私はとっさに外へ飛び出した。
 部屋には私物がいくつか残っていたと思うけど、そんなものを気にしている
暇は無い。
 とりあえず身ひとつ無事ならそれでいい。

 危険だ。
 全身が悲鳴を上げている。
 あの女の人。
 誰なのだろう。
 
 裸になって橙子と何を。
 でも、あの微かに垣間見えた力。
 抑えても洩れる不可思議な破壊の炎。
 あんなものに掛かったら、私では何も出来ない。
 
 逃げる。
 とにかく逃げる。
 ここを早く離れたい。

 しかし、階段を降りかけた処で、私は動きを止めた。
 向うは呑気な顔をして、私に微笑みかける。

「どうしたの、式?」

 そんな事を言って私を見つめている。
 私の幹也が。




 両手に荷物を抱えて橙子さんの事務所に向かっていた。
 頼まれた道具の数々。
 久々に労働意欲が湧いたのに道具が無い。
 そんな言われ方をしたら、僕が買ってきますからと言うより他は無い。
 ほとんど丸一日かかる筈のお使いが、いろいろな幸運が重なって、半日足ら
ずに終わってしまった。
 
 お茶でも飲んでいこうかな。
 そんな事もちらりと思ったけど、一度休むともう立ち上がりたくなくなって
しまいそうな気がした。
 タクシーも、手持ちのお金だと足りなそうだし。
 式も今日はいないんだったっけ。
 
 橙子さん今日は一人になりたかったのかな。
 ふと、そんな事を思った。
 どうも、不必要な買い物が多数混じっているのが気になった。

 まあ、仕事してくれるなら何でもいいか。
 ようやく階段を登りかけると、かんかんという軽快な音と共に、式が現れた。
 ぎょっとした顔で僕を見ている。

「どうしたの、式?」

 返事をせずに式は僕の手を取った。

「来て、早く」
「どこか行くなら荷物を置いてから」
「緊急事態なの。早く、それは捨てて」
「あぁっ、式」

 手を掴んで強引に階段を降りる式。
 僕は仕方なく、手提げ袋を手放して式に従った。
 その緊迫感あふれる式の迫力に負けて。




 私は幹也の手を掴むと飛ぶように階段を駆け下りた。
 空気に漂うもの。
 時間がない。
 !

 衝撃波。
 幹也の体を抱きかかえて、壁を蹴る。
 痛み。
 しかし、構わず転がるようにして外へ出た。
 
「式、今の……」
「まだ、ダメ」

 走る。
 
「え、あれ」

 幹也の驚愕の声。
 ここなら、もう大丈夫か。
 振り向いた。
 橙子の住む廃ビル。
 低くなっていた。
 圧倒的な違和感。
 
 気づく。
 橙子たちがいた三階の部分がそっくり消失していた。
 見た目にはおかしいところはない。
 まるで最初から完成部分がそこまでだったように、二階の次に四階が続いて
いた。まるで最初からそうだったとでも言うように自然に。




 強引に腕をつかまれ、引っ張られる。
 凄い力。
 式に従って階段を駆け下りたけど、全然それでは足りないと言うように式は
跳ぶように階段を蹴る。
 崩れる僕の体を支え、引き、転ばぬように制御しながら。
 
 え?
 
 音ではなく、光でもなく、ただ、それが伝わってきた。
 直接に内臓を打つような、波、響き、圧力。
 式が僕の体を引き寄せた。
 真剣な眼差し。 
 式が焦っている?
 じっとしていた。
 せめて邪魔にならぬように。

 式と共に飛ばされた。
 落ちる、壁に叩きつけられる。
 そう予期した時、軌道が変わった。
 ダン。
 そんな音と共に体が横に飛び、体勢を崩しつつも着地した。

「……ぅッ」

 小さく式が呻き声をあげた。
 しかし次の瞬間には、また僕の手を掴んで走る、外へ。
 
「式、今の……」
「まだ、ダメ」

 その式の声の響きで黙ろうとしたが、建物の姿に思わず驚声が洩れた。
 
「え、あれ」
 
 ビルが、ビルの完成部分が小さくなっている。
 橙子さんが使っている三階部分がそっくり無くなっている。
 壊れたとかじゃない。
 ただ、無くなっている。

 呆然として、ふらふらと戻ろうとした。

「馬鹿、どこに行くつもりなの」
「だって、あんな……。そうだ、橙子さんだっていた筈だよ、式」
「そうね、いたわね」

 式があっさりと肯定する。




 私にしても目を奪われる光景だった。
 何をしたら、こんな事ができるのだろう。
 まだ、ビル全体を壊してしまう方が簡単に思える。

 幹也が戻ろうとする。

 慌てて彼の肩を掴む。
 まだ、何が起こるかわからないのに。

「馬鹿、どこに行くつもりなの」
「だって、あんな……。そうだ、橙子さんだっていた筈だよ、式」
「そうね、いたわね」

 でも、あれは橙子の問題だ。
 とにかく、しばらくここには……。

 左足がかくんと力が抜けた。
 幹也の肩に手を置いていなければ、そのまま転んだかもしれない。
 立とうとしても、どうにも言うことを聞いてくれない。
 
「式、その足……」

 なるほど。
 曲がっている。
 どうも、靴の中の感触だと、血でも出ているかもしれない。
 そう言えば、とっさにそこの感覚を遮断した。
 軽くずきずきしているにすぎないが、本当はかなりの痛みを覚えているので
はないか。
 二人分の体重と、叩きつけられそうになった勢いとを、左足一本で受けたの
だ。過負荷というものだろう。
 それで、幹也が無事だったのなら、安い代償だ。

 幹也がしゃがんで足を見て、息を呑んでいる。

 そんなに、自分が痛いみたいな顔しなくていいのに。




 式は知っているのだろうか。
 いや、知っている筈だ、何が起こった、いや起こっているのかを。
 説明を求めようとした時、
 式の体が沈んだ。
 崩れるように、足がかくんと落ちる。
 
 式……。
 僕の肩に当てられていた手に力が入った。
 何とかそれで体を支えたようだ。

 どうしたのだろう。
 式の足元を見て僕は息を呑んだ。

 踝が異常な角度に曲がっていた。
 紫色に変色し、異様な瘤のようなものも見える。
 
「式、その足……」
 
 気づく。
 さっきのだ。
 さっき僕の体ごと壁にぶつかった時にやったんだ。

 しゃがんで式の左足を手に取る。
 やはりかなり酷い状態だ。
 こんなので、走ることはおろか、立っているのだって苦痛な筈だ。
 式一人なら、なんでもなく回避したのだろうに。
 僕を抱えていたから。

「とりあえず、医者か、それとも式の部屋に行こう」

 車が欲しいところだけど、こんな廃墟のような場所を流す物好きな人間はい
ないし、お金も無い。
 携帯は……、ないな。
 式は持ち歩いたりしないし。

「トウコはいいの?」
「……君の方が大事だ」

 ごめんね、橙子さん。
 でもどうせ、そっち関係の事だと僕は直接的な役に立たない。





「……君の方が大事だ」

 息が止まった。
 頭の働きも停止する。
 私を……。
 それだけ酷い状態という事なんだろうけど。
 なんてきっぱりとした顔で言うのだろう。
 普段の幹也からは考えられないほど、そしてまっすぐこちらの目を見て。

 頷いた。
 幹也はちらと廃ビルを見てから、私に背を向けてしゃがんだ。

「はい」
「ええと、何?」

 戸惑う。

「歩けないだろう、おんぶしてあげる」
「え。……嫌よ。そんなの」
「そうか。ならお姫様抱っこでもいいけど?」
「何、それ?」
「両腕で新郎が新婦を抱きかかえるようなの、見たこと無い」
「ある。い、嫌よ、そんなの。もっとダメ」
「じゃあ、おんぶだね」

 幹也の背中を見つめる。
 ……。
 こうしている訳にもいかないし、そろそろ足が痛みを訴え始めている。
 私は、幹也に体を預けた。

 


 後ろを向いていても、式の戸惑う様子がわかった。
 でも、声を掛けずに待った。
 そして、背中に、式の体を感じた。

 こんな時なのに、嬉しさがこみあげる。
 それを隠すようにして、手を後ろに回して、式の腿を手で探る。
 立ち上がって、支えやすいように手を動かし、式にも少し体の位置を変えて
貰った。

 歩き始める。

「重くない?」
「軽い」

 本当に軽い。
 外観もそうだけど、こうしていると女の子なんだなと改めて感じる。

 どうしようか。
 式の部屋だな。
 手当てする為の用具もあるし、そこから連絡すればいい。
 病院か、あるいは秋隆さん辺りに来てもらって。

 と、まただ。

 さっきから時折、式の体が不安定に揺れ、落ちそうになっている。
 原因はわかっている。
 式だ。
 式ができるだけ体を離そうとしている。

「式、僕は前を向いているから、君の事は、君の顔は見えないから」

 独り言のように言葉を口にした。
 聞いているだろうか。

 式が背中でもぞもぞと動いた。
 手がさっきよりも強く肩を掴んでいる。
 胸が背中に密着している。
 完全に体を僕に預けている。
 その感触は、どこか僕を……。

「そう言えば、式、ずっと女の子喋りだね」

 照れ隠しのように、よくわからないことを言ってしまった。
 背中で式が息を呑むのがわかる。
 余計な事言っちゃったな。
 ちょっと後悔していると式の返事が返ってきた。

「そうね、悪いかしら、黒桐くん」
「ちっとも」

 呟いて、僕は歩き続けた。
 それ以上は式は何も話さず、僕も何も言わなかった。

 何も言う必要は無かった。




 こうしていると意外と大きい背中。
 簡単に私の体なんて、持ち上げて支えられるんだ。
 不思議な感覚。

「重くない?」
「軽い」

 何を言っているんだろう、私は。
 こうして他人に身を委ねている事など、ほとんどないせいだろうか。
 どうも落ち着かない。

 幹也は平気なのかな。
 全然、気にしないで歩いている。
 そんな事を考えている。
 わからない。

 気がつくとぴたりと幹也の背中にくっつきそうになっていて、慌てて体を離す。
 そんな真似は出来ない。

「式、僕は前を向いているから、君の事は、君の顔は見えないから」

 え?
 突然、幹也がぽつりと言った。
 最初に私の名前を出さなければ、独り言かと聞き逃したかもしれない。
 それほどさりげない、呟き声。
 意味がわからなかった。
 数秒考えて、意識するなと言っているのだと気がつく。

 頬が熱い。
 幹也を意識している事を、気づかれている?
 恥ずかしい。
 ……。
 いいわ。
 どうせ、しばらく、このままなんだし。

 幹也に素直に身を委ねた。
 私はどんな顔をしているだろう。
 自分でもわからない。
 でも、幹也には見られたくない顔だ。
 それは間違いない。

「そう言えば、式、ずっと女の子喋りだね」

 !
 あまりに自然で自分でも意識していなかった。
 なんで、今日の幹也は……。
 
「そうね、悪いかしら、黒桐くん」
「ちっとも」

 あとは何も口にしなかった。
 ただ、幹也の背に揺られ、幹也を感じていた。
  

 



 揺られる。
 この二人の中に交互に呑まれる。
 式と幹也の中に、遠野志貴が入り込み、そして出る。
 それはいいのだけど、一部がラップして偏在している状態。
 これが、頭が割れそうなほど苦しかった。
 
 自分が二人いるありえない感覚。

 この先に少し興味はあった。
 けれど、ここから消えて何処かへ向かう予兆を感じた時は、ほっとした。

 うん、消える。
 意識が薄れる。
 次はどんな……、あ……。

 
                         ……つづく
 

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