火焔樹の花 小山 道夫 ベトナム事務所長日記
2003年1月31日(金) 午前11時、山西副代表と埼玉県川口市の協同組合「川口鋳物海研会」理事長の櫻澤さんを訪問。 川口市と共同し、鋳物会社25社で作っている海外研修生受け入れ団体である。 川口市の鋳物は吉永小百合の「キューポラのある町」でも有名である。最盛期800の会社があったそうだが、現在は80社に激減。 現在、ベトナムから30名、中国から70名の研修生を受け入れている。今回、フエ市からの研修生受け入れで懇談した。(写真@)
鋳物組合では、川口市から旧市営住宅を借り受け、約100人の研修生の宿泊施設としている。 施設には、ベトナムからシェフ1名、通訳1名を呼び寄せ30名のベトナム研修生の健康管理などを行っている。(写真ABC)
午後1時、「さいたま新都心」で毎日新聞の野口美穂記者と懇談。野口記者は3日前までフエの「子どもの家」を訪問していた。 「子どもの家」の経過、ベトナムの現状、ドイモイ政策の現状について意見交換。午後4時前に終了。(写真D)
午後4時25分から埼玉県さいたま市にある学校法人「淑徳与野高校」の講演会。 400人弱の高校生に「子どもの家」のこと、ボランティア、世界の貧困問題などを話す。(写真EFGHI)
生徒からもいくつかの質問がある。午後6時終了。午後七時半帰宅。 自宅に札幌から長男夫婦と娘が来ていた。2月2日の「ベトナム活動10周年記念パーティー」参加のため。午後11時まで話し合う。 明日は、朝5時10分に太平観光北垣会長に我が家まで車で迎えにきて頂き、杉並の倫理法人会モーニングセミナー講演会。午前6時半から7時半。
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2003年1月30日(木) 昨夜は広島・岡山に大雪が降り、新幹線が遅れ、京都駅で40分程待たされ結局自宅着は午後11時50分。 その後、資料整理等をし午前2時就寝。 今日は午前中に自宅を出て、神奈川県横浜市の隣りにある「保土ヶ谷」へ。 私立富士見が丘学園での講演会。自宅から保土ヶ谷駅まで一時間半ほど。 午後12時半、保土ヶ谷駅で日本事務局教育担当の森田さん、加藤さん、山田さんと合流。 森田さんの車で富士見が丘学園へ。富士見が丘学園は創立80周年の女子校。中学部、高校部がある。 今回高校部は大学受験のため自宅研修中とのことで、中学部に話しをすることとなった。 校長先生、副校長先生としばらく校長室で懇談。(写真@)
午後1時50分より中学生全学年対象の講演会を行う。130名。富士見が丘学園には体育館とは別に立派な講堂を持っている。 JRCの生徒の司会で講演会は始まる。副校長先生の「講師紹介」。その後45分間の講演を行う。(写真A)
日本事務局教育担当の森田さん、加藤さん、山田さんは二年以上前から横浜の中学校を対象に私の講演会を紹介している。 会社から休暇を取り、一校一校直接訪問し、校長先生や担当の先生に話し、 生徒にベトナムやアジア、ストリートチルドレン、ボランティア、貧困の問題などを考えさせ、 自分自身の今日の存在を知ってもらう取り組みを行っている。既に3校の中学で講演会を行っている。 今回は既に講演会を行った横浜の公立中学校の様子を聞いて、自校でも行いたいとのことで講演会が実施された。(写真BCDEFG)
講演終了後、校長室で若干の懇談をし、森田さんの車で再度保土ヶ谷駅へ。 午後5時過ぎから上野で上田前代表、大西前事務局長と懇談。 上田さんは栃木で二万坪の土地着きの古い民家の管理人をしながら、知り合い等を招待しての「田舎暮らし」をしている。 大西さんは、お嬢さんが一才になり、現在会会計部長の奥さんである船崎さんも会社に出勤し始めたということで保育園探しの大変さを乗り越え、 お嬢さんの子育て中。 午後9時まで色々と交流雑談する。
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2003年1月29日(水) 朝4時半起床。5時20分札幌の長男宅を出発。7時過ぎに新千歳空港着。途中、雪の原からの日の出を見る。 午前8時、新千歳発伊丹空港行きの飛行機に乗る。約2時間で伊丹空港へ。(写真@)
急いで伊丹空港前からバスに乗り新大阪へ。約40分。4分後に出るJRで山科へ。山科から湖西線で滋賀県の堅田駅へ。 昨夜の堅田中学校の湯口先生からの連絡では大雪が降りそうとのことだったが、多少の雪は降ったようだが幸い大雪にはならなかた。 堅田駅から見た山には雪が積もっていた。(写真A)
午後12時、堅田駅には昨年の夏に「子どもの家」を訪問された堅田中の湯口先生が迎えに来てくれていた。 そのまま先生の車で今日の講演会場である市の文化会館へ。駅で引きこもりの息子さんがいるお父さんと合流。 湯口先生の紹介。文化会館で昼食を摂りながらお父さんと息子さんの引きこもりの問題で話し合う。 午後1時15分から講演会。堅田中1年生200人。学校の体育館だと寒いので文化会館を使用したとのこと。 午後3時まで話す。途中2本のビデオ上映。講演会後生徒からいくつかの質問があった。(写真BCDEF)
講演会には京滋の会の中村代表も参加されていた。新聞社の取材あり。(写真G)
講演会終了後、琵琶湖を短時間視察し、大津駅まで行き、京都へ。午後5時から京都駅前の「酔心」で京滋YOUの会の懇親会。 中村代表、藤井事務局長など10人ほどの方々が参加。「子どもの家」のことなどを話す。(写真HIJ)
毎年京滋賀の会から支援頂いている「子どもの家」などの子どもたちの定期健康診断費用の寄贈を受ける。長年の支援に感謝。(写真K)
午後7時前に懇親会を終わり、急いで京都駅へ。午後7時9分の新幹線の切符を持っているので時間がない。 途中で酔心の懇親会に時計を忘れたことに気づくが取りに行く時間がない。中村代表にお願いし、新幹線ホームへ。 何とか7時6分にホームへ着く。ところが広島・岡山が大雪のため徐行運転中とのことで新幹線が30分程遅れているとのこと。 それならば京滋の会との懇親会をもっと長くすれば良かったと反省。 結局耳を切るような寒さのホームで30分以上待たされ、午後7時45分頃京都を出発。東京に着いたのが午後10時過ぎ過ぎだった。 東京から自宅まで約1時間、午後11時過ぎに自宅着。長い1日が終わる。 札幌→新千歳→大阪・伊丹→滋賀県堅田→京都→東京
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2003年1月28日(火) 小樽に一泊。今日は数ヶ月振りに0度を越えたそうで、雪が解け道が「洪水」状態。 小樽からに帰りに「サッポロビール園」へ。飲み放題1500円でラガー、ハーフ、黒、クラシックと各種ビールを「試飲?」する。 さすがにビール園だけあってビールに合うチーズ、ソーセージ、ピザー、スモークサーモンなど美味しいおつまみがたくさん取り揃えられていた。 夕方、間違ってメガネを踏んで壊してしまう。札幌駅付近のメガネ屋さんに行く。レンズの角が割れフレームが壊れてしまった。 メガネ屋さんは直ぐに修理してくれて「無料で良いです。次回、何か買ってください」とのこと。 金金金のこの世の中でこうした「良心的」な店もあるのだなと感動。 昨夕、明日講演会をする大津市の中学校の先生から「インフルエンザ」が流行っていて既に2年生は学年閉鎖。 もしかしたら全校閉鎖になるかも知れないとの話。西日本でインフルエンザが流行っているという情報は新聞で読んでいたが、 これほどとは思っていなかった。 札幌駅で朝6時40分発新千歳行きのエヤーポートの切符を買う。 万一、大津市の中学校での講演会が出来なくても、夕方「京滋の会懇親会」があるので朝新千歳空港始発に乗って大阪空港(伊丹)へ。 伊丹から大阪→大津→京都→東京と乗り継く旅となる。 今日の新聞によると国連安保理事会に国連イラク査察団の調査結果が報告されたとのこと。 「査察妨害はなく、大量破壊兵器を所有している証拠は見つからなかったが、イラクは査察に協力しなかった。引き続き査察が必要」とのこと。 アメリカはイラクが大量破壊兵器を持っているとの理由で2月末にはイラク攻撃を始める体制を整えている。 イギリスはアメリカに追随し、フランス、ドイツ、ロシア、中国はイラク攻撃に慎重乃至反対の立場をとっている。 イラクのフセイン大統領が独裁者でクエート侵略の「前科」があったとしてもアメリカが一方的に 「先制攻撃権」があるとしてイラク攻撃を強行することは絶対に許されない。 万一、アメリカのイラク攻撃が実施された場合、その被害は結局の所一般市民に集中し、子どもたちが最大の犠牲者になるのである。 これは、9・11テロの犯人がビンラディン氏とアルカイダだと断定し、アフガニスタンに一方的に攻撃を加え、 5000人もの一般市民を「誤爆」で殺し、3000人以上のアルカイダを殺している。 アメリカのイラク攻撃の結果は結局子どもたちなど弱い人々にその犠牲が集中することは明らかである。 イラクの大量破壊兵器を廃絶することは当然のことであるが、イラクの大量破壊兵器をいう前に、アメリカ自身が大量の原水爆を廃絶し、 ベトナム戦争での枯葉剤散布を謝罪し、大量の生物兵器など全ての大量破壊兵器を廃絶してから、他国のこと言うべきである。 自分は無制限の大量破壊兵器を持ち続けていながら、イラクの大量破壊兵器について言ってもその根拠と主張の正当性に欠けるといわざる得ない。 EUのフランスやドイツが明確にアメリカの一方的なイラク攻撃に反対し、世界の多くの世論も反対している中で、 あれだけ物事をはっきり言っていた我が小泉首相と日本政府は未だに何等明確な立場を表明していないのも情けない話である。 外国の報道では、日本はアメリカのイラク攻撃を支持していると報道されているとのこと。 日本がアメリカの属国、半植民地と言われても仕方がない小泉首相の対応である。 朝青龍が横綱審議委員会の推薦で横綱になるという。 モンゴルから高校に入り異文化の中で苦労し、小さな体でここまで努力したことを大いに称えたい。 しかし、横綱は相撲界の最高位である。今場所をみれば分かるが、 最高実力者の2横綱と3大関が休場し朝青龍以外に唯一の大関武双山も8勝7敗と無様な状態である。 今場所は野球で言えば「2軍」の試合を大金を取って観客に見せるようなものであり、一種の詐欺との言える。 最高実力者の横綱や大関がいない中で優勝しても本当の優勝と言えない。 こんな無様な今場所を主催した日本相撲協会の無能ぶりを露呈したようなものである。 これでは、せっかく実力がある朝青龍が力を発揮できず、可愛そうである。 実際に力のある朝青龍に横綱・大関との対戦をさせて優勝させてやりたかった。 日本相撲協会の無能ぶりは、横綱審議委員会の委員の発言にも現れている。 特に渡辺恒雄委員長(読売新聞グループ本社社長)は「好感を持てたのは初場所千秋楽、国家吹奏の時に一緒に歌っていた姿。」 と君が代を歌ったことが「国技」の発揚と言わんばかりの発言をしている。 しかし、既に相撲が国技ではなくなっている事実を見ていない情けない委員長でもある。 幕内も含め6人の優勝者のうち5人が外国人ということを見ても、相撲自体が国際化したことは明らかである。 朝青龍が日本の国家を歌わなければ横綱にしないともでもいいたげな渡辺委員長の認識不足を指摘したい。 また、内館牧子委員(脚本家)が『客のために相撲を取っているのではない、との朝青龍の発言は、品格がない』 と言っているのもスポーツとしての相撲を理解していない発言である。 どんなスポーツでも終局は自分自身の力の限界を目指し、自分自身との闘いである。 朝青龍がそうした趣旨での発言をしたとしたらスポーツマンとして当然の発言ではないだろうか? むしろスポーツマンとしてスポーツに対する真摯な態度と言えるのではないだろうか? とかく相撲が興業として行われ、八百長もあると言われている。 今後、相撲が没落しないためには、サッカーに流れている子どもたちや若者がスポーツとしての相撲を認識しなかればならない。 そうした意味では、渡辺委員長も内館委員も認識不足と言わざるを得ない。 私は毎場所ベトナムで相撲を楽しみにしている。横綱、大関が休場する相撲は面白くない。 面白い相撲は、スポーツに徹底してこそ面白くなるのではないだろうか?
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2003年1月27日(月) 一昨日、昨日と札幌地理サークル。長時間話しをしたので相当疲れる。 今日は、長男の嫁さんの実家へ挨拶。小樽へ行く。小樽も雪が積もっていた。(写真@A)
夕方小樽の実家の招待で地元の美味しい海産物・刺身・寿司店「大和屋」で刺身をご馳走になる。 私はヒカリモノが好きなので、軽く〆たしめ鯖が美味しかった。どの刺身も鮮度が高く舌に染み入るような絶妙な味だった。 東京で食べる刺身とは一味もふた味も違う美味しさ。生カキも美味しい。季節のものでもあり、味が乗っていた。 ビールも美味しく、地元の純米吟醸酒を飲みながらこれらの刺身をおつまみに一杯やるのは、最高の贅沢である。 長男家族、長男の嫁さんの実家の家族の皆さん(5人)と楽しい交歓の一時を過ごす。人間の縁というものは不思議なものである。 長男が大学で勉学中に大学で知り合い結婚した相手が小樽の人であった。 そんなことで小樽に親戚が出来、北海道で講演会などがあると「挨拶」と称して小樽のお刺身をご馳走になっているという次第である。 ベトナム(海外)に長く住んでいると、不思議に日本的ななものが恋しくなる。私の場合は、お寿司、お刺身である。 ベトナムで突然食べたくなる時がある。食べられないと思うと無精に食べたくなるものである。 この10年間、お寿司や刺身を食べたくなり、いらいらしたことが何回あったか、などとこの10年を思い出している。
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2003年1月26日(日) 石狩市の藤女子大学セミナーハウスは朝から降雪。寒い。 昨夜は午前12時半まで懇親会。その後、25日分の日記を書く。 このセミナーハウスーは20年前に建てられたそうだがけして古く感じない。 設備・施設もしっかり整っている素晴らしいセミナーハウスである。 午前7時半から朝食。ロールパン2個、ハム、チーズ、野菜。 午前8時半から10時半まで2時間「ストリートチルドレン支援活動とボランティア」について話す。(写真@)
1992年8月に初めてベトナムに行った時の体験。退職。 1993年フエ師範大学でのベトナム生活の開始、チーラン「子どもの家」の建設運営、ホーチミン青年団の不正、グエンチャイ「子どもの家」の建築。 「子どもの家」の子どもたちの様子、今後の課題などをビデオを交えて話す。 札幌地理サークルの先生方は大変真面目な方が多い。地道な地理学の研究を実践を通して研究されている学者のサークルという感じである。 子どもたちの問題、教育の問題、学校の問題がいわれている中で、 札幌市を中心にこうした地道な教育・研究活動を40年間にわたり続けてこられたサークルの先生方には頭が下がる思いである。(写真AB)
今回の地理サークル講演会は置戸高校教頭先生の菊正敏先生と奥さんの清美さんのご助力で実現しました。 改めて菊先生ご夫妻にお礼申し上げます。(写真C)
午前11時「札幌地理サークル」の皆さんと別れ札幌市内の長男宅へ。
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2003年1月25日(土) 午前中、札幌は吹雪。(写真@)
午後、「札幌地理サークル」事務局長の山内先生(藤女子中・高校)が長男宅まで車で迎えに来てくれる。 車で藤女子大学セミナーハウスまで送ってもらう。 午後3時半、札幌地理サークル第348回例会の講演会を始める。 このサークルは、札幌市とその近郊の高校や大学の地理関係者で自主的に組織された勉強会である。1963年創立という長い歴史を持っている。 3時半から5時半まで「ベトナム戦争と今日のベトナム社会」というテーマで話をする。参加者は20名。(写真ABCD)
その後夕食を終え、午後7時から「講師を囲む会」。午前12時まで。(写真E)
今回の例会には地理サークル以外に「子どもの家」の支える札幌の会で現在釧路にいる中山さん(写真F)、 札幌でコンサートをして「子どもの家」を支援しているVOの足立さん(写真G)、札幌の会の菊清美さん、 JICA視察団で昨年夏に「子どもの家」を訪問された我孫子さん(写真H)なども参加した。
講師を囲む会では、ベトナムの社会主義市場経済の現在と今後など様々な質問や意見が出された。
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2003年1月24日(金) 札幌泊。昨夜は長男宅で夕食をご馳走になる。 今朝の札幌は晴れ。時々太陽が顔を出す。昼食は長男一家と近くの回転寿司へ。これが美味しい。東京の寿司屋よりよっぽど美味しい。 ネタがいい。北海道は食べ物は豊かである。秋刀魚、サバ、あじなどの寿司を食べる。 今日は朝から鼻水がでる。風邪の引き始めだ。明日は、札幌地理歴史サークルの講演会。 私は風邪を引くと声が出なくなるので気をつけなければ・・・。 昨日、羽田から新千歳までの機中で朝日新聞を読む。気になった記事が二つ。 一つは数年前に私も載った「人欄」にトヨタ自動車労働組合委員長が登場。 趣旨はトヨタ自動車は経常利益が1兆5千億円あったが、2003年度、組合としては「賃金引き上げ要求」を出さなかったが、 そのことで苦労したという内容である。 何故、この委員長を人欄に登場させたのか、朝日新聞の良識を疑う。 この記事を読んで労働組合とは何のためにあるのか、労組の根本的な存在理由を考えさせられる。 労働組合は労働者の生活と権利を守るものである。もちろん法外で常識はずれな要求を出すのは問題だが、 毎年実質賃金が低下し、社会保障が大幅に削られ、将来の日本がどうなっていくのか不安である。 将来に備え少しのお金を銀行に預金しても金利はゼロ、その上、銀行が倒産したら預金はなくってしまう世の中である。 こうした中で会社が1兆5千億円もの計上利益をあげているのに労働組合が「賃金引上げ要求」すら出さないのは、労働組合の自殺行為である。 存在理由が全くないと言っても過言ではない。賃金引上げ要求を出し、会社と交渉し少しでも働く人々の生活が向上するために闘うのが労組である。 これでは、トヨタ自動車労働組合委員長は、会社の手先、会社の代理人と言われても仕方がない。 何もしないうちから降参の白旗を揚げている労組の委員長をどんな理由で朝日新聞が「人欄」に登場させたのだろうか? 会社側から送られた会社の代理人、会社の手先の代表、労働者から組合費を取り、 組合費で生活している組合委員長は「組合費を詐欺している」という意味で人欄に登場させたとしか思えない。 労働組合はとうとうここまで来たのかと失望。今こそ、労組が労働者を守っていくためにその存在が必要な時はないのに・・・・・。 年間、3万人以上の自殺者を出している我が日本。 自殺者の多くの人はリストラされた労働者や大銀行や大企業からいじめられている中小企業の社長たちである。 気になった記事の第2は朝日新聞7面の「地球24時」にある『ベトナム』。 以下短いので全文を紹介する。 『検挙できず戒告処分――――ハノイからの報道によれば、ベトナム共産党中央委員会は21日、ホーチミン市で警察、官僚などへの贈賄や賭博、 売春、殺人を含む数々の罪で昨年起訴された「ナム・カム」というボスに率いられる犯罪組織を取り締まれなかったとして、 政治局ナンバー10のチュオン・タン・サン元ホーチミン市党委員会書記を戒告処分とした。(バンコク)』 この報道だけだと犯罪組織(マフィア・日本の組織暴力団) にホーチミン市共産党の責任者が適切に対処できなかったので戒告処分したということになるが、 実際には、ホーチミン市共産党の責任者がこの種の犯罪組織を知らないわけがない。 現地ではこのホーチミン市共産党責任者がマフィア組織から賄賂や各種の利権をもらい、犯罪組織を知っていながら知らない振りをし、 客観的には犯罪組織を応援していたというのが一般市民のうわさである。 これも昨年「青年新聞」に連載され報道された記事であるが、 ホーチミン市税関所長が携帯電話のサムソン、ノキアから独占販売権を取ったホーチミン市 の大企業と結託し、 1992年頃から昨年までの10年間、脱税を繰り返したというものである。1992年のたった三ヶ月間で3億円の利益をあげたそうだ。 ということは三ヶ月で3億円の利益をあげたのだから、それを10年間続けたというのだからいかに莫大な儲け、 脱税を行ったかが分かるというものだ。税関所長は、警察や共産党など関連機関に賄賂を上げて脱税仲間に取り込み、 10年間誰もチェックできないシステムを作り上げ、仲間で巨額の富を手にいれたのである。 これは共産党幹部と行政権力者が結託して「ボロ儲け」をするシステムがベトナムに出来上がっていることを意味する。 ベトナム共産党の汚職・腐敗体質が社会の深層まで根を張っていることを意味している。深刻な状況である。 これはけしてホーチミン市だけの現象ではない。私たちがベトナムでボランティアをする場合、こうした腐敗堕落社会での犠牲者が対象であり、 そうした腐敗堕落した多くの人々がいる社会での活動であることを肝に銘じていなけらばならないのである。 サムソン、ノキア関連の携帯電話会社の汚職事件は、ベトナムの新聞で報道されている。現在、翻訳中である。 翻訳は終わった時点我が会のホームページに掲載する予定である。
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2003年1月23日(木) 昨晩は宮本氏一家と懇親。痛飲する。午前6時半起床。 今朝、妻は頭痛・倦怠・咳と風邪症状。仕事を休む。とても寒い。 朝食を作る。ごはん、大根の味噌汁、キャベツの玉子炒め、サバの水煮、納豆。 午前10時頃から雨が雪となる。ボタン雪。我が家の椿の葉にも、わずかな積雪。(写真@A)
今日から1月29日まで1週間の出張。千葉県市川市→札幌市→小樽市→石狩市→大阪→滋賀県大津市→京都→東京。 1時間ほどかけて出張の荷物や講演会資料等の整理と準備。 午前11時50分自宅を出る。千葉県市川市市川小学校での講演会へ。雪の中出発。 地下鉄都営線西台から水道橋、JR線に乗り換え総武線で市川へ。市川駅では市川小学校の川島先生が迎えに来ていた。 車で10分ほどで市川小学校へ。岡田宏子校長先生としばらく子どもたちや教育の問題を話す。 午後1時45分から午後3時過ぎまでの80分程の講演。市川小学校は17クラス。 (心障学級2、難聴学級1を含む)今日の講演会は4年生以上240人、教職員、そして希望する保護者の皆さんへ話をした。(写真BCD)
関東地方に雪が降ったということもあり、大きな体育館はとても寒い。 こんな寒いところで話を聞く子どもたちも大変だなと思いつつ、気力を込めて話そうと思う。 会事務局・教育担当の加藤さん、記録担当の山田さんは既に来ていて、体育館でビデオ等の調整をしていた。 校長先生の案内で体育館へ。はやり寒い。上着を着て話すのも失礼なので、スーツ1枚で話す。 初めに「ベトナムクイズ」。ベトナム人は何を主食としているでしょう? と子どもたちに聞く。 ここでその学校の雰囲気が分かる。学校が厳しく締め付けている所はシーンとして手が挙がらない。 また、学校の教育体制が整っていない学校は子どもたちがざわざわと話し出し、会場が話を聞く雰囲気ではなくなってしまう。 市川小学校では直ぐに十数人の子どもたちの手が挙がる。私が学年と名前を聞く。「バナナ」と答える。 日本と同じお米を箸で食べるんだよと私が説明。クイズ第2問。みなさんの中でベトナム語を話せる人はいますか? と質問。 会場はシーンとなる。みなさんは知らないうちにベトナム語が話せるんだよと私。 日本語の『注意』はベトナム語でも「チューイ」、日本語の『準備』はベトナム語で「チュアンビ」だよと話すと、 子どもたちから「ヘー」と声がもれる。日本語とベトナム語は似ているんだよ、 それはベトナム語も日本語も中国語の影響を受けているからだよと説明し、冒頭で出来るだけ「とっつきやすい」雰囲気を作る。 また、自分たちとベトナムとも共通点があるのだと、注意を喚起する。こんなことしているうちに子どもたちも私の話に少し慣れてくる。 続いて11年目にホーチミン市で出会ったストリートチルドレンの話。 ビデオで「ドキュメンタリー人間劇場」の一部、ストリートチルドレンを私が「子どもの家」へ連れてくる場面を上映。 ストリートチルドレンがどんな生活をしているのかを具体的に話す。その際、出来るだけ日本の子どもたちとの比較を入れて、 自分たちの日常生活とストリートチルドレンとはどう違うのかが分かるように話す。(写真EFG)
ストリートチルドレンが何故ベトナムにいるのか?と 自問し、フランスの植民地の歴史、 ベトナム戦争でのアメリカを盟主とする連合国の侵略の話などをする。 続いて現在の「子どもの家」の様子を話す。何故私がストリートチルドレン支援のために一人でベトナムに行ったのかを話し、 続けて、21世紀の課題は何か? 貧困をなくし、世界から戦争をなくすことが最大の課題だとの話をした。 そして、私の今願っている自分自身の人生は、少しでも人の役にたつ生き方をしたい、出世やお金儲けも良いが、それだけでは人生は空しい。 何故、自分は生まれてきたのかを是非考えて欲しい。今、私は、困難な道と楽な道があったら、ためらわず「困難な道」を選ぶ。 大きな困難を乗り越えてこそ、本当の大きな喜びと幸福に出会う。市川小のみなさん、 是非「高い志を持って欲しい」「現状に満足せず、常に自分と社会と闘って欲しい」と付け加え話を終わる。 私の講演後、質問タイム。この質問タイムも全く質問が出ない学校もある。市川小ではたくさんの子どもたちが手を上げ質問する。 市川小での講演会は寒さも忘れ、大変心地よい体験であった。それは子どもたちが真正面から話を聞いてくれたこと、 そして、自分の頭で考え質問をたくさんしてくれたことである。 学級崩壊という言葉が新聞などを踊るが、市川小学校での体験は、まだまだ教育には未来があり、先生方は頑張っているなと実感した。(写真HIJ)
講演会後、急いで羽田へ。午後5時50分羽田発の「AIR DO」で新千歳へ。 市川から東京→浜松町→羽田と乗り継ぎ、何とか飛行機に乗る。途中、モノレールの車中で50年配の男性が携帯電話を使い大声ではなす。 何人か離れた所でやはり50年配の男性が大声で携帯電話、直ぐ近くの若い女性も携帯電話。 50年配の男性二人は、一見すると会社の管理職のように見える。 こんないいおさんが、人目も憚らず車中で携帯電話を使い大声で話をするのだから、若者はなっていない、などと偉そうなことはいえない。 日本社会の道徳の崩壊現象は、政治家から財界、そして役人と広がり蔓延しているが、実際にこうした社会の「指導層」の道徳退廃を支えてるのは、 この種の大人たちであるように思える。この種の携帯男たちは、 普段「今時の若者は礼儀を知らない」とか「モラルがなっていない」などと嘆いているのだか、 その道徳崩壊社会を下支えしているのが自分自身であるという自覚がない。悲しい社会である。 「AIR DO」のカウンターが見つからない。広い羽田空港を歩き回りやっと見つける。土産物店の隣に3人程の職員がいて出札手続きをしてる。 搭乗口も一番はずれの「1番」。 どう考えても新参の「AIR DO」を他の会社が「いじめて」いるのは明らかである。 以前も「AIR DO」に乗ったが、羽田空港の外れまでバスに乗せられやっとたどり着いて飛行機に乗った記憶がある。 ここにも会社を上げて、新参者の「AIR DO」をいじめた航空会社の道徳崩壊社会がある。 そんなことを考えながらも何とか飛行機に乗れる。午後7時過ぎに新千歳空港へ到着。エヤーポートで札幌へ。 札幌では長男と待ち合わせ、長男宅へ泊まる。東京の雪が寒かったと思ったら、やはり雪の本場札幌の冷え込みはそんなものではなかった。
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2003年1月22日(水) 寒い。 午前10時、次男耕太(会副事務局長)と一緒に自宅を出て、千葉県立八街高校へ。2時間半。午後1時から午後3時まで授業。 今日は3年生最後の授業ということで、和室の畳の部屋でお菓子をつまみながら1年間の反省と卒業後の人生を語り合った。(写真@ABCDEF)
※全員の写真を載せる予定でしたが、パソコン取り込みに失敗し載せられませんでした。お詫びします。 浜田君、関君、千葉君、遠藤君、高橋君、小池君、塩谷君、大木君、角河さん、南部さん。
@2002年度何をしたのかをみんなで話し合う。 (第1学期) ・ 4月小山の最初の授業(アオザイを着ていた) ・ インターネットでベトナム「子どもの家」とのメール交信 ・ ベトナム戦争の映画「プラトーン」を観る ・ 「子どもの家」関連のビデオを観る ・ 福田もえ子JASSベトナム事務所長代理の話を聞く ・ 石崎美奈子JASS副代表の話を聞く ・ 小山耕太JASS副事務局長の「ベトナム語入門講座」 (第2学期) ・ 若林JASS副代表のベトナム麺「フォー」作り実習 ・ 原田大二郎氏の「詩の朗読」授業 ・ 大極安子さんの「タッチセラフィー」実習 ・ 沖縄島歌歌手「知念良吉」さんコンサート ・ 小山ボランティアの話 (第3学期) ・ 原田大二郎氏「童話の朗読」授業 ・ 大極安子さん「指圧」「タッチセラフイー」実習 A生徒たちに一番印象に残ったこと、そして、全員の進路を話し合った。 ・ ベトナムの「子どもの家」とメール交信をしたこと(空港警備員就職) ・ プラトーンを観たこと(浅草の酒問屋へ就職) ・ プラトーンを観たこと(県内スーパーへ就職) ・ 原田大二郎氏の詩の朗読。感激した(理容学校進学) ・ 原田大二郎氏の朗読(建築学校へ進学) ・ ベトナム米麺「PHO(フォー)」作り(リフォーム会社就職) ・ タッチセラフィー(調理学校就職) ・ タッチセラフィー(理容学校進学) ・ 原田大二郎氏の詩の朗読(未定) ・ 原田大二郎氏の詩の朗読(未定) B来年度(2003年度)も「国際ボランティア養成講座」を開講するが、後輩に残したいこと ・ 来年は是非ベトナム「子どもの家」訪問ツアーをやって欲しい。 ・ 態度の悪い生徒にはもっと厳しく対処して欲しい。 ・ 今年度楽しい1年間だった。来年度も楽しく授業が出来るようにして欲しい。 C最後に私の方から最後の授業として卒業生に「はなむけの言葉」を送った。 T これから社会へ出たり進学したりするが、自分の人生をどう過ごすかを考えて欲しい。 U 自分だけの幸せでなく、近くの人、世界の人の幸せも頭の中にいれて生きて行って欲しい。 今回縁があって千葉県立八街高校の講師を1年間つとめた。 と言っても私はベトナムに住んでいるので、日本に3回帰って来た時に集中授業を行い、その他は、小山耕太会副事務局長が全ての授業に参加した。 私のいない時には多くの「ゲスト講師」に参加して頂いた。 私のねらったものは、知識の吸収ではなく、色々な大人が参加し、大人が「自分の人生」を語ることだった。 学校は教師という一種「特殊な」人々の集合体となっている。私も23年間教師をしていてこの点を痛感している。 そうした学校に色々な社会人が入り、人生を語り、仕事を語り、世の中を語ることが今学校に強く求めれれているように思えた。 生徒たちが「自分が何をしたいのか分からない」という声を聞く。そうした時、学校へ教師にだけに責任を負わせるのは酷である。 学校がだめだ、と言うのは簡単であるが、今私たちに問われているのは、私たち自身が何をするのかである。 私は学校を批判する前に「私自身が出来ること」をしていきたいと思い、千葉県立八街高校講師を引き受けた。 実際、我が家から千葉県立八街高校まで行くのに片道2時間半かかる。往復5時間、授業が2時間。 千葉県立八街高校の授業に7時間も時間がとられる。 交通費だけで3000円近くかかる。毎回、2人から3人、4人と参加するので、実際には、赤字である。 私たちは日本全体の子どもたちのことへの影響力を持っていないが、自分たちの足元・身近なところでできることはたくさんあるように思う。 2003年4月からも再度千葉県立八街高校講師を依頼されたので、受け入れることとした。 私自身の生活としては正直、肉体的・精神的には厳しいが、何か行動をする中で社会に貢献する生き方をしたいと思っている。 千葉県立八街高校の授業が終わり、急いで次男・耕太と一緒に新橋へ。 新橋で妻と合流し、新橋にある「株式会社日本ビジネスクラブ」へ。 代表取締役の宮本孝氏は、長年私の私的な生活も含めてベトナムでのストリートチルドレン支援活動を日本で支援してくれている。 宮本孝氏は中小企業診断士として、中小企業の社長を大銀行の横暴から守る社会的な活動をしている。 多くの新聞やマスコミに登場している方である。 今夜は宮本氏のご家族と我が家族と食事をしながら交流するという計画である。 新橋の品のある料亭に招待され、純和風の日本料理をご馳走になった。 宮本氏一家からは奥さん、娘さん(現在、宮本氏の秘書兼健康のお目付け役)。 宮本氏は、3年ほど前、2人の友人と共に私にスーツを寄贈してくれた方でもある。当時私は35歳の時に作ったスーツを着て講演会を行っていた。 約20年ほど前のスーツである。私はベトナムへ渡りベトナムではスーツを着る機会もあまりないので着ていなかった。 また正直お金もないので20年前のスーツを着て全国講演会を行っていた訳である。 その後、奥さんと娘さん、続いて宮本氏と息子さんが「子どもの家」を訪問し、直接子どもたちを激励してくれたのである。 宮本氏の長年の公私にわたるご支援に心から感謝している。
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2003年1月21日(火) 午前中、メールへの対応。講演会の準備。 午後2時「日本財団」へ山西副代表と。歌川専務理事・担当者の方と懇談。 今後の日本財団としての「子どもの家」への支援について1時間ほど話し合う。 その後、国際部の野満氏と日本財団ビル1階の喫茶室で1時間半程ベトナムのことなどを話し合う。 野満氏は1990年代初頭NTTベトナム社長としてベトナムの通信インフラ作りのために5年間ハノイに滞在したとのこと。 現在私たちがベトナムで苦しんでいる政治的な問題など、ほとんど同じような体験をされていた。 午後7時高田の馬場にあるピースボート事務所へ。昨年12月にフエへ来たピースボートUPA(国際支援物資委員会)のベトナム視察報告会に参加。 (写真@ABC)
フエの「子どもの家」、ダナンの「子どもの家」などの視察結果を一人一人の参加者が分担して報告。高校生や若者が要領よくまとめて報告。 さすがに若い世代ということもあってビデオやデジタルカメラを使っての報告となった。 現在高校に通っていない若者や高校の合間をぬって参加している若者もいた。 こうした会に参加していつも感じることだか、「今時の若者は・・・・」などと嘆いている「大人の皆さん」に是非言いたい。 ピースボートに一度参加して頂きたい。高校生や大学生など10代、20代前半の若者が実に真面目に熱心に活動している。 報告会後、30分ほどベトナムの話をする。参加者30名ほど。午後9時終了。 その後、高田の馬場駅近くの居酒屋へ流れる。10数人の若者(中に私と同年代の方が2名)と11時過ぎまで「人生」を語り合う。 (写真DEF)
私の隣に座った17歳の若者と話したが実にしっかりした意見を持っていた。 自分は高校を卒業しても直ぐに大学には行かず、色々な人生体験をしてみたいとのこと。最もな話。 イラク問題、北朝鮮問題、小泉政権問題など、ピースボートに参加している高校生、大学生の関心は大きい。 こうした若者を組織できない日本の政党や政治勢力の無能ぶりを改めて感じた。 こうして若者と50代の「おじさん」たちが話し合う場所が日本にはなくなった。 何事もそうだが、知らずに頭だけで考えて「だめだ」と言っていることは大人の怠慢である。 実際に会って話し合うと私たちの高校・大学時代と基本的には同じ様な気持ちと意見をもっている。 ただ違うのは、そうした若者の力と行動力の受け皿がないことである。 今、こうした真っ当な多くの若者がボランティアに大量に流れてきている。受け入れるボランティアの質と内容が問われているように思えた。 かなり疲れた一日ではあったが、爽快で気分の良い一日でも会った。アルコール量も「爽快量」となり痛飲。帰宅は午前12時半。
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2003年1月20日(月) 昨夜から腹痛。お腹をこわす。 今日は1日休養。午前中コンビニへ。久しぶりにコンビニをつぶさに「見学」する。 半完成品が多かったちょっと前に比べると、ほとんど「完成品」を売っている。即席ラーメンも90%以上はカップ麺になっていた。 一昔前のように鍋で即席ラーメンを作るということがなくなったようだ。 出し昆布がなくなった。煮干もなくなった。自分で工夫して食事を作るという生活がなくなってきたのだろうか? 毎日の生活が忙しくなり食事を作る時間がなくなったからなのだろうか? ベトナムで生活しているとしっかり出汁(だし)をとり食事をしている生活がある。 「豊かさ」とは何か? 日本のコンビニを見ていると都会の人々の生活が垣間見える。ベトナム人から見ると日本人は豊かな国民と見える。 しかし、実際の生活の質は「豊かさ」とは程遠いように思えた。 1日、メールの返事書き。 テレビでは貴乃花の引退劇が繰り返し放送されている。貴乃花の引退がどうかよりも、 私には国技と自負してる相撲を取り仕切る「日本相撲協会」の金属疲労状態の深刻さを感じている。 「貴花人気」にあぐらをかいて、後継対策を立てず、 若者の相撲はなれなどという社会の底辺の流れをしっかり掴んで対応していくという「危機管理能力」がなかったということを感じる。 これで今場所「朝青龍」が横綱に昇進すると、武蔵丸と二人外国出身の力士が横綱となる。 横綱昇進を期待された多くの大関が休場か低迷している現実を見ると、貴乃花が最後の日本人横綱と思えてならない。 目先の興業と金儲けばかり考えている相撲協会の無能ぶりを露呈しているように思える。 これで相撲人気も「陰り」から「低迷」「没落」へと移行して行くように見える。 こうした現象は相撲だけではない。政治も経済も教育も日本社会の現状を如実に反映しているように思える。 責任者や幹部が将来展望を持たず、場当たり的な対応をし、誰も結果に責任をもたない社会である。 相撲の未来が日本社会の未来にならないよう私たち大人が出来ることをしていきたいと思っている。 夕方、夕食作り。煮干、昆布でだしを取り「白菜味噌汁」。ほうれん草のおひたし。納豆。大根おろしとしらす。 目玉焼きとキャベツの千きり添え。学校から帰って来た妻と久しぶりに二人で夕食。自分で作って言うのは何だが「美味しい」。 妻から学校や子どもたちの現状などの話を聞く。 年末年始に行ったニュージーランドで撮った家族の写真を見る。二人でテレビ「水戸黄門」を見る。 こうして家族でテレビを見ながら食事をするのは、一体何年ぶりだろうか? この10年、何でもない普通の家庭生活を全くしてこなかったな、と改めて感じる。 明日から二週間連続の仕事が入っている。講演会などがあり、風邪などを引かないよう気をつけなければならない。
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2003年1月19日(日) 昨夜は寒くて眠れなかった。 朝9時に次男と待ち合わせし北区教育会館へ。今日は午前10時からベトナムの会の役員会。午後1時から日本事務局会議。 役員会には平野代表、若林・柴田・山西・石崎副代表、寒河江事務局長、田中・渡辺・小山(耕太)副事務局長そして、 忙しい中岩辺オンブズマンが参加。(写真@AB)
私の方で「2002年度活動の総括」「2003年度活動方針」「会則改正案」を提案。 既に3案とも事前に役員と日本事務局関係者、全国各地の関係者には配布済みのものである。 事前に何人かの方から意見が届いている。 2003年度は私がベトナムへ渡って10年と言う節目の年にもあたり、一応十年間の区切りの年とし、 引き続き「第二ステージ」10年に向けて進もうとの提案を行った。 特に会則改正を行い、ベトナム事務所と日本事務所と二箇所を所在とし、両者の連絡調整機関として「日越連絡会」を置き、 6月11月に総会に次ぐ議決機関である「評議員会」を設置すると言う提案を行った。 役員会で特に論議になったのは、ベトナムに軸足を移すと言う事は理解できるが、中々イメージがわかない。 今後、日本側ではどんな仕事や活動をすればいいのか? 「日越連絡会」『評議員会』など分かりにくいと言う意見が出され、種々討論が行われた。 岩辺オンブズマンから「もっと会のシステムはすっきりとした方が良い。 総会→役員会→(日本事務所・ベトナム事務所)としたほが良いのではとの意見が出され、参加者の合意となった。 これからの10年は、ベトナム事務所はベトナムでの活動に責任を持ち、日本事務所は日本での活動に責任をもって活動を進める。 役員会は日越両事務所の連絡調整・当面の諸事項の決定を行うという原案となった。 多くの役員から色々と意見が出て、結局10時から12時半まで討論が続き、大筋の合意を得た。 簡単な昼食を挟んで、午後1時から日本事務局会議が行われた。参加者は20名弱。(写真CDEFG)
私の方から役員会と同様の提案【役員会で訂正された部分は訂正し】を行った。やはり、参加者から種々意見が出され活発な討論となった。 3時間ほど「会則改正」「方針案」などの論議を行い、訂正すべき部分は大筋参加者の合意となった。 その後、山西副代表から「2002年度会計報告」「2003年度会計方針」が提案された。 2002年度は2001年度よりも財政収入は多かったこと、日本事務局の支出は大幅に削減した事などが報告され1時間程討論された。 最後に寒河江事務局長から2月2日総会後、午後5時から行われる「小山ベトナム在住10周年記念パーティー」の実施要綱が提案された。 この10年間、会の活動に参加された多くの方々にお集まり頂き、10年間の素晴らしい到達点を確かめ合い、 更に今後の10年に向けて頑張ろうと言う会である。日記の読者の皆様の参加を心よりお願いします。始めての方でも遠慮なくご参加ください。 事前の申し込みは入りません.簡単な立食パーティーです。 日時 2003年2月2日(日) 午後1時 ベトナムの「子どもの家」を支える会総会 午後5時 「小山ベトナム活動十年記念パーティー」 会場 北区教育会館(JR王子駅徒歩10分) ※詳細は2002年度 「ベトナムの子どもの家を支える会」総会のご案内をクリックしてください。 午後6時に全て終了した。外に出ると雨だった。その後、参加者の大半の方々と懇親会を行い、 しばらくぶりの再開と2月2日の総会・10周年パーティーの成功を祈り乾杯した。 また、記録担当の山田さんが目の手術を会活動に復帰したことを祝った。乾杯が多すぎ、かなり飲みすぎ。帰宅は午後10時。
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2003年1月18日(土) 40分遅れで成田着。追い風で4時間半の空の旅。結局、機中では寝られないまま日本着。朝7時半頃。 入管・通関は至って簡単。直ぐにスカイライナーで日暮里。JR山手線で巣鴨。都営三田線で西台。午前10時半自宅着。 寒い・寒い・寒い。どうしようもなく寒い。困ったものである。これで2月8日まで日本滞在がもつのか不安になった。 10年間ですっかり体がベトナムモードとなってしまった。 今日は土曜日で学校は休み。妻も休みで、しばらく妻から不在中の親戚や学校関係の諸情報を聞く。昼頃、入浴。 浴槽に入ったのはしばらくぶり。軽い昼食(うどん)を摂って仮眠。とにかく昨夜は12時40分に飛行機が飛び立ち、 朝5時(ベトナム時間)まで寝ないでいたということになる。 午後5時まで仮眠。デスクトップのパソコンでE―メールを開こうとするが故障。午後七時半、次男と妻と夕食。朝鮮料理。 センマイ刺とトン足、ナムル、オイキムチなど。肉は体が欲していないようだ。 帰宅後、携帯パソコンでメールを開く。40通ほどのメールが入っていた。 ベトナムから送信した「2002年度会活動総括」「2003年度会活動の方針案」「会則改正案」について、 日本事務局の方々からそれぞれ暖かいご意見を頂く。同感する意見も多い。意見を出して頂いた日本事務局の皆さんに心から感謝したい。 我が会は日本とベトナムで活動している。私は年間8ヶ月から9ヶ月は日本にいない。 総会議案【総括・方針・会則改正】も日・越両国をまたがって事前に意見のすりあわせをしておかなければならない。 明日1月19日は日本事務局会議があるが、この会議で突然話し合いをしても中々うまくいかない。そうした訳で昨年、私が起案し、 寒河江事務局長との連盟で「総括案・方針案」を日本事務局の皆さんへ事前に「原案の原案」「叩き台」としてお送りしたわけである。 今日、東京自宅のメールにそれらに対する日本事務局のみなさんの率直な意見が送られて来ていた。 私も昨年の12月に2002年度会活動の総括、2003年度会活動の方針案を文書にまとめた。 原案を作ったわけだが、これが結構時間とエネルギーを要する作業である。ゼロから何かを生み出す事は集中するエネルギーと忍耐力を要する。 その上、時間がない。そうした上でできあがった原案に対して、暖かい気持ちでの助言、指摘には感謝したい。 明日の日本事務局会議での論議が一層深まると思う。
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2003年1月17日(金) 阪神大地震8周年。亡くなられた6000人以上の方々のご冥福を改めてお祈りする。 8年前のこの日、私は丁度一時帰国していてテレビで地震を知る。 午前中テレビに見入った思い出がある。午前10時時点で、素人の私でも「これは大変な事態だ」と感じる。 テレビのヘリコプターが実況中継しているので誰でも大変なことが起こっていると実感した。 後で分かったことだが、その夜、当時の村山首相は、料亭で宴会をしたいたそうである。 村山首相がもっと早く重要性を理解し、緊急対策を立てれば、建物の下に埋もれていた人々の一部は明らかに助かったものと推測される。 阪神大地震を経験し、政治の重要性とは明らかに「人命」を守ることだということ実感した。 日本の政治の堕落はこのころから一層加速され、無力なものになったように思われる。 昨夜はフエ市共産党委員長、副市長、外務部長と懇談。痛飲。 帰宅後、メールへの返事、フエ市共産党委員長への手紙を書く。その後、日記等を書き就寝は午前12時半。 今朝5時起床。帰国の準備が何も出来ていず急いで諸準備。午前6時50分、朝食。最後のブンボーを食べる。 日本に帰っても直ぐに食べたくなるフエ名物の米うどん。 7時15分トンチンカンホテル出発。フエ空港へ。既に多くのフランス人などがカンウンター前でチャックインを待っている。 8時40分フエ空港発。10時前ホーチミン市「タンソンニャット空港」着。 フエは17度。ホーチミン市は32度。暑い、真夏である。同じ国でありながらフエとホーチミン市は、北海道と沖縄位違う。 長袖、セーター、ジャンパーから半袖ポロシャツに着替える。(写真@)
今夜は11時55分発の飛行機で成田へ帰る。午前10時から午後9時までホーチミン市に滞在しなければならず、いつもホテルに一時宿泊する。 数日前にいつものホテルを予約。昨日になって満室との連絡。昨夜、ディーンラームよりホーチミン市のホテルはどこも満室との連絡がある。 ラームさんの推薦で「レックスホテル」を予約。しかし、高い部屋しかないとのこと。しかたなく高い部屋を予約。 午後10時頃、レックスホテルからやはり満室だとの連絡。色々調べた結果、「SOFITEL」ホテルが空いていることが判明。 既に夜10時過ぎだったので、一時宿泊で70ドルとのこと。仕方ないので予約する。 今日、「SOFITEL」ホテルへ入る。 直ぐにホーチミン市へ「騙されて」行ってしまったと思われるA子さんを探しにホーチミン市の中心部に行く。 A子さんに合える確率は、1万分の1もないかも知れない。しかし、じっとしてもいられず、もしかしたらA子さんが、 ホーチミン市観光をしているかも知れないと思い、3時間程ホーチミン市の中心部を歩いてみる。 10年目に比べ高層ビルが林立。(写真A)
「中央郵便局」(写真B)、ホーチミン市最大の教会(写真C)1992年8月、 私は初めてホーチミン市を訪問した時に泊まった「キャラベル」ホテルも大改修され、立派なホテルに様変わりしていた。(写真D)
カトリ−ヌドヌーブ主演の「インドシナ」にも出てきた「コンチネンタルホテル」など、観光の中心地を回る。 日本人観光客ばかりが目に付く。(写真E)
結局、A子さんとは出会うことが出来ないままホテルへ戻る。 18日朝7時頃、成田着。今夜は午後9時頃ホーチミン市タンソンニャット空港へ。
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2003年1月16日(木) フエに戻って8日目。初めて少し太陽の顔を見る。 午前中、地元トゥアティエンフエ省共産党機関紙「トゥアティエンフエ新聞」のインタビューを受ける。 内容は、フエで10年間ストリートチルドレンや障害児支援活動をしての体験や感想。2月1日のテト正月の特集号に載せるとのこと。(写真@)
午前11時、高校時代の同級生宮本真樹子さんが帰国。(写真A)
宿舎のトンチンカンホテルからベトナム事務所まで徒歩15分程度であるが、その間にインターネットカフェが5軒もあった。 1時間20円という安さもあり、朝から若者が一杯であった。(写真BCD)
ホーチミン市に行ってしまったA子さんの行方は未だに不明。 ホーチミン市の警察や「子どもの家」、児童保護委員会などが、フエから来るバス停などに待機して捜索している。 何とか危険を察知してどこかに出てきてくれればいいのだが…・。 午後、床屋さんへ。2ヶ月間行っていなかった。明日、日本へ帰国するので理髪した。100円。 夕方、フエ市共産党委員長、フエ市人民委員会副主席、外務部長と我がベトナム事務所員の懇談会が行われた。(写真EF)
ベトナム事務所側は、小山、ミン、もえ子、優子、ラーム。 ベトナム側はフエ市共産党委員長、フエ市人民委員会副市長、外務部長、外務部員、フエ市立観光会社社長。 今後も「子どもの家」、『静岡―フエ青年交流会館』、オートバイ研修センターなど我が会が運営している諸施設を一層発展させることを確認した。 明日(1月17日)朝7時に宿舎を出て日本へ帰国する。 今回の帰国目的の主なものは、2月2日の総会、その後の「ベトナム在住10周年記念パーティー」である。 以下、現時点で決まっている私の帰国日程である。 小山さん2003年2月帰国日程2003年1月14日現在
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