「志貴さん、お願い事があるんですけど」

 にこにことして琥珀さんが現れたのは、穏かな休日の午後をどうしようかな
と思案して、いろいろ考えた挙句に離れでひなたぼっこという選択を取ってい
た時の事だった。
 高校生らしい実に有意義な過ごし方をしている俺を、琥珀さんは少々呆れ顔
で見ながら、どうでしょうと回答を待っていた。
 琥珀さんの頼み事への警戒心はあったけど、少々退屈だなあとも思っていた
ので、喜んでお相手する事にした。

「お願いって何ですか?」
「新しいお薬のですね、人体実験の被験者になって欲しいんです」
「急に用事を思い出しました、ごめんね、琥珀さん」

 素早く立ち上がり、話が本格的に始まらないうちに逃げ出そうとした俺を見
て、琥珀さんは全然慌てた様子を見せずにいた。
 あらあら、残念ですねという顔になっただけ。

「それでは」

 挨拶も手早くすませ、足を動かし始めて……。
 その時。
 ニコリと笑って一拍置いて、琥珀さんは口を開いた。

「返却期限」

 ぽつりという呟き。
 小さな、聞き逃しそうな声。
 なのに、ぞわりと背筋に冷気が。
 回れ右をしかけた足がぴたりと止まる。
 何か考えるより先に、体が反応していた。

「そうですよね、明日は耳を揃えて借金を返却する日ですものね。志貴さん、
それはもうご多忙ですよね」

 琥珀さんは、独り言のように言葉を口にした。
 背筋が凍る思いをしていながら、額に汗が一筋流れた。

「あの、琥珀さん、確かしばらく待ってくれるって」
「ええ、もう一週間も待ちましたよ。志貴さんには、お庭の手入れとか、いろ
いろ体で返していただきましたし、別に急ぐものでもないですけど、残りは現
金ですぐにお返しいただける訳ですね」
「ええと、その……」

 冷や汗。
 額だけでなく、体中から滴り落ちている気がする。
 
「何の薬かな、急に興味が湧いてきたよ」
「あら、そうなんですか。それでしたら、私は借金を半分減額した上で、あと
半月は忘れちゃうかもしれませんねえ」

 そう言いつつ、袂からがさごそと紙の包みを取り出す。
 広げると、カプセルが二つ。
 
「これなんですけどね。もともと麻酔薬なんですけど、いろいろ成分を弄くっ
て他の薬草のエキスを注入するとあら不思議、素敵にトリップできるんです。
 気持ち良くなれますよー」
「……」

 見るからに怪しげだ。
 楽しげな顔とか、たまらなく警戒心を起こさせる。
 でも……、である。
 逆にこうも真正面から話をされると、かえって安心できる気がする。
 黙って人に投与して、反応をじいーっと見守っているいつものやり方に比べ
たら、ずっと。心構えができるだけマシとも言える。
 あら、失敗とかぽつりと呟いて席を外してしまう時の怖さったらないし。

 どうしよう?
 そんなに酷い目にあった記憶はないのだけど、やっぱり君子危うきに近寄ら
ずなんて言葉もあるし。
 でも、背に腹は変えられないとか、虎穴に入らずんば何とやらとか言うし。
 とりあえずお金を返すあては無く、おまけに減額すると言われるとかなりぐ
らりと心が動く。

「人体への影響はないの?」
「大丈夫です。女性に対しての実験は済んでいるので、男性の場合は効果とし
てどうなるのか確認したいだけですから。もしかしたら、後でもう一回くらい
お願いするかもしれませんが、安全は保障します」
「なら、いいかな。半分とは言っても借金棒引は、正直魅力あるし、二つとも
飲めばいいの?」
「一錠でいいですよ。お水はこちらに」

 ふむ、それでは。
 カプセルを舌の上に載せて、僅かな不安と一緒に水で呑み下す。
 ……呑んだ。
 もはや、何かしようとしても手遅れ。
 とん、とお盆にコップを置くと、もう一つ音が重なった。
 おや?

「琥珀さんも呑んだの?」
「はい、これなら志貴さんも安心でしょ」
「それは、まあ……、でも琥珀さんは俺の観察してるんだと思ってた」
「まあ、いいじゃないですか。ちょっと試したい事がありまして。
 カプセルはすぐに溶けますから、さほど待たずに効果が出ますよ」

 5分ほど経ったかな。
 幾分頭が軽くなってきたような。
 気持ちいいのかな。
 効いて来たのか、気のせいなのか。
 じっと琥珀さんに見つめられていて、少し息が詰まる。
 さりげなくその目から逃れ、庭を見た。

 あれ、黒猫だ。
 ……いや、レンだ。
 なんだ、少しぼんやりしてきた。

 レンも何だか歩き方が酔っ払っているような。
 トンとこっちに跳んで、少しよろけて倒れそうになった。

「うふふふ」
 
 何が面白いのか琥珀さんが笑い出した。

「猫にも効くんですね。うふふ、ふふふ」

 堪えきれないという風に琥珀さんがレンを指差す。
 少し、頭の霞みが晴れる。

「琥珀さん、まさかレンにも……」
「欲しがってたみたいなので、先ほどミルクに混ぜてお裾分けを」

 嘘だ。
 絶対嘘だ。

 レンがよたよたと近寄ってくる。
 どうしらいいかわからないという顔。
 うう、マスターたる俺もどうしたらいいのか、わからないんだ。
 せめて頭でも撫ぜてやろうかと思って屈んだら、転んだ。
 すてんと。

「あら、志貴さん、大丈夫です……、きゃあっ」

 琥珀さんも脚をもつれさせる。
 
「うっ」
「ああ、ごめんなさい」

 琥珀さんが上に倒れ込んだ。
 いや、そんなに軽い体で痛くもないですし……、あれ声が出ない。
 体も動かないのか、これ。
 琥珀さんも動かない。
 柔らかい体が、重なっていて、この感触が……。

 レンも顔の前でごろんとお腹を見せている。
 もがいている様が、何と言うか鈍重で、遊んでいるようにも見える。

 目が合う。
 普段と違う色の瞳。

「……にぁぅ」

 それが最後だった。
 レンの鳴き声と、一瞬鈍く光ったレンの瞳。
 それが合図でもあるように。

 俺は瞼を落とし。
 暗闇に落ちていった――――――――


                         ……つづく

 

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