だあくねす
序章
悪魔が町に、やってくる。
ピンポーン♪
そうとしか形容できない、安っぽいチャイムの音が響く。音量は決して大きくないのだが、響かずに終わるにはそれが鳴る空間が小さすぎた。
その事実に軽くため息をつきながら、大は立ち上がる。居留守を使いたい気分だったが、そうした所で扉の前に立っている人間に対しては無意味だと、重々承知していた。狭い部屋だから音は聞こえるだろうし、明かりも漏れている。
「はい、どちら様でしょう」
インターフォンはつけていない。チャイムはあくまで押せば鳴るというだけのものであって、中の音をマイクで拾って戸口に流す機械はない。どう考えても意味がないからだ。六畳一間の1K、敢えて気配を消さなければ嫌でも声は聞こえる。
だから、扉越しに声をかけてから、魚眼レンズの覗き窓で外の様子をうかがった。
一瞬、誰もいないかと思った。正面に人影はない。
ピンポンダッシュかよ…。一体いつの時代のいたずらだか。って、オートロックのマンションやらカメラを含めた防犯システムつきの住宅が増えるまでだけどな。
怒る気力もなく自問自答する。ただ、それを終えてから、彼は自分の考えを修正する必要を悟った。相手が名乗ったのだ。
「翡翠と申します」
やや慌てて、もう一度、レンズを確認する。その下の端にどうにか、頭らしきものを見ることができた。集合住宅の廊下の暗がり、しかも特殊なレンズ越しのゆがんだ視界の中で、黒い髪をした人間の頭部を判別することは容易でない。そのため先程ざっと見た範囲では、見逃していたのだ。どうやらかなり小柄な人物であるらしい。
口調は悪くない。丁寧にして簡潔。礼儀にうるさい人間に文句を言わせない程度は確保しているし、気の短い人間をいらだたせるほど回りくどくもない。一般論としては理想だろう。
そして待っている態度は、ごく落ち着いたものだった。無意味だと分かっていてレンズを覗き返すような気ぜわしい真似をせず、また相手に見られていることを期待して愛想笑いをするでもない。ただ、忍耐強く相手が開けてくれるのを待っている。
印象としては、合格点だ。ただ「翡翠」という名前に心当たりがなかったので、大はドアチェーンをかけてから鍵を開ける。
「失礼ですが、どちらの翡翠さんでしょう。失念していたのなら申し訳ありませんが、お初にお目にかかると思います」
膝を使って目の高さを合わせながら、相手同様の丁寧さを守って問いかける。ほぼ間違いなく初対面、しかも突然の来訪ではある。しかし今の所礼儀を守っている相手に対して、横柄に振舞うのは主義に反した。
「これは、失礼をいたしました。お初にお目にかかります。わたくし、穂群翡翠と申します。遠い国から参りました」
慌てず、騒がず、翡翠と名乗った人物は詫びる。大の部屋から漏れ出る光に照らされたその姿は、少女のそれだった。
しかも、視線を吸いつけられるような美しさだ。長く伸ばした髪は、周囲の闇に溶けるように純粋な黒。一方で肌は透き通るように白い。その単色の中で、ただ小造りな唇だけが、ほのかに紅く見えた。そして通った鼻筋も、輪郭も、触れれば壊れるのではないかと思えるほど繊細な曲線を描いている。
さらに彼女の幼さが、危うさを際立たせていた。多めに見積もっても中学生、恐らくは小学校高学年だと思えた。
それだけなら、はかなさのあまり見ているだけで不安になってしまっただろう。しかし彼女の、髪と同じ色の瞳は、不思議と精神力と生命力を感じさせる。
それもあって、そして何より相手が今口にした内容から判断して、大はややそっけなく応じた。
「それで御用向きは?」
「あなた様と、『幸せ』について語らうためにお伺いいたしました」
「間に合ってます」
半ば以上反射的に、そして力強くかつ問答無用で扉を閉める。ついでに音高く鍵をかけた。それが非礼であることなど、無論承知の上である。
相手は「宗教」だ。それも世間一般で知られているような仏教やキリスト教とは、明らかな一線を画している。
初対面の人間に対してやおら「幸せ」やら「真理」やらを説く。どう考えても常軌を逸した存在。いわゆるカルトだ。
まともな宗教家なら、まずこんなことはしない。倫理を教化するのがその基本的な役割の一つであり、その中に普通は世間一般の常識も含まれるからだ。まずは自然な会話からはじめて信頼関係を築くのが、宗教家以前に人間として正しいあり方である。
もっとも、仏陀やキリストといった世界的な宗教の開祖はそうしていたと伝えられている。ただ、彼等は要するに仏様や神様だから、常識では考えられないことができる。だから、自分が普通の人間だととらえる謙虚さを持ち合わせているなら、真似をしてはいけない。絶対にだ。
この少女は、その真逆の方向へと突っ走っている。話の通じる相手とは思えない。
この種の輩は相手をせずに会話を打ち切るのが一番だ…と、この前暇つぶしに読んだ冊子に書いてあった。「結構です」などという日本人的な奥ゆかしい断りかたもいけない。言葉尻を強引に肯定の意味に捉えて、さらに畳みかけて来るだけだ。
「あら、大変失礼ながら、そのようにはお見受けできませんわ」
やはりおかしいに違いない。強い拒絶の意志を理解できないのか、彼女はころころと笑って否定した。
これ以上会話をしても疲れるだけだろう。無視を決め込んだ大は、玄関先からテレビの前の定位置へと戻ることにした。間取りというにもおこがましい狭さだから移動距離はささやかで、相手の声が聞こえないというわけには行かない。ただ、しばらく放置すればいずれ諦めるだろうし、そうでないなら警察を呼ぶ十分な理由になる。
「…あれ?」
そして、間の抜けた声を上げる。自分は確かに、扉を閉めて施錠したはずだ。扉が開いていた間も、ドアチェーンはずっとかけたままだった。翡翠の大きさでは、頭がつかえて入れるはずがない。
しかし、である。振り返ったその先、彼の部屋の中に、翡翠が座っていた。まるで先程からそこにいたような、当たり前の顔をして。しかも大が座ろうとしていた場所の丁度正面、すぐにでも親しい会話ができるような位置を占めている。
どういうことだ。
巨大な疑問に押し潰されそうになるのをこらえながら、大はとっさに手近で武器になるものがないかと考えた。
できれば長い、距離の取れるものの方がいい。得体の知れない相手と至近距離で接する気にはなれない。ただ、長すぎると室内では引っかかってしまう。一方で、別に刃物でなくて構わない。それなりの硬さがありさえすれば、成人男性の腕力なら大概のものは十分凶器として活用できるのだ。
例えば箒、あるいはスコップ。そんなものでいい。しかしそんな類の日用品が、一人暮らしの男の部屋に常備されているだろうか。掃除は大概掃除機、どうしても必要なときだけ雑巾がけだ。スコップを使うような庭など、もちろんない。
「まあ、とりあえずゆっくりとおかけになってはいかがでしょう。こちらはほかならぬ、あなた様のお宅なのですし」
翡翠は柔らかな笑みを見せながら、向かいの場所、大の定位置を勧める。まるで、彼の警戒心など感じ取っていないかのようだ。だから大自身はそれに乗って動く気をなくしたのだが、すぐさまそれが裏切られることになる。
「木刀ならありましてよ。あなた様にとってはずっと以前…御自身がお忘れになるようなころに、それもふざけてお買いになったものが。押入れのその奥に」
そのままの表情で、言葉で示した場所を見やる。一瞬だけ戸惑った後、凍ったものが大の背筋を通り過ぎた。
確かにそうだ。押入れの「その奥」、取り出すのにしばらくかかるであろう場所に、木刀がある。別に剣道など習っていないのに、修学旅行先で、「観光地ならこれだろう」などと冗談で手に入れたものだ。強度や実用性に関しては怪しいことこの上ない。
その後当然ながら使うでもなく、放置していた。結果、所有者自身が所在を忘れている。
何かとてつもないことが起きている。それを悟った大は、ひとまず話をすることにした。どうやら単純な暴力や警察だけで解決するような、生易しい相手ではない。
「分かりました。とりあえず、何か飲み物でもお出ししましょうか」
平和的な話し合いの証として、初歩の接待から始めることにする。翡翠は微笑しながら会釈した。
「ありがとうございます。よろしければ、あなた様がお飲みになっているのと同じものをいただきたいのですが」
口調は丁寧だが、遠慮しない性格らしい。いつかの都市伝説に出てくるフェロモン女優のように「おかまいなく」、とは言わなかった。そして今テーブルに置かれているものを、ある意味素直に要求する。しかし、簡単には応じられない内容だった。
「あんまりよろしくないですね。酒ですから、それは」
晩酌をしていた所なのである。一応説明をしたのは、子供には分かりにくいかと思ったからだ。卓上に置かれていたのは、ビールや日本酒のような典型的な酒瓶ではない。四角く透明な、ジンの瓶である。香料による独特の風味があり、酒臭さはあまり感じられない。飲酒の習慣がなければ、大人でもジュース等と間違えたかもしれない。
「法律でしたらわたくしは気にかけませんが」
翡翠はにこやかに、えらいことを言う。大は少し考えてから、小さく首を振った。
「悪いですけど、私が気にかけますので。法律に引っかかって処罰されるのは、飲んだ未成年本人じゃなくて飲ませた大人ですから」
自分自身、未成年のうちに飲んだ覚えはある。それも可愛げある飲み方では済まず、泥酔した経験さえあった。あまり偉そうなことが言えた義理ではない。
一方で、それが重大な罪であるとも思っていない。脳に良くないと言うが、それにしては素面のままでおかしい人間が多すぎる、というのが大の人間観である。どうせ壊れるなら早めにそうなっていなくなればいい、と思うことさえある。
勝手に飲むのであれば、放置しただろう。しかし今は社会人になってそれなりに立場というものもあるので、自分が関わって違法なことはさせられなかった。
「あら、残念ですわ。せっかくお酒を酌み交わせるかと思っておりましたのに」
笑顔のまま翡翠は返す。大は肩をすくめながら冷蔵庫を開けた。
「無粋ですみませんね。それで、どれにします」
「まさる様のお好きなものを」
彼女は正確に、彼の名前を呼んでいた。表札には苗字しか書いていないし、また、どこかで名前の漢字を知っていたとしても、「だい」や「ひろし」ではなく「まさる」と一度で読むのは簡単ではない。それを承知の上で、彼は別のことを考えていた。
「じゃあ、これですね」
ひょい、とペットボトルを取り上げる。翡翠はそれだけの動作に、目を輝かせた。
「粉を水で解いたものとは、珍しいものをお飲みになるのですね」
珍獣を鑑賞する視線だ。大は苦笑しながら、コップに中身を注いだ。
「加減が効くのがいいんですよ」
元は粉末の、スポーツドリンクである。同じ種類でそのまま飲めるものも缶やペットボトルで売っているのだが、やや薄味が好みなので、こちらの方が安上がりなのだ。ただし、スーパーの特売でやすくなっているときは間違いなくペットボトルを買うし、別の種類のものにすることもある。飲食に関するこだわりよりは、節約が大事な性分だ。
そもそも問題は、完全に溶けた状態から元の様子を言い当てた翡翠の洞察力である。第一彼女の位置からは、冷蔵庫の中身など見えないはずなのだ。大自身の体が邪魔になることもあるし、いくら狭い部屋であるとはいえ、そう都合の良い構造はしていない。
その位置関係を承知で、敢えて大は先程のように問いかけたのだ。結果、予想以上の答えを導いている。やはりこの少女は、大の常識では計り知れないことができるようだ。
「そうですか。ありがとうございます」
興味津々の体のまま、翡翠はグラスを受け取って口をつけた。それでいて慌てた様子がなく、優雅ささえ感じさせる。安物のグラスが、高級ガラス細工よりも立派に見えた。
ともかく、良家の令嬢として幼少から基礎を叩き込まれている。あるいはそう見せるだけの演技力を身につけている。いずれにせよ、そこからしても只者ではない。大はそう観察していた。
「なるほど、すっきりとしたお味ですわね」
そして、彼女は社交辞令で「おいしい」とは言わなかった。自分の感性に忠実な、のびのびとした部分もあるようだ。
「疲れた時にはこれですよ。下手に栄養ドリンクなんて飲むよりよほどいいですから」
胃腸に負担をかけず、素早く水分、糖分、ミネラルを補給できるという利点がある。その名の通りスポーツの他、大量に汗をかく入浴の前後にも良いし、また熱中症や下痢などの際の応急処置としても効果的だ。もっとも大の場合は大概、前夜の飲みすぎで胃腸が荒れている朝のお供である。
翡翠自身の好みはともかく、大がこれを好んでいるということは理解したようだ。その上で、彼女は首をかしげる。
「それでは何故、お茶をもう一種類お作りになっているのですか」
正確に言えば、烏龍茶だ。これも値段が安いという理由で、バッグから自分で作ったものである。もちろんこれも、彼女からは直接見えていないはずだ。
「まあ、そればっかり飲んじゃうと太りますからね」
飲酒の習慣があるせいで、気をつけていないとすぐ余分な肉がつく。そんな胴回りをさすって見せた。ジンをカクテルにしないのも、余計なカロリーを摂取しないためだ。
「なるほど」
今度は、社交辞令に近い相槌だったらしい。少し間を見てから、彼女は切り出した。
「それで、わたくしをお試しになるのはもうよろしいのですか? 自分を試してはならないとおっしゃるお方も世の中にはおいでになるようですが、わたくしはむしろ楽しく思いますわ」
優しい笑顔をたたえてはいる。しかし確かに、この少女は楽しんでいる。だからこそ、これ以上試す気がなくなった大だった。
ただ、「試してはならない」というフレーズが妙に引っかかる。特定なしに引用しているくらいだから、彼女としては常識と言える台詞なのだろうし、実際大自身聞いたことがある気がする。ただ、具体的に誰のものなのか、とっさに思い出せなかった。
「ええ。せっかくですけれど、好きで試した訳じゃないんです。逆に試されるのも嫌いでしてね。人と競うよりは、自分ひとりでいたい。こうやって好きな酒を飲んで、つまみを食う。それだけが楽しみの、つまらない人間です」
相手を信用した訳ではないが、これは別に嘘ではない。本心というよりも、他に形容しようのない現実だと思っている。だからこそ、素で言ってのけられるのだ。そして、臆面もなくこうしてさらけ出してしまえば、相手も自分に対する興味や関心を失うだろう。多少アルコールに浸った頭でも、その程度の計算はできている。
そしてグラスを傾け、胃に流し込んだ。それから、ゆで鶏のサルサソースがけを摘む。鶏肉そのものについては沸かした小鍋に買ってきた鶏肉を放り込んだだけという料理ともいえない代物だし、サルサソースは朝食のトーストに塗ったりもする買い置きだ。ただし、それだけでは物足りないので少しタバスコを足してある。
仕事から帰ってから手の込んだ料理をする気になれないので、平日の晩は大体このようになってしまう。他に並んでいるのも鶏のついでに茹でた野菜のサラダ、包装の銀紙を剥いただけのチーズという、料理を愛する人間なら頭の痛くなるような代物ばかりだ。
「お言葉ながら。今のおっしゃりようからしても、わたくしは非常に興味をそそられます。お好きではないとの仰せに偽りはないようですが、それにしては見事なお手前です。実に鋭く、それでいて表面上そのそぶりを一切見せない、そんな探りの入れようでございましたわ。そうした矛盾の解明こそ知的好奇心の対象になる、そうはお思いになりませんか?」
むしろ彼女の方が年長で、いじけた児童を諭す教師のような口調だった。大は苦笑を返す。
「一般論としてはね。ただ、人間多少なりとも生きていれば、嫌いな技術でも身にはつきますよ」
くすくす、と彼女はこのとき笑った。終始にこやかだが、楽しげだったのはこれで二度目だと思えた。
「あら、今のお言葉には少し、含む所がおありのようですね。建前はともかく、本来人間なら当然身に着けているはずの学習能力を持たないブタの何と多いことかと、内心ではそうお感じのようですわ」
「気のせいでしょう」
簡単に流したのは、警戒の度を強めたからだ。
世の中には、そもそも学習するということ自体に障害のある、本当に助力を必要とする人もいるとは重々承知している。だから、翡翠の言ったことが大の本心の全てではない。
しかし一方、そのような重度の障害を持たない人に対して、しばしばそう感じていることも事実だった。通常の理解力はあるはずなのに、同じ間違いを繰り返し、あるいは考えれば分かることをあらかじめ考えもしない人間が多すぎる。同情など、する気にはなれない。
少なくとも、彼女は負の側面を相当正確に把握している。だが、社会人としての立場上、それを認めるわけにはいかなかった。良識のある人間を演じるというのは、色々と難しい。こう見えて、大の職場は要求される水準が高いのだ。
「そうですか。なら少し、お話を変えましょう」
物腰は丁寧であっても実際は傍若無人だと思われた彼女が、このとき譲歩した。身構えたのを察したのだろう。
「大様のこと、おうかがいしてよろしいでしょうか。礼儀を申せばわたくしから詳しくお話しすべきとは承知しておりますが…」
ありすぎるくらい事情があって、長くなるに違いない。大は簡単にうなずいた。
「別に構わないですけれど、何をお話しすればいいんです? 繰り返しますけど私は面白みのない男ですし、どうもあなたはその前から色々とご存知のようですが」
「大様ご自身がどうお感じになっていらっしゃるのか、それをお聞きしたいのです」
教えなくともいろいろ知っていることについては、否定しなかった。軽く首を傾げてから、大は口を開く。
「それもつまらないと思いますけどね。姓名は田中大。年齢は二十代後半。職業はサラリーマン。趣味は特になし。いや、強いて言えば飲酒かな? 出身地は東京。星座はおとめ座で、血液型はB。…あと何か、お知りになりたいことがあればどうぞ」
「やはり興味深いお方ですわ。本当にご自分のことについては投げやりでいらっしゃるのですね。誤魔化すおつもりがないのなら、ご自分のお歳くらいは無意識に正確におっしゃるものです」
その後翡翠は、落ち着いた様子で残る点についても次々と指摘した。
職業サラリーマンというのも大雑把に過ぎ、仕事に対する感覚がまるで伝わってこない。誇りに思っているのなら会社名だけでなく具体的にどのような仕事をしているかを語るはずだし、逆に後ろ暗い所があるならそもそも話題にすることを避けただろう。
そして星座と血液型を教えたのは、大にとって星占いや血液型占いが下らないものでしかないからだ。自分にとっては価値のない情報だが、社会的には話題つなぎになるので便利である。
「投げやりな人間なんて珍しくもないと思いますけど」
「投げやりなだけなら、おっしゃる通りですわね。ただ、単にそのような方は生活や態度が乱れるものです。しかし大様はむしろ、お知恵の働きぶりもお話しぶりも、緻密でいらっしゃいますわ」
「それはどうも」
苦味がまだ混ざってはいたが、大は笑った。褒められたのが嬉しかったわけではない。大自身、相手に興味を覚えたのだ。行動は突拍子もないが、十分に知的で、感性も個性的だと見える。外見の年齢に似合わず会話が楽しめそうだ。少なくとも、不幸話あるいは自慢話を滔々と語るような輩よりははるかに面白い。
「さて、わたくしからは更におうかがいしたいことは、今の所ございません。今度はわたくしからお話をさせていただいて、よろしいでしょうか。どうやらある程度、聞いていただける姿勢に変わられたようですし」
「うかがいましょう」
酒の入ったグラスを脇に避けて、本格的に聞く姿勢を見せる。氷の音が静まるのを見届けてから、翡翠は口を開いた。
「わたくし、悪魔ですの」
大はぴくりと眉を動かしたが、それ以上の反応は避けた。
来るならば「神」や「天使」、あるいはそれに類するものだと思っていた。大自身信仰心はかけらも持ち合わせてはいない。しかし不可解な能力に加えて美貌と年齢に似合わない知性を兼ね備え、さらに「幸せ」を語ろうという人間が、そう自称するのは決して不自然ではないとの判断である。何しろ彼女はもちろん自分と比較してもはるかに劣る愚物でも、時に平気で文字通り神をも恐れぬ僭称をするものだ。
しかし、「悪魔」とは…。何がやりたいのかまるで分からない。ただ、世の中には「悪魔教」なるものもあるそうだし、それを信仰するのも自由だと大は思っている。
「悪魔と言うとあの、魂を渡す代わりに願いを叶えてくれるというあれですか」
「『ファウスト』におけるメフィストフェレスですわね。人間の方々と同様わたくしどもにも色々なものがおりますので全てそうとは申せませんが、広い意味での同族とは言えましょう」
少なくとも自分は、魂を取りに来たのではない。翡翠は言外にそう表して、大に安心するよう促した。
「あとは、悪夢を見せたり、アダムとイブを誘惑してみたり、それから寝ている人間と…おっと、失礼。お忘れください」
思いつく順に悪魔の所業を並べようとして、やめる。理由は、最後に挙げようとしたのが女性や子供との話題にするには適切でない悪魔だったからだ。寝ている人間と交わるという。相手が女性だったらセクハラだし、子供なら教育に悪すぎる。そして翡翠は少なくとも外見上、その双方に該当しているように見えた。見てくれだけで測れない存在だとは承知しているが、そんな彼女に品のない言葉を吐く自分という光景を想像してしまうと、まず自分自身が気持ち悪いのだ。
しかし、翡翠は眉をひそめも、理解できないと言った顔もしなかった。そろそろ「例の」と形容したくなるにこやかさを保って応じる。
「あら、わたくしは気にしませんわ。淫魔にも大勢のお友達がおりますもの。中々楽しい娘達でしてよ。お望みでしたらご紹介いたします。わたくしは殿方ではないので分かりかねますが、毎晩、時には夜も昼もなく楽しい思いができて、何でも病みつきになるとか」
配慮が、完全に台無しである。これは本当に悪魔かもしれないという感想が、大の頭をよぎった。
「せっかくですが、遠慮しておきます」
病み付きになった挙句、精力を絞りつくされて死んでしまうこともあるという話だ。つまりは地獄の快楽である。それこそ理想、などという男もいるが、大としてはぞっとしない話だ。そこで現実に起こるかどうかを判断する前にすげなく拒絶したのだが、翡翠はむしろ目を輝かせた。
「あらあら。これは失礼を致しました。男淫魔の方がお好みですか。お友達にはおりませんが、ご安心ください。つてを頼れば美少年でも肉体派でも、前でも後ろでも、きっとお好みの者がみつかるかと」
「いらんわ!」
ニュアンスが伝わっていなかったようなので、今度は情け容赦なくツッコミを入れる。相手に未知の能力がなければ、軽くではあったが裏拳を入れていた所だ。また、手元にハリセンがあったなら迷わずそれでぶちのめしていただろう。
ホモセクシャルとなれば、ぞっとしない以前に気持ちが悪い。その趣味の人を非難するつもりはないが、自分として体験するのはごめんである。
しかし翡翠には悪びれた様子もなく、口に手を当てて笑った。
「冗談です。ご無礼をお許しください。大様のご趣味がいわゆる『ノーマル』であることは、拝見すれば分かります」
「ほう」
気分を害しているので、大は最低限の相槌で済ませた。一応、声にあわせて驚いたような顔はしている。態勢を立て直して愛想を良くするにしても、多少の時間は必要だ。
しかし、翡翠はやはり、彼の理解の範疇を超えた存在だった。視線を泳がせたかと思えば、一見するとあらぬ方へと固定する。方向は、部屋の隅だった。収納器具が無造作に置かれている。それを眺めながら、何事かとつぶやき始めた。
「女子大生秘密の…ナースの桃色…巨乳ギャル真夏の…制服コレクション特選…金髪ロシア娘…」
「だああああああああっ!」
他の人間が聞けば、何やら分からない内容だったはずだ。しかし大は、ばたばたと立ち上がって、翡翠の視線をさえぎる。彼女は今日始めて苦笑して、小さく首を振った。
「そんなことをなさっても意味がないと、大様はもうご存知のはずです。わたくしは、光の当たっていない物も見ることができます」
翡翠が言い当てたのは収納棚の中、もちろん開けなければ見えない位置にある、DVDのタイトルの一部だった。見えないようにしてあるのだから当然、性質としては成人男性向けという奴である。
「分かった、分かりましたから! そっちは見ないで下さい、お願いです」
既にこの時点で、大の息は切れかかっている。翡翠は目を伏せた。
「まあ…重ね重ね、失礼を致しました。申し訳ございません。そこまでお気に障るとは、考えもしていなかったものですから」
静かに、深く、頭を下げる。意外なほど素直な謝罪だったが、大はそれをそのまま受け取ることができなかった。無言を保ちつつ、元の位置に戻る。そして、言葉を発しないまま、先程までは避けていたグラスに口をつけた。
「有体に申し上げますと、あなた様なればこそ、男性であればそのような欲望はあって当然、そう冷然とお認めになると考えたのですが…」
心底反省しているのか、あるいはそれを演じているのか、ともかくも翡翠はしおらしい様子だ。大はアルコールによってまた熱くなった息を、横へむけて吐き出した。少なくとも、相手に対して直接吹きかけるような無礼な真似をしない程度の理性は残っている。
「私もそういう、言ってみればクールな人間になりたいとは思っていますがね。現実はそううまくいきません。自分の弱さに恐れおののいて、その弱さを認めて諦観することすらできずにもがき苦しんで。大概の人間なんて、そんなものじゃないですかね」
「そうかもしれません。ただ、大様のような正しい認識をお持ちでいらっしゃる方は、限られているのではありませんか。自分が無益にもがいていることすら分からず、何故そうしているのかなど無論知るはずもなく溺れてゆく、それこそが大概の人の姿なのではないでしょうか。もちろん、わたくしは人様を大様ほど多くは存じ上げておりませんので、これはあくまで推測ですが」
じっと、目を見据えて、翡翠は語る。大はもう一度、息を吐いた。
「失礼しました。酒のついでに少々口が過ぎたようです」
酒のせいにして、必要な分だけ事実をなかったことにしてしまう。酒を飲ませてもらえない翡翠が見かけ通りの子供だったなら、「大人は汚い」などとありきたりな感想を抱いたことだろう。
「お気になさらず。繰り返しますが、わたくしにも至らぬ点がございました」
しかし彼女は、沈着に応じてから話を戻した。
「わたくしは、悪魔です。神と争い、悪徳という悪徳を悦ぶもの達の一員でございます。ただ、わたくしどもについて言われていることの多くが事実ではないとは、ご承知置きいただければと存じます」
大はうなずいて、その上で聞くことにした。
「『神を試してはならない』そんなことを言っていた『偉い人』がいるそうです」
「試してはならない」という先程の言葉の意味を、大はこのときはっきり思い出していた。聖書の一節である。「お前が本当に神の子ならそこから飛び降りてみるがいい、神は助けてくれるはずだ」その悪魔のささやきに対して、キリストがこう反論したのだ。
何の断りもなしに引用して当然だ。聖書は世界で最も多く出版されている書物である。少なくとも大が思いつく限りの、あらゆる言語に翻訳されている。キリスト教圏であれば、それを知らないとなると軽蔑されるを通り越して哀れまれるだろう。
そして彼女は、笑った。恐らく彼女自身にとっては無表情と同義であろうにこにことした顔とも、時折見せる本当に楽しそうな顔とも違う。低劣なものを目の当たりにしたときにこぼれる、紛れもない嘲笑だった。
「下らないですわね」
その顔で、断言する。表情を消して、ただ目だけで大は続きを促した。
「真にそして唯一、最も強大な存在なら、試されるに任せればよいのです。挑戦する不遜な存在を叩き潰すも良し、慈悲深く許すも良し、まさに生殺与奪。その程度ができなくて、何のための最強でしょう」
なるほど。大はこのときまず、そう思った。翡翠の言葉そのものに対してではない。むしろその、全く逆だ。
彼女の言葉にも、一応理屈がないわけではない。しかし極端なその言い草を全て認めれば、争いが絶えなくなる。その意味では「試してはならない」という制約にも一定の効用があるようだ。停滞を伴いはするだろうが、その方が平和である。
何やら、必要以上に冷静になってしまった大だった。おかしい。これだけ飲んだはずなのだから、まだ十分酔っ払っているはずなのだが。そんなことを、酒瓶を非難がましく眺めながら考える。
しかし、翡翠はその様子に気づいていなかった。一貫して、優れていると言うより奇怪な洞察力を発揮していた彼女に初めてほころびが生じていると、大には分かる。眺めている彼に構わず、立ち上がりつつ身振りも交えて、熱弁をふるっていた。大自身に霊感の類は一切ないのだが、吹き上がるオーラが見えるようだ。
「いいえ、むしろ強者ならば己に挑むものを倒して、ねじ伏せて、叩き潰して…屍山を踏み分け血河を渡り切って、それこそ『漢(おとこ)』の生き様ではありませんか? なればこそ、己を磨くべく戦って戦って戦い抜いて、そんな『漢』を育てるのではありませんか?」
この人、やっぱりおかしい…。
まあ、自称を信じるならそもそも翡翠は「人」ではないのだが。大は飲む気にもならず、グラスを回した。氷がぶつかり合って位置を変え、涼しげな音を立てる。
「少しだけ、分かった気がします」
「お分かりいただけましたか」
満足そうにしながら、翡翠は座り直す。一応、大はすまなさそうな顔をした。
「一応性別は男ですけれど私は小市民ですので、『漢乃美学』はあんまり。ただ、あなた方がどういう存在か、その一端は理解できたようです」
「それは?」
彼女は少し、試すような視線を向けた。
「服従よりは叛逆を、妥協よりは闘争を、理性よりは熱狂を、沈黙よりは絶叫を、節制よりは享楽を、秩序よりは混沌を、それから…安寧よりは挑戦を選ぶ。それがあなたの言う、『悪魔』なのではありませんか」
別に「悪魔」の存在を信じ始めた訳ではない。ただ、彼女が育ったのはそのような環境だとは推測ができた。そして彼女は、花が開くように顔をほころばせた。
「やはり、おうかがいしてようございましたわ。わたくしどもの傾向を、初対面でそこまで言い当てられる方など、他にはまずいらっしゃらないでしょう」
大自身は、それほど難しく考えたつもりはない。「悪魔」というフレーズに惑わされず冷静に観察し、また彼女の語っている内容から感じたことを伝えただけである。そこで、いい気にならずに質問する。
「分からないのは、そこです。そんなあなたが何故、ここへいらっしゃったのか」
そもそも本質的に安寧を好み、そのための節制を心がけ、そして妥協を恥じない性分だ。仕事については、建前として理性的であることが必要とされ、その手段として職場の秩序を守って上司に服従することを求められている。公私共に、彼女でなくとも面白くない人間であることは間違いない。確か始めに「幸せについて語らう」などと言っていたが、価値観が違いすぎる以上接していても無益だ。それが分からないほど馬鹿ではない、むしろ知的には優れているはずだ。感性がおかしいのは確かだが、それと知性とは別の問題である。
翡翠は軽く苦笑して、うなずいた。
「正直に申し上げてわたくしも、大様に何か面白いとか、興奮するとか、そういったことは求めておりません」
自覚はあっても、あるいはあるからこそ、面と向かって言われると腹が立つものである。大は黙って、グラスに口をつけた。
それを承知で、敢えて翡翠はそのまま続けた。下手に言い訳をするよりも流してしまったほうが後腐れがないと分かっているし、なによりもこの後が大事な話だからだ。
「ただ、これからわたくしが致しますことをごらんいただいて、評価と、助言をしていただきたいのです。その方にとって良いか否かを、教えていただければと存じます」
大はその言葉の意味を考えながら、確認した。
「それが、『幸せについて語らう』ということですか?」
「はい」
嘘はない、ように見える。まあ、明らかにどこかがおかしい人間、いや自称悪魔の言動だから、外見だけで判断するのは危険極まるのも確かだ。
少し迷った末、大はとりあえずその言葉を信用して話を続けることにした。言っていることにある程度の一貫性がある。精神面での病気の特徴である、支離滅裂さやそれに近い方向性の揺らぎは感じられない。
「敢えて先入観から申しますが、悪魔の仕事って、人を幸せにすることでしたっけ?」
「違いますわね。もっとも、逆に不幸にすることがお仕事でもないのですけれど。それはさておき、このたびわたくしが参りましたのは、あくまで趣味でございます」
「人助けが趣味、言ってみればボランティアですか」
やや懐疑的に言ってみる。風説と実態とが異なる以上、悪魔にも色々な人間、いや悪魔がいる。翡翠がそう主張するのなら、大としてはとりあえず否定する材料を持ち合わせていない。ただ、彼女の言動からは、単に奉仕することが好きという善良さを感じ取るのは難しかった。むしろかなり、ゆがんでいるはずだ。
彼女は少し考えてから、軽くうなずいた。
「そうお考えいただいて構いませんわ」
何か隠しているな…正直な所そう思ったが、追及はしないことにした。裏づけもなしに白状するような、生易しい相手とも思えない。とりあえず、別の疑問をぶつけてみる。
「しかし何故、わざわざ人の意見など聞かなければならないのです? 思うとおりになされば良いではありませんか」
ボランティアとはそういうものである。自分の頭で考えなければ、まず自分自身にとって意味がない。指図を受けたのでは、善意の表現ではなくただの仕事である。それに、相手のことをきちんと考えていなければ、相手のためにもならない。
「わたくしも始めは、そう考えておりました。しかし何分にも悪魔ですので、試みても中々うまくいかないのです。そこでどなたかのご意見をお伺いしようかと思いまして」
もどかしさが表情からひしひしと伝わってくる。それについては嘘がないようだ。
なるほど。自分より前に、接した人間がいるということか。そして失敗したのは、分かる気がする。やる気はあるのだろうが、この傍若無人さを反省しなければ致命的だ。それに短気な性分のようだ。結果を急ぐのも、奉仕の際には害になりやすいだろう。
「ほう。それで、相談相手を何故私に? 私はむしろ他人の幸不幸には鈍感な方ですし、自分自身は別に不幸のどん底でもないですけど、取り立てて幸福だというわけでもありません」
「まさに、そこなのです。幸福でも不幸でもない、客観的に判断ができる方を、わたくしは探しておりました。もちろん、お知恵も優れていらっしゃらなければ意味がありません。これでも中々苦労を致しまししてよ。頭が良いとどうしても、幸福になろうと努力するか、逆に考えすぎで自ら不幸を背負い込まれる方が多いので」
満足そうに、翡翠は大を眺めやった。
しかし、大自身としては良策だと思えない。「幸せ」などというものはそのように客観的に測定、判断できるものではないはずだ。その対極、人間の主観そのものである。
ただ、そのことをそのまま教える気にはならなかった。相手に対して悪意があるわけではない。無駄だと判断したのである。彼女が聞いただけで理解できるのなら、そもそもここまではき違えた突拍子もない行動には出ないだろう。外見の年齢以上に、ひどく幼い部分があるようだ。
「お話は、良く分かりました。ただ、正直に申し上げて協力する気にはなれません。私自身は別に、他人を幸せにしようとも思ってはおりませんので」
まず、知恵を貸すという前提から否定してみる。この程度では相手も引き下がらないと分かっているが、少なくとも態度ははっきりさせておくべきだろう。その気がないのは間違いのない事実だ。
「もちろんただでとは申しません。お礼なら、十分に致します」
「例えば?」
翡翠は軽く、部屋を見渡した。
「今お付き合いしている女性は、いらっしゃらないようですわね」
「失礼ですよ、それは。事実なだけに」
怒っているのではなく、むしろ冷静に指摘する。女の影、あるいは匂いがないことは確かだ。そして彼女が何か提案する前に釘を刺しておく。女をあてがうというのは、典型的な悪魔の行動だ。
「繰り返しますけれど、お友達を紹介していただくというお話はお断りしますよ」
もし本当にいるとしたらもちろん怖いし、逆に自分は淫魔だと信じ込んでいる人間がいるとしたら、それはそれである意味怖い。いずれにせよお付き合いはごめんである。
「どなたかお好みの方、あるいは行きずりの方でも構いません。わたくしの…いえ、大様の思いのままにできますわ」
にこやかに、悪魔らしく、怖ろしいことを言う。大は小さく、首を振った。
「別に善人を気取るわけじゃないですけど、そこまで人に迷惑をかけるのは気持ちが悪いですよ。たとえ後で、法的にはなんらの罪にも問われない保障があったとしてもね」
「それでしたら、こんな方法もございますわ」
やや強引なセールスレディ、と言った様子で続けざまに提案をする。ただ、今度は口で説明するのではなく、指を鳴らした。滑らかそうな指先だが、意外なほど乾いた良い音がする。
どこかに誰かを控えさせているのだろうか。そう考えて視線を逸らす間さえなかった。「それ」はその瞬間に起こり始めていた。
部屋の隅で何かがうごめく。始め赤黒い粘液のようなものだったそれは、脈動を繰り返しながら大きくなり、そして形を変えていった。突起が五つ、ばらばらに生じていたもののうち、一つは丸くなり、残る四つはずるずると延びてゆく。それとともに、色も変わっていた。次第に白っぽくなっている。
大はただ、あんぐりと口をあけて、その光景を眺めていた。他には何も思いつかない。明らかに、手品やトリックの類ではなかった。幻覚を見ているという可能性を除けば、物理法則に反している。この部屋には、そんな大きなものを造る材料がないはずなのだ。
「いかがでしょう?」
やがて翡翠は、満足そうに自分のしたことの仕上がりを眺めた。実際、賞賛に値する出来栄えだと、多くの人間が認めたに違いない。
のびやかな四肢を白い肌が覆っている。豊かで長い髪は、安っぽい蛍光灯の光の下でさえ、十分に艶やかだった。それ以上のことは、とっさに判断がつかない。
「人…間…?」
ようやく、どうにか口を開く。翡翠は微笑んだ。
「今この場でわたくしが創りました、肉人形でございますわ。ですからどなた様にもご迷惑はおかけしておりません。安心して、お使いいただけます。知性と申せるようなものは持ち合わせておりませんが、『実用』に耐える程度には動けましてよ」
女だった。少なくとも、そして間違いなく、そう見える。それもとびきりの、翡翠にも劣らない美しさだ。ただ、体形は大きく違う。彼女と異なり、この「人形」は実にグラマラスだった。大自身としては、はっきり言えばこちらの方が好みである。
そして全てがはっきりと見て取れる、つまりは裸だった。胸がかすかに動いており、呼吸をしていると分かる。
「さあ、ご主人様にご挨拶なさい」
そしてそう声をかけられると「人形」が、ゆっくりと目を開けた。造りそのものは紛れもなく生きている人間のそれだったが、意志は感じられない。そしてそのまま、裸の自分を恥らうでもなく、垂らすように頭を下げた。
「後はお命じになるだけ。ささやかながら、お近づきのしるしにどうぞ」
ささやくように、翡翠は声を落とす。これが誘惑と言うのだな、と分かった。
一回、二回、と深呼吸して、とりあえず事態を受け入れるべく心を落ち着かせる。悪魔だ。間違いない。常識にとらわれ、深刻に考えなかった今までの自分を呪いたくなる。現にそうしなかったのは、その呪いも恐らく悪魔の領分だと気がついたからだ。
「ご丁寧にどうも、と申し上げたい所ではありますが、受け取れません。正直に言って、何から造られたか分からないものですから、気味が悪くて触る気にもなりませんよ」
相手が信じられない能力を持った、それだけに危険な存在であることは承知している。しかしだからこそ、可能な限り係わり合いを避けるべきだ。迂闊に誘いに乗ったら、その後どんな目に遭うか分からない。
「あら…そうはおっしゃいますが、普通の生身の女性でも、どこで何をお食べになったとか、何をお考えなのかとか、分かりませんわよ。それにいつどこで、他の男のものになったかも分かりませんし。その点この子の方が、材料はわたくしの魔力そのものですすから物理的には不純物のない、もちろん使い古されてもいない、きれいなものですわよ。それに中身も大様に従うことだけが能力ですから、むしろ純粋ですわ」
翡翠の指が、つっと起伏豊かな肢体を撫でる。大は薄く、笑った。
「私は別に今、普通の女性ならば気味が悪くないだなんて、一言も言っていないじゃないですか」
ふわり、と翡翠の黒髪が揺れた。彼女は目を伏せて、しばらくそのままでいた。それから、軽く指先で触れて落ち着かせる。
「わたくしが考えていた以上に、深い『闇』を巣食わせていらっしゃるのですね」
大は答えず、チーズをつまみ、それから酒をすすった。
「片付けますわね」
翡翠は今度、自分で作ったという女の形をした何かの髪、あるいはそれにあたるように見える部分に、指を絡める。次の瞬間その人一人の体積が煙と化し、そして消えた。
「さて、困りましたわ。例えば金銀財宝とか、ありきたりなものならわたくしも都合をつけられるのですが。どうやら大様は、それにもさほど心惹かれていらっしゃらないようです」
生身の女一人、少なくともそう見えるものを、彼女はこの場で用意してのけたのだ。金銀財宝を出すなどむしろ児戯に等しいだろう。もちろんそれも詰まる所はまがい物かもしれないが、立ち回りさえ間違えなければ換金は容易であるはずだ。
大程度の知恵があれば、そのくらいのことは当然見越している。それを前提に、翡翠は話を煮詰めようとしていた。大も敢えて、制止しようとはしない。もちろん金銭欲の強い人間なら、話を戻してでも食いついてきたはずである。
「そうなると、不本意ではありますが…」
本当に短気だなあ、おい。内心そうつぶやきながら、大は肩をすくめた。
「脅迫ですか。その方が悪魔らしいと言えば悪魔らしいですし、私も気が楽ではありますがね」
「それで話が済むのでしたら、始めからそう致しておりますわ。お知恵を拝借したい以上、洗脳も意味がありませんし」
翡翠はため息をついた。深い憂いを帯びた顔は、それだけ見ていると一幅の絵画のようだ。
こいつ、支障がなければためらいなく実行するに違いない。さすがに大も白い目を隠さず、眺めやる。
そして彼女は、笑った。
「ただ、恥をさらして伏してお願いし、お慈悲にすがるだけですわ。だから気が進まなかったのです」
その態度のどの辺がどう恥らって、しかも伏しているというのだろう。敢えて口には出さず、しかし顔には大書きした大だった。しかし彼女は、それを完璧に無視してのけた。
「これ以上、失敗をしたくはないのです。ご助力をいただかなければ、わたくしはまた誤って人を傷つけてしまうかもしれません」
さも辛そうな顔で訴える。しかし、本当に自分の過ちを深刻に受け取っているのなら、手を引けばよいだけの話だ。
大はそのことに気づいていたが、指摘はしなかった。翡翠自身、分かっていてなお続けようとしているに違いない。良心はともかく、知性は十分にあるはずだ。止めろと言っても「嫌です」の一言で片付けられるだけだろう。
「誰か病院送りにでもしましたか? それとももう、墓の中ですか?」
念のため聞いてみると、やはり彼女は、悪びれずに答えた。
「お一人は、今も病床に。別の方は…確かここからさほど遠くない海の底に」
前者もかなりきついが、後者は洒落にならない。殺人死体遺棄という立派な犯罪だ。しかも、手を下したのは翡翠ではないだろう。彼女ならばわざわざ海まで棄てに行かなくとも死体、あるいは事件そのものをなかったことにしてしまえるはずだ。
犯行は、通常の物理的な手段を用いて死体を始末しなければならない人間によるものだろう。それも、発覚しないようやり遂げたとなると、その種の作業に慣れた凶悪な犯罪組織である可能性が高い。
「それは、ご愁傷様でしたね。しかし、私はあなたと違って、他人の不幸にも、それほど興味がないのです。お悔やみくらいは言いますけれど、本音としてはあなたがどこで誰を傷つけようと、知ったことではありませんよ」
ゆっくりと、しかし確実に発音する。翡翠は小さく、しかし何度かうなずいた。
「本当に、そうお考えなのでしたらわたくしから申し上げることはもう何もありません。難しいですけれど、他の方を探してみますわ」
翡翠はスポーツドリンクを、大はジンを、それぞれ一口飲んだ。
「私の負けですね。簡単に止められると分かっているのに見逃せるほど、根性が座っているわけでもありません」
そこまで冷徹にもなれない人間だ。それは既に、今までのやり取りの中でさらしてしまっている。そもそもそれを見透かして、彼女はここへやって来たのだろう。
そして翡翠は勝ち誇るでもなく、むしろ事務的に話を進めた。
「できる限りご迷惑はおかけしないと、お約束いたしますわ。お気づきのことがありましたら、何でもおっしゃってください」
「というかもう、あなたのように若すぎる女性が出入りしているだけでもかなり立場が危ないんですけれどね。ロリコンで援助交際でもしてるんじゃないかとか、周りに誤解されそうですよ」
例えば恋愛をしている、と言うには若すぎる。友人としても不自然な年齢差だ。
「むしろ堂々と、お知り合いやご近所の方にはご挨拶を申し上げたほうがよろしいでしょうね」
「とはいえ、悪魔ですなんて言えるはずもなく」
「両親を亡くして親類をたらい回しにされた末、他にあてもなく遠縁を頼ってお邪魔致しました。ご迷惑であるとは重々承知しておりますが、どうかお慈悲を賜りたく…」
いきなり、翡翠は目を潤ませ、肩をわななかせた。騙されてはいけない、と分かっている大でさえ、一瞬どきりとさせられる。説得力は、十分あるだろう。
「うーん…確かに。妹や従妹と言うにはあまりに似ていない、って、住み込むつもりですか?」
とりあえず現実的なことを考えようとして、その後方向性が狂っていることに気がついた。はかなげな演技を続けながら、翡翠がうなずく。
「これは、とんだご無礼を。申し上げていなかったでしょうか」
言ってない。絶対に、言ってない。白眼で眺めながら、大は現実的な問題を提起した。
「お互い、きついと思いますよ。この四畳半一間、限りなくワンルームに近い部屋で、どうやって二人寝泊りしようって言うんです」
ライティングとパソコンの兼用デスク、書棚、テレビとその台、箪笥と、家具はそれなりにある。残されたスペースは、かろうじて布団が一組敷ける程度だ。台所は風呂、トイレと玄関をつなぐ半ば廊下のようなものなので、寝場所としてはかなり厳しい。
だったら一緒の布団で…などと言い出したらとりあえず断固拒否する。大はそうやって身構えていたのだが、反応は予想外のものだった。
「ご心配には及びませんわ。わたくしも少しはこの国のことを学んでおりますから、人ならぬ者がお邪魔する際の作法は承知しております」
「はあ」
果たしてそんな作法があっただろうか。ちょっと真剣に考えてしまったのは、翡翠がそれこそ作法どおりに、押入れの前に膝をついて手をかけたからだった。まず引き手を使って少し開け、そこへ手を差し込んで真ん中まで動かし、反対側の手で最後まで開ききる。その所作も見事である。
「わたくしの寝床は、こちらです」
にっこりと、どこか得意げに笑って振り返る。大はしばらく、眉一つ動かさなかった。
ネタは例のアレだ。あまりに有名すぎて、名前を思い出すのもばかばかしい。原作漫画は最早神格化されつつある人の手によるものだし、アニメ化作品はテレビ放送が普及した以後の世代に属する日本人なら誰もが知っている。
しかし、状況があまりに違う。幼い頃に見ただけの記憶が正しければそれは、本来しまうための空間に無理やり布団を敷いただけのものだったはずだ。しかし今、そこには、王侯貴族が用いるような天蓋つきの豪奢な寝台が鎮座している。
そして大は、ぽつりとつぶやいた。
「…私の荷物は?」
そこにあったはずのものが、見当たらない。それゆえに真剣な問いかけだったが、翡翠は苦笑して応じた。
「予想以上に、利己的でいらっしゃいますわね。普通なら、そもそも入るはずのないものが入っていることに、驚かれるはずです」
安アパートの押入れよりも、天蓋つきの寝台の方が明らかに大きいのだ。幅、奥行き、高さ、三次元空間を構成する全ての要素において上回っているはずである。それが何故だか、そこに納まっていた。突き破っている様子はない。もしそうなら、外気か隣室または階上の空気が流れ込んでくるはずだ。
「いや、驚いてるんですよ、本当は。ただ、世界の仕組み以上に自分の所有物が心配だっていう自分自身のセンスに二度びっくりです」
手近にあった新聞広告を丸めて、そこへ放り込んでみる。別にどうなるでもなく、それは寝台の傍らに転がった。幻覚、あるいは人間にとって有害な何かという可能性は乏しいようだ。
「空間を少し、拡張してみましたの。本来あったものは、そのままこちらにございますわ」
翡翠は投げ込まれたものを拾い上げて、くずかごへ入れる。一応資源ごみだったかと反省しながらも、大はまず彼女が指し示した方向を覗き込んだ。もちろん、その前にまず手を入れてみて、問題がないであろうことを確かめている。
「ああ、なるほど」
確かに、そこにはそのまま大の荷物が積みあがっていた。脇の寝台と比較するのが情けないほどみすぼらしいのが泣けてくる。
「ちなみに、ついでですのでこの先にはわたくしの世界との通路を作っておきました。ご興味をお持ちでしたら先へ進んでいただいても構いません」
奥には扉がある。寝台に比べればやや地味だが、十分に重厚な造りだ。それ以上のものは、外観からは感じ取れない。ただ、「構わない」と言うその外に、「無断で開けばどうなるか、自分にも分からない」との意図は伝わってきた。
「何かちょっと、混ざってません?」
だから敢えて、違うことを言ってみる。確かに例のアレの寝床は押入れだったが、その世界との通路は別にあったはずだ。学習机の、椅子の真上の引き出しだったと思う。
翡翠は口を尖らせて、さらに気色ばんだ。
「だって、そちらにはそもそも引き出し自体がないではありませんか」
「ああ、そうでしたね。失礼しました」
別に自分が悪い訳ではない。だからこそ、いい加減にさっさと謝った。学習机ではなくパソコンデスクなので、椅子の上、体の正面に当たる位置にあるのはキーボード台である。一段上には通常の机としての書きものをするスペースもあるが、ほとんど使わない。相手にネット環境があるならEメール、なかったとしてもワープロで済ませる。
それにしても、今の翡翠の反応は本当に子供だ。外見よりもさらに下、年齢一桁レベルのように思える。元ネタも、考えてみればアニメとしてもやや低年齢層向けだ。
恐らく、本質的に自分の感情や欲望に正直なのだろう。その意味では幼児と変わりがない。子供は無邪気な天使、などという台詞を、大は改めて馬鹿馬鹿しいと感じた。単に度し難いに過ぎない、と思っている。
大はやや大きく、ため息をついた。
「ふう…とりあえず、大筋の話はついてしまいましたね。細かい話はまた明日にしませんか? そろそろ酔いが回っているので、難しいことはちょっと。それに私は明日も仕事で早起きをしなければなりませんので、申し訳ないですがあまり遅くまで話しこむわけにも行かないんですよ」
正確に言えば、疲れてしまった。アルコールは精神的な持久力も低下させているようだ。
十分な成果を得られたことに満足したのか、あるいは一応「できる限りご迷惑はおかけしない」と約束したことを守る殊勝さは持ち合わせているのか、翡翠は小さくうなずいてから大を見据えた。
「一つだけ、お約束をいただけますでしょうか。今度お手すきのお時間がありましたら、わたくしをどこか幸せ、あるいは不幸であふれている場所へ連れて行っていただきたいのです」
どうせ断ってもまた脅迫が始まるに違いない。大はやや投げやりに答えた。
「病院なんてどうです? 患者と言ったらまあ当然不幸ですけど、産科のある総合病院ならいわゆるおめでたもありますよ」
「病院なら、もうおうかがいしましたわ。今も病床にいらっしゃる方とお会いしたと、先程申し上げたはずです」
翡翠は顔を伏せた。それがその不幸な人物に対する同情の表れだとは、どうしても思えない。
「それなら…ああ、競馬場なんてどうです? 勝てば天国負ければ地獄。と、言っても、本物の地獄から来たあなたには意味のない例えですか」
今度もただの思い付きだ。しかし、翡翠はふっと顔を上げた。
「競馬? ただそのためだけに繁殖させ、徹底的に調教を施した馬を革の鞭で叩きに叩いて駆り立てる、あの競馬ですか?」
つぶらな瞳が、発火しそうなほどの熱を帯びて輝いている。迂闊だったか、と大は内心舌打ちした。ギャンブルは好き嫌いが分かれる。
「お気に召しませんか。でしたらそう…」
「いいえ、とんでもない! わたくし、一度是非、競馬を拝見したいと思っておりましたの」
珍しく、彼女が慌てていた。半ば詰め寄るようにして、身を乗り出している。念のため、大は確認することにした。どうも、認識にずれがあるような気がする。是非見たいと言うものを、何故先程のように悪しざまに評したのだろう。
「ちなみに、優秀な仔を作るために一定の近親交配はむしろ当たり前、脚を折ってしまうと名馬でも大概即薬殺、勝てない奴は屠殺されて馬刺しやさくら鍋に早変わりという、『あの』競馬です」
しかしまあ、自分も自分かと大はこの時点で思い直してしまった。これだけ言っておきながら、大自身は別に競馬を悪いなどとは思っていない。嫌っているなら、そもそも行ってみるかなどとは言わなかっただろう。
日本の法律では、いとこ同士であれば、一応は合法的に結婚ができる。だが、少なくとも競走馬の繁殖の常識からすると、このような「交配」は近すぎて危険だ。仔が遺伝的障害を持って生まれる可能性が高すぎると知られている。
脚を骨折した馬が即薬殺されるのは、その後の治療が難しいからだ。つまり、苦痛を長引かせないための安楽死である。馬という動物は四本足で常に立っているように体ができているので、一本でも折れると眠ることもできず、弱って死んでしまう。
そして、大が今食べているものも種類こそ違え、肉だから元は生きた動物だ。別に断りもなく近くのスーパーで鶏肉として売っていたから、人に食べられるためだけに生まれ育ったブロイラーだろう。走らされてから殺される馬と、肉と買い手がつけば即殺される鶏と、どちらがどうだと比べても意味はないだろう。
世の中、そういうものだと思う。色々なことがあるから、良い悪いを一々突き詰めて考えていてはきりがない。だから馬券を買えば肉も食べる。ついでに言えば馬肉も食べる。特に馬刺しは、酒のつまみに良いので好物だ。
「それですわ、それ。勝つために力と知恵の限りを尽くし、死と隣り合わせの恐怖を耐え忍び、そして一瞬のもと開放される。その全ての、何と美しいことでしょう。想像しただけでもぞくぞくとしますわ」
必要以上に物事を冷静に観察している大とは対照的に、翡翠は熱っぽく語った。半ば陶酔しているようでもある。そういえば、競馬のような勝負事は先程熱心だった「漢乃美学」に通じるものもあるのだろう。
どうも彼女にとっては絶好の、つまり大にとっては不安の大きい場所を、迂闊にも安易に口に出してしまったようだ。内心で肩をすくめながら、大はとりあえずまだ残っている食事と酒を片付けることにした。