午後の恋人たち
U 火曜日は朦朧
翌日、玲奈は学校を終えるとすぐに昭博の家に向かった。授業中から彼のことが気にかかって集中できないほどだったのだ。電話でもして声を聞くことができれば良かったのだが、昭博の方の電話番号は聞きそびれていた。
少し息を切らして、昭博の家の前に立つ。動作が鈍いので良く誤解されるのだが、玲奈は記憶力も良いし方向感覚も確かである。迷わず「手塚」と表札のかかった見覚えのある家の前に着くことができた。
二回、三回と深呼吸をしてからインターホンを押す。家の中で軽い音が響き渡るのが分かった。
「………」
しかし反応はない。少し待ってから、もう一度押してみた。
「………」
やはり反応がない。
「…出かけてしまったのかな…。無理はしない方がいいのに」
しばらく考えて、昭博が居留守を使っている可能性に行き当たった。何かの拍子で機嫌を損ねていれば十分にありうる。
家の前で玲奈は途方にくれてしまった。自分のせいで怪我を負わせて、しかもその後の行動がまずくて居留守を使われるほど嫌われたとあっては立つ瀬がない。余程良心に欠けた人間でない限り相手に申し訳ないと思うところだが、この場合では悪いことに玲奈は人一倍繊細な良心の持ち主だった。
とりあえず留守なのか居留守なのかを確かめたかったが、音を聞いている限りそれは分からない。電力消費のメーターを見るのがそれを見極める常道であるが、あいにくと玲奈はそう言う下世話な知識に欠けていた。後は背伸びをして家の様子を窺う外ない。これを長々とやっていると挙動不審でつかまるかもしれない。
元来気の長い玲奈はしばらくその場にとどまり、その間にも何度か恐る恐るインターホンを押してみたがやはり反応はなかった。やがてとうとう人一倍ある根気も尽き果てて、留守であると自分を納得させて帰ることにした。足が重い。
やや旧式のアルミサッシがのろのろと開く、間の抜けた音が聞こえたのはそんな時である。方向は玲奈の正面上。見上げてみると、ぼうっとした様子の昭博の顔がそこにあった。見下ろす目が眠たげである。
「…君か。悪い、寝てた。今開ける…」
意味が通じる限界に挑戦しているような言い方をして、昭博は窓を開け放したままそこを離れた。玲奈はまずほっとして、ついで自分が彼を起こしてしまったことを後悔した。しかし今の様子から見て、少なくとも彼は起こされても怒ってはいないようだったが。
今か今かと待っていると、昭博が下に下りて玄関の鍵を開けるまでにずいぶんと時間がかかったように思えた。そしてドアがやや小さめに開かれる。薄暗がりの中から現れた昭博の顔はまるで幽鬼のようであった。やや長めの髪が乱れ眼の下にはくまが浮かんでいる。思わず玲奈ものけぞってしまった。
「おいおい、そんな反応をするならわざわざ来るなよ」
昭博が苦笑する。目ざとさ、口の悪さは昨日のままであったがその口調にはまったく勢いがなくなっていた。これも不気味さをあおっている。一瞬の自失から立ち直ると、玲奈は昭博の変わりようが憔悴した結果であると悟った。
「ご病気ですか?」
「怪我による発熱…らしいな。あの医者が言ってたよ」
昭博は薄く笑っている。かなり破滅的だが、これが地なのか熱のせいかは少なくとも今の彼自身には判然としない。無論玲奈は慌てた。
「え、ええと…どうしましょう」
「とりあえずパシリ。処方箋があるから薬局に行ってくれ」
用紙を差し出す手つきものろのろとしている。玲奈はそれを大事そうに受け取った。
「分かりました。すぐに戻りますから」
「ああ。鍵は開けておくから一々呼び出さないでくれ」
昭博はドアを閉めたが、それはドアの重さに負けたようにも見えた。昨日のように鍵のかかる音は、しない。そして玲奈も、昨日の夜のようにそこに長々と立ち止まってはいなかった。
「どうしようもない男だな…」
玲奈が薬局に走っている頃、昭博の家の居間ではそんなつぶやきがもれていた。
息を切らせて、誰が病人か分からない様子で玲奈は昭博の家に戻ってきた。かなり急いだつもりだが、もっと時間を短縮できたかもしれない。ここまでの道順は覚えているが、さすがに薬局までは気に留めていなかった。それに気がついたのが、何も考えずに来る道順をしばらくたどった後である。結局自分の知っている店に行って薬をもらい、余計に慌てて帰ってくることになってしまった。初めに昭博に一番近い薬局を聞いていれば、このようなことにはならなかったかもしれないのだ。
それにそもそも昨日昭博を放って帰ってしまった自分の判断が甘かったと、玲奈は道をたどりながら考えていた。胸に空気が思うように入っていかないのは、罪悪感が詰まっているからかもしれない。
「昭博さんごめんなさい!」
玄関のドアを開けるなり叫んでしまう。しかし反応してくる声はなかった。不吉な予感に駆られてリビングに駆け込むが、少し考えてみれば昭博は寝室にいるはずだ…。
しかし彼はそこに転がっていた。寝転がっていたなどという生易しい状態ではない。いつもの場所らしく先日と同じソファーにかけていたが、完全にぐったりとしていた。
「昭博さん、ベッドに入っていないと駄目です」
泣きそうな声をかけられてようやく動き出す。まるで玲奈の言葉で息を吹き込まれたかのようだ。
「上がるのも億劫だ。それより薬」
言われてはっとして、玲奈は薬局の紙袋を差し出した。昭博はそれを手にとってしげしげと眺める。
「…と、水だな」
玲奈が水を汲んでくる間に、昭博は袋を開けて一回分の包みを取りだした。封を切って顔を上げ、粉薬を口の中に放りこむ。そして戻ってきた玲奈からコップを受け取って水を飲み干した。
「…これでとりあえず、何とかなるな」
薬がすぐに効く筈も無いが、これ以上状況が悪化することもなくなるだろう。それに玲奈もいる。看護婦役としては頼りないことおびただしいが、少なくとも一人暮しをするにはあまりに広い家で、高熱に抱かれているよりは余程いい。もっともそんな事を正直に相手に告白するような昭博では決してないが。
「ごめんなさい…。私がもっとしっかりしていれば…」
安心したせいか、玲奈は涙を止めどもなく流し始めた。カーペットに丸い染みがいくつもできる。昭博は苛立ったような声を上げた。
「言ったそばからしっかりしてないじゃないか。そこで君が泣いたって熱が下がりはしないぞ。うるさいだけだ。何しに来たんだか…」
相変わらずこの少年の言葉には情け容赦と言う概念が欠落している。しかし彼の指がそっと伸びて涙がこぼれ出るたびにそれをぬぐっていた。
「そうですね…。私がしっかりしなきゃ」
やがて玲奈が顔を上げた。泣きじゃくる様子も綺麗だったが、唇を精一杯引きむすんで決然とした様子はもっと綺麗だ、美人は何をしてもいい、いや何をしてもさまになるから美人と言うのかもしれない…。などと昭博は考えたがやはり口には出さない。そういう性分なのだ。得だとは言いがたい。
「さ、昭博さん。ベッドにいないと体に良くないですよ」
恐らく昭博の考えなど知らずに、玲奈は急に母親のような口調で諭した。言われた方は怒らず、苦笑してしまう。
「そうしたいのは山々だがここまで来るのに力を使い果たしちまってね、薬が効くまでここにいるよ」
そう言ってだらりと体の力を抜く。気合を入れれば寝室まで行くくらいの力は残っているが、今はその気合が足りない。先程玲奈が泣いてしまったのと同様の理由である。
「いけません。そんなわがまま言っては」
玲奈の手が昭博の手首をつかんだが、そこからして太さが違う。昭博は特に肥満でも巨漢でもなかったが、玲奈の腕力でそう簡単に動かされるほど軽くはなかった。
「こら、手荒に扱うんじゃない、病人だぞ」
昭博が病人特有のふざけ方を見せる。これで玲奈がむきになった。
「引っ張ってでも連れていきますから」
「おいおい、日本語は正しく使えよ、これは引っ張るじゃなくて持ち上げるだ」
昭博の言う通り玲奈は彼の右腕を自分の背中に回してそこから体全体を持ち上げようとした。そうして肩を貸す形を作ろうとする。一人で、ある程度なら足を動かせる負傷者、病人を移動させる方法としては適切な方法である。問題はただ一点、やる人間が玲奈だと言うことだ。
「無理はしない方がいいぞ。おい、やめた方がいい…」
「うんっ…平気です…」
返事は気力十分であったが、昭博は覚悟を決めた。腕力の問題もあるが、それ以上にバランスが危うい。もともと一人で歩いていても危なっかしいところのある少女である。しかしここで昭博が抵抗したらそれはそれで危険だ。しばらくは待つしかない。
そしてやはり、案の定玲奈の足が滑った。
「あっ…!」
「……」
これあることを予期していただけに、昭博の反応は正確だった。まだほとんど先程自分が座っていたソファーから離れていないからそれを利用する。無理に反対側に力をかけようとせずベクトルを変えてソファーに倒れこんだ。当然自分が下になるようにである。昭博が自分で感心するほど、思惑通りに行った。
「あ…え…?」
満足している昭博に対し、玲奈は状況がつかめていない。それでまた憎まれ口がたたかれることになった。
「だから無理するなって言ったんだよ、まったく」
「済みません…」
玲奈は昭博にしがみついたまま謝った…。
そこで昭博は気がついた。よく考えたら、いやよく考えなくても自分は今玲奈と極度に密着している。わざわざ下敷きになったのだから当然である。しかもお互い体勢がもつれた成り行き上向かい合って、要は抱き合うようになっている…。
などというのは最初の認識ではなかった。まず感じたのがほのかに甘い香りだった。シャンプー、リンスの匂いとは微妙に違う彼女自身の髪か肌、あるいはその両方の香りだろう。そしてその体の柔らかさ、暖かさ。あの華奢な体がどうしてここまで柔らかいのかまったく分からない。そしてその温かみは今熱のある昭博には本当に心地よかった。そこまで感じてから、ようやく端から見てあまり誉められた恰好をしていないことに気がついたのである。抱き合っていると見られればまだ良い方、女に押し倒されたとみなしても不自然ではない。
そして、妙なところまで考えが回ってしまったところで頭をもたげてくるものがあった。体本体が弱っているにもかかわらず律儀に働いている、男の本能である。このままではとにかく、まずいことになる。
「こら、離れろ、重い!」
「あ、はい、すみません」
とっさに昭博が言って、玲奈もすぐに離れてくれたおかげで最悪の事態は免れた。しかし昭博は、本当に情けなくなった。
「ごめんなさい…。ええと、とりあえず毛布か何かかけるものを持ってきますね」
「ああ、二階の一番奥が俺の部屋だから、適当に何か持ってきてくれ」
昭博は顔を押さえながらぼそぼそと言った。相手の顔がまともに見られないのだ。
駆け足で階段を上がりながら、玲奈は自分の胸にそっと手を当てた。少し過剰な昭博のぬくもりがまだ残っているようだった。
昭博の部屋は、十代後半の少年の物としては当然のように散らかっていた。それに関しては玲奈も別に驚きはしなかったが、見た限りでの直感としてどこか違和感を覚える。人が寝起きしているはずなのに、どこか廃墟のように見えた。ただ今は自分の感覚について長々と考えている場合ではない。堆積している本、雑誌の類をまたいで布団の上で丸まっている毛布をつかみ、戻っていった。
「昭博さん、それではしばらく休んでください」
「ああ…」
玲奈が昭博に毛布をかける。この時は二人とも有らぬ方を眺めやっていた。
「それから…」
「腹が減った。昨日の夜から何も食べてない。悪いが何か買ってきてくれないか」
「できあいの物は弱った体には良くないですよ。お粥でも作りましょう。お米と…調味料くらいは有りますね」
「ああ」
昭博は目を閉じてその上に手をやった。疲労して眠くなってきた。一眠りしながら、玲奈お手製の粥が出来あがるのを待つとしようと思う。もう、彼女に世話をされることに関しての気恥ずかしさは消えかかっていた。意識がまどろみの沼の中に落ちて行く…。
「きゃあ!」
玲奈の悲鳴と何かが割れるような音が聞こえた気がしたが、昭博は聞こえないことにした。
熱の有る時の睡眠だから浅く、どろどろとしている。
「あ、ええと…これはこれで良かったんだっけ…」
そんな声も聞こえたような気がしたが、やはり聞こえないことにした。気のせいだ、気のせいに違いない。それがお互いのためだ…。
…。
「昭博さん、できましたよ…。あ、寝てますか。じゃあこれは後で…」
「いや…起きてるよ」
時間の感覚もぼやけている。気がつくともうできあがる時間、約一時間は経ったようだ。
「起こしてしまいましたか」
玲奈の眉が心配そうに下がって大きな瞳が潤む。昭博は小さくかぶりを振った。
「俺は自分に都合の悪い嘘はつかないよ。それより腹が減ったんだってば」
「はい。それでは」
出来あがった粥を鍋から小鉢によそう。米のいい匂いが立ち昇って、昭博はひとまず安堵した。どうやら失敗作という最悪の事態は免れたらしい。そうすると空腹感が急激に強くなってきた。まる二十四時間水くらいしか口に入れていない反動が出ている。それに睡眠を多少なりともとったのと、薬が効き始めているのか体も楽になっていた。
玲奈はさじを取り出して小鉢から一口粥をすくった。
「はい」
最高の笑顔とともにそれを昭博の口の前に持って行く。昭博はしばらく彼女の顔をほけっと見ていたがやがておもむろに小鉢とさじを取り上げた。
「自分で食えるから」
いくら一緒にいるのに慣れたとはいえ、「あーん」をしてもらうのはあまりに恥ずかしい。一瞬以上その光景を想像してしまった自分を恥じながら、昭博は慌てて匙を口に入れた。そうしないと間が持たない。味は…。
「………」
昭博が、止まった。
「おいしいですか」
玲奈は一応聞いているがその顔はできのほどを疑っていない。味見をしたのだから当然である。昭博は、止まったままだ。
「あ…熱いですか? 冷ませば良かったですね」
ようやく玲奈が不審に気づく。しかし熱くはないのだ。熱かったらもっと派手なリアクションをしているはずだ。
「昭博さん…」
光の差す綺麗な瞳に覗き込まれて、昭博は強烈な視線を返した。そしてようやく、口の中にあるものを飲みこむ。ほとんど噛んでいないが粥だから平気だろう。
「この際皿が何枚割れただとか、粥一つ作るのにどうしてあんなに台所が散らかっているのかとか、そう言うことは置いておこう。本題じゃないから。だけどなあ、玲奈!」
始めゆっくりだった台詞が徐々に早口になって行く。これは怒っている。玲奈は背筋を伸ばした。
「は、はい」
「どうしてこんなお約束のボケをかますんだ」
「はい?」
「塩と砂糖を間違えるんじゃないよ!」
甘かった。実に。生クリームと勘違いするほどだ。ここまでやってくれるとは思わなかった。
「え、え? ちゃんといれましたよ。お砂糖を」
「だから…!」
「あ、はいはい。お塩のお粥じゃないんです、これは。お米を煮てお砂糖とミルクを入れて。ミルク粥ですから。普通のお粥より栄養がありますよ」
玲奈は自信を取り戻して笑った。つまり、もともと甘い料理なのである。付け加えると、甘い物好きの彼女の基準で味付けがしてある。
「う…訳のわかんない物を思いつきで作るんじゃないよ」
昭博は遠慮なく顔をしかめた。なぜか力関係が反転して玲奈が反論する。
「思いつきじゃありません。西洋風の、昔からあるものですよ」
「毛唐の真似などしやがって。粥と言ったら塩で梅干を付けるものだろうか」
普段ハンバーガーなど何の気無しに食べている現代の若者のくせに、昭博はすごいことを言い出した。毛唐というのは日本人が外国人、特に白人を蔑視して呼ぶときに使う言葉で、終戦まではそれなりに用いられたものである。戦時中は「鬼畜米英」の方が一般的であったが。
こうして書くと日本語が差別的な、相手を見下す言語であるようだがそんな事は決してない。英語にもニガー、ジャップといった立派な差別語がある。言語とは、そういう物だ。もちろん昭博は差別主義者でも右翼でもなく、単に口が悪いだけである。
「これの方が少ない量でたくさん栄養が取れますから胃に良いんです」
玲奈は力説する。正論だが、そもそもこれは甘すぎて大量には食べられないだろう。少なくとも昭博には。前半部に反応しなかったのは意味を取れなかったせいだ。確かに常識人の使う単語ではない。
「さ、分かったら食べてください。食べる物を食べなければ傷も治りませんよ」
昭博にとってこの善意に満ち溢れた言葉は刑の宣告、しかも執行猶予無し、実刑判決に等しかった。何しろまず何か食べたいと言い出したのが彼自身である以上食べないのは道義にもとる。ついでに言うともし昭博が食べようとしなければまたさっきの「あーん」に戻りそうな勢いだ。逃げ場がない。
普通の、塩の粥だと思って食べたのだからあれほど甘く感じたのだ。ちゃんとミルク粥だと認識していれば大した甘さではない。何しろこれは菓子ではなく料理なのだから…。と、昭博は自分に言い聞かせて匙を口に運んだ。
甘い物は甘いのだ。
ようやく何とか、時間をたっぷりかけて昭博は小鉢を空にした。何しろ監視つきなのでごまかしが効かない。それまで昭博の食べる様子を真剣に観察していた玲奈がまた笑みを見せた。昭博も安堵感から思わず笑い返してしまう。
「はい、お代わりですね。男の人ですから、やっぱりたくさん食べますよね」
刑期の延長が決定された。
この後昭博は今日は看病のために泊って行くという玲奈をなだめすかして家に帰した。実際体調は玲奈が来た当初よりもずいぶんと回復していたこともある。元々あの時がピークだったのだろうが、彼女の看病のおかげだと思うのが両方のためだろう。なお、現代科学のある種結晶である薬と、それの処方箋を書いた外科医の先見性に関してはすっかり忘れていた。
彼女を家に帰した本当の理由は、もちろん例の粥である。これ以上あの激甘の物体(昭博はあれを食物とは認めていない)を食べさせられては洒落にならない。ストレス以外の何物でもなく、消化に良い物を食べて胃に穴が開く、笑えない結果になるかもしれない。だから彼女が帰った後で、昭博は「明日の朝も食べてくださいね」と言って彼女が置いていった鍋の中身を合唱して念仏を唱えながら生ゴミ用のゴミ箱に捨てた。
後は寝酒をして寝た。未成年だろう、などの非難を彼は意に介さない。