王都シリーズW
王都怪談


1 名無しの吟遊詩人


 細い指が琴線をなぞる。余韻もやがて、壁や毛足の長い絨毯に吸い込まれて消えていった。
「さて、坊やはもうだいぶおねむのようだ。今日はこのくらいにしよう」
 先ほどまで雄々しい英雄たちの叙事詩を詠っていたその口が、今度は優しくささやく。言われた少年はやや口を尖らせたが、しかしすっかり重くなったまぶたに勝てそうもないことを悟ってもいた。
「おやすみなさい」
 それでも挨拶は忘れないあたりが、しつけの良さをうかがわせる。そしてひょこりと頭を下げた後、彼は母親に手を引かれて部屋を出た。
 やろうと思えば乳母なり養育係なりをいくらでも雇えるだけの財力が、この家にはある。そしてそのような上流階級の場合、子供の世話はそういう人間に任せるのが一般的だ。母親には母親で、社交という仕事がある。家業を円滑にするためには、人づき合いも必要なのである。
 しかし彼女は、一人息子を溺愛していると言って良い。手放したがらないため、人任せにしていないのである。あらゆる身の回りの世話はもちろん、学業についても今の所必要とされる範囲の全てを担っている。
「どうもありがとうございました、今日は特に長い間」
 父親、ファルラスが息子に代わって例を述べた。そもそも自分の妻以上に学識、教養、行儀作法、そして何より人格的な魅力を身につけた人間など、この家の財力をもってしてもそう簡単には見つからない。ファルラスはそう思っているし、それが「のろけ」でないことは、彼女を良く知る人間の全員が認める所だ。
 富裕層の子弟に養育係をつけることが一般的なのは、跡継ぎに英才教育を施すためという側面もある。ある程度の能力を持つ後継者がいなければ、どれほど大きな富があろうと、いずれ散逸してしまうものなのだ。それを防ぐためには、それなりに高度な教育が必要になる。そのためには両親だけでは中々難しいのが普通だが、この家であれば問題ないのである。
 それでも、この客人に対しては丁寧に、そして心からの謝辞を述べる。それほどの価値がある人物なのである。
 自宅に宿をとった人物に、主の息子であるサームが叙事詩を披露するようせがんだ、それが今日のいきさつである。そしてまたこれは、彼がここへ宿泊する際にはもう恒例となっている。
「商売だよ。それに宿代に比べればまだまだ安いものさ」
 竪琴を置きながら、吟遊詩人は柔らかい椅子に沈み込んだ。まだ若い、というより幼ささえ顔立ちに残している。どう見てもファルラスよりは年少だが、主はいつもの丁寧さを崩してはいない。
 吟遊詩人とは旅をしながらその行く先々で、神話や英雄たちの物語を曲に載せて人々に語って聞かせる人間のことだ。その対価として金銭を受け取ったり、あるいはこうして宿と食事を得たりする。
 ある種の旅芸人だが、物語を通して故事来歴に精通しているだけでなく、行く先々の物事を見聞きしているため大陸各地の情勢も知っている。遠距離通信の手段が限られる現状では貴重な存在だ。
 そのためいわば知識人としての側面も有しており、大概の場所で敬意が払われる。王侯貴族なら他国の動向を知る手がかりにできるし、商人ならば儲け話の機会を得ることができる。そしてもちろん、そこまで切羽詰っていない人々にとっては無聊の慰めになる。余程の事情がない限り、彼らを拒絶する者は芸術や文化を理解しない野蛮人として蔑まれることになるだろう。
 だから吟遊詩人の方でも、さりげなくしかし確実に物事を見聞きし、そして覚えている。有益な情報を提供できれば、それだけ待遇も良くなるというものだ。それにすぐには商品価値のない話でも、創作や脚色の才能のある人間の手にかかれば立派な叙事詩、物語になる。そうして作られた叙事詩は、やがて次の世代に受け継がれてゆく。
 ファルラスの見た所、この吟遊詩人は当座の情報源としての価値はさほど高くない。かなり変わった性格で、興味の対象も普通ではないためだ。本業の吟遊詩人としても、声の質や竪琴の腕は普通程度である。
 しかし、それを補って余りあるほど、様々な物語に精通している。特に現在他の吟遊詩人たちからは忘れ去られてしまっているような、古い古い叙事詩をいくつもそらんじることができるのだ。
 さらに芸達者な面もあって、手品やら腹話術やら、余技にかけてはかなりのものだ。無論その道の専門家には敵わないのだが、吟遊詩人として当然有している演出力を活用して、接する人間を否応なしに引き込むことができる。
 純粋な楽しみとしてなら、これほどの人材は珍しい。そのため、この王都に立ち寄った際は必ずこの自宅を訪ねるようにと言っている。自分はともかく息子が喜ぶのだ。
 一方招かれる側でも、この家は気に入っている。食事、寝室その他、もてなしの全てが極めて高水準だ。宿屋で金を払ってこれだけのことを要求するとなると、相当な高額になる。そのくせ、格式ばったところがない。家庭的な良い雰囲気なのである。だから言われた通り、王都で宿を取るならまず間違いなくここにしている。
 サームが長い話をせがむのも、そうしているうちになついたせいもあるのだ。良く知りもしない大人に対して、駄々をこねるような子ではない。
 もっとも生まれついての気まぐれな性分で、だからこそ定まった住処もない吟遊詩人をやっている。自分さえ望めばいくらでも長逗留ができるのだが、数日もたてばふらりといなくなってしまうのが常だった。
「でもほんと、子供は一日一日大きくなるよね」
「ええ」
 吟遊詩人は、母子が出て行った扉のその先を眺めているようだ。彼が複雑な生い立ちを持っていると、ファルラスは知っている。だから少し、話題を変えることにした。
「ああ、しかしそういえばこの前、一つ面白いことを知りました」
「なになに?」
 吟遊詩人は身を乗り出した。ファルラスの発言は信用できる。のんびりしているように見えてもきちんと見るべきものを見、聞くべきことを聞いているのだ。記憶力や洞察力も優れている。迂闊に口を開かない慎重さも持ち合わせているが、その分開いたからには内容が保障されている。
「サームを寝かしつけようとしている間に、彼女も一緒に寝てしまうことがあるとはご存知ですよね」
「この前一緒の寝顔を見せてもらったのはちゃんと覚えてるよ」
 その場で起こしてしまわないよう、笑いをこらえるのにとにかく苦労した。思い出しただけでくすくすと笑ってしまう。それを見取った上で、ファルラスはまた新たな情報を投げかけた。
「ふとサームから聞いたのですが、何しろ自分より母親の方が早く寝てしまうこともあるせいで、彼は自分が彼女を寝かしつけているものと、固く信じていますよ」
 ファルラス自身、今この場でよどみなく言い終えるのに相当苦労した。聞いた側はもう、椅子から転げ落ちて腹を抱えている。足をばたつかせた弾みで、商売道具の竪琴を倒してしまった。ファルラスがそれを元の位置に戻す。
「ああ、こらこら、大事なものじゃないですか。くくくっ」
「そ、そんなこといったってぇ! ぷははっ!」
 竪琴は長旅にも耐えられるよう、見かけよりはるかに頑丈にできている。もし破損しても、自力で修理が可能だ。それに敷物がとにかく柔らかいので、ここで倒しても壊す方が難しい。掃除も行き届いているため、転がっていても心地よい。
「ふう、相変わらずだねえ。サームもやっぱり性格の方は母親似か」
 苦しくなるまで笑ってから、吟遊詩人は椅子に座り直した。ファルラスも姿勢を戻す。
「そのようです」
 父親は苦笑を返す。吟遊詩人はまたくすりと笑って、話題を変えた。
「ああ、そうそう。実はこっちでも、この前ちょっと面白い話を仕入れてきたんだ」
「何でしょう」
「墓場に幽霊が出るってね」
 あまりにもありがちな話のはずだ。しかしファルラスは、笑った。
「それは、面白そうなお話ですね」
「でしょ。でしょ?」
「詳しくうかがえますか」
「もちろん。話したくてうずうずしてたんだけど、君の他にちゃんと聞いてくれる人のあてがなくてね」
 そして吟遊詩人は、それを詠うでもなく語り始めた。

 蓋を開けると湯気とともに豊かな香りがあふれ出る。
 頃合ね。
 そう見計らったティアは、人さじすくって味をみた。
 うん、上出来。肉と野菜のうまみが隙なく調和して、一つの和音となっているようだ。自分で作ったものだから自画自賛だけれど、そのくらいできなければここでは一人前でないものね。このくらいは神様もお許しになるわ。
 そんなふうに内心でつぶやいて、ティアは思考を完結させた。
 この施療院の主な仕事は、その名の通り病人に治療を施すことである。神官たちは法術と呼ばれる負傷をたちどころに治癒せしめ、病魔を払う軌跡の力を使うことができる。
 ただ、法術によっては直しきれない類の病気もあるし、そうでなくとも落ちた体力を回復させてやらなければまた新たな罹患の原因になる。最終的に患者を治すためには、適切な食事を取らせることが不可欠なのだ。特にこの施療院は貧しい人々を優先して受け入れているため、栄養不良が疾患の遠因となっている患者が多いし、栄養失調そのもので倒れた者もいる。
 つまり食事に関する知識と技術も、医術にとっては欠かすことのできない分野なのだ。この院の長も、極めて優秀な法術使いであるとともに、料理の名人でもある。ティアは尊敬する院長から教えてもらった料理の腕に、誇りと自信を持っているのだった。
 でも、いけないいけない。つい浸ってしまった。お腹を空かして待ちくたびれている患者さんもいるし、何よりせっかくのものを冷ましてしまってはもったいないわ。悪い癖だな…。
 癖だと分かっているのだが、頭の中の独り言がやめられない。ともかくもティアは手早く配膳を始めた。
 そしてしばらくして、食事を配り終えても、ティアの仕事はまだ終わらない。というよりむしろ、これからなのかもしれない。患者が食後に飲むべき薬を用意して、それを手配しなければならないのだ。
 ただ、ここしばらくは少し楽になったのよね。
 そんなことを思いながら、調剤室に向かう。
「調剤室」と言ってもさして特別な部屋だということはない。むしろ物置だった部屋に仕切りを作って改造しただけの、北向きで風通しも良くない部屋だ。
 居住環境としては、否定しようもなく悪い部類に入る。ただ、この施療院において、いわゆる環境の良い部屋はなるべく患者の居室に当てられるべきである。それに薬品の多くは直射日光にさらすと劣化してしまうため、それらの管理に関してはむしろふさわしい、ということで特に異論もなく、調剤室が物置に仕切りを作る形で作られたのである。
 ティアがその扉を叩くと、ややくぐもったような音がした。
 いつもながらたてつけが良くないなあ。今度直した方が良いわよね。でも、自分もほかの神官たちの多くも大工仕事の経験はないし、誰に頼もうかしら…。
「はい、どうぞ」
 返事は柔らかい、男の声だ。考え事をしていたティアは、それを半ば確かめないまま中に入った。元々急病人があれば、問答無用で飛び込んでいるので仕方がない。
「他に何か?」
 中にいた人間も、そのあたりのことは心得ている。既に通常この時間に必要な薬剤は、全て分量が図られた上で一人分ずつ区分がされてそろえられていた。包みにはきちんとそれぞれの患者の名前も書かれている。
「ありませんね。それは良かった」
 彼はかすかに笑った。元々それぞれの患者に与えられるべき薬は決まっている。その予定が崩れたのであれば、それは何かあったという、悪い知らせなのだ。何もなかったらそれで良い、それはティアも同じ思いだ。そしてその思いを共有できることが、少し嬉しい。
 大きくうなずいて、既に用意されていた大きな袋に自分の手でそれぞれの患者のための袋を入れた。薬を作った人間がそうしないのは、薬を与える人間の手を介し、その際に与える人間が点検することによって、投薬の誤りを防ぐためだ。
 一礼して、袋を手にすぐさま患者のところへ行こうとする。その動きを少し遅らせたのは、彼女に近寄る一人の人間の姿だった。
 商人風の装いは、むしろ地味なものだ。くすんだ色を基調にしたその姿は、おとなしい性格を物語るように思える。
「ああ、これはティア様。お元気そうで、何よりです」
 商人は丁寧に頭を下げる。ティアもそれに劣らず、頭を下げた。精一杯やりすぎて平衡を崩しそうになってから、頭を上げる。
 彼は自分から頭を下げるが、ティアとしてはむしろ大きな借りを彼に対して作ったものと思っている。先日彼女がある事件に関して彼に処理を頼んだ際、ティア自身が犯した失策は彼女自身として許しがたいものだった。それでも今こうして無事に済んでいるのは、例えばこの調剤室の主となっている男などの働きがあったからに過ぎない。
「と、それは患者の皆様のお薬ではありませんか? でしたらまず、私などよりそれを必要とされている方々にお時間をお使い下さい」
 頭を上げた商人が、ティアの持っているものを見て指摘する。この男、名前はファルラス=ミストという。詳細はティアも知らないが、どうもこの施療院に多額の寄付を行っているようだ。先の一件では借りも作った。だからこそ丁重に応対をしようとしたのだが、それも無用と諭されてしまった。
 ティアはもう一度頭を下げて、薬の袋を手に立ち去った。彼が言ったのは、まさしくこの施療院の精神そのものなのだ。何よりも慈しむべきなのは、病に苦しむ患者である。例えどれほど高貴な身分のものであっても、あるいは恩義のある相手であっても、その理に変わりはない。
 部外の方に指摘されたのでは立つ瀬がないな。
 少し肩を落とながら、ティアは言われたとおりにした。
 いい人であるのは間違いないのだけれど、相変わらずどこか、つかめない人よね…。商人のはずだけれどお金にこだわらないし、かといって名誉も遠慮したいらしくて寄付も匿名。そして何より利発な息子を育てている優しいお父さん。疑いようのない善人。少なくともそれを装って何かを企んでいる、つまり偽善者だと考えるには無理がありすぎる。
 でも、たぶん、ただの「いい人」じゃない。感情の極端な起伏がほとんど見られないもの。長年修行を積んだ長老神官なら分かるけど、世俗の、しかもまだ若い人がそうできるのは何故なんだろう。院長でさえ、悪に対する激しい怒りが垣間見えることはあるというのに。
 つくづく不思議よね。でも、まさか興味本位で恩義のある人相手に探りを入れるような不躾なまねは出来ないし…。
 考え続けながらも、ティアは背中で残った二人の会話を聞いていた。調剤室の男が腰を浮かせる気配が伝わってくる。
「何か大きな仕事でも?」
 名はストリアス=ハーミス、今はファルラスの下で働いている身である。ただ、ファルラスの店はさして忙しくもないので、暇な時間にはこうして施療院の手伝いをしていた。無論薬剤を扱うなど誰にでもできる仕事ではないが、ストリアスにはその知識があった。
「別に急ぎの話ではありませんから、そう慌てなくともいいですよ」
 ファルラスの声は、いつもどおり落ち着いていた。

 紆余曲折を経て、ティアはその仕事を持ちかけたという人の屋敷を訪れていた。どのあたりが紆余曲折だったかというと、ティアとストリアスの他に、さらにもう二人を同行に加えたことである。逆に話を持ってきたファルラスは、所用だとかで外れている。
 加わったのはタンジェス=ラントとマーシェ=クラブレン、いずれも騎士を養成する士官学校の学生である。二人とも、ファルラスを介してティアと知り合いになっていた。世間から見れば半人前の学生であるとはいえ、少なくとも剣の腕前にかけては相当のものがあると、ティアは承知している。
 特にマーシェは女性であるのだが、それを侮ってかかれば、ほとんどの人間が不覚を取ることだろう。先にティアが目にした機会では、経験豊富な傭兵を見事生け捕りにしていた。
 この二人を、先方に行く際に同道するように。それがファルラスの指示だった。
「そしてよりにもよって、ここですか」
 門扉に掲げられた紋章を見て、タンジェスは軽く自分の頭を叩く。ストリアスは首をかしげた。
「どなたのお屋敷ですか」
「ああ、いや」
「蒼空を舞う白鳥の紋、ノーマ=サイエンフォート卿のお屋敷でしょう。違うか、タンジェス」
 答えたのはマーシェである。
 何か言いたくないことでもあるのかな?
 ティアはタンジェスの口ぶりを聞いて、ふとそう考えた。
「ああ、うん。全くおっしゃるとおりだ。さすがに勉強してるな」
「馬鹿。ノーマ卿といえばこの王都有数の剣客、剣の道を歩むものとして知らない方がおかしい」
 国内外、あまたの貴族諸侯の紋章を覚えるのも、騎士のたしなみの一つである。いざ戦いとなれば、紋章は混乱を極める戦場で敵味方の判別をする有力な手段となるためだ。
「そりゃそうだ」
「それで、何か問題でもあるのか。あの方は君の復学に尽力して下さったそうだが、そのご機嫌を損ねるようなことでもしたのか」
「いや、俺はそんなことしないよ」
 曖昧なタンジェスの言い逃れを聞いて、ストリアスが目を逸らした。ティアがそれを悟って、表情を曇らせる。
 ストリアスは魔術師だ。つい十年ほど前まで禁忌とされていた、強大な力を行使することができる。それゆえ厳しい制約が課せられているのだが、彼は痴情のもつれからそれを破ってしまった。最終的には、以前の交際相手が挙げた結婚の式場に乱入するという大事件を引き起こしている。
 その彼を止めたのが、タンジェスとティアだった。そして事後処理に当たったのがノーマである。タンジェスの停学が解かれたのも、ノーマがこの際の功績を評価して士官学校に働きかけたためだ。
 ただ、この間一貫して事件の詳細は伏せられている。例えばストリアスの名を知っているのは、タンジェスやティアなどその場に居合わせた人間と、ノーマらしかるべき地位にある人々だけだ。事件を起こしてしまったとは言えストリアスは貴重な才能を持った人材であり、その将来をおもんぱかっての処置である。端的に言えば、緘口令が敷かれている。
 そしてタンジェスは、視線を泳がせた。それが向けられたのは当人であるストリアスではなく、ティアである。
 あれ? 私にはノーマ卿のご機嫌を損ねるような覚えなんて、少しもないのに。というよりそもそも挨拶以上の話をしたこともないし、ここしばらくは直接会ってさえいない。あの事件の後感謝状は届いたけれど、届けに来たのは別の人だったし。
 おかしな人だな…。ここは口を開いて確かめるべきだろうか。
 そうも思ったが、結局その機会はなかった。ティアが決断するより先に、当のノーマが姿をあらわしたのだ。
 長身だが、細身に見える人だ。顔立ちも王都有数の剣豪というよりは、むしろ役者のように繊細な整い方をしている。もう少し背が低ければ、美女、佳人として十分に通用しそうな風情である。一見した所では、とても高度な戦闘力を有した人物のようには思えない。
 ティアはとりあえず、視覚以外の感覚に頼ってみることにした。超常の力を操る神官として、「気」を探ってみればまた別のことが分かるかもしれない、と思ったのだ。
 そしてノーマは、ちらりと視線を彼女に向けた。確証はないが、恐らく気を探られていると感づかれたのだろう。その目は少し、困っているようにも見える。
 いけないいけない。王都有数の剣客ともなると直観力も鋭いのよね…。後で謝っておかなきゃ。でもその機会をどうやって作ろうかしら。
「施療院の神官であらせられるティア=エルン様、および茜商会のストリアスどのをお連れ致しました。わたくしは士官学校の学生、マーシェ=クラブレンと申します。同じく学生、タンジェス=ラントを帯同しております」
 ティアが考えている間に、まず敬礼をした上で、マーシェが挨拶をした。彼女は騎士を志す士官学校の学生であるので、騎士のたしなみとして神官に対する礼節をこころえている。一方同輩であるタンジェスについては最後に回していたが、それについてはタンジェス自信が納得しているようだった。別に不服そうな様子もなく、彼女と同様の敬礼を行っている。彼らの間で通用する、共通の価値観があるのだろう。
「ご苦労」
 答礼をして、ノーマは簡単に済ませた。彼の有している近衛騎士という官位の格式は極めて高い。これ以上となると、将軍、あるいは上級貴族など、ごく限られた人間だけだ。言わば騎士見習いである学生を相手にそのような応対をしても、決して非礼には当たらない。
「エルン様、このようなあばら家にわざわざのご足労をいただき、恐縮でございます」
 そしてノーマが、丁寧に礼を施す。彼も無論、神官に対する騎士としての礼節をわきまえているのだ。
「いえ。お困りとあらば、わたくしどもはどれほど高貴な方であれ、あるいは貧しき方であれ、等しく微力をお貸し致します」
 そして神官には神官で、守るべき礼儀がある。神の意志をこの世に実現する存在として、それにふさわしい行いをしなければならないのだ。日頃無口だと言われている自分でも、このくらいの決まりきった社交辞令は当然こなせるのだと、ティアは思う。しかもさらに、珍しいことに自発的につけ加えた。
「それにわたくしのような未熟者には、こうしてお話をいただくことも良い修行の機会ともなりましょう。わたくしの力に修行中ゆえのご不満があれば、是非遠慮なくおっしゃってください。もっと然るべき方に、代わっていただきます」
 タンジェスもストリアスも、そしてマーシェもティアの日頃の無口ぶりを知っている。そのため声にこそ出さないが、ずいぶんと驚いているようだった。それを感じて多少誇らしくなる。
「ああ、いえ。エルン様にお力添えをいただければそれで十分でございます」
 ただ、ノーマの反応は今ひとつ鈍いものだった。直接の面識がないのだから、無論普段の彼女を知ってもいない。不発で当然かと、ティアは反省した。
「ストリアス、若旦那からお話はうかがっている。元気そうで何よりだ」
「あ、はい。どうも、お蔭様で」
 一方話題を変えてノーマがストリアスに対する表情は、にこやかでさえある。むしろ言われた方が、明らかに動揺していた。元来ストリアスは人づきあいに関して器用ではないし、負い目もある。
「さて。立ち話も何ですし、とりあえず応接室にご案内致しましょう」
 そうしてノーマは使用人を呼んで、四人を案内させた。本人は、用意するものがあるとかで一時外している。
「さすがに王都屈指の剣客と言われる方は違うな」
「そうか?」
 応接室の椅子に座るために腰の剣帯から鞘ごと長剣を外しながら、マーシェが声を上げる。間違いなく、何か感動しているようだった。一方同様の動作をしながら返事をしたタンジェスの声には、全く熱がない。別のことを考えているらしい。
「気がつかなかったのか? 仕方のない奴だ。間合いだ、間合い。常に私に対して一足一刀を保っていたぞ」
「あれは遠間だろう、明らかに。普通だったら届かないよ」
「だからそれは普通だったらの話だ。ノーマ卿の剣は我々のものより長いし、さらにあれほどの達人となれば踏み込みも大きいはずだ」
「いや、それを言うならあの人ならもっと遠間でも一足で飛び込んで来れるって」
 以後二人はごちゃごちゃと剣術談義をしていたが、残る二人は興味がないので聞いていなかった。ティアもストリアスも、ただぼうっとしている。ストリアスはティアの無口を承知しているので、わざわざ話題を探そうとはしていない。それがティアにはありがたかった。変に気を遣われると、それに応対を強いられることになるため、無駄に疲れてしまうのだ。
 そうこうしているうちに、資料を抱えてノーマが戻って来た。
「本当に、笑ってしまうような話なのですけれどね」
 椅子にかけながら、実際彼は口元をほころばせていた。天は二物を与えないというのは、神学の素養を全く欠く俗人の戯言だ。これを見れば誰もがそう思うことだろう。
 この人は卓越した剣技と、美貌とを兼ね備えている。若い娘が騒がずにいられない、という所だが、あいにくとこの場にいた二人はどちらもそういう点には無関心だ。普通の様子で話を聞いている。
 そしてすぐに、彼は本題に入った。
「墓場に幽霊が出るそうです」
 どこで落ちがついているのか分からない。うすら寒い沈黙が降りてきたが、ノーマはこの状況をなぜか楽しんでいるようだ。笑って、すぐには言葉を続けようとしない。
「質問をよろしいでしょうか、閣下」
 やがて口を開いたのはタンジェスである。試されているような気がしたのだ。元々人にものを教えるのが好き、という彼の性格を知ってもいる。
「うん、もちろん」
「どこの墓場に、誰の幽霊が出るのでしょう」
 正確な情報を収集するのも、上級武官には必要な心得である。敵味方の状況を把握できなければ、戦争には勝てない。この場合まず優先して押さえておくべきなのは、その二つの要素だと判断した。
「場所は王国墓地、出るのは我が師以下、そこに眠る多数の人々だという」
 さらに笑えない話になってきた。
 王国墓地、というのは王都郊外に存在する、恐らく国内最大の墓地である。戦乱の時代、志半ばで散っていった多くの有名無名の将兵たちを弔うべく設けられたものだ。
 平和な時代となった後に死んだ場合でも、かつての戦友たちと枕を並べるべくここへの埋葬を希望するものが多いため、規模は年々拡大している。また、少し離れた裏手の場所になるが、刑死した者、あるいは身寄りのない者など、引き取り手のない遺体を葬る所もある。
 そこに眠る英霊たち、あるいは怨霊が騒ぎ出したとなると、大事だ。ことにノーマ自身にしてみれば、他ならぬ師匠が関わっているとの話である。
 そもそもこの大陸の人々にとって、「幽霊」という存在は単なる怪談の材料、あるいは迷信などではない。普通の生物や、あるいは無生物と多少意味合いが異なるとはいえ、それは紛れもない実在なのだ。
 例えばタンジェスやマーシェが将来就くかも知れない任務の一つに、「東の島の警備」と呼ばれるものがある。これは武官のあらゆる任地の中でも最も嫌われ、そして文字通り忌まれているものの一つだ。
 数十年前、その全島民が虐殺されたという凄惨な事件の現場であり、それ以来「出る」と言われている。目に見えるとは限らないものを否定するのは簡単だが、しかしそれを侮って立ち入った者の多くが帰らず、運良く帰ってきたとしても気がふれていた。
 現在はその祟りも解消されていると言われるが、配属された騎士、兵士が島の奥に足を踏み入れることは引き続き固く戒められている。安全だとされる港口のみを警備し、不心得者の侵入を防いで死者の眠りを妨げないのが職務である。
 無論騎士や兵士たちであるから、怪異を恐れない者も少なくない。ただ、そのような即物的な人間にしてみれば何の娯楽もないただの孤島であるので、それはそれで苦痛の多い勤務になる。それに手柄を立てて出世をしようと考えている人間にも、向かない。
 そんな中で、ティアは一人うなずいていた。
「さすがにやはり、その道の方はすぐお分かりになるようですね」
 ノーマが評するのを、当然だという顔でもう一度うなずく。残る三人が顔を見合わせるものだから、無口を自覚しているティアとしても説明をすることにした。
「重ね重ね、祭祀をおこなっています」
「ああ、はいはい。そうでした。ティアさんたち神官の皆さんが、何度もお祈りをしていますものね。定期的に慰霊祭もありますし。その過程でもう冥界に旅立ったはずの人たちが、いまさら急に出てくるなんておかしい話です」
 ストリアスがそこで気がついた。無口を補ってくれているらしく、説明を加える。概ね間違っていなかったので、ティアは礼がてらうなずいた。
 ここに至ってタンジェスもマーシェも、意味を理解した。
 幽霊などがそう簡単に出てくるのなら、神官の存在意義は相当薄れてしまう。死者が迷い出ないよう祭祀を執り行い、冥界へと導くのも彼らの重要な仕事の一つなのだから。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花、とはよく申しますが、では何故、我々をお招きいただいたのでしょう」
 単に根も葉もない話をするのに、わざわざ四人も集めるとは尋常ではない。そのタンジェスの疑問を受けたのは、マーシェであった。
「閣下としては、その『枯れ尾花』の正体に関心がおありなのではありませんか。ティア様はともかく、私やタンジェスは相手がもし『本物』なら何もできません」
 ノーマは軽くうなずいてから、全員を見渡した。
「多少根も葉もない噂が流れて消えるのは、場所柄致し方ありません。しかし今回はどうも、その範囲を超えているようです。何者かが意図的に噂を流している、私はそう見ています。詳細を調査したい所ではありますが、司直や軍を動員すると噂が広まって逆効果になるおそれもあります。そこで内々に、調べていただきたいのです」
 招かれた四人が、一斉にうなずいた。話は分かった。詳しくは今の所不明だが、それを確かめるのが今回の仕事だ。今ここで、とやかく質問をしても仕方がない。ただ、それを承知でなお、タンジェスは手を挙げた。
「もう一つ、よろしいでしょうか」
「何かな」
「大方人為的なものであろうとお考えでもなお、ティア様をお呼びになったということは、万が一、それが本物の仕業ではないかと疑っていらっしゃるのではありませんか」
 相手が人間で、しかもこちらの動きを悟られるのが好ましくないのであれば、行く人数はできるだけ絞った方が良い。人数は少なければ少ないほど、目立たないのだから。ただ単独行動では、不測の事態があった場合対処が難しいので、基本的には最小の場合二人一組で動くことになる。現在の場合なら、タンジェスとマーシェの二人組、という人選もできるはずだ。
 ノーマはすぐには口を開かず、両手の指を組み合わせた。
「少し考えすぎではないのか」
 彼に即答する意志がない、それを見取った上で、口を開いたのはマーシェである。たとえもう一方が同輩であっても、目上の人間がしている会話に割り込むのは、儀礼上好ましくない。
「他でもないその方のお師匠様は、気分を害すれば祟るくらいしかねない。以前そうおっしゃったのは、ノーマ卿ご自身なんだよ。違いますか、閣下」
 ノーマが師事したのは、戦乱の時代の中、最も多くの人間をその手にかけたと言われる人物だ。それだけに、人間の範疇を超えた力を持っていたという話もある。詳細は、ノーマ本人なら知っているはずだ。
「確かにそうだ」
 彼はあっさりと認める。嫌な空気が、残りの人間たちの中に広がった。これに関しては最早、ティアも例外ではいられない。
 幽霊など、そう簡単に現れるものではない。それは先ほど確認されたばかりだ。しかし今話題になっているのは、この四人が考えつく中で最も「簡単」ではない故人だ。
 それは承知している。だからこそ、ノーマは淡々と続けた。
「しかしあの方は今、少なくとも黄泉の眠りから這い出るような状態にはない。私はそう信じている。それにもし万が一何か呪いや祟りがあるとしたら、真っ先にその影響を受けるのは私だろう。常に私の身近に置いているこの魔剣、これほど人の血を吸った武器は、恐らく他にない。そしてこれは、我が師唯一の形見でもある」
 ティア以外の三人が、完全に引いた。その剣は、今もノーマがすぐ手に取れる位置に置かれている。折れることはもちろん、刃こぼれすることさえない、伝説の魔剣。その刀身は鮮血よりなお赤い、この世のものともつかない色をたたえているという。
 特に、タンジェスの嫌がり具合はひとしおだった。
 無理もない…。ノーマ卿は肌身離さずとおっしゃったけれど、一度タンジェスさんに使わせてあげたことがあるのだものね。ここは安心させてあげないと。
 ティアは口を挟むことにした。
「怪しい気配はありません」
 魔術のかかった品に特有の、気の発生は感じ取れる。ただ、それは研ぎ澄まされて、また透明感のあるもので、迷い出た霊の澱んだものとは明らかに異なっていた。
 ノーマがうなずいて賛意を示す。
「特に我が師の慰霊には、院長おん自ら当たられている。何かあるのなら、ます真っ先にあの方がお気づきになるだろう」
 今度はティアがうなずく。ノーマの師匠は、施療院の院長にとって親しい友人の一人だったということである。
「院長ご自身は、面子などという世俗の些事を気になさらないでしょう。しかし王族でもある方のなさったことを軽々しく否定するような話を、私は近衛騎士として看過できません」
 ほぼ同感なので、ティアはもう一度、大きくうなずいた。自分が誰より尊敬している人にけちをつけるような噂は、ティアとしても放置しておけない。
「タンジェス、マーシェどの」
 改めて声をかけられて、二人は背筋を伸ばした。
「騎士たるものいつ戦いで命を落としてもおかしくはないし、逆に殺す機会も他の身分よりはるかに多い。しかしそれでも、いや、だからこそ、死せる者の尊厳を重んじなければならない。それを忘れて戦う者はしばしば生命そのものをも軽んじる邪道に陥るし、そこで自ら命を落とせば、今度は己の尊厳が踏みにじられる」
 ノーマは淡々と語る。しかしその重みを、タンジェスもマーシェもそれぞれ自分なりに分かっているつもりだ。二人とも、場合によっては命を落としかねなかった場面を経験して、今ここにいるのである。二人にとってはある意味単なる確認であるが、それは何度でもすべきものであることを承知してもいる。
「故に、軽々に幽霊亡霊などと、死せる者を怪異扱いするような噂を流す輩については、相応の処断をしなければならない」
 それにしても、少し形式ばった物言いだ。その理由を、ノーマは一呼吸置いてから低い声で明かした。
「これは、国王陛下のご内意である」
 とっさに身動きさえ取れない。二人とも、ティアを手本とするかのように黙り込んだ。国王と言えば二人にとっては仕えるべき主君である。名実ともに国軍の全権を掌握しており、言わば騎士見習いに過ぎない身分の人間からしてみれば雲上人だ。まず畏れ多いと感じてしまう。
 しかも、現国王はそれに留まらない存在だ。圧倒的な劣勢を覆して幾多の戦いを勝ち抜いた名将であり、高潔さと慈悲深さを兼ね備えた人格者でもある。そして武芸にかけては今や並ぶものとてない。
 ノーマの師匠が存命のときには彼に「最強」の称号を譲ってしまったが、これは最前線の戦士と全軍の総指揮官という立場の違いを反映したものに過ぎないとする向きも強い。彼と一対一で戦えば、決して引けは取らなかったと言う。
 まさに武人の鑑、なのである。その下で戦った多くの騎士、兵士たちは、神よりも国王を信仰していると冗談抜きで言われるほどだ。タンジェスやマーシェが騎士を志しているのも、この輝かしい英雄の存在に心を打たれたからでもあった。
「はっ」
 結局二人は、そう言って了解した旨を示すのが精一杯だった。もっとも「内意」である以上とやかく言わず、そもそも聞いたこと自体を心のうちにしまっておくのが礼儀ではある。命令として公にしてしまうのがはばかられる問題について、用いられるのが「内意」という用語なのだ。
 一国の王ともなると、わずかでも自分の意図を公の場で明らかにするだけで、それが実質的には命令としての効力を発揮してしまう。そこまでの強い効果を王者自身が望まない場合に、そば近くに仕える人間を介して用いられるのが「内意」なのである。無論軽々しく用いれば反逆罪にも問われかねない言葉であるが、実質的に近侍の武官の筆頭であるノーマには、それを使う資格が十分にある。まず間違いなく、その言葉は国王自身の意志を表現したものだ。
 そもそも、それまで前王朝の皇帝たちが陵墓として占有していた場所を、あまたの戦死者のために開放したのが今の国王なのである。無論それは、死せるものの尊厳のために、だ。そこに亡霊が跳梁跋扈しているなどとあっては、彼の威厳にも関わる。
 国主の尊厳ともなると、正直な所高々士官学校生には荷の重すぎる問題である。しかし重いだけにはねつけることもできず、二人はそのままそれを受け入れた。
「さて、最後にストリアス…いえ、失礼。ストリアス卿」
「はい」
 ストリアスは、身構えながら向き直る。「卿」の敬称は、本来騎士以上の身分を有している人間、例えばノーマ=サイエンフォートなどに対して用いられるものである。タンジェスやマーシェも、今の士官学校を卒業すればそう呼ばれる資格がある。
 ただ、実の所ノーマが持っているのは領地を保有する世襲身分であり、タンジェスやマーシェが士官学校卒業とともに与えられるのは、子供に譲ることのできない一代限りのものだ。つまり相続の面では明確な違いがあるのだが、少なくとも彼らがその時点で「卿」の敬称を受ける資格があることに変わりはない。
 もっとも、このように儀礼は複雑であるので、部外の人間が間違えることは珍しくはない。例えば、少なくとも在学中は資格のない士官学校生に対して何とか卿、と呼びかけてしまう平民はかなりいる。
 しかし、ノーマがその種の儀礼を間違えるとは考えにくい。元々儀礼ずくめの王宮に勤める人間である。そして彼は、ストリアスの現在の身分に関して深く関与している。ストリアスは以前王立魔術研鑽所に勤めており、そこに数年間在職していれば騎士叙勲を受け、出自が平民であっても騎士としての資格を得られる。しかしストリアス自身はその前に不祥事を起こしてしまって、現在は無期停職という処分を受けている。その処分に関わったはずのノーマが、今になって「卿」の用語に関して間違いを起こすとは考えにくい。
 正式な叙勲を受けていなくとも、魔術師であれば「卿」と呼ばれる資格がある。この前そう言っていた人がいた。ティアが勤めている施療院の院長である。恐らく、それに倣っているのだろう。つまり、ストリアスを一人前の魔術師として認めたうえでの発言と考えて良い。
「これまでのいきさつはどうあれ、あなたがこの件に関して自由に動ける状態にあることは、色々な人間にとって良いことだと存ずる。魔術師としての、そのお力をお貸しいただきたい」
 口調も、同格またはそれに近い騎士に対するものに変えている。ストリアスは軽くうなずいた。確かに、奇怪な現象の真偽を確かめるとなると、神官とはまた違った視点と能力を持っている魔術師の存在意義は大きい。
「承知いたしました」
 答えた口調も、相手に引きずられてやや固くなっている。しかしともかくもこれで、全員の意志が確認されたことになる。
 ただ、そこにはそれで問題が残らないでもなかった。
「魔術師?」
 マーシェが目を丸くしている。そして一瞬、間があった。
「話していなかったのか」
「はい。しかし緘口令を出したのは、ノーマ卿ご自身ではありませんか」
 半ば驚き、半ば責めるような口調のノーマに対して、タンジェスが反論する。困惑しているため、表現がむしろ直裁的になっていた。
「それは、そうだが」
 ノーマは残りの人間に視線を走らせた。ストリアスは当人であるし、ティアは例の一件の際、「口が堅い以前にそもそも無口だから大丈夫」と太鼓判を押されるような人間である。確かに、喋りはしないだろう。
「ん、私の失策か。まあいい、この際彼女には教えて差し支えない」
 珍しく渋い顔をしてから、マーシェに向き直る。しかしすぐに、言いよどんだ。
「その…」
「閣下、よろしければ私から」
 助け舟を出したのはタンジェスである。割り込まれたマーシェは不服そうだったが、ノーマは明らかに安心したような顔をしていた。
「頼む」
「ではお許しを得て。マーシェ、お前も男なら黙って…」
「私は女だ」
 タンジェスとしては軽い気持ちで、冗談として口走ったのだろう。しかしマーシェは、真顔で否定した。冗談を冗談として返す、そんな柔らかい気配は微塵もない。さすがにタンジェスは困惑顔だが、しかしこれは彼が悪いと、ティアは思う。
 確かにマーシェさんは、女の身で騎士になろうとしている。はっきり言ってしまえばごく珍しい人だし、その自覚もあるだろう。でも、別に女であることを捨てても、その事実から逃げてもいない。 
 それはあの、長い髪を見ればすぐ分かるのに。なにしろ肉体面の訓練では邪魔になるに違いないものを、あれだけ大切にしているのだから。色つやも良いから、お手入れにも相当気を使っているに違いない。「女の命」と言われるものをそれだけ大切にしているのだ。むしろ普通の女性以上に強い愛着を持っているのかもしれない。
 一人の人間として、そして仲間として理解し、そしてそれに基づいた配慮をすべきなのに。そういう所、彼に限らず男性は一般的に鈍いのかな…。
 つい非難がましい視線を送ってしまったが、タンジェスがそれに気づくより先にマーシェが表情を崩した。彼の困った顔が、おかしかったらしい。
「まあいい。趣旨は理解した。私も騎士を志すものとして、余計な詮索はすまい。ストリアスどのの人柄は存じ上げているつもりだし、魔術師であるということも今うかがった。差し当たってはそれで十分だ」
「悪いな」
「申し訳ありません」
「済まない」
 タンジェス、ストリアス、そしてノーマがそれぞれ謝罪の言葉を口にし、ティアは黙って頭を下げる。無論明言した以上受け入れるマーシェであったが、疎外感を覚えているようだった。後で謝っておこう、と思うティアだったが、どう言えばよいのかは考え付かなかった。
「さて、具体的な準備などについてはファルラスどのにお任せしているのですが、他に何か質問はおありでしょうか」
 それならばもう、ノーマに聞きたいことは特にない。後はファルラスや、その下で事務を行っているエレーナと話をした方が良いだろう。それが四人の間に広がった共通の認識のようだった。
「ファルラスどのもいずれこちらにいらっしゃることになっておりますので、他に御用がなければそれまでお待ち下さい」
 うなずいて、ノーマが話をまとめる。どうやらその瞬間を見計らっていたらしく、マーシェが勢いよく立ち上がった。
「閣下、それでしたら一つ、お願いがございます」
「何か」
 ノーマほどの男がその勢いに押されたのか、座ったままではあったがやや体を引いている。無下にされなかったのに乗じて、マーシェは畳み掛けた。
「よろしければ、一手御教授願いたく存じます」
 ああ、やっぱり。そう顔に書いたのはタンジェスである。同じく剣士を志すものとして、気持ちは分かるのだろう。ただ、そこにはなぜか、まずいことになったとでも言いたげな気配も漂っていた。
「何だ、タンジェス。君からもお願いしないか。折角お時間もあるようだし、この好機を逃すことはあるまい」
 それを敏感に察したマーシェが文句をつける。タンジェスは曖昧な顔をして、ノーマに視線を送った。当のノーマはというと、表情を消しながらもタンジェスの方に視線を返している。つまり、マーシェを正視してはいなかった。
「止めた方がいいです」
 仕方なく、ティアは口を開いた。マーシェは自分の意図を阻むような内容であることも忘れて、驚いている。
「ティア様?」
「その方は、女性が苦手です」
 きっぱり、断言する。それまで少なくとも表面上端然と座していたノーマが、がくりと姿勢を崩し、机に手を突いた。タンジェスもやや、ぐらっと来ている。
「ご、ご存知でしたか」
 そしてようやく、ノーマが口を開く。今度は、正直な所ティアが驚く番だった。
「隠して、いらっしゃったのですか」
 自分の目にはあまりにあからさまに見えたので、まさか隠そうとしているなどとは思いもよらなかった。自分やマーシェが近づいたり、話しかけたりしたときの反応が、動揺しているのを隠そうとして、そうし切れていないものだったのだ。
 そういえば、そもそも王族を警護する近衛騎士なのに、王族である院長が常駐する施療院に寄り付きもしない。神官のほとんどが女性だから、王都で最も近寄りたくない場所なのだろう。そうだと分かれば納得だ。
 マーシェさん、その点についてはちょっと鈍いのね。でも、女心が分かっていないタンジェスさんと、お互い様かも…。
 ティアは学生二人を等分に見渡した。ノーマを見なかったのは、彼の苦手に配慮したのである。
「あ、いえ、隠している、ということもないので、お気になさらず。単に自分から言い出す気がないだけです」
 それでも、言いたくないのは確からしい。ティアは深々と、頭を下げた。今の発言は、例えば頭髪の薄い人が帽子をかぶっている理由に触れたようなものだった、と反省する。
「つまり、そういうことだ。君が相手じゃあ実力が出せない。この際諦めろ」
 ノーマに代わって、タンジェスが説明する。ノーマが女性と話をするのも苦手だと知っているのだろう。そう考えれば、来た時から彼の態度もややおかしかったことについて説明がつく。本人は、黙ってうなずいて内容が正しいことを示した。
「は、はあ。それは、申し訳ありませんでした」
 とりあえず、マーシェは謝っておく。そしてやむを得ないことだが、気まずい沈黙が流れた。
 ああ…これは何とかしたほうが良いかもしれない。でも何しろ私だから、下手なことをしちゃうと逆効果になるかもしれないし…。
 そうやって迷った挙句、結局沈黙を選んだティアだった。
 その状況を救ったのが、新たな来客である。使用人がファルラスの来訪を告げ、ノーマがそれを異論もなく受け入れた。
 後は細部に関して詰めを行った。タンジェスやマーシェには学校との兼ね合いがあるので、郊外まで足を伸ばすとなると、呼ばれたその日にすぐ行動するのは難しい。そこでこの二人の予定に合わせて、出発は数日後と決められた。

 決行の日、ファルラスは店で別の仕事を処理していた。最近大掛かりな仕事が成功を重ねていることもあって商会の仕事は以前より忙しくなっており、ストリアスが抜けるとその分残った人間の負担がそれなりに増えるのだ。彼は既に、支度を整えて出発している。
 そんな所へやってきたのが、息子のサームである。今日も家で、逗留している吟遊詩人の話を聞いているものとばかり思っていた。
「お父様、詩人さんが、いなくなってしまいました」
 挨拶もそこそこにそう訴える。ファルラスは別に驚きもせず、苦笑して首を振った。
「ああ、いつもの気まぐれだろう。あの人はそういう人だって、忘れてしまったかな」
「それが、荷物は置いたままなんです」
「ならどこか近く、少なくともこの王都にいて、今日にも戻って来ると思うけれど」
「でも、今までは少し出かけるだけなら、ちゃんと行き先か戻る時間を教えてくれました」
「ああ、そういえばそうだね」
「もしかしたら、『ケレケレモケレ』に連れ去られたのでは」
 サームは真剣に心配している。しかし、ファルラスは吹き出してしまった。「ケレケレモケレ」とは、子供を攫ってゆくとされる怪物の名前である。夜な夜な多くの子供たちを震え上がらせてはいるが、大人なら誰もが、その正体を知っている。「悪いことばっかりしている子は、『ケレケレモケレ』に攫われてしまうよ!」と、子供に対する脅し文句に使われる、それだけの存在なのだ。
 そもそも聞き分けの良い子であるし、ファルラスはいくら相手が子供であっても理屈の通らない叱り方が好きではないので、その種の発言をした覚えは一度もない。母親も同様である。ただ、それでも名前を知っているのは、例の吟遊詩人などの影響もあるのだろう。
「お父様!」
 真面目とは言い難い父親の様子に、サームは憤慨までしている。仕方なく、ファルラスは釈明することにした。
「大丈夫、あの人は『ケレケレモケレ』にやられるほど弱くはないよ。あれは子供しか攫えない程度の奴だから」
 ヨタ話はさておき、気まぐれとはいえ、あの吟遊詩人は決して考えなしの人間ではない。むしろ必要があれば周到な準備を怠らない緻密さと、とっさの機転があるからこそ、野垂れ死にもせずに長い長い気分任せの旅を続けられるのだ。外見からは想像できない者が多いだろうが、めったなことでは危ない目にはあわない。心配する必要はないはずだ。
「本当ですか?」
「うん、本当だよ」
 安心させるために笑いながら、今度はファルラス自身がむしろ嫌なものを感じていた。別にあの男の身を心配してはいないが、どうも引っかかる。何か良からぬことをたくらんでいるのではないか、そんな気がするのだ。
 観光名所などに興味があったとしても、彼ならとうに見物を済ませているはずである。また、多少の買い物であれば自分の使用人に言いつけてよいといってあるし、現にその通りにしている。自分が興味を持ったことに関しては徹底的に追求するが、反面そうでないことに関しては完全な面倒くさがりなのだ。必要のないことを進んでやるような性格では絶対にない。一般的な定職に向かないのは、このためである。
 つまり、また風にまかせて旅立ってしまうのならともかく、そのあたりをうろうろするとは考えにくいのだ。
 そこまで考えて、思い至った。少なくとも今、彼が「面白い」と言っていた場所が近郊にある。
 余計な騒ぎを起こさなければいいが…。ふとそう考えてから、ファルラスは自分の思考の不毛さを悟った。まず間違いなく、余計な騒ぎを起こしに行ったに違いない。そういう性格なのだ。
 誰か追っ手を差し向けて連れ戻すか、とも一瞬本気で考える。しかしすぐに、断念せざるを得なかった。何しろ見かけによらずひとかどの人物なので、なまじの人間の一人や二人では見つけられない。撒かれてしまうのが落ちだ。かといって、人数を増やせば折角一行に隠密行動をさせているのが、台無しになってしまう。
 秘密裏に彼を追跡し、そのままほかの人間にも悟られずに連れ戻すことができる。そんな人材の都合をすぐにつけることは、さすがに人材派遣業をしているファルラスにも難しかった。あの男、そこまで見越して好き勝手をしているに違いない。
「ま、いいか。致命的にはならないだろう」
「お父様?」
 珍しく難しい顔をしている父親を、サームが不安そうに見上げていた。ファルラスは笑顔を作る。
「ああ、うん。どうも面白いお話のタネを捜しに行ったみたいだね。じきにまた、面白い話を聞かせてくれるよ。だから今は、大人しく待ってあげなさい」
「はーい」
 目を輝かせ、元気よく答える息子の頭を撫でる。そうしながら、恐らく迷惑をこうむるであろう人々に同情しないではないファルラスだった。

 決行の日の午後、ティアはストリアスとともに士官学校前で学生二人と待ち合わせた。上の人間の了解があればある程度自由に行動できるティアやストリアスよりも、授業に拘束されざるを得ない学生たちの立場に合わせた結果である。無論仕事が長期化した場合に備え、ノーマの口ぞえもあって休暇の許可は取っている。しかし学業への支障を考えれば、可能な限り短縮すべきだった。
 その分、タンジェスとマーシェに与えられた準備の時間は無いに等しかった。しかし支障はない。元々、突然招集がかけられて長距離行軍の訓練に狩り出されたりするので、食料を用意するだけで旅行が可能、そんな支度はいつでも整っているのである。最悪の場合を想定して、自力で食料を調達する訓練も積んでいる。もっとも今回は郊外へ足を向けるだけなので、そんな必要もなかった。
 大陸最大の人口を擁する王都は、徒歩だとそこを出るだけでもかなりの時間を必要とする。その道中の話題が幽霊に関するものとなったのは、ことの成り行き上やむを得なくはあった。
「少し考え直してみたのですけれどね。土台、その種の噂が妙に広まるというのはおかしな話なのです。ああいうものは、見える人間と、見えない人間がいますからね。何か逆説的ではありますが、もしそれが本物なら、見えない人間には信用されないはずです」
 一応街中であるので、話し始めたストリアスは「幽霊」「亡霊」などという用語を使うのを避けていた。もっとも、この王都の街路の賑わいの中では、それも少々気を使いすぎかもしれない。同行者以外は、誰も耳を傾けてなどいないだろう。
「ストリアスさんは見えるんですか」
 そう聞いたタンジェスには、今までその種のものに遭遇した経験がない。だから自分は典型的な「見えない人間」だと思っている。そして、そういう人間の方が普通なのだと、とり立てて根拠はないが確信している。
 しかしストリアスは魔術師という、極めて特殊な人間だ。見えて当然だと思われても、不思議ではない。
「気配を感じることはありますけれどね。実は敢えて意識しないようにしているんです、我々は」
「どうしてまた」
「端的に言えば、専門外だからです。我々の力では、そういうものに対処するのが難しいのです。下手に力がある分、意識を通じ合わせてしまうとお互いに悪い方向へ行ってしまうおそれもあります」
 もし魔術師が、いわゆる「とりつかれた」などという状態にでもなったら大事になる。タンジェスは黙ってうなずいた。
「ティア様はどうでしょう」
 今度口を開いたのはマーシェである。ストリアスの口ぶりからしても、ティアなら間違いなくその筋の専門家のはずだ。
 ティアは軽く、つまり緊張感もそれほどなくうなずいた。子供のころから他人には分からないものが見えたり聞こえたりしていたのだ。その才能が、神官になった理由のひとつでもある。
 ものによっては声が聞こえるだけだったりとさまざまな感じ方があるのだが、資質のない人間には感覚的に分からせることが難しいので、詳細な説明は省略した。ただ、それで済ませては愛想が悪いかと気を遣って、付け加える。
「最も強いものなら、あなたにも見えます」
「本当ですか」
 驚いてとっさにそう言ってしまってから、マーシェはティアのまっすぐな視線に直面した。そして慌てて謝る。
「申し訳ありません。本当ですよね」
 神官は嘘を言わない。戒律に反するためだ。無論いい加減な者はそうでもないのだが、他ならぬティアがただでさえ極端に少ない口数を、そのようなことに費やすはずがなかった。
 分かってくれれば良いので、ティアは黙ってうなずいた。
「極めて大規模な集合体などなら、誰にでも見える可能性があるそうです。しかし恐らく、そういうものには出会わない方がいい。危険すぎます」
 ストリアスが補足した。ティアがうなずいて賛同を示す。奇妙な取り合わせではあるが、息は合っているようだ。今度はまた、タンジェスがストリアスに向けて口を開く。
「極めて大規模な集合体、というと、例の『東の島』のあれですか」
「過去のそれ、と言うべきでしょう。今はもう、あそこにはただ廃墟があるだけだそうです。ですから、現在確かめるすべはありません」
 ストリアスはちらりと、ティアを眺めやった。風聞によれば、亡霊の群れを浄化したのは施療院の院長、つまりティアの師であるという。真実であれば奇跡と言っても良い偉大な行いであるはずだが、彼女がそれを公に認めたことは一度としてなかった。
 そしてその弟子は、小さく首を振った。ストリアスは少し首をかしげる。
「不幸にして亡くなられた方々について、軽々しく語るべきではありません、か」
 ティアが今度は、やや大きめにうなずいた。そして間を置いてから、また首を振る。タンジェスやマーシェはその意図を掴みかねたが、ストリアスはうなずいた。
「あなたにも、あの方は真相をおっしゃらないのですね」
 よく分かってくれた、という意志を表すために、ティアはこくこくと二度うなずく。タンジェスとマーシェは顔を見合わせていた。何やら奇術でも見せられたかのような顔をしている。ストリアスの理解力が不思議なのだろう。
「実は『この世で最も恐るべきあの男』が、悪名高い血塗られた魔剣で亡霊どもをすら切り刻んだ、なんて話もあるけどね」
「へー」
「ふむ」
「ほう」
 三者三様にうなずくのを、ティアは見ていた。もちろん彼女は、例によって無言のままうなずいている。
 つまり、いつの間にか一人増えていた。出発した当初は四人、そして声を上げたのが三人と、黙っていたのが一人である。発言した人間が、明らかにその数から外れている。
「な!」
「誰っ?」
「ええ?」
 四人が一斉に振り向く。そこにいたのは、一人の男だった。
「わあ、びっくりした。急に立ち止まらないでよ、転んじゃうところだったじゃないか」
 言葉どおりのけぞった態勢を元に戻している。小柄な人物で、声の質もやや高い。男と言うよりも、まだ少年と形容した方が良いのかもしれない。しかし前髪がずいぶんと伸びており、それに隠されて目元の様子をうかがうことができず、確証はもてない。
「あ、済みません」
「と言うか、どちら様?」
 ストリアスは反射的に謝ったが、タンジェスはそうしなかった。確かに冷静に考えれば、非はいきなり声をかけてきた向こうにある。なあなあで済ませてしまうのが良いのか、白黒をはっきりさせるのが良いのか、微妙な所だ。少なくとも、とりあえず他人のせいにしている相手よりはましではあるが。
「どちら様ーと、問われればー」
 ほろろん、と、彼は手にした竪琴をかき鳴らした。
「それは答えてあげましょうー」
 妙な節に乗せて、竪琴を引きながら喋っている。一同、あっけにとられて聞くばかりだった。


「でもボクにはー、名前がないー」
 変な間が、四人にのしかかった。それにさえ構わず、彼はさらに口を開く。
「というわけで、『謎の吟遊詩人』ということで、よろしく」
 今度は節もないし竪琴も鳴らさない、普通の喋り口調だった。タンジェスやマーシェはもちろん、普段肩の力が抜けているストリアスさえがっくりときている。
「そ、そうですか」
 聞いた行きがかり上、タンジェスがそれだけ言った。
 しかしながら、とティアは思う。ここに集まっているのは、いまだその途上にあるとはいえそれなりの修練を積んだ人間のはずだ。神官、あるいは魔術師としての素養があるティアやストリアスはもちろん、タンジェスやマーシェも武術の訓練を通じて感覚には磨きがかかっている。
 この四人の知覚を全てかいくぐって接近に成功するなど、あるいは相当な人物かもしれない。ただ、確証はないので黙っている他なかった。
「まあ、ボクの名前はさておき。怪しい人間じゃないから安心して」
 名前を明かそうとしていない時点で既に、論議の余地なく疑いもなく、十分すぎるほど怪しい。ティアは目でとっぷりとそう語ったが、しかし相手は意に介さなかった。
 それだけにおそらく、言って聞かせても結果は同じだろう。同様の判断をしたらしく、ほか三人も口を開きはしなかった。無論、それぞれの判断に従って警戒を解いてはいない。
「君たち、茜商会の関連の人たちだよね」
 疑心に満ちた視線の集中攻撃にもひるまず、「謎の吟遊詩人」は朗らかに問いただす。それでかすかに、タンジェスは警戒を解いた。
「ああ、若旦那のお知り合いですか」
「若旦那? ああ、ファルラスのこと? サームじゃないよね」
 微妙な反応があって、四人とも「若旦那」が言わばあだ名であることを思い出した。本来それは店主などの息子に対して用いられる呼び方であり、例えばサームがもっと大きくなれば、一般的には彼がそう呼ばれるはずだ。
 ただ、常勤の従業員であるエレーナが言うような「旦那様」は、大仰である上に老けた印象があるので、当のファルラスとしては不本意らしい。命名者はタンジェスだが、それがストリアスやマーシェにも広がっており、ティアも内心ではそのように認識している。ほか三人と違ってあだ名で呼ぶのは失礼かと思って、自制しているだけだ。
「はい。自分達は先日ファルラスさんにお世話になりました。あと、こちらのストリアスさんは、今商会で働いています」
「ふうん」
 答えるタンジェスを含めた四人を一通り見渡してから、吟遊詩人は軽くうなずいた。
「ま、いいや。そもそも『出る』とかそういう話をあいつの所に持って行ったのがボクでね、ちょっと後が気になったんだ。でまあ、あいつから色々聞き出して、追ってみたって訳」
 ティアは少しだけ、その話に違和感を覚えた。
 あの人、仕事の話を簡単に他人にしてしまうほど警戒がゆるかったかしら? 温和そうではあるけれど、関わっていることは必ず成功させているから抜け目がないみたいだし。でも、頭ごなしに否定もできないわよね…。
 そうやってじっと考えている間に、タンジェスが話を進めている。
「なるほど。それでは、こちらがマーシェ=クラブレン、俺と同じ士官学校の学生です。それから、こちらはティア=エルン様、施療院の神官でいらっしゃいます」
「ご丁寧なご挨拶、痛み入ります。神官様、わたくしはかつての名を棄てて流浪の旅に出た身、お許しをいただけるなら、名無しのままでおりたく存じます」
 吟遊詩人はごく丁寧に、ティアに対して深く頭を下げた。それは幼い頃から宮廷儀礼を教えられていたマーシェであっても非の打ち所を見出せない、完璧な口上と動作だった。
 社会的な地位というものは、色々と微妙な点がある。しかし少なくとも騎士見習いである彼女やタンジェスよりは、正規の神官であるティアの方が身分は高い。平の騎士と神官ならほぼ同格、そして騎士は神官を尊重する建前になっている、というのが、この国における常識である。そして魔術師とはいえ停職を喰らっているストリアスよりは、ティアの方が儀礼を尽くす相手としては問題がないはずだ。
 また彼の言う通り、定住した職業ではなく、流浪の吟遊詩人となるためには余程の過程が必要となる。定かではないが、彼は故郷の人間を棄てているはずだ。その過程としてそれまでの名を棄てたとしても、無理からぬことだった。その点を詮索しても、相手を傷つけるだけの可能性が高い。だからマーシェやタンジェス、そしてストリアスは黙っていた。
「されば、如何なる名をも名乗るがよろしいでしょう。大いなる方の御意志に違わぬ限り、わたくしはその御名を、あなた様のものと受け入れましょう」
 それは古い古い、儀礼だった。事情があって与えられた名を名乗ることを嫌う、しかしながら良心ゆえに偽りを語ることもはばかられる、そんな人間に対する神官の口上だ。
 院長に師事した初めの頃に教わったことだと記憶している。世の中には正々堂々と生きられない人もいる。それを非難して拒絶するのではなく、受け止めることも神に仕える人間の勤めだと、そう教えられていた。
 それを聞いて、相手は笑った。予定していた反応があって、満足したのだろう。
「では、お許しを得て。仮の名はディー、古の言の葉を、わずかながらも今に伝えることを定められた、しがない謳いにございます」
「承知しました、ディーどの」
 完全に、古文書にあるような会話だった。幼く、またふざけているようでもこの「ディー」は、かなり教養があるらしい。
「ありがとうございます」
 深々と頭を下げてから、ディーは笑みを見せた。
「というわけで、ボクも一行に加えて欲しいんだ。ま、嫌だと言っても行き先は分かっているから勝手について行くけど」
 自分で半ば認めている通り、どうもかなり勝手な性格のようだ。タンジェスやマーシェは顔を見合わせたあげく、結局様子を見ることにした。ストリアスには、特に意見がない。
「指示に従う」
 ティアは相手の目を見据えながら、小指を立てた。ディーはその指を、きょとんとして見据える。
「邪魔をしない」
 次いで薬指が立てられる。勢い任せに、ティアは続けた。彼女自身無意識にではあるが、そうしながらにじり寄ってもいる。
「見聞きしたことを他言しない。歌にしない」
 中指、人差し指。つまり同行を許可する場合の条件を指折り数えているのだと、見ている人間も理解した。四つまで数えた所で、ティアは同行者たちを見渡した。つけ加えるべきことはないか、という意味だ。
「とりあえず『指示に従う』との約束があるなら、それで問題ないと思います」
 応じたマーシェに、タンジェスもストリアスもうなずいた。
 ストリアスはさほど深く考えていないが、士官学校生二人にしてみれば、「指示に従う」とは、指揮命令の権利が自分たちにあることを意味する。それが軍人としての観点である。そしてその指揮命令権さえ確保していれば、後の処置はその権利に基づいて適宜決めてゆけるのだから、他の条件は単なる補足説明に過ぎない。第一条件さえ呑ませられれば、自分たちのいわば勝ちだと判断している。
 一方それを突きつけられた側は、難しい顔をする。
「他三つはともかく、最後の一つはちょっと。何しろ商売だからね。まあ、差し障りがあるなら、具体的な名称を変えたり伏せたり、時期を昔と誤魔化したりするよ」
 ティアの気質が伝染しているわけでもあるまいが、四人は無言のまま視線を交わして結論に達した。反対意見なし、だ。
「それなら大丈夫でしょう」
 口を開いたのはストリアスである。主導権をとったのではなく、ティアがうなずいたのを見て取ったからだ。
「じゃ、よろしくー」
 ディーはまた竪琴をかき鳴らす。四人は何となくまた、顔を見合わせていた。

続く


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