。その私でも、出来得るのなら戦い
は避けたい。
 腐っても妹。
「それを寄越しなさい。そうすれば」
「それは出来ませんよ、姉さん」
 許してあげる、と。
 言いかけた言葉は、詠う様な桜の声に遮られた。
 例の本―――多分これが最後の一冊な筈!―――を抱きしめて、
「私には責任が有ります。二人の幸せを願ったみんなの。それを夢見て、倒れ
た仲間達への」
 桜の身体に、眼に見える程に濃密な魔力回路が発現する。私と士郎とが協力
して一度は切り離したそれは、今や宿主を蝕む呪いでは無く。それは使い手の
声に忠実に応える刃であり、鎧でもあった。錬度は及ばないにしろ、その数だ
けならば遠坂凛の魔術回路を凌駕する。
「ここへ来てくれたのは幸いでした。―――正直言って、自分の『陣地』以外
じゃ姉さんには敵いませんから」
「桜、あんた」
 威圧感が殺気へと変わる。―――予想以上の魔力!手にした宝石には充分以
上の魔力を蓄えてはあるものの、単純な力押しでは……負けないにしても、倒
し切れはしないだろう。
 今の桜の技術なら、防戦に徹すれば私の魔術は大半の威力を殺がれる。かと
いってそれを打ち破るための魔術は、下手をすると標的を殺しかねない。
 幾らなんでも。こんな理由で、妹を殺したくは無い。
 に、しても。
「……どうする気よ、この後」 
 剣呑な口調で言葉を投げる。桜の台詞は正しい。将来はともかく、今の桜じ
ゃ私には勝てない―――私が本来、戦闘向けの魔術師ではない事を差し引いた
としても。そのことを考えれば、のこのこと弓道場、桜の『陣地』まで侵入し
たのは私の失策だったけど。
 まさか桜が、ここまで本格的に私と敵対する気だとは思ってはいなかった。
そもそもこの状況下でも、桜に私は倒せない。この後、何とかして私がここを
脱出すれば。後は帰り道でも士郎の家でも、容易に決着が付けられるのだから。
「どうする気だと思います?」
 余裕に満ちた声。警戒は解かないままに、自身の記憶と眼を凝らす。
 その根拠は。
 私に勝つ方法。自信の基盤。私が負ける理由。桜の目的。勝てない勝負をす
る目的。
 わざわざ私を呼び出してまで。
 今この時に、なんで桜は遠坂凛を呼び出した―――
「……気付きましたか?姉さん」
 …………。
 きづ、いた。
 勝てない勝負を挑む理由。それは。
 戦って。勝つ事が、目的で無いというコト。
「……っ!桜あんた時間稼ぎ―――!」
「はい。既に柳洞先輩は先輩を呼び出している頃です」
 満面の、幸せそうな笑みで。



「邪魔はさせませんよ、姉さん」



 間桐桜は、開戦の宣言を告げた。
「―――桜」
 ……オーケイ。
「二つ、聞かせて」
 今ので胆が据わった。
「はい。今なら何でも答えちゃいます」
 手向けのつもりか。気前の良い答えに、眼を細める。
「あんたは、士郎と生徒会長が結ばれることを望んでる」
「ええ」
「……じゃあ、私が。姉の私が、士郎を手に入れる事をなんで嫌がるの」
 この場限りの本音を投げる。まだ当の本人にすら、伝えてはいない言葉。 
 士郎の相手として。
 桜は。どう判断しているのか。
「私は、相応しくない?」
「いいえ」
 迷い無く、応える。
「お似合いだと思います」
 その声に、嘘は無い。―――それ以上続ける声も。桜はただ静かに、最後の
質問を待つ。
 けれど、その答えでは足りない。
「なら」
 発条の様に。
 身体と、心を撓ませる。返答如何によっては、例え相手が桜であろうと。
「生徒会長よりも?」
「いいえ」
 即答。
「……まあ、多少は私の思惑もありますけど」
 放つ殺気を受け流し。微笑の態で、桜は続ける。
「……思惑?」
「ええ。―――和食を食べ続けてると、洋食も食べたくなるでしょう?」
「―――成る程ね」
 ……心が剣で出来ていく。
「おんなじ『洋食』は邪魔だ。そういう訳」
「え?―――まさか。そんな事、思ってませんよ」
 と。
 そんな邪道な、と。この状況でも呑気に眉を顰めて、桜は非難の声を上げる。
「―――どう違うってのよ」
 不機嫌の極みにある声を漏らしながら。
 ……わからない
 妙なフレーズが、頭の中を駆け巡る。
 邪道?
「私の事はあくまでついでです。何より優先されるのは、先輩たちが結ばれる事」
 断言する。
 ……もう二つどころじゃない気もするけど。思わず疑問が、口を突く。
「……なんでそんなに、あの二人に拘るのよ」
 その理由が。この集団の、誰に尋問しても。頭の中を覗いて見てすら。
 遠坂凛には、最後まで理解出来なかったのだ。
「―――そんなの、簡単ですよ」
 桜は今まで見た事の無いかおで。
 そして、今まで何十人と見続けてきたそのかおで。



「浪漫、です」
 同じ答えを、返した。



 ―――ああ。
 この娘はもう、遠いところに。
「もう。ずるいですよ、姉さん。質問、二つって言ってたのに」
 桜は屈託の無い笑顔のまま、言葉を投げてくる。
「で?もう一つは、何が聞きたいんですか?」
「……いえ」
 思い浮かべる。幾度と無く組み立てたイメージ。心臓をナイフで、刺し貫い
て。身体の隅々、その一欠けまでを揺り起こす。
 ……最後にする筈の問いは。質問でなく、勧告だった。念の為とは言え。血
を分けた妹に向ける、最後の確認。
 『足を洗う気は無いのか』、と。
「―――やっぱり、いいわ」
 無益を悟り、言い放つ。それで終わり。ここからは、姉と妹では無く。
「そうですか」
 殺気が絡み合う。
 魔術師として。


「どきなさい、桜―――っ!」
「行かせません、姉さんっ!」



 目前の敵を、打ち倒す―――!








「……ん?」
 遠雷の様に。耳に届いた轟音に、視線を巡らせた。
 遠く眼下に在る、冬木の町並。高台にある柳洞寺の、あの丘の上。ここから
一瞥した限りでは、おかしな所は見られない。
 ……学校の、方だろうか。ここからは見えない、逆方向にある母校。先程卒
業式を終えたばかりの。
 そう。……考えれば感慨深くはある。俺は今日を以って、あの学校を卒業し
たのだから。
 色々な事があった。否、ありすぎたと言っても良い。普通の学校生活のみな
らず―――聖杯戦争を終えて後の、嵐の様な一年間。これまで変わらず衛宮の
家は騒がしく、それはこれからも変わることは無いのだろうけど。それでも今
日から先は、衛宮士郎という人間の新しい日々の始まり。
 もう桜と学校で会う事は無くなるのは少し残念に思う。―――まあ。これか
らは藤ねえが暴れる度にフォローに回らなくても良いのかと思うと、得も言わ
れぬ開放感があるのは確かだが。
 これから。俺はどういう人生を送り。
 どれだけ、彼女に相応しい男になれるのだろうか。
 そんな事を考える。久しぶりにここを訪れたせいだろうか。思い出す。
 今も覚えている、彼女の声と姿。
 あの朝の、黄金色の空の下。衛宮士郎はあの言葉を、きっと一生忘れない―――
「―――衛宮」
 と。
 呼びかける声に振り向く。そこには俺をわざわざ自宅―――柳洞寺へと呼び
出した、友人の姿があった。
「よ」
 短く答え、視線を投げる。『大事な話がある、って仰ってました』、桜から
の伝言を受けたのは卒業式の直後。学校では出来ない話なのか、待ち人は場所
を自宅に指定していた。
 遠坂は遠坂で、何かとても大事な用とやらがあるらしく。俺一人、友人達に
別れを告げ、足早にここへと向かった訳である。
「何だ?大事な話、ってのは」
「―――ん」
 問い掛けに曖昧な応えを返し、歩みを進める。
 丘の先。未だ一部の隙も無く、きっちり学生服を着込んだ後姿は蒼白い陽光
の中、一際冴えて眼を打った。
 沈黙。
「……にしても」
 その表情から、打ち明ける話とやらの重さを窺い知る。取っ掛かりになれば
と、
「ちょっと驚いた。いつの間に桜と仲良くなったんだ?」
 軽口を叩く。驚いたのも実際、確かで。桜がさん付けとは言え、こいつの事
―――のみならず、同年代の男性を名前で呼ぶところなんて始めて聞いた気が
する。
 伝言を俺に伝える時も、なんだか妙に嬉しそうだったし。
「間桐君か」
 こちらは未だ堅苦しい呼び方ながら、僅かにその声と表情が和らいだ。
「彼女には色々と助けてもらった。有り難く思っている」
 む、と小さく頷く。何故だか桜の話で、決意が固まったのか。
 こちらを振り向いたその顔には、静かな決意が満ちていた。
 ……緊張が伝染したのか。我ながら硬い表情のまま、こちらも頷きを返す。
「―――ずっと迷っていた。言うべきか言わないべきか。それでも、何もしな
かったらきっと後悔すると思ってな」
 風が吹く。
 柔らかな陽の光を背にしたままに、一成は微笑んで。

 ―――思い出す。
 あの日、この場所で。
 彼女と交わした、その言葉を。



『最後に、一つだけ伝えないと』



 彼女と、同じ言葉。
 空から零れる、茜色の光に打たれながら。
 頭痛と共に。
 衛宮士郎は続けて落ちる、その言の葉を幻視した。







                           <了> 


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