火焔樹の花 小山 道夫 代表 ベトナム日記
2003年11月30日(日) とうとう来るべきものが来てしまった。イラクで日本大使館員2人が殺された。 亡くなられたお二人のご冥福をお祈りする。 詳細不明だが、イラクにいる反米勢力の一部によって銃撃をされた可能性が強い。 「イラク戦争」とは一体なんだったのか? 自民党元加藤派会長の加藤紘一衆議院議員は「自衛隊のイラク派兵には反対である。派兵の大義名分がない。 フセインが大量破壊兵器をもっているとの米英軍のイラク侵攻の名分がいまやなくなった」 ((新聞、テレビ等での発言趣旨)と発言している。 大量破壊兵器を一番もっているのは、アメリカである。 イギリスもロシアも中国も。核兵器で言えば、インド、パキスタンも持っている。 「そもそも論」で言えば、自らが大量破壊兵器をもっていながら、 人が持ったら許さないとして一方的に攻撃する権利はない。 百歩譲って、イラクの大量破壊兵器がテロリストに渡っているのでその根元を止めるとの主張ですら、 大量破壊兵器がない以上その論拠を失う。アメリカがイラクを占領した後、数千人のアメリカの科学者をイラクへ派遣し、 大量破壊兵器の捜索を行ったとのこと。それでも今日まで見つかっていない。 「見つかっていないからといって、ないとは言えない」と豪語する小泉首相のヒトラーばりの非科学的・不可知論の 立場はもう通用しない。イギリスのブレア首相は48時間以内に化学兵器が使用されると発言していたが、 それが嘘だと分かり国民的な批判を受けて窮地に立たされている。 小泉首相は大使館員の死を「残念だ」と繰り返し「自衛隊のイラク派兵方針は変えない」と言っている。 アフガニスタンにいる「ペシャワール会」の中村哲医師は先日の朝日新聞へ「軍とセットの援助に反発」 と題する寄稿をした。(2003年11月22日朝刊)「アフガニスタンへのNGO支援や海外支援は、 米軍の攻撃と共にアフガニスタンへやって来た。アフガニスタンの人々にとっては、米軍とNGO、 海外支援は同一のものである」と断言している。用水路の建設作業中、非武装の中村さんたちペシャワール会に対して、 米軍はヘリ2機で機銃掃射を行った。中村医師は「テロリスト」からではなく「国際社会の正義」(米軍)から 銃撃されたと言い、「既に私たちは車両から日章旗とJAPANの文字を消し、 日本政府と無関係と明言して活動せざるを得ない」と言っている。 ビンラディンやイラクなどの反米勢力は、「日本への攻撃」を公言しているのである。 そうした状況下でアメリカ主導のイラク北部復興の会議に護衛も付けずに車で出かけた大使館員自身も状況の 把握が甘かったと言わざるを得ない。「復興会議」はペシャワール会の中村医師が言う通り 「英米軍の爆撃・侵攻で破壊されたイラクの国土を復旧するもの」であり、イラク人からすれば、 人道支援でも何でもなく、一方的に侵攻した米英軍が破壊したイラク国土を米英軍と共に「復興」しているとしか 見えないものであり、軍事侵攻と「復興」は一体のものと映ったとしても不思議ではない。 ベトナム戦争を回顧するまでもなく、レジスタンスは、「人民の海の中」で活動する。 レジスタンス(アメリカ流に言えばテロリスト)とイラク国民との区別は出来ない。 今行われている米軍の「テロリスト掃討作戦」は「テロリスト」と一般国民との区別が出来ない以上、 多くの一般国民を虐殺することで「テロリストを掃討した」(ベトナム戦争がそうであったように)とせざるを得ない。 こうしてイラクの一般市民をも反米「テロリスト」に仕立て上げて行くのである。 いまやイラクでの英米軍はベトナム戦争と同様にイラク国民を敵に回した戦争へと突入し始めている。 その証拠に感謝祭にイラクを訪問し米兵を慰問したブッシュ大統領が「極秘」に、 しかも2時間程度しか米軍施設に滞在できなかったことも見ても、今のイラクの状況は分かるというものである。 加藤紘一衆議院議員は、「自分は日米同盟を支持する。 しかし、日米同盟支持とブッシュ大統領支持とは違う」と断言している。 ブッシュ大統領はアメリカ政府内の「ネオコン」(新保守主義)の人々の支えでイラクへの「先制攻撃権」を 主張し侵攻を実行した。しかし、アメリカでは、ネオコンに対する批判が高まっている。 来年のアメリカ大統領選挙でブッシュが敗北したら小泉首相は誰にすがって生きて行くのだろうか? 野中広努元自民党幹事長が「イラク特別措置法には反対だ。小泉さんがそんなに自衛隊をイラクへ派遣したいのなら、 息子の孝太郎を出せばいい」と言っていた。小泉首相は第2、第3の大使館員を何人出せば気がすむのであろうか? 「テロをなくす」と言ってイラク侵攻という「国家的テロ」を行う愚行を一日も早く清算し、 米英軍はイラクから撤退し、国連主導でイラク人自身の統治へと早期に移行すべき時である。 アジア・太平洋戦争でアジアと日本国民の双方に多くの犠牲者を出した日本は、 今こそ、世界の平和の旗振り人となるべきである。 偏狭な新保守主義のブッシュ大統領の世界制覇という野望の道連れになるのは、ごめんである。 青島幸男元東京都知事流に言えば「小泉首相はブッシュ大統領の男芸者」である。 今日は1日かけてベトナム帰国の部屋整理と準備。 長年会社と社員が「子どもの家」を支援してくれている「ブライセン」の藤木社長の ご尊父が72歳でお亡くなりになった。綱島の東照寺で今夜お通夜。 私は明日フエに帰るので、午後6時からお通夜に伺った。 ブライセンのホームページ(http://www.brycen.co.jp/) ブライセンの藤木社長は、ベトナム事務所員のディーン・ラームさんの弟ホアン君を日本に招請し、 1年半日本語学校へ通わせ、現在はコンピュータの専門学校へ通わせている。 ベトナムからの渡航費、学費、生活費など全ての費用を出してくれている。 ホアン君がコンピュータを学びフエへ帰国したら、ITの仕事し、「子どもの家」への支援をするようにとのことである。 藤木社長の支援に感謝し、ご尊父のご逝去を心からお悔やみ申し上げたい。(写真@AB)
明日は朝5時に起床。午前6時過ぎに家を出て、ベトナムへ渡る。12月1日の日記からフエで書くことになる。
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2003年12月29日(土) 今日は「第19回子どもと文化・交流フェスタ」のシンポジュームに参加。 午前9時に自宅発。11時過ぎに西千葉駅。徒歩数分で会場の千葉大学へ。(写真@A)
午前1時半、シンポジューム参加者と司会の打ち合わせ。司会は千葉大学教育学部片岡洋子助教授。 パネラーは、私、佐藤洋作(フリースペース代表)、川副孝夫(さかえ保育園長)、石若順子(子どもルーム指導員)。 全体の時間が90分。各パネラーの第1回目の発言は15分。特別発言として千葉県立八街高校の渡辺君。 その後、30分間の討論。討論の趣旨は、「今時の子どもたちはダメダ」「子どもたちの荒れ」「子どもたちの荒廃」 などという言葉が氾濫しているが、本当にそうなのか? 子どもたちの本当の姿、未来を語る、 子どもたちの前向きの面を洗い出そう。 昼食を摂った後、午後2時45分より開会。会場には全国から300名ほどの参加者があった。(写真B)
初めに開会セレモニーとして、子どもたちの太鼓演奏「若松だいこファンタジー」、 「沖縄子どもエイサー」の演奏。(写真CD)
今日の「フェスタ」は千葉県、千葉市、千葉県教育委員会、NHK、朝日、読売、毎日、 千葉テレビ等の後援があり以下の団体が実行委員会を作り実施したものである。 生協千葉コープ、千葉大有志、ユニセフ千葉事務局、子ども劇場千葉県センター、全教千葉、 ぞうれっしゃ合唱団、子育て文化共同全国世話人、千葉大学生協、千葉県労働者福祉協議会、 千葉県民教連、千葉県子どもと人権条例を実現する会、千葉県学童保育連絡協議会、CAPぽけっと、 ニュースタート事務局、その他。 フェスタ実行委員長・宮本みち子千葉大教育学部教授の開会挨拶。(写真E)
続いて、堂本暁子千葉県知事の特別講演(40分)があった。堂本知事は昔、ジャーナリストだった頃、 子どもたちの飲み込む力が弱くなったこと、ベビーホテルの実態をルポした経験を話し、 子どもたちを守ることがいかに大切なことであるかを語った。(写真F)
午後4時から「夢のまちシンポジューム」が始まる、 テーマ「千葉の子どもたちの豊かな育ちのために・・わたしたちがやること、やれること」(写真GHI)
司会者は 片岡洋子千葉大学教育学部助教授。 川副さかえ保育園長は、子育て支援の報告。石若順子さんは、学童保育の実態を。 佐藤洋作さんは、不登校、引きこもりの経験。私は、「子どもの家」の体験を通して、 日本の子どもたちを「子どもの家」へ迎えての体験。千葉県立八街高校での授業や子どもたちの変化などを話す。 4人の話の後、司会の片岡先生の指名で千葉県立八街高校の渡辺君が、 私たちJASSが担当している「国際ボランティア養成講座」の授業を通して、 「子どもの家」での交流を行った夏のJASS子どもボランティアスタディーツアーでの経験を話す。 「子どもの家」を訪問し、自分は何が出来るのかを考え、千葉県立八街高校で私の講演会をし、 多くの生徒に「子どもの家」やストリートチルドレンの実態を伝えたいと思い、 千葉県立八街高校の校長先生に「小山さんの講演会を千葉県立八街高校でして欲しい」と直訴。 その講演会で渡辺君自身が自分がベトナムで感じたことなどを話したことなどを参加者に報告し、 大きな拍手を受ける。(写真J)
午後6時近くにシンポジュームは終了。シンポジュームには、日本事務所の教育担当であり、 渡辺君も参加した夏のJASSツアーの責任者でもある森田好美さん、加藤健司さんも参加。 また、記録担当として大学生山の田真一郎君がビデオ担当して担当した。(写真KL)
渡辺君と私たちは堂本知事と会い、千葉県立八街高校での取り組み、 ベトナムでの活動などを短時間ではあるが話し合う。(写真M)
午後6時過ぎに実行委員会の反省会を千葉大生協食堂で行い、私も参加。 懇親会では以下の方々と懇談・名刺交換を行った。(敬称略) 沼尾孝平さん(元埼玉県所沢高校PTA会長)、野々垣務(雑誌「教育」前編集長)小島喜孝(東京農工大教授)、 村井早苗(生協千葉コープ)、大久保厚(全国大学生活共同組合連合会役員)、濱田哲郎(愛知県黄柳野高校)、 谷口多恵(市民ネットワークちば)、市原悟子(アトム共同保育園園長)・・。 午後8時過ぎまで参加し、帰宅。
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2003年11月28日(金) 昨日は、午前中、新宿の「榊原記念クリニック」へ通院。妻の病気のこともあり3ヶ月半通院していなかった。 前日に診療の予約をし午前10時から診療。この病院は診察をする前に必ず、心電図を取る。 今日は心電図とレントゲンを取りいざ診療。心電図・レントゲンの結果、心臓肥大が進んでいるとのこと。 再度、負荷心電図(階段を5分程昇降し、運動時の心電図をとる)、心臓エコーを取り、再度診療。 薬を1種類増やすことにし、3種類の薬を毎日飲むこととなった。更に採血をし血液検査。 結果は1週間後に出るが、今回は4日後にベトナムへ帰るので、 次回日本へ帰国した時に採血検査の結果を教えてもらうこととした。今日の医療費は12580円。 うーん、高いか?安いか? ベトナム教員の2ヶ月分の給料に相当する金額である。 3割自己負担でこの値段だ。これから終生「心臓病」とは付き合わなければならない。 ストレスと疲労が一番悪いのだが・・・・・。 この数日、知り合いの急逝、病気の知らせを聞き、いつか我が身もという気持ちになってくる。 人生は、平家物語ではないが「諸行無常」である。「盛者必衰の理を表す」、「全て春の世の夢の如し」だ。 「フリー映像プロダクション」の宮内一徳社長が11月12日急逝。まだ60歳代。 宮内さんは1997年にテレビ東京「ドキュメンタリー人間劇場」を撮影したカメラマンである。 6年前、この番組を作るために2週間宮内さんと一緒に朝から夜遅くまで行動を共にした。 番組は、私が路上のストリートチルドレンをどのように見つけ、 「子どもの家」へ連れて行くのかを主題にしたものだった。 朝4時頃から夜9時、10時まで毎日撮影をした。撮影終了後、一緒に飲んだ。 私は取材される側であったが、取材する側の宮内さんとすっかり意気投合し、毎晩「フダビール」を飲み、 ベトナム料理を食べ、日本の政治、社会など論議をしたものである。この番組作りでは多くの思い出がある。 宮内さんは「職人」である。本当に良い番組を作りたいと言う強い意志を持っていた。 「子どもの家」の全景を撮ることになったが、全景を撮れる場所がない。 宮内さんは、「子どもの家」の隣にある廃屋の屋根に上がり、撮影を強行。 廃屋の屋根瓦は一足歩くと瓦が崩れ数メートル下に落ちるのである。 下にいた私たちは「宮内さん危ないから降りて下さい」と何度も叫んだが、 「ズブ、ズブ」と音を立てながら廃屋の屋根を歩き「子どもの家」の全景を撮影していた。 私はその時、「すごい人だな。マスコミ人の中にもこうして仕事に命をかけている職人がいるのだ」と感心し、 宮内さんを尊敬するようになった。 このテレビ番組の最後に、私が「子どもの家」の子どもたちと海で水遊びをする場面がある。 急遽子どもたちと海に行くことになり、フエのトゥアンアン海岸に行った。 宮内さんは海の場面を撮る事になったが、水着を持っていない。 すると宮内さんは、突然ズボンを脱ぎ始め、下着のままで海に入り、私と子どもたちの水遊びを撮影し始めた。 丁度、膝からもものあたりまで海水があったが、宮内さんの風体は「異様な」ものだった。 宮内さんは、どうしても海に入り、私や子どもたちに接近し良い映像を撮りたいとの強い気持ちを持っていたのである。 それ以来、私は宮内さんを「パンツ宮内」と呼んでいた。 2001年には再度、宮内さんがNHK教育テレビ「ETV2001」を撮影してくれた。 この番組は、1997年のドキュメンタリー人間劇場で撮影したその後の「子どもの家」や 私の活動を紹介したいと気持ちで出来上がったものである。 宮内さんは、1997年の第1回目の撮影以来、亡くなるまで私たちの活動を支援してくれていた。 2004年2月頃、偲ぶ会があるようなので、どうしても参加したいと思っている。 宮内さんのご冥福をお祈りしたい。 私がベトナムにわたって直ぐに知り合いになり、この10年間私の活動を支援してくれ私が尊敬している ハノイ在住のK氏が、先日、胃の全摘出手術をした。現在日本で療養されているとのことなので自宅に電話をした。 お元気な様子で安心をしたが、それでも胃がなくなり食事が大変だとのことだった。 こうして知り合いが病気になるのを見ると、いつかは自分もと思ってしまう。 しまし、今や私の健康は私だけのものでもない、「子どもの家」の子どもたちの将来にも関係するのだと 自分に言い聞かせ、健康に留意したいと思っている。 今朝早く、国際ソロプチミスト東京―東の元会長の一色典子さんの旦那様がお亡くなりになったとの電話が入る。 昨夜はお通夜。今日の午後12時から告別式とのこと。急いで身支度をして中野坂上の「宝仙寺」へ。 盛大な葬式だった。長男のお礼の言葉は聞く人の心を揺り動かした。 亡くなられた一色敏男氏は、浄土真宗の信徒だったそうで、ご臨終の間際に「自分が死んだ後はうろたえてはいけない。 皆さんに迷惑がかからないようにしなさい」「私はいよいよ親鸞聖人様のお身元に行く日が近づいた」と言われたそうだ。 人間、臨終の間際にこうした言葉を発することは出来ない。中々の人物と見受けた。 一色敏男氏は私の活動を評価し、財団法人「善行賞」へ表彰の手続きをしてくださった。 奥様の一色典子さんは国際ソロプチミスト東京―東の会長時代の1998年、 フエに「障害児医療センター」を寄贈し、数年後には増築もして頂いた。 それから5年間、医療センターの運営費も国際ソロプチミスト東京―東からの支援で継続された。 ベトナム中部の障害児支援のセンターとなっている「フエ市障害児医療センター」は今日でも専門の医師が常駐し、 「フエ市障害児父母の会」の本部としても活動を続けている。 一色ご夫妻は、長年、「子どもの家」や障害児への支援の中心となって活動された方である。ご冥福をお祈りする。 (写真@A)
「しんじゅく一色」の詳細は http://www.shinjuku.or.jp/isshiki/index.html
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2003年11月27日(木) 昨夜午後6時から千代田区主催の講演会。担当は千代田区国際平和・男女平等人権課。 千代田区役所の桑原和義人権課長、谷口美恵子事業推進主査、教育委員会教育課羽住まり子さんと挨拶。 講座は「千代田区地球市民講座―第5回国際協力の現場から」。参加者は一般市民50名ほど。 この講座には、千代田区が主催する海外ボランティア体験ツアーの参加予定者も来ていた。 4人の高校生、4人の大学生、4人の一般。(全員女性だそうである)ツアーは12月12日から18日まで。 12月15日には、「子どもの家」を訪問し、子どもたちと市場へ食材を買い出しに行き、 子どもたちと一緒に昼食を作り食べる。午後は、オートバイ修理研修センター見学、 「子どもの家」で再度子どもたちと交流するという計画。 昨夜の講演会は5回の連続市民講座の4回目でもある。11年前のベトナム旅行、 ストリートチルドレンとの出会い、「子どもの家」建設、自立、ボランティアのめざすもの、 ベトナムの現状(ドイモイ政策、貧富の格差・・・・)などを話す。午後6時から7時45分まで。 その後、参加者からの質問に答える。(写真@ABC)
講演会終了後、何人かの人と個人的に話をする。近い将来ストリートチルドレン支援の活動をしたいが、 どうしたら良いのかと中年の女性からの相談。ベトナムで起業支援ボランティアをしたいがどうしたらよいだろうか? 今年の9月に「子どもの家」を訪問した「JUNKO ASSOCIATION」の皆さん・・・。(写真D)
2月末と3月に「子どもの家」を訪問する全国大学生活共同組合連合会主催ツアーの担当者と打ち合わせ。 ツアーのチラシをもらう。全国の大学生協にチラシを置くとのこと。 続いて、千代田区主催のボランティア体験ツアーを担当しているJTBの担当者と打ち合わせをする。 話し合いは午後9時まで。昨夜の帰宅は午後10時過ぎ。 今朝、朝刊を読む。年末のNHK紅白歌合戦の出場者一覧表が出ていた。 この10年間ベトナムにいたことや日本へ帰って来ても講演会などで家でテレビを見る時間が あまりなかったことなどもあり、紅白62組のうち名前を知っているのは20組ほど。3分の2は全く知らない人。 私が紅白を見なくなったのは中学2年生頃から。家族が大晦日に紅白を見ている時、 私はラジオの波短波放送で「中国の人民の声放送」(正確な名前は忘れた)を聞いていた。 雑音のの中から「毛沢東がどうの、日本の反動勢力がどうの」などとかなり政治的な放送を聴いていた覚えがある。 それから40年ほど、一度も紅白歌合戦を見たことがない。ベトナムでNHKの衛星放送を見ている。 数年前の12月31日日、ベトナム事務所の舟山君、札幌から来ていた看護婦の高橋さん、 静岡の西谷さんと「年越しそばを食べて、紅白でも見よう」ということになり、 テレビの前でNHK衛星放送を見ていた。 いよいよ紅白の時間帯になった途端に「「古寺巡礼―日本の美」などという番組が放送され、 結局紅白を見ることができなかった。今年も紅白歌合戦を見ることは出来ない。12月31日はフエにいる。 紅白歌合戦を見る代わりに「紅白カラオケ合戦」でもしようか? ベトナム事務所の白組はやる気満々だが、紅組はどうなのだろうか? 日記上で赤組に「ベトナム事務所紅白カラオケ大会」の挑戦状を突きつけておく。 勇猛果敢でカラオケ通の揃っているベトナム事務所白組のカラオケ攻撃に怯え、赤組はすごすごと逃げ出すのか、 それとも果敢に挑戦を受けて立つのか? 12月31日の日記をお楽しみに。
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2003年11月26日(水) 昨夜、午後5時半から午後9時近くまで明治大学で講演会を行う。自宅西台駅から神保町まで30分。 大雨の中、神保町から徒歩でお茶の水に行くつもりだったが、道を間違え水道橋へ行ってしまう。 途中、強風と大雨で傘が壊れ、ずぶぬれ。時間が差し迫り、JRで御茶ノ水へ。 駅には昨夜の講演会主催者である明治大学商学部の野地さんと河合さんが待っていてくれた。 雨の中、お二人の案内で明治大学旧商学部11号館43番教室へ。 教室は100人ほど入れる講演会には手頃の部屋であった。 午後5時45分から主催者の野地みづ江さんの挨拶。(写真@A)
引き続き私の講演を行う。会場には50人弱の人々の参加。(写真BCDE)
参加者に中には今年の8月「地球の歩き方ボランティア体験ツアー」で 「子どもの家」に来た日本女子大学の学生さんもわざわざ来てくれた。(写真F)
また、野地さんたちと一緒にベトナムスタディーツアーを企画した 御園生先生(法政大学、東京学芸大学・・・)や明治大学商学部の福田邦夫教授をはじめ、 明治大学をはじめ各大学の学生や小学校の先生など多くの方々の参加があった。(写真G)
また、今日からベトナムへボランティア支援に行く「人間環境ネット21」代表理事の川崎さんも。 講演会の最後に原田大二郎さんと私の「秘書」の虎太郎君の紹介と大二郎さんに挨拶をして頂いた。(写真HI)
講演後、参加者からのいくつかの質問があった。私がベトナムへ行き10年間も活動した思想的な基礎は何なのか、 「子どもの家」で日本人がベトナムの子どもたちを支援しているが、 「子どもの家」の子どもたちのベトナム人としての「アイデンティティー(自己確認)」はどうなるのか・・・・・。 私が最後に勤務した東京都板橋区立舟渡小学校の卒業生「上峯君」が明治大学の学生で講演会に参加してくれた。 上峯君は明治大学でボランティア倶楽部の部長をしているとのこと。(写真J)
今回の講演会は、明治大学の野地さんが、 10月に行われた日比谷公園の国際ボランティアフェスティバルで私たちJASSのブースに来て、 私と話をし、講演会を要請された所から出発している。 野地さんが大学へ帰り、友人やゼミの福田教授などに呼びかけ、実行委員会を作り、講演会を成功させた。 中々勇気と行動力のある若者である。「大変だからやらない」と考える若者の多い中で、大変そうな仕事に挑戦し、 行動する野地さんのような若者が増えてきていることに未来を感じる。 ベトナム事務所を訪ねてくる年間1000人近い若者、 各地でボランティア活動や世界の貧困や平和の問題を考え行動している若者と多く出会い、 日本の未来はそう悲観したものでもないと実感した夜だった。講演会が終わり、外にでると雨はほぼ上がっていた。 野地さん・河合さんたちはわざわざ御茶ノ水駅まで見送りに来てくれた。 礼儀も知性もある若者がこうして現実的に育っていることを嬉しく思う。(写真K)
今日は午後6時から千代田区主催の講演会がある。午前中は講演会の草稿準備。
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2003年11月25日(火) 朝から雨。寒い。ぬか漬けの調子が出てきた。かぶと大根、にんじんのぬか漬けは実に美味しく漬かっている。 1日3食、必ず漬物を食べている。 昨日、オーストラリア・ゴールドコーストに住むSUEさんと夫のRICKから 「HAPPY BIRTHDAY」とのメールが届く。SUEさんは、ニュージーランドのREDDYさんの娘さん。 今朝、REDDYさんに誕生祝いのお礼の電話をする。 午前中は御茶ノ水の明治大学で夕方行う講演会の原稿・資料等準備。 熊本県南小国町の「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」が、ハンセン病の元患者ら22人の宿泊を拒否した問題で、 熊本地検は25日、ホテルを経営するアイスター(本社・東京)と、 ホテルの前田篤子総支配人に対する旅館業法違反容疑の告発を受理した。 熊本地方法務局と熊本県が21日に告発状を提出していたものである。 熊本地検の態度は当然のものである。 先日、潮田熊本県知事が上京し坂口厚生労働大臣に黒川温泉ホテルの人権無視、差別問題の経過を報告し、 「人権啓発に取り組んできたが、力不足のところがあったのかもしれない」と述べ、坂口厚労相は、 「残念な事件だ。我々も国民に理解してもらえるようにしてこなかったことを反省し、 さらに努力しなければならない」と述べたそうだ。 私は今回の問題で「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」と黒川温泉組合に抗議のFAXを送った。 しかし、今回の問題の本当の責任者は厚生労働大臣、熊本県知事であることを指摘しないわけにはいかない。 1999年7月に13人の熊本県の元ハンセン病患者が国と国会議員を相手に 「ハンセン病患者や元患者を隔離したことは誤りだ」として国家賠償を請求する裁判を起こした。 国は「誤りはなかった、隔離政策は正しかった」として裁判では反論したが、 2001年5月11日、熊本地裁は国と国会議員敗訴の画期的な判決を下し、 国は最終的に控訴を断念し熊本地裁判決が確定した。 国は隔離された元ハンセン病患者に謝罪し国家賠償を行うことを決めた。 本来、その時点で熊本県・厚生労働省が「ハンセン病は感染しない」との通達を地方自治体に出し、 啓蒙・啓発・教育に力をいれるよう指導をする義務があったのである。 川田龍平氏などの薬害エイズ問題で国が謝罪した時にはその種の通達を出しているのである。 国と熊本県の怠慢である。今回の問題の直接的な責任者はホテルを経営するアイスター(本社・東京)と、 ホテルの前田篤子総支配人であるが、 本当の責任者は2001年5月11日まで元ハンセン病患者の隔離政策は正しかったとして裁判中は反省もせずに、 差別と偏見を主張し助長してきた、正に坂口厚生労働大臣自身だったのである。 今になって正義の見方かのような態度を取っている厚生労働大臣、熊本県知事などは、 2002年1月28日に元患者に謝罪し国家賠償をおこなうとした時点で、 本格的な国民的な啓発運動をすすめる責任があったのである。 黒川温泉ホテルには「宿泊拒否は当然だ」との電話も多くあったそうだ。 未だにハンセン病についての社会的な差別と偏見があり、政府と国民的な取り組みが必要だと思っている。 私がこの日記で執拗にハンセン病のことを書くもの「火炎樹日記」読者の皆さんにハンセン病についての理解を 持って欲しいとの気持ちからである。
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2003年11月24日(月) 終日寒い。 日本の労働者の平均年休消化日は8.8日だそうだ。法律では年間20日間、 前年度の繰越を入れると年間40日間の年休がある。 しかし、実際には9日程度しか年休がとれないのが、経済世界第2位の日本の労働者の実態なのである。 年休は憲法25条(第二十五条【生存権、国の生存権保障義務】 1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。) の具体化として存在する権利である。病気の時に取るものではなく、 健康で文化的な生活を営む権利の保障として存在するものである。 年間、最低20日、人によっては40日もある年休を日本人は年間9日間しか取れないのである。 リストラ、サービス残業という名の労働基準法違反がまかり通っている日本の国民の現実を物語っている。 妻が美味しいラーメンを食べたいという。私は18歳の時1年間巣鴨駅前のラーメン屋に勤めた経験がある。 弟が白血病になり入院。高額の医療費が必要となり、昼間は病院で弟の看病、 午後7時から午前2時まで巣鴨駅前の中華料理屋に勤めた。最初は皿洗い。皿洗いも経験と知識が必要なのである。 皿洗いはお皿を回すのではなく、布巾を動かし拭くのである。お皿を回すと一部が欠けているお皿で手を切ってしまう。 お皿は動かさず布巾を動かすことを学んだ。しばらくすると「昇進」し「野菜仕込み」の担当となった。 当時は薬味のネギを切る機械がなかったので、包丁で延々と数十束のネギを切った。 中華料理に使う各種野菜も(にんじん、ネギ、シイタケ、たけのこ、白菜・・・)。 その後更に「昇進」し、ラーメンのタレやスープを作ったり、餃子を作る担当になった。 残念ながら翌年大学に合格し中華料理屋をやめた。 今日は久しぶりに東京のあっさりラーメンを作った。 西台のダイエーに行き、鶏がら(120円)、豚がら骨(100円)を買い、ニンニク、ショウガ(少々)、 にんじん、ネギなどを入れて、3時間ほどトロ火で煮込む。美味しいスープができあがる。 青味はニラともやしの茹でたもの。ナルトを切ってできあがる。 手前味噌ではあるが、あっさりの東京醤油ラーメンは美味しかった。 西台ダイエーに行ったがまだ「ダイエー優勝記念セール」をしていた。88円セール。 まな板、包丁、トング、ビーターを88円で買った。 明日は明治大学駿河台校舎で講演会。
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2003年11月23日(日) 晴天。寒い。 今日は私の56回目の誕生日。家族が誕生祝に「久保田碧寿」をプレゼントしてくれた。(写真@)
午後、妻のリハビリも兼ねて上野アメ横へ買い物。二木の菓子でいくつかの買い物をした。(写真AB)
写真で私の着ている上着は、35歳の時初めてスキーに行くので買ったもの。 それから20年ちょっと毎年着ている。これから更に20年は着ようと思っている。 新しいものを買うのもいいが、一つのものを長年大事に使うのも結構楽しいものである。 夜、札幌の長男の娘「はな」(2歳)とインターネット電話。映像をみながら話す。 「はな」はパソコン上で映像に写りながら「HAPPY BIRTHDAY TO YOU」と歌を歌ってくれた。 どんな物品のプレゼントより嬉しい誕生日のお祝いだった。
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2003年11月22日(土) 晴天。寒い。午前10過ぎ自宅を出て、富士ゼロックス本社のある赤坂「ツインタワー」へ。 西台→巣鴨 徒歩 駒込→溜池山王駅まで。途中、巣鴨から駒込まで歩いてみる。 1971年から18年間、駒込駅近くの「滝野川第七小学校」に勤めていた。 当時の思い出を辿り巣鴨や駒込近辺を歩いてみる。本郷高校、松平家を通り駒込駅へ。 昔駒込駅の裏路地にあった「北海道ラーメン」がなくなっていた。 12時過ぎに「ツインタワー」につく。溜池山王駅の地下は迷路である。 ツインタワーに出るのには12番の出口を出ると教えられていたので何とか地上に這い出る。 途方もない地下通路。一度迷ったら出口が分からない。 地上に出ると頭の上を高速道路が走っている。空を見上げる。数十回建てのビルが林立している。地面を見る。 アスファルトとコンクリート。土が全く見えない。高速の下は大型トラックが轟音を発して突っ走っている。 しばらく地下から出て地上で立ちすくむ。騒音と異臭、精神的な強い圧迫。 人間の各種感覚をこれほど刺激し続ける場所である。 こんな所に住んだら誰も精神的なストレス症になるな、と自分で納得してしまう。 「人間が住むところではないない。」 ツインタワービルを見つける。ビルに入ると入り口に大きなクリスマストゥリーが飾ってあった。 既にこのビルは、クリスマスモードに入っていた。(写真@)
午後1時から「富士ゼロックス端数倶楽部 アジアの教育に関する国際ボランティアセミナー」が行われた。 1991年に出来た社員による倶楽部。毎月の給料と各期の賞与の「端数」(100円未満)に 個人の自由な意思(一口100円×アルファー)を足して、年間14回継続拠出する制度。 現在4000人の拠出者が年間1千数百万円の寄金を拠出し、各種ボランティア団体等へ寄金している。 私たちも過去3年間、ボランティア倶楽部から毎年10万円、富士ゼロックス社から毎年10万円。 毎年20万円の寄金を頂いている。 今日は私たちベトナムの「子どもの家」を支える会、「ラオスの子ども」、「アイユーゴー」の3つの団体が招請され、 寄金の使い道も含めて海外ボランティア活動を通して知ったアジアの子どもたち、教育の現実を報告した。 端数倶楽部と関係者40人以上が参加。 今日の報告会には柴田・山西副代表、中村祥子日本事務所販売担当、寒河江日本事務所長も参加。 会場の一角に『ベトナムの「子どもの家」を支える会』コーナーが作られ、 「子どもの家」卒業生の作った刺繍などが販売された。(写真ABC)
セミナーは、清水あつ子さん(社会貢献推進室端数倶楽部事務局長)の開会挨拶で始まった。 清水事務局長は、端数倶楽部の略歴、思いなどを込めて挨拶を行った。(写真D)
続いて、私がビデオなどを使いながらストリートチルドレン支援活動の現状、子どもたちの様子、 私たちのめざすものが、「子どもたちの人間的な自立」であることなどを報告。(写真EFG)
「ラオスの子ども」からは、ラオスに絵本を送る運動を通して知ったラオスの子どもたちや 海外ボランティアのあり方が報告され、「アイユーゴー」からは、ラオスへの橋などの支援活動を通しての経験が 報告された。 私は、2つの他団体の報告を聞いていた「実際に現地を見て活動していると同じような考えになるのだな」と共感した。 特に両団体とも「事前に理論ありきではく、自分の目で見て考える」という活動スタイルである。 同時に会を大きくせずに、自分たちの手の届く範囲で活動を進めている所も共感する。 こうして他団体の活動を聞くことはとても良い勉強になる。 今日のセミナーで珍しい人と出会った。30年ほど前に北区立滝野川第七小学校で教えた教え子が 富士ゼロックス端数倶楽部にいて、私の講演を聴いてくれたことである。 1975年に1年・2年と教えた旧姓「高橋艶子さん」とその直ぐ後にやはり1年・2年と 教えた妹の旧姓「高橋明子さん」である。 現在姉の艶子さんは、富士ゼロクス社員で端数倶楽部の会員でもある。(写真HI)
二人ともお子さんがいて、既に「お母さん」になっていた。私には、30年近く前の艶子ちゃん、 明子ちゃんであったが・・・・。 こうして、立派に成長し社会に巣立り活躍している教え子を見ることこそ教師としての最大の喜びではないないだろうか? 教え子を通して改めて自分の年齢を感じた今日のセミナーではあった。 午後5時セミナー終了。終了後、近くの居酒屋で役員会兼反省会。帰宅午後10時半。 帰宅すると午後9時過ぎにニュージーランドのREDDYさんから「今、こちらはちょうど11月23日になった。 道夫の誕生日おめでとう」との電話がったとのこと。 時差3時間か? 現地時間の午前0時に電話をくれたということのようだ。 私の誕生日を覚えていた人がこの地球上63億人の中にたった一人ではあったがいたことに感謝しつつ、 深い眠りに入る。
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2003年11月21日(金) 晴天。午後、妻のリハビリのため上野の山に「紅葉狩り」に行く。 西郷さんの近くは50%の紅葉率。 3月の桜の花見で有名な国立博物館前の通りは、70%の紅葉。 平日なのに結構多くの人が紅葉を見にやってきていた。 自然の移ろいで季節を感じるという日本の伝統は脈々と日本人に受け継がれているのだろうか? 途中、紅葉狩りで疲れたら国立西洋美術館前の東京都文化会館の屋外喫茶、コーピーで一服。 (写真@ABCD)
我が家には山茶花が咲いている。秋から冬の花も。 人は寒くなると縮こまるが草花はこうして咲いて自分を主張している。(写真EFGH)
「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」の人権侵害・人間否定問題は いよいよ法務省と熊本県が熊本地方検察庁に告発し、刑事事件へと発展した。当然である。 私がこの問題を重要視したのは、このホテルとオーナーの化粧品会社「アイスター」(東京)が 再三熊本県からハンセン病についての指摘を受け、現在はハンセン病の患者ではないこと、 万一ハンセン病であっても感染しないことを科学的・実証的に説明を受けたにも関わらず、 「他のお客さんの迷惑になる」として宿泊を拒否したことにある。確信犯である。 全てを知った上で公式に人間差別、人権侵害を行ったのである。これは憲法違反である。 こんなことが日本社会にまかり通ったら、ホテルや社会が気に入らない人、他の極一部の人が嫌がったら、 人は社会に出られなくなる。こんな無法を許してはならない。 以下、今日の西日本新聞である。 熊本・宿泊拒否 法務局、県がホテル告発 地検に 旅館業法違反の疑い 熊本県南小国町の「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」が国立ハンセン病療養所菊池恵楓園(同県合志町) の元患者らの宿泊を拒否した問題で、熊本地方法務局と同県は二十一日、 正当な理由なく宿泊を拒否した旅館業法違反の疑いで、 前田篤子総支配人とホテルを経営する化粧品会社「アイスター」(東京)を熊本地検に合同で告発した。 同時に、同社に対し「今回の行為は患者に対する偏見と差別に基づいた重大な人権侵害」として、 人権学習の徹底などを文書で勧告した。 宿泊拒否による刑事告発は異例で、大きな社会問題に発展したことで法務省として厳しい姿勢を示した。 同ホテルは、熊本県が主催する「ふるさと訪問事業」で九月下旬、 ハンセン病元患者ら二十二人の宿泊予約を受けたが、入所者と分かったため、十月十三日、宿泊を断った。 十四日には、県が本社を訪れ「完治が証明されており、感染の恐れはない」と説明したが、 拒否の姿勢は変わらなかった。 旅館業法は、(1)宿泊しようとするものが伝染性の疾病にかかっていると明らかに認められる (2)宿泊しようとするものがとばく、その他の違法行為または風紀を乱す行為をする恐れがある―などを除き、 宿泊を拒んではならないと規定している。違反した場合、二万円以下の罰金が科せられる。 記者会見で同法務局の篠原安彦局長は「今回の行為は単に旅館業法に違反するだけでなく、 ハンセン病患者らに対する差別と偏見に基づく行為。 差別解消に取り組んでいる関係者の努力を無にする極めて悪質な事案であるといわざるを得ない」と指弾した。 (西日本新聞) 恵楓園自治会 謝罪受け入れず ハンセン病元患者宿泊拒否の釈明に反発「口先だけだ」 熊本県南小国町の「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」が国立ハンセン病療養所菊池恵楓園(同県合志町)の 元患者らの宿泊を拒否した問題で、同ホテルの前田篤子総支配人は二十日昼、同園を訪れ、 入所者自治会に「私の無知と認識不足のため不愉快な思いをさせて申し訳ない」と謝罪した。 しかし、自治会側からは「口先だけの謝罪ではないか」などと厳しい批判の声が続出。 「ホテルや自分の地位を守るためだけの釈明にすぎない」として謝罪文の受け取りを拒否した。 この日、前田総支配人は男性支配人と二人で訪問。 同自治会の太田明会長(60)ら役員十人を前に「今後はハンセン病について勉強して、 みなさまのお役に立てるよう努力したい」とする文書を読み上げ、頭を下げた。 自治会は、前田総支配人の反省不足を指摘し、 「総支配人としてどう責任をとるのか」「旅館業法違反処分にどう対応するのか」 「社会にどう説明するのか」について質問。さらに「総支配人を辞めろ」「ホテルを閉鎖すべきだ」など、 激しい発言が相次いだ。 前田総支配人は「立場上、この場で辞められない。私の責任として問題解決に当たりたい」などと弁明。 しかし自治会は「黒川温泉のイメージ回復や、ホテルと自らの地位を守るための釈明と受け止めた。 謝罪文の受け取りは断固拒否する」とはねつけた。 会談後、太田会長は「全国ハンセン病療養所入所者協議会などと連携し、今後の対応を検討する。 (ホテルを経営する東京の)アイスター本社での座り込みや、訴訟も辞さない」と怒りの表情で語った。 (西日本新聞) [11月20日14時42分更新] ハンセン病 過去の病気 感染あり得ぬ 小野友道・熊大大学院教授の話 ハンセン病は国内では過去の病気だ。国は感染症にも指定していない。国内の新たな患者の発生は年間数人で、 それも二十年も三十年も前に感染していた高齢者が何かの要因で発症したケースだ。 もし発症したとしても、早期治療で後遺症を残すことなく治せるし、心配する必要はない。 何より、ハンセン病の原因である「らい菌」は感染力は非常に弱い。一緒に風呂に入ろうが、 抱き合おうが感染することはない。事実、全国のハンセン病療養所の職員で感染した人はゼロだ。 免疫機能が未熟な乳幼児の感染を心配する向きもあるようだが、それは貧困で栄養状態が悪い途上国のこと。 乳幼児であっても、国内で感染する可能性はまずない。しかも、療養所の入所者の99%は「元患者」。 そもそも保菌者ではないので、感染はあり得ない。「らい菌」は皮膚や末梢(まっしょう)神経を冒すが、 比較的低温を好むので、体温の低い手足や顔などが変形しやすい。しかし、 そうした元患者らの外見は単なる後遺症で、細菌に感染した痕跡という点でニキビの跡と同じだ。 私は昭和四十年代、菊池恵楓園(熊本県合志町)に毎週、診療に行っていた。 なぜ人は外見で差別してしまうのか、今回の問題を悲しく思う。市民にはハンセン病を正しく理解し、 偏見が元患者らを苦しめていることにぜひ思いをめぐらせてほしい。(談)(西日本新聞) [11月20日] 「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」のオーナー「アイスター」のホームページである。 経営理念に以下のような文言がある。言葉だけが踊っている。内容のない言葉とはいかに空しいものか・・・・。 「社会貢献、お客様の立場」とあるが、元ハンセン病患者はお客ではないようだ。 アイスターの西山栄一氏に抗議の文書を送る。 (アイスター 経営理念) お客様の満足と社会への貢献を優先させよう。 お客様の立場にたち、最高に親切とはどうすることかを考え、自分が納得出来る方法で対話を進めよう。
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2003年11月19日(水) 昨夜は熊本の「アイレディース宮殿黒川温泉」と同温泉観光旅館共同組合へ抗議のFAXを作り送信したので、 遅くまで時間を取られていまい、正直相当疲れた。 今日は、千葉県立八街高校の授業。「国際ボランティア養成講座」。昨年から今年で2年目。 千葉県立八街高校まで自宅から片道3時間。 午前10時、次男の耕太(千葉県立八街高校担当)と一緒に都営地下鉄「西台」→「水道橋」。 JR「水道橋」→「錦糸町」→「千葉」→「榎戸」。 午後1時20分から50分単位の授業を2コマ。(写真@ABC)
1時間目は、「ボランティア」とは?という今学期最後の授業を行う。 ボランティアは「気持ち」「心」であるというのがその趣旨。 元ハンセン病患者の宿泊を拒否したホテルと温泉協同組合に何故私は抗議のFAXを送ったのか?を話す。 もし、私たちが元ハンセン病の患者でホテル宿泊を拒否されたらどんな気持ちだろうか? ボランティアの第一歩は、 「その人の気持ち」になり、その気もちを「想像」することが出来るかどうかだ。 人の気持ちになることの基礎は、「人間みな平等」という思想。 人間が人間として存在できない時、怒りを感じる。 ストリートチルドレン問題も元ハンセン病患者のホテル宿泊問題も私にとっては同じものである。 ボランティアの第2は、行動をすること。自分の出来る範囲で何か行動すること。 私は元ハンセン病患者の差別問題に怒り、自分が今出来ることは何かを考えた。 直ぐに出来ることはホテルと温泉共同組合に抗議することだと思い、インターネットで情報を検索。 西日本新聞を読む。更に常識で考え、ホテルが理由なく顧客の宿泊を拒否することは出来ないはずと思い、 「ホテル法」とか「旅館法」などと法律はないか、インターネットで調べる。 すると「旅館業法」というのがあることを知る。 1948年に成立し平成8年に最終改正された13条からなる法律である。 この法律を読むと「明らかに伝染病と認定できる顧客」以外は宿泊を拒否できないと明記されている。 このホテルは法律違反の犯罪行為をしていることを調べ、抗議文を書いたなど、ボランティアは形ではなく心である、 自分の出来ることを「自主的」にすることだとの話をした。 同時に生徒たちとハンセン病の歴史と患者・元患者が不当な隔離政策の中でいかに苦しんで来たかを勉強した。 2時間目は、JASSのボランティア活動は、ストリートチルドレン支援だけではなく、 日本とベトナムの友好交流も行っているということで、2003年10月20日からJASS主催、 フエ省・市人民委員会共催でお行われた「日越国交樹立30周年記念行事」のビデオを見ながら学習した。 授業には、JASS日本事務所の教育担当の森田さん、山田さんも参加。(写真DE)
授業の最後に「国際ボランティア養成講座」の生徒が文化祭でベトナムストリートチルドレンの問題を報告し、 寄金を募り、ベトナムコーヒーなどの販売を行った。その寄金や売り上げをJASSに寄贈してくれた。 贈呈式を行った。(写真FG)
昨年は、1年間の授業中、子どもたちの多くは寝ていた。 起きていても女子は、化粧をするか携帯電話でメールをしていた。 しかし今年は、2人の生徒が夏に「子どもの家」を訪問し、文化祭でその体験を報告。寄金を集める。 10月の日比谷公園で行われた国際ボランティアフェスティバルには全生徒が参加。 こうして、多くの生徒は人間が生きるということに少し目を向けるようになって来たのではないかと思う。 私たちは教師ではないが、それでも大人として、今の日本の子どもたちのために出来ることをしたいと思っている。 「今どきの若者はなっていない」と嘆いている大人をみかけるが、私はなっていないのは、 ただ嘆いている大人のあたな自身であると言いたい。 嘆いている暇があるのなら、自分の出来ることを少しでも何かしたらどうなのだろうかと。 「嘆き」からは何も生まれない。「小さな行動」から何かが生まれるかもしれない。
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2003年11月18日(火) 今日の夕方、熊本の「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」が 元ハンセン病患者22人の宿泊を断ったとの報道を聞いた。無性に腹が立った。 しかも同ホテルの前田篤子総支配人は西日本新聞社の取材に対し「ハンセン病問題の経過は知っているが、 不快な思いをする他の宿泊客がいることを心配して宿泊を拒否した」と言明し、確信犯的な態度とっている。 私は2002年1月に東京弁護士会人権賞を受賞しているが、 その時私と同時に京都大学医学部教授の故小笠原先生も同賞を受賞している。 小笠原先生は、戦前からハンセン病(ライ病とも言われた)患者の社会的な隔離政策は間違っていると主張し、 反政府主義者として警察に捕まった経歴をもった偉大な先生である。 小笠原先生は、戦後、ハンセン病は特効薬が開発され、治療が可能な病気であり、 隔離政策は間違っているとの主張をしたが、学会の多数は小笠原先生の主張を黙殺し、 1996年までハンセン病患者を法律に基づいて、社会的隔離政策を取っていたのである。 昨年、東京弁護士会人権賞を受賞するに当たり、小笠原先生のお子さん方と懇談する機会があり、 ハンセン病の元患者の皆さんが100年にもわたり人権侵害と人間性そのものを否定されてきた歴史を知った次第である。 今日では国もハンセン病患者への故なき社会的な差別と偏見を主導したとして患者や元患者に謝罪し、 国家賠償をしているところである。 今日では、ハンセン病は治療薬があり完治する病気である伝染もしないといういうことが社会的にも 明確になっているのである。 こうした時に熊本の「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」が、 ハンセン病の歴史と経過を知った上で尚且つ宿泊を拒否するという重大な人権侵害を確信犯的に行ったのである。 しかも同ホテルへの予約は熊本県が行い、 同ホテルの宿泊拒否回答に対し予約をした熊本県が再々にわたり「宿泊拒否は間違いである」との 指導をしているのである。 そうした経過を辿った上でなお宿泊を拒否するということは社会的に絶対許されない犯罪行為である。 もし、私が元ハンセン病患者だったら絶対に許せない気持ちなるのは、明らかである。 今日、いてもたっていられず、同ホテルと黒川温泉観光旅館協同組合に厳重抗議のFAXを送信した。 「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」への抗議文は以下のものである。 「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」御中 (FAX0967−44−0398) 前略にて失礼致します。 突然のFAX送付をお許しください。私は東京都に住んでいます小山道夫と申します。 西日本新聞によれば貴ホテルは国立ハンセン病療養所菊池恵楓園(熊本県合志町)に 入所している元患者の方々二十二人の宿泊を断ったと報道されています。 これが事実であれば、明らかに「旅館業法」第1条 『この法律は、旅館業の業務の適正な運営を確保すること等により、 旅館業の健全な発達を図るとともに旅館業の分野における利用者の需要の高度化及び多様化に対応したサービスの 提供を促進し、もつて公衆衛生及び国民生活の向上に寄与することを目的とする。』や第5条 『業者は、左の各号の一に該当する場合を除いては、宿泊を拒んではならない。 一 宿泊しようとする者が伝染性の疾病にかかつていると明らかに認められるとき。 二 宿泊しようとする者がとばく、その他の違法行為又は風紀を乱す行為をする虞があると認められるとき。 三 宿泊施設に余裕がないときその他都道府県が条例で定める事由があるとき。』 に違反しています。 また同法第11条 『左の各号の一に該当する者は、これを五千円以下の罰金に処する。 一 第五条 又は第六条第一項 の規定に違反した者 』によって、5000円以下の罰金に処せられる犯罪行為です。 国立ハンセン病療養所菊池恵楓園の元患者の皆さんは、2001年5月、 国による強制隔離政策で基本的人権を侵害されたとして、国に損害賠償を求めた訴訟を起こし、 国側の敗訴が確定しています。これだけを見てもハンセン病は伝染もしない、 医療で治療できる病気であることは裁判でも確定し、明らかになっています。 そして、今日ハンセン病については、その偏見を捨てて社会支援と救済をするとの体制が出来ているところです。 貴ホテルの前田篤子総支配人は11月18日、西日本新聞社の取材に対し「ハンセン病問題の経過は知っているが、 不快な思いをする他の宿泊客がいることを心配して」宿泊を拒否したと明言しています。 これは、ハンセン病に対する経過などを知った上での発言で絶対に許されるものではありません。 人間差別と重大な人権侵害は明らかで違法行為です。貴館は明らかに社会的な犯罪を犯しています。 直ちに菊池恵楓園の皆さんと社会的に謝罪すべきです。以上を強く申し入れるものです。 草々 たった一人の抗議文かも知れないが、誰かが抗議しなければ、 このホテルはこうした反社会的な差別と偏見を続けるのである。 なお、ハンセン病の歴史とヘンセン病問題を知りたい方は以下のHPをご覧下さい。 厚生労働省のホームページと西日本新聞である。 歴史から学ぶハンセン病とは?厚生労働省 Yahooニュース−九州−西日本新聞@ Yahooニュース−九州−西日本新聞A
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2003年11月17日(月) 今日は強風。木枯らし一号が吹いたとのこと。 午前中買い物。風が強く買い物で歩くのが大変。歩いて20分ほどの高島平団地内にある市場は安い。 きゅうり5本50円。パセリ大袋100円。野菜が安い。 午前中、買って来た食材で夕食のカレーを作る。ぬか床にきゅうりとかぶを漬ける。 今は20時間ほどで美味しい漬物が出来る。明日の朝は美味しいきゅうりとかぶのぬか漬けが食べられる。 病気療養中の妻に出来るだけ手作りの美味しい料理を食べさせようと努力している。 昼に自宅を出る。午後2時、目白駅で山西司郎副代表と合流。 久しぶりに来た目白駅はすっかり変わっていた。(写真@)
その後、地球の歩き方の事業開発部ディレクターの河村さん、ツアー担当の杉田さんと1時間ほど打ち合わせ。 今年春と夏に地球の歩き方と提携し実施した「海外ボランティア体験ツアー」でフエの 「子どもの家」を訪ねてのツアーが大好評だったそうだ。 2004年2月8日、2月15日、3月14日、3月21日と4回行う「海外ボランティア体験ツアー」 (9日間の日程)のパンフレットを頂く。「子どもの家」の子どもたちの笑顔の写真がたくさん載っている。 30万部印刷し全国の大学の教務課などに配布するそうだ。 来春のボランティア体験ツアーは、「子どもの家」訪問交流・市場での買い物と昼食作り、 「子どもの家」で日本語・音楽・絵画・コンピュータ教育体験、ベトナム語入門講座、少数民族訪問交流、 フエの学校訪問交流、王宮などフエ市内観光などを行う。詳細を知りたい方は以下のホームページを参照。 http://www.arukikata.co.jp/gakusei/volunteer/ その足で学習院大学へ。学習院大学生涯学習センターの谷さんと懇談。地球の歩き方の紹介。(写真ABCD)
2004年「学習院の春講座」(約30講座)の中に「ボランティア講座」を入れるとのこと。 山西副代表と学習院大学側、地球の歩き方の方々とボランティア講座の詳細打ち合わせを行う。 日程は確定できないが2004年5月末か6月に生涯学習講座の一環として「ボランティア講座」を行い、 フエでの「子どもの家」や障害児支援活動などを紹介しながら、 ボランティアとは何かを考える授業を行うこととした。 午後5時過ぎ帰宅。午前中に作っておいたカレーを食べる。しばらく寝かせておいたので味がまろやかとなり美味。 夜10時過ぎ、静岡の藤田栄さんより電話あり。
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2003年11月16日(日) 晴天。変な気候だ。春のような暖かな風が吹いている。 札幌に住んでいる長男が仕事で4日間帰京。我が家に泊まる。 丁度この期間、私は講演会が入り、ほとんど長男と顔を合わせることがなかった。今日札幌へ帰った。 長男29歳(近々に30歳)。「3歳から7歳位まで」の8ミリ撮影機で写したフィルムが押入れから出てきた。 20数年前、8ミリフィルムで保育園の運動会や家族で行った海水浴、親戚訪問、七五三などを撮った記憶が蘇る。 早速、何箇所かのフィルム屋や写真屋などに行って「8ミリフィルムをビデオかデジタル、 DVDなどに変換できますか?」と聞いてみたが、「8ミリ映写機がない」「できない」などの答えであった。 ふっと、ベトナムの「子どもの家」を支える札幌の会の鹿又達男さんを思い出し連絡してみた。 すると、「できますよ」とのこと。喜び勇み、札幌の鹿又さんへ20数年前の8ミリフィルムを送る。 直ぐにデジタルテープとDVDに変換してくれた。しかも「実費で良いです」とのありがたいことば。 映像は鮮明である。デジタルやCDなら劣化もなく、長期間保存できる。 テープのダビング、DVD、難しい映像関係の仕事があれば、札幌の会の鹿又達男さんにご一報を。 株式会社 リレック(REREC) ホームページ http://www.rerec.co.jp/ E−メール rerec@rerec.co.jp 昨夜、長男が札幌へ帰ってからDVDで20数年前の我が家の子どもたちや家族を見る。 長男・次男が4歳、3歳当時の保育園の運動会。今、改めて見ると本当に可笑しい場面がたくさんある。 二人とも集団生活が嫌いなようで、他の子どもたちが一生懸命に「お遊戯」をしている時、砂遊びをしていた。 この種の記録は二度と撮れないもので、お金に代えられない価値のあるものだ。 数年後には長男の娘が「お父さんの子どもの頃」ということで見るのであろう。 改めて札幌の会の鹿又達男さんに感謝。 総選挙も終わり、マスコミを挙げた「二大政党論」「政権移譲論」に国民も惑わされたが、 自民党が勝ったのか、民主党が勝ったのか? どうも良く分からない選挙だった。どちらが勝っても同床同夢政党。 民主は小沢一郎氏が合流し、一層自民党的体質が鮮明になってきた。社民・共産党の大敗は想像出来たところ。 しかし、自民・民主の保守・新保守主義政党を中心に公明を含めると「改憲勢力」 (創憲とか論憲とか言い訳をしているが)が国会の3分の2を占める。これは日本の重大な危機状態を示している。 民主主義という制度は、国民の多様な意見が反映される制度でなければならない。 そのためには、政権党に対する明確な批判政党の存在が不可欠である。 社民・共産の大敗は、政権党に対する批判勢力の力が弱まることを意味し、 今後、小泉ヒトラー政権が戦後民主主義と憲法を無視し、 一層日本の軍国主義化ファシズム化を進行させるのではとの危惧を感ずる。 小泉ヒトラー政権というのは、小泉首相が説明なく、 短いことばで一見分かりやすく発言するところがヒトラーに似ているからである。 また、小泉首相は「自民党をぶっこわす」と言い、 あたかも自民党の敵対勢力であるかのような「マスコミ操作」をしている。 ヒトラーも「国家社会主義労働者党」(ナチ党)という、あたかも労働者の見方であるかのような政党を作り、 マスコミを使い国民を騙した。政治手法も似ている。 社民・共産の「大敗」は両党の「退廃」に通ずる。社民は辻元問題や北朝鮮問題、 更には、自民党と村山政権を作った過去の退廃がある。 自民党と連立内閣を作った社民党(当時は社会党)が、「自民党打倒」を叫んでも空しい。 共産党は、筆坂書記局長代理のセクハラ問題では、国民に選ばれた国会議員でありながら、 筆坂氏は一切の記者会見もせずに辞任。 党幹部の飲酒は党中央に届け許可を受けなければならないなどと委員長が記者会見し、 記者から「中央勤務員がデートで彼女と飲酒する場合にも党からの許可が必要ですか」との質問に、 志井委員長は「そうです」と答えている。私はこの場面はテレビで見て、 「まーあ、なんと世間の常識から離れたことを平気でいっているんだろう」と思ったものである。 その政党の幹部は世間離れしている。 先日の参議院では共産党の林議員が、「イラク特別措置法延長法案」になんと賛成票を投じている。 共産党は「イラクへの自衛隊派遣は憲法違反、絶対反対」と言っていたのに。 間違って「賛成のボタン」を押してしまったということのようだが。 筆坂セクハラ問題、飲酒問題、林議員のボタン押し間違え事件といい、人間的な退廃と言わざるを得ない所がある。 これから「改憲問題」「教育基本法問題」など、 今後20年・50年後の日本の針路を決める重大な問題が政治の遡上にあがってくる。 政権党への批判政党の重要な役割が期待される。同時に大きな国民的な議論と運動が待たれる。 高橋尚子さんのマラソンの結果をニュースで見た。 この数日、テレビに出ては、「最高のコンディション」などと発言し、「絶対優勝」するとのマスコミに乗っていた。 しかし、テレビの映像を見て、あまりに痩せているのに素人の私でも驚いた。 シドニーオリンピックで優勝したら、それで終わりにしても良かったのにと思うのは私だけだろうか。 マスコミや陸連、「小出ひげおやじ」に良いように操られ、衰弱しているようで痛々しい。 作られた虚像を捨てて、自分に帰った方が良いように思えてならない。 東京マラソン後のインタビューに無理な笑顔を作っているようで悲しい。 そんなに無理をしなくてもいいのに。高橋選手の心の闘志は既に燃え尽きているように思えてならない。 無理に燃やそうとしてももう燃えない。東京オリンピックの円谷選手が自殺したことを思い出す。 夕食。関城町の講演会で横島久仁子さんのお父さんから頂いた関城町「匠のうどん」を食べる。 自称うどん通の私の「肥えた喉」を満足させる手打ちうどん。本当に美味しい。 試しにこの喉越しの手打ちうどんをお試しの方は、 株式会社『西村製麺』 電話 0296−37−6555 FAX 0296−37−6523 茨城県真壁郡関城町中町88−1 まで。
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