作:しにを
凄いスピードで突っ込んでくる鉄の塊。 回避。 ガードレールの向こうへの跳躍。 虚空。 ぐらりと崩れる体勢。 落下。 「遠野くん」という悲鳴。 黒影。 体をかき抱く腕。 衝撃。 そして暗転。 ・ ・ ・ そんな悪夢を見ていた。 何度も何度も、同じ出来事を繰り返し夢に見ていた。 己が出来事としての視点で。 誰とも知れぬ他人の視点で。 不思議とリアルに体感を伴う視点よりも、他人事のように遠野志貴の姿を目 にする方が……、怖かった。 まただ。 迫るダンプカー。とっさの回避行動。結果的に崖状の切り立ちから身を投じ る己の姿。 悲鳴を上げながらも凄まじい勢いで跳び込むシエル先輩。 先輩は遠野志貴の体を護るようにその細い腕の中に抱きしめる。 もつれるようにして地面へと落ち……。 暗転。 目を見開くと、ぐったりと地に伏しピクリとも動かないシエル先輩の姿。 地面に血が広がっている。 尋常でない方向に曲がっている左腕。 ずたずたに切れて血まみれになっている右手。そこから細い鋼線が延びてい る。 俺を抱きかかえながら、鋼線を跳ばして落下を和らげたようだ。 ようやく手を開かせると、指も手首も線が食い込み目を背けたくなる有り様 で、さらに手首がくたりとしている。 無惨な姿。 必死にシエル先輩の名を呼ぶが、目は閉じたまま。 先輩の体を抱き起こし絶叫する。 ……そして目が覚めた。 がばと上半身を起こす。 息が荒く、びっしょりと体中に汗をかいている。 体ががたがたと押さえ難く震えている。 シエル先輩の死に顔がまだ克明に浮かんでいる。 「なんて夢だよ」 起き上がろうと手を付いて思わず悲鳴を洩らす。 激痛。左手に半端でない痛みが走った。 体を曲げてうめいている俺に、横合いから声が掛けられた。 「志貴さま」 聞き慣れた声に横を見る。 涙を浮かべた翡翠が立っている。 俺の顔を見て安堵の色を浮かべ、そしてまたぽろりと涙をこぼす。 「よかった……」 「え、あ、翡翠。どうしたんだいったい」 「……混乱なされているのですね。シエル様と二人であんなお姿で戻られて、 姉さんにシエル様を託されると志貴さまは倒れてしまわれたのですよ。 怪我の治療は簡単に済ませましたが、あんなに眠りながら何度も何度もうな されて……」 「……」 怪我……? 見るとさきほどの痛みがまだ消えない左手首は、包帯で覆われている。それ だけでなく体中に鈍い痛みがある。 シエル先輩……? あれ、どうして俺、こんな時間に自分の部屋で眠っているんだろう。 ? ……! 唐突に先程の夢の続きを思い出す。 ただ何も出来ずにシエル先輩を抱きしめていた俺。 涙をこぼしながら、必死に名前を呼び続けて。 そうしていたら、うっすらとシエル先輩の目が開いたんだった。 「遠野くん、よかった、無事ですね。私は平気です。このままじっとしていれ ば……」 それだけ言うとまた意識を失う先輩。 それでようやく気力が戻り、体の痛みに構わず先輩の体を背負って立ちあが り、そのまま走り出した。 道路まで出て、ぶつかる様にして乗用車を急停止させ、拝み倒すようにして 遠野の屋敷へと向かってもらい……。 いや、夢なんかじゃない。 シエル先輩の「お仕事」を手伝って出掛けた時に起こった本当の出来事だ。 「翡翠、シエル先輩は何処だ」 「下の客間にいらっしゃいます。姉さんが今、手当てを」 「そうか」 歯を噛み締めながらベッドを転がるように降り、立上がる。 「ご無理をなさっては駄目です」 「大丈夫」 強がりにすらなっていないが、なんとか歩くぐらいは出来る。 ……足もどこか打ったみたいだな。ずきずきと鈍い痛みが動きを拒否してい る。 それを無視してできる限りの速さでシエル先輩の許へと向った。 § § § 客間の扉をもどかしくがんがんと叩く。 「琥珀さん。入ってもいいですか」 「あ、志貴さん。意識が戻ったんですね。どうぞ、入っていいですよ」 返事を皆まで待たず、跳び込むように部屋に入る。 シエル先輩……。 目にするのが正直怖い。 あの無惨な姿は決して悪夢の創り出した虚像ではなく、実像。 ああ、シエル先輩……。 と……。 ・ ・ ・ 部屋に入った俺の目に入ったのは、上半身を起こして琥珀さんと談笑してい るパジャマ姿のシエル先輩。 「よかった、生きてる」 喜びというより呆けたように安堵の言葉が洩れる。 「遠野くん、何を言い出すんです。……そんな泣きそうな顔をしないで。大丈 夫ですから」 シエル先輩が子供をなだめるように優しく言う。 シエル先輩の顔に安堵したものの、よく見ると酷い有り様だった。 左手は添え木を当てて包帯でぐるぐる巻き、右手も手首から先がまったく見 えない。首筋からも包帯が微かに覗いている。 息を呑む俺に、先輩が苦笑を浮かべる。 「遠野くん、あの、見た目ほど酷い訳じゃないですから」 「左手が打撲と骨折、右手が激しい裂傷と脱臼、左足も打撲、脇腹も打撲であ ばら骨が何本かヒビ。他、細かい傷や打ち身多数。 内臓や頭への影響はまだ不明です。これはきちんとお医者様にかからないと」 シエル先輩に反論するように、琥珀さんが冷静な声で言う。 「そんなに重傷なのか」 「普通なら、死んでてもおかしくないです」 重々しく琥珀さんが頷く。 もし先輩が庇ってくれなかったら、俺がそうなっていた訳か。 「それでですね、全治1週間。早ければ4,5日という処でしょうかね」 「へ? 全治1週間? それだけ?」 「はい」 怖い悲痛な顔をしていた琥珀さんが、手のひらを返したようにニコリとする。 どういう表情をしていいのか分からなくて呆然としていた俺に、琥珀さんが ぽつりと言った。 「あのう、志貴さん。何故シエルさんを普通の病院へ連れて行かなかったのか、 よく分かりました」 笑い顔のままだが、心なしか表情が強張っている。 シエル先輩からどういう言い方かは知らないが、先輩の特異な肉体について 説明を受けたのだろう。 ロアが死んで復元能力を失った今でも、いろいろな秘儀に護られたシエル先 輩の肉体は普通の人間から見れば異常な回復力・耐久力を有している。 頭を潰されない限り死にませんよ、といつか言っていたのは冗談ばかりでは ないらしい。 かつてのシエル先輩の如く、瞬く間にそんな致命傷に近い重傷でも完治して しまう……とまではいかないが、ちょっとした傷なら見ているうちに消え去っ てしまう。 普通の医者にそんな体を見せる訳にはいかない。 「多分、細かい傷は一晩眠れば消えていると思います。骨とかはまだ時間がか かると思いますが」 「そうか。安心した」 よかった、大事に至らなくて。 「そういった訳ですからそんなに心配しなくて良いですよ、遠野くん」 「よかったよ、先輩。……お礼を言ってなかったね。助けてくれてありがとう。 おかげで命拾いをした。 本当なら俺が死ぬ寸前だったんだよな。でもあんな無茶しないでよ」 「大丈夫だからあんな真似をしたんですよ。もっとも遠野くんの姿を見たら体 がひとりでに動いちゃっただけですけどね」 「ところで、あの暴走車」 「ああ、あれですか。どこの手のものか分かりませんが、大丈夫です。ただじ ゃおきませんから。落とし前はつけて貰います」 怖いよ、先輩。 怖いと言えば、一つ避けて通る訳にいかない厄介な事があるな。 § § § 「秋葉、頼みがある」 いつになく真剣な表情の俺に、秋葉がとまどった表情をする。 咳払いをして背筋を伸ばす。 嘆願を拝聴しましょうという感じだ。 「何でしょうか、兄さん」 「シエル先輩をしばらくここに置いて世話をしたいんだ」 しえ、まで言った処で眉が上がり、言葉が進むに連れ、険しい顔になる。 「そこらの病院にシエル先輩の体の秘密は見せられないし、体の自由もきかな い」 「そうですね。でもなん……」 「お願いだ、秋葉」 皆まで言わせないで、深く深く頭を下げる。 「俺を助けて、シエル先輩があんな目にあったんだ。幸い無事に済んだだけど、 下手すると俺は死んでたかもしれない。 せめてそれくらいしないと気が済まないんだ」 顔を上げて、精一杯の懇願を瞳に込める。 これで秋葉が首を横に振るなら、土下座でもなんでもして頼みこもうと思っ た。 秋葉はしばし無言。 「……わかりました。恩義ある人に報わないのでは、遠野家の恥ですから」 言葉と裏腹に怒った顔。 ぱっと顔を輝かす俺を見て、さらに怒り顔というか、しかめっ面を深める。 「もう、そんな顔されたら逆らえる訳ないじゃないですか……」 小声でぶつぶつと何か言っている。 「あんまり反対すると、シエルさんのお住いに泊り込んで世話するとか言い出 しそうですからね、兄さんは」 「あっ、その手があったか」 「じ、冗談じゃありません。……いえ、兄さんだって怪我人で万全ではないの ですし、だいたい女性の介護を兄さん一人で出来るんですか?」 「うっ」 それはちょっと無理か。 「琥珀、翡翠。聞いてたわね。そういう訳で仕事が増えるけれど、滞在すると なれば大事なお客様です。丁重に最善を尽くしてお世話するように」 「はい、承知いたしました」 「はい、志貴さんのあんな真剣な様子見たら、喜んでお世話しない訳には参り ません」 「翡翠、琥珀さん、ありがとう。すまないけど、お願いするよ」 二人の言葉に心から感謝して、頭を下げた。 § § § しぶしぶと言う感じで認めた秋葉であったが、一度決めた以上はその後何ら 異を唱える事は無かった。ときどきは病室に顔を出して言葉を交わす事もあっ たが、先輩がおとなしく療養していた事も有り、特に大事になる対立なども起 こらなかった。 琥珀さんも翡翠も当たり前のようにシエル先輩の世話をしてくれていた。 そんなこんなで平穏に3,4日経った休日の昼前。 「じゃあ、志貴さん、すみませんけど留守中のことお願い致しますね」 琥珀さんが申し訳なさそうな顔で言う。 「気にしないでよ。別に何かする訳でもないし。むしろお出掛け前に余計な世 話までかけちゃって申し訳ないのはこっちだよ、琥珀さん」 琥珀さんはいえいえと手を振る。 「それにしても、着物姿じゃない琥珀さんて凄く新鮮だなあ」 ワンピースに薄手のカーディガンという何という事はない普通の格好だけど、 琥珀さんが着ていると何だか特別に見える。 「おかしいでしょうか?」 「何言ってるんだ、よく似合ってるよ。普段とのギャップもあって余計に引立 つ。変な言い方だけどそんな格好だと普通の女の子みたい」 「普通ですか」 妙に感心した顔で琥珀さんが小首を傾げる。 正確に言うと、その上に凄く可愛い、とかきれいなとかつけなくちゃいけな いと思うけど。 「翡翠もよく似合っているよ」 いつものように傍らで口を挟む事無く控えていた翡翠が、急に話を振られて 驚いた顔をする。そして俺と目を合わせて困ったように下を向いてしまう。 顔が微かに赤くなっている。 「私が着ないと、翡翠ちゃんが着替えてくれませんから」 色違いではあるが、琥珀さんと同じ格好を翡翠もしている。 双子なんだから同じように見えてもおかしくないが、まるで違う感じがする。 二人とも良く似合っているのは確かなんだけど。 「私は、普段の格好の方が落ち着くのですけど……」 ぽそぽそと翡翠が言葉を紡ぐ。 「ええっ、志貴さんも似合ってるって誉めてくれてるんだよ」 「そうだよ。せっかく珍しくお休みで姉妹揃って出掛けるんだから、そっちの 格好の方が絶対いいよ」 土日祝日関係なく同じような格好で屋敷内にいる二人であるが、今日は琥珀 さんの用事とやらで珍しく二人で半日ほど出掛けるそうだ。 掘り出し物がどうとかで琥珀さんが珍しく興奮すらしていた。何の気なしに 何処へ行くのか訪ねたら笑ってごまかされて、後は詳しくは聞いちゃまずいと 思わせる雰囲気を漂わせていたけど。 「あとせっかくですから、志貴さんの冬物の服とかも見てきますね。本当は好 みもありますし一緒にお出掛け頂けると嬉しいんですけど」 「うーん、まかせるよ。琥珀さんのセンスの方が上だから。どうせ俺なんか何 着ても同じだしね」 呼んでいた車に乗ると二人は出掛けていった。 琥珀さんが振り返ってにこにことしながら手を振っている。 車が姿を消すまでぼうっと眺めていた。いつもと逆だなとか思いながら。 秋葉は休日だというのに、学校の用事とかで既に朝から出掛けてしまってい る。 と言う訳で今この家にいるのは俺とシエル先輩のみ。 くどくどと頼まれたのは、お昼ご飯をシエル先輩に食べさせる事だった。 別に料理しろという訳ではなく既に用意しておいてくれているそうで、どの みち自分だって食べるんだから一緒に取れば別にどうと言う事もない。 「シエルさんも退屈でしょうから、お話しのお相手でもなさったらどうですか?」 ちょっと悪戯っぽい笑みで琥珀さんはそんな事を言っていた。 シエル先輩と一つ屋根の下にいるものの、秋葉たちの目もあるし、足しげく 病室に通ってはいたが、あまり二人きりで言葉を交わす機会を見出せずにいた。 もしかして気を使ってくれたのかな? 翡翠もいつになく屋敷の外へ出るのを躊躇せずに琥珀さんの言葉に従ってい たし。 時計を見るともう11時過ぎ。 休日とあって惰眠を貪ってごろごろしていたからなあ。 さっそくシエル先輩の顔を拝みに行くとしよう。 § § § 「そう言えば、こうやって療養していて思ったんですけどね……」 とりとめのない会話の中で、ちょっと言葉を途切らせてシエル先輩が言った。 「こんなに遠野くんが優しくしてくれるんなら、たまには怪我するのも悪くな いかな、なんて」 ちら、とこちらを見て、しまったという表情をする。 「冗談ですよ、遠野くん。怒らないで下さい」 「冗談でもやめてくれよ。凄く心配したんだから。あ、でもそもそも俺を助け ようとしてくれたんだよな。ごめん、怒るの筋違いだよな」 「ううん、むしろ嬉しいです。私も軽率でした。自分の体を省みなくなってい た昔の癖が残ってて、いけませんよね」 ちょっと気まずい、というかむずかゆい雰囲気。 なんか、話を変えてと思っていると、先にシエル先輩が俺の背後の扉に目を やって言う。 「それはそうと、お腹が空きましたね」 「そうそう。忘れてた。お昼ご飯にしようか。琥珀さん特製のカレーライス」 その言葉にシエル先輩の顔がぱっと輝く。 シエル先輩の尋常でないカレー偏愛は琥珀さんもよーく知っていたし、昼の 面倒を見るのが俺だという事を考えてカレーライスにしてくれたのだ。 普段はカレーなんか料理じゃないくらいの事は言っているのだけれども。 「カレーライスなら、志貴さんが片手でも食べさせやすいですから」 そんな気遣いを見せてくれていた。 昼食なんだからそんな手の込んだ物でなくても良いのに、カレーライスに、 定番の福神漬けや、刻みらっきょう、ナッツの砕いたやつ等の薬味のお皿が添 えられているのはもちろん、トマトサラダ、じゃがいもを裏濾しして作った冷 たいスープなどが色を添えている。 「それにしても、琥珀さん料理お上手ですよねえ」 「うん、本当に凄い腕前だと思う」 「遠野くん、いつもこんな料理食べてるんですよね。いいですねえ」 「そうだね。あ、そう言えば琥珀さん、先輩に料理作るの喜んでいるみたい」 「それはまた、なんでです」 「普段が俺も秋葉も少食で、美味しいけどそんなに量は食べないし、翡翠は……、 ええと、いろいろあって、張り合いがないらしいんだ。先輩は喜んで何でもい っぱい食べてくれるから腕の振るい甲斐があります、とか言ってた」 「……ちょっと、恥ずかしいです」 「それと、あれだけお食べになっていて、あのプロポーション保ってるなんて いったい何をやってるんでしょうか、とか聞かれたっけ」 「……」 小振りの電気釜からご飯をよそって、保温器に乗せられた鍋の中でコトコト いっているカレーをかける。 「まだまだいっぱいあるからね」 それでも心持ち先輩の皿を大盛りにする。 なんでもカレーに使うスープ(単なる水じゃないとの事)は昨日からダシを 取ってクツクツ煮込んでいたそうだ。有間の家にいた時に自分で作ったインス タントルーを使ったカレーとは、色も匂いも湯気の出方さえ次元が違うような 気がする。 そう言えば前にカレーライスが食べたいとリクエストした時、「どんなカレ ーがお好みですか?」と聞かれて「ジャガイモがごろごろしてるやつ」と答え て琥珀さんを2,3秒沈黙させた事があったっけ。 あれは「玉ねぎを大量に炒めたのをベースにして極力水を使わないで仕上げ たチキンカレー」とか「牛筋がとろけるまで、他の野菜は全部溶けるまで煮込 んで、ルー自体のコクを重視して云々」とか言えばよかったのだろうか、未だ に良く分からない。 その時作ってくれたカレーは注文通りで、十二分に堪能できたのだけど。 「じゃあ、いただきます」 とりあえず、すがるような瞳でこちらを見ているシエル先輩を優先。 「はい、先輩、あーん」 恥ずかしそうな顔をしてがらも、あーんと口を開けるシエル先輩。 一匙のカレーを口の前に差し出すと、ぱくりと口にしてゆっくりと味わって いる。 先輩の心底幸せそうな顔に、こちらも嬉しくなる。 どれ、と今度は自分のスプーンを取って口に運ぶ。 これは……、美味い。 いつものとは全然違った味だけど凄く美味しい。機械的にもう一口頬張る。 何と言うか味云々以前に口にした時の香りが多層的な感じだ。 「うーん、なんだろ、これ」 味わいの妙に、さらにとスプーンを動かし口に運びかけて、じーっとこちら を見つめているシエル先輩の視線に気づく。 「……遠野くん、自分ばっかりずるいです」 「ご、ごめん。あまりに美味しくて思わず没頭してた。はい、シエル先輩」 慌てて先輩に一匙のカレーを差し出す。 あ、これ俺のスプーンだ。 先輩は気にせず口にしている。 「あの、先輩、スプーン一緒のでもいいかな?」 いちいち持ち替えるのが結構面倒くさい。 陶酔の表情を浮かべていた先輩が夢から醒めたような顔でこちらを見る。 「は? は、はい。私はかまいませんけど……」 お言葉に甘えて、スプーンを共用して交互にカレーを味わう。 3分の1くらい食べたところで水が欲しくなる。 グラスの冷水を一息に飲む。喉に心地よい。 「シエル先輩も水飲む?」 「いただきます」 グラスを先輩の唇に当てて、少しずつ傾ける。 シエル先輩の喉がこくこくと動いて水は消えた。 「美味しいけど、後からけっこう辛くなってくるね」 「すみません。遠野くん、辛いの駄目でしたか? 私のリクエストなんです」 「いや、大丈夫だよ。辛いカレー食べて水飲むのも美味しいし。やっぱり琥珀 さん『どんなカレーがお好みですか、シエルさん?』とか聞いたのかな?」 「はい。何日か前に私が昔教わったレシピを教えたんです。チーズを上手く使 って最初は辛さを消し去るんですけど、その口当たりは……」 しまった。 シエル先輩のカレー蘊蓄が始まってしまった。 これ始まると長いんだ。店の比較とか玉葱の炒め方がどーとかの話ならまだ 分かるんだけど、香辛料の種類だの調合だのの話になると、ちょっと化学の講 義でも聞いているみたいで理解の範疇を超えていて、ついていけない。 「……と言う訳です。こういう料理人を抱えていると言うだけでどれほど恵ま れているか分かりますか、遠野くん」 別に琥珀さんは料理人と言う訳では。まあ取敢えずシエル教授のカレーのレ シピから始まって文化人類学の講義を経て、ひとくさり吸血鬼全般に対する糾 弾と特定の姫君に対する誹謗を挟んで、遠野家の台所事情に至ったお話が終了。 その間に別に食べるのが止まっていた訳ではなく、いつの間にか電子ジャー のご飯も厚鍋のカレーもほぼ終わりになっていた。 「ごちそうさま」 「ごちそうさまでした」 大きめの水差しも二人のグラスに注ぐと残りは無くなってしまった。 それにしても美味しかった。いつに無く食べ過ぎたかもしれない。 先輩も満ち足りた表情をしている。 皿を重ねてキッチンワゴンの上に置く。 食休みと言う訳でもないが、二人して特に話に熱中するでもなく、ぼんやり と何もしない時間を過ごす。陽も穏やかで、こんなのんびりした一時も悪くな いなあと思う。 どうしてもシエル先輩とは、学校にいる時はともかくそれ以外で顔を合わせ る時は、こちらが先輩に会いに行くにしても、シエル先輩が来てくれるにして も、どこか日常と言うより特別なイベントといった感覚があって、こんな風に ただ二人してまったりと無為に時を過ごす事は少ない。 あ、そうだ忘れてた。 シエル先輩にちょっと待っててと声を掛けて食堂に向かう。 その前にちょっとトイレに寄る。水の飲み過ぎかな。 シエル先輩の処に向かう前に仕掛けて置いたコーヒーメーカーが具合良くな っている。 カップと一緒にお盆に載せて部屋に戻る。 「お待たせ。コーヒーいれたんだ。先輩はブラックだったっけ?」 「そうですね。今日は少しだけミルクを入れて下さい。ちょっと香り付け程度 で」 「熱いから気をつけてね」 カップを口元に近づけるとシエル先輩は器用にすすり込む。 「良い香りですね。遠野くんがいれてくれたんですか?」 「一応、手で豆轢いてるんだ」 また二人して特に意味の無い、でも良い雰囲気の時を過ごす。 小一時間程経っただろうか。 会話が途切れがちになり、どうしたのだろうとシエル先輩を見つめる。 シエル先輩の顔が心なしか曇っている。 「あの、遠野くん。琥珀さんも翡翠さんもまだお戻りになりませんか?」 「うん。あと1時間もすれば戻ると思うけど」 「1時間ですか……」 シエル先輩が困った顔で宙に目をさ迷わせたり、俺をじっと見たりする。 「あの、遠野くん、その……」 何度かためらった挙句、先輩が言葉を紡ぐ。 「どうしたの、具合でも悪いの、先輩?」 「いえ、そうではなくて……」 かぶりを振って笑顔を見せかけ、途中で絶望感あふれる表情に変わる。 「先輩、どうしたんだ。何が起こって……」 「……トイレに」 「え?」 「トイレに行きたいんです。そのお水を飲み過ぎたみたいで……」
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