王都猫狩始末記

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前編


  戦乱の時代…大陸は幾多の王国に別れて互いに矛を交えていた。相次ぐ戦争に民は疲弊し、それに跋扈する盗賊が追い討ちをかけた。旧時代の負の遺産、魔術師によって作り出された合成魔獣が住処を追われて人里で暴れまわり、果てはどこから現れたのかさえも定かではない破壊の化身、「悪魔」達が世界そのものを食らい尽くして行く。
  弱肉強食、その摂理すら働かぬ混乱。強者とても天運尽きれば破滅の海に沈む。それでもなお己が力を信じるものたちはみずからの武器を手に戦場に赴いた。支配するは力と恐怖。戦わぬものはただ虐げられるのみ。それを否とするならば、戦うより他に無かった。
  そして、その混乱が多くの英雄を生み出した。家臣達を救うため、数万の敵にただ一人立ち向かった「聖騎士」、腐敗した帝国を再興すべく兵を挙げ、数に勝る敵を幾度も打ち破った「中原の獅子」、滅び行く帝国に殉じた「最後の騎士」、万を超える人間をその手にかけ、悪魔の王と刺し違えた「恐怖を駆るもの」…その他多くの英雄達が現われ、そして消えていった。そして…

 これはそのような時代がとうに終わりを迎えていたころの物語である。

   王都猫狩始末記

Ⅰ ささやかな失踪

 戦乱が一応の終結を見てから十年目の春が王都を包み込んでいた。若く、聡明な王の下新王国は平和と繁栄を享受している。かつての戦火を知る大人達にとってはそれが時として現実感を失うほどに。そして子供たちには戦乱が大人達の夢物語でしかないと思えるほどに。
 少年の日に「中原の獅子」と呼ばれた王は、その才幹が戦争のみならず政治にもあることを示し、官僚機構を整えて善政を敷く一方で、周辺諸国とは極力和平の道を選んでいた。通常、融和路線は弱腰とのそしりを免れ得ないが、この王に限ってそのような批判はあり得なかった。自身は王国最強の剣士にして幾多の戦いを勝ち抜いてきた名将、その配下にある軍も歴戦の勇者を数多く抱え、大陸屈指の精強さを誇る。その軍事的評価は他国を大きく上回っているのだ。侵略などを行わないのは、単に騎士道精神の現われであるに過ぎない。この王ある限り新王国に小揺るぎすらも生じはしない、それが臣民の思いであり、客観的に見ても真実味をもっていた。
 しかし…どんな名君の治世であっても何事もうまく行くなどという事はありえない。そこかしこでささやかな問題が発生し、あるものは何事もなかったように消え、またあるものは小さくも消し得ぬ傷痕を残すのだった。
 
どろり、とした空気が流れる事も出来ずに溜まっていた。
「うう…」

 うめきがもれる。現状に対するねばつくような不満と不安、それをどうする事もできない自分に対する苛立ち、そんなものが彼をさいなんでいた。
「暇だ…」
 それがどうしようもない現実だった。
 彼の名はタンジェス=ラント。こげ茶色の髪と目をした背の高い少年である。本来の身分は王立士官学校の学生であるが、現在停学処分を受けている。別に万引きだとか暴力事件だとか不純異性交友だとかの、不祥事を起こしたわけではない。殺人事件の現場にたまたま出くわし、犯人と交戦したが不覚を取って敗れ去るという失態を演じたのがその直接の原因であった。
 
士官学校は将来の軍中枢をになう人材を養成すべくつい数年前に作られたもので、高等学院、文化学院、魔術研鑚所と並ぶ王立学校の一つでもある。それだけにその学生には高い能力、人格が求められる。その威信を保つために、元凶が彼ではないとしても処罰は自然と厳しくならざるを得なかった。その他幾つかの不運も重なり、結果が停学である。その現場で出会った騎士、ノーマ卿の助力が無ければ退学になっていたかもしれない。
 
停学処分は無期、身を持ち崩してもおかしくはない所であったがタンジェスは耐えていた。件のノーマ卿は高潔な人物で、今もほとんど面識の無いタンジェスの復学のため努力している。その信頼に応えるために、ここで自暴自棄になる訳には行かない。それに士官学校への入学は反対する両親を説得してのものであったから、辞めさせられたとなればどの面下げて帰って良いか分からない。迂闊な事をせず、じっとしているのみだ。しかしそのため遊ぶこともできないので、ひたすらすることがなかった。今は昼間から日当たりのいいテラスでお茶を飲むなどと、若者にあるまじき事をしている。
「お暇ですか…何かしましょうか」
 タンジェスの向かいでお茶の香気を楽しんでいた男が声をかけた。少し済まなさそうにしている。
「あ、いえ。別に若旦那のせいじゃないですから、気にしないでください」
 タンジェスは慌てて手を振った。相手に対する気遣いももちろんあるが、この人の「何か」は大概お茶を飲むのと同じくらい退屈なのである。趣味は散歩と昼寝。しかし最大の楽しみは六つになる息子と遊ぶこと、とそういう人だ。名前はファルラス=ミスト。ややつりがちの目をいつも笑って細めていて、ひなたで丸くなっている猫を思わせる風貌である。性格は善良でその分やや天然ボケ、とタンジェスは思っている。処分を食らった直後、荒れる気力もなく町をふらついていたときにたまたま出会った人だった。なんとなく話をして気があって、学校の寮にいても仕方がないので好意に甘えて今タンジェスは彼の店の一角に間借りしていた。
 タンジェスが暇なのは不可抗力として、ファルラスもいい年をした大人である。昼間から仕事もせずにお茶など飲んでいてはいけないはずだ。これについては来た初日に遠慮がちに問いただしてみた所、「いやあ、私は婿養子なものですから」と朗らかに答えが返ってきた。本人は全く気にしていないらしいが、どうやら仕事をさせてもらえないらしい。それで好きなことをして子供の相手をしている、考え様によってはタンジェス同様きつい環境である。もちろんそれで本人が満足していれば、周りがとやかく言う問題ではない。
 
ついでに言うとファルラスは、主観的には今きちんと仕事をしている。それは「人材派遣業」、〈茜商会〉。婿養子発言の後で聞いた所によると、「必要な所に最適な人材を供給する新時代の業種」であるという。日雇いや小間使いなどの零細な仕事を紹介する口入屋や傭兵の斡旋所とどこが違うのか、タンジェスには良く分からない。少なくともそのような名前の商売が今までになかったことは確かだが、何しろタンジェスがいるここ三日は開店休業状態なので実態が全く不明である。ファルラスの話によると全く異なる型の人材が複数登録しており、既に何件かの依頼を受けて仕事をしているという。それに登録している以外に専門の事務員もいる、それはタンジェスも知っていた。現在その従業員が表で客を待っており、ファルラスは主人としてここにいるのだ。商売をする元手は舅が出しているらしかった。気楽な身分とのそしりはまぬがれないが。
「うーん、そうだと良いのですけれどね。あ、そう言えばタンジェスさんも登録をしないかとのお話は考えていただけましたか」
 気を遣っているのか、ファルラスはそんな話を振った。タンジェスは首をかしげる。
「どうせ暇ですししてもいいような気はするんですけれど。まだ具体的に何をするのか分からないですからね」
「そうです…ね。正直な事をお話しすれば何が来るのか分からないですからね。ただ私どもとしては仕事を無理強いするような事はしませんから、嫌な仕事は断ってかまいませんよ。まあ一度引き受けていただいた仕事に関してはある程度責任を取っていただきますけれど」
「悪くない話ですよね。ただ世の中に聞いてみた限りで悪い話なんてないですから」
「それは、確かにそうかもしれませんが…」
 ファルラスは明らかに困り顔になった。説得はしたいのだが手札がない。タンジェスの今の状況を考えれば人間不信になるのも無理からぬ所、こうしておとなしく話を聞いているだけでも良しとすべきかもしれない。しかし彼は困って、助けを求めるかのようにあたりを見渡した。
 と、ちょうどよく彼はこちらにやってくる人影を見つけた。基本的に運の良い人である。
「エレーナさん、何かありましたか?」
 背の高い、若い女性が颯爽とした足取りで歩いてくる所だった。若いとはいえ年齢的にはタンジェスよりも少し上、二十歳前後に見える。もっとも女性に正面切って年齢を尋ねるような無謀さをタンジェスは持ち合わせていないので、正確な所は分からない。顔立ちは平均以上だがやや硬さを感じさせ、髪が短く背が高い。全体として美形の男性のように見えることもある。
「はい、サーム様が表の方に。依頼をご希望の方をお連れしたとおっしゃっています」
 声も低め、元々そういう声質なのか、それとも自分のイメージに合わせて作っているのか、良く分からない。
「息子が? 何でしょうかね。とりあえず行ってみますが」
 そんな事を言いながらファルラスは立ち上がった。エレーナがちらり、とタンジェスを眺めやる。
「何か?」
「よろしければ、一緒にいらしてはいかがですか」
 発言内容は好意的であるが、この人は表情に乏しいので何を考えているのか今一つ良く分からない。なんとなく嫌な予感もしたが、他に用事もないのでタンジェスは話に乗った。
「お邪魔にならないようでしたらね」
「いえ、とんでもない。サーム様もきっと喜ばれます」
「そうですかね。ま、とりあえず行ってみるとしましょう」
 このやり取りはファルラスにも聞こえていたはずだが、何も言ってこない。それで残る二人は黙認しているものとみなして彼についていった。
 標準的な商家の店先、それがこの建物の正面である。表と裏を仕切るようにカウンターが置かれ、その両側に椅子が何脚か置かれている。内側にはその他にも書類棚などが非常に整理した形で配置されていて、エレーナの几帳面さがうかがえた。もともとファルラスが建てたのではなく、潰れた店を買い取ったらしい。そのカウンターの向こう側で、ファルラスの一人息子であるサームがおとなしく座っていた。父親譲りの猫系の容貌、ただしこちらは好奇心と元気に満ち溢れた小猫、そんな印象を受ける。その隣にはもう一人、タンジェスには見覚えのない少女が座っていた。長めの髪を頭の両脇で束ねて、こぎれいな服を着ている。顔の作りは、うつむいているので良く分からなかった。
「今日は外で遊んでくると言っていたけれど、何かあったのかな」
 父親はそう言いながら向かいの席に着いた。少なくとも頭ごなしに「ここは子供の来る場所じゃない、あっちへ行っていろ」と言うような人ではない。話が分かるのか、甘いだけかは微妙な所である。彼についてきた二人はそれぞれ彼の左右に腰を下ろした。
「はい、困っている子がいたものですから、連れてきました。お父様なら力になれると思ったので。あ、タンジェスさんこんにちは」
「やあ、こんにちは」
 礼儀正しくタンジェスは返した。応対は内容的にも言い方も極めてしっかりとしたものだった。これで六歳なのだから大したものである。将来少なくとも父親よりは頼りになる人間になるに違いない…とは、その父親の弁である。
「ふうん、それがこの子というわけだね。お嬢さん、私はサームの父親でファルラスと申します。とりあえずお名前をお聞かせ願えますか」
 ファルラスはサームの隣にいた少女に向き直った。父親のこうした馬鹿丁寧さが、サームの人格の一部を形成しているらしい。サームと同年代と思われる少女は、ファルラスに加えてタンジェス、エレーナの視線に囲まれて小さくなってしまう。サームはそっと彼女の手を握った。
「大丈夫ですよ。みんな優しい人たちですから、きっと力になってくれます」
 ちょっとできすぎかもしれない。しかしそれが有効に働いたことは確かである。少女はゆっくりと顔を上げた。
「マリーズ…」
「マリーズさんですね。それではご用件を伺いましょうか。私にできる限りの事をするとお約束します」
「猫が…。猫がいなくなっちゃった」
 驚くほどの速さで、少女の目に涙が溜まってそして溢れ出した。後はただ泣くばかりである。仕方なく、彼女の背中をさすりながらサームが話を引き受けた。
「この子の飼っている猫がいなくなってしまったそうなんです。それを探してほしい、と言う事です」
 ファルラスは首をかしげた。
「猫のたぐいは気紛れだからね…。人間が飼うには向かないかもしれない。何しろ彼等に飼われている意識はないようだから。せいぜいその人間の家に居着いてやっているくらいの心情だと思う。もっとも飼われていると自覚があるのは一部の犬くらいだろうが…。と、余談を言っている場合ではないか。猫の場合十日くらい出かけたままは珍しくないはずだが」
 そして出かけたまま帰ってこない、どこか遠くでのうのうと暮らす、あるいはそこでのたれ死んでしまう事がある、とファルラスは知っていたが、黙っておいた。
「どれくらいかは良く分からないですけれど、この子はずいぶんと探し回っていたみたいです。一日二日ではありません」
「そうだね…」
 しばし、泣き声を伴った沈黙。そして三人分の視線がタンジェスに集中した。サーム、ファルラス、そしてエレーナである。つまりほぼ全員。
「俺にやれ…と、そういう訳ですか」
「頼まれていただけませんか」
 済まなさそうに、ファルラスは眉を下げた。タンジェスはちらりと少年少女を見てから口を開く。
「若旦那が自分でやるのはどうです? 俺はあまり猫には詳しくないんです」
「あ、その手がありましたね」
 ファルラスは手を叩いてからエレーナを見やった。彼女の答えは無言の、否。
「だめ…ですか」
 若旦那ことファルラスは恐る恐る聞いている。この店の主のはずだが、弱い。
「今日明日は御義父様の御名代で会合に出席の予定となっておりますが」
 エレーナは表情を消して告げた。代理というのが情けない。しかし暇ではないようだ。
「あ、そうでした。忘れていましたよ…。出たくないのですけれどね、どうせ私が行ったって何もする事がないのですから」
「…………」
「う…分かりました。出ます。すまない、サーム」
 こういうやり取りを実の息子に見せて良いものだろうかとタンジェスは要らぬ心配をしたが、当のサームはそう気にしてはいないようだ。
「いえ、お父様がお忙しいのでしたら仕方がありません。タンジェスさんもいますし、平気です」
「おい、サーム。俺が手伝うって決めるなよ」
 タンジェスの突っ込みは半ば以上反射的である。サームは目を見開いた。
「えっ…手伝ってくれないのですか…」
 こちらまで泣きそうになってきたので、タンジェスは折れた。反則だ、と思いながら。
「分かった。やるよ」
「ありがとうございます」
 一斉に、三人がそう言った。親子、それにエレーナである。依頼者本人は黙って頭を下げた。
「暇潰しにはちょうどいいでしょう」
 負け惜しみと分かっていてもいわずにはいられない。ファルラスは少し笑ってから真顔を作って息子に相対した。
「サーム、タンジェスさんに頼んだ以上、君自身もその猫を探さなきゃ駄目だよ。まず君がこの話を引き受けたんだ、その責任は取らないとね」
「はい、がんばります」
 こういう所はこの人も立派な父親である。タンジェスは少し微笑ましい気分になった。
 その後の実務的な話はエレーナの主導で進行した。小さな事件でも手を抜かずに仕事をする、そういう性格らしい。まず探すべき猫の外見上の特徴、性格、行動の癖などをマリーズから聞き出し、それを書き記して覚書を作った。ついでに張り紙も作ってしまう。次いで参加する人間の役割分担、行動力の違いから子供たちとタンジェスを一緒に動かすのは効率が悪い。そこで子供たちは二人で組んでマリーズの家の周辺を捜索、タンジェスはその外の地域での捜索、聞き込みを行うこととなった。本部はこの〈茜商会〉とし、情報の提供はここにするように求める。最後に、家人が心配するといけないのでマリーズをサームに送らせてから報酬の話に移った。
「とりあえず向こうのご両親に料金は請求するつもりですが、もし支払いがない場合でもこちらの方から相当と思われる額をお支払いいたしますのでご安心ください。お客様からいただいた額が少ない場合でもその分の埋め合わせはいたします。旦那様、それでよろしゅう御座いますか」
「ええ、結構です」
「いえ、別にいいですよ、報酬だなんて。若旦那には世話になっていますから」
「仕事としてする以上そういうことははっきりさせておいた方が良いのです。それに他に登録者している方々の手前も御座いますし」
 エレーナは硬い事を言い続ける。タンジェスはわざとその反対側に動いてみた。
「正直な話もらえるものはもらっておきたいのですけれど、ほんとにいいんですか、若旦那。失礼ですけどこの一件に限らずこの商会儲かっているとは思えません」
「事実ですね」
 素晴らしいほど見事にエレーナが言ってのけた。それでもファルラスは平然としている。
「もともとこの件で儲けようとは思っていませんよ。商い全体に関しても四年五年の赤字は覚悟の上、サームの代に負債が残ってさえいなければ私にとっては成功です」
「気の長い話ですねえ、最低あと三十年後じゃないですか」
「一応それよりもう少し前に何とかするつもりではいますけど、何しろ人間を扱う商売ですからね。信用が他の商いに増して重要です。それが五年かそこらで収支が釣り合えばまず大成功だと思います」
「何だってまたそんな」
「ある種の道楽ですよ」
 ファルラスは笑って言った。
「ほう…」
 無茶な事をするものだ、とタンジェスは思う。一歩間違えば洒落にもならない。しかしふと、エレーナがここにいる事に気がついた。今の所ここで事務を専門に扱っているのは彼女一人、当然経営状態なども把握しているはずだ。有能な彼女ならばここが危ないかどうかすぐに分かる。それで見捨てもせずに居続けていると言う事は少なくとも数年間安泰であるだけの財力があるに違いない。
「さて、私の方からお話する事はこれで終わりですが、何かご質問は御座いますでしょうか」 
 と彼女は締めくくりに入った。
「いえ、別にありません」
「旦那様から何か?」
「エレーナさんの仕事に文句などつけるはずがないでしょう」
「ありがとうございます。それではタンジェスさん、初仕事になりますがお気をつけて」
「え………」
 彼女の視線は、しばらくタンジェスに固定されていた。
「あ、今すぐ行ってこいってことですね。分かりました」
 タンジェスの負け、彼は席を立った。そうしてその場に立てかけてあった自分の剣を剣帯に差す。士官学校からの支給品である。没収は、されずに済んだ。
「何かと物騒ですからね、最近は」
 つぶやくタンジェスに、二人は反論しなかった。

Ⅱ 魔術師

 一通りの話が終わったのが午後もたけなわである。とりあえず夕方までを、タンジェスは捜索と聞き込みに費やした。
「俺ってもしかして、真面目?」
 最近作られた公園で一息つきながらつぶやいてみる。収穫はなし、文字通り猫の子一匹捕まりはしない。それを嘲笑うかのように、彼の前を猫が横切ってゆく。もっとも柄からして探している奴とは違う。目標は茶虎、前にいるのは黒…。
「ってこら、横切るな!」
 怒鳴られて、黒猫は逃げていった。辛うじて完全に横切られる事だけは回避される。タンジェスは胸をなで下ろしたが、すぐにまた緊張を強いられた。
「こら兄さん、何があったか知らないけど、八つ当たりは良くないよ。それとも何かい? 黒猫が横切ったら不幸になるって迷信を信じているのか。だったらあたしは不幸のどん底だねぇ」
 いきなり後ろから声がかかる。これで驚かなければ神経がおかしい。
「わわっ!」
 反射的に立ち上がって振り返る。そこには中年の女性が立っていた。背はタンジェスが見下ろすほどだが太っていて妙に体格が良い。不敵な笑みが浮かんでいる。
「驚いた?」
「驚きましたよ!」
「さっきの黒い子だって驚いただろうねぇ、いきなり大声出されちゃ」
 すっと彼女の視線が彼の顔をひとなでした。
「…済みません」
 自分がひどくつまらない事をしたような気がして、タンジェスは素直に頭を下げる。
「あたしに謝ったってしょうがないよ。今度あの子に会ったら謝るんだね」
 言っている事は相変わらず手厳しいが、表情が和らいでいた。タンジェスの方でも微笑み返す。
「そうしますよ」
 気がつくとこの公園には猫が集まり始めていた。女性は彼等に餌を与え始める。
「そう言えば猫って夜行性でしたっけね」
「そうだね」
「猫、お好きなんですか?」
「まあ、そういうことになるんだろうね」
 いわゆる猫好きの人らしい。違った角度の情報が得られると思って、タンジェスは聞いてみる事にした。
「実は知り合いに頼まれて猫を探しているんですけれど、こういう奴にお心当たりはありませんか?」
 エレーナの作った覚書を読み上げる。女性はくすりと笑った。
「なあるほど、それで猫に気が立っていたって訳ね」
「気が立ってたという程じゃないですけど」
「ま、いろいろあるわね。その子なら時たまここに来ていた子だと思うよ。ここ十日以上見ていないけど、そう毎日来るたちじゃなかったからあんまり気にしていなかったね」
「そうですか。やれやれ、結局手がかりなしだな」
 タンジェスは剣の柄を指で叩いた。そこで、それまで猫達の方に顔を向けていた彼女が振り返る。
「手がかりになるかどうかは分からないけれど、ちょっと気になる事はあるよ」
「何です?」
「ここに来る子達が妙に少なくなっているんだ。いつも来るはずの連中まで見当たらない」
 タンジェスは少し考えてから、諦めた。今は情報が少なすぎる。情報を集めずに分析を行うのは愚者のすること、と士官学校では教えている。
「どうせしばらくは例の猫を探す事になりそうですから、ついでにそれについて何か分かった事があればお教えします。柏通りの茜商会にタンジェスを訪ねてください。俺はいないかもしれませんが、店の人に事情を話しておきますから」
「ありがとう。じゃああたしもその猫を見かけたら連絡するよ。あたしはこの近くの〈猫屋〉っていう酒場のフランだ」
「それも猫ですか」
 タンジェスは思わず笑ってしまった。
「いいだろ、別に」
「そうですね」
 必要な事は終えたしそろそろ別れの挨拶でもしようか、とタンジェスは考えたがすぐにはそう行かなかった。
「よう、タンジェス。停学を食らったかと思ったらこんな所で猫と戯れてるのか、お忙しいこったな」
 そんな声がかかった。
「…………」
 無言のまま、タンジェスはそちらへと向き直る。そこにはやはり見知った顔があった。発言の内容から分かる通りそれもあまり見てみたい相手ではない。王立士官学校生バイア=レーム、タンジェスとは机をならべ、同じ釜の飯を食ってきた間柄である。しかし、あるいはある意味当然のごとく仲が悪い。自尊心と競争心が必要を超えてあり、しかし学業、剣術においてはタンジェスに一歩先を行かれているものだから何かと険悪になってくるのだ。ただ少なくともまるきりしょうもない人物と言うわけではなく、タンジェス以外の同級生の評価は「あいつも変に意地を張る所がなければな」とそんな所である。
 強烈な視線を受けてバイアは後ずさりかけたが、辛うじて踏みとどまった。
「お、やる気か? やってもいいぜ。どうせお前は訓練はうまく出来ても実戦ではそこらの犯罪者にも勝てないような奴だから。勝負するか?」
 タンジェス失態の知らせを受けて最も喜んだのはこの人物である。ゆえに他にどんな美点があろうとタンジェスの彼に対する評価は一言、「下種」。今も停学中の彼が何か起こせば退学になると分かった上で喧嘩を売っている。
「それではフランさん、俺はこれで失礼します。何かありましたらその節はよろしくお願いします」
「ん、ああ。それじゃまた」
 タンジェスはさっさと歩き出した。反論すればするだけ不利だ。
「ふん、逃げるか。所詮は負け犬だな」
 聞こえないふりをした。しかししっかり聞いていた。


 後刻、夕食を終えたバイアはすっかり暗くなった通りを歩いていた。食事なら学校の中にも食堂はあるのだが、評判はあまり良くはない。いや、有り体に言って悪い。味の方は悪くないのだが、種類が少ないのだ。それにそこだと教官の目があるので窮屈で仕方がない。
 そもそも最大の問題は、むさい。基本的に男所帯である。士官学校の入学資格に性別を云々する規定はないが、やはり女生徒の数は圧倒的に少ない。教官にも女性がいないではないが、女だてらに戦場を渡り歩いてきたというつわものぞろいで近寄りがたい。しかも、士官学校の生徒同士で交際しているとの事になれば即停学、退学の可能性も多分にある。昨年のこと交際が発覚して、関係を絶ち切っての復学よりも、二人揃っての退学を選んだ一組の男女は、士官学校最初の伝説となった。その行方を知る士官学校生はいない。
 
そのような訳で、多少なりとも金銭と精神に余裕のある学生は、授業終了から門限までの間に外に出て行くのが普通である。別に下心の固まりとしてそうしている訳ではなく、ほとんど男ばかりの環境で何日も、何箇月も、そして何年もすごすというほうがおかしい。ただ普通に街を歩いて帰ってくる、それだけの事だ。その中で何かの出会いがあれば、ごく普通の若者と同じく交際が始まることもある。教官達も社会的に問題のある行為に走らない限り、男女交際は黙認している。学校内でするのがまずい、そういうことである。
 
あたりを歩くのにすっかりなれているバイアは近道であるひとけのない裏路地を通って…いきなり後頭部に衝撃を食らった。そして彼の意識はそこで途絶えた。
「相手の弱みを見てかさにかかるような奴、正々堂々相手するのに値しない。お前なんぞそうして不意打ち食らって倒れ込んでいるのが似合いだよ」
 待ち伏せをして、剣の鞘で殴り付けたタンジェスであった。ちなみに思い切り、ではない。そうしてやりたいのは山々だが、それだと殺してしまう。さすがにそれはまずいので、気絶する程度で止めておいた。この結果として門限を破ることになれば、少なくとも譴責処分ではすまない。
「さあて、引き上げるか。俺も腹が減ったよ」
 勝手な事を言って彼は剣を剣帯に戻し、歩き出した。目撃者が出ないうちに、である。
  しかし大して歩かないうちに、彼はそれが無益である事を悟った。剣術をやっているため、鋭敏になった勘で分かる。つけられている…。
「まずかったかな?」
 剣に手を掛けつつ、振り返る。相手が官憲、あるいはそれに類する、例えば正義感の強い士官学校生、この前の彼自身のような人間であれば撒く事を考えるべきであるが、タンジェスにはそうではない確信があった。身分の確かなものならつける前に姿をあらわして追いかけてくるはずだ。相手は、彼同様何らかの事情で正体をあらわせない。
「出てきなよ。お互いこの状況はきついと思うぜ」
 人一人が倒れている路地に、その声が白々しく響いた。返答がないか、とタンジェスが思った後で声がする。姿は見えない。
「猫についてかぎまわっているのはお前だな」
 男の声としてはやや高い、かすれ気味の声だった。
「…ああ」
 タンジェスは敢えて踏み込んでみる事にした。バイアの件もあるし、ここまで来て安全策をとっても意味がない。反応は、激烈だった。
 路地の片隅から光の固まりが飛来する。予想外の攻撃を、タンジェスは生まれもった反射で辛うじてかわした。その背後で家の外壁が砕け散る。
「魔術か!」
 叫ばずにはいられない。使いようによって魔術は百人規模の軍隊を一撃で壊滅させることさえできる。並の人間にとって魔術師と交戦する事は、敗北を約束された行為である。
「ちっ…」
 タンジェスは飛びすさりながら抜剣した。できれば回避する所だが、向こうが戦闘を望んでいる以上応じなければ一方的に攻撃されるしかない。あらゆる攻撃に対応できるよう、基本的な中段の構えを取る。
「何だってんだ、一体…」
 そう言いながら、彼は戦うべく呼吸を整えはじめた。

 魔術師、それは常人の認識をはるかに超えた力の所有者である。空中から炎を取り出し、あるいは物体を瞬時にして氷結させる。高位の魔術師ともなれば、天候さえも意のままに操るという。四百年前にはわずかな魔術師が大陸中の王国を敵に回し、敗北寸前まで追い込む事さえあった。同じ魔術師の裏切りが無ければ、大勢は動かなかったとすべての歴史家が認めている。
 
それだけに、彼等とその操る術は通常の人々にとって忌避の対象である。旧帝国においては暗黒神を信仰する教団と並んで激しい弾圧を受けていた。その末期に魔術師は完全に滅亡したとされていたほどである。
 
しかし、それは幻想に過ぎなかった。魔術書とそれを使いうる才能が出会った時、魔術は容易にその姿をあらわすのである。戦乱がそれに拍車をかけていた。そして、何より最強の力を持った魔術師が生き残っていた。数世紀以前の魔術全盛の時代、その秘術によって永遠の若さを手に入れた二人の魔術師が。彼等は悪魔の出現に対して敢然と立ち向かい、そして再び姿を消した。留まらなかった所から判断して、人間社会に必ずしも好意的でなかった事は確かである。
 
現在、国王はその二人の魔術師の功績と魔術の有効性を認めており、それまでの国是を廃して魔術の研究を始めさせている。しかしそれも無制限ではなく、王立の魔術研鑚所以外での使用を禁じており、更にその研鑚所の人員もごく制限されている。放置するにはあまりに大きすぎる力、それは疑い得ない。
 
そしてそれが、タンジェスの間近にあった。彼に対する敵意と共に。
「……………」

 しゃべるのに無駄な注意力を裂けない。タンジェスは沈黙した。

 勝算は皆無ではない。一対一の状況は、大勢で襲いかかるよりもまだ分が良いのだ。集団になるとどうしても身動きが取りづらくなる、それでは的になるだけだ。一人であるなら避けようもある。それに魔術を使うには必要な「気」を蓄えるためにどうしても時間を要するから、魔術師の側に味方がいないのなら術を放った隙を突くこともできる。もっとも分の悪い事に変わりはないが。
 
夜の街路、倒れている人間、そして強力な敵。タンジェスの脳裏に一つの光景が浮かびあがった。
 
ひとけの無い夜の街路、タンジェスは一人の男と相対していた。男の手に握られた剣にはべっとりと血のりが着き、彼の周囲には人が二人横たわっている。あるいはそれはもはや人ではなく、屍かもしれない。
「貴様…」
 怒りのあまり、タンジェスはそれ以上言葉を発する事が出来なかった。ついさっきまで笑って話をしていた相手が、動いていない。

「そう頭に血を上らせるな、実力が出せなくなるぞ。もっとも実力以上のもの出した所で、俺には勝てないだろうが」
 覆面をして、暗色のマントに身を包んだ殺人者は冷静だった。だらりと剣を下げて、構えを取っていない。しかし撃ち込む隙が全くなかった。化け物並みの戦闘力、士官学校の剣術教官達の中にもこれほどの技量を有したものはいない。それが直感で分かる、分からざるを得ない。
「なめるな!」
「別に…。ただ事実を言ったまでだ。多少なりとも剣術をかじっているのだから、力の差は君自身が良く分かっているだろう。運の働く余地はないぞ。…今見た事を忘れて、来た道を引き返せ。そうすれば追いはしない」
 男は淡々と告げる。たった今人間をその手にかけた、それを全く意に介していないようだ。そして、今生きている人間の生命に対しても無関心なのだろう。
「そんな真似ができるか。これから騎士になろうという人間が、そんな取り引きに応じると思うな」
 士官学校の卒業生には出自がどうあれ騎士身分が与えられる。それだけに、その教育は厳しい。しかし男はそれに溜め息で応じた。
「二重三重に愚かだな、君は。ここで死んでしまえば騎士になどなれまい。それに、こうしてむざむざ連れの女をやられるような男が、騎士道をどうこうするなど茶番でしかないとなぜ気づかない」
 男が剣を振り、飛び散った血が白い頬に跳ねた。
「人間にはそれぞれ分、というものがある。半人前の君がここで逃げた所で決して恥ではない。つまらん意地を張らずに、さっさと行け」
「人殺しが偉そうに!」
 タンジェスは猛然と襲いかかった。これ以上その男に神経を刺激されるのに耐えられそうにもない。
「言うに事欠いてそれか。騎士など詰まる所人殺しの職人でしかない、他の人間にならともかく、君のような人間に言われたくはないな」
 渾身の一撃を、男は軽く受け止めた。そして弾き返す。タンジェスの体は後ろに大きく泳いだ。
「そんなに死にたいのなら相手をするとしよう、別に怨んでもかまわんが、それは君自身が惨めになるだけだぞ」
 その一撃を、タンジェスは見る事が出来なかった。速すぎる。気がついた時には剣が手を離れ、背中が後ろの壁に叩きつけられていた。
「運がなかったな」
 彼の鼻先に血塗れた剣があったが、なぜかその臭いを感じる事はできなかった……。

 ギリっと、タンジェスは歯を食いしばった。
「二度とあんな目に遭うものか!」
 二重の怒りが沸騰する。八つ当たりも兼ねて、彼は飛び込んでいった。
 光の矢が襲いかかる。直撃すれば少なくとも重傷を免れない攻撃に、タンジェスは剣を叩き付けた。強烈な手応え、光の固まりが進路を変えて地面を抉る。わずかに落ちた走る速度を彼はすぐに取り戻した。今の攻撃で敵の位置もつかんでいる。この間合いならば次の術が来るよりも自分の攻撃が速い、と直感していた。四歩で斬りつけられるまでに距離を詰める。
「でやああっ!」
 塀の陰に隠れていた敵に向けて、タンジェスは剣をなぎ払った。風切音に、何かがこすれるような音が混じる。服地の繊維が中を舞っていた。
 
若くはない痩せた男、服装はごくありふれた市民のもの、とタンジェスは見て取った。致命傷を咄嗟に身を引く事によって回避している。しかし体勢の崩れたこの状況ではまともな術は使えまいとみて、彼は更に踏み込んだ。払い技から突き技へつなぐ、基本的かつ有効な連係である。鋼の閃光を、しかし魔術師はまたしても回避した。ただし、ただ避けているだけではじきに斬られる。後ずさっているのと前に向かって踏み込んで行くのとでは速さが違う。
 
が、タンジェスは第三撃を放つ事が出来なかった。敵が彼の攻撃範囲を脱していたのである。方向は上、飛び上がったその体が、屋根の上に有った。
「なっ!」
 普通の人間にできる技ではない。何らかの術の結果であろう。しかしタンジェスはそれを考える以前に、自分の置かれた状況の危うさに慄然としていた。彼の剣は相手に届かず、相手の術は彼に届く。敵は戦士に対する戦術をかなり研究しているらしい。タンジェスが踏み込んできた時点で、そのような術を使う準備をしていたと見るべきだ。
「くっ…!」
 こうなれば逃げるしかない。死にたくなければ。逃げようとして殺される事もありうるが。相手から注意を逸らさないようにしながら、彼は素早く後ずさった。
 しかし、彼が敵の攻撃圏を脱するよりも敵の攻撃の方が早かった。屋根の上の男が手を掲げ、沸き上がった炎が舞い下りる。それはタンジェスの背後に壁を作り上げた。炎に照らされて、タンジェスは相手の顔に冷笑が浮かんでいるのをはっきりと見る事が出来た。
「……………」
 タンジェスは構えを解こうとはしなかった。魔術師の手に、光が宿る…。


「火事だあっ!」
 誰かが叫んだ。少なくとも対峙している二人でない事は確かである。両者とも、動揺を隠しきれていない。そしてすぐに二人とも、戦闘の中断とその場からの離脱を決意した。お互いに後ろめたい所のあることをやっている身である。暗黙の了解の下休戦が成立し、それぞれの方向へと後退して行った。いつのまにか炎も消えている。魔術師の姿が建物の向こうへと消えて行き、タンジェスもとりあえずその場を離れる事とした。
 しかし、タンジェスの前に一つの人影が立ちはだかった。彼は思わず抜き身のままの剣を振り上げる。
「タンジェスさん」
 声をかけられて、しかし止まらない。彼はその人物を斬殺しかけたが、幸い斬りかかられたほうが避けてくれたおかげで最悪の事態は回避された。もっとも避けた者は不様に尻餅をついてしまっていた。そのままにわかには立ち上がろうともせずに額の冷や汗をぬぐっている。
「勘弁して下さいよ、せっかく助けてあげたのに、それはないでしょう」
「若旦那…」
 若旦那ことファルラスがへたり込んでいた。
「何だってここに…」
 思わず声が詰問調になる。ファルラスは立ち上がって埃を払いだした。
「何だってじゃないですよ、帰りが遅いんで心配になって様子を見にきたら、魔術師と交戦中と来ているじゃありませんか。仕方が無いから咄嗟に火事だなんて叫んだって訳ですよ。あの声が私のだって気がつきませんでしたか?」
「そう言えば、そんな気も…」
 しかし普段の彼からは想像もつかない、張りのある厳しい声だった。今はいつも通り、のんびりとした口調である。
「それはありがとうございます。…って、若旦那相手が魔術師だって気がついていてそんなことしたんですか!」
「相手が普通の人間だったらあなたにお任せしましたよ。しかしいかにあなたといえども魔術師相手じゃ分が悪いでしょう。凄まじい剣の達人って訳でも魔剣の所有者って訳でもないんですから」
 魔術師に確実に勝てるものがいるとすれば、それは更に力のある魔術師か、現国王のような一流の剣士、あるいは魔術師の手による魔剣の使い手のみというのが定説である。もっとも現国王は先祖伝来の魔剣の所有者であり、王都有数の剣客である近衛騎士、ノーマ卿も師匠の形見である魔剣を常に帯びているなど、後二者は往々にして重複する。魔剣は使い手を選ぶ、という伝説もある。それを争い事とはまったく縁のないと思われるファルラスが知っているとは驚きだった。しかし、感心しているばかりでは済まされない。
「そこまで分かっているんなら手を出さないで下さい。下手をすればあなたもまとめて焼き殺される所だったんですよ」
 ファルラスがタンジェスと知り合いであると知れれば、そのようになる。タンジェスは声を荒げたが、ファルラスのほうにはこたえた様子が無い。
「まぁ、いいじゃないですか。結果的に二人とも無事だったんですから。さて、長居は無用です、帰るとしましょうか」
 そんな事を言って笑っている。タンジェスは自分の頭に血が上るのを自覚していたが、しかしそこからの行動を止める事は出来なかった。
「いいじゃありませんよ! 今度からそのような行動は慎んでください、よろしいですね」
「よろしいってちょっと…」
「あなたは俺と違って所帯持ちなんですよ、それに曲りなりにも一つの店の主でもある。死ねば何人が悲しみ、迷惑する事か、分かっていますか?」
「分かってますけど…」
「分かってません! 二度とあんな無茶はしない、いいですね?」
「は…はい」
「ならいいです。さ、行きましょうか」
 タンジェスはさっさと歩き出した。仕方ないなあ、と言った面持ちでファルラスがそれに従った。


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