啓子さん。 有間啓子さん。 子供の頃の俺からお世話になっていた、母親に近い存在。 たおやかな物腰の優しい人。 本当に俺を可愛がってくれた人。 なのに俺は彼女を、いや有間の家の人達を本当の家族とはどうしても思えな くて。 啓子さんだけでなく、文臣さんも、都古ちゃんも。 妹として接しようとしていた筈の都古ちゃんを。 そして母親らしく接してくれていた啓子さんを。 俺は……。 だから……。 「志貴くん……」 ソレハ…… 「ね、だから……」 柔ラカイ…… 「でも、私は……」 狂イソウナ…… 「そう、それでいいの……」 甘イ痛ミ……。 「なんで?」 刺サレ切ラレ……。 「 思っていたのに」 メチャクチャニ、取リ返シノツカヌ程ニ。 耐エヨウノナイ慟哭ヲ癒スソノ暖カサ 溺レルソノ…… 繰リ返ス、繰リ返ス 痛ミト癒シト虚無。 イケナイ。 ソノ扉ヲ開イテハイケナイ……。 暗転。 いつの間にか、心象風景が具現化したような処にいた。 長い長い廊下。 窓はなく、同じ形をした扉が続いている。 俺はそのうちの一つを開けかけていた。 中は見えない。 でも俺はそれを確かに「視ていた」 ある日、俺は絶望的な気持ちで、 のいつの間にか俺より小さくなってい た しか出来なくて、でもその時には、 救い それだけで、終わった。 だけどそれはただの に過ぎず、その罪の意識こそが で あって、 を受け入れ、弱さ に った。 それでも、有間の家を出る事に、一つのきっかけになったのは事実で……。 知らない。 そんな事知らない。 その遠野志貴は、その記憶は俺のものではない。 俺はそんな事をしていない。 悲鳴すら上げていたかもしれない。 扉に爪を食い込ませるような勢いで、閉めた。 ぶるぶる震えていた。 涙が頬を零れ落ちていた。 怖かったのか。 痛かったのか。 哀しかったのか。 わからない。 わからない。 わからない。 ただ、それにもっと侵されたら、きっと壊れた。 それだけはしっかりとわかっていた。 荒く、荒く息を吐いた。 息が整うまで、長い間、そうしていた。 別な扉を開けた。 出口を求めて。 「お姉ちゃん?」 柔らかい感触。 泣いている。 小さな手。 知らぬ名前が浮かんでくる。 山瀬明美。 山瀬舞子。 誰だ、それは。 わからない。 ただ、泣きじゃくるその子をあやすように抱いていた。 悲しい。 透き通るような悲しみが私にある。 もう、こうしてあげられない事が悲しい。 妹が私を想って泣くのが悲しい。 どうして。 どうして、私は死ななければならなかったの。 何もしていないのに。 妹? 違う、俺の妹は秋葉だ。 でも、知っている。 この女の子の感触を。 だって、ずっと一緒だったのだから。 知らない。 名前も知らない。 その子の名前が明美だなんて知らない。 その子は腕の中でふっと消えた。 妹が、明美が消えてしまった。 ぞっとするような喪失感と相反する安堵。 気がついたら泣いていた。 何故だかわからないのに、涙がぽろぽろと頬を伝った。 消える。 消えていく。 今の妙な感覚が消える。 自分が自分を取り戻していく。 俺は、遠野志貴だ。 そうだ、遠野志貴だ。 そうね、あなたは遠野志貴。 真祖の姫様を護って、獣を倒し蛇を討った騎士。 でもね、姫様を弱くしたのは貴方。 貴方が余計な事をしなければ、ホテルの人たちも、たまたま公園を通りかかった 少女も……。 毒を含んだ声が暗闇の奥から聞こえた。 無数の刃で貫かれたような痛みにのた打ち回る。 絶叫しつつ、飛び出した。 今のは? 震えが止まらない。 力の入らぬ手でなんとか扉を閉じた。 わかった。 この扉には全ていけない物がつまっている。 知らぬものもあるだろう。 でも、全て遠野志貴だ。 俺の知らぬ遠野志貴だ。 ここにいるのは全て、俺だ。 戻りたい 戻らせてくれ。 そう願った。 こんな処にいたら気が狂う。 俺は壊れてしまう。 お願いだから、助けて。 お願いだから。 誰かが頷いた気がした……。 何者かの意思、慈悲で、戻された。 何処かへ。 別の選択の場へ。 ……つづく
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