午後の恋人たち 新章外伝

追憶編 中篇


 駅前で旭と出会ったその日の昼休み、蔵人は昼食を焼きそばパンとコーヒー牛乳で簡単に済ませて、音楽室に向かった。彼なら大体、この時間はそこにいるはずだ。
 そして案の定、そこへ近づくにつれてヴァイオリンの優雅な調べが聞こえてきた。こんな時間まで熱心に練習しなければならない、そんな初心者の演奏とは明らかに違う。高校生離れした、というよりも素人の域を既に大きく超えており、専門家ではない蔵人の耳には完璧としか聞こえない。
 そして彼が音楽室に入ったのは、一曲演奏が終わってからである。扉の開閉の音で演奏を邪魔しないよう、気を使ったのだ。その室内は拍手の嵐、そしてそれを浴びているのは、細身の男子生徒だった。その顔立ちは女子生徒ではないかと思えるほど繊細で、壇上に立つその姿は奏者というよりも、それを演じる俳優を思わせた。
「珍しいですね、蔵人さんがここへ来るなんて」
 別段、拍手に対して照れた様子はない。自然に流している。彼にとってはそうされて当然だからだ。
「ちょっとね。皆さんごめんなさい、静馬を少し借りていいですか」
 熱心に拍手を贈っていた聴衆に、とりあえず断っておく。その全員が、女子生徒だった。
「早く返してくださいねー」
 すかさずそんな声が飛ぶ。残念そうな顔をするものもいないではなかったが、しかしそれを口に出すものはいなかった。静馬は彼の友人を邪険にするような、そんな過剰な嫉妬心を持った女が嫌いなのだ。それはここに集まった彼のファンなら、誰もが承知している。
「はいはい、分かってます。手短に済ませますよ」
 蔵人にも恨まれる気はさらさらない。丁寧にヴァイオリンを片付ける静馬を待ってから、すぐに廊下に出て用件に入った。
「今度知り合いがうちの高校に入学したんだが、これがなかなか面白い子でね。顔も性格も結構いい線をいっているんだが、これまで武道一筋だったおかげで今の所彼女を作るとかそういう方面に全然興味がない。例の話を広める素材として、うってつけだと思わないか」
「ああ、なるほど。しかしそんなお知り合いがいるのなら、もっと前から教えていただいても良かったのではありませんか」
「いや、今朝彼の顔見て思いついたから」
「あはははは。いいですね、その行き当たりばったり具合」
 部屋の中で待たされている人間たちがあこがれてやまない、そんな輝くような笑顔を静馬は見せる。これで悪巧みをしているとは、蔵人以外の人間には想像もつかないだろう。
「それで、武道一筋と言いますと、その他スポーツの方は?」
「万能だよ。すばらしい身体能力だ。あと、さっき生徒会に入るよう勧めてみたから、うまくすればその方面からも目立つことになる」
「さすがは蔵人さん、とっさのことでも抜け目がない。それで、そのゴールデンボーイの名前は?」
「菅原旭。必要なら後で何組かも調べておくよ」
「ええ。でも恐らく、必要ないと思います。その辺の基礎的な情報は、自然に入ってくることになるでしょうから」
「そうだな。学年が違うが君なら大丈夫だろう。一年生の間でももう噂になっているそうだし」
「まあ当然ですね」
 静馬はさらっとした前髪をかきあげた。
「おぬしも悪よのう、三河屋」
 実は彼自身が、そんな噂が立つように仕向けている。自分がそう疑っていると示すのに、蔵人はそんな表現をした。ちなみに何故「越後屋」や「大黒屋」ではなく「三河屋」なのかというと、静馬の家が先祖をたどれば三河出身の旗本だと知っているからだ。
「いえいえ、お代官様には及びません」
 静馬は静馬で、そんな時代劇調の台詞ではぐらかす。他に誰も見ていない小芝居であるが、自分たちが面白ければそれでよい。
「それじゃあ、他になければとりあえず今日はこれで引き揚げるけれど」
「今の所は特に。何かあれば声をかけますから」
「分かった。それじゃあ」
 簡単に挨拶をして別れる。そんなに気合を入れてやるような話では、ないはずだ。
「ねーねー、静馬くん、何のお話だったの?」
 立ち去る背中に、音楽室の中からの黄色い声が当たる。静馬はこう、答えていた。
「いや、今度入って来た一年生に、菅原っていう凄くかっこいい男がいるから、君もうかうかしていられないぞ、ってさ。変な先輩だよね。親切なのは分かるけれど」
「えー、でも静馬くんよりかっこいい男なんて、いないよ」
「ねー」
 蔵人はまた笑って、歩いて行った。今から全員で静馬に弁当のおかずを貢ぐという恒例行事が始まるはずだが、蔵人としてはもちろんそんなものに一切興味がないのだ

 その後、旭は生徒会の一年生副会長に収まった。例年通り他にやりたがる人間がいなかったため、引き受けたのである。活動は期待していた以上に充実していたし、同時に実家でやっている剣術とも苦労なく両立できた。
 また、クラスの友人も多く作った。旭は自分を器用な人間だとは思っていないが、それだけにその実直さが信用されたらしい。また、抜群の運動能力のおかげで体育の授業の際にはとにかく頼られたし、昼休みの遊びとしてスポーツをするときも、中心メンバーの一人になった。
 ただ、そんな体育会系的な生活をしているだけに相変わらず、女子で親しいクラスメイトというのはできなかった。別に避けてはいないのでそれなりに顔や名前を覚えたり、用事があれば言葉を交わすくらいはしたが、遊び仲間は男ばかりである。
 悲しい生活だ、と感じる問題意識でもあれば打開する努力をしたかもしれないが、なお悪いことにそんな気が一向に起きなかった。旭としてはそれなりに、楽しい学園生活を送っていたのである。始めのうちは蔵人に言われたことが多少気にならないでもなかったが、そのうち忘れてしまっていた。
 そしてこの日も、旭は張り切って体育の授業を受けるべくグラウンドへ出た。いつものスポーツ仲間と連れ立ってわらわらと、という所である。手早く着替えて、軽くキャッチボールをするなどして体を温める。
 今日の授業はタッチフットボール、アメリカンフットボールを変形させたもので、あのいかつい防具を使わなくとも競技ができるようになっている。使うボールはアメリカンフットボールのものと同じで、細長い。これはうまく投げれば球形のものよりもかなり遠くまで届くのだが、失敗するとあらぬ方向へ行ってしまう。つまり技量の優劣が如実に現れるため、投げているだけでもそれなりに面白い。体慣らしにはもってこいである。
「それっ!」
 旭が投じたボールは鋭い回転の末、狙い通りに相手の胸元におさまる。そして若干後退する。そうやって徐々に距離を広げてゆくのだ。
「おおりゃあっ!」
「あ、こら!」
 相手が投げ返そうとする。その手がボールから離れた瞬間に、旭は叫んでいた。
「すまーん」
「力を入れればいいってものじゃないんだぞ」
 かけられた力、与えられた回転は申し分ない。二人の会話の間に、美しい軌道を描いて、ボールははるか遠くへと飛んでいった。要は、狙いを誤ったのだ。
「まったくもう」
 とりあえず自分の方が近いので、旭は飛んでいった方へと走ってゆく。暴投ボールは、グラウンド外れの倉庫の辺りでまだ跳ね回っていた。そして動きの読めないそれに阻まれているらしく、その場に一人の女子生徒が立ち尽くしていた。
「ごめんなさい」
 とっさに謝って走る速度を上げ、ようやく止まったボールを回収する。そして素早く、元来た方へと投げ返した。
「ナーイス!」
 かなりの距離だったが、今度も狙いを外さなかった。それから、まだ棒立ちになっている女子生徒を眺めやる。
「怪我はない、よね」
 あの勢いで、しかもボールはかなり硬い。直撃を受けていればただではすまないはずだが、少なくともそんな様子はなかった。
「う、うん。大丈夫」
 そしてようやく、彼女は返事をした。クラス委員で、来光(らいこう)という苗字だ。名前の方は、とっさに思い出せなかった。
「倉庫に用事だね。驚かせたお詫びのしるしに手伝うよ」
 直接の責任はもちろん、暴投をした人間にある。しかし一緒になって遊んでいた以上、自分にも責任がないではない。旭はそのように考える人間だ。それに体育用具は概して重いので、女子の手には余ることがある。
「あ、でも、別にいいわよ。石灰を取りに来ただけだから」
 石灰、と言っても物質そのものではなく、彼女が取りに来たのはそれを使った白線を引くための道具だ。タイヤがついているから、確かに運ぶのにも取り立てて腕力を必要とはしない。
「そう? それじゃあどうぞ、って、あれ、中身がないか」
 旭の手近に合った道具は、ほぼ空だった。湿気によって固まった白いものがわずかに内側にこびりついているだけで、とても使用できない。
「だからいいってば」
 そういいながら、来光が自分の手近にあったものを片手でひょいと持ち上げる。女子の腕力で軽々とそんなことができるのなら、と旭は見て取った。
「多分それも空だよ」
「え? あ、ほんと」
「後は、使えそうにないのしか見当たらないな」
 奥の方にもう一台あったのだが、それは車輪が壊れており、長らく放置されているようだった。
 ただ、それでもう手がないというものでもない。袋詰めになっているものを出して、器具に入れてやれば良いだけである。小学生ではないのだから、そのくらいの作業で教師の手を煩わすまでもない。
「じゃあ出すよ」
 倉庫の奥まで入って、旭は石灰の袋を取って来た。十キロ入りと袋の表面に書いてある。この重さになると、女子でも持てないことはないにせよ、取り回しはやや難しいはずだ。男子でもものぐさな人間は嫌がる。他人の手を煩わせることを遠慮しているらしい来光も、さすがにこの場合無理に自分がやるとは言わなかった。
 一方旭にしてみれば、何でもない重さである。無論腕力も必要だが、それ以上に重要なのはバランス感覚だ。制止している高々十キロの物体の重心を見極められないようでは、数十キロにおよんでしかも動き回る人間を制することなどまず不可能である。旭がやっているのは主に剣術だが、それと組み合わせられるような投げ技なども習得している。
 手早く封を切って、ほとんどこぼさずに器具へと粉を流し込んでゆく。何故とはなしに、二人でそれを眺めていた。
「ねえ、菅原くんってさ」
「ん?」
「誰にでもそうやって、優しいんだよね。特に女の子に対しては」
 流れる白い粉と同じくらい、彼女の声は乾いていた。何故そうなのかは、旭には分からない。


「うん。女子に対して大体こんな態度を取ってるのは確かにそうだよ。ただ、それを優しいって言うのかな。俺はただ、力仕事は男がやるべきだと思っているだけだから。修行にもなるしね」
 そういえば、そうやって何の気なしに手助けをした機会が一番多いのは来光かもしれない。同じクラスであり、また委員をやらされているだけに色々と雑用をする機会が多かったからだ。その結果として妙な誤解を招いてでもいるのかな、と旭は思った。
「だからまあ、別に下心があるとかそういうことじゃないし、それは安心して」
「そうね。ありがとう」
 ちょうど石灰を注ぎ終えたので、来光はその器具を引きずってさっさと立ち去った。終始機嫌が良いとは言えなかったその様子が、旭としても気にならないではなかった。もっとも彼女の体操服姿を見ても、この学校に奇妙な噂が流布していることさえ忘れている、そんな彼であった。

 その日の放課後、旭は蔵人の訪問を受けていた。受験生としてそろそろ予備校と道場を掛け持ちすることが難しくなっており、今後について道場主である旭の父親と一度ゆっくり相談をする時間を持ちたい、との用件である。
「承知しました。先輩はやはり、医大志望ですか」
 旭が口を差し挟めるような問題ではない。今はただ、伝言役を引き受けるしかないだろう。そこで雑談に切り替えた。蔵人は開業医の息子であると聞いている。
「まあね。せっかくの資産をみすみす他人に全部譲ってしまうこともないだろうし」
「はあ」
「それより旭、何か考え事をしてたんじゃないのか。何かぼんやりしているようだったが」
 進路については複雑な思いもあるのか、蔵人はすぐに話題を変えてしまった。実は図星だったのだが、旭は慌ててかぶりをふる。
「いや、別に大したことじゃありませんよ。受験で忙しい方を煩わせるほどもない、些細なことです」
「そんなふうに言われても、気になって集中力がそがれてしまうよ。何しろあの単純な旭が考え事をしているんだから」
「言いましたね。ならこの際、悩んでもらいましょうか」
 そして今日の体育の時間、来光とのいきさつについて説明した。蔵人はそれを、彼にしては笑いもせずに聞いていた。そして一通り説明が終わると、確認してくる。
「来光みのり、君の所のクラス委員だよね」
「よくご存知で」
 自分が忘れていた彼女の名前を、蔵人は覚えていた。さすがに多少驚きはしたが、しかし驚愕したというほどではない。この人は時折、物凄くどうでも良いことや、あるいは本人さえ忘れているようなことをしっかりと覚えているのだ。記憶力が良い上に、興味の対象が一風変わっているらしい。
「まあ、変わっている上に知り合いと同じような意味の名前だったしね」
「へえ」
 何も考えずに言ってしまった次の瞬間、睨まれた。
「お前だよ」
 蔵人は基本的に、目下であっても二人称は「君」を使う。「お前」になるのはこうして鋭く指摘をするときだけだ。
「え? ああ、そうでしたね」
 来光、とは山の頂上で見る朝日、などという意味がある。つまり「旭」とよく似ているのだ。多少難しい言葉だが正月にはよく「ご来光」などと言うし、旭には漢文の知識がある。蔵人としては当然気がついているものと思っていたらしく、呆れ顔になった。
「本当に女子に興味がないんだな」
「はあ」
 実際その通りなので反論のしようがない。蔵人はやや、考え込んだ。
「その件はこっちで善処しておくよ。しばらく下手に動かないように」
 そして結論は、こうである。とっさのことに、旭の反応はかなり遅れた。
「しかし、お忙しい方の手を煩わせるわけには」
「別に大したことはしないよ。その方面が得意な奴に、電話を一本入れるだけだから。後は彼、静馬が何とかしてくれる」
「澤守先輩ですか」
 その名前なら、旭も覚えている。何しろ女子が一々騒ぐものだから、嫌でも記憶に残るのだ。
「ああ。話はしっかりつけておくから、きちんと言うことを聞くように」
「あ、はあ。分かりました」
 有無を言わさぬ迫力に、完全に押し切られた旭だった。
「よろしい。じゃあ、今日はこれで」
 実際忙しいらしく、彼は足早に立ち去ってしまった。旭はとりあえず、深く頭を下げておいた。状況は全くつかめないが、彼なら悪いようにはすまい、そう思っているのだ。

 そして早くも翌日、学校一もてるとの称号を奉られてはばからない例の人物、澤守静馬を旭は目の前にすることとなった。昼休みに彼の使いだという女子生徒から放課後に会えないかという要請があり、それを受け入れたのである。指定された場所は、屋上だった。
 日中は時にさぼり魔や学生愛煙家の溜まり場になったりするここも、放課後には閑散としたものだ。まあ、さぼりも喫煙も堂々とやるものではないので、日中も静かといえば静かなのであるが。
 授業を終えてからすぐやってきた旭は、十分ほど待たされた。
「なるほど。聞いている通り、律儀だね」
 それが彼の、第一声である。声楽家ではないはずだが、それにもどこか音楽的な響きがある。
「わざわざありがとうございます」
 旭はとりあえずそう挨拶したが、静馬はというと首を横に振った。
「別に君のためにこうしているわけじゃないから、そんな台詞はいいよ」
 軽く笑って、さらに続ける。
「ついでに言えば、蔵人さんのためでもないからね。だから後で礼を言う必要もない」
 どうもあまり好意をもたれてはいないらしい。まあ、自分とは正反対の人間であろうし、無理もない。旭はしばらく様子をうかがうことにした。その結果として事態の打開策が得られなくとも、それはそれで仕方のないことだ。悩みの解決を、そうやすやすと他人に頼るべきではない。
「ただ、僕は変な意味じゃなくて、女の子が好きだからね。女の子が傷ついたりするのを放置したとなると、後味が悪い。それは別に、僕のファンの子ではなくても変わりがないよ」
 この台詞を全面的に信用すればの話だが、旭としては先程自分が相手に対して抱いた観念を訂正する必要を感じだ。少なくとも女性をいたわる、という面では共通しているようだ。もっとも、もしそうだとしたら、相手を一人に絞るのではなくファンを多数擁しているという彼自身の現状と矛盾しているような気もする。ただ、今喧嘩を売っても仕方がないので、旭はそれについては触れなかった。
「俺が来光さんを傷つけてしまった、ということですね」
「大方そうだろう。ただ念のため、僕にもう一度、詳しく話してくれないかな」
「はい」
 昨日のできごとに関して、またそれ以前についても含めて、旭は覚えている限りを話した。もっともその記憶の仕方のいい加減さは、蔵人が覚えた以上に静馬を失望させたらしい。
「まあ、いいか。僕の求める水準には遠いが、全く分からないというほどでもない」
 聞いた印象をそう締めくくってから、静馬は語り始めた。
「みのりちゃんは、おそらく君に気があったのさ」
 いきなり名前、しかもちゃんづけである。ただ、旭にはそれについてどうこう考えるだけの心の余裕が、全くなかった。それにのって、静馬は思う所を述べる。
「しかし今もそうだなんて、うぬぼれない方がいい。女心は、いや、こういう言い方は不公平か。他人のことが偉そうに言えるわけでもなし。人間は移り気だよ。そして君の、特に昨日の言動は、心変わりの原因としては十分なものだったと僕は思う。いくらなんでも、鈍すぎる」
 そう指摘されてなお事態が理解できないほど、旭も馬鹿ではなかった。確かに、そうだと考えるのなら、彼女の昨日の態度は全て説明がつく。それだけに、重苦しいもので胸が一杯になった。
「どうしたら、いいんでしょう。来光さんを、これ以上傷つけないためには」
 自分のためではなく、彼女のために。静馬はその言葉に、うなずいた。
「もし彼女の愛想がもう尽きてしまったのなら、何も気づいていないふりをするといい。以前は好きだったが今は嫌いになった、という相手にまとわりつかれるほど鬱陶しいものもないからね」
 こじれた好意、愛情ほど怖いものはない。旭にもそれは、何となくだが分からないではなかった。
「俺にはもう、何もできないってことですね」
「ああ。誰も傷つけずに生きていける人間などいやしない、そう考えて諦めることだ。それが分からずに悪あがきをすると、相手ばかりでなく自分も余計に傷つける。君のように真面目な人間ほど、その傾向が強くていけない」
 真面目、あるいは努力家と呼ばれる人間が悪いとは、静馬も思っていない。ただ、その長所も人間関係については、「しつこい」という短所になりかねないのだ。だから念を押している。旭の性格については、事前に蔵人から聞いてある程度把握していた。
「分かりました」
 旭がゆっくりとうなずくのを見届けてから、静馬は話を進めた。
「そしてもう一つの可能性、彼女にまだその気があるとしたら、だけれど」
 ふと静馬が笑った。今度は何か、面白がっているようであった。
「君はどうしたいのかな」
「俺が、ですか」
 考えてもみなかった。それがおかしいらしく、静馬は笑いすぎで言葉につまらないよう努力しているようだ。
「そう、君だよ。恋愛なんだからさ、一人じゃできないだろう」
「はあ」
 言われてみれば全くその通りだ。今更ながら、自分の鈍さを思い知るばかりである。端で見ていれば、それなりに面白いだろう。
「どうかな? もしこの先いつか彼女に告白でもされたら、君は必ずノーと言うだろうか」
「いや、それは、どうでしょう」
 旭は鼓動の高鳴りを自覚していた。つい先ほどまで意識さえしていなかったのだから、自分でもそれに驚いて、余計に動揺してしまう。
「ふふ。どうやら全くの脈なしでもないようだね。確かに結構可愛い子だし、性格面での評判も中々いい。これ以上の機会を見つけるのは、簡単ではないだろう」
「彼女をご存知なのですか」
 感情を整理する時間を得ようと、旭はやや話をそらした。静馬はしれっとした顔で言ってのける。
「可愛い子には残らずチェックを入れているからね。それに僕のファンにも君と同じクラスの女の子が何人かいるから」
 とっさに呆れてものも言えない。しかしそのおかげで、旭は少し落ち着きを取り戻すことができた。静馬の話の流れに関して、不審な点も見えてくる。
「しかし、あんな態度を取ってしまって、まだ俺を好いていてくれるものでしょうか」
 仮定自体に意味がないのではないのか、そう思えるのだ。しかし静馬は、笑って首を振る。
「可能性を否定はできないよ。同じクラスでしかも君を意識していたのだから、それなりに、少なくとも君が彼女を知っているよりはずっと多くのことを、彼女は君に関して知っているはずだ。その中には君が恋愛にうといという情報も、当然入っているはずだよ。それは覚悟で、好きになったと考える方が自然だろう」
 旭は無言でうなずくしかない。静馬は肩をすくめた。
「まあ、恋は盲目とはよく言うけれど、相手についてその程度も分からずに好意を寄せてしまうとしたら、言いたくないけれどちょっと頭が悪いと言わざるを得ないね」
「なら、その場合は、どうしたらいいのでしょう」
 静馬はにっと笑った。
「いきなり告白、はさすがにまずいね。昨日下心はないと言い切った訳だし。やはり徐々に親しくなってゆくのが一番かな。少しずつ、話をする機会を増やして行けばいい」
「はい。あ、しかし、まだ気があるのかそうじゃないのか見極める自信、俺にはありません。何しろこんな人間ですから」
「ああ、その点に関しては大丈夫。君のクラスの女の子に、それとなく探りを入れてもらうよ。分かったら君に知らせるから」
 どうやら静馬は、始めからそのつもりだったらしい。旭としてはもう、頭を下げるしかなかった。
「ありがとうございます」
「だから、君が感謝をすることでもないけれどね。もっとも、借りを作ったと思うのならそれは君の勝手か。さて、用件は以上、特に質問はないよね」
「はい」
「じゃあ僕はこれで。あ、分かっていると思うけれど、僕から連絡があるまでうかつに動かないように」
「分かりました。それでは」
 静馬はうなずくと、屋上の出入り口へ向けて大きな声を上げた。
「終わったよ!」
「うん!」
 話の間そこで待っていたらしい。一人の女子生徒が、小走りに駆け寄ってきた。静馬はというとゆっくりと歩み寄っている。
「ねえ、何のお話だったの? 静馬くんが男の子と自分から二人っきりになるなんて、初めて見るわ」
「内緒。男と男の約束だからね」
 腕を絡ませながら、静馬は一瞬だけ振り返ってウインクをして見せた。
「えーっ、何それ?」
「僕にだってたまにはそんなこともあるさ」
 やがて会話の内容が聞き取れなくなり、そして程なく姿も消える。邪魔をしないよう、旭はしばらく待ってから屋上を後にした。

続く


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