午後の恋人たち
T 月曜日は流血


 よくテレビドラマなどで人の頬を殴るシーンがあるが、あれは良くない。普通の人間の腕力ではそうやってもせいぜい歯の二、三本を折るのが精一杯だからだ。その程度で人間の戦闘力は失われない。それにもともと人間の手は殴打用の武器としては繊細に過ぎ、訓練をしていない者が使おうとするとかえって自分の手を痛める。だから凶器を使って、側頭部を殴る。これで一人、汚い路地に沈んだ。
「て、てめえ! そんなもん使って汚ねえぞ!」
 倒された者の仲間が目を血走らせて叫ぶ。倒した少年は特殊警棒を弄びながら鼻で笑った。
「おまえらにきれい汚いの概念があったとは驚きだな。じゃあ聞くが袋叩きやカツアゲは汚くないのか?」
 まだ立っている敵が三人もいる。正々堂々素手で戦おうなどという騎士道精神を発揮する余地はなかった。
「うるせえ!」
 言い負かされて頭に血の上った男が殴りかかった。男とは言っても特殊警棒を持っている少年と同年代である。しかし凶器を持った人間にうかつに殴りかかるなど自殺行為だ。喉仏のあたりに警棒が突き込まれて崩れ落ちる。これでしばらく呼吸困難を起こして動けない。あと二人。
 うち一人、髪の長い少年の手元にぎらりと光るものが現れた。雑居ビルの隙間からわずかに差し込む夕日に照らされたそれは、少し前にはやったバタフライ・ナイフだった。高校生にもなってそのようなおもちゃを持ち歩いて自慢する彼の神経が、警棒を持つ少年には笑止でならない。彼自身について言えば、特殊警棒はこのようなときのための純粋な護身用である。
「ぶっ殺すぞ」
 陳腐な脅し文句、そのようなことしか言えない相手のセンスに、少年は同情したくなった。しかしもちろんそんなことはしない。
「やってみろよ。そうなりゃ少年院行きだな。日本の警察は優秀だぜ。出てきたときには二十歳かそこらか? 大学にも行っていないし、働かなきゃな。もちろん殺人の前科がある奴を雇うところなんてめったにない。この就職難の時代に大変だぞ。ダンボールの家で暮らすか? それともチンピラにでもなってシンナーでも売るか? しかしやくざも不景気だぞ。親のすねをかじるって言ったって限度がある。しばらくはいいかもしれないが、気がついてみれば何の働き口もない中年男が残るだけだ。親が死んだらやっぱりダンボールハウスだな。真田守、年齢四五歳。住所、東京都新宿区歌舞伎町二丁目ダンボールハウス、か」
 ひどく生々しく、少年は相手の未来像を描写して見せた。これだけとっさに出てくるのなら話術を生かした仕事につけるかも知れない。しかしもちろん、言われた側、真田という名字の少年にそのような感銘を受ける能力はなかった。
「手塚、てめえ…」
 まだ若いのに額に血管が浮かんでいるのがはっきりと見える。激しい怒りと説明するまでもないが、しかし言われたことをおもんぱかって容易には動けない。もちろん自分が誰よりも可愛いのだ。
「この辺で手を打とうとは思わないか? お互い無駄な体力を使うだけだぜ。おまえらが無様に負けたことは学校の連中には言わないでやるよ。どうせ行く気もないんだし。どうだ仲原?」
 後ろに控えている髪を脱色した少年に、警棒を持った少年が声をかける。前者が仲原、後者が手塚と言う名前らしい。仲原は引きつった笑みを浮かべた。
「十万…いや百万で手を打ってやるよ」
「人の話を聞いてない奴だな。言ったはずだ、小遣いをもらってるだけだって。そんな額は自由にならないよ」
「月々十万ずつ払えばいいんだ」
 手塚は肩をすくめた。
「カツアゲのローンなんて聞いたこともないぜ。面白い奴だな」
「ローンじゃねえ。手前みたいな奴と友達で居てやる代金だよ」
「誰が友達だって? たまたまクラスが一緒になっただけだろう。友人を選べとは死んだ爺さんの遺言だよ。おまえらみたいな猿を誰が友人にしてやるか。身の程を知れ」
 手塚という少年、歳に似合わぬ沈着さを持っているがそれもそろそろ限界であった。これ以上下種の相手をしていると脳が沸騰しそうだ。ここはそろそろ片をつけたいので挑発している。自分から襲い掛からなかったのは隙を作らないためである。まだ相手は二人、しかも一人はナイフを持っている。慎重に慎重を期す必要があった。幸いなのはこの狭い路地が二人同時に襲い掛かる幅を持たないことだ。襲った側がこのようなところに手塚を追い込んだのだから、世話のない話である。
「この野郎…」
 真田の歯軋りが聞こえた。手塚は警棒を構え直す。しかしその直後、手塚の顔に動揺の影が走った。もう一人、三人目…いや五人目の人物がこの路地に入ってきたのだ。仲原も真田もそれを察して反射的に振り向く。六本の視線を集中された人物は、たじろきながらもこう言った。
「あ、あの…止めてください」
 この町ではあまり見かけない制服を着た少女だった。おろおろとした様子で、学生鞄を抱いている。
「何だてめえは! 手塚の女か」
 真田が声を荒げる。仲原は意外な成り行きに反応しきれていない。
「関係ない、ただの通りすがりだ。おいあんた、これは俺達の個人的な問題だ、悪いがどこかよそへ言ってくれないか?」
 手塚が慌てて言った。実際、彼としても初めて見る顔だったのだ。
 人間驚いたときには正直になるものである。手塚は口の達者なほうだが、驚きながらも嘘が口をついて出るとしたら、それは乱世の奸雄とでも言うべき偉材か、ある種の精神疾患の持ち主である。さすがにそこまでの人間ではない。
 立ち去るように言ったのは無関係の人間、しかも一見して華奢と分る少女を巻き込みたくなかったためだ。しかし彼女は戸惑うばかりで一向に動こうとしない。ここで立ち直った仲原が、手塚の口の達者さを過大評価した解釈をした。手塚が嘘をついており、突然現れた少女が彼の知人であると思ったのだ。
「いい所に来た!」
 仲原が彼女につかみかかる。その光景が、散々昂ぶっていた手塚の感情を完全に別次元に持っていってしまった。
「貴様は!」
 人間とっさに嘘をつくことは難しくとも襲い掛かることはできる。手塚はそれまでの冷静さをかなぐり捨てて、無謀にもナイフを持っている真田に体当たりを食らわせ、よろけた彼には目もくれずに仲原に飛び掛った。ちょうど少女を捕まえようとして後ろを向いていた仲原は避けようもなく首筋に特殊警防を食らって昏倒する。手塚は仲原に引きずられる形でよろけた少女を抱きとめ、そして振り向きざまに右手で棒をなぎ払った。まだよろけていた真田の頬骨が遠心力を乗せた一撃を受けて砕ける。鈍い音が響いた。
 これで四人、全員が這いつくばっていた。うめいている者が一人、後は声さえも出ていない。
「ハア、ハア、ハア、ハア…」
 獣じみた息をついて、手塚はそれを見下ろしていた。強暴な感覚が頭の中を駆け巡って離れそうにない。
「うっ…」
 かすかな苦痛の声が、その呪縛を破った。無様にのた打ち回っている男の声とは全く違う、どこか響きの良い声だった。手塚は自分が少女を抱きとめていることを思い出した。どうやら勢いに任せて手に力を入れすぎていたらしい。
「あっ、ごめん」
 慌てて左腕を離す。なぜかそのときになって、彼女のかすかなシャンプーの匂いがした。ようやく開放された少女は、一歩だけ下がった。初対面の人間同士としてはごく至近距離である。
 そして少年は言葉を失った。それは美しい少女だった。肌は純白、鼻筋がすっきりと通り、その下に桜色の可憐な唇が配されている。とがりもせず、かといって膨れてもいない輪郭をやや色の淡い柔らかそうな長い髪が縁取る。そして整いすぎた美人は時として冷たい印象を与えるものだが、この少女の長いまつげを有する目は外側がわずかに下がっていて優しそうに見える。何より美しいのはその瞳だ。宝石とたとえても足りないであろうそこには少年自身の姿が移っている…。

 そこまでまじまじと見てから、彼は慌てて二歩ばかり下がった。これでどうにか常識的な間合いである。どれほど長くぶしつけに眺めていたかも良く分らない。少なくとも相手が何度か瞬きしたように思う。慌てて目をそらしながら、少年は適当な言葉を捜した。
「な、何で入って来るんだよ、危ないだろ」
 妙にとがった声が出てしまった。自分自身が驚くほどで怒っているとしか聞こえない。少女は真に受けたようで、うつむいてしまった。
「それは…人に刃物を向けるのは良くないと思ったからです」
 辛うじてそう言っているのが聞こえる。少年は荒っぽくため息をついた。
「あのなあ、それで自分がそのナイフに刺されそうになるとは思わなかったのか?」
「…はい」
 少女は小さくなるばかりだ。少年はもう一度ため息をついた。
「馬鹿が。そうなったら犬死だろう。それとも死にたいのか?」
 今度は本気で怒っている。それがなぜかは、自分にも分からなかった。
「いえ…」
「もういい」
 冷たく言いながら落ちていた少女の学生鞄を拾う。もう他人と関わり合うのは嫌だった。鞄は女子高生のものにしては飾り気がない。
「ほら」
 埃を払って押し付ける。少女は少し驚きながらそれを受け取った。
「あ、ありがとうございます」
「じゃあな」
 相手の頭が上がり切らないうちにさっさと歩き出す。
「あ…」
 そんな声が聞こえたような気がしたが、完全に無視。足早に路地を出たところで少年は、そこに人がたかっていることに気がついた。後ろにいる少女よりも幾分か頭の良い人間が多いらしい。睨みつけるのも面倒で、彼はそのまま素通りした。人垣がばらけて行く。
「待って下さい」
 今度ははっきりとそう聞こえた。こうして声だけ聞いてみると透明感のある響きの良い物だ。しかし少年に反応はない。それに落ち着いて待ってはいられない状況になりつつあった。
 野次馬よりももう少し頭が良く、「善良な市民の義務」に熱心な人がいたらしい。明らかに交番勤務と見える警官が二人、少年が立ち去るのと別の方向からやってくるのが見えた。少年も傷害の現行犯で逮捕されるつもりはないし、正当防衛を主張するのも面倒だ。慌てて逃げると怪しまれるので平静を装って歩く事にした。しかし…。
「お願いです、待って下さい!」
 これで台無しである。彼女の足音が聞こえた。女の子らしい大して速そうでもないものだ。待つ義理などないのだが、しかし彼は行動の変更を余儀なくされた。彼女が現場から慌てて出て行ったとなると、犯人ではないにせよ関係者と見られてしまう。振り返ってみると、警官達の視線が彼女に向いているようだった。
「この馬鹿が、来い!」
 呼びかけるために伸ばされていた手を強引につかんで走り出す。警官が追ってくるにはまだ距離があるし、人垣の名残が傷害物になる。それに何よりまず彼らは何が起こったのか把握しなければ行動に移れない。少女の足でも逃げ切れると踏んだ上で、少年は逃げ出した。警官達も声をかけそこねる。それでも念のため、少年は入り組んだ路地を何度も曲がって追跡を難しくした。
 そうして、二人は児童公園にたどり着いた。どこに位置するかは分かっているが用もないのであまり来ない、少年にとってはそういう場所である。少年としてはもっと遠くまで行きたかったのだが、少女の息が完全に上がっていたのだ。予想以上に、とろい。もともと機敏な動作などに縁のない生活を送っているようだ。追ってくるものがいないことを確認した上で、少年は仕方なく彼女を公園のベンチに座らせた。
「ったく、何がやりたいんだよ、あんたは」
 苛立ちを吐き出すためにそう言い放つ。返答が無いのは承知の上である。
「ふう、ふう、はあ、はあ…」
 少女は肩といわず全身で息をしている。声を出すのはしばらく無理のようだ。ただ震える細い指が、少年の左腕を指していた。
「ん? ……あ」
 赤いシャツの袖が、ざっくりと切れていた。いや、白いシャツの袖が切れ、それが赤く染まっていたのだ。当然、袖の中も切れている。
「ちっ…あの時か」
 真田に体当たりをしたときにやってしまったらしい。興奮状態が続いたせいか、痛みは今まで感じなかった。見て初めてその痛みに気がつく、その程度のものだ。傷口から先の部分も動かないわけではない。ただ見た目は派手だが…。
「大したことない。わざわざ追ってくることもなかっただろうに」
 特に意地や見栄を張るでもなく少年は言ったが、少女はふるふるとかぶりを振った。
「自分のせいだって言いたいのか?」
 と、聞いてみるとうなずく。少年は皮肉っぽい声をあげた。
「だからって、君は医者じゃないだろ。どうにもならないぞ。本当に必要だったら自分で行くよ」
「…一緒に…行きます…はあ、はあ…」
「子供じゃあるまいし、医者くらい一人で行けるさ」
「……ではとりあえず、お医者様に行きましょう」
 顔を上げた少女が笑った。少年は初めて彼女の笑顔を見たのだった。白い肌に汗が浮かび、頬がうっすらと朱に染まってどちらが医者に行くべきか分らない様子だったが、それは少年の心の奥底まで染み込んでいった。
「…………」
 止まってしまった少年を見て少女が不安そうな顔になる。少年は慌ててかぶりを振った。
「分かった、行くよ。行けばいいんだろう」
 成り行きで、そう言ってしまった。
「ええ」
 少女はもう一度笑って、少年はまた止まりそうになった。少女が少し元気づく。
「近くに知り合いの外科の先生がいらっしゃいますから、そこに行きましょう。ええと、お名前は…あ、わたくしが先ですね。深澄音玲奈と申します」
 妙に丁寧な挨拶に、少年はまた傷のことを失念してしまった。
「みすみね? 珍しい名前だね。っと、俺は手塚昭博」
「はい、では昭博さん、病院に行きましょう」
「あ? ああ、そうだな」
 こうして昭博と玲奈の二人は、とりあえず病院に向かった。

 宍戸外科医院、というのが玲奈の言う知り合いの外科であった。外科としてはやや珍しい開業医のようで、蔦に覆われたどこか陰鬱な印象の建物を使っている。その玄関の階段を上りかけたところで、玲奈が声をあげた。
「あ…保健証…」
 医者にかかるからにはそれが必要である。なくても治療が受けられないではないのだが、色々と面倒であることは間違いない。しかし昭博はこともなげに言った。
「持ってるよ、そのくらい」
 言いながら、昭博はズボンのポケットからそれを出して見せた。確かに健康保健証であった。保健証と特殊警棒を持ち歩く人って一体…と、玲奈は思ったが問い正さないことにした。特殊警棒はまだ別のポケットに入っている。それにその健康保健証、玲奈の目にはどこかおかしいように見えた。具体的にどう、とは良く分からないのだが、なんだか白っぽいような気がした。しかし彼女が良く見る前に、昭博はそれを握ってしまった。
「じゃあ俺は行くよ、別に帰っても構わないぜ、無事にここまで着いたんだし」
 そう言って中に入って行く。玲奈は慌てて後を追った。
 ちょうど人が少ない時間帯なのか、それとも急患扱いしてくれたのか昭博はすぐに診察室に通された。研修を終えたばかりに見える若い医者が書き込んでいたカルテから目を上げ、黒縁の眼鏡越しに彼を眺めやった。
「あー、派手にやっていますね。縫合の用意を」
 傷を一目見て看護婦にそう言ってから、医者は昭博を座らせた。人手が少ないのか、消毒は医者自身がする。
「何だってまたこういうことになったのですか?」
 消毒しながら医者が聞いてくる。昭博は染みるアルコールに顔をしかめていたが、その分表情が隠せるような気がした。
「ちょっと包丁を落としてしまって…」
「ほう…それは大変でしたね。これ、十針ほど縫わないといけませんよ」
 医者の口調はあくまで冷静、というよりのんびりしている。職業がら傷や血は見慣れているのだろう。それでも手つきはしっかりしているように見えた。
「そうですか。よろしくお願いします」
「ま、このくらいは簡単なものですが。麻酔はしませんよ」
「仕方ないですね。効くのを待っていたら失血しますから」
「ええ」
 患者もかなり冷静なので医者が縫合を始めるまで妙に気の抜けた会話が続いた。さすがに縫合中は二人とも無言である。縫合そのものはほとんどすぐに終わる。おかげで昭博はあまり苦しまずに済んだ。
「はい、おしまい。包帯をお願いします」
 看護婦が包帯を巻く間に、医者は今後の処置についての指示を行った。一週間後にまた来ること、そうでなくとも少しでも化膿の兆候が見られたらすぐに来ること、など簡潔に説明する。
「あと、発熱する恐れもありますから念のために解熱剤も要りますね。処方箋を書きますから近所の薬局で薬をもらってください」
「分かりました」
「それと…これは治療とは関係の無い余計なお世話なのですけれど…」
 医者はなんとも判断のつかない笑みを浮かべて昭博を見据えていた。
「何でしょう」
「その年で料理をするのは感心しますが包丁はもう少し良いものを使ったほうがいいですよ。そうしないと料理もうまく行きませんからね。特に折り畳んで柄の中に刃をしまう奴は一見便利ですけれど、意外に使いづらいんですよ。良くない道具を使うのは怪我の元です」
「…………気をつけます」
 昭博は身構えたが、外科医は平然とした様子を崩そうとはしなかった。
「まあ、そうは言っても好き好んで怪我をする人はいませんからね。仕方のない場合はまたいらしてください。お大事に」
「ありがとうございました」
 昭博はさっさと診察室を後にした。
 待合室の椅子に座っていた玲奈は昭博の姿を認めるなり立ちあがった。
「どうでした」
「やはり大した事ない。全治一週間…かな」
「良かった…」
 彼女は自分のことのようにほっとして笑った。こういう顔が見られるのだから、ついてきてもらって良かった、そういう気になる。ただ何故か、昭博はそんな自分の考えを頭の中から追い払った。治療費を払って保険証を受け取る。
「さて、これでもう用は済んだな。それじゃ」
 わざとそっけなく言って歩き出す。玲奈は一瞬彼の動きに反応しきれず、昭博が靴をはいた時になってようやく慌ててその後を追った。
 医者には安静にしていろと言われたが、昭博は何となく家路を急いでいた。その後ろを、玲奈が小走りに近い形でついてくる。身長差とそこから来る足の長さの差も多少はあるが、それ以上に歩幅のとり方が違うのだ。
 昭博は普通に、速く歩くのにあわせて歩幅も大きくなっているのだが、玲奈はというと普通に歩いているときとほとんど変わっていない。やはり運動神経はないらしい。母鳥の後を付いて歩くひよこを思わせる動作である。
 しかしそんなほほえましい玲奈の仕草にも、昭博は冷淡だった。
「で、何でついてくるわけ?」
 人のいないところを選んでくるりと振り返る。玲奈はつんのめりそうになった。
「え、あ、あの…。怪我をした人をそのままにして置けませんし、お宅まで送ろうかと思うのですが」
「大した傷じゃないし医者にもかかった。そこまでする必要はないだろう」
 そしてまたすたすたと歩き出す。横に並ぼうと努力しながら、玲奈は反論した。
「あんなに血が出ていて大丈夫なはずがありません。もしそのあたりで倒れでもしたら大変です。とりあえずおうちの方にお会いして事情をお話するまではついています」
 昭博は少し黙って、そして振り返らずに口を開いた。
「それは無理だな。家には俺一人しか居ない」
「時間のことでしたらご心配なく。私は夜まで特に用事は有りませんから」
「明日までって、訳にも行かないだろう」
「あ…ご旅行か何かですか」
「そんな所だ。だからもういいぞ」
 面倒臭そうに言うと、昭博は少し足を速めた。
「あ…でしたら余計に、放っておくわけには行きません。一人にしておくなんて」
 玲奈はかなり必死になってついてくる。昭博は声を荒げた。
「しつこいな君も。いいって言ってるだろう」
「良くありません。けがをしているんですよ」
「うるさいうるさい」
「だめです」
「駄目はこっちの台詞だ」
「子供じゃないんですから駄々をこねないで下さい」
「やかましい!」
 昭博がとうとう怒鳴った。さすがに玲奈も足を止めるが、そのすぐ後に昭博の歩みも止まってしまった。急に弱った体に負荷をかけたものだから、立ちくらみを起こしたのである。踏みとどまるのが手一杯だった。
「ほら、やっぱり本調子じゃないんです」
 手を添えようとしながら玲奈が諭す。しかし昭博はその手を払った。
「誰のせいだと思っている」
 玲奈ははっとしてから肩を落とし、うつむいてしまった。昭博としては玲奈がつきまっとったおかげで怒鳴って貧血を起こしたのだと言ったつもりだったのだが、玲奈は大本である怪我の事について非難されたのだと受け取ったらしい。昭博もしまったという顔をしたが、行きがかり上謝ることもできずに立ち尽くすほかなかった。やがて彼はどうすることもできずに歩き出す。その後を玲奈はそれでもとぼとぼとついていった。
 結局恐ろしいほどの気まずさをまとわりつかせたまま、昭博は自分の家に着いてしまった。新築には見えないが古びているわけでもない、どこにでもあるような二階建ての家屋である。後ろには玲奈が立っている。ただひたすら、彼の言葉を待って。
「勝手にしろ」
 昭博はそう言い捨てて鍵を開け、扉を開いた。靴を放り出すように脱いで中へと入って行く。玲奈はしばらく呆然と開け放しの扉を見ていたが、昭博の言葉の意味を悟るとようやく慌てて上がることにした。
「お邪魔します」
 扉を閉め、昭博の分も靴をそろえてから、玲奈は昭博が消えた部屋を目指して廊下を歩いていった。
 まず玲奈が感じたのが、埃っぽさである。学校指定の白い靴下が通った後に、うっすらと筋ができている。よくよく見れば、昭博が往復した跡も見える。どうやらあまり掃除をしていないらしい。玲奈は少し困ったが、両親不在の男子高校生にまめな家事を要求する方が難しいのだろうと思い直した。まず掃除でもしてあげようか、とそんなことも考える。そうしていると、目指す扉を行きすぎそうになってしまった。平均的な都会の日本家屋、そう長い廊下があるわけでもない。
「失礼します」
 そう断っても反応がない。仕方なく少し待ってから玲奈はその部屋に入った。
 リビングである。広さは八畳ほどだろうか。ソファーとテレビとサイドボードそれに観葉植物、そんなものが置かれている特に目立つものもない部屋だった。ただどことなく寒々とした印象を受ける。散らかってはいなかったが逆に物がない、生活感がないのだ。不在の人間が多いせいかもしれない。
 昭博はソファーに座ってテレビに視線をやっているが、見てはいないようだった。画面に映っているのはもはや時代遅れとなったトレンディードラマで、時間が中途半端だ。今見始めたのならば一時間編成のちょうど終わりごろのはずである。何よりものすごくつまらなそうにしている。玲奈と目を合わせないつもりなのだろう。
 玲奈はしばらく思案に暮れて、入り口のところに立っていたがやがてすることを思いついた。
「お茶を淹れましょう」
 反応はなかったが、やめろとは言われなかったので実行に移すことにしてリビングと続いているダイニング=キッチンに入った。こちらは全く使った形跡がない。いくら一人であるとはいえ、玲奈は不安になった。
「あのう、普段は何を食べているのですか」
「食い物」
「……………」
 玲奈の一本負けである。仕方なく彼女は行動で自分の心情を示そうとした。やかんに水を入れて火にかける。そして急須と茶葉を用意して…。
 やかんまではその辺においてあったのですぐに見つかったが、急須となるととっさに見つかるものではない。慣れないキッチンでごそごそやった末ようやくそれを発見し、今度は茶葉と思ったが全く見つからない。そうこうしているうちにお湯が沸いてしまったので仕方なく玲奈は聞いてみることにした。
「あのう、お茶はどこにあるのでしょうか」
 非好意的な返答は覚悟の上である。しかし昭博はただ
「左の上から二番目の引出しの中」
 と視線を固定させたまま言っただけだった。そして言う通りの場所に茶筒が置かれている。ひとまずほっとした玲奈であったが、甘かった。筒を開けてみると中のお茶はとても飲用に絶えるとは思えないほど干からびている。ほとんどただの枯葉である。これにはさすがの玲奈も恨めしそうな視線を昭博に向けた。
「あのう…紅茶はありますか」
 しかしごく遠まわしに言ってみる。昭博はようやく顔を向けた。
「え、その隣の青い缶に入ってるけど…そうか、緑茶の方は古くなってたんだ。悪かった。紅茶でいいよ」
 驚いたような、そして少しだけ済まなさそうな顔を見せる。これだけ見るとことこの件に関して悪意はないようだった。しかしこの少年の今までの言動から考えると中々信用もできない。玲奈は覚悟しながら紅茶の缶を開けた。中身は…普通のティーバッグだった。特に銘柄物でも無いようだが、ちゃんと香りも漂ってくる。気を取りなおして彼女はそれを淹れることにした。
 先ほどは緑茶にしようとしていたから当然今出ているのは湯のみである。しかし嫌がらせでもないのにこれにティーバッグを入れるわけにも行かないから、玲奈はティーカップを探して出すことにした。
 幸い食器棚のすぐ目に付く所にある。しかし昭博はあまり使わないのか、かなり高い位置に置いてあった。玲奈の背丈ではやっと届くかという所、しかし付近に踏み台になりそうなものも見当たらず、全く無理な高さでもないように見えたので彼女はつま先だってカップを取ろうとした。その取っ手に細い指がかかる。そしてつかんだ、と思ったところで気の緩みが生じた。カップがまるで意思を持っているかのように彼女の手を逃れて体づたいに落ちて行く。
「あっ、あっ、あっ…」
 慌てて拾い上げようとしても彼女の反射神経ではどうにもならない。空をつかむだけだ。そして当然の結果として床に叩きつけられる。もとが高い所にあったものだから避けようもなく砕け散った。
「あーっ……!」
 これはまずい。とにかくまずい。他人の家で食器を割ってしまった時点でかなり問題であるが、今回特に相手があの気難しい昭博と来ている。
「おい」
 その彼が厳しい声とともに立ちあがった。当然の反応である。玲奈はかなり慌てて破片を拾い集めようとした。
 が、こういう場合まず大事なのは冷静になることだ。でないと、怪我をする。避けられない成り行きで、玲奈は手を引っ込めた。白い指先を背景に赤い血が妙にはっきりと見える。
「何をやってるんだ君は!」
 昭博の声はもう完全に怒っていた。足早に歩み寄ってくる。
「済みません、すぐに片付けますから」
 そう言いながらすくみ上がる玲奈の手が昭博につかまれた。
「そんな事はどうでもいい。ちょっとこっちに来い」
「は、はい…」
 半ば以上引っ張られる形で玲奈はソファーに座らされた。つい今しがたまで昭博が掛けていた物の隣である。玲奈は説教を覚悟してうつむいたが、昭博は彼女がそうしている間にサイドボードの隅あたりから箱を取り出してきた。大きいとも小さいとも言いがたい木箱である。
「ほら手を出して」
 まだ怒っている口調で昭博が言うものだから、玲奈は恐る恐る怪我をしていない左手を出した。
「そっちじゃない! 右手だ右手」
 声の調子が更に上がる。右手を出しながら、玲奈は目をつぶった。
「ったく、何しに来たんだよ。自分が怪我人になってどうする」
 昭博の声とともにしびれるような痛みが染み渡り特有の臭いが広がる。消毒薬の臭いだった。昭博は慣れた手つきで、左手に怪我をしているとは思えない器用さで消毒薬をかけ、湿ったものを脱脂綿でふき取ってから伴創膏を巻いた。要は救急箱を持ってきていたのである。昭博の手が玲奈には暖かかった。
「はい終わり。そもそも君は俺の面倒を見るために家に来たんじゃないのか。それが傷は作るは破片は散らかすわで…」
 作業を終えるや否や昭博の口から非難の台詞が口をついて出る。しかし玲奈はもう彼のことを恐いとは思わなくなっていた。しかしもちろん、済まないとは思っている。
「ごめんなさい、本当に、不器用で…」
「分かってるんだったらわざわざ俺なんかのために世話焼きに来るんじゃないよ…」
 ぶつくさ言いながら立ちあがる。そしてほうきとちりとりを持ってきた。
「あ、私がやります」
 それを見て玲奈が腰を浮かしかけたが昭博に睨まれてしまう。
「前科者なんだからおとなしくしていろ。二度も三度も手当てなんてしてやらないぞ」
「はい…済みません」
 こればかりは自分が悪いので小さくなるしかない。玲奈がおとなしくしている間に昭博は片付けを済ませてついでに紅茶も淹れてしまった。
「レモンはないからストレートかミルクだな。どっちにする?」
「では、ミルクを…済みません、本当に」
「一々謝るなうるさい。砂糖も要るな」
「はい、済みません」
「…………」
 昭博は心底うんざりしたと言う顔を作った。後は無言で二人分の紅茶をテーブルに運びソファーに座りなおす。ミルクも砂糖も入れずそのまま紅茶を飲もうとして、その手が止まった。玲奈がこれでもかと砂糖を入れている。そのうち飽和するのではなかろうかと心配になるほどだ。そして更にミルク。丁寧にかき混ぜてから彼女は優雅な仕草で口をつけた。
「それ…うまいのか?」
 愛想のない昭博でも訊かずにはいられない。しかし質問の意味が正確には通じなかった。
「ええ、おいしい紅茶ですね」
「…良く太らないな」
 昭博と玲奈を合わせた分くらいの体重が有る人間が飲むのがふさわしいようなもの、としか思えない。しかし実際には、夏用制服の白いブラウスの襟から覗く首筋は折れそうなほどに細い。
「あ…体質だと思います」
「へえ…」
 世の中は実に不公平にできている。全く努力しなくてもこのような美人でいられる人間がいるかと思えば…。と昭博はそんなことを考えた。
「昭博さんは太ったりするんですか、気をつけないと」
「別に気をつけてはいないが、あまり甘いものは食べないからな…」
 そんな話題がきっかけで、二人は紅茶を飲みながら取りとめもないことを話した。喧嘩を売る時には驚くほど口が達者なくせに、普通の話題になると昭博はどちらかというと聞き役に回ってしまう。ただ先程までのように無視するだとか反応のしようが無い相槌を打つなどの反応はしなくなり、玲奈はかなり調子よく話をすることができた。もともとそうまくし立てる方でもないから、相手が実はしゃべる以上に聞くことがうまいのかもしれない。
 気がつくと秋の初めの日もすっかり暮れかかっていた。そろそろ夕食時である。相手に夕食を誘う気がないのなら客は暇を請うのが礼儀というものだ。
「あ…いけない、何にもせずにずいぶんとお邪魔してしまって。本当はお世話をするために来たのに…」
 玲奈が柳眉を下げる。昭博は苦笑して答えた。
「確かに役には立たなかったが、別に邪魔じゃないさ。どうせ何もやらないんだし」
 やはり一言多い。しかし玲奈はくすりと笑った。当初あれほど邪魔扱いしていたのに今はこう言っているのだから。
「次に来る時こそお役に立てるようにしますよ」
「あーん? 別に無理しなくていいぜ。今日だって別に不自由してなかっただろ」
「治るまでに一週間はかかるでしょう。それまで油断は禁物です」
「おいおい、そんなに気にするなよ」
「そう言われても気になります。会わなかったら余計に不安になるでしょう」
「お袋じゃあるまいし…」
 言い終えてから、昭博の顔がすっと暗くなった。背景が分からないから玲奈は困惑するしかない。昭博はやがて表情を消して立ちあがった。
「さ、そろそろ帰らないと親御さんが心配するぜ」
 言外と言うにはかなり直線的にすぐ帰ることを要求している。玲奈は逆らえずに立ちあがった。ただ一応自分の状況は説明しておく。
「両親はしばらく商用で海外ですから、帰りが遅くても心配することはありませんが」
「だったら余計に向こうで心配しているさ。無茶をするなよ、特に今日みたいな」
 表面的には今までの台詞の中で最も優しげであるのに、口調はなぜかどこまでも無機的だった。
「ええ…」
 話と同時に二人とも玄関に向かうことになる。玲奈は少し急いでメモ用紙を取り出してそれに自宅の電話番号を書きつけた。今時希少かもしれない、携帯を持っていない女子高生であったりする。
「これ、私の連絡先です。何かあったら遠慮なく電話して下さい」
「何度も言わせるなって。大した事ないから平気だ」
 やや不機嫌そうに応じつつ、昭博は一応受け取った。
「それでは失礼します」
 靴をはき終えた玲奈が丁寧に頭を下げる。昭博はややだらしなく壁に寄りかかりながら答えた。
「ああ、気をつけて帰れよ。チンピラが誰かに絡んでいてもそこに割って入るみたいなバカな真似はするな」
 言い方もだるそうである。行きががり上玲奈としてはただうなずくしかなかった。
「はい」
「じゃあな」
 見えない壁に押し出されるように玲奈は外に出る。見慣れぬ暗い町並みが妙に寂しさを誘い、背後で閉まる鍵の音がそれに追い討ちをかけた。ただの常識的な戸締りなのだろうが…。
「あ…」
 昼間は全く風がなかったのに、今は彼女の長い髪が揺らされていた。
「…帰らなきゃ」
 自分に言い聞かせるようにしてつぶやいてから、玲奈は歩き出した。そうしないといつまでもそこにとどまって風邪をひくように思えたから。

 玲奈を外に出すと、昭博は出しっぱなしの紅茶のカップを片付けもせずに二階の自分の部屋に上がった。他に何かしようと言う気が全く起きないのだ。
「…だるい」
 シーツを整えていない布団に転がり込んで毛布をかぶる。この前夏が、正確には夏休みが終わったとは思えなかった。
「寒い…いや、風邪か…」
 元来体の丈夫な昭博としては久しぶりの感覚に襲われていた。背筋を不快なものが這い回って、全身に繁殖して行く。しかしこれをどうにかできるわけでもない。あきらめて耐えるしかないのだ。普段なら寝返りを打つところだが腕の傷のためにそれもあまりできない。
 少しして、昭博は自分の勘違いに気がついた。風邪ではない、負傷したことによる発熱だ。平常の状態であればすぐに分かるところだが熱で頭が煮崩れたようにうまく働かない。ひとしきり苦しんだ末、ようやくあの医師が「発熱の恐れがありますから…」と言っていたのを思い出した。解熱剤を出すとも言っていたが…その処方箋が今昭博のポケットに入っている。当然薬局には行っていない。帰り道に玲奈と口論をしていたためすっかり忘れていたのだ。
「チッ…人のことは言えないな、俺も」
 どろりとした感覚の中で毒づく。そしてふと玲奈の控えめな笑顔が思い出された。不快感がわずかに和らぐ。そしてポケットの中にはもう一枚、彼女の連絡先を彼女自身の手で記したメモが入っている。
 引っ張り出してみると、走り書きのはずの文字がずいぶんときれいだった。昭博のせいで紙そのものはしわになっていたが。彼女が言っていたもし何かあったら、という場合はどう考えても今しかない。時計を見ると彼女が帰ってから既に一時間半が経過していた。普通に考えれば家にいるだろう。とりあえず電話をしてきてもらって、普通の薬局は閉まっているから最近はやりの大型薬店で解熱剤でも買ってきてもらうのが最良の方策だろう。
「ふう…ずいぶんと都合のいい奴だな」
 弱々しく苦笑してから昭博はメモも処方箋も放りだし、右腕を下にするように寝返りを打ってから目を閉じた。疲労が不快感に打ち勝って、濁ったような眠りが昭博を包んでいった。


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