だあくねす
第一章 悪魔、競馬場に行く。
第一話 悪魔と競馬の基礎知識 


登場人物(?)紹介へ


 恐らく「悪運強く」と形容すべきなのだろう。自称悪魔の翡翠が大の部屋を訪れた週の末に、開催されるレースがあった。それも、大の部屋から最も近い競馬場においてである。大の職場は完全週休二日なので、ちょうど良い機会だった。
「お天気が良くて、ようございましたわ」
 翡翠は目を細め、かぶっている帽子のつばを少し持ち上げて、空を見上げる。完全な単色の青を背景にまぶしい太陽だけが輝く、文句のつけようがない快晴だった。
 吸血鬼ではないので直射日光は平気らしい、と横を歩く大は思う。あの夜以来、彼女が日の出ているうちに外出するのは初めてだった。もっとも、敢えて詮索はしていないし、また大自身平日の日中は仕事に行っているから、情報源としてはあてにならないのだが。
 しかしもちろん、口に出したのは別のことだった。
「全くだね。歩きで来て正解だったろう?」
「ええ」
 設定からして不自然だという翡翠の意見を容れて、大は二日目から丁寧語を外している。実際大自身としても、少なくとも外見が子供の彼女相手にいつまでもその口調で接するというのは、やりにくかったのだ。一方の翡翠はそれが性分だとのことで、変わっていない。
 レースのある日は、近隣の複数の駅から競馬場まで無料の送迎バスが往復している。しかし大はそれを利用せず、最寄り駅から歩いていた。途中に公園があり、そこを通れば良い散歩になると知っていたのだ。ただ競馬場まで往復したのでは、せっかくの休日の外出としてあまりに芸がない。
 そもそも翡翠は、部屋から現地まで「一瞬で」行くことを当然のように提案していたのだが、大は丁重に断っていた。彼女自身はともかく、自分の体がどうなるか分かったものではない。その次に「飛んで」行くという話もあったのだが、これももちろん拒否した。高所恐怖症というほどではないが、好き好んでジェットコースターには乗らない人間である。スカイダイビング、などという趣味も無論ない。
 移動が面倒ならば、現地集合でも問題はない。自分は電車で行くから、そっちは好きにすればいい。大はそう応じたのだが、変な所で律儀なのか、翡翠は結局同行することを選んだ。電車賃も、子供料金ではあったがきちんと自分で払っている。日本円をどこで手に入れたのかについては、怖いので聞かないことにした。それ以前に財布を取り出した様子が見えなかったのだ。
「競馬場へは何度もいらっしゃっているのですね」
「まあね。でも久しぶりかな」
 最も熱心だったのは、大学生の頃だった。社会人になってからの方が一度に賭ける金は大きくなったが、あまり研究をしなくなった。毎日仕事で頭を使って、さらに勉強をするのが面倒になったのだ。
 ちなみに学生・生徒がいわゆる馬券、正確には勝馬投票券を購入することは法律で禁じられていた、とは当時から重々承知していた。そういえば、今度法律が改正されて学生か否かは問題でなくなると、何かで読んだ気がする。
「少し意外ですわ。大様はお堅い所がおありですから、賭け事はお嫌いか、少なくともわたくしを連れて行っては下さらないと思いましたが」
「何をおっしゃるかと思えば。競馬は畜産の振興、そして歳入にも貢献する、国や地方公共団体が提供する健全な娯楽ですよ。忌避する理由なんてどこにもありません」
 初対面の際酒を飲ませなかったことに対して、嫌味を言っているらしい。そう思った大は、半ばふざけて敢えて丁寧な口調に戻した。そうしてから、釘を刺しておくことも忘れない。
「でも、君が券を買うのは駄目だからね。法律で禁じられている」
 今度の法改正でも、未成年者は以前から変わらず購入不可のはずだ。条文を細かく読んだわけではないが、常識で考えて分かる話である。可ということになれば確実に、学生云々よりも大きなニュースになったはずだ。
 そもそも彼女に人間で言う年齢があるのか自体も微妙ではあるのだが、買おうとしても制止される容姿であることは確かである。まあ、自動販売機で売られているのでやってできないことはないのだが、それとこれとは別の問題だ。
「承知しております。それでご安心いただけるなら何度でも申し上げますが、ご迷惑はおかけいたしませんわ」
 相変わらずにこやかな翡翠だった。偽っているのではなく、そもそも券を買う気はないのだろう。単に見物ができればよいのか、あるいはまた別の思惑があるのかはまだ分からないが。
「ならいいよ。口うるさくて済まなかった」
「いえいえ。慎重なのは大様の良い所ですわ」
 自分は単に臆病なだけだ。大がそう思っているところへ、翡翠はさらに言葉を続けた。
「ただ、その慎重さと、賭け事をなさることとが、少し矛盾しているようにも思われます。競馬に関しても、むしろ含む所がおありのようなおっしゃりようでしたわ」
 慎重ならばそもそも、負けて賭け金を失う危険を伴うことなどしなければ良い。逆にどうせ賭けるなら、大胆にしなければ面白みがない。
 そして、心底競馬が好きならまずその魅力を訴えたはずだ。自分が関わっていない畜産や、まして財政などの建前論を持ち出すのは胡散臭い。そもそも田中大という人間は、政府のすることに全面的に賛成するほど純朴な人間ではないはずだ。
 大は歩き続けた。競馬場までは、まだもう少しある。
「人間だから多少の矛盾はつきものさ。細かいことは気が向いたら話すよ」
「お話相手でしたら、いつでも喜んで」
「それはどうも。あと、含む所があるように聞こえるのは悪い癖だね。単に一言多いだけだよ」
 普段、特に仕事をしているときなどは十分気をつけている。しかし翡翠に対しては取り繕う必要がないので、つい地が出てしまったようだ。本来は、どうしても欠点や矛盾点に気がついてしまう性分である。
「確かに。でしたらいっそ、もう二言三言付け加えられてはいかがですか。わたくしはとがめませんし、とがめるような方に漏らすことは決してありませんわ」
 面白い発想だ。さすがに悪魔だけあってねじくれている。そこで、大は話すことにした。
「競馬…いや、ギャンブル一般が良く思われない最大の理由は、中毒的にはまり込んで自分も他人も傷つける人間がいるからだ。しかし、ギャンブルだけが特別じゃない。人間の全て、そしてその娯楽の…いや、そのやることなすこと全てに、中毒になる可能性があるのさ」
「お酒や煙草、それから楽しいお薬などは良く知られていますが、他にもということですね」
 覚醒剤や麻薬のことを「楽しいお薬」と涼しい顔で形容しやがった。さすがに大は眉をひそめたが、構わず続けることにした。その種の「薬」は確かに使った瞬間は楽しいらしいが、後で怖ろしいことになるのを実際見たことがある、などとこの場で言っても無駄だろう。
「最近で有名なのは買い物、特にブランド品かな。人間の手は二本しかないのに、バカ高い鞄を十も二十も買って、気がつくと借金まみれになってる。携帯メールなんかも、埒もないのを延々やり取りしたりしてる。まあ、こっちは料金が安くなってるからそう簡単には生活が破綻したりはしないけれど。逆に原始的な所で言えば、特に危ないのが過食症だ。際限なく食べ続けて、その分吐いて、あっという間に体を壊す」
 翡翠は視線で、続きを促した。真っ当に受け取れば後に続くのには「だから程々が肝心」という人生訓だが、そうでないことを期待しているのだ。そしてそれは、外れていない。
「じゃあ、真面目に生きればいいかっていうとそうでもない。世間で真面目と言われるなんて、大概結局ただの仕事中毒だったりする訳だ。そうでなくとも真面目であればあるほどノイローゼやらストレス性疾患やらのリスクは高まる。この辺なんかは言ってみれば真面目中毒だな」
 そして大自身、決して不真面目な人間ではない。純粋な闇の色をした瞳の奥で、翡翠はそれを見て取っていた。彼なりの平穏な生活に乱入した自分に対してであっても、逃げたりいい加減にしたりせず、こうしてきちんと接している。生活習慣は至って堅実で、平日には毎朝決まった時間に出かけ、夜にはそれほど遅くない頃合に帰ってくる。表面的にだけ知っている人間の目には、むしろ堅物だと映っているかもしれない。
「結局人間なんてのは、砂を盛った所に突き刺した一本の棒か、元々怪しいバランスでできているおもちゃのようなものさ。遊び続けていればいつか、しかし確実にこける。確かにギャンブルは概してそれを揺さぶる幅が大きいけれど、いわゆる真面目な仕事だってぐらつかせる可能性があることに変わりはない」
「転びたくなければ、遊ぶのを止めるしかありませんか」
 翡翠はそう問いかけたが、大は大きく肩をすくめた。
「その手の遊びの場合、勝負から下りるのはつまり負けを認めたということさ。人生も大概それと同じでね。俺もそうだが、大概の人間は働かなければ生きていけない。逆に金が余っていても、それに任せてだらしない暮らしをしていればすぐ体を壊す」
 翡翠はわずかに目を細めた。漆黒のはずのその瞳が、うっすらと輝いているようだった。
「つまりどちらに向かおうと危険が潜んでいる以上、特定の害悪を回避しようとする努力すら空しいものでしかない。人間とはそういうものだ、ということですね」
「俺も含めてね」
 もう一度、そして今度は小さく肩をすくめた。
「素晴らしいですわ」
 翡翠がつぶやく。そこには地の底の溶岩のように静かな、しかし確かな熱があった。こういうときの彼女に対して一々力を入れては身が持たないので、大は投げやりに反応する。
「そう?」
「ええ。だって、誰にも救われないからこそ、このわたくしが幸せにして差し上げるのです。間違っておりますでしょうか」
 少しだけだが、大は真剣に考えた。
「論理の道筋は間違っていないと思う。ただ、その前提になってるのが俺の言うことだから、保障はできないぞ。実は俺みたいなただの人には分からないだけで、幸福になるかどうかはあらかじめ決められているのかも知れないし、そうでなくても確実に幸福になる方法があるのかも知れない」
 目の前にいるのは自称悪魔だ。大には見当もつかない超常の能力を有している。そうなると、全ての運命を決める存在、神がいても不思議ではない。翡翠は微笑んだ。
「わたくしにも、真実は分かりかねます。あるいはどなたもそれをご存知でない、そう疑ってもおります。だからこそ、自分にとって都合の良いお考えの方がそばにいてくださると、心強いのです」
「ふうん…」
 やはり彼女は美しい。言葉の響きの一つ一つも、耳に心地よい。恋愛の対象としては幼すぎる風貌だが、それだけに無警戒でいると下心なしで守ってやりたいとも思えてしまう。このように頼るようなそぶりを見せられると、特にそうだ。これは危険だな…と大はこのとき思った。
 
 わずかではあったが入場料を払って、大と翡翠は競馬場に入った。
「さて…別に俺なんかが一々言わなくても分かるんだろうけど、一応説明しようか。俺たちが入れるのは実際のレースを見ることができるスタンド、出走前の馬の様子が見られるパドック、現に金が動く馬券の売り場と払い戻しの窓口、それから飲食店なんかのその他の店だ」
 実際に競走馬が走るトラックなどは、もちろん立入禁止である。その旨釘を刺そうかとも思ったのだが、これは却って彼女を刺激する結果につながりかねないと考え直して止めていた。
「ご丁寧に、ありがとうございます。それで、大様はこれからどうなさるおつもりでしょう」
 すぐにでも好き勝手に動き出すかと思っていたのだが、その予想は外れていた。自分のそばにいた方が実害はないかもしれないと判断して、大は正直に話す。
「とりあえずパドックに行くよ。本来ならここへ来る前に競馬新聞をじっくり読んで何を買うか決めておくべきなんだが、サボっちゃったからね。まずどんな馬が出るのか見ておかないと」
 時間が全くなかったわけではない。前日は特に残業もせず帰宅したから、夜の間は十分な余裕があった。しかし大は、研究のために頭を使うよりも酒を飲むことを選んでいたのだ。帰宅途中に新聞を買うことさえしていない。熱心に金を賭ける気がなかったという、それだけのことである。
 今朝にしても遅くまで寝ており、起き出してからもまず洗濯物を片付けるなど家事を済ませてから外出している。部屋からここまでの移動の時間も含めた結果、この時点で既に正午近かった。この日開催される十二レースのうち、既に二つを逃している。第三レースはちょうど正午開始の予定だから、今急いでいないという時点でこちらも見送りがほぼ確定である。
「お馬さんをご覧になるのですね」
 翡翠の声が弾んでいる。大は前半の言い回しの幼さ、そしてその後尊敬語を使っているバランスの悪さにに苦笑した。
「『お馬さん』って…まあそうだけど。見たいならおいで。こっちの方がスタンドよりもずっと近くで見られるから」
 おいで、などという単語の選択も妙といえば妙だ。同世代かそれ以上に対しては明らかに失礼な言い草であるし、目下であってもある程度の年齢に達していれば不快がるに違いない。それは分かっていたはずなのだが自然と口をついて出てしまったし、彼女も悪い顔はしなかった。むしろ実に調子よく、応じている。
「はい、是非に。お供します」
「別に馬見に行くのに供はいらないんだけど…まあいいや、あっちだ」
 この競馬場に足を運ぶのは久しぶりだが、おおまかな位置に関する記憶はそう簡単になくならないし、パドックのような比較的大きい設備が移動する可能性はごく少ない。案内表示を確認するまでもなく、大は歩き出した。供、という言葉の通りに、翡翠はその斜め後ろについて行く。
 競馬場は広い。走るためだけに生まれ調教されたサラブレッドでも、ある程度の時間がかかる。まして徒歩ならばなおさらだ。その過程で、大はふと尋ねた。
「ああ、そう言えば。君さ、好きな数字は何?」
「あらー、何ですの、急に? 今の今まで気のないそぶりでいらっしゃったのに、好みをお聞きになって。これからわたくしを口説くおつもりですか」
 両手を胸の前で交差して、自分をかばうようなそぶりを見せる。大はすげなく応じた。
「いや、別に。そういう反応をされるなら聞きたくもないんだけど」
「あらあら。仕方がありませんわね。では申し上げますが、数字は大きければ大きいほど良いと思いますわ」
「む、そう来るか…。まあ、君らしいというか、君たちらしいのかも知れないな」
「何のお話でしょう」
 笑顔を保ってはいるが、さすがの翡翠も疑問には思っている。しかし大は、構わなかった。考え込んだような表情のまま畳み掛ける。
「いいからいいから。じゃあ次、好きな色は?」
「色ですか…。何でしょう。あまり考えたことがありませんね。綺麗なものなら何でも良いのです。特に好きなのは、きらきらとしたものですが」
「光り物? ああ、まあ、女の子はそうだよね。…いや、そうか、違う、もしかしてあっちか。それもありだよな…」
 ぶつぶつ言ったあげく一人で納得している。出自が出自なので大概のことでは驚かない彼女も、気持ち悪がって眉をひそめた。
「昨晩のお酒はもう抜けていらっしゃるはずですが、お加減でも?」
「ああ、ごめん、何でもない。忘れてくれ」
 大は苦笑して首を振った。挙動不審だという自覚はあるが、それでも説明する気はないらしい。ここまで理屈に合わない行動をする大は初めて見るので、翡翠は小首をかしげた。
「記憶力には自信があるので難しいご相談ですが、そうおっしゃるなら気にしないようにはいたしましょう。それでは別のことをおうかがいしたいのですが、よろしいですか」
「ああ。何だい?」
「あちらの方は何をなさってますの?」
 他人を指差すのは失礼だ、ということは分かっているらしく、視線でそれとなく示す。その先にいたのは、初老の男だった。バラックのような囲みの中に立ち、濁声で声高に喋っている。
「予想屋さんだね。今は宣伝のためにさわりだけ喋ってるけど、金を払ってくれる客には詳しい内容を書いたメモを渡すんだ」
「矛盾していませんか」
「なんで?」
 大はにやにや笑っている。彼自身も、彼女の言う「矛盾」に気づいてはいるのだ。ただ、論点を整理するために説明を求めている。
「予想が本当に正しければ、ご自分でそちらに賭ければ良いのです。わざわざ人様に教えるようなことをしなくても、お金は手に入ります。それをしないというのはその予想があてにならないと始めから認めるようなものですから、詐欺だとしても稚拙ですわ」
 良い儲け話などというものは大概胡散臭いものだ。そんなに利益が出るなら何故自分で投資しないのか、まずはその点を確認すべきである。それをしないで騙されるのは、騙される方が悪い。翡翠も大も、そう考えている部分は共通している。
「正論だな。競馬の仕組みは、簡単に言えば売り上げから諸経費その他を差し引いた後の金額を当たった人間で割る形になってる。だから当てる人間が多くなればなるほど、一人当たりの取り分は安くなる。その意味では確かに、完全に正確な予想であれば他人に教える利益は全くない。俺も恐らく、ああいう人は自分では買ってないと思うよ」
「では何故、商いとして成立しているのでしょう。見ればあの建物、ずいぶんと使い込まれているようですが」
「そうだね。予想を買う人間もさすがに馬鹿じゃないから、当たると限らないとは分かってるのさ。ただ、予想屋さんも専門家だから、素人の予想よりは勝率が高い…らしい。俺は買わないから分からないけどね。損失を少なくするために払う金なら、経済的には合理的な行動だよ。一種の保険だ。だから売ってる方も詐欺じゃない。まあ、賭け事自体非合理だと言えばそれまでなんだが」
 翡翠は少し考えてから、話の方向を変えた。
「どのくらい非合理なのですか」
「『どのくらい』って論理の極致である数値化と、『非合理』は本来相容れないんだが…まあ、実はその数字も、俺の解釈に基づいたもので良ければ調べれば分かる。つっても今手元にはないけどね」
「おおまかで構わないので、説明していただけますでしょうか」
 具体的な数値は、実の所さほど重要でない。肝心なことは、何がどう動いているかという大枠、そして自分自身がそれを知っているかどうかだ。そう考えているのを見通されたと悟って、大は隠さずに話した。
「そうだね。ここで動いている金の使い道としては、まず馬主や騎手のための賞金だ。それから、この広大な競馬場を維持管理するための経費、最後に胴元の取り分。俺が思いつく範囲で大きなものはこの三つだが、その他競馬というシステムを維持するためにはいくらでも金がかかる。俺たち馬券を買う人間に配当として戻ってくるのは、それらのために何割かを差し引いた後の『余り』だよ」
「全体としては、賭ける方々の損になるに決まっていますわね。そういう仕組みになっていなければ、そもそも競馬そのものができなくなってしまいますもの」
「そういうこと。でも騙されてるとか掠め取られてるとか、そういう風には考えない方がいい。要は『儲かるかもしれない』っていうスリルを楽しみに来たんであってね、損はその楽しみのために払った金だってことだよ。他の娯楽が単に金を払って終わりなのと同じことさ」
 にっこりと笑って、翡翠はうなずいた。大は肩をすくめる。
「そんなに面白い話じゃなかったと思うけど」
「正しい競馬の楽しみ方は、良く分かりましたわ。ただ、あたりを見渡せばほら、大様の涼しげなものとは明らかに異なる、どろどろとした欲望のオーラを持った方々がそこかしこに」
 翡翠はその華奢な体を、つま先を支点にして軽やかに一回転して見せた。大は乾いた笑いを返す。
「あはははははは。って、俺にはオーラなんて見えないけどね」 
 別に霊感などなくとも、見えるものはある。自分同様、ただ楽しみとしてきている人間ばかりではない。
 有名な歌の一説そのままに、ここで勝たねば明日はない、という様子が滲んでいる人間がいることも事実である。血走った目で競馬新聞を睨んでいる。
 なるほど、こういう人間がいるから面白がっているのか。納得した大は、釘を刺すことにした。
「ああ、そうだ。あらかじめ注意しておくけど、君の力でレースの中身をいじるようなことは止めた方がいい。別にずるをするななんてお説教をするつもりはないんだけどね」
 軽く身をかがめてささやく。不正行為云々以前に、相手が悪魔だと思っている、などということが回りに知れれば、まず始めに自分が恥をかくと思ったためだ。
 一方の翡翠は、特に気分を害するのでもなく聞き返す。
「ではどうしてでしょうか」
「ルールも監視も厳しいから。不審な点があれば肩入れをした馬が失格になるかもしれない。それじゃあ意味がないだろう」
 あるいは彼女なら想像も絶する方法を用いて、誤魔化しきれるかもしれない。ただ、大自身としても券を買う気があるので、かき回されるのは歓迎できなかった。
「そのような規制をかいくぐるというのにも興味はありますが、大様がそうおっしゃることですし、結果を変えるような真似は控えましょう」
 翡翠は微笑んで見せる。本当にそのつもりなのか、それともうわべだけ取り繕って何かやらかす気なのかは微妙な所だ、と大は考えた。それを安心させるつもりなのか何なのか、彼女は続ける。
「ただ、わたくしにはその結果が見えるのです。先程申し上げたようにオーラも見えますし、風の流れを感じ取ることもできます。予測が可能というよりは、特に意識しなくとも分かってしまいますの。恐らく先程の方よりも、ずっと正確でしょう」
 この内容には、恐らく嘘がない。面識など一切なかった彼の能力を、彼女はほぼ完全に見抜いていたのだ。勝負事であるから実力だけが全てではないが、それでも正確さはただの人間の比ではないだろう。
 それを理解したうえで、大は小さく首を振った。
「でも俺には、別に教えなくていいよ。そうやって君に頼ることが、俺の『幸せ』になるとは思えない」
「そうおっしゃるのではないかと思ってはおりましたが、残念ですわ」
 寂しそうに笑う。これ、第三者からすればどう見ても俺が悪役だ。大はそう考えてうんざりしていた。そこでとりあえず話題を変えることにする。
「さて、ついたよ。パドックだ…って、まだ次の馬が出てくるまでには少し時間があるだろうけれどね。せっかくだから、場所取りをしておこうか。どうせなら一番前で見たいだろ?」
「はい」
 元気良く答えてから、柵まで駆け寄っていく。肩をすくめながら、大は後を追った。
 やがて、次のレースの出走場たちが姿を現す。翡翠は小さな体で精一杯柵から身を乗り出し、いつもよりも高い声を上げていた。
「うわあ、うわあ…!」
「そんなにおどろくことかな。君はそう見えて物知りだし、故郷にも馬やそれらしいものはいるんじゃないかな」
 今の所詳しくは聞いていないのだが、彼女の故郷は「魔界」と呼ばれる地図にない場所のはずである。馬ぐらいいてもおかしくない。また、伝承を信じれば悪魔の中には馬の姿をとって現れる者もいるという。
「間近で拝見するのはやはり違いますし、故郷のそれとも別物ですわ。ほら、ご覧になってください。あの従順そうな目。細い脚。何と美しいことでしょう」
 基本的には人の目を見て話す彼女が、いまは恍惚とした様子でただ前を行き過ぎる馬を眺めている。これは危ないと判断して、大は早目に水を差しておくことにした。
「聞いた俺が悪かった。だからとりあえず黙っておいてくれ。見たいならいつまででも見ていていいし。君とはまた違って理由で馬が好きな人も、ここには多いんだ」
 どうも彼女には、偏った趣味があるような気がする。調教されるとか鞭で叩かれるとか、そういう側面も含めて馬を愛でているらしい。この際悪魔に人間のものさしを当てはめること自体意味がないのかもしれないが、要するにSM的な傾向があるようだ。
 それを大声で表明されたら、一緒にいる大としてはそれだけで強烈な羞恥プレイである。しかも、そこらじゅうにいる一般的な馬好きにとっては不快であるに違いない。楽しみのためにこうしてわざわざ競馬場に足を運んでいるのだから、本来負の側面に属することは言わないのが暗黙の了解である。
 土台賭けのための文字通りの駒なのだから、感情移入をしても意味がない。大自身はそうドライに考えているが、別の考えを持っている他人を敵に回す気もないのだ。
「そうですか。ではお言葉に甘えて、しばらくこうさせていただきます」
 一方の翡翠はそもそも大など眼中になし。認められたのを幸いに、飽きずに眺め続けていた。
 結局、二人がその場を離れたのはそのレースの全ての出走馬を見終えた後である。翡翠としてはその上余韻に浸っていたかったようだが、せっかく馬を見たのにそれで終わらせては意味がない。大はやや慌しく売り場に移動し、千円ほど馬券を買った。
 とは言え、その過程で券の仕組みをおおまかにではあったが翡翠に説明してやっている。真面目というよりせわしないだけだな、と、出走前の空き時間にふとそう思った。
 結果は惨敗。かすりもしなかった。まあそんなものだろう、と諦めはしているが、もちろん良い気持ちではない。
 そこで気分と流れを変えるため、昼食にすることにした。これまでならそこらの売店の軽食で済ませてしまっていたのだが、今日は連れもいることだし、少しゆっくりしたい。
 心当たりを思い出す課程で、大ははたと気づいた。そもそも彼女は、何を食べるのだろう。
「この期に及んで物凄く基本的なことを聞いて悪いんだけど…君、ものを食べるの?」
 他人に聞かれたら頭のおかしい人確定なので、当然小声である。人間であれば食事をしないはずがない。
 ただ、これはあくまで人間ならばの話だ。彼女は、という表現自体が怪しい、悪魔なのである。一応共同生活らしいことはしているが、食事を与えたことがないのはもちろん、彼女が何かを食べている場面自体見たことがない。水分を摂取しているのも、知っている範囲ではただ一度きり、初対面の際に大が飲み物を出してやったときだけだ。大自身昼間は仕事で部屋を空けているし、深夜は寝ているので目を盗んで済ませることも不可能ではないが、不自然であることは間違いない。
「いただきますわ。ただ、そうしなくても支障はありません」
 生きるために必要ではないが、味わうことはできるらしい。飲み物の際にはきちんと感想を言っていた。
「そう。じゃあレストランへ行こう。せっかくおごろうと思ってるのに、いくら何でも売店のジャンクフードじゃ悪いしね。その代わり次のレースは見送りになるけれど」
「あらあら。お気遣いは大変嬉しいのですが、わたくしにも多少の持ち合わせはありましてよ」
 にこやかな表情、丁寧な物腰は変わっていない。だが、金銭という具体的な根拠を持ち出しているあたり、断り方としてはある程度強い。故なく他者の世話にはなろうとしないあたり、プライドが高いと見るべきだろう。
 一方の大は、肩をすくめながら苦笑した。
「悪いけど、今は折れてくれないかな。実態はともかく、君みたいに若すぎて見える連れに金を払わせるなんてことをしたら、特にこういう場では世間体が悪過ぎる。勝負事の世界だからね、立場に違いがあるなら、上の者が払うのが筋というものだよ」
 翡翠は少しだけ小首を傾げてから、尋ねた。
「『漢乃美学』ですか?」
「そうかもしれないね。俺自身は信奉者じゃないけど、場のしきたりが分からないほど傍若無人でもない」
「では遠慮なく。ご馳走になりますわ」
 華やかな笑みを浮かべて、彼女は軽く会釈した。大はもう一度、肩をすくめる。
「言い出しておいてなんだが、『ご馳走』なんて言えるほど高い店じゃないぞ」
 一般的なファミリーレストランと、ほぼ同じレベルの店である。今のところ勝っていないので贅沢はしづらいし、逆にやけ食いをするには早すぎる。
「そのお気持ちが大事なのですよ。さ、参りましょう」
「はいはい」
 先へ行きたがるのだが、とは言え道を知っているわけでもない。そんな翡翠に苦労しながら、大は目的のレストランまで歩いた。
 昼食時間直撃だったので、席に案内されるまで少し待たされてしまった。この分だと料理が出てくるのにも時間がかかるだろう。次どころか、その次まで見送りかもしれない。
 しかし大はもちろん、翡翠も慌てたり騒いだりはしていない。待つ間大は道すがら購入した競馬新聞を見て後のレースの検討に入っており、翡翠はモニターに映し出されるレースやパドックの様子を眺めて楽しんでいた。
 席についてメニューを見せられた翡翠は、まずあれこれと、はしゃぎ混じりに悩んだ。今時小学生でもファミレスぐらいでは喜ばないから、これはこれで微笑ましい。外見とは裏腹に狡猾とさえ言える部分がある反面、ひどく幼い部分もあるようだ。
 ただ、すぐさま笑えなくなる。時間をかけた挙句彼女がまず強く興味を示したのは、お子様ランチだった。もちろん、小学生以下限定の品である。一応彼女も高学年には見えるのだが、普通の少女であればとうに色気づいていておかしくない年齢でもあるから常識的にはまず頼まない。
 さすがにこれは厳しくたしなめて、最終的にはやや似通った感のあるハンバーグとミックスフライのセットにさせた。鉄板に乗った付け合せの野菜のほか、ライス、スープ、ドリンクもついた、体脂肪が気になる女性であればたじろかざるを得ない超高カロリーメニューである。食が細ければそもそも食べきれない。しかし彼女はそれを、気に留める様子さえなかった。
 一方大は、パスタにサラダとドリンクのセットをつけていた。比較的あっさりとしたメニューだが、彼女に気圧された訳でも財布が苦しくなった訳でもない。酒飲みなので、注意していないとすぐ太るためだ。昼食はいつも軽めである。
「でさ、俺はものの見事に大はずれだった訳だが、君はどうだった? それとも見るのに夢中で、勝ち負けは気にしてなかったかな」
 レースの観戦においても十分楽しんではいたが、特定の馬を応援している様子は見られなかった。
 彼女はやや強い笑顔を見せる。
「何もかもお見通しとはさすがに申せませんが、概ね思ったとおりでしたわ」
「そいつは凄い。スプリンター有利かステイヤー有利とか、レースには色々とあるから一概にどの馬が強いとは言いにくいんだが…それがさっき言ってた『風の流れを感じ取る』ってことかな」
 スプリンターとはスピードがあり短距離に強い馬のこと、ステイヤーとはスタミナがあり長距離に強い馬のことである。理屈で言えば、そのコースに最も適した能力の馬が勝つ。しかし勝負事がそれだけで片付けば予想に苦労はない。それに翡翠には、そのレースがどのようなものかという予備知識はなかったはずである。
「ええ。それさえ分かっていれば、これからのことにその相手が適しているかどうかも、ある程度知ることができます。もちろん、完全ではありませんので、それも予想が鈍る理由の一つではありましょう。わたくしとしては少々もどかしくはありますが」
 翡翠が贅沢な悩みを言う。そこで肩をすくめて見せた。
「それだけ分かれば十分だよ。さっきちらっと話したけど、勝つためには最大でも三位までを当てればいいし、その中でもやり方は色々ある。例えば、一頭だけ断トツに良さそうな馬がいたらどうするか、覚えてる?」
「単勝式、ですわね」
 一着ただ一頭のみを当てる、賭けとしては最も単純で分かりやすい方式のものだ。
「当たり。じゃあ次、強そうなのが二頭だけ、ただしどちらか甲乙つけがたい時は?」
「連勝複式でしょう」
 連勝、とは「続けて勝つ」という一般的な意味ではなく、競馬においては一着と二着を当てるという意味だ。複式、は着順が順不同で良いという意味である。つまり選んだ二頭が二着までに入っていれば、どちらが一着でも構わない。
「その通り。競馬ではこの買い方が一番一般的だな。じゃあ最後の質問。一着から三着まで、完璧に順位を当てる自信があるなら」
「三連勝単式ですわ」
 三連勝、も三回続けて勝つという意味ではなく、三着までを当てるということである。単式、というのは複式の反対語で、この場合には着順を正確に予想しなければならない。最も難しいが、それに比例して的中させた場合の配当金も高額に上る。最もギャンブルらしいとも言える方式だ。
「さすがに優秀だな。まだ他にもあるけれど、基本が理解できてるから復習する必要はなさそうだ。後は馬番と枠番の区別があるけど、君の場合は基本的に馬番だろうな。まあ、ケースによっては枠番に切り替えるのもありだが」
 馬番、とは文字通り出走馬一頭ごとにつけられる番号のことである。枠番は、複数の馬が入ることがあるグループ、つまり枠に対してつけられる番号のことだ。馬券はこのどちらかの番号で買うことになる。
 対象を特定しなければならないため馬番の方が難しいものの、その分倍率は高い。翡翠のように馬一頭一頭を見極めているのなら、馬番にすべきである。
「そうやってお聞きになるということは、お気持ちが変わりまして?」
 彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべるが、大はきっぱりと首を振った。
「食事が運ばれてくるまでのただの雑談だよ。興味本位で聞いただけで、利用しようと思ってはいないことに変わりはない」
「まあまあ。わたくしに興味を持っていただいただけでも前進ですわね。大様ったら、必要がない限りなにもお聞きにならないんですもの」
 何しろ本来は異界の住人である。それが押しかけ同居人と化している。根掘り葉掘り聞くのが、普通の反応だろう。そうと分かっていながら、大は話を微妙にずらした。
「前進してどこへ行く気だよ、君は」
「どこへ向かうにしても、留まるにしても、相互理解があった方が望ましいでしょう? わたくしにとってはもちろん、大様にとっても」
 諭すような笑顔と口調で、翡翠が切り返す。そもそも彼女がわざわざやって来さえしなければ理解の必要もなかったはずだが、それを跳ね除けられない時点で力関係として大が完全に負けている。大は苦すぎる茶でも飲むような顔で水に口をつけながら、買っておいた競馬新聞に目を落とした。


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