気まずい。 何故かわからないけど、この空気は焦げ臭い匂いを感じる。 一見、和やかに杯を重ねている秋葉と一子さん。 「有間、それ取って」 「はい、イチゴさん」 スティック野菜の入ったグラスを差し出す。 ご苦労、と言うように一子さんは頷き、セロリを手にポリポリと齧る。 「次はどうします」 「うーん、サラミに塩」 「それにレモンをかけるんですね。ちょいちょいと、はい」 「ありがとう」 うやうやしく差し出すと満足げに一子さんは顔を近づけた。 そのまま手で取らずに直接、口を寄せる。 指の先がちょっと唇に触れた。 一子さんは気にせずに、口をもぐもぐと動かして、ぐっとグラスを空ける。 「美味しい」 「イチゴさん、それ好きですよね」 「体には悪そうだけどね。しかし、レモンも塩も何もかも極上品だと、全然味 が違う」 「そうですか?」 「ああ、特に塩が……」 言いながら、グラスを置き、今度は自分で作ってみせる。 それなら最初から自分でやればいいのにとちょっと思う。 しかし、それから一子さんは予想外の手に出た。 自分にではなく、端を摘んで俺の口元へ。 「そら、口開けて」 「え、あ、はい」 反射的に言葉に従った。 一子さんの指が、俺の開いた口に、サラミを押し入れる。 指が舌に触れた。 俺の口に放り込んで一子さんは離れた。 噛む。 うん、サラミとレモン、そしてしょっぱさが……。 「ほら、呑んで」 さっきから氷を解かしていただけの水割りのグラス。 くっと喉を潤す。 塩気が水分でいやされ、そして喉の奥からアルコールの熱さが。 「あ、美味しい」 「だろ」 そうだろうと一子さんがあまり表情が変わらないが嬉しそう。 それに答えかけ、ふと嫌な感覚を覚えた。 なんともいえない悪寒にも似た。 ゆっくりとその冷たさを含んだ何物かを確かめるべく、横を見る。 ……忘れてたよ、秋葉の事。 秋葉がじっとこちらを見ている。 一子さん3割の俺7割って感じ。 睨んだりはしていない。 冷静な表情。 だが、それが怖い。 それとなくご機嫌取りをしようかななどと言う気分になる。 ええと、さっきから一人で空けているワインの瓶を。 一杯注いで……。 それを見ていたのか、いないのか。 俺の手が触れる寸前に、ぱっと秋葉の手が掴んで引き寄せてしまう。 ワイングラスに半分ほど注ぐと、そのまま一息にあおる。 水よりもあっさりと飲み干してしまう。 あの、秋葉さん? 早く琥珀さんでも来てくれないかなと思っていたが、いっこうに姿を見せな い。ぶっ倒れた有彦の方に行っているのかな。翡翠も行きっぱなしだし。 秋葉が比較的黙り込んでいるので、必然的に一子さんの相手は俺がする事に なる。 しかし、そうしているとなんだかどんどん秋葉の機嫌が悪くなっていくよう な気がする。 一子さんにしても、普段は平気で一人の世界に入っていたりするのに、今日 はいつになく機嫌良く、一子さんにしては饒舌だ。 「それで、有間はさ」 「はい」 と、その時。 「なんで、有間なんですか」 「えっ」 「うん?」 一瞬、秋葉の重低音の声が何を言っているのか、わからなかった。 「兄さんは、遠野家に戻っているんですよ、それに有間の家にいた時だって、 お父様が何を言おうと、遠野家の、私の兄で……」 「秋葉」 「そうか、すまないな」 一子さんが、ぽつりと言う。 「そうだな、今は少なくとも名実共に遠野の家の人間か……、志貴は」 ちょっと言いにくそうに一子さんは口にする。 俺も違和感がある。 どこか、一子さんとの繋がりが無理やり断たれたような不思議な感覚。 「あの、私……」 一子さんと俺を見て、秋葉が戸惑った表情を浮かべる。 何か言い過ぎてしまったのか、と不安げな顔。 「まあ、すぐには直らないかも知れないけど、良い機会だから切り替えるか、 なあ、有間、じゃなくて志貴」 「そうですね」 わざとなのか、一子さんの早速の言い間違えにクスリ笑い、微かな笑みを 二人で浮かべる。 「それでいいかな、秋葉」 「は、はい。まあ少しくらい元の呼び名でも大目に見ます」 「了解」 そして一時、和やかな雰囲気に戻った。 話題が小中学校時代の俺の事になって、秋葉が聞き役に回ったせいもある だろう。 俺としてはちょっぴり居たたまれない気分になる過去話を延々とされるの は抵抗あるのだけど、いくら一子さんを牽制しても嬉々として話すのを止め てくれない。 おまけに、秋葉も何で邪魔をするのですか、という顔でこっちを睨む。 まあ、それでも険悪な雰囲気よりはマシかと思っていたら、それも徐々に 崩れて行った。 俺が有彦と、と言うか有彦の巻き添えを一方的に食って人目を憚る事をし ていたなんて話には、時に眉をひそめつつも笑っていた秋葉であったが、こ んな悪行ばかりでは悪いな、と一子さんが思い始めた辺りで微妙に風向きが 変わっていった。 どれだけ俺が可愛くて、けっこう優しく献身的であるかなどという、これ はこれで悶絶しそうな話を始めてしまった。 目に見えて秋葉の表情が変わり、「私、機嫌が悪くなりました」と言葉に 拠らず語り始めた。 じゃあ、席を立ってくれればいいのにと願ったが、話だけは聞き漏らすま いとしている。 一子さんはそんな秋葉の様子にはまったく斟酌せずに、話を続けている。 懐いて一子さんて呼んでくれた時が可愛かったとか、皿洗いを手伝ってく れてとか、好き嫌いがあったのが云々などと、止まらない。 一緒にお風呂に入ったとか、酔っ払って一緒のベッドで寝てたとか、それ は全部昔の話で、秋葉……、ダメだ、聞いてやしない。 でも奇跡的にも最悪の事態だけは回避できた。 秋葉が何か暴走する前に、いい加減話し疲れたとばかりに一子さんが暴露 話を止めてくれた。 「で、最近はたまにしか来なくてね。よっぽど妹さんとの暮らしが楽しいの かなと、あたしを寂しがらせてくれるんだよ」 なんて事を言うと、秋葉の顔がまた一変した。 えっ、と言う顔があっという間に赤みを増し、俺の顔をちらりと見て俯い てしまった。 ありがとう、一子さん。 やはり、神様っているのか。 一子さんは、ここでは有間、じゃなくて志貴はどうなの、などと水を向け、 今度は秋葉が話し始めた。 今の俺の話というか、秋葉の抱いている不満を。 でもそんな話を一子さんは面白そうに聞いていた。 これならまあ胃の痛みを感じなくてすむな。 良かったと思いきや……。 「なんで、兄さんはそんなに、ホストみたいに……」 また、秋葉が不満顔になってしまう。 今度はそんな深刻ではなさそうだけど。 しかし兄をつかまえてホストって言い草はないだろう。 一子さんの口元に延ばした手。 今日は何度もこうして……。 「火」 「はい」 あ、秋葉の睨み顔。 でも体が勝手に動いて、恭しくライターの火を捧げてしまう。 ニヤリと一子さんが微笑む。 これは、面白がっている。 「おかわり欲しいなあ」 今度は、グラスをからからと振ってみせる。 なんだか、やや挑発的にも見える。 何か煙が立ち昇らないうちに慌ててそっちに対応する。 いっそのこと潰してしまった方がいいのかな、と少々多めにウィスキーを注 いで水割りを作った。 「ごくろう。いい子だなあ、有間……、じゃなくて志貴は」 いきなり、ぎゅっと顔を抱かれた。 酔っ払ってる。 酔っ払っているよ、この人。 でも、普段は外から覗うだけの一子さんの柔らかい二つの……。 むにゅうって感じの、頬が埋もれて、ああ……。 それに頭に当てられた手が撫ぜるように動くのも。 うっとりとするほど気持ちいい。 思わず胸の感触に浸り込みそうになって、慌てて顔を離した。 「イチゴさん、何するんですか」 「おや、嫌だったかな」 「ええと……、嫌じゃなかった、ような、何と言うか」 秋葉のきつい視線を感じて、言葉を濁す。 ああ、すっかりご機嫌斜めに逆戻りだ。 「兄さん」 「はい、なんですか、秋葉さん?」 「おやおや、妹相手に敬語か」 一子さんの言葉に秋葉は直接的に反応しないで、俺をきっと睨む。 冷や汗が滴り落ちる。 俺が何をしたと言うんだ……。 「私もおかわりです」 「ええと、ワイン?」 「ジンライム」 自分でも感心するほど手際よく作って、恭しく秋葉に手渡す。 ちょっと迷ったけど保身という心の言葉に従い、こちらもアルコール多め。 くいっとグラスを傾け、カタンと置く秋葉。 一瞬で空っぽ。氷だけが残っている。 おい、そんな一息で呑むもんじゃないだろう。 「おかわりです」 「はいはい」 酔っ払いには逆らわない。 これが一子さんから教わった、尊い教えの一つだ。 グラスをさっと秋葉に差し出した。 今度はすぐに空けず、秋葉は受け取っただけで置いてしまう。 「優しい兄さんに、お礼です」 ぎゅっ。 さっきの一子さんのように頭をつかまれる。 哀しいかな、一子さんの如きふっくらとか、ぽふとか、むにゅとか、の擬音 とは縁の無い身体つきだけど、これはこれで気持ちいい。 あくまでたおやかで柔らかな感触。 秋葉の髪がはらりと頬と背に流れるのも、なんとも言えない。 どこからともなく甘い香りが鼻をくすぐる。 うふふ、とか秋葉は挑戦的に笑っている。 こっちを見ているであろう一子さんへ。 横目で一子さんを見るとふーん、という顔でこちらを見ている。 一見落ち着いている。 まだ、酔っててもちゃんと冷静ですよね。 やや矛盾した事を、心中で訊ねる。 「それにしても、兄さんはさっきから呑んでいませんね」 え、秋葉の声にそちらを向くと、いきなりグラスを唇にあてられてしまった。 少しこぼしつつも、傾けられたグラスから注がれる酒を反射的に受け入れ呑 んでしまう。 少し気管に入りそうになって咳き込みながら、秋葉に文句を言う。 「秋葉、おまえな……」 「間接キス、ふふふふふ」 底のほうに残ったアルコールを、秋葉は飲み干して笑う。 全然人の話を聞いていない。 酔ってる、おまえも酔ってるだろ、秋葉。 うおっ? ぐいっと引っ張られた。 え、一子さん。 落ち着いた様子ながら、凄い力で秋葉から俺の体を引き寄せる。 「確かに、もう少し呑んだ方がいいな、有間」 一子さんも自分のグラスを手に……、自分でくいっと呑む。 一瞬警戒した心が安堵に緩む。 なんだ、一子さんも強引に呑ませるのかと思った。 さすがに、秋葉に対抗するなんて、子供っぽい真似は……。 ……? ! わあああ。 一子さんが顔を寄せてきて、いきなり唇を奪われた。 その柔らかい感触に動きを止めた瞬間に、薫り高い美酒が口に広がった。 じたばたしたが逃れられない。 んん、んむんんッッ。 わあ、舌まで入れられている。 ダメだ、抗っても逃れられない。 飲むしかない。 「んんんッッッ」 ごくりと飲み干す。 かーっと喉の奥から熱くなる。 まだ一子さんは離れない。 ああ、舌が絡んでる……。 うん……、ぅんふッ。 放心したような俺を、一子さんがようやく解放してくれた。 「なななななな、何をしやがりますか、あなたは」 秋葉が立ち上がる。 放心していた俺は、危機を察知して意識を取り戻す。 いや、もっと穏便に……、そう声を掛けようとしたが、結局おろおろしている事しか出来ない。 幾分アルコールと、そして今の一子さんのキスでふらふらになっている。 「別に。いつも通りにしているだけだけどね、な、有間?」 「嘘だ、嘘だ、嘘だ」 この鬼気すら纏っている秋葉に、なんで平気なんですか、一子さん? ふふふふふ。 地の底から響いたような低い笑い声。 見えなかった。 何をされたのかもわからぬうちに、脳が頭蓋骨の中でシェイクされそうな勢 いで俺は秋葉に腕をとられ、引っ張られていた。 「んんんッッッ」 がばっと秋葉に圧し掛かられ、唇を奪われた。 う、柔らかい。 て、あああ。 なんだ、これ。 突然口の中が燃えた。 熱い、なんだこれ、火がついたみたいな、苦しい。 秋葉に注ぎ込まれた、酒か。 飲み下すのも辛い。 かと言って、舌まで入れられている状態では吐き出せない。 と、またぐいっと顔をつかまれて引っ張られた。 口の中の火を撒き散らさぬように、必死に口を閉じたままでいた。 え、あ? 一子さん。 また、唇が。 ちょっと、今はそれどころじゃ……、あああ、柔らかい。 それに、舌が優しく唇を突付いて、思わず少し口を開いたら……。 「んんんんッッッ」 強引に舌をねじ込まれ、そして一子さんの口に引っ張り込まれた。 んん……、吸われた。 唇も、舌も。 口にあった酒と唾液も、何もかも一子さんに啜りこまれた。 空になった。 そして替わりに、冷たいものが。 火が消されていく。 ごくごくと喉を鳴らした。 「大丈夫か?」 「え、あ、何が?」 「いや、さすがに有間に生のウォッカはきつそうだなって思って」 一子さんは平気で飲み干したらしい。 手には、透明の液体のグラスが。 「あ、水飲ませてくれてくれたんですか、助かりました」 「ん」 一子さんも残りのミネラルウォーターを呷った。 ふぅと息を吐いてしみじみと俺に言う。 「迫害されてるなあ、有間」 「そんな事もないですけど」 「いつでも、泊まりに来ていいからな。ろくなもてなしも無いけどな」 何か返事をしようとしたら、秋葉が割って入った。 「お生憎ですが、兄さんには立派な家があります」 「ほほう、その割には、狭い我が家で心安げにしているけどな」 「くっ、それは兄さんの貧乏性が抜け切らないからです」 「つまり、今はあまり居心地が良くない訳だ、可哀想にな、有間」 あ、秋葉と一子さんが、冷たい笑いを浮かべて見詰め合っている。 寒気がした。 逃げ出したかったが、体が言う事を聞いてくれない。 もはや、感情の制御ができず笑い出してしまいそうだ。 突然、二人の顔がこちらを向く。 「有間」 「兄さん」 「は、はい」 「おかわり」 「私もです」 イエッサー、とばかりに震える体を動かす。 こんな時には何故か、普段以上に機敏に体が動く。 誰か助けて。 次から次へとおかわりを作らされては、二人に体を弄ばれ陵辱された。 唇やら舌やら口の中を。 いい思いをしているのかましれな……、いや意に染まぬ以上、力づくの陵辱 だ。 心理的には本当にそんな感じ。 どんなに気持ち良くても。 幸いにも、ウイスキーとブランデーと日本酒とウォッカと幾つかのカクテル で、意識が跳んでくれたけど。 その後の惨劇と、何故に着衣が乱れていたのかについては知らない。 知りたくもない。 絶対に。 だから一子さんと秋葉は逢わせたくなかったのに……。 どこかで鈴の音が聞こえた。 ……つづく
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