死神を名乗る男
T 殺人犯
夜の街路に荒い息遣いが響く。押し殺そうとしてはいるのだが、しかし既に彼の肉体にはそんな努力が完全に無駄であるほど疲労が蓄積されている。視界は狭まり、聴覚は自分自身の鼓動で満たされている。喉どころか、口までからからだ。
「ハァ、ハァ…」
ずるり、と壁面に背中をこすりつけるようにして暗がりへ座り込む。水、水。とにかく水がほしい。少し先に飲料の自動販売機らしき明かりが見えるし、小銭の持ち合わせもある。
しかしうかうかとそんな明るい場所に出て行けないことは、彼自身が誰よりも承知していた。とにかく今は身を潜めて様子をうかがい、安全を確認するのが先決だ。何とか自分のつばを飲み込もうとするが、しかしそれはそうしようとした瞬間砂の塊にでも変わったかのように嚥下されることを拒絶する。
「くそっ、こ、こんな所じゃ、死なねえぞ。俺は、俺は…」
「やくざの鉄砲玉なんてしておいて、死ぬ覚悟ができていないのか?」
不思議そうに、もう一人の男がつぶやく。疲労した男は、愕然としていた。狭くなったその視界のわずかに外側に、いつの間にか自分の知らない人物が立っていたのだ。
飛び退ろうとして、自分が壁を背にしていることにようやく気づく。彼には既に、逃げ場はなかった。
「何だてめえは!」
いつものようにすごんだつもりが、かすれ声しか出ない。笑止であったはずだが、しかし相手は笑いもしなかった。
「死神だよ」
そこには自分自身に対する誇りも、あるいは逆にてらいもない。ただあくまで、単なる事実として告げている。そんな声だった。しかし元来繊細な人間関係が苦手で、まして追い詰められている男には、そんなことを察する力はなかった。
「ふざけ…」
言いさして、一つの可能性に気づく。とっさに彼は、懐から拳銃を取り出した。自分自身驚いたことに、まだそれだけの余力がある。
「トカレフか、悪くない。中国産のコピーでも、この国の警官の豆鉄砲よりはよほど人を殺せる」
立っている男は、まるで昨夜見たテレビドラマについて語るような簡単な口調で、本物の拳銃を講評する。間違いない、この男は自分と同様、あるいはそれ以上に「その筋」で生きてきた人間だ。
彼にとって人を殺す能力に乏しい銃火器など、おもちゃにしか過ぎないのだろう。「死神」というのは陳腐な、しかし態を率直にあらわした通り名であるらしい。
しかし、だ。油断するにもほどがある。拳銃を抜いた男は、迷わず引き金を引いた。安全装置など始めからついていない銃だし、もしあったとしても既に外していただろう。生身の人間を殺すことに対するためらいもない。何しろもう、その銃に込めれれていた弾丸は既に一部消費されており、それは今別の人間の体内に埋まっているか、貫通して背後あたりに落ちているはずなのだから。
拳銃の発射音は、実の所ドラマほど大きくはない。音を鳴らすことだけを目的に作られた爆竹などのほうが、よほど派手である。ただ、確実に手元で爆発が起きるし、また反動があるので、扱っている人間には重厚に響く。
「しかし、そんな手つきではこの至近距離でも人を殺せはしないよ」
そして「死神」は、その響きが止むなりつけ加えた。恐らく、抜いた瞬間にそこまで言うつもりだったのだろう。
「銃は、例えばトカレフなら、こう使う」
すっと彼の手が上がる。いつの間にか、そこには相手と全く同じ型の拳銃が握られていた。無骨で重い造り、いかにも威圧的なものであると、彼は向けられてようやく気がついた。
「分かるだろう? 私の目と照門の中間、そして照星が、直線を描いている。狙いを定めるとは、こういうことだ。つけ加えると、今は君の脳幹を狙っている。生命活動の中枢だから、ここを潰せば例えば大脳を損傷させるよりはるかに確実に人を殺せる。なまじ貫通力が強い分、こういう銃はきちんと急所を狙わなくては駄目だ」
語っている間中、銃口が全く動かない。自分も相手に対して銃を向けているのだが、しかし座り込んだ男は負けを悟った。何よりも気迫で負けた時点で、勝負は終わりである。
走った直後で体が火照っているはずなのに、しかしカタカタと歯が鳴り、震えが止まらない。
「たたた、助けてくれ。な、何でもするから」
「気持ちは分かる。しかし例え私がここで君を殺さなくとも、そのありさまでは追っ手から逃げ切れまい。リンチを受けた上でコンクリートの靴を履かされて、どこかの湾の底で魚と戯れることになるぞ。それよりはここで諦めたほうが賢明だ」
「い、いや、け、警察に逃げ込んでしまえば…」
「交番や所轄では、君が手を出した組織を今は抑えきれないぞ。機動隊が動けばどうにかなるかもしれないが、しかし間に合うまい」
銃撃した相手は、大規模な対立組織の中でも大物中の大物だった。だからこそ、大事を成し遂げた暁にはその手柄に報いるとの話に乗ったのだ。それで男になれる、そのときは、そう思っていた。
「何か言い残すような相手は…いないか。天涯孤独のようだし、君が唯一『兄貴』と心を許していたのは、君を鉄砲玉に仕立てた男だったな」
すっと、「死神」の目が細くなる。同情しているにしては、その瞳に輝きがない。なぜ彼がそこまで自分の身の上や、こうなったいきさつまで知っているのか。そんな疑問に行き当たるだけの精神力は、既に追い詰められた男にはなかった。
「う、う、う、うわあああああっ!」
はいずりながら逃げ出そうとする。すぐに追いつかれるとかそんなことは、一切頭にない。そして「死神」は、それを追おうとしなかった。
「だから、止めた方がいい」
彼がそうつぶやくのと、地面の男がライトバンのヘッドライトに照らされるのが、完全に同時だった。
「向こうは向こうで、大した腕ではないか」
あくまで淡々とした、それだけにどこか呆れたような呟きが、連続する破裂音にかき消される。それは、複数の銃声だった。
自分の肩口、首筋、そして脇腹さえ、そのわずかに先を銃弾が通過して行く。それを知っていて、いや、知っているからこそ、「死神」はその場を動かなかった。直撃する軌道のものは一つとしてない、だからこそ、動く必要がない。
そして彼が「大した腕ではない」と評した人間の放った銃弾は、しかし確かに標的を直撃していた。肩、腕、脇、太腿、そして腹の肉が弾ける。
「ああ、しかし致命傷だな」
無傷の男は、無造作に撃たれた男に近づいてそう見分した。その後その視線は、命中しなかった弾丸の跡へと動いている。その間に、ヘッドライトを浴びせたライトバンは走り去っていた。
「た…き…がふっ…」
瀕死の男には、既に意味を成す言葉を発する力がない。しかしそのかすかな唇の動きを、相手は見て取っていた。
「救急車を呼んでも無駄だ。もう助からない。それぞれ単体は致命傷でなくとも、これだけ大量だとショック死する」
「あぅ…あ…あ!」
解剖学的でさえある視線の先で、人体が、のた打ち回っていた。
「痛い、もう嫌だ、か。そうだな」
動脈から吹き出る血が、彼の服を濡らす。彼はその汚れなど全く意に介さず、しかし再び抜いた拳銃にしぶきがかかることを注意深く避けていた。その狙いは、先刻彼が言ったとおり、正確に標的の脳幹を狙っている。痙攣して激しく動き回るもののごく小さな部分を、そのつどあくまで正確に、だ。
「せめて安らかに」
引き金が引かれる。それに続くわずかな一瞬の間、すなわち苦痛から開放された喜びの表情のまま、男は死んだ。
両親の名さえ判然とせず、またその境遇を跳ね除けて大成するだけの強靭さもなく、流されるように暴力組織の下層構成員となり、そして使い捨ての駒として、彼は死んだ。それを知悉しているはずの、その目の前の男は、しかしかすかに笑みを浮かべていた。
そして彼は全く別の方向を見やる。水平よりもやや上、その路地の突き当りには、比較的大きな建物があった。無機的であることが人為的に想定されている、そんな不自然さを感じさせる設計だ。「死神」にとって人の営みとは、どうあがこうと所詮有機的なものでしかない。だから違和感がある。
それは、病院だった。なるほど、と「死神」は、その設計者に敬意を表することをためらわない。生命力に満ち溢れた外見の病院など、逆にその利用者にとって嫌味でしかないのだから。しかるべくなるよう努力して、それを実現させる、そんな人の営みが、彼は嫌いではない。
その窓の一つから、今しがた殺人が行われたばかりの場所へ視線が向けられている。いや、「釘付けになっている」と言った方が正確かもしれない。そして投げ返された視線に対して、その人物は慌てて身を潜めた。
「ああ、また仕事、増えちゃったな」
そうつぶやいて、「死神」は頭をかく。そしてその姿は、夜の闇の中へ溶けて消えた。
続く