午後の恋人たち 新章外伝

追憶編 前編


 晩秋の一日、昭博は所用があって菅原旭の道場兼自宅を訪れていた。帰宅部の高校生である昭博と異なり、医学の研究が本業の旭はそれなりに忙しいのだが、この日はきちんとアポイントメントを取ってあったので問題なく会えた。
 そして予定していた用事も一通り済ませたところで、流れが何となく雑談に傾いていた。
「そういえば先生、ちょっと気になったんですけれど」
「何だい」
 静かに、旭はお茶を飲んでいる。これは昭博が淹れたものである。
「先生って、どうして宍戸先生や、静馬さんと親しいんです? まあ、同門や先輩だからというのは分かりますけれど、性格がだいぶ違うような気もします」
 外科医の宍戸蔵人、ヴァイオリン奏者の澤守静馬、それぞれ社会的な地位のある人間で、旭にとっては高校時代の先輩なのだそうだ。しかし理想的な武道家と感じられるほど人間のできている彼と異なり、あの二人にはどうもおかしい所がある。大人になった今でさえああなのだから、少年時代はもっとひどかったはずだ。
 旭は一瞬、絶句した。昭博がすぐさま謝る。
「済みません。立ち入ったことでしたね」
 何の気なしに、単に少し興味があったため聞いたのだが、しかし大きな失敗だったのかもしれない。蔵人や静馬が少年だったのと同様、またそれ以上に、旭は若かったのだ。若さゆえの失敗が、腐れ縁として今に引きずられているとも思えた。
「ぷっ…くくっ。ふっ、は、は、は。あはははははははは!」
 そして突如、旭は笑い出した。一瞬言葉に詰まったのは、まだ口の中に残っていたお茶を吹き出さないためだったのである。知り合ってからそれほど時間が経っていないとはいえ、終始落ち着いている彼が、こんなふうに感情をあらわにするのを昭博は初めて見る。それもあって、ただ笑っているのを見守る他なかった。
「あー、おかしかった。ふふっ。こんなに笑ったのは久しぶりだよ」
「はあ」
 ようやく呼吸を整えた彼に対し、昭博は視線で何がおかしいのかと説明を求める。そして基本的に姿勢の正しい彼が、珍しく卓に両肘をついて語り始めた。
「そうだね。君には話してもいいかな」
 それは、彼が高校に入学したことに端を発するできごとだった。

 青のブレザーの群れが目の前を通り過ぎてゆく。それを見ている少年もまた、同じデザインの服を着ていた。今いる駅が最寄となっている、北条坂高校の制服である。
 そんな中で彼の装いは真新しく、くたびれた様子がない。そして彼自身の様子もまた、新鮮さ、生命力を感じさせるものだった。
 そして彼、北条坂高校の一年生、菅原旭は一群の中から目指す一人を見つけ出して声をかけた。眼鏡をかけた、それ以外にとっさに特徴を見出すことができない、そんな生徒である。
「おはようございます、宍戸先輩」
「ああ、おはよう」
 丁寧に扱っているようだがしかし、特に新入生が入ってくるこの時期にはさすがに磨耗した様子が感じられる。そんなブレザーを着ているのは、宍戸蔵人という三年生だった。その顔にはやや、不思議そうな色が浮かんでいる。高校入学以前からの知り合いで、蔵人は旭の住所も良く知っているのだ。今いる駅からすると学校の反対側の裏手、つまり登校時に彼のように電車を使う必要などないのである。
「少し相談に乗っていただきたいことがありまして。ご迷惑でしたでしょうか」
「いや、別に迷惑じゃないけれど。急ぎなの?」
「まあ、急ぎと言うほどのことはありませんが、早い方がいいかと思って」
「ふうん。ま、いいけど。歩きながらでいいよね」
「はい。お願いします」
 旭の相談は、部活あるいはクラブ活動をどうしようかという話だった。三年も在学していれば、蔵人のように帰宅部であっても、友人などを通して各部活、クラブの雰囲気などは大体分かってくる。旭はそれを参考に、入る所を決めようとしているのだ。
 ただ、旭の家は剣術道場をやっており、彼自身もそれを習っている。できればそれと兼ね合いのできる所を、というのが希望だった。蔵人もそこで教わっているので、スケジュールなどはほぼ把握している。彼が旭の住所を良く知っているのも、自宅兼道場であるそこに定期的に通っているためだ。
「いくらうちの運動部がぬるいって言っても、さすがに体育会系だからねえ。あそこと掛け持ちはさすがに難しいかな」
 比較的高い学力とともに、自由でおおらかな校風は北条坂高校の美点である。しかしその規制が緩くのんびりとした所が災いしているのか、運動部、特に集団競技の対外試合の成績は芳しくない。また、スポーツ推薦で入学者をとるということもしていなかった。とはいえ、全く真面目にやっていないとも言えないのである。すばらしい体力をもっている旭でも、時間的な面を考えると両立は難しい。
「やっぱり文科系ですか」
「家業を優先させるなら、ね。でも概してだらっとした雰囲気だから、君に合うかどうか。そもそも帰宅部にして、実家の方に専念してもいいと思うよ。別に強制じゃないんだから」
「ええ。そうも考えたんですが、せっかく高校に入ったのだから、何か新しいことをやってみたいとも思うんですよ。武道は好きですけれど、それしか知らない大人になるというのもどうも」
「自分の狭い範囲しか知らない、そんな大人ならいくらでもいるさ」
 蔵人が鼻で笑う。そして、自分を見据える旭の視線に気がついた。


「まあいい、そんなことはどうでも。だったら生徒会なんて面白いんじゃないかな。うちの学校では花形だし、結構やりがいもあるみたいだよ。その割には運動部ほど時間を取られないようだし」
「なるほど、それがありましたか。なら今度のええと、オリエンテーションでしたっけ」
「ああ、そんなものもあったね」
 部活やサークルの新入生勧誘イベントなので、帰宅部三年の蔵人にはもう縁がない。
「そこでとりあえずあたってみます。ありがとうございました」
「いえいえ、どう致しまして」
 くすりと笑って、蔵人は前を見た。学校に着くまでには、まだ少し時間がある。
「あ、そういえば先輩。昨日変な噂を聞いたんですけれど」
 旭もその間に気がついており、別の話題を振った。それにしても、彼はまだ入学間もないはずだ。学内としては今の所、比較的噂が流布しにくい環境にある。それにあまり、根拠の怪しい話に耳を傾けるような性格ではない。それでも聞こえてくるとは、余程の噂であるようだ。
「なに?」
「いや、それが」
 自分から話を振っておいて、旭は言いよどんでしまった。それで、蔵人はその噂とやらの内容を察する。まあ、現状で「噂」と聞いた時点で大方そうだろうとは思っていたのだが。
「ブルマはいてる女の子の恋愛は成就する、っていう、例のアレだね」
 言うのも恥ずかしがっている旭の口から無理やり引き出すのも面白いかと思ったが、時間をかけすぎると学校について逃げられてしまう。蔵人はさらっと、言ってのけた。
「はあ」
 旭は自分の顔が少し熱を帯びていることを自覚していた。
「ふふふ。武道一筋の旭クンも、そろそろそんな話題が気になるお年頃かな」
 蔵人がわざとらしくにやにやと笑って見せる。旭は慌てて首を振った。
「そんなんじゃありませんよ。ただ、どうしてそんな下らない噂が蔓延しているのか、それが気になって」
「当人たちは下らないと思っていないからさ。恋愛というのはどうやら、人生の一大事らしい。そんなに重大であれば噂などに振り回されないで、自分の意志をしっかり持たなければならないものを、ね」
 今度の笑みは、熱のないものだった。そういう彼には、少なくとも自分が何を言っても無駄だと、旭は知っている。どこかで何かを拒絶している、そんな男なのだ。だから旭はあえて、必要以上に踏み込もうとしない。その遠慮が、彼を蔵人にとって比較的にではあるが親しい人間にしていた。
「要するに、気の迷いが流言蜚語を生んでいる、そういうことでしょうか」
 旭が中学を出たばかりにも関わらず難しい言葉を色々と知っているのは、武術の勉強のために漢籍に親しんでいるからだ。
「多分、きっと、ね」
 そしてまた、蔵人は笑った。意味はとにかく、よく笑う男だ。
「それにしても、君は気の迷いと断じるし、客観的に見てしまえば全くその通りではあるけれど、しかし君自身迷ったりはしないのかな」
「いやそれが本当に、全然ですよ。武術ばかりやっているとそういう方面には完璧に駄目だって、自分でも思いますけれどね」
 別に偽るでもなく、本心を述べる。つい先日新しいクラスの編成によって何人もの女子生徒と知り合ったのだが、だからどうだということは実際になかった。それ以前、つまり中学校在学時を思い出してみても、取り立てて気になる女子はいない、そんな菅原旭だった。端的に言って、愛を語るより自分が強くなることの方が、少なくとも自分にとっては大事なのだと思う。
「しょうがない奴だな。ま、それはそれで仕方がないと思うことにして、じゃあ、君を好きだっていう女の子が出てきたら、どうするつもりなんだ」
「どうするって、考えたこともないですね。だってそんなこと、ありえません。今時流行りもしない、しかも中でも本流を外れている剣術道場の跡取り息子、そんな人間を好きになってくれる女の人なんて、いるはずないじゃないですか」
 旭の家の道場は、戦後以降軍国主義を排する形で成立した現在の「剣道」ではなく、「剣術」を教えている。前者の基礎が成立する江戸時代以前、つまり戦国時代やもっと古い時代の、戦場の殺し合いの技を今に伝えているのだ。
 蔵人はその頑固としかいいようのない心意気が気に入って、そこで教えを受ける身分となっている。そして自分自身でも驚くほど真面目にやっているだけに、その努力を軽々と上回る旭の天性の才能には、驚くばかりだった。二歳も年長、つまり肉体的にだけでなく精神的にも長じているはずの蔵人と旭は、道場で剣を交える限りにおいて、現時点ですでに互角の腕前なのである。それでいてその結果におごるでもなく、旭はあくまで年長者、兄弟子に当たる蔵人を立てることを心得ている。いくら自分が跡取りであったとしても、だ。
「いるはずがない、と来たか。その顔と性格ならそうでもないと思うが、まああれだな。そんなふうに思っていれば、万が一好意を持った女性が現れたとしても、気づきもしないか」
「要は鈍いということですよね」
 あっさり自分から認めたのは、その自覚が十分にあるためだ。自分には武術のことしか分からない、朴念仁と言われても文句が言えないと思っている。それを理解しているので、この際蔵人も容赦しなかった。
「要はね。ま、女気なしで道を極めるって生き方が悪いとは言わないが、もし君を好いてくれる女性がいるとしたら、その人を泣かせないためにちょっと周りを意識してみるのもいいんじゃないか」
「はあ」
 蔵人の言うことも正論ではあると思う。武術しか知らないということが自分自身の可能性を狭めるおそれがあると、旭自身認めているからだ。しかしそんな女性が現れるという現実感が全くなくて、生返事だった。
「まあいいさ。もし悩むようならその手のことに滅茶苦茶詳しい知り合いがいるから、そいつを紹介するよ」
 蔵人も、自分がその方面に詳しいとは思っていないようだ。さておき、旭はツッコミを入れておく。
「どんな知り合いですか」
「二年の澤守静馬。この学校で一番もてているといって間違いない」
「ああ、そういえば。凄くかっこいい先輩がいるとか、女子がきゃあきゃあ騒いでましたっけ」
「あいつ、早くも新入生にこなをかけているな」
「ははははは」
 とんでもない人もいるものだ。しかし自分は男だから縁もないだろう。そう思って、旭はただ笑った。
 やがて二人は学校につき、それぞれの教室へ向かうべく別れた。その時旭は、蔵人が自分の背中を見て笑っていることに気がついていなかった。

続く


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