王都シリーズW
王都怪談


2 死せる英雄


 自称謎の吟遊詩人ディーが、かなり強引にではあるがともかく一行に加わった。そのため王国墓地への道すがら幽霊概論だけでなく、その墓地に配置されている人員など具体的な事項も再確認することになった。
 まず、王立の施設であるので、当然ながら国王によって管理されている部分がある。無論その他の軍団、あるいは官庁などと同様、国王自身がその作業を引き受けるわけにも行かない。実質的には国王からそれに関する権限を任された人間が、管理に当たっている。
 ヴォート=ブレアン男爵、というのが、その任にある人間の姓名および爵位だった。戦乱の時代にはひとかどの武人として活躍していたとのことだが、今は名誉も金銭も省みず、ただ当時の戦友たちを弔う日々を送っているという。戦乱の中で多くの知己を亡くして、そもそもこの世に対する興味を失っているらしかった。
 その職務は、要するに墓守である。定期的に兵士の巡回をさせる、端的にはそれだけの任務だ。最前線の戦士から士官学校の教官に至るまで、武官にも様々な仕事があるものの、その中でも重要性は低いと言わざるを得ないだろう。
 武人としての彼の経験を惜しむ声もあるが、本人が他の任務を希望しておらず、また逆にこの任務を希望するような適任者も他にいないため、かなり長期間にわたって人事異動は行われずにいた。
 その指揮の下、数名の騎兵と数十名の歩兵が、墓地の警備に当たっている。管轄地域の広さを考えれば決して大兵力ではないが、そもそも墓荒らし等を防げればそれで十分という任務であるため、これで足りるのだ。
 なお、一応ここも王都近辺の高台の一つであるから、万一外敵の侵入を許せば主要な軍事拠点にもなりうる。しかしその場合など、有事に際しては程近い王都に対して援軍を要請し、また指示を仰げば良い。というよりそれ以前に、そのような場合には王都の主力軍団がここまで進出するか、逆に付近の全部隊に撤退、そして主力への合流命令が下されることになるだろう。要するに単独で強力な敵と交戦することを始めから想定されていない、軍組織としてはその程度の存在なのだ。
 と、少々余談が入っているのではないかという気がしないでもない、主にマーシェの説明だった。彼女は適宜タンジェスに対して補足すべき事項があればそうしてくれと促し、また、聞いている人間に対しては質問があればできる範囲で答えると念を押していたのだが、結果的には誰も口を挟もうとはしなかった。
 ついで、ティアが説明に入る。口数に乏しいことはほとんど誰もが承知しているのだが、この場合は仕方がない。
 何しろ、墓地である以上、そこは宗教施設という性格を有してもいる。神官が加わってくれなければ、話が始まらないの一言に尽きる。
「そもそも…」
 そう切り出した瞬間、何人かがやや動揺を示した。
 しまった…。なるべく分かりやすいよう前提条件から説明するつもりだったのだけれど、長話が嫌われたのよね。普段話さないから、力んじゃった。どうしようかな…。
 ティア自身が判断に迷う。しかしそこへ、ほかならぬディーが助け舟を出した。
「そもそも?」
 これはもう、初志を貫徹するしかないわよね。ティアは覚悟を決めた。
「概して、神官には二通りの性格があるそうです」
「ふむふむ」
「悩める方、苦しめる方を救うことで真理を実践しようとする者と、ひたすら思索にふけることで真理を見つけ出そうとする者と」
 手足を使って働くか、頭を使ってその場で考え込むか、つまりそのどちらかだということだ。同時にできれば苦労はないのだが、何しろ神官も神様ではなく人間なので、そう器用な真似はできない。
 さて、話が難しくなるのはこれからだけれど、どうしよう。まず単純な二者択一の概念を提示したのだけれど、実際にはそう簡単に区別されるものではない、と説明しないといけない。
 でも、きちんと話す自身がないなあ。そもそも理屈と現実の落差をきちんと把握できるほど、自分自身人生経験が多いわけじゃないし…。
 どうすればうまく話せるだろう。そんなことを考えているうちに、ストリアスが口を開いた。
「ただ、それは全く対立する観念ではなくて、神官という一人の人間の中に当然あるべき葛藤だということですね。全く考えなしに行動できる人間はいませんし、かといって考えるだけで本当に何もしないでいることも、人間にはできませんから」
 その通りだ。考えなしの行動を真理に近づけることは極めて難しい。かといって、考えるだけで他者に何ら寄与しないことが、そもそも真理に近い行為であるとも思えない。両者は神官にとって、ともに欠くべからざる要素なのだ。
 言いたいことを言ってくれたので、ティアはこくこくとうなずいた。
 自分の場合、じっくり考えているうちに他の人が話を進めてしまうということがごく多い。その際何しろ黙っているので、実はそれが本意ではなかったこともかなりある。ただ、それにどう対処しようかとさらに深く考え込んでいるうちに事態が先へ進んでしまって、結局その後に及んでは自分から何も言わないことが最良だ、と判断することが多かった。
 ティア=エルンとは、そんな無口な少女である。
 彼女が所属している施療院の院長を誰よりも尊敬しているのも、一つにはその彼女自身の無口さが関連していた。院長が偉大な神官であることは間違いないのだが、しかしむっつりと黙り込んで威厳を保っていることもない。気さくなおしゃべり上手、普段はそんな面が強い。長老達の中にはそれをとやかく言う者もいるが、ティアとしてはそこにあこがれているのだ。
 ただ、この場合はストリアスがほぼ問題なく、意図を汲み取ってくれた。補足説明も、そしてさらに付け加えた言葉も、適切だった。
「ティアさんたち…いえ、ここは院長以下施療院の方々と言った方が良いでしょうか。方々はその中でも実践の傾向が強いということになりますね」
 確かに現代の英雄の一人に数えられる院長は、究極の実践派だ。平和の実現に尽力し、そして今は弱者の救済に力を注いでいる。それを成し遂げるだけの極めて高い知性を有しているのは間違いないが、基本的には思索よりも行動の人である。
「なら、王立墓地にいらっしゃる神官の方々は、どちらかといえば思索の傾向が強いということでしょうか」
 ここまで来れば、話の流れは明らかだ。そう思ったマーシェがそれを加速させる。
 二つの方向性を明らかにした上で、まずその片方、自分達にとって身近な例を述べる。その目的は、良く知っているものと対比することで、もう一つの方向性を明らかにすることだ。口数が少なすぎるとはいえ、少なくとも基本的なやり方は間違っていない。マーシェはそうも思った。
 ティアはもう一度うなずいた。そしてそれに続くように、残る三人もうなずく。
 それは無論、死者に祈りを捧げ、墓所を守るというのも神官として立派な仕事だろう。しかし、もっぱらそればかりをするという状態に対しては、一応同じ神官としてもどうかと思わずにはいられない。少なくとも行動力のある、あるいはやる気が有り余っているような人間には、どう考えても向かない。まず間違いなく、ある意味「枯れた」人間のすることだ。陽気な、あるいは行動力のある墓守というのもかえって不気味である。
 つまりどうしても、物静かで内に篭ったような、はっきり言ってしまえば陰気な印象を与える。彼らも光の神に仕える神官たちのはずなのだが、それはまた別の問題なのだろう。
 ゆっくりとうなずいてから、ティアは続きに入った。
「複数の方々が庵を結んで祈りの日々を送っていらっしゃいますが、出入りがあるのと連絡が密ではないのとで、院長も詳しいことは存じないと」
 やや世俗的な考え方になるが、神官の中でも地位が高いのは、やはり王都などの大規模な神殿の上位者である。多くの後進を指導して、神の理を人々に伝えることになる。また、人数が多く歴史も長い分、そのような神殿なら教理研究も発達している。
 逆に辺境の村に行くと、神官はその身分だけで大きな尊敬を払われる場合がほとんどだ。信仰心の有無はともかく、一定の教育を受け、知識を有している人間が貴重なためである。癒しの奇跡の力もある。重宝がられる、と言っても良い。
 つまりどこへ行っても、堕落さえせずに精進していれば、神官というのはそれなりに人々から敬意を払われる身分なのである。社会的な貢献もできる。
 そんな一般社会とわざわざ隔絶して、昼間こそ墓参の人々が現れるとはいえ、夜には死者と語らうことになる地に常駐しているとなると、少なくとも言わば「本流」を外れていることは間違いない。どうやら相互の協力にも乏しいようだし、言わば「はぐれ神官」といった所なのかも知れない。
「要するに変わった人が多いってことだね」
 そしてひとまず、ディーがまとめる。明るい声の割にかなり情け容赦のない断じ方だったが、しかし敢えて反論をしようとするものはいなかった。つまりそれは、残る全員の内心の声を、少々誇張している部分を否定できないとはいえ、代弁していたのだ。
 それは、一応神官という同じ身分にあるティアにとっても同様である。いや、むしろ彼女であるからこそ、疑問は強くなる。神の奇跡の力を具現しうる身でありながら、それを活かす意志が全く見られない。彼女にとってそんな存在は、不思議を通り越して奇怪でしかなかった。いたずらに他人を非難するのも教えに反するので、口には出さなかっただけである。
 しかし、具体的にどう変わっているかについては、情報が少ない以上これから自分で確かめるしかない。それはティアだけでなく、残る人間達にとっても、そもそも課せられた任務だった。だからこそ、今この時点でとやかく言うものはいない。
「騎士や配下の兵士、そして神官の方々以外に住人はいないのでしょうか」
 ストリアスが視点を変える。マーシェは小さく首を振った。
「数百年前に旧帝国皇帝の陵墓となって以来、一貫して墓地だった場所ですから。その過程で眠る死者の増加や、それに伴う形態の変容はあったはずですけれどね。今は訪れる者が増えたせいで昼間には花屋やら茶屋やらが出るそうですが、あくまで出店止まりだそうです。騎士の使用人や、神官の従僕ならいると思われますが」
 神官でもないのに、好き好んで墓地の中に住みたがる人間もいまい。もしいるとしても、それはどうにも怪しい人間だ。警備部隊に排除されるのが落ちだろう。
「ただ、地形としては森になっていた丘を切り開いて造成した所ですから、周囲には森が残っています」
 タンジェスがつけ加える。マーシェが首をかしげた。
「そうだが、それが?」
 墓地、とはいっても完全に人里離れた場所にあるわけではない。大陸全体から見れば、好条件に恵まれた平野部の穀倉地帯を背景にした、最大の人口密集地の一角である。古い時代から墓所があったため、そこだけ開発から取り残されているのだ。周囲には農村が広がっている。
 そもそも王都そのものからもそう遠いわけではない。しかも王都から南方へと至る、主要な街道の脇にある。元来旧帝国において、儀礼上だけでも十分すぎるほど多忙な皇帝が無理なく参ぜられる、それを企図して造成された場所である。利便性はむしろ相当良い。だからこそ、王都在住のティアたちが気軽に出かけられるのである。
 そしてそれらの喧騒から死者の眠りを妨げないよう、外周部には深い森が残されている。もっとも、それゆえ少なからず陰鬱な印象を与えるのだが。
「つまり墓地の外、近在の農民なら、薪取りや何かで出入りしている可能性が高いってことさ。獲物が多いなら猟師もいるだろう。駐留部隊の規模の割に敷地が広いから、森へ入ってくる人間を一々監視するのは無理だよ」
「なるほど」
 感心したようにうなずいたのはマーシェばかりでなく、他の三人も同様である。この人は農家の出身なのかな、とティアは思った。
 農民、とはいっても完全に耕作だけで暮らしている人間ばかりではない。周囲の様々な環境や資源を利用しながら、生活しているのである。現にその暮らしをした経験があれば、言われなくとも分かることだ。なお、ティア自身は都会の生まれでその生活状況に関してそう聞いている、という程度である。
 一方騎士階級出身であるらしく、そして女性ながら騎士を目指しているマーシェならば、狩猟の経験はあるはずだ。それは馬術や弓術を磨くための、言わば騎士のたしなみである。男性ならば当然のこと、また、通常は騎士とならない慣習の女性であるなら人並み以上に、実践しているはずだ。
 ただ、それだけに、自分が食べてゆくためという、生活に直結したことではない。だから彼女には、何が何でも獲物をとるという、そんな経験はないようだ。ティアにも騎士の生活についての知識はあるので、それが分かる。
「だから、そうやって出入りしている人間を幽霊と見間違えただけという、それだけのお粗末な話の可能性もなくはないと思う」
 都市の生活しか知らない、単に墓参りにやってきただけの人間なら、森の向こうから現れて、また消えてゆく人影に驚いてしまうかもしれない。自分自身を含めた四人の反応からして、可能性は意外に高いように感じている。ティアにはそう思えた。
「まあ、今の状況から考えれば、騒ぎを起こす悪意のある人間が、気づかれずに出入りしているという可能性のほうが高いだろう」
「それもそうだ」
 ティア一行がこうして現場へ向かっているのは、そもそも調査を依頼したノーマが、何者かの意図があると見ているからだ。その前提を忘れてしまっては、調査する意味がない。もっとも、結論としてやはり何事もなかったということになれば、それはそれでよいとティアは思っている。好奇心旺盛な吟遊詩人なら微妙な所だろうが、常識で考えて事件などないに越したことがない。
「しかしその場合は厄介だな。容易に捕捉できない」
 一方のマーシェはあくまで事件解決を考えている。前向きといえば前向きだ。
「そうだな。それなりの証拠がなければ警備部隊にも動いてもらえないだろうが、そもそもそのために尻尾を捕まえるのが大変だってことだからな」
 タンジェスも別に後ろ向きの人間ではない。必要があればそれだけ頭も使う。ただ、すぐには解決策が出そうになかった。元々外部からの侵入の可能性に誰よりも早く気がついていて、それに対処する手段がすぐには思いつかなかったために、口を開いて他の人間にも考えさせることにしたのだろう。
「それは、私が」
 それをあっけないほど引き受けたのは、ティアだった。軽く挙手をしている。マーシェとタンジェスは少し驚いて彼女を見やった。
「神官としての気の力を使えば、相当程度広い範囲を捜索できるはずです。少なくとも本当に手探りでするよりはましでしょう」
 説明したのは本人ではなく、ストリアスである。ティアはこくりとうなずいて、その内容を確認した。無論ストリアスとしては彼女一人にやらせるつもりはなく、自分も魔術師としての能力を使って捜索をするつもりである。
 ただ、ディーがいるのでそのことは伏せていた。行動をともにしている以上そのうちばれるかもしれないが、しかし努力はしておいたほうが良いだろう。
 普通の人間にとって魔術は、不可思議な存在に過ぎない。同じく魔術師、あるいは相応の修行を積んだ神官ならなどならある程度その気配を察知することはできる。しかしそれはあくまで例外であり、そもそも見えもしないし聞こえもしないその力の根源を、並の人間が感じ取ることは不可能だ。
「なるほど、その手がありましたね」
 マーシェと、そしてタンジェスも、暗に示されたストリアス自身の意図を含めて理解した。とりあえず、頭数の不足はティアとストリアスの特殊な能力で補えそうだ。
「ふうん」
 そして一人かやの外、のはずのディーは、妙な笑いを浮かべていた。
「何か?」
「いや、なんだか、面白い人だなと思ってさ」
 とっさに言葉がない。表情を取り繕うので精一杯だ。脇で聞いているタンジェスもマーシェも、さりげなく身構えている。
 ティアだけは平静そうだが、しかしこれは単に、普段の感情表現の差が現れているに過ぎない。
 ど、どうしよう。いきなりばれそう。でも、変に言い訳をしたらかえって怪しいし、ほかに方法は、ええと、ええと…。
 と、実は内心結構慌てている。ただ、どうして良いのか分からないので、結局行動していないだけだ。
 その緊張にまるで気がついていない様子で、ディーは続けた。
「さっきからずっと彼女の代わりにしゃべってるみたいな感じだけど、二人、付き合ってるの?」
 そしてくすくすと笑いながら、竪琴で甘く、それでいてどこか切ない曲を奏でる。
 完全に予想外の事態に、ストリアスは全くの無反応。そしてその横で、ティアがぶんぶんと首を横に振っていた。
 違う、ちがう! 恋人だとかそういうことは絶対にない!
「いや、なにもそこまで力一杯…」
 否定してはストリアスに対して失礼だろう。同じ女性であるマーシェはそうたしなめたのだが、しかしティアは首を振るばかりである。彼女の長く艶やかな髪が、宙を舞っている。
 確かに、二人一組で息を合わせて会話を成立させている様子は、恋人同士のようにも見えなくはないだろう。いや、それよりは夫婦、あるいは親子、そんな所だ。
 そして事実はどうあれ、そこまで世話を焼いてくれている相手に対してその態度はよろしくないとマーシェは判断しているらしい。やんわりと否定すれば済む話だ。彼女なら、小さく首を振るだけでいい。
 分かっている。それは分かっているのだけれど、でも、こういう話は恥ずかしくて駄目!
 そうやって、首を振り続けるティアだった。
 そんな彼女を、もう一方のストリアスは穏やかに眺めている。マーシェは首をかしげているが、神官なのでそういう面では潔癖なのだろうと理解していた。
「こらこら! いきなり騒ぎを起こしてどうする!」
 しょうもない話なのでとりあえず無視を決め込むつもりだったらしいが、期待に反して一向に事態が収拾されないのを見てやむなくタンジェスが注意する。この時点で既に丁寧語が抜けていた。もっとも、ディーの言動には敬意を払わせるような要素が始めから欠落しているので、止むを得ない所ではある。逆に、肩肘を張らせないような雰囲気を持った人物だと、好意的な評価ができなくもない。
「う、いや、ごめーん。ちょっとふざけただけなんだけど、まさかこうなるとは思わなくてさ」
 軽い調子で謝りつつ、ひょいひょいとタンジェスから遠ざかる。万が一彼が怒って手を出そうとしても逃げ切ってしまう、そんな構えだ。元々自分よりずっと華奢な人物に暴力を振るうつもりもないタンジェスとしては、それで完全にとやかく言う気をそがれてしまった。そもそも、過剰に反応するティアにも少々問題があるのではないかと、マーシェ同様彼にも思っているようだ。
「まったく…」
「あはははははは!」
「はは…」
 大笑いするディーと、そして結局ぷいとよそを向いてしまったティアを、ストリアスは苦笑して見ている。実際ティアに対して男女の関係をどうこう、などという気はないので何を言われても、また彼女がどう反応しても腹は立たない。
 この前ひどい失恋をした。その痛手から一応は立ち直って日常生活を送っているつもりではあるが、しかし女性に対して特別な感情を抱くほどには至っていないようだ。あるいはそれが一生残る傷になって、思い悩みはしないにしても、女性に対する興味を大きく削ぐ要因にはなるかもしれない。ストリアスは自分の精神状態を、そう冷静に分析している。
「くすくす」
 だからこそ、彼は一瞬ディーの視線がまた自分へ向けられたことに気がついた。妙に長い前髪の間から、かすかに漆黒の瞳がのぞいている。
 笑っているのは相変わらず、しかしその笑みはどこか、単にからかっているのとはまた違う意味を持っているように感じられた。それでは具体的に何を考えているのか、そこまでは、すぐにまた前髪で彼の目を見ることができなくなったせいか、分からなかったのだが。
 不思議な人物だ。彼自身の言葉を借りるなら、「面白い」。何となくそう思う、ストリアスだった。

 世界で最も数多く人を殺したのは誰か?
 極めつきの罰当たりなら、そんな問いに対してそれは「神」だ、と答えるだろう。そもそも人間が「死ぬ」ように作ったのは神なのだから、理屈の上では一応それも間違いではない。もっとも、「死」という現象そのものをを形作ったのが神である以上、それは全ての「死」にある意味関わってるのだから、「最も数多く」という問いに対する答えとしては不適当だ、などという批判もできる。
 もう少し現実的に考えるのなら、答えはいつかの時代のどこかの国の君主になるだろう。悪逆非道、などとの悪名を残した者も少なくない。誰がどう考えても理不尽な命令で殺された無辜の民は、枚挙に暇がないのだ。
 また、逆にそのような暴君を打倒した名君と呼ばれる人物も、そのためには多くの血を流しているものだ。
 暴君自身、そしてその取り巻きなど、その非道に加担したものどもはその罪に応じて裁くほかない。そうでなければ、そもそも打倒する意味がないからだ。それにその権力を守っていた数多くの人間を殺さなければ、その当時の君主自身を倒すことなどまずできない。
 マーシェやタンジェスが尊敬して止まない現国王も、「人殺し」と言われるならば少なくともその事実を否定はしないだろう。ただ、そうしなければもっと多くの人が死んでいた。それこそ由々しき事実だと、堂々と反論するかもしれない。少なくとも、その善政によって恩恵を受けたと感じる多くの人々は、そうすることだろう。
 あるいはその答えは、古の魔術師達かもしれない。天候さえも自在に操ったといわれる彼らならば、己が気づきさえしないうちに、それこそ虫けらのように何人も殺していたかもしれない。ただ、それだけに、それを知る人間は最早いないだろう。
 明確な結論はない。それならば、少し質問を変えてみることにする。
 世界で最も多く、人間をその手にかけたのは誰か? 比喩でも何でもない、文字通りの現実として、その手を最も人血にまみれさえたのは誰か?
 これで、答えはまず間違いなく一人に絞れる。それ以外の名を挙げる人間がいるとすれば、それは余程の変わり者か、あるいは単なる無知な人間かだ。
 あの戦乱の時代、流血色の魔剣を手にしていた男。一兵卒から名だたる敵将まで、立ち塞がるものは全て斬り捨てた。戦いに情を一切差し挟まず、必要であれば必要なだけ殺す。
 正々堂々、など始めから念頭になく、敵を楽に葬る謀略を思いついたのなら、ためらわずにそれを実行した。その冷徹さは、敵ばかりか味方からも恐れられたという。
 一度は彼を制した者もいないではない。しかし後の機会で対峙して、勝ちを収めた者はいなかった。
 戦うその瞬間ごとに何かを吸収し、強くなる、人の形をした化け物。あれ以上に人を殺した人間が、他にいるはずもない。それは、あの戦争を何らかの形で経験した数多くの人々にとって、共通の認識だ。
 その名は、既にある種の禁忌となりつつある。迂闊にそれを口にすれば、それに伴う「死」を呼び込むことになる。そう信じられているためだ。元来、この国では王族や高位の神官など、極めて高い身分を有する人間に対しては、軽々しくその名を呼ぶことが不敬であるとされている。それとある意味では同じ扱いである。
 それでもなお、強いて個人を特定する必要があるのなら、祟られる心配のない人間を持ち出して間接的に形容するのが無難だろう。若くして王都屈指の剣豪との誉れも高い近衛騎士、ノーマ=サイエンフォート。その師匠だ。
 紛れもなく、最強。しかしその彼も、既にこの世の人ではない。「最後の戦い」で、敵の首魁と刺し違えてしまった。
 まるで「戦争」そのものを体現したかのような生涯だ。その墓標を目にして、ティアはそう思う。情け容赦なく殺して、そして殺された。
 悪名高くもあったが、しかしそれは同時に幾多の騎士や戦士が求めて止まない「最強」の称号を手にした証でもあった。ゆるぎないほどに名を成したからこそ、死してなお語られるのだ。生き残っていれば、今頃は自ら勝ち取った平和の中で、国家国軍の重鎮として忙しくはあっても豊かな暮らしを送っていただろう。
 しかし現に遺されたのは一振りの魔剣と、たった一人の当時はまだ幼い弟子だけ。刺し違えた敵手が尋常でなかったために、亡骸すら残らなかったそうだ。
 戦争の光と影、その全てが凝縮されているように思える。その一方で、決して凝縮されることのない個々の人生が、その墓標の向こう側に、無数の墓標の群れとなって現れている。


 かつて「最強」と言われた男の墓石は、王立墓地正面入り口に置かれている。まるで、侵入者から他の墓を守っているかのように。
 その生涯について、武官という彼と同じ道を歩んでいるマーシェやタンジェスはどう思っているのだろう。ティアはそれを問い質してみたいと思う。しかし軽々しく、ましてその当人の墓を目の前にしてするような話でもないと判断して、結局いつものように黙っていた。
「ああ、削られてるってのは本当なんだな」
「そのようだ」
 とりあえず、未来の騎士たちは墓石に象徴される人間の生き様ではなく、石そのものの状態を見て難しい顔をしている。確かに、ふちの方などに本来の形から欠損したような痕跡が見えた。作られてからの年数を考えれば、風化したのでないことは明らかだ。
「誰がこんなことを?」
 墓石など削って何にするのだろう。ストリアスは純粋に不思議に思った。確かに石材は王立施設の正面に置かれるのにふさわしい、立派なものである。魔術師としての専門が鉱物分野なので、それは良く分かる。
 しかし石材というものは、それなりの大きさがあって初めて価値が出るのだ。そうでなければ構造材として役に立たないし、見栄えも悪い。たとえどれほど高級なものでも、かけらになってしまえばただの石ころである。
 ストリアスほど鉱物には詳しくないとはいえ、全くの同感であるのでティアも二度ほどうなずいていた。
「削ったものを肌身離さず持っていると魔よけになるとかいう、根も葉もない噂があるのです。特に騎士や兵士の間で、高値で取引されているなどという話もあります」
 勝ち続けたその霊験にあやかろう、ということなのだろう。今でこそその強さに疑いを差し挟むものなどいはしないが、当時としては格上と思われていた武人を少なからず葬り去っている。駆け出しの人間としては、すがりたくなるのも止むを得ない経歴の持ち主であるのだ。
 マーシェがある程度説明をしてくれたので、タンジェスは毒づいた。
「祟られても知らないぞ、全く。たった一人の弟子がいざとなったら祟りかねない人だったなんて言ってるのを、知ってるのかね」
 本当に効果があるかどうかの議論は、ティアやストリアスに譲るとしよう。しかしもしその霊威が確かなものだったとしても、墓石を削って持ってゆくのは、単に主の怒りに触れるだけだとしか思えない。いくら亡骸がここにないとはいえ、死者の尊厳を傷つけることおびただしい。所詮出所も定かでない迷信を信じる、そして死者に対する常識的な敬意の払い方も知らない輩であるから、理屈が通じないのかもしれないが。
「ごもっともですが」
 ただ、それをやんわりとティアがたしなめる。
 こうしてきちんと祭祀が執り行われている人ならば、わざわざ冥府から舞い戻ったりはしない。それが神官の立場であると、先程確認したばかりだ。それに幽霊騒ぎの正体を見極めるという今回の目的からしても、不適切な発言だ。反省してもらわないと困る。
「おっと、失礼しました」
「まあ、別に。あいつならそんな小さなことは気にしないよ」
 背後からその様子を見守っていたディーが、肩をすくめる。まるで親しい人間だったかのようなその言い方に、残る四人はとっさにどう反応してよいか分からなかった。
「どんなに強い人間でも、どんなに敬虔な人間でも、運が悪ければそれだけで死んでしまう。所詮その運に翻弄されるしかない人間の墓をちょっと削って持っていた所で、何の意味もない。その冷厳な事実を誰が一番良く知っているのか、今更言う必要もないんじゃないかな。あいつならそんな愚行を鼻で笑いこそすれ、怒りはしない」
 はるか遠くを見てから、ディーは視線をティアたちに戻した。長すぎる前髪で目元が隠れているはずなのだが、しかしそれは何故かはっきりと分かる。
 そもそもこの人、物を見るのに不自由しないのかしら。でも確かに、見えていない様子はないし…。
 ティアがふとそう考えている間に、ディーが続けた。
「知っているのか、って?」
 ややわざとらしく、自分から疑問を提示する。
 ある種のほらだろう。全員、内心そう思わないではない。彼がそもそも正体不明の人物だという点を考慮から除外したとしても、吟遊詩人は物事を誇張して話すのが商売だからだ。
 優秀な吟遊詩人であればあるほど、豊かな創作の才能を持っているものである。そうでなければ、「物語」として面白くない。そして聞いただけのことをまるで見てきた、あるいは体験したかのように語るのも、その職で暮らしてゆく上では欠かせない技術である。
 ただ、少なくともこの墓の主である人物に関してなら、直接知っている可能性を全て否定はできない。何しろつい十年ほど前までは生きていたのだ。ティアやタンジェス、マーシェであっても、その機会さえあれば物心ついた頃に出会っている計算になる。この三人より年かさのストリアスなら、思春期である。ディーの実年齢は今ひとつ不明だが、少なくともその可能性を欠く十歳を割っているとは思えない。
「知っているし、知らないよ」
 それだけ聞くと完全に論理が破綻した言葉を吐いてから、ディーは竪琴をゆっくりと奏で始めた。優しく、穏やかで、そしてどこか悲しい。それは鎮魂の調べだ。
「黎明の時代から、手を伸ばせば届く現在に至るまで、ボクらは語り継がれている限りのことを知っている。王者も、英雄も、聖者も、魔術師も、それから既にその名すら忘れられた人々も。そうしてもう、今はいない人たちの想いも、受け継ぐことができる。ボクらはその想いをつなぐのが、仕事だ。でも、現にこうして会っている人間の間でも、知らないことはいくらでもある。つまり、そういうことだよ」
 結局やはり、はぐらかされてしまった。しかし一体、何を隠そうというのか。それとも単に、謎めいた雰囲気を演出しているだけなのか。とにかく良く分からない。
「さ、とりあえず、することは済ませちゃったら? それもお仕事のうちなんでしょ」
 そして身勝手に、話を終わらせてしまう。追及の材料も持ち合わせていないことだし、全員仕方なく言われた通りにした。
 今回四人がこの墓地を訪れた名目は、墓参ということにしてある。墓地にそれ以外の目的でやってくるのも不自然なので、選択の余地はなかった。それにティアの神官としての立場上、訪れておいて素通りすることもできない。
 タンジェスとマーシェはそれぞれ縁の人間を弔うとともに、偉大な英霊の墓所を訪れうことで騎士を目指す志を新たにする。ティアは自身の修行をかねて、神官として祈りを捧げるべく友人達に同行する。ストリアスは雇い主の言いつけで彼女のお供をする。そんな筋書きである。
 それをうまくまとめたのは、今回の仕事を実務面で取り仕切る、茜商会だった。ただ、その適当な筋書きを要するに「でっち上げた」のが誰であるのか、語るものはいない。ティアたちに対して直接説明を行ったのは、商会の実務を取り仕切るエレーナである。しかしそれが彼女の独断であるのか、あるいは商会主であるファルラスの指示であるのか、それに関する説明は一切なかった。
 そして、ともかくも死者の魂が安らかであるよう祈りを捧げる。花束も、墓参に来た人間を当て込んだ出店であらかじめ買ってある。名目を決めた以上は、それも必要な作業のうちなのだ。
 死せる英雄を偽装工作のだしに使った側面も否定はできないが、しかしストリアスもマーシェもタンジェスも、あまり深くは考えないことにしている。依頼者にして弔われることになる人間の愛弟子であるノーマが「人をだますのを楽しむような人だったから、むしろ面白がるかも知れないね」などと言っていた。
 冷厳な事実の表現なのか、それとも今は亡き師匠に対する暴言なのか…。ティアとしても微妙に思っているが、ひとまずその疑問は頭から追い払った。祈りをささげる際には、精神の集中が不可欠だ。
「慈悲深き方、全ての魂の主たる方よ、願わくば、この祈りを聞き届け給え。傷つき、倒れたるものに、安らかなる眠りを与え給え…」
 この場で選んだのは「戦士への祈り」と呼ばれるものである。全ての戦死者に対して捧げられる、戦場などで用いられるものとしては典型の一つだ。
 ただ、同じく典型として、正義に殉じた者へ捧げられる「勇者への祈り」もある。国家の公式な祭礼や、戦没した個人の葬儀には多くの場合こちらが用いられるものだ。
 後者にしなかったのは、ティアの場合単純に師匠に倣ったためである。師である院長が「勇者への祈り」を捧げるのを、聞いたことがない。戦死者を悼むのなら敵味方を分け隔てず、死せる者全てを対象にしたいとお考えなのだろう、とティアは解釈している。
 真相は、どうも違うような気もしないではない。特にこの場所の場合、少なくとも目の前の墓で弔われている人物は、「正義に殉じた」などと単純に割り切れる限界を軽く超えている。何しろ、本当にそれが可能であったかどうかが疑わしいほど、多くの人間を殺しているのだ。本意ではなかったがやむなくそうした、などと片付けられる数では決してない。
 ただ、困窮する民衆を保護するため必要とあれば、大貴族でも大臣でも平然と痛烈に批判する院長が、その人物に関してはほとんど語ろうとしない。無論賞賛すべき人物であれば、惜しみなくそうする人でもある。そこで彼女を尊敬してやまないティアとしては、迂闊な断定ができない。
 それに、ティア自身は故人を良く知らない。知りもしないのに批判をするのは不当だと、そう感じる道義心も持ち合わせている。ただから今は、なるべく無心に祈ることにした。
 ただ、タンジェスやマーシェは、いずれこれを、あるいは「勇者への祈り」を、墓の下で聞かされる側に回るかもしれない。二人が生きるか死ぬかの場面にティアは立ち会ったことがあるので、冗談ごとではなくそう思う。
 もし万が一のときにはその祈りを捧げるのも自分の務めだ、とは承知している。その場に現に居合わせる可能性もあるし、そうでなくとも縁のあった神官として、祭祀を依頼されるかもしれない。また、その過程では何らの関与もなかったとしても、ひとたび関わり合いになった人の死を聞かされたならば、そのために何かをしようとするのが神官として以前に人として当然なすべきことだと思っている。しかし、できればそうしたくない、というのが偽らざる本心だった。
 そしてこの時、ティアは自分自身が死ぬ可能性というものを、全く考えていなかった。それゆえ当然、自分が祈りを捧げられる対象になるとも思っていない。彼女自身、二人と同時に危ない目にあっているのだが、何故かその思考はそうなっているのだった。
 この神官の想いに対して、タンジェス、マーシェ、そしてストリアスは、祈りを大人しく聞いている。
 武官予備群の二人に、実の所今特別な感情はない。そもそも、自分が死んだ時のことを必要以上に思い悩むような人間は、武官、それ以前に戦士として不適格なのだ。
 死んだ後のことは、今から考えても仕方がない。そしていざとなればいざとなったらで、やはり考えても仕方がないだろう。そんなある意味割り切った人間でなければ、戦う前に精神面でやられてしまう。他人の墓を見た程度で動揺するようでは、問題外とさえいえる。自分の意に沿わずに徴兵された人間ならともかく、そもそも自ら志して士官学校に入った人間であれば、生死に関して必要以上に思い悩んだりはしないものなのだ。
 二人にはそれぞれ個性があるが、その面では共通しており、つまり武官としての適性がある。二人とも士官学校入学の時点で身辺整理はそれぞれある程度済ませており、そしてそれ以上のことは必要ないとの判断は今も変わっていない。
 この墓地に葬られた多くの死者を悼む気持ちは無論あるが、逆に言えばそれ止まりだ。自分がどうこう、などとは考えていない。それは、自分自身が生きるか死ぬかの経験をした今も変わっていない。
 今一人、ストリアスの心情は微妙に異なる。自分の命を賭けるような仕事に就きたいなどと考えたことは、士官学校生たちと違って一度としてない。しかし現に、自分の命を張る賭けに出たのは、ほかならぬ彼だった。
 そして結果は大失敗。さらに言えば、彼のその暴挙を命がけで阻止したのが、タンジェスとティアである。その二人と今は、仲間として行動している。そんな様々な事情、一言で片付けてしまえば紆余曲折が、彼にひときわ特異な死生観をもたらしていた。
 普段決して冷酷な人間ではない、むしろ誰もが優しく温和だと認める性格ではある。しかし「死」という現実に対しては、本人が奇妙に思うほど、無感動だった。ストリアスにとって目の前に広がっているのは、多数の石材と、土とそこに生える草や苔と、そして、石材の下に埋められた人骨でしかない。さらにあえてつけ加えるなら、腐りかけの人肉が多少、というところだ。その一つ一つが人の死の証であるとは分かっているが、しかしだからどう、ということもない。
 そして、最後に。ディーはティアの祈りに合わせて、鎮魂の曲を奏でていた。鋭いほどに透明な音が、墓所に染み渡ってゆく。それはそこに込められた「悲しみ」に、全く揺るぎがないからだろう。聞いている人間誰もが、何故かそう思う。
 この男は一体、どれほどの「死」を目の当たりにし、また耳にしてきたのだろう。その深みを探り当てられる人間は、少なくともこの場にはいなかった。
 やがて、ティアの祈りが終わる。そしてディーは、その後の余韻まで曲によって余すところなく表現した。その意味を含めた祈りの一言一言全て、そしてそれがどのような拍子で唱えられるかまで熟知していなければ、できない芸当だ。
 例えば神殿付きの楽士ならば習得していて然るべき事柄であるが、しかし流浪の吟遊詩人が、しかもたった一人でやってのけるとなると、その知識の深さには驚くほかない。ティアはそれだけで、彼をかなり見直した。
「さて…」
 弦を指で押さえて、つまり敢えて自らが作り出した調べの響きの名残を殺してから、ディーはつぶやいた。
「そこで聞いているのは、誰かな?」
 瞬間、気配が一変した。

続く


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