王都シリーズW
王都怪談


 14 生き続ける人々


 主犯はヴォート=ブレアン男爵配下の騎士、ジューア=ドーク。その他騎士二名と、神官であるヒーム=バイグという男が共犯として加担していた。主な実行犯はギイという少年だったが、彼はむしろ被害者といえる立場にあった。
 騎士たちの動機は、現状への不満である。男爵配下にいる限り、彼らは主と共に陰鬱な墓守を続けなければならない。それを厭ってのことだった。幽霊騒動を引き起こしたのは、男爵が衰弱の末死亡することに疑いをもたれないための偽装である。
 他に大きな不安があれば、身の回りの世話をする下女などの目をそらすことができる。さらにその後「犯人」であるギイを発見したと称して斬ってしまえば、自分たちの手柄にもなる。そのような算段だった。ギイはもちろんそこまでは知らされておらず、ただ高額の報酬に釣られて言われたとおりに小細工をしていたのである。
 男爵が衰弱した直接の原因を作ったのは、ヒームである。元来良好だったとはいえない男爵の精神につけこみ、悪化するよう暗示をかけ、それが進行した機会を見計らって少量ずつだが薬を名目に毒を盛っていたのだ。
 彼に関して、主な動機はジューアからの脅迫である。こともあろうに、魔除けになるなどと称して墓石を削って売っていたのが彼だったのだ。その弱みをジューアに握られ、その後警備部隊の一部の協力により販路を拡大するとの餌もちらつかされ、一党に取り込まれていた。
 そして男爵について、今の所病状は落ち着いている。しかし完全に回復するか否かは微妙で、そもそもある程度鬱状態にあったと見られる以上、何を基準に回復というかも微妙だということだった。
 以上、取調べを含む事後調査の結果を、ノーマ=サイエンフォートは事件解決を内々に指示した人物に報告した。ティア一行から聞き取った内容については、既にこれ以前に伝えてある。
「そうか、彼がな…」
 多忙な政務の手を止めて、彼は目を伏せた。ただ、いわば「戦友」でもある人間の末路を案じているにしては、そこに宿った輝きはやや冷たく見える。
「当面は地域管轄部隊に引き続き警備をさせるほかないな。併合するか後任を充てるかについてはもうしばらく考える。その旨伝えてくれ」
「はい」
 結局、発せられたのは具体的な命令だけだった。ノーマ自身予想したとはいえ、どうしても顔が曇ってしまう。そしてその表情を、彼はやや非難がましく見返した。
「そんな顔をするな。回復の見込みがあっても更迭は止むを得ん。彼には本来事態を未然に防ぐべき責務があったのだ」
「承知しております。任にある以上は全うするのが官人の務めであり、また臣下を統御するのが貴族の務め。高位高官にあり血税を食む以上、当然支払うべき代償です」
 ノーマ自身ごく小さいとはいえ領主の息子だし、また年齢の割には高官であるからそれぞれの責務は十分わきまえている。
 しかし、文武百官と貴族諸侯、その全ての頂点に立つ人間の背負ったものの、何と重いことだろう。そしてその責務に従って、やむを得ず部下を切り捨てなければならない人間の心情の、何と苦しいことであろう。それに思いを致して、ノーマは無表情を保っていられなかったのだ。
 国家の全てがかかっていると言っても過言ではない双肩の上で、若き国王は軽く首を振った。
「それにな、ノーマよ」
「は」
「戦士には、戦士の責務があるのだ。生き残ったのであれば、生き続けるという責務がな…」
 王者の言葉に対して、ノーマは沈黙を守る。彼が返答を求めていないことは、分かっていた。ただ、静かな時間だけが流れてゆく。
「くっ!」
 崩壊は、一瞬だった。突如抜き放たれた刃が、しかし正確にノーマの頚動脈を狙って襲い掛かる。
 鋼の剣同士がぶつかり合うよりもはるかに澄んだ音とともに、その死の一撃が辛うじて止められる。伝説の魔剣が、美しい炎を吹き上げていた。それと噛み合ったもう一振りの剣も、色合いこそ異なるが同様に炎を吹き上げている。二色の炎は絡まり合いながら、空へと消えてゆく。
 自分でなければ、そしてまたこの剣でなければ、本当に斬られていた。汗が額を伝う。
 満足げに笑ってから、相手、国王は剣を納めた。
「まあ、君が今後どこまで腕を上げるのかも楽しみだし、私は生きることを苦痛とは思わないがね」
 そして何事もなかったかのように政務に戻る。机上の書類が散らばってさえいない。ノーマは深く、ため息をついた。
 何より恐ろしいのはこの国王の底知れぬ実力だ。多忙で鍛錬の時間はごく限られているはずだし、実戦からは大戦終結以来遠ざかっている。それが日々鍛錬を積み重ね、また機会を見て実戦にも出ているいわば現役の自分を平然と追い詰めてしまう。しかも追い詰めはするが殺しはしない、そこまで見切っているから、手加減せずに切りかかってきた。
 この人だけは、あの凄まじい戦乱の中でも生き残るべくして生き残ったのだ。そう思えてならない。亡霊などより生きている人間の方が余程恐ろしい、師匠がそう常々言っていた意味が、今は分かる。
 これ以上話をしても時間をとらせてしまうだけだ。そこでノーマは、自分も剣を納めてから最後の話題に入った。突如腕試しをされるのも日常茶飯事なので、一々抗議はしない。国王の居室で剣を交えても誰も騒がないのは、皆慣れているためだ。 
「あ、それと。ストリアス卿から内々に、もう一度調査をしたいとの申し出がありました。魔力が異常に高まったことといい、不思議な声が聞こえたことといい、ぜひ解明の必要があると」
「ならん。理由を説明する必要は有るまいな」
 もう書類から顔を上げもしない。ノーマは苦笑して肯定した。
「はい。握り潰すのもどうかと思えたので、念のため申し上げただけです。私からは以上ですが」
「今は特にない。下がってくれて構わないぞ」
「は」
 丁寧に一礼してから、ノーマは国王執務室を退出した。ティア一行が、奇妙な現象について関係者以外に口外するとは考えにくい。それならば、黙殺してなかったことにしてしまうのが上策である。それが、彼と国王との一致した思惑だった。

 士官学校に戻ったタンジェスは、負傷療養を理由に数日間の体力、実技訓練免除が認められた。将兵は軍にとって最も基礎的な資源であるから、それを壊さないための措置はかなり柔軟に認められているのだ。
 もっとも、その時間分ただ休んでいる、あるいは遊んでいて良いわけではない。学校付き神官により座学には耐えるとの診断が出ているので、自習の上結果を報告書としてまとめるようにとの課題が出されていた。
 学問よりは実技のほうが得意なタンジェスである。しかも規定の時刻が来れば教官や場所の都合で終了となる訓練や授業と異なり、この自習は報告書がまとまらないと終わらない。そして報告書に手を抜いたら、やり直しを命じられるのは目に見えている。
「地獄だ…」
 もう何度繰り返したか分からない愚痴を、タンジェスはつぶやいた。自習室を兼ねる談話室の机上には、課題図書が詰まれている。
「良い機会ではないか。ノーマ卿にいただいた課題も中々興味深いし」
 休み時間に冷やかしに来たマーシェは、そのうち一冊をぱらぱらとめくってみた。軍事専門書ではないのが目新しい。題名は「負傷者の心理」となっている。
 自分が協力を依頼した結果士官学校の教官たちに負担をかけては申し訳ないとのことで、課題の設定から結果の添削まで、ノーマ=サイエンフォートが自ら務めることとなっている。そして彼が出した課題は、武官ではない人間の選んだ書物について、報告書を書くというものである。
 今マーシェが手にしているのは、ティアの選によるものだ。題名だけ見ると完全に彼女の分野の専門書であるが、内容は比較的入門に近く、またどんな職種よりも負傷者の多い武官にとっての馴染み深い記述が多い。つまりできるだけ、タンジェスにあったものを渡してくれたのだろう。そんなさりげない心遣いが、今の彼にはありがたい。
「そんなふうに言うならちょっとは手伝えよ。怪我人出したのは共同責任だろうが」
 一方今タンジェスが今紐解いているのは、ストリアスが選んだものである。内容は魔術で加工された武具について。よく言っても少々不器用、悪く言えば露骨な選別にタンジェスとしては冷や汗ものだったが、簡単に目を通したノーマは何も言わなかった。とりあえずこれが最も手をつけやすかったので、まず取り掛かっているのだ。
「それは作戦行動が終わるまでの話だ。完結して日常に戻れば、それは個人の責任だろう。それにそれほど、困難な課題とは思えないが」
 純粋に無関係な人間ではなく、専門が違うとはいえ知人に選ばせた時点で、ノーマ自身にも一定の配慮がうかがえる。しかしタンジェスは短く、だが大きなため息をついた。
「そいつを見ろ」
 今は開かれていない、最も分厚い一冊。にこやかに、そして情け容赦なく難解な代物を手渡してくれたのは、ファルラスだった。「商品供給の理論と実践」である。どう考えても軍事に結びついてこない。中をぱらぱらとめくってみたところ複雑な数式が数多く使われており、算術が得意とはいえないタンジェスはそれだけで嫌になってしまった。
「ふむ」
 判断を保留して、マーシェが本を開く。ただ、彼女は中身を見ようともせず、前書きと後書きを一通り読んだだけだった。それから目を伏せて口を閉ざす。
 当然ながら、まじめに読む気がないらしい。そう判断したタンジェスは、自分の課題に戻ることにした。今は時間が惜しい。
「そうか。商品を補給物資と読みかえればいい。内容を精査する必要があるが、これは兵站学に応用できるかもしれない。ああ、そればかりではない。商品を兵力と読み替えれば、戦略運用理論になる可能性も有る」
 相手にしていなかっため、タンジェスはマーシェのこの台詞を半分以上聞いていなかった。当然理解もしていない。ただ、ふと異変に気がついて顔を上げただけである。それを咎めず、彼女は説明を続けた。
「商人の武器は商品、逆に言えば我々の商品は軍需物資と兵員だということだ。この書物はその運用に重要な示唆を与えるかもしれないぞ」
 今度は単に好き放題言っているのではないと感づいているので、タンジェスもきちんと聞いて、内容を検証している。程なく、彼もマーシェと同じ結論に達した。学業で彼女には劣るとはいえ、彼も十分優秀と評価できる才覚を有している。そうでなければ入学もできないのだ。
「ああ、なるほど」
 理解の言葉は、あっけないほど簡単なものだった。それでいいと、マーシェも思う。彼女自身、それに相当するのは「そうか」の一言だったのだ。十分に理解したのなら、その事実は簡単だと思えるものである。
 記述がどのようにして金銭的利益を出すか、ということに主眼を置いていたため、タンジェスは理論の有効性に気づかなかったのだ。金をもうけるためではなく、勝つために迅速かつ効率的に軍事資源を移動させると考えれば良い。マーシェが指摘したのはそのことだ。
「すごいな、君は。良くそんな限られた範囲を読んだだけで分かるもんだ」
「違う違う。まずそこを読むべきなのだ。表現力の確かなら著者なら、まず読者の目に留まる部分に要点か、少なくともそれを示唆する表現を置く。詳細な説明はその後だ。そして最後にもう一度まとめる。それらに目を通して分からぬのならば、それは読んだ人間に内容自体を理解する素養を欠いているか、あるいは逆に著者の表現力に疑問があるということになる。いずれにせよ、読むか否か再考を要するということだ」
 得意げに語ってから、マーシェは笑いかけた。タンジェスも笑みを返す。
「ありがとう」
 課題を消化する責任は彼のみにあると言いながら、ささやかながら手助けをしに来たということらしい。彼女が指摘したのはごく大枠だが、少なくともそれがつかめていれば何とか課題を仕上げられる見込みがある。
「どういたしまして。さて、次は戦史の授業だ。君も出るのだから、片付ける支度をしておけ」
 ちなみにマーシェは実技の帰りにそのまま寄っているので、とりあえず着替える必要がある。言いながら、既に歩き出していた。
「ああ、そうだな」
 遅刻をしても仕方がない。当面希望が持てたのを良い機会だと考えて、タンジェスは切り上げることにした。課題図書のほか参考書も散らかしているので、撤収にはやや時間がかかるだろう。
「ああ、そうだ、いかんいかん。一つ伝え忘れていた」
 談話室の戸口で、マーシェが振り返る。タンジェスは手を止めずに応じた。
「何だ」
「それでは足りないだろうから、課題の追加を教官殿に進言しておいた。内容は今回の作戦報告。不適当な部分を省けばそうして構わないと、ノーマ卿の承諾もいただいている。追って話があるだろう」
「この…」
 とっさにそれしか言えない。始めに喜ばせておいて、その後突き落とす意図があったとしか思えない。どうやら彼女いわく「片がついた」問題を蒸し返したのを、根に持っているらしい。
「頑張れ。それでは教室で待っている」
 軽快に手を振って、彼女は背を向けた。
「人非人! 鬼! 悪魔!」
 罵声を浴びせながら、しかし片付けるのはやめないタンジェスである。マーシェは苦笑して、また振り返った。
「何と言おうと構わぬが、思いつめた挙句化けては出るなよ。後が面倒だ」
 マーシェの完勝である。タンジェスは震える手で作業を終えてから、教室に向かうのだった。

 一件落着。それを喜んでいるのか何なのか、流浪の吟遊詩人は戻ってから数日後もファルラスの家にに居続けていた。機嫌良く、サームや彼の友達や、あるいは使用人達などに叙事詩を語って聞かせて過ごしている。
 そんな、常に誰かに囲まれているのが途切れたのは、ある日差しが心地よい昼下がりだった。謳い疲れて庭に面した安楽椅子でうたた寝をして、気がついてみると人の気配が消えている。唯一の例外は、その向かいに座ってお茶を飲んでいる男だった。
「サームと…それに奥さんは?」
 あくびを隠そうともしない、その合間に問いかける。相手はどこか、諭すように答えた。
「友人宅に遊びに行くそうで、妻はその付き添いです」
「女の子たちは?」
 ここで言う「女の子」は例えばサームの友人たちではなく、若い使用人の女性たちのことである。
「彼女たちにも仕事があります。喜ぶ顔も悪くないので、あなたの話を聞くのは大目に見てはいますけれども、さすがにね」
「ふうん。君自身、ここではなくて商会で仕事があるはずだけれど。あの女性…エレーナさんって言ったっけ。怒らない?」
「二点ほど、お伺いしたいことがありますもので、抜け出してきました」
 屋敷の主にして茜商会主、ファルラス=ミストは微笑を浮かべて答えた。どうやら人払いをしたらしい。
 引き伸ばしは無益だ。そう判断して、話すことにする。相手が聞きたいことは、分かっていた。
「そう。じゃあ、まず一点。彼の魔術の効力が異常に強くなったことについて」
 軽くうなずいて、ファルラスは続きを促した。
「こればかりは正直な所ボクにも分からない。それぞれ優秀な魔術師と神官である、ストリアスにもティアにも分からなかったことだからね」
 ファルラスは表情を変えない。ただ、返事もしなかった。構わず、吟遊詩人が続ける。
「あるいは古の魔術師にでも聞いてみれば何か分かるかもしれないけれど…ともかく、普通の人間が考えても仕方のないことだよ。そうは思わないかい、ファルラス?」
 彼はやはり、口を開かない。それこそが狙いだったので、ディーは順調に続けた。
「魔術研鑽所…特にその所長の見解はどうなの? 彼こそ、この国の中では最も魔術の高みに近い人のはずだし、君ならそこからも情報を引き出せると思うけれど」
「ノーマ卿からの又聞きですけれど、人間の想念が特に集まりやすい場所ゆえに、特殊な現象が起きる可能性が高くとも不思議ではないと」
「なら、そうなんじゃない?」 
 これぞ投げやり、とばかりに結論を放り出す。ファルラスは結局、諦めのため息をついた。
「そうですね。それでは第二点、最後に聞こえたという怪しい声の正体も、並の人間の窺い知れる所にあるものではないと?」
 始めから、まともな返事が得られるとは思っていなかったのだろう。その声は既に、相手以上に投げやりだった。それが面白いので、吟遊詩人は口を開く。
「いや。あれはそうでもないんだよ、これが」
「ほう」
「気づいてしまえば簡単。本当に簡単」
 軽く歌うようにつぶやきながら、吟遊詩人は立ち上がった。安楽椅子で反動をつけて、すとんと降りる。
 そして彼は、その拍子に任せた足取りで部屋の隅の棚に歩み寄った。
 その棚の上では、人形やぬいぐるみがひしめき合っている。この屋敷の中では唯一の児童であるサームのために、買われるか作られたものだ。しかしこれは、実の所可愛いもの好きの母親の趣味といって良い。彼女が好き勝手に買ったり、あるいは自ら縫ったりしているだけなのだ。サーム自身の興味は、それほど深いものではない。結果子供部屋に集められるでもなく、家中の様々な場所に置かれている。ここもその一つだった。
 そんな中で彼が選んだのは、一匹の猫である。いや、あるいはもっと大きく凶暴な猛獣が矮小化されたものかもしれないが、ともかくこの場では猫に見えた。機能的に切り詰められたような頭部下方に、牙が覗いている。その口は、手で開閉できるようになっていた。
「それは妻の自作ですが…」
 ファルラスが困惑しながら説明する。そのぬいぐるみが何の変哲もない、無論仕掛けもないものであることは、誰よりも彼自身が承知していた。布や中綿など、素材をそろえる時点から見ているのだ。もし作成後に何かを入れたとしても、作り手である妻がすぐに気づくはずだ。
 吟遊詩人はにんまりと笑って、つまりしゃべるために口を開こうとはしなかった。
「こんにちは、お父様!」
 布と綿製の猫らしきものが、ぱくぱくと口を動かす。これはもちろん、手に持った吟遊詩人が指でそうしているのだ。それは見れば分かる。ただ、同時に発せられた声が誰のものであるのか、この場には自分と相手しかいないと分かっているはずのファルラスにも、とっさには判然としなかった。
「お父様とお話しするのは初めてだね。でもぼくは、お母様から生まれてずっと、お父様やお母様や、それからサームお兄様を、ずっと見てきたんだよ」
 ファルラスの困惑をよそに、「それ」は身振りも交えながら軽快に話し続ける。吟遊詩人は相変わらず、笑った形で口を固定したまま。その途中で、「それ」いわくの「お父様」も真相を察した。
「腹話術…」
 別の人間が、口を開かずにしゃべっている。要点はそれだけである。ファルラスは頭痛の予感を前に、思わず自分の頭に手をやった。自分を含めて、それに一体どれほどの人間が惑わされたことだろう。
「正確に言えば、簡単なことにこそ意味があるんだよ。人をだます仕掛けは見破られてはいけないから、できるだけ小さいほうがいい。それに誤作動も許されない。その要件を満たすのに理想的なものは、簡素だということだ。今回犯人たちが失敗した最大の原因は、関る人間を増やしすぎて、大仕掛けに過ぎたことだね」
 吟遊詩人がようやく口を開く。続いて、ぬいぐるみがまた口を開いた。
「そうそう! どこかでぼろが出たら、あとは芋蔓式にほころびが広がってしまう。あまり頭のいい方法じゃなかったね」
 その間、吟遊詩人はしゃべっていない。
 恐らく「あの声」を聞いた全員の記憶を検証すれば、それとディーを名乗る人物とが同時に話してはいなかったと分かるはずだ。始めから疑ってかかっていれば、そこから正体を見破ることもできただろう。
 しかしなまじ魔術師や神官など、超常の能力を持った者がいたばかりに、全員の注意がその方面に向かっていた。結果、魔力とも法力とも関係のない、純粋な肉体芸が見逃されてしまったのだ。
 ぬいぐるみの台詞が終わってから、声が再び吟遊詩人本来のものに戻る。
「肝心な所はさりげなく確実に、そして演出は大胆に。それが奇術の成功の秘訣さ。ボクならば音の反響を計算して出所を隠匿するのは簡単なことだし、他の演出に関しては今さら言うこともないだろう?」
「うん! だって史上最高の吟遊詩人だものね!」
 そしてまた、ぬいぐるみのいやに明るい声。ファルラスは一瞬、生きていること自体が嫌になった。
「ああ、そうだ。そう言えば男爵の部屋の本棚が倒れた件の謎解きがまだだったから、今しておこう。下準備をしたのは例の不良騎士二人。さすがに大の男が二人もいれば、本を入れたままの書棚でもそれなりに動く。それで少し傾けてから、その下に厚い本を挟んで安定を崩しておくんだ。本の一冊に変な跡がついていたのは、その重みのせいだね」
「後はギイの出番。手引きがあるから部屋に入るのは簡単だし、既にぐらついているものを安全に倒すのも難しいことじゃない。大広間に人が集まっていたから、逃げるのも楽ってこと」
 ぬいぐるみを騙った男が締めくくる。ファルラスはため息をついた。
「分かりました。もういいです」
 結局、終始彼に振り回されていたということだ。そもそも話を持ち込んできたのが、他ならぬ彼である。
「そう」
 それだけ言ってから、気がつけば出されていたお茶をすする。一通り話した後の適度な水気が心地良い。香りや味はもちろん、温度もそれほど損なわれてはいなかった。
 ファルラスも口をつける。しかしそれは、話し続けるために口内を湿らせて滑らかにするものだった。
「では、最後に少しだけ。柄でないのは承知ですけれど、私から怪談を一つ」
「ぷっ…。そいつは面白い」
 その事実自体にまず、吟遊詩人はふき出してしまった。
 非常に信頼できるが面白みには欠ける、ファルラス=ミストとはそんな人物である。その自覚があるらしく、自分から冗談を言うことさえ珍しい。たまには面白いことを言うこともあるが、それは見聞きしたことをそのまま話しているだけで、彼自身の発想ではない。そんな彼が、わざわざ語ろうと言っているのだ。
 最終的には失笑であっても構わないと思いつつ、とりあえず聞くことにする。
「ケレケレモケレ…って、ご存知ですか」
「いや、もちろん知ってるけどさ」
 この吟遊詩人がその名を聞いたのは、大人になってからである。生まれ育った文化圏が違うためだ。それだけに、その存在の馬鹿馬鹿しさはこの国の大人以上に分かっている。傍観していれば本当に、滑稽でしかないのだ。
「知っているけれどいやしない。そんな顔ですね」
 ファルラスが最大限不気味な笑顔を作りながら確認する。苦笑して、流浪の男は答えた。
「そりゃね」
 今まで本当に、色々な場所に足を踏み入れた。様々なものを自分自身の目で見てきた。魔術師ならつい先日会って来たし、魔獣や竜など、恐るべき生命体に遭遇したことも一再ではない。
 だからこそ、言える。そんなものはいない。絶対にだ。
「それがねえ、いるんですよ。悪い子を浚って行ってしまいます」
 言い終えてから少し、「溜め」を作る。この男にしては定石どおりの無難な運びだが、しかしその分心得のある人間には先が読めてしまう。段取りとしては性急に過ぎるが、ともかくこの次が、山場だ。
 そしてこの場限りの語り手は、相手のやや斜め後ろを指差した。
「ほら、あなたの後ろに…」
 半ば以上疑っていても、普通の人間がそう言われればまず間違いなく振り返る。しかし、いやだからこそ、自称謎の吟遊詩人はそうしなかった。
「陳腐に過ぎるよ」
 大方、視線がそれた瞬間に大声でも出す気なのだろう。その手に乗るつもりは毛頭ない。ただ、こうなると分かっていて聞いてしまった自分が馬鹿らしくなるだけだ。
「そうですか」
 ファルラスは、優しく笑った。
 ぽん…。
 肩が叩かれる。もちろんファルラスは動いていない。
 しまった!
 鳥肌を立てながら、吟遊詩人は、自分が相手の策に見事に引っかかっていたことを悟った。右を向けと命令されればまず間違いなく左を向く。そんな反骨精神あふれるとすれば聞こえはいいが、要するに天邪鬼な性格につけ込まれたのだ。ファルラスが後ろを向けといったのは、彼にそうして欲しくなかったからに他ならない。
 そして彼は、もう一つ悟っていた。もう手遅れだと。
 視界の隅に置かれた手は白く滑らかで、小さい。小柄な自分のそれよりさらに華奢である。しかし人間の単純な見かけなどその力量を測るのに何ら貢献しないと、彼は誰よりも承知していた。
 自分も他人の愚かさを笑えない。何より愚かしいのは、もう何をしても無駄だと分かっているはずなのに、諦めることもできずに恐る恐る振り返っているこの浅ましさだ。そう思いながら、彼は自分の背後にいつの間にか忍び寄っていた人物の顔を見た。
 ああ、やっぱり。大方見当のついていることではあった。いくらファルラスの立ち回りがうまかったとはいえ、自分に悟らせずに後ろを取れる人間はそう多くない。
「せっかく皆で苦労して騒ぎを収めようとしたのに、あなたという人は…」
 これまでその慈愛に満ちた笑顔が、どれほど多くの人々を救ってきたことだろう。しかし今、そこに浮かんでいるのは紛れもない激怒だった。気配を殺すのをやめた瞬間から、焼け付くようなものひしひしと伝わってくる。
「いや、ちょっと、ほんの出来心で…」
 一応は弁明を試みる。しかし無駄だと、彼自身も分かっていた。本質的に苛烈なまでの強い正義感を持っている人物である。今は極めて重い立場にあるから行動を慎んでいるが、その本質が変わったわけではない。そして人を払ったことで、その立場を気にせずとも良い環境が整っていた。
「問答無用!」
 彼の認識は、ここで途切れた。
「みぎゃあああああああああああああああっ!」
 凄絶だがしかしどこか情けない悲鳴が上がる。制裁を加える気はあるがそれを見て楽しむ趣味はないので、ファルラスはこの部屋を立ち去ることにした。自分の思惑をぶち壊しにした、その報いを受けさせれば彼としては十分なのだ。
 以後は万事、彼女がうまく片付けてくれるだろう。そもそもそういう約束で、この日この時間この場所を整えたのである。
 そしてこの日を境に、流浪の吟遊詩人はファルラスの家から姿を消した。

 つくづく貧乏性よね。必要があるかどうかも分からないし、そもそも何か事件が起きたかどうか確証がないのだけれど。それに今日は、たまのお休みなのに。しかもそのおかげで着慣れた神官衣じゃなくて私服だから、動きづらいし…。
 このときティアは内心で、こんなことを考えていた。しかし、力の限り走り続けている。ただ、わき目もふらずという訳にも行かなかった。
 連れがいるのだ。そのため、一度は振り返らざるを得ない。
「僕のことはいいですから、早く」
 しかし、その瞬間に当の相手から咎められた。そのためごく小さく、その相手に分かるかどうかも定かでない程度にうなずいただけで、再び正面に注意を集中する。
 ほんの一瞬だけだけれど、とてつもない気の収束を感じた。それから、かすかな悲鳴。分かっているのはこれだけ。一笑に付されても仕方がないとは誰よりも自分で承知しているし、実際この前は結局あまり役に立てなかった。
 それでも、ストリアスさんは自分を信頼してついてきてくれる。それには応えなくちゃいけない。本当に、もう。どうして私は、とっさにねぎらう言葉がかけられないのかしら…。
 思考が直面した事態から離れ始める。ティアはそれに気がついて、考えをまとめなおした。
 あれだけ急激に気を集中させられる人を、私は院長しか知らない。何しろあまりに急激過ぎて、個人の特定ができないほどだった。院長ご自身が自分以上の力を持っている人はいくらでもいるとおっしゃっていたから、他の可能性は十分あるけれど。
 ともかく、自分には計り知れない力を持った人がそこにいる。もし戦えば、絶対に勝てないのは分かってる。でも、何も見極めないまま逃げることはできない。私はそう決めたんだから。
 それが、今までの経験から得たティアの決意だった。
 そして目指す、あの気の爆発が起きたと思われる屋敷の前にたどり着く。それは手入れもされていない木々が鬱蒼と茂って視線を遮る、奇妙なほど不吉な印象を与える館だった。
「はぁ…はぁ…」
 頑丈な門扉に手をつく。このとき既に、ティアの息は完全に切れていた。走り続けるのならばもう少しは精神力、いわば根性で何とかできただろう。しかしそれは、とっさに目的を切り替えられるほど器用ではない。
 ああ、もう。ここで必要なのは私の苦手なお話じゃない。急いで中に呼びかけて門を開けてもらわなきゃいけないのに。まったく…。
「はぁ…すみません!」
 とりあえず一言分だけ息を確保して呼びかける。またすぐに息をするだけで精一杯になるが、待つ間にある程度回復できるだろう。
 でもこのお宅、人が住んでいるのかどうか良く分からないわね。庭木が全然手入れされてないけれど、建物や塀は掃除されているみたい。
 規模はある程度大きい…大貴族の館ほどではないけれど、それでも上流階級には入るわね。富裕な商人の家、というところかしら。でも、それだったら常に誰かいて当然だけれど、今は静まり返っているし。
 廃屋だったら迷わず入っちゃうのだけれど、どうしようかしら…。
 そうして迷っているうちに、連れが追いついてきた。
「無人…? いや、誰か来ますね」
 死角になっている部分を気で探る。ストリアス=ハーミスである。遅れたのは、彼がティアの荷物も持っているからだった。今日は買い物につきあってくれていた。それほど重くはなっていないはずだが、壊れ物もあるのでそう速くは走れなかったのだ。
 とりあえず反応があったので、待つことにする。相手が近づくほどに、ストリアスは不思議そうな顔を強めた。
「あれ…?」
 ティアも意外さを禁じえずにうなずきを返す。やってくるのは、二人ともが知っている人物のようだった。
「どうしました、あなたがそんなに慌てて」
 そしてティアが正面に見た門ではなく、脇の通用口が開けられる。そこから顔を出したのは、ファルラスだった。
 相手も自分が急いでいるとはわかっているようなので、ティアは挨拶を省略することにした。
「こちら、どなたのお屋敷でしょう」
「え? どなたも何も、私の家ですけれど。ああ、そういえばお招きしたことはありませんね」
 ああ、言われてみれば。確かに雰囲気が茜商会と一緒ね。草木に敢えて手を入れないのが趣味なんでしょう。でも、私はともかくファルラスさんのお店で働いているストリアスさんもこの場所を知らなかったって、どういうことかしら? ストリアスさんも不思議そうな顔をしているし。
 敢えてその疑問を、ティアは顔に出した。
「ああ、いえ。実はああいう商いをしているくせに内気なんですよね、私。それより何か、お急ぎなのではありませんか」
 自分で言うほど内気だとはとても考えられないけど…まあ、急ぎは急ぎよね。
 ティアは頭を切り替えた。
「院長が…」
 確証はないけれど、今この王都で最も可能性が高いのはあの方だわ。それ以上に力の強い人が現に活動しているとは聞かないから。
 彼は少しだけ考えた末、うなずいた。
「ええ、こちらにおいでです。緊急のご用事ならお取次ぎ致しますが」
 ファルラスが困惑した表情を見せる。理由は分からないが会わせたくない、という意向は明らかだった。ティアとしてはとっさに、どうすることもできない。
「緊急かどうかは分かりかねますが…あるいはそうではないかと思われるのです」
 代わりに答えたのは、ストリアスだった。ファルラスは首をかしげる。
「他ならぬあなたがそうおっしゃる以上、あながち理由がないとも思われませんが…」
 ファルラスはストリアスだけでなく、ティアも等分に眺めやる。その結果、彼女も弁明を強いられることとなった。
「極めて強い気を感じました」
 法術や魔術の知識がなければ分かりにくい表現だったかとティアは反省したが、ファルラスは内容を確認することなく答えた。
「失礼ですけれど…気のせいではありませんか。別に何も起きてはいませんけれど」
 うーん…確かに。見えている範囲では何もおきてないわね。あれほど膨大な力を一度に解放すれば、全壊したっておかしくはないけれど。
「そう、ですよね」
 ティアが反論できず、ストリアスも、納得して返事をせざるを得ない。そしてファルラスは念を押した。
「稀代の英雄たるあの方に危害を加えられる人間などまずいませんし、お考えも確かです。我々が案じる必要はないのではありませんか」
 立場上うなずかざるを得ないけれど…時にすごい行動力を発揮するから英雄って呼ばれるのよね。あの方、やるときはやるわ。
 微妙だと顔に書いて見せたが、ファルラスは敢えてそれを無視したようだった。穏やかな笑顔で話す。
「古い友人が滞在していましてね、今頃積もる話に花を咲かせておいででしょう。普段何かとお気遣いが多いことですし、たまには邪魔をせずに息を抜いていただきたいのですよ」
 嘘をついているかどうかは分からないけれど…でも何か伏せているような気がする。ただ、証拠もなしに明言するのは失礼だから、これ以上何もいえないわね。私だけじゃなく、ストリアスさんも。
 二人が諦めたのを悟って、ファルラスは話を打ち切ることにした。
「さて、私はそろそろ店に戻ります。これで失礼しますよ」
「え? 仕事があるのですか。でしたら僕も戻りましょうか」
 ストリアスはこのファルラスから、店が今日暇になるということで休みをもらったのだ。話が違う。もし急に仕事が入ったということだったら、手伝った方が良いだろう。
 しかしファルラスは、苦笑して首を振った。
「あなたも失礼な人ですね」
「は?」
「今日はティア様のお供でしょう。それを放り出すなんて、相手を嫌いだと言っているようなものですよ」
 ティアはとっさにストリアスを見据えた。彼は慌てて、勢いよく首を振る。
「ああ、いえ、そんなつもりはないですよ」
 そのことには安堵しながら、ティアは別の疑問を抱いていた。
 何だか…今日は仕組まれた気がするわね。私の休みも「自分自身の健康管理も仕事!」って院長がおっしゃって、強引に押し付けられたし。ストリアスさんが買い物に付き合ってくれるといったのも、誰かの入れ知恵っぽかった。失礼だけれど、はっきり言ってそういう細かい配慮はしない人よね。
 すると首謀者は院長とファルラスさんのどちらか、あるいはその両方という所かしら。気持ちはうれしいけれど少し気恥ずかしいわ…。
「店の仕事は私の決裁が必要なものですから、お気遣いなく。今日はゆっくりして下さい」
 ファルラスは笑って、ティアに目配せをする。思わず顔を赤くしてしまうティアだった。
「ストリアスさん、この近くのお茶屋さんには何度かお使いに行ってもらっていますよね」
「ああ、はい」
 商談に時間のかかる業種なので、接客用の茶菓は欠かすことができない。また、サームやその友人が遊びに来た際に振舞われることもあった。ストリアスの知っている店は、ファルラスが茜商会を始める以前からの馴染みだということだ。
「あそこは店内でお菓子も出してくれますから、一休みしていって下さい。払いはいつも通りでいいですよ」
 ファルラスの名前でのつけである。いわゆる「お得意様」なので、その場で現金払いをするより安い。
「いえ、しかし…」
「遠慮はいりませんよ。少しお疲れのようですので、中へお招きしてお茶を差し上げたいのですけれど、今日は先客で塞がっていますのでね。それでは、私はこれで失礼します」
 丁寧に一礼してから、ファルラスは自宅を後にした。その途中、一度だけ振り返ってストリアスが自分の言うとおりの方向へティアを案内しているのを確認する。
「やれやれ。世話の焼けることで」
 苦笑を禁じえない。あの無口と朴念仁の組み合わせが、よくもまあ人間関係として成立しているものだ。周りが手助けをしてやらなければどうにもならないのではないかと思える。
 ファルラスとしてはそれも成り行きだから仕方がないと思うのだが、院長などは真剣に心配している。それが今日の、かなりわざとらしい手配につながっていた。まあ、事件のことを直接知っている二人を自分たちから遠ざけ、行動を悟らせないようにするというのが主な目的ではあった。自由度の高い単独行動をさせず、行動の予測を容易にするのが狙いである。
 しかし手玉にとっていたつもりが、危うくこの二人に最悪の状況下で踏み込まれる所だった。偶然の要素もあっただろうが、自分も甘かったと言わざるを得ない。
「こちらは生きている人間の相手をするだけで精一杯ですよ、全く」
 当面の課題は、行くあてのないギイの身の振り方だ。今は犯罪の被害者ということで保護されているが、いつまでもそのままにはしておけない。騎士の家などに預けたのでは彼が窮屈に思うだろうから、ファルラスがどこか然るべき所へ口を利いてやらなければならないだろう。
 それにタンジェスのために本を選んだ際も、かなり考えさせられた彼である。兵学に転用できる商業書を探すのも簡単ではなかったのだ。
 所詮、生きている人間が一番恐ろしいのだ。生きていさえすれば、何でもできる。少なくとも、その可能性がある。
 それがあの戦乱の時代を生き抜いた、今の大人たちにとっては共通の認識であったはずだ。しかし現在、特にこの王都で暮らす人々は、平和に埋没してその恐怖を忘れつつある。自分も油断していたのだから、彼らを笑えない。今日は良い自戒の機会だと、ファルラスは思った。
「詰まる所生きることに負けた弱者が文字通り血迷って出てきた所で、何を恐れることもない。そしてもしその摂理さえ超えた本当の意味の『化け物』なら、諦めるしかない。思い悩む必要が、一体どこにあるというのか…」
 つぶやいたときには、既に自分自身で答えを出している。ファルラス=ミストとはそういう人間である。そうやって迷うから、生きている人間なのだ。そのことに自己満足するでもなく、彼は自分の店へと戻って行った。

 ぼんやりと空を眺める。それが、ティアの好きな休日の過ごし方だった。別に何もしない。深い考え事をしている訳でもない。
 本質的に物事を突き詰めて考えてしまう性格。だから時々は、その思考を休ませないと疲れて駄目になってしまう。
 それが、ティアの自己分析だった。 
 久しぶりの休みだから、仕事があると中々買えないものをそろえるつもりだったのだけれど。まあ、切り上げて後はのんびり過ごしても良いかもしれない。必要最小限は確保したし…。
 香草を調合しているという柔らかい紅茶の香りと、焼き菓子の甘い匂い。その中でティアは、半ばまどろむようしながらそう思った。既に自堕落だとか、時間がもったいないとか、そのように思う発想事態がどこかに行ってしまっている。
 そして、ぼんやりとしている人間がもう一人。向かいの席では、ストリアスが同じようにして空を眺めていた。
 双方しばらく無言。別に無視してなどいないし、かといって話題を探して困惑しているわけでもない。無理に話をしなければならない相手ではないと、理解しているのだ。二人ともぼんやりとはしていても感覚は鋭敏だから、沈黙にむしろ良い印象を持っていると分かる。
 女給が注文した菓子二人分を持ってきたのは、そんな折だった。
「ありがとうございます」
 ストリアスが礼を言い、ティアは黙って頭を下げる。彼のように口に出したほうが良いとはわかっているのだが、今回は反省もせず、まあいいかと思っただけのティアだった。
「ごゆっくりどうぞ」
 紋切り型の挨拶を残して、邪魔をしないようすぐに立ち去る。しかし彼女が耳をそばだてる気配を、ティアはひしひしと感じていた。
 何だか…というか、完全に、誤解されてるわね。注文したきり会話がないから、別れ話が始まるとでも期待されているのね。他の店員さんもそうみたいだし。
 店員たちが自分たちのことを気遣っているという可能性を完全に排除している。ぼんやりしていても、あるいはそうだからこそ、意外に攻撃的なティアだった。
「まあ別に、いいじゃありませんか」
 また窓の外を眺めながら、ストリアスがそれだけ言う。小さくうなずいてから、ティアも元の姿勢に戻った。
 お菓子は、もっと後では良いわよね。お店としては客を待たさないつもりなのだろうけれど、別にそれに合わせる必要もないし…。
 それから少ししてから、ティアはふとたずねた。一刻ほどかもしれないし、あるいはそれよりずっと短いかもしれない。しかしそんなことはどうでも良い。彼女の主観からして、「少し」だったのだ。
「聞いて、いいですか」
「どうぞ」
 返事をしてから、ストリアスは紅茶に手を伸ばした。話をするために口を湿らせたのだと、ティアは理解する。そこで彼が飲んでいる動作に構わず、尋ねた。
「今命を落としたら、心残りは…ありますか」
 凄い話題よね。茶飲み話としては絶対に、ふさわしくないわ…。
 しかしストリアスは口に含んだものを吹き出すでもなく、杯を静かに置いた。
「ないですね。自分にはそれがあるのだろうかと、今一瞬考えたのですけれど、その時点で違いますよね。とっさにこれだと思いつかない以上、死んだ後でまで執着するようなものはないということです」
 丁寧に置かれた杯以上に静かに笑って、答える。荒んだ内容だとは承知している。しかし彼女に対して取り繕うつもりはない。ティアは自分が今よりもさらに危険な状況にあった、他人を平然と傷つけていた頃を知っているのだ。
 それよりは、何にこだわるでもなく、結果誰を傷つけるでもない現在の方がはるかに社会のためだ。そして思い悩むことも無いから、苦しんでもいない。幸福かどうかは知らないが、ともかくそれで良いのだ。今のストリアスはそう思っている。
 ティアはゆっくりと、本当にゆっくりとうなずいた。その意味が、ストリアスには分かる。
「ティアさんには、あるようですね」
 無口な彼女がわざわざそんな話を振ってきたのは、つまりそういうことだ。ストリアスにないのは初めからわかっているのだから、彼女自身になければそこですぐに話が終わってしまう。数少ない口数をそんなことに費やすティアではない。
 もう一度、今度は小さくうなずいてから、彼女はつぶやいた。
「恥ずかしながら」
 ぽつりとつぶやく。彼女がそうやって、他に意図もなく自分の感情を口に出すのも珍しい。ストリアスはすっと、その目の奥を見通した。
「まあ、別にそれでもいいんじゃないかと、僕だったら思ってしまいますけれどね」
 ティアの立場は、少なくとも表面上であれば分かる。人を迷わせず、導くのが仕事の神官であるから、自分が迷っていはいられないのだろう。彼女はそれを恥じて、ああ言っているのだ。
 しかし逆に言えば、その深奥にあることは門外漢であるストリアスには当然分からない。神官としての悩みであれば、彼女の先達に導いてもらうしかないのだ。それでも彼女は、今の自分に話そうとしている。だからこそ、ある程度は投げやりであることを承知で思ったとおりに話した。
 彼女はまだ若いのだ。幼いと言ってさえいい。まだ十代、したいこと、また為すべきと決めたことが、いくらでもあって良いはずだ。それが人の素直な想いとして間違っているとは、どうしても思えない。
 神がそれを認めないというのなら、ストリアスはそんな神に疑問を感じるだろう。もっともティアと違ってストリアスの信仰心はずっと以前から乏しいので、そうでなくとも疑っている部分はあるのだが。
「さて、それで。もし万が一その結果『迷って』しまったら、あなたならどうしますか」
 そして面白がってたずねる。残すべきことがいくらでもある以上、その内容を仔細に尋ねても仕方がないと、ストリアスは考えていた。そしてこの場で『迷う』ということは、神の定めた死後の世界に赴く道を外れること、要するに化けて出るという意味だ。
 自分は神官なのだから、絶対にそんなことはしない…などと、意固地になって拒絶しないのがティアである。可能性が極めて低くても、指摘された以上はじっくりと考える。
 施療院は…論外。院長はもちろん、みんなに迷惑をかけてしまうわよね。それにいろいろな意味で弱っている人が多いから、変なものが出たらそのときはもう、最悪の場合道連れが出るし。
 でも、離れて暮らしている両親の所、というのも微妙よね。事情を知らないだろうから、必要以上に心配をかけるに違いないわ。
 そうなると残りはその他王都にいる人たち…。
 マーシェさんとはこの前仲良くなったけど、どうも向いてない気がするわね。この恨みはらさでおくべきか、なんてことなら多分殺って…もとい、やってくれるだろうけれど。私が思い残すのはそんなことではないだろうし。
 かといって、タンジェスさんとはあまり精神的な接点がないし、ファルラスさんは何を考えているのか今ひとつ分からない。友人というよりは知人になってしまうわよね、あの人たちは。
 あと、最近知り合った自称謎の吟遊詩人は…論外!
 結局こうなると、残りは一人になってしまうのね。友達少ないわね、私…。まあ無口だから当然の成り行きだけれど。改めて考えると気が重いわ。
 仕方なく、ティアはその最後の一人を眺めやった。
「ふふ…。そうですか。あてにはならないでしょうけれど、その分遠慮もいりませんよ。もしどうしてもやむをえないのなら、私の所へどうぞ。話くらいは、聞きますよ」
 魔術師は基本的に、霊の存在を敢えて無視している。迂闊に接触すれば、最悪の場合魔力という名の巨大な破壊力が、この世ならぬ存在の手に落ちてしまうためだ。
 そう言っていたのは魔術師のストリアスさん自身だけれど…調子よく迎合しているのではないわね。それにしては熱がなさ過ぎるわ。自分ならたとえ亡霊になっても悪さはしないだろうって、認めてくれているのよね。
 問題はストリアスさん自身の身の安全、どころか魂の安全が全く考慮されていない所だけれど…。
「そうなったら、その時は」
 言いながら、ティアはぼんやりと思った。
 死ねなくなったわね。別に今まで自分から死のうだなんて考えていないし、危険と常に隣り合わせの仕事でもないけれど、とにかく死ねないわ…。
「ええ」
 軽くうなずいてから、ストリアスはまた空を見上げた。
 それにしても、要するに死ぬだの化けて出るだの、とんでもない話題だったわね。ひとに聞かれたら心中の相談でもしているとか、酷い誤解を受けたかな。まあ、それならそれで別に構いはしないのだけれど。
 そう思い直して、ティアはまたぼんやりと空を眺めた。
 他人がどうあれ、今はこの穏やかな時間を大切にしたい…。
 そして小さく、満足のため息をついた。

王都怪談 了


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