午後の恋人たち 新章外伝

追憶編 後編


 静馬に相談に乗ってもらった後しばらく、旭はそれまでどおりの学校生活を送っていた。相変わらず遊び仲間は男ばかりであり、体育には入れ込んでその他一般の勉強は概ね普通程度、そして、力仕事はできる限り進んで引き受けた。
 初夏のある日の放課後には、教室から資料室へ、授業で使った映写機を運んでいた。
「菅原くんは相変わらずだねえ」
 そんなふうに言ったのは、フィルムを運んでいる来光みのりである。旭は笑ってうなずいた。
「そうだね」
「自分が女子からなんて呼ばれてるか、知ってる? まあ、手伝ってもらってこんな話をするのも何なんだけど」
 口調が少しとげとげしいし、目元にもやや険がある。それでも旭は、笑っていた。
「便利屋さん、いい人だけどそれで終わり、体力馬鹿一号。とっさに思いつくのはそんな所かな。まあ、他にもちょっと言われているみたいだけれど、一々覚えてないから」

 ちなみに「二号」は旭を体力面でのライバルとみなしている、太田昇というクラスメイトである。ただ、総合力においては概ね旭が上回っているせいか、「一号」の称号は旭のものになったらしい。
「気づいて、たの?」
 その顔から、やや血の気が引いている。歩みを止めてはいなかったが、しかし確かにそれが鈍ってはいた。安心させるために、旭は笑顔を崩さない。
「うん。人より耳がいいらしくてね。ひそひそやっているつもりでも、たまに聞こえることがあるよ」
 修行を積んでいるせいか、誰かに見られたり、噂になっていたりすると良く気がつくのだ。
「気にならないの?」
「全然。俺は自分の主義主張と修行のためにやっているんであって、好かれようとか思ってやっているんじゃないから。強いて気になる所を挙げるとしたら、そうやって無闇に他人を蔑む心根がさもしくて、哀れかなとは思うけれど」
 別に強がりでもなく、それが旭の本心だ。あくまで平静なその様子から、みのりもそれを察したらしい。ゆっくりとつぶやく。
「大人、なんだね」
「それも全然、だね。大人だったら、蒙を啓いてやるとまでは行かなくとも、自分の立場が悪くならないために、誤解を解く努力くらいはするんじゃないかな。まだ修行中以前に子供だから、他の人のことはむしろどうでもいいんだと思う。どっちかと言えば、今はこういうことの方にこだわってたりして」
 到着した資料室の扉を、旭はひょいと上げた足で開けた。その光景と、そして開いた扉を、みのりは不思議そうに眺める。
「何で引き戸じゃなくて、ノブの扉が足で開くわけ?」
「練習すればできるようになるよ。まあ、普通の人はこんな大荷物抱えてやらない方が無難だけれどね」
「いや、制服これ、スカートだし」
「ああ、そうだったね」
 機材を一通りもとの位置に戻す。旭の作業は力仕事ながらもすぐに済むが、みのりの方はというと複数のフィルムをそれぞれ所定の場所に収めなければならないため、やや時間がかかる。旭はそれを、何となく眺めていた。
「本当に、子供だよ。気になっている女の子もいるのに、言い出せやしない」
 旭は笑っていた。自分に呆れていて、おかしかったのだ。
「な、何よそれ。初耳」
 作業をしている手元がおかしくなっている。みのり本人ではなく、旭がそれに気づいていた。
「それは、まあ。クラスの誰にも言ってはいないし、鈍いと思われてるからそもそもそんな目で見られていないんだろうね」
「だ、誰よ」
 意外と落ち着いているものだ。まさかとは思うがこれも修行の成果だろうか。旭はそんなことさえ、考えていた。
「来光さん」
「え? だ、だから誰よ。一々私の名前なんて、呼ばなくていいから」
「だから、俺が気になってるのは来光さん。君だよ」
 おぼつかない手つきではあったが、みのりはどうにか、片づけを終えた。
「ば、馬鹿! 何言ってんのよっ!」
 どん、と、翻った彼女の拳が旭の胸に打ちつけられる。楽に避けられたはずのそれを、旭はそのまま受け止めていた。
「馬鹿は認める。でも、本気だから」
「だ、だって、あの時何の気もないって、そう言ったじゃない!」
 さらに一撃。しかしそれを気にとめもせず、旭は「あの時」を思い出していた。
「気が変わった。じゃあ、駄目かな」
「バカッ!」
 もう一発。今度は手先ではなく、付け根の硬い骨の部分が当たったので、結構痛かった。
「馬鹿、ばか…」
 みのりはただ、そう繰り返す。しかし抱き寄せた旭の腕を、振り解こうとはしなかった。

 翌週のある日、昼休みの開始を告げるチャイムが鳴ると、旭は教師が立ち去る前から弁当を取り出していた。まあ、それを一々とがめる人間かどうかはそろそろ分かっているので、それを判断した上での行動ではある。
「旭、ちょっといいか」
 体力馬鹿二号、こと大田昇が、その目の前に立ちはだかった。
「ああ。今日は何する? バスケ? それともドッジか?」
 恒例の、昼休みスポーツのメニューをたずねる。しかし違うな、と旭は察していた。周りの空気がおかしい。その辺にいる男子全てが、それとなく自分たちに注意を払っていた。
 朝から徐々に、その妙な気配を帯びた人間の数が増えている。恐らく授業中のメモのやり取り、あるいは休み時間の廊下やトイレなど、旭のいない所で話が広がっていたようだ。例えば昇などの親しい人間に、休み時間の間に探りを入れたりもしてみたのだが、その際には完全にしらばっくれられてしまった。
 それが今、向こうから正面切って決戦を求めてきているのだ。応じる心積もりは十分にある。始めにとぼけて見せたのは、いわば牽制である。
「そんなことはどうでもいい」
「そんなこと、と来たか。まあいい、何だよ」
 口を開く前に、昇はつばを飲み込んでいた。
「お前、来光さんとつき合い出したって、本当か?」
 ちらっと彼女を見やると、顔を赤くしながらも小さくうなずいてくれた。そして彼女と一緒に昼食を食べようとしている親しい友人たちは、必死で平静を装っているようだ。
「ああ。それがどうかしたのか」
 相手の気迫がまるで全くないもののように、素で答える。みのりから、クラスの親しい女子には話しており、既にそれが女子の間中に広まっていると聞いているのだ。今更隠し立てをしても、何の意味もない。
「何いッ!」
 しかし昇を筆頭として、その場にいたクラスの男子全員の声が、一つになった。その響きが教室中を震わせる。
「おい、全員かよ」
「お前だけはありえないだろう!」
 またしても、テノールからバスまで、すばらしい合唱が行われる。これにはさすがに、年齢の割には人間ができている旭も頭に来た。
「言ったな!」
 そしてもう、昼休みが終わるまで、収集不能な事態になる。しかしみのりはそれを、どこか楽しそうに眺めていた。その一方で彼女に聞こえない所の女子の間では、やはり例の噂は本当だったのではないか、まさか、などとそんなささやきが交わされるのであった。
「何だ、あの騒ぎは」
 それは、三年生の教室にまでも響いていた。受験生として早くも少し気の立っている生徒が、不快感をあらわにする。その隣にいた蔵人は、軽く笑った。
「まあまあ。ちょっとくらいいいじゃないか。この学校にまた新しい伝説が生まれた、その瞬間なのさ、あれは」
「何だよ、そりゃ」
「あれだよ、あれ」
 そして蔵人は、説明を始めるのであった。
 悪事千里を走る。いや、悪事ではないが、噂が広まる速さというものを、例えば静馬は良く知っていた。旭とみのりがどうなったかについての情報を、このとき彼は同じクラスの男子たちよりも余程早く入手している。話題は既に、関連したものに移っていた。
「さすがは静馬さんですよね。自分以外の人の恋愛までうまく行かせちゃうなんて。それも、菅原くんって、そういうの全然鈍い人だって、有名だったのに」
 なお、こうして親しげに話しかけているのは、授業が終わるなり彼の教室に飛んできた一年生女子である。みのりの心情の動向に関して、探りを入れていた一人でもある。そして、旭と話し合いを持った際に待っていたのとは違う人物だ。
「可能性がないと思っていたらそもそも手を貸したりしない、それだけのことさ。まあ、あのおかしな話も意外と真実だったということにしてもいいけれど」
「あれ、静馬さんなら全部自分のおかげだとおっしゃると思っていました」
 自信家であることを、静馬は隠してはいなかった。しかしそれは、過信とは違う。少なくとも、そのつもりだ。
「いくら僕でも、始めからその気のない人間をどうすることもできないよ」
「でも、よりにもよって、あれですか。迷信にもほどがありはしませんか」
「いいのさ、迷信でも。愛するということは、相手を信じること、そして相手にふさわしい人間は自分だと、自分を信じること。それでいて、相手は本当に自分を愛してくれるのだろうかと迷うこと、また、自分は本当に相手にふさわしいのだろうかと、迷うことだから」
 歌うような声を、相手はぼんやりと聞いている。あるいは聞いていないのかもしれないが、静馬は構わなかった。
「事実だとはとても言えない。でも、きっと、真実なんだ。どんなつまらないことでも、それが信じる勇気をくれるなら、ね」
 蔵人もいつかはそれを認めるだろう。気づかないふりをしていつまでも自分自身をだまし続けるには、彼は鋭すぎる。静馬はそう思っていた。
「あの、それじゃあ、静馬さん」
 ふと、柄にもなく、目の前に女の子がいるのに、別のことを考えていた。静馬はその声によって、そう気がついた。改めて見直してみると、彼女の目は、熱っぽい光を帯びている。
「なに?」
「あたしも信じれば、その…」
「頑張ってみることだね。人一倍」
「はいっ!」
 そしていつものように、静馬は音楽室へと歩いてゆくのだった。彼の演奏を待っている、多くの女子生徒のために。

 語り終えると、今や医師であり、また道場の師範でもある菅原旭はややぬるくなったお茶をすすった。相槌を打つばかりだった昭博が、口を湿らせてから問いただす。
「要するに、『例の伝説』を広めるために、利用されたんですよね、先生は」
「見方によってはそうなるかな。まあ、正確を期して言えば、当時は噂に過ぎなかったものが、私をきっかけにして伝説になって行った、という所だけれど」
 旭は平然と、背景の事実関係を認めた。つまり今や、彼もそれを知っているということだ。昭博は苦労して、口を開く。
「良く、友達を続けてますね」
「私としては、彼女を作るのにわざわざ労力を払ってくれたのだから、感謝こそすれ文句をつける筋合いがあるとは思っていないよ」
「はあ」
 人がいいにもほどがある。昭博はそう思わずにいられなかったが、先生と呼んでいる人間に対してそれをはっきり言う訳にも行かないと判断した。代わりに、別のことを聞く。
「それで、そのみのりさんとは、その後どうなったんですか」
「ぷっ!」
 また吹き出す。さすがに、昭博は苦情を申し立てた。
「済みません、先生。俺には先生の笑いのツボが今一つ分からないんですが」
「くくく。いや、私自身鈍い鈍いと散々言われ続けた人間だから偉そうなことを言う筋合いは全くないけれど、ねえ、手塚君、いや昭博君」
 旭は卓の上においていた手を動かした。どうもさっきから、意味のない動作が多い。基本的に無駄な動作のない人間だと、昭博は察していた。
「せっかく勘が鋭いんだから、こういう所にも気を配っておくといいよ。ほら」
 そして、左手を差し出して見せてくれる。その薬指には、飾り気のないリングがはめられていた。鈍い光はプラチナではなく銀かな、とも思うのだが、宝飾品にとんと興味のない昭博としては自信が持てない。しかしともかく、そこに込められている意味には、高校生当時鈍いと有名だった旭にさえ笑われる昭博でも、気づかざるを得なかった。
 そもそもそんなことには、話し始める際に旭が手を意味もなく動かした際に、気づくべきだったのだ。
「えっ? 結婚していらっしゃるって、え? しかもまさか!」
「今彼女は、菅原みのり、と名乗っているよ」
 笑って、駄目を押す。開いた口が塞がらない昭博というものを見たことがある。旭はそんな、希少な人間の一人になった。
「大体ね。ここへ何度か来たことがあるんだから、ちゃんと注意をしていれば、女性の生活感を察せられたはずだよ。そういう観察力や、それに基づく気配りをもっていないと、時折女性の気分を害してしまうから、気をつけたほうがいい」
「はあ」
 うなずくしかない、そんな昭博だった。この際、白旗を揚げることにする。
「自分のあまりの至らなさを認めて教えを請いますけれど、それではそもそも、最初に大笑いをなさった理由が俺にはまだ分からないんですが」
「ああ、あれね。謙虚なのはいいことだ。それではさて、どう説明しようか」
 笑いのツボを教える作業とは、確かに難しい。旭は天井を見て、少し考えた。
「ああ、そうそう。式を挙げるときにね、冗談交じりに蔵人さんか静馬さんか、どちらかに仲人をお願いしようと思ったんだ。彼女には反対されたけれど」
「そりゃそうでしょう、いくらなんでも。そもそもどうやって挨拶をさせる気だったんですか」
「いや、それが見物だからやらせようと思ったんだし、彼女も面白がりはしたんだよ。でも、物凄く難しいと思える理由があったんだ。何だと思う?」
「普通仲人って、地位とか名誉とか、それなりの人がやるものだからじゃないですか」
「まあ、そうだね。確かに年齢的なネックはあったけれど、でも先輩ドクターとか、日本を出て活躍している音楽家とか、地位や名誉はそれなりにあると思わないか? それは、重大な原因ではないよ」
「ですねえ」
 昭博は両手を挙げた。
「仲人っていうのはね、普通既婚者がやるものなんだ、日本では伝統的に。未婚者にやらせるような型破りをするくらいなら、そもそもそういう形式を踏まないものだよ」
「あ、まさか!」
「そう。二人ともまだ、結婚はしていないよ。私が一番乗りだ」
「は、ははははは」
 昭博はむしろ、力なく笑う。構わず、旭は続けた。
「ま、当時の蔵人さんのように、そもそもそんなものに気が迷った時点で負けだという考え方もあるし、あるいは静馬さんのように数がとにかく増える人もいる。しかし私は、いい相手とゴールすることこそ、『勝ち』だと思うんだ」
「ははははははははは。あはははははははは」
 昭博はしばらく、笑い続けていた。

午後の恋人たち 新章外伝 追憶編 了


前へ 小説の棚へ