王都猫狩始末記
後編


V 残影

 
すぐに二人は、その近くで殺し合いがあったとは信じられないような賑わいを見せる通りに達した。こぎれいな料理屋、酒場が軒を連ねるやや上等の繁華街だった。老若男女皆笑いさざめき、通り過ぎて行く。そう言えばまだ、そう遅い時間帯でもなかった。治安も良いし、遊ぶものは夜通し遊んでいられる。たとえ酔いつぶれてそのあたりで寝てしまっても、運さえ悪くなければ別に何の被害も受けはしない。
「嘘のようですねぇ…」
 いつのまにか並ぶ位置を歩いていたファルラスがぽつりとつぶやいた。タンジェスがうなずく。
「この近くで魔術師が俺を殺そうとしたと言っても、誰も信じないでしょうね」
 その言葉にファルラスは珍しく少しだけ目を見開いて、やがてかぶりを振った。
「はは、私が言いたかったのは少し違うんですよ」
「では何ですか」
 言葉が通じていないのかとさえ思って、タンジェスは聞き返した。ファルラスは通りの奥のほうを見通している。
「…ここが戦場になってからわずか十年だなんて、信じられますか?」
「帝都攻防戦、ですか」
 タンジェスにとってそれは教科書の上での出来事である。子供のころに大まかな話は習ったし、士官学校でも市街戦の最新の事例として戦術論の授業で良く取り上げられる。
 滅び行く帝国は最後の抵抗の場として自らの首都を選んだ。しかも市街戦を囮としてその間に皇族、重臣達は逃げ出す算段であったらしい。そう判断した攻撃側は守備の体制が整う前にと突入を強行、大陸で最も古く、そして美しいと言われた都市は戦場と化した。市街戦に反対していながらも勅命によってやむなく布陣していた守備側の司令官は奇襲に抗しきれず戦場の露と消え、逃げるはずだった皇族、重臣達は攻撃側のある騎士によって皆殺しにされた。
「俺にはその話そのものが本当にあったと実感さえできないんです。地図を突き合わせてみても町並みがかなり変わっているみたいですし」
 タンジェスは正直な感想を口にした。あまり世辞などを言うほうではない。ファルラスは苦笑を浮かべていた。
「ふうん、やはりタンジェスさんも戦後世代ですね。しかしあのころあなたはサームより年上くらいでしょう、何か覚えていませんか。別に攻防戦についてではなくても良くて、戦争について何か、っていうことなんですけれど」
 タンジェスはしばらく考えて、諦めた。

「残念ながら…いえ、幸運な事に全く。俺の実家はここの近くの小さな町にありますけれど、その辺までは戦火が及ばなかったんですよね。そのころの記憶がないわけじゃないですけれど、戦争や軍隊についてはちょっと」
「そうですか。ま、その方が良かったなんて言うまでもないですね」
 ファルラスはいつも通り笑っていてそこからは何も引き出せない。彼は珍しく相手の反応を待たずに続けた。
「まったく、ひどい時代でしたよ。人々には飢えと絶望、騎士達には戦争と狂気、よくもまあ人間が滅びなかったものです。人間の生命力たるや、魔獣や悪魔の比ではありませんね。だからこそ、力を持て余して相争うのかもしれませんが」
 内容は重たいはずだがその声には深刻さが欠けていて、タンジェスはは少し違和感を覚えた。
「俺なんかが文句を言う筋じゃないかも知れませんけど、例えば若旦那はあまり飢えとは縁がなかったんじゃないですか。戦争とは全く接点がないようですし」
 正直な話、とても苦労を重ねてきた人には見えない。ファルラスはそのままの笑顔を保っていた。
「飢えてましたよ、特に子供のころはね。私は孤児でしたから。その時物心ついていなかったので良くは分からないのですが、両親は何かの戦闘に巻き込まれたようです」
「あ…済みません」
「いえ、あなたが謝ることじゃありませんよ。それに戦争で行き場をなくした私を拾ってくれたのが妻でしたから、少なくとも私自身にとってはいくばくかの幸福をもたらしたものだとは確かですね」
「ああ、そうなんですか。うまく逆玉に乗れたって訳ですね」
 ファルラスは吹き出した。
「こらこら、今度の言い草はさすがに失礼ですよ。私は妻をだましてなんていません」
「あ、あれ? そうだったんですか。一度も一緒にいた所を見た事がないですし、俺はてっきり…」
「ひ、ひどい…たった三日じゃないですか。彼女は今体調を崩しているだけなんですよ。いずれ紹介します」
「あー…。失礼しました」
「そもそも私がそうお金目当てに誰かをだますような人間に見えますか」
「そうですよね」
 そんな度胸があるようには見えない。タンジェスの内心を知ってか知らずか、ファルラスは語り出した。
「彼女は富豪の一人娘、私は天涯孤独の流れ者、別に婿養子に入っても不都合はありませんでしたから。それだけの事ですよ」
「そういうことでしたか」
「ま、万事この時代はこんな調子で、ですね」
 不意にファルラスは空を見上げた。月のない、街の明かりに照らされて星も見えない空だった。
「…?」
「平和そうに、何の悩みを抱えていないように見えても、その奥底には戦争の傷が癒えぬままに残っています。街も、人も。私などはごく薄っぺらなほう。そしてその傷が時として膿みを吹き出すのではないでしょうか。今日のあの魔術師のように、あなたが先日戦ったあの男のように」
 タンジェスは返答の前にわずかな沈黙を置いた。
「…もう十年ですよ」
「まだ十年です。あの時二十歳だった人が今は三十、何かしでかすような力は多分に残っています」
「それはもっと若い人間も変わりはないでしょう」
「そうでしょうか。このような話はあなたの方が詳しいと思いますけれど、良く言うでしょう。戦場の狂気が人を変えるって。そしてそれに取り込まれた人間は二度と平和な生活に安住する事ができない…。そろそろ耐えられなくなる時期であっても、おかしくはないですよ」
「そんな。現に多くの戦闘をくぐり抜けてきた人たちが、今も平和に暮らしているじゃありませんか。陛下とか、将軍の方々とか」
「あの方々が耐えていない、という保障がありますか?」
 タンジェスは完全に沈黙した。ファルラスがゆっくり続ける。
「私も色々と常識では考えられない話を知っていますよ。妻やサームには話したくはないですけれど、あなたにならば構わないでしょう。ただ楽しむためだけに十何人も斬ってまわった女性の話とか、人間を魔術の材料に使った女性とか…」
 こんな話をしてさえなお微笑を崩す事の無かったファルラスが、ここで不意に破顔した。
「ま、難しい話はこの辺にしておきましょう。とりあえずは猫をどうやって探し出すかを考えて、それからですね」
「ええ…って、ちょっと待ってくださいよ、あの魔術師はどうする気なんですか。あんなの放っておいたら洒落にもなりませんよ」
「はい? そもそもあなたのお仕事は魔術師と戦うことではなくて猫を探すことでしょう。それが終わったら何かをするにしても、今あの人の事は官憲にでも任せておけば良いのではありませんか」
 ファルラスは首をかしげている。タンジェスは手で顔を覆った。
「やれやれ…結局肝心の所が抜けてるんですからね、若旦那は」
「どういう意味でしょう」
「今から説明しますよ」
「あ、話している間に着きましたね。詳しいお話はお茶でも飲みながらにしましょう」
 気がつくと茜商会の近くまで来ていた。タンジェスはどっと疲れが出るのを感じていた。

 茜商会の応接室にて、待っていたエレーナを交えて今後の対応についての話し合いが始まった。とりあえず何が起きたかをタンジェスとファルラスが説明し、それについてエレーナが論評する。
「相手は魔術師、しかもその目的もはっきりとは分かりません。猫の件からはひとまず手を引くべきだと存じます。今のままでこれ以上行動するのは危険が大きすぎるのではないでしょうか」
「危険が大きいのは確かです。しかしこのまま手をこまねいている訳には行きません。こっちはそこら中に張り紙を出して、身分を明かして聞き込みをやっている訳ですから奴に情報は筒抜けです。これじゃ一方的に不利ですよ。こういう場合は攻めるしかないでしょう」
 タンジェスは反論した。そこへエレーナの再反論。
「攻めるだけの戦力がこちらには御座いません。あなた様は御自分の身を守れるとしても、こちらとしては旦那様と奥様、そしてサーム様の身もお守りしなくてはならないのですよ。戦力を増強して、辛うじて守り切れるかという所です。そのような仕事は官憲に任せるべきです」
 タンジェスは一度言いよどんだが、すぐに一つの危険に思い当たった。
「官憲はまずい! 奴がもし魔術研鑚所の人間だったら、その動きまで分かってしまうでしょう。同じ政府組織ですよ」
 魔術師である以上その可能性はきわめて高い。しかしエレーナはここで引き下がったりはしなかった。
「その方が相手の動きを牽制できるでしょう」
「ええい、やられっぱなしで大人しくしていろって言うんですか!」
「その通りです。無用な争いでこの商会の信用を落とすことはできません」
 若く、激しい視線とあくまで冷静な視線が衝突した。しばし沈黙、それを破ったのはそれまで沈黙していた人物だった。
「二人とも落ち着いてくださいよ」
「俺は冷静です」
「少なくともわたくしは落ち着いております」
「まあまあ」
 何のかのと言っても、この人はこういう時には役に立つ。顔を見ているとなんとなくもめる気がなくなるのだ。二人とも一息ついて、ファルラスの話を聞く体勢に入った。
「エレーナさん、我々家族の安全については私にお任せ願えませんか。いくつか心当たりもありますし、幸い資金は潤沢ですから」
「しかしわたくしはもともと…」
 もともと何なのか、タンジェスは聞くことができなかった。
「マリーズさんも心配ですしね。向こうは今完全に無防備ですよ。明日の朝一番でまず連絡をお願いします。私のほうは何とかなります、多分」
「そうでした。お客様にご迷惑をかけるようなことがあってはなりませんね」
 珍しく、エレーナが顔を曇らせた。そうしてからファルラスはタンジェスに向き直る。
「そういうことです。それからあの人が魔術研鑚所の人間であるかどうかについても私が向こうの方に探りを入れてみましょう。恐らく違うとは思いますが」
「若旦那がですか? 向こうに本当に奴がいたら洒落になりませんよ」
「大丈夫です、あそこにはちょっとつてがありますから」
「しかし…」
「恐らく大丈夫だと存じます。この方のつては不可解なほど強力ですから」
 と、エレーナが助け船を出した。
「そうなんですか?」
「ええ、わたくしも時々驚かされる事が御座います」
「ほう…、それではエレーナさんを信用してみましょう」
「それって私が信用できないという話ですよね、あははははは」
 ファルラスが例によって笑っていた。
「あ、いえ、別にそういうわけでは」
「別にいいんですよ、私自身信用できるとは思っていませんから。それから、官憲への連絡についてですが、ノーマ卿を頼ってみるのはどうでしょう。あの方ならば信用できると思いますが」
「え? ノーマ卿ともお知り合いなんですか!」
 近衛騎士ノーマ卿、王都有数の剣豪であり、国王の側近でもある。人格的にも優れており、タンジェスらが目標とすべき騎士の一人だ。先日タンジェスが正体不明の殺人者に追いつめられた時にそれを助けた人物だ。
「ええ、まあ。この前連絡をいただいたのです。あの一件がきっかけで。何かとあなたの様子を気にかけておいででしたよ。ただ、あまり心配されていると気づかせるのも良くはないから黙っていろとの仰せでしたが、この際致し方ありません」
「そんな事が…」
 タンジェスはうつむきかけたが、すぐに顔を上げた。
「そこまで心配をおかけして、この上魔術師の件に巻き込むなんて出来ないですよ」
 しかしファルラスはゆっくりと首を振った。
「エレーナさんの言う通りでもあります。正直な話、我々だけでは手が足りません。しなければならないことをしないのは確かに責められるべきでしょうが、できないことを諦めても恥ではないでしょう」
「…どこかで聞いたような言い草ですね」
 タンジェスの目がすっと細くなった。
「は?」
 ファルラスは分からない顔をするしかない。それでタンジェスは肩の力を抜いた。
「いえ、何でもありません。おっしゃる通りですね」
「はあ。それに今回、あなたのしなければならないことは決して楽ではありませんよ。先ほどあなたは『やられっぱなしじゃ引き下がれない』みたいにおっしゃいましたよね」
「ええ」
「ならば当然、あなた自身で片をつけるつもりなのでしょう?」
 いつになく真剣なファルラスの問いかけに、タンジェスは笑って答えた。
「あの一件で一つだけ俺にも得る所がありましたよ。少なくとも死ぬのが恐いとは思わなくなりましたね」
 ファルラスは口を閉ざした。エレーナが横目で、わずかに心配しているような様子でそれを覗き込む。やがてファルラスは溜め息混じりに言った。
「そうですか。そうおっしゃるのなら、剣を取らない私にとやかく言う筋はないですね。お気をつけて、と言う他ありません」
「ありがとうございます」
「いえ…しかしもちろん勝てない戦いをするつもりはないのでしょう?」
「それはもちろんですけれど」
「ならば少し、お手伝いできることもありそうですね。面白いものを持ってきますから、明日の朝を楽しみにしていて下さい」
 ファルラスは笑った。どこか不穏である。
「何です?」
「贈り物は中身が分からないから面白いんですよ」
 楽しそうなファルラスを視界に捕らえつつ、タンジェスはエレーナを見やった。しかし彼女にも心当たりはないらしい。小さくかぶりを振っていた。満足げに、ファルラスが話を終えにかかった。
「さて、この件に関して他に何か提案のある方はいますか」
「俺は特に」
「わたくしも御座いません」
「それではお二方ともお疲れと思いますし、明日も何かとありますから、今日の所はこのあたりで散会としましょう」
「そうですね。それじゃあ…あ!」
タンジェスはうなずきかけたが、不意に顔を上げた。エレーナが切れ長の目をやや大きくする。
「どうかなさいましたか」
「あ、いえ…そういえば飯を食ってなかったなって思っただけです」
「あはははははははははは!」
 タンジェスは自分の腹をさすり、ファルラスは思い切り笑い出したが、その後彼等はすごい目で睨み付けられて小さくなった。
「…台所に多少は保存食が御座います。それをお食べになってはいかがですか? 今迂闊に出歩くのは賢明とは思えません」
「はい、そうします」
「…旦那様、それでは参りましょうか。お宅までお送りいたします」
「あ、そんな、悪いで…い、いえ、何でもありません。お言葉に甘えましょう」
 二人とも相手の殺気を感じで大人しく言われた通りにした。ファルラスの方が若干鈍い反応を示しているのは感覚の差である。
 保存食は保存食だけあって、大した味はしなかった。

 翌朝、タンジェスは商会の裏庭で剣を振り回していた。別に相手はいない。腕をなまらせないための稽古である。さすがに停学を食らった直後にはやる気も起きなかったが、今はそうも言っていられない。真剣を使って素振りと基本的な型をいくつか、そして更に相手を想定した形で剣を動かす。軽く汗を流すつもりで始めたのだが、やりだしてしまうとなかなか終わる決心がつかないものだ。もう少し、と思っていた所で彼は視界の隅に動くものを認めてそちらへ剣を突き出した。
「おっと、危ない危ない。迂闊に近寄らなくて良かった。殺気立っていると言う奴ですか?」
 やや大き目の包みを抱えたファルラスが庭の入り口で笑っていた。距離はまだ少しある。タンジェスは苦笑して、汗をぬぐいながら答えた。
「そこまで危なくないですよ。近づいても大丈夫ですって。今のはむしろ守りの体勢に入ろうとしていたんですから」
「ほほう、しかし精が出ますね」
「大したことないですよ。それよりそれが例の『面白いもの』ですか?」
 ファルラスが持っているものは包みの上からでは何か良く分からない。もっともそのように包んであるのだろう。彼は前夜同様いたずらっぽく笑った。
「ふふふ、気になりますか」
「ま、一応は」
「その話はまた後でですよ。それよりもまず今分かっている事から。魔術研鑚所に問い合わせてみた所、昨夜このあたりをふらついていた可能性のある魔術師はまずいないそうです。研鑚所にこもっていたか、あるいはこの王都から全く離れた場所にいたかのどちらかだそうですから。所長に聞きましたから、これについて疑う余地は少ないと思います。何らかの形で魔術書を偶然発見したものが関わっているようですね」
 どうやら徹底的に焦らすつもりらしい。しかしタンジェスはそれに乗ってしまった。
「いつ調べたんですか、そこまで」
「昨日の夜ですよ。あそこの人たちは完全な夜型ですからね。発光板なんてものを持ってますから好きなだけ夜更かしをしているんです。今日にまわしていたら少なくとも夕方までかかりましたよ、きっと」
「危ないなあ。奴がまた襲ってきたらどうするつもりなんですか」
「昨日の夜が一番安全だったと思いますよ。人間一度失敗したその日にすぐに動きまわろうとは思わないものです」
「そうかもしれませんけどねえ。そういえばサームはお宅ですか」
「ええ、今日は妻の所で大人しくしているようにと言いつけてあります。妻にもそう頼んでありますしね」
「なるほど。奥さんはもうよろしいのですか?」
 彼女が体調を崩している事を、タンジェスは覚えていた。もっとも顔は知らないのだが。
「ええ、まあ、一応は。完全にではないのですけれど、直りかけには息子の笑顔が一番かもしれませんから」
「ほう、しかし旦那さんの笑顔は見せなくていいんですか?」
「そうしたいのは山々ですけれど、この一件が片付くまでは安心していられませんよ。ですからタンジェスさんにもがんばっていただかないと」
「言われなくてもそうしますよ。所でエレーナさんは?」
「彼女は表に居ますよ。一応警戒しておくそうです」
「昨日から気になっていたんですけれど、若旦那って、エレーナさんに頼り過ぎじゃありませんか? 送ってもらったりして。逆だと思いますけど。彼女はまがりなりにも女性ですよ。男のほうが送るべきじゃありませんか」
「他の女性だったらそうしてますよ。彼女は特別なんです。何しろ強いですから」
「いくら強いと言っても限度と言うものがあると思います」
 ファルラスがここで笑顔を引きつらせた。
「意地でもこれについて聞かないつもりですね」
「悪いのは若旦那ですよ」
 タンジェスの方にはまだ余裕がある。仕方なくファルラスが折れた。
「こうしてる場合じゃないですよね」
「そうですね」
 しぶしぶと言った面持ちで彼は包みを開けた。まず出てきたのは分厚い皮で出来た防具である。
「篭手…いえ、小楯ですね、こいつは」
 士官学校生なのでタンジェスには一通りの武具についての知識がある。小楯とは篭手と普通の楯の中間の大きさを持った防具の事で、左腕にはめて使う。使い方も中間的で、腕を守るために相手の攻撃を受け流すのが篭手、体全体を守るために相手の攻撃を受け止めるのが楯に対し、攻撃を受け流して体全体を守るのが小楯である。前者でまともに受け止めると腕の骨が折れるが、後者ならそれができるだけの厚みがある。受け流すためにはある程度の機動性が必要で無闇に重くはできない、しかし体全体を守るとなるとそれなりの大きさが必要、それが両立するぎりぎりの所で作られているのだ。
 楯よりも軽量で小さいために持ち運びにも便利、それでいて比較的高い防御効果が得られるため使いようによっては非常に有効な武具の一つである。しかし無差別に攻撃が飛来する野戦においては大型の楯、あるいは全身を覆う鎧の方が有効で、騎士達もこれを好むのであまり使い手の居ないものでもある。
 それにしても、このような白兵戦用装備をなぜファルラスが持ってきたのか、その意図が全く分からない。
「当然ただの物じゃないですよ」
 そう言いながら笑って、彼は火口を取り出して火をつけた。一見した所この人は動作が鈍そうなのだがこういう所は意外に器用で、すぐに火が起きた。しかしたばこを吸わないこの人がなぜそんな物を持っているのか良く分からない。さておき、ファルラスは出来た火をその小楯に押し付けた。革製品、特にこういった防具に使われるものは材質を強化するためにある種の油が使われる事があるためタンジェスは燃え上がるのではないかと心配になったが、ファルラスは平気な顔で続けてから火を放した。
「あ…」
 そこには、焦げ一つついていなかった。確かにそこに火が押し付けられていたというのに。
「何だか分かりましたか?」
 ファルラスは注意深く火の始末をしながら聞いた。タンジェスはかぶりを振る事さえ忘れている。
「手品、じゃあないですよね」
「似たようなものかもしれませんよ。種も仕掛けもあるそうですからね。魔術だそうです」
「魔術師の武具ですか!」
 さらっと言ったファルラスに対し、タンジェスは大声を上げてしまった。魔術が希少であるだけに、その手による武具には千金の価値がある。魔術のかかった剣は折れるどころか刃こぼれ一つせず、その異様な切れ味をいつまでも保ち続ける。そして鎧は鋼の武具を全く通さず、しかも軽量で動きやすい。戦闘における現実的な意味もさる事ながら、これを所有すると言う事はある種有力な騎士の証でもある。王家伝来のものは最強の魔剣として知られており、これがその権威を高める一つの要因となっているのだ。
「はい」
 ファルラスはやはり平静に答えた。商人であるから、その価値が今一つ分かっていないのかもしれない。
「どこからそんなものを!」
 基本的に金があったとしてもすぐに買えるような代物ではない。しかし持ってきた当人はくすくすと笑った。
「お金の力って偉大ですよ。そうは思いませんか?」
「金、ですか」
 タンジェスはその言い草にどこか言いようのない不快感を覚えた。相手の笑みが苦笑に変わる。
「確かに世の中にはお金で買えないものがありますけどね。このくらいのものはお金さえ出せばどうにでもなるんです。これから先平和が続けば、そういう傾向はもっと強くなって行くでしょうね。平和な時ほどお金が物を言いますから」
「何か、嫌ですね」
「そうでしょうか? 暴力が物を言う時代よりは良いと思いますよ、私は。剣を交え、血で血を洗うよりはお金をやり取りしていた方がよほど良いでしょうに。騎士の方々にはまた違ったお考えがおありかも知れませんが」
 タンジェスは沈黙した。ファルラスが済まなさそうに笑う。
「止しましょう、こういう話は。得る所がありません。実の所これ、他のもののように法外に高くはないんですよ。普通騎士の皆さんは実戦に役立つような武具を欲しがります。例えば国王陛下の魔剣のように、振ればあらゆる物を消し去る光を生じ敵を薙ぎ倒す、みたいな」
「普通、と言うかそれしか考えられませんね。もっとも陛下のもののように強力な剣でなくても、例えば折れないだけでずいぶんと有利になります」
 タンジェスも話を現実的な方向に戻した。
「ええ、しかしこれにはそこまでの力はありません。何しろもとが革ですから、硬度としてはせいぜい鋼のものと同じくらいですね。だからこれは値段としてはまあ妥当な線でしたよ」
「それじゃ意味がないですよ」
「相手が普通の人間ならばね。しかし今回あなたの相手は?」
「魔術師。それ用の防具って事ですか」
「はい。ええと…魔術を反射する防御力場、というものを発生させる装置だそうです。範囲は大体このくらい、と聞いています」
 ファルラスは手で円を描いた。上半身を全て隠せるくらいの大きさである。
「ここを外れた攻撃はまともにかぶってきますから、当てにしすぎるのは禁物ですけれどね」
「それだけあれば恐らく十分ですよ。あの時の戦闘から判断して、奴にそこまで強力な術は使えません」
 もし使えるのなら、今ごろタンジェスはこの世の人ではない。しかしなぜか、それを考えても改めてぞっとしはしなかった。
「それはせめてもの救いですね。それから、これは騎士を目指す方のお気には召さないかもしれませんが…」
 ファルラスは次に肘から腕の先まで程度の長さの太い木の棒のようなものを取り出した。そしてその使い方を説明する。もちろんただの棒切れなどではなく、それなりに手のかかった武器である。説明を聞き終えて、タンジェスはあっさり答えた。
「相手が普通の人間じゃないですからね。使わないに越した事はありませんが、必要ならばこういう物もやむをえないでしょう」
 そうして、タンジェスは小楯をつけ、例の棒状の武器はベルトの背中側に括り付けた。更にそこへ剣を帯びるのであるが、そこまでやるとかなり物々しい姿になる。目立つことしきりで余計な人目を引いてしまうかも知れない。そこでファルラスに大き目の上着を借りて武具の上からはおり、一見して剣だけを帯びているようにした。これで準備は完了である。
「さあて、それじゃあ行ってきますよ」
「お気をつけて」
 ファルラスは深々と頭を下げた。更に店の表では、エレーナが無言で一礼してタンジェスを見送った。
「よろしいのですか。もしかしたら…」
 特に恐れる様子もなく歩いて行くタンジェスの背中を見ながら、エレーナは傍らに立ったファルラスに問いかける。その手には鞘に入った剣があった。タンジェスのものよりもやや細く、しかし長い。普通女性では持っているだけで体力を消耗するほどの重量があるはずだが、彼女は少なくともその件に関しては平然としている。
 ファルラスはゆっくりとかぶりを振った。
「仕方がありません。他の人に事件を委ねるという手段もあったのに、彼は自分の手で片をつけると決めたのですから。戦わない私が余計な口出しはできませんよ」
「意外に冷たくていらっしゃいますね」
 エレーナは無表情に言った。しかし彼女が面と向かって感情的な非難を行うのがごく希であると、ファルラスは知っていた。本来事務的でない件についてとやかく言う人ではない。ファルラスは寂しげに笑った。
「善意が必ず報われるのであればもう少し優しくしますよ。しかし今の彼では、それを侮辱としか取れないでしょう。男…いえ、男の子には自分一人で解決するしかない問題があるものですよ」
「女だってそれは同じです。しかしそれが命懸けではあまりにも…」
「ことがここに至れば仕方が有りませんよ。さあ、ここで話し合うよりも大事なことがあるはずですよ。最後の詰めはタンジェスさんに任せるとしても、手助けはできるでしょうからね。とりあえずノーマ卿の所へ行きましょうか」
 緩やかに歩き出すファルラスに、エレーナは少し遅れてついていった。

 茜商会を出たタンジェスは、まず猫がどのあたりで、どのくらい居なくなっているのかを調べ始めた。これに関してはさして時間もかからず、昨日ミランと出会った公園を含む地域が特定される。ちょっとした噂になっているらしかった。その中心は茜商会から見て公園の向こう側である。マリーズの猫の一件を事件に含めるとすれば、これは最も離れた場所で起きたことになる。
 そこで昨日見た男の人相、風体を聞いて回った所、しばらくして一つの館に行き当たった。十年前までは富裕な商人の館であったらしいが、倉庫が落雷に遭って炎上、それがきっかけで破産、一家は離散しこの館は複数の人間の手を渡り歩いた末結局はうち棄てられた。それが一年ほど前、一人の男がこの屋敷を買い取って整備し、住みついたのだという。それが昨日見た男の人相と一致していた。
 人付き合いをせず、そもそも何を生業としているのか分からない。それで近所では何かと噂の種になっていた。もっともさすがに魔術師であるとのとっぴなものはなかったが。
 そこまで調べるのには、さすがに夕方までかかってしまった。実の所その間に敵が出てきてくれる囮としての効果を期待していたのだが、その当ては外れた。夕闇の中に、館のシルエットが浮かび上がる。タンジェスはそれを別の建物の陰に隠れて見ていた。
「明かりはついていない、か」
 留守か、あるいはまだ寝ているのか。判断に迷う所だ。やや考えた末、タンジェスは一度商会に戻ることにした。昼間中歩き回って今は疲れている。万全の状態とは言い難い。ここでの交戦は賢明とは言えないだろう。一度休息を取り、それから時間を改めてまた明け方あたりに来れば良い。その時間帯ならば普通の人間は熟睡しているから奇襲に適しているし、相手の生活周期が完全に崩れているのなら留守かどうかを確かめる事ができる。決めてしまえば、タンジェスの行動は早かった。今日一日襲われなかったことから考えて、向こうの注意はこちらに向いていないらしい。少しは余裕を持っても良いだろう。そうして、影の濃い街をタンジェスは戻って行った。
  茜商会の見える所まで来た所、タンジェスはその入り口のにエレーナが立っているのを見つけた。
「あれ、エレーナさ…」
「タンジェス様、何をしておられたのですか!」
 と、いきなり怒鳴られた。一瞬頭に来たタンジェスであったが、異様な事態であると察してこらえた。
「何かありましたね。少し落ち着いてください」
 エレーナは切れ長の目を見開き、羞恥からわずかに頬を染めた。そして表面的には平静な口調で話しだす。
「申し訳御座いません。サーム様がお屋敷からお出になって帰らないと。旦那様も探しに行くとおっしゃって出て行かれたままいまだに連絡がつきません」
「まさか…!」
「猫を探しに行ったのならタンジェス様のいらっしゃったあたりに行かれたはず、お見かけになってはいませんか?」
「いえ、全く…」
 タンジェスは体中の血液が逆流でもしているような感覚に襲われた。一瞬思考が止まり、そして暴走が始まる。
「俺は心当たりを探してきます! エレーナさんはマリーズのうちの周辺を探してください。もし俺の心配が外れているなら、サームは担当地域のそのあたりに居るはずです」
タンジェスさん!」
 タンジェスはエレーナの言う事を聞こうともせず走り出していた。

W 一つの結末
 
その館まで、走ってみるとそれほどの距離でもなかった。疲労も感じない。正門の前につくとすぐ、タンジェスは鉄格子状の門扉を乗り越えた。小細工をしている余裕はない。広く、しかし暗い中でも手入れがされていないと分かる前庭を突っ切って館の中へと入る。その際に二階の部屋の一つに白々とした明かりが点いている事を確認していた。
 樫材の重い扉の先には薄暗い玄関ホールが広がっていた。左右へと続く廊下、そして二階への階段が見える。造りそのものはいかにも金持ちの家といった感じのものだが、埃っぽい空気がそれを裏切っている。そして何よりこの規模の邸宅でここまで来て使用人を一人も見かけないことが、主の異常さを無言のうちに物語っていた。
 毛足の長い絨毯を蹴って二階へと駆け上がる。上り切った所で、タンジェスの視界の隅で何かがひらめいた。
 人の頭ほどもある炎の固まり、それが廊下を飛んでくる。突っ立っていれば火だるまになる。タンジェスは床に飛び込むようにしてそれをかわした。そのままでは敵の第二撃を待つだけなので前転を打って体勢を立て直す。片膝立ちの姿勢で、左腕で胴をかばいながら彼は抜剣した。その背後で火球が壁に当たり、ひしゃげて飛び散った。
「鼠と思えば昨日の小僧か。のこのこやってくるとは、こちらから出向いて始末する手間が省けたぞ。仕返しでもしにきたつもりか?」
 嘲笑が響き渡った。火球の飛んできた廊下のその奥に昨日の男が立っている。タンジェスはゆっくりと立ち上がった。
「今はそんな事はどうでもいい。返してもらいたいものがあるだけだ。大人しく言う事を聞けば命だけは助けてやる」
 狂暴な気配が流れた。それを承知で、魔術師は嘲笑を続ける。
「それはできない相談だな。もうおまえ達がどうこうできるものではないぞ」
「…そうか」
 タンジェスが床を蹴った。相手を自分の攻撃圏に捕らえるべく、最大限度の速さで間合いを詰める。魔術師は一瞬以上驚きの余り動きを止めていたが、しかしそれでも光の矢を放つ魔術の方が早かった。距離がありすぎる。タンジェスは左腕でその攻撃を受けた。
 甲高い破裂音と共に、魔術師の攻撃が方向を変える。それは魔術師自身の背後にある壁に突き刺さった。二重の驚きによってその動きが完全に止まる。しかもタンジェスの方は反動を全く受けていない。
「もらった!」
 突進の効果を最大限に生かすため、タンジェスは突きを放った。これならば勢いをそのまま攻撃に転化できる。狙いは右肩、致命傷を与えずに敵を無力化するのに基本となる部位である。人をその手にかけた事のないタンジェスには分からないが、この勢いならば複数の骨を撃砕して敵を背後の壁に縫い付けられる。
「うわわっ」
 魔術師は不様によろめいた。それによって目標の位置が変わるが、その程度の修正はタンジェスの計算のうちである。反射神経で十分に対応できる。冷酷な剣が、魔術師の肩を貫こうとした。
「ああっ!」
 しかし意味を成さない叫びを上げたのはタンジェスの方だった。突然何かが飛び掛かってきて、それを避けざるを得なかったのである。しかも飛び掛かってきたそれは一度の攻撃では諦めずに再度攻撃を図ってくる。タンジェスはその正体が分からぬまま自分に向かってくるものに向かって剣を振るった。確かな手応え、悲鳴、そして鮮血が飛ぶ。ぼとり、と二つに分かれた何かが廊下の絨毯の上に落ちた。それはかつて猫であったものの上半身と、そして下半身だった。どくどくと血が流れ、そしてその体が痙攣する。間違いの無い致命傷、しかしこの瞬間ではまだ生きている。両方とも。
「チッ!」
 これに注意を奪われているすきに攻撃されれば文字通りの致命傷だ。しかし敵は態勢の建て直しを優先させたようで、タンジェスがそちらに視線を転じた時には逃走に移っている所だった。その姿が立ち並ぶ扉の一つに消えようとしている。とりあえず考えるのを後にして、タンジェスはそれを追う事にした。
 その扉だけが、その廊下の中で異彩を放っていた。他の扉が木製、恐らくは作り付けのものであるのに対し、それだけが金属製、見たところ鋼鉄製の特注のようだ。タンジェスはそこに鍵が掛けられているものと覚悟していたが、手に掛けてみるとそれはあっけなく開いた。
 その中には、タンジェスがこれまで見た事のない物が居並んでいた。何とも形容のつかないもの、強いて言えば巨大なランプといびつな箪笥、そしてそれらをつなぐ管の集合体が広い部屋の中を埋め尽くしている。その様子から見て、もとはいくつかあった部屋の壁を取り壊して一つの大きな広間にしたものらしかった。酒精のような湿布のような、普通ではありえない薬品の匂いが鼻につく。そして、その部屋のそこかしこで猫が毛を逆立てていた。彼の方だけを見つめて。
 気紛れと言われている猫がそこまで統一された動きを見せる、それがタンジェスの勘を刺激した。
「そうか、猫が居なくなっていた原因はこれか…」
 魔術の中には動物を操る術があるという。それが高等なものとなると、合成魔獣と呼ばれる全く新しい生命体を作る事になる。かつて大陸全ての国家を敵に回して戦った「魔王」と渾名された魔術師も、合成術をその専門としていた。そして今回、あの男もそのたぐいの術の使い手、恐らくはそれに関する魔術書を手に入れたものなのだろう。
 そしてその術を使うために、あの男が猫を集めた…。
「その通りだ。そのあたりで野良猫としてうろうろしているより、こうして人の役に立っている方が幸福というものだろう」
 その男が部屋の中心とおぼしき位置に立っていた。そこだけ部屋の他の部分と様子が違い、紙の積み重ねられた机や何か良く分からない突起、棒などが中から飛び出した箱などが配置されている。
「言葉は正確に使えよ。その辺の子供用の塾でも教えているだろう。人のためじゃなく、あんたのためだろうが。しかもその連中の方じゃ、人に仕える事なんて望んでいないぜ、きっと」
 タンジェスの両手が緩やかに動いた。左腕が守り、右腕が周囲全体を牽制する位置に入る。周りに居るのは猫でも、それを操っているのが魔術師である事を考えれば警戒を怠れない。
「違わんよ。そこいらの愚物どもなど、人とは言わんのだから。貴様もそうだ。そして、その子達は私のためならば喜んで死ぬだろう、先ほどのようにね」
 周囲の猫達がしなやかな体をたわませる。しかしタンジェスは相手から目を離そうとしなかった。
「哀れな奴。奴隷の奉仕を忠誠と考えずにはいられないのか。よっぽど対等な人間に相手にされていなかったんだろうな、あんた」
 この男に好意を持つ理由を一つも見出せない、タンジェスは情け容赦なく吐き棄てた。しかし魔術師は動じる様子もなく言い放つ。
「相手にしてもらいたくもないわ。私はこの子達と私たちだけの世界を作る、誰にも邪魔はさせない」
「…そんなことのために、貴様は人の命をもてあそんだというのか」
 タンジェスの声はかすれていた。剣の柄がきしむ。
「そんなこととは何だ。この国の王も何万という人間を殺して自分の国を建て、尊敬を集めている。彼と私と、どこが違う?」
「それ以上人間様の言葉を使うんじゃない。穢れる。這いつくばって爪を研いで、猫の言葉でもしゃべっていろ、死ぬまで」
 もとから理屈の通じる相手ではない。タンジェスは会話を打ち切った。ファルラスは嫌がるかもしれないが、力で決着をつけるしかないのだ。
 猫が一斉に襲いかかってきた。しかし所詮は猫、すばしっこくはあってももともと人間相手の戦闘に向いている訳ではない。剣を叩き込み、内臓めがけて蹴りつけ、小楯のへりで頭骸骨を砕く。多少引っかかれ、噛み付かれはしたがタンジェスの勝ちが動くはずもなかった。その間、敵の本体に対して注意を払っておく余裕もあった。魔術師はなぜか動こうとしない。
「ほらどうした、貴様の可愛い猫が殺されているんだぞ、かかってこないのか?」
 十数匹の猫の死骸を周囲に配置して後味の悪さを隠しながら言ってみる。しかしそれでも魔術師は動こうとしなかった。何か罠のようなものがある、そう直感して、タンジェスは前に進む事をためらっている。
「進まないのならそれでもいい、おまえが死ぬ事に変わりはない」
 不意に異様な笑みを浮かべた魔術師が、手元の箱についた棒のようなものに力を込めた。どこか遠くで鈍い音がしてその直後、タンジェスと魔術師のちょうど真ん中あたりに勢い良く鉄格子が降り、部屋を二分する。そのまま進んでいれば潰されていた所だ。しかし現状として直接の被害はない、かえって行動の選択に迷った彼の背後で、不意に鉄扉が閉まった。更に鉄扉と格子で区切られた区画の窓も閉まる。タンジェスは鉄扉に飛びついたが、しかしそれはびくともしなかった。
「間抜けな侵入者を出迎える用意くらいしておくものだよ。さて、丸焼きにでもしてやろうか。いかに魔術のかかった楯を持っていようと、部屋ごと焼かれたのでは防ぎようがあるまい」
 当座の安全を確保して、魔術師は強力な術を使う態勢に入った。その分やや時間を要する。タンジェスは鉄格子まで駆け寄って剣を叩き付けた。しかし格子の鉄材はあまりに太く、剣は空しく弾き返されてタンジェスの手を離れた。回転した切っ先が彼の頬をかすり、そして天井に突き刺さる。タンジェスの手には強すぎる手応えだけが残った。
 魔術師の口に嘲笑が浮かぶ。しかし術への集中を解かないためにしゃべろうとはしない。対するタンジェスも無言で、空いた右手を背中に回した。そこから木の棒のようなものを取り出し、鉄格子を通して相手に向ける。そして何も言わないまま、タンジェスはその仕掛けを動かした。


 何かがはじける音、それに風切音がかぶさった。間髪をおかずに鈍い音が響く。魔術師は初め何が起こったのか全く分からず、やがて自分の腹を呆然と見下ろした。太い金属の棒が突き刺さり、血が滲み出ている。
「う、う、あ…ぐああああああああああ!」
 不様な悲鳴をタンジェスは冷然と聞き流した。ファルラスが彼に渡した二つ目の武器、それは内蔵されたばねの力によって矢を撃ち出す、ある種の暗器だった。鉄格子に駆け寄ったのもこれの命中精度を高めるためで、剣を振るってみせたのは相手を油断させるための演技に過ぎない。相手はこちらの攻撃が全く届かないと思っている、その油断を突けば避けられる心配もないのだ。その有効性を認めて、タンジェスは敢えて卑怯な武器と承知でこれを受け取っていた。もともと魔術が卑怯の極致のようなものだから遠慮は要らない、と彼は思っている。単なる勘かもしれないが、これほどこの戦いにあった武器をファルラスが持ってきたのには驚かされた。
「うわ、うわ…」
 魔術師は下半身に力を入れる事が出来ずに座り込んだ。そして恐慌状態のまま刺さった矢を抜こうとする。しかし血で滑ってうまくいかない。
「下手に抜かない方がいいぞ。吹き出るからな、血が。内臓もついでに出るかもしれない」
 タンジェスは天井の剣を抜きながら熱のない口調で言った。かなり荒っぽい使い方をしたからこの剣は研ぎに出さなければいけない、とそんな事を考える。
「た、助けてくれ…」
 魔術師が情けない声を上げ、タンジェスは肩を竦めた。
「そんな事言われても、これじゃここから出られないからな。上げるって言うんなら考えるけど」
 二人の間には鉄格子が立ちはだかっている。多分人間一人の力ではどうにもならない。
「た、立てないんだ。動かし様がない」
 さっき鉄格子を動かすために使った棒は、彼のかなり上に有った。
「じゃあしょうがないな。どうやらそこの窓の強度はそんなでもなさそうだから、俺はそこから出て行くよ。二階だけど何とかならない事もないだろう。それじゃ、ごきげんよう」
 無感動に言ってから、タンジェスは窓に向けて歩き出した。そこに悲鳴がかぶさる。
「人でなし!」
「ふざけるな! あんな年端もいかない子供を殺した外道にそんな台詞を言う資格があるか。そこで不様に死んで行くがいい」
 振り返ったタンジェスの剣幕に押されて、魔術師にはもはや口を空しく開閉させる事しか出来なかった。見るのも汚らわしいと感じたタンジェスはもうそちらを見る事もせずに、窓を壊そうとした。
 しかし、そこで誰かが廊下を走る音がタンジェスの耳に飛び込んできた。
「まだ居るのか!」
 振り返って扉に剣を向ける。しかしそれが鉄製である事を思い出して、タンジェスは一瞬だけ気を抜いた。だが次の瞬間、その扉が切断されていた。異常な攻撃力だ。これほどの相手とまともに戦っても勝てないと直感したタンジェスは、不意打ちを掛けようと相手の姿を確認する前に空いた所へ剣を突き込んだ。
 そしてその直後、タンジェスは自分がどうなっているのかについての認識を失っていた。それを取り戻したのは床に叩き付けられた後である。三人目の男は全く油断というものを知らず、タンジェスの攻撃を弾き返してきたのだ。強力で、しかも正確な一撃が度重なる酷使によって強度を失っていたタンジェスの剣を折り、更にタンジェスの体勢が崩れた所に蹴りが入っていた。反応のしようも無い速さだった。
「ぐっ…」
 衝撃で息が詰まり、視界が急速に暗転する。立ち上がろうとしても身体が言う事を聞かない。見事に急所を蹴られていたのだ。それにどうせ立ち上がった所で、この技量の差では勝てるはずもない…。
「タンジェス、君か!」
「………?」
 少なからず動揺した声がして、そしてそれ以上の攻撃はなかった。
「済まない、大丈夫か?」
 代わりにその男はタンジェスを助け起こす。うっすらと目を開けると、そこには整った様子の若い男の顔があった。
「………ノーマ卿?」
 それは確かに近衛騎士、ノーマ卿の顔であった。王国屈指の剣豪、国王の最も信頼する臣下の一人であるが、その容姿は王都の娘達を騒がせるような優男である。独身で、定まった恋人が居るという話もない。完全武装の人間を縦に両断できるという伝説の魔剣の所有者としても知られている。
「済まない、つい勢いで相手も確かめないまま反撃してしまって…立てるか?」
 その力の割に人が良く、今も結構慌てている。タンジェスは弱々しく苦笑した。
「それはお互い様ですから。しかし立つのはきついかも…ここまで強烈なのを食らったのは初めてですよ。さすがは…ゲホッ…」
「申し訳ない…」
 小さくなりながら、ノーマはタンジェスに肩を貸して立たせた。
「それで、魔術師は?」
「あそこですよ」
 タンジェスの指の先で、さっきから局外におかれた男がうずくまっていた。もう何かをする体力、気力もないらしい。ノーマは溜め息をついた。
「助けに入る必要はなかったか。余計な世話だったようだな。重ね重ね悪い事をしたね」
「いえ、俺のような未熟者では御心配になるのも当然です」
 かくり、とタンジェスの頭が下がった。
「タンジェス?」
「結局、俺は…」
「あなたは良くやりましたよ。自分を責める理由なんてどこにもありません」
 ファルラスの声がした。戸口に立って、いつものように笑っている。タンジェスはそれ以上彼の顔をまともに見る事が出来なかった。
「済みません、俺…」
 ファルラスは笑い出した。
「あははははは。謝る人間が違いますよ。ほら、サーム」
「え?」
 はっとして顔を上げる。そこに、あの見知った少年が飛び込んできた。涙で顔をぐしゃぐしゃにして。
「タンジェスさん、ごめんなさい、ごめんなさい、うわーん…」
「え? え?」
 訳も分からないまま、タンジェスはその小さな頭をなでた。そしてファルラスの背後にエレーナと、そしてマリーズの姿を認める。マリーズは茶虎縞の猫を抱いていた。
 更にその後ろには、ノーマの部下であるらしい兵士、そして研鑚所の所員と思しき人間の姿も見える。
「サーム様はマリーズ様の家の近所で猫を探しておられたのです。わたくしどもに見つからないはずです、大人の目がいかない狭い所を集中的に探しておられたのですから。お騒がせして、まことに申し訳御座いません」
 エレーナが深々と頭を下げた。タンジェスの体中で、それまで無視され続けてきた疲労感が一気に爆発した。完全に脱力してへたりこむ。
「い、一体なんだったんだ。そいつも返そうにもとり返しがつかないとかいっていたのに…」
「一度魔術師の手が加えられた動物は、もう二度とその魔術師以外の言う事は聞かないそうだよ」
 ノーマは苦笑しながら、鉄格子を叩き切った。この人の剣ならば鉄板でも安々と切断できる。師匠である先代の使い手の時には、城門を一つ丸ごと破った事も有るそうだ。そうして魔術師を逮捕すべく入って行く。
「なんだそりゃ…」
 タンジェスはもう動けなかった。


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