死神を名乗る男

U 患者


 二度、扉が叩かれる。それはノックをするのに慣れた人間の動作であるが、しかしここでよく聞かれるものとも違う。いつもの叩き方は丁寧なようで、実の所有無を言わせない。
「どうぞ」
 しかし今回のそれは、相手が拒絶するなら引き下がる、そんな遠慮が感じられた。だからこそ、彼女は声をかけた。普段であれば、どうせ何も言わなくとも入ってくるのだから、黙っている。
「失礼します」
 それは男の声だった。彼女にとってそれは、久しぶりに聞くもののように思えた。
 男女平等とやらのおかげで、「看護婦」は「看護師」になった。国がそう言っているのだから間違いない。「国の言うことは間違っている」と反政府主義者が声高に叫ぶのは勝手、高尚な表現によれば「思想の自由」だが、しかし世の中の大部分は国の言い分で、少なくとも建前上回っている。
 ただ、実態が変わったとは、とても思えない。その資格を持っている人間の大半、少なくとも彼女が知っている限りでこの病院にいる「看護師」の全ては、女性である。実態より先に名前に手を加えることを、若い感性は偽善だと感じている。
 ともかくも病院にいる看護婦、もとい「看護師」が、遠慮せずにその部屋の扉を叩くことは間違いない。何しろそこは、病室なのだから。必要な配慮はともかく、一々心底遠慮などしていたら、何人患者が死ぬか分かったものではない。
「やっぱり来たのね」
 患者はつぶやいた。入ってきた男に聞こえるだけの大きさの声で、しかし窓の外へ視線をやったまま。
「やっぱりだなんて、人の顔を見もせずに何を言い出すんです?」
 男の苦笑が漏れる。そしてようやく、彼女は彼の顔を見た。しかしそれは相手の言葉に対する半ば反射的な反応であって、意図的に見ることを拒絶まではしなかったという心の働きの結果に過ぎない。
「でも、あたしはそんな声聞いたこともなかったわ。つまり初対面の人間がいきなり病室なんて訪ねてくる、そんな心当たりは、一つしかないもの」
 言いながら、今度は相手をじろじろと観察する。
 それにしてもこう、特徴のない男だった。中肉中背、髪と瞳は黒で、肌は肌色としか形容しようがない。顔の彫りは浅くもなく深くもなく、唇は厚くもなく薄くもなく、鼻は高からず低からず、目は大きからず小さからず、眉は太からず細からず、そんな人物だ。
 最大限好意的に解釈すれば、ハンサムだ。何しろ欠点が見当たらない。皺ばんだ様子もないから、若くもあるのだろう。しかしながら特徴が見当たらないものだから、視線を外した瞬間に記憶から消えてしまうだろう。そんな気がする。素顔でも銀行強盗ができそうだ。
 服装にもまた、特徴あるいは個性が見られない。地味でオーソドックスな造りのダークグレーのスーツ、同系色のネクタイ、ワイシャツは白、革靴は黒だ。そんな年齢の感じられない服装が顔立ちの比較的な若さを帳消しにして、中年めいた印象を与える。あるいはそのセンスからして実際、若作りなだけでそれなりに年を食っているのかもしれない。
「どんな一つがあるのか、聞かせていただいてよろしいですか」
 男には表情がない。いや、微笑を浮かべてはいるのだが、それが貼りついているかのように動かない。その感情の起伏を欠いた顔が、また彼の年齢を不分明に見せているようだ。
「昨日の夜あなた、人を殺してるわ。そこの路地で。しかも今とほとんど変わらない、ごく落ち着いた顔をして、ね」
「そこの路地、ですか」
 彼はゆっくりと歩く。手を背中に回して組んでおり、その左手には花束が握られていた。そしてそのまま、彼女があごで示した窓際に立つ。
 病院の敷地、患者のリハビリを目的として比較的広く作られた庭の先に、「そこの路地」が見えた。
「少し距離があります。昼間ならともかく、視力のいい人でも夜間に顔立ち、まして表情を判別するのは難しいでしょう」
 男はそう応じる。ごまかすでもなく、威圧するでもなく。ただ、事実だけを述べる。だからこそ、彼女は確信した。
「昨日そこであれだけ無造作に撃ち合いをした人間がいて、今ここに人殺しと言われて
全く動じない人間がいる。ただの偶然と言うには、ちょっとできすぎているんじゃない?」
「確かに、動作に動揺があるかどうかは、見て取れるでしょうね」
 それだけ、つまり相手の言葉を肯定するとも否定するともつかない内容だけを述べてから、彼は改めて彼女に向き直った。花束が、いつの間にか右手に移っている。
「で、そこに銃床を切ったショットガンとかが入っている訳だ」
 そうと確信していてなお、彼女はベッドから動かない。男は軽く、右手の花束をゆすった。
 誌的な表現をするならまるで魔法のように、即物的に言うなら手品のように、そこから黒々とした物体が姿を現す。それを隠すように配置されていた花々が、鮮やかに散ってゆく。現れたのは彼女が看破した通りのショットガン、散弾銃だった。舞い落ちるものの香りが、二人を包む。
「物知りですね」
 昨夜同様、その銃口は正確に相手の脳幹を狙っている。
 銃床、とは銃器の銃口とは反対側の、末端部分である。散弾銃、あるいはライフルなどの場合、そこには火器そのものとして必要な機構は組み入れられていないことが多い。基本的には、その武器を握ったり、あるいは固定するためだけに存在する部分である。だからそこを切ってしまっても、銃としての破壊力そのものには影響がない。そして切ることにより全長を短くでき、隠し持ったりするのには有利になる。
 しかし、武器を扱うことに関して真っ当な訓練を受けた人間であれば誰でも、固定の重要性を身に染みて知っている。それができなければ、命中がまず期待できないためだ。高い技量を持っている人間なら、一瞬で構わない。しかし狙いをつけるその一瞬には、確かに武器を固定して、狙いを定めなければならないのである。
 銃床を切ってしまうと、その固定が難しくなる。しかし今それを使っている男は、その程度のことを重々承知しているようだった。しかもそれでいて、狙いに狂いがない。
「入院してるとね。本を読んだり、テレビやビデオを見たり、そのくらいしかすることがなくて」
 入院患者は、まるで銃口が相手の耳ででもあるかのようにそこへ向けて語りかける。相手が半ば自分を見ていないことを承知で、男は全く狙いを外さないまま、器用に首を傾げて見せた。
「じゃあ、ここで私が引き金を引いたらどうなるかも、お分かりですね」
「大体は。距離が近すぎるから、散弾が飛び散る前に命中するんじゃないかな。頭にちょっと太目の穴ができることになると思う」
 一般的な散弾銃の弾丸は、カートリッジの中に多数の小さな鉛の玉が込められている。引き金が引かれるとカートリッジは破裂し、打ち出された多数の弾丸は銃口から、あるいはそこからある一定の距離ができた時点で正面方向へ細い漏斗状に拡散してゆくことになる。
 適正な距離で使用すれば、その多数の弾丸が標的の広い範囲を傷つける。銃の性能にもよるが、人体の一部を吹き飛ばすことも容易だ。また、相手が極めて高い生命力を有するグリズリーのような熊であっても、適切に使用すればその場で殺すことができる。つまり殺傷力は極めて高い。
 ただ、適正を越える距離の場合弾丸が広がりすぎてしまい、効果が薄く、あるいはなくなってしまう。ライフルなどと比較すれば、有効射程ははるかに短い。逆にそれ以下であればどうなるかは、今それを突きつけられている人間が言った通りだ。
「正解です」
 家庭教師が生徒を賞賛する、男の口調には、何故かそんな響きがあった。そしてその銃を下ろす。ふとした弾みでそれは姿を消し、後には少し花びらの落ちてしまった花束が残された。
「これ、生けていいですか? ちょうどそこの花瓶、少し大きめのようですし」
 既に花の生けてある花瓶を指差す。それは花束も、そして瓶の方も、かなり大ぶりのものだった。
「…いいけど。意外とまめなのね」
「貧乏性でして」
 花々の中から銃身がにょきりと顔を出す。そんな怪しげなオブジェだけは、仮にも部屋の主として勘弁して欲しいと彼女は思った。もしそんな真似をしてくれるのなら、即刻捨ててやる。あるいは花瓶ごと壊してやってもいい。
 そんな危惧をよそに、男はそれまであった花々と、自分が持ってきた花とをうまく組み合わせて新しい生け花を作って見せた。散弾銃はまたどこか別のところへしまい込んだらしく、姿が見えなかった。
「ああ、いいわ、それ。前の悪趣味なのよりはずっといい」
「それはどうも。でも、前にこれを生けた方、私の勘違いでなければ生け花の心得があるのではありませんか。悪くない趣味だと思いますが」
 無駄に華美ではなく、それこそ華やかなものとそうでないものと、うまく調和が取れていた。
「自分の教養をこれ見よがしにするって、悪趣味だと思わない?」
「まあ、そうかもしれませんね」
 腕を組んで、少し場所を変えながら、男は出来を確かめた。少なくとも彼には、それに関してこれ見よがしにするほどの自信はない。
「それで?」
「はい?」
 呼びかけられたので、向き直る。相手は少し、苛立っているようだった。表情そのものは平静を装っているが、しかし彼には分かる。
「殺さないの?」
「どうしてそう思うんです? 自殺願望があるのなら止めはしませんが、でもわざわざ人の手を汚させることもないでしょう。例えばここの窓、飛び降りるには十分な高さがありますよ」
 頭から落ちれば、頚骨を折るなどして死ねる。しかし最後の一瞬に、人間は悪あがきをするものだ。それを男は知っている。
「あなた、殺し屋でしょう?」
 今度はかすかにだが、しかし確かに苛立ちが表面化している。男は微妙な形に、口元をゆがめた。
「そうだとしても、それだけではあなたを殺さねばならない理由になりませんよ。私は別に、あなたを殺せなどと誰に頼まれてもいないのですから」
「目撃者を消さないの?」
「もしそのつもりだったとしても、その気が失せますよ。これまでの言動からして、あなたは警察を呼んで騒ぎ立てるようなタイプの人間ではないようです」
「それが演技で、あなたが立ち去るなり警察を呼んだりしたら?」
「来た警官を殺します。最悪の場合は、ね。職務に忠実な人には悪いですけれど、私は彼らより強いですから」
 こいつは本当に殺す。彼女はそう思った。何しろ既に、昨夜一人をその手で殺しているのだから。そして今まず間違いなく、ショットガンを持っている。日本の警官であれば拳銃を抜いたとしてもまず威嚇射撃からはじめるが、この男ならそんな相手に対して問答無用で致命傷になる部分にむけて発砲するに違いない。
「でも、警官って、いっぱいいるじゃない」
「『いっぱい』殺すでしょうね。もしそれが必要ならば」
 そう語るときにさえ、彼に感情の動きは見られなかった。他人が何人集まろうと、そして自分自身を含めたとしても、人の命など大したものではない。そう心から思っている、あるいは心と表情が完全に分離している、またはその両方を兼ね備えている、そんな人間でなければ、そのような言動には出られないはずだ。
「まあ、私だったらその前に逃げることを考えます。例えば合衆国なら、全米ライフル協会様々のおかげで銃弾も大量生産されていて安価に手に入りますが、この国ではあながちそうも行きません。何しろ高々銃弾ごときが、ある種のプレミア品と化していますのでね」
「貧乏性なのね」
 正面切ってのひどい一言に、さすがの男も眉をひそめた。
「先程自分で認めているとはいえ、真っ向からそういわれるとどうかと思いますね、やはり」
「人間って、そういうものよ。違うかな?」
「なるほど、人間なら、その通りですね」
 彼は何故か、曖昧に笑った。その間を外した調子に、彼女の苛立ちが再び頭をもたげてくる。
「そもそも何しに来たの、あんた」
 この男ならば、一々目撃者を消してゆく必要もない。それを知って、彼女は本来真っ先にすべき質問をようやくすることとなった。見ず知らずの人間が部屋に入ってきたのなら、まず何用か、それに付随して何者かと問い質すのが常識的な反応というものである。
「何というか別に、何となく」
 しかしまあ、相手は相手でかなりいい加減な応対だった。苛立ちから転化した怒りもあって、すかさず鋭いツッコミが入る。
「へえ。じゃあ、あんたは何となく花束にショットガンを仕込んで、面識もない人間の部屋に乗り込んで来るんだ」
「ええ。何しろあなたに言わせれば、私は人殺しですからね。ならばそもそも人倫を大きく外れています。それに比べれば、その程度の常識外れなどごく些細なことです。そうは思いませんか?」
 男は微笑を浮かべさえしている。露骨に顔をしかめて、彼女は黙り込んだ。その沈黙に耐えられなかったわけでもないだろうが、男が口を開いた。
「一貫してまるで何か、自分が殺されることを期待しているような口ぶりにも聞こえるのですけれどね」
 少しだけ、呆れたような響きがある。しかしそれは彼本来の感情の動きによるものではなく、計算の上でそう伝えようとしてしていることであると、相手は鋭敏な直観力で察していた。
「いけない? 人の命を簡単に弄んでいる人に偉そうに言われたくないんだけど」
 鋭いを通り越して刺々しいその調子に、男は目を伏せる。しかしそれもある程度は計算づくでのことではないかと、彼女は疑ってかかっていた。
「おっしゃるとおりです。少なくとも私に、別にいけないなどと言うつもりはありません。ただ、さっき言った『何となく』ですけれど、何となく気になるという意味なんですよね。好奇心、と言ってもいいでしょう」
「『好奇心は猫をも殺す』って、言わない?」
「そうですね。好奇心のおかげで死んだ猫とか、人とか、私にも心当たりがあります。でも私自身は、今ここにいますよ」
 それは自信どころか確信でさえない。彼自身にとっては物理法則と同様の、事実だった。その真偽はさておき、少なくとも自分にそれを揺るがす力がないと、彼女は悟らざるを得ない。「話せば分かる」は史上屈指の妄言だ。世の中には話して分からない人間などいくらでもいる。彼女はそう考える人間である。
「あたしね、実は不治の病なのよ。だからもう、早く楽になりたくて」
 他の場所ならともかく、病院では洒落にならないはずの発言を、しかし彼は笑い飛ばした。
「いや、しかし、滅茶苦茶血色が良いですよ。それに中々弁も立つ。大脳と心肺機能と、双方が相当な水準になければ、そこまではできません。人間の機能というものはしばらく使わないと至極簡単に鈍りますから、とても長らく臥せっている必要がある人のすることとは思えませんねえ」
 男はすとん、と、見舞い客用の椅子にかけた。別に勧めてなどいない、という反論を何故か完全に封じる、見事なタイミングである。
 彼女は遠慮なく、はき捨てた。
「どうせあたしが何の病気なのか、もう調べはついてるんでしょう? やな奴」
「いえ、そこまでは。ナースステーションに忍び込むとか、やろうとしてできないこともありませんが、しかし危険が大きすぎます。今分かっているのは、あなたの名前だけですよ」
「そう。じゃあ、自己紹介はしなくていいわね」
 病室の扉の脇には、「田中洋子」と記された名札がかかっている。見舞いに訪れるような人間なら、そこにいる人間の素性は当然知っているはずだ。実の所、その名札は万が一にも病院関係者が名前を間違えないためのものである。呼びかけを誤るならまだ良い方で、投薬を誤ったりすると笑えない事態になる。それを防ぐために必要な措置なのだ。
「ええ、河原さん」
 相変わらず簡単に、彼は応じた。明らかに間違っているはずのその呼びかけに、「田中」いや、「河原」は目を見張る。
「林檎、剥きましょうか」
 彼にとってそれは、心底どうでも良いことであるらしい。その興味は既に、部屋の隅に置かれた果物籠に移っていた。
「バナナの方が、あたしは好きだな」
 とりあえずいい加減なことを言ってみる。すると彼は、どこからともなく果物ナイフを取り出して、バナナの皮を剥き始めた。
 無論バナナの皮など、素手でもむける。彼の手つきは、それを百も承知であることを証明していた。するすると切り込みを入れてから、切っ先で先端部分をとんと押してやる。それで、切込みから分断された皮が見事にめくれ上がった。とてつもない器用さだ。
「スライスしましょうか」
「ううん。いや、いいや。バナナクレープとかも嫌いじゃないけど、今はそのまま食べたい気分だわ」
「そうですか。はい、どうぞ」
「ありがと」
 これまでの態度が良いとはとても言えないが、しかし全く躾がなっていないのでもない。多少形式的ではあったが、彼女は礼を述べた。
「どういたしまして」
 こちらはきちんとした挨拶を返す。そしてバナナを食べ始めた彼女から目をそらして、再び窓の外を眺めやった。人がものを食べているところをじろじろと見るものではない。そう思っているのだろう。
「そんなに生きていることが、つまらないですか。別に死んでも、面白いことなどありはしませんよ」
 彼女は少しの間、答えない。しかしそれは、口に入れたものを飲み込むまでという、至極単純な理由からだった。
「でも飽きちゃった」
 それだけ言ってまた、もそもそとバナナを食べる。その不真面目ともいえる態度に、しかし彼は腹を立てはしなかった。
「ふむ。そんなことを言ったら親しい人が悲しみますよ、なんて言っても無駄でしょうね。身近な人があなたを愛しているかどうか以前に、あなたにとって愛すべき人などどこにもいないようです」
「ふーん」
 食べながらでも、その程度の相槌は打てる。鼻で笑う、そんな否定だった。
「殺し屋なのに、いや、殺し屋だから、ロマンチストなのかな? そんな真面目に、愛を語るだなんてさ」
 そして彼は、鼻で笑い返した。
「外れです。そもそも私は殺し屋ではありません。あなたの勝手な思い込みですよ」
 挑発だ。乗ってはいけない。彼女の理性はそう警告を発していたが、事実としてその口は簡単に開かれていた。かっとなりやすく、根気がない。分かっていながら止められない、性格である。
「じゃあ何よ。ただのサラリーマンが拳銃やらショットガンやら持ってる訳ないじゃない。少なくともあたしは、暴力団とかそういう業界の人間が『自分は殺し屋じゃない』なんていう言い訳、認めないからね」
「私、少なくとも『その筋』に見えるほど人相が悪くないとは思うんですが」
 少し傷ついたようなその顔には、確かにあまり危険そうな雰囲気、あるいは迫力があるとはいえない。話しぶりも、ここへ来てから一貫して穏やかだ。
「あなたは少なくとも、強がっているだけのチンピラをやるほど馬鹿じゃないからよ。あからさまな危険よりは隠された危険のほうがずっと怖い、その程度のことが理解できる頭はあるんでしょう?」
「ありますけれど、別に私は作ってこうしてはいませんよ。ただの地です」
「どうだか。じゃああなた、何をやって食べているのよ。平日の昼真っから、こんな所で時間を潰してて。とてもじゃないけどまともな職業についているとは思えないわ」
 男はそれに対して、真面目腐ってうなずいた。
「私は『死神』です。人間ではないのでご飯を食べたり、また、そのために働いたりする必要がありません」
「はあ?」
 正面から、力一杯、彼女はまだ日本語にさえなっていないような一言で、相手の発言の全てを否定した。冗談なのかもしれないが、しかしとてもではないが笑えるようなレベルに達していない。そして愛想笑いをする義理も、持ち合わせていなかった。
「そんな顔をされても、困ります。それが事実ですのでね」
 そうは言うものの、その顔は暴力団員と同一視されたときほど困っていないように見える。彼女はため息をついて、大きく首を振った。
「この病院、精神科もあるわよ。とりあえず行ってみたら?」
「あいにくと、日本人でもありませんのでね。健康保険証とか、持ってません」
 彼が「死神」かどうかの話はともかく、少なくともまともに国の政策の恩恵を受けるような人間ではまずありえない。それは、彼女も認めざるを得ないところだった。
「ええと、何て言ったっけ。保険利かなくとも、別に医者にかかれないわけじゃないじゃない。高くつくけどね」
「『自由診療』でしょう?」
 きちんと然るべき保険料を納めている人間が国の認める治療を受けるのならば、健康保険証を提示することによって治療費の多くの部分を国に負担してもらえる。それがごく一般的な、医者と患者のあり方である。
 そうでない場合、例えば美容整形などの国が補助をすべき医療と認めていないものや、あるいは保険料を払っていなくて補助の対象と認められない人間が受ける医療については、医者が受け取る代金の全額が患者の負担となる。それが自称「死神」の言う、「自由診療」である。
「そうそう、それそれ。変なこと言う割りに、細かいことには詳しいじゃない」
「私がそれに該当するかどうかはともかく、あなたの言う『変なことを言う』ような人が、非常に細かいことに関して詳しいのは珍しくありませんよ。ああいう人は注意力の方向性が多くの人と違いますが、その分厚い部分に関してはことさら厚いこともありますのでね」
 男、あるいは「死神」は、あくまで冷静に、かつ理路整然と返す。それで彼女は、これ以上の追及が無益であると悟らざるを得なかった。自分より相手の方が、舌戦に関しては一枚上手だ。
 世間一般で言われている倫理的なものはともかく、これまで彼女は精神あるいは知的に障害のある人を馬鹿にするような、そして相手がそれに当てはまるような話し方をしてきた。そのあげくにその相手に言い負けたとあっては、倫理でも論理でも劣る、本当にただの愚か者でしかない。少なくともそれが分からないほどの馬鹿では、ないつもりだった。
 だから投げやりに首を振る。
「いいわよ、もう、死神でも何でも。でも、それじゃ呼びにくいわ」
「始太一(はじめたいち)。姓は女偏に台形の台、名は太い漢数字の一、と書きます」
「なんだ、名前あるじゃない」
 こくこくと相手がうなずくのを見計らってから、彼女はつけ加えた。
「それも何だか、偽名っぽいけどね。有名人の名前を適当にくっつけたみたい」
 今度もまた、彼は傷ついたような顔をした。
「『ハジメ』は、元素の元じゃないんですけどね。『タイチ』はまあ確かに、某キーボードの方と一緒ですけれど、でもあの人だって別に、大本かというとそうでもありません」
「そうなの?」
「多分。夜空の星の中で唯一動かず、他の星全てはそれを中心として回ってゆく。そんな北極星を天の主として神格化したものを、『太一神』(たいいつしん)と言います。最近有名になった陰陽道で、中心として重んじられている神ですね」
「何だ、やっぱり自称神様じゃない」
 彼女が大げさに肩をすくめる。男、あるいはそれらしきものも、軽く肩をすくめ返した。
「少なくとも名前である限り、多少あるいはかなり大げさな意味を持たせることも許されるものですよ」
「確かにとてつもない不細工女が美しいと書いて何とか『み』って、名前だったりするものね」
「それに関してはノーコメントと言うことで」
 表面上素で流してから、男はさらにつけ加えた。
「少なくとも私の名前は太郎であり一郎、つまり最初の人間であることを示す、それだけの意味ですよ」
「へえ、意外と名家なんだ。長男とか気にしてたりして」
 名前から判断して、彼の生家が生まれの順を意識していると察する。若いのにそんなセンスを有している時点で、彼女自身そのような世界に生きている人間だという証拠だと、始には分かっていた。
「それはもう。何しろ人類発祥の時点からの名家ですよ」
 それを承知で、しらばっくれる。少し考えてから、彼女は口をへの字に曲げた。
「それはあたしも同じだわ」
 途中の紆余曲折全てを抜かして考えれば、今生きている人間の全てが、はるか昔の類人猿に祖先をさかのぼることができる。逆にそうでなければ、人間という生物ではありえない。家柄というものを重んじることがいかに下らないことであるか、それを彼はごく自然に悟っているようだった。
「ともかく、さっきの言葉をそっくりそのまま返すけど、そんな名家に生まれて、今は家を継ぎもせずに普通に働いてないんじゃあ、親御さんずいぶん心配してるんじゃない?」
「いえ。両親はもう死んでいますよ、かなり前にね」
「あ…ごめん」
 それが恐らく、全く無防備な彼女本来の表情だった。悪いことを聞いてしまったと、心からそう感じている。相手がまだ若い、どうサバを読んで見積もっても三十歳まではいっていないようなので、当然親も生きているものだとばかり思っていたのだ。
 男は笑って、首を振る。
「いえ、お気になさらず。私の両親はそれはもう、至極大雑把な性格でしたから。それに後のことは弟たち妹たちがずいぶんうまくやってくれたようで、家の心配をする必要もありません」
「そう。なら、まあ、いいけど」
「ええ。私もさすがに大人ですのでね。一々気にしてません。それより、あなたのお名前をうかがってよろしいでしょうか。『田中洋子さん』がいいとおっしゃるのなら、それでも構いませんがね」
「どうせ知ってるんでしょ。河原何なのか」
 それまでどこか大人びて、銃を持っているはずの人物と対等に渡り合おうとしていた彼女が、むくれている。相手は小さく、首を振った。
「あなたがどう名乗りたいか、それが大切なんです。少なくとも私にとっては」
「雪。空から降ってくる氷の結晶の、雪。雹や霙とは一味違うわ。『河原』のほうは、あたしにとってはどうでもいい」
 政界の風雲児などと称され、比較的若手ながらも次期首相候補との呼び声まである与党の有力代議士、その姓が河原だった。実父が実業家から政治家に転身した人物で、それを相続した非常に強力な資金力が何よりの強みである。また独身で容姿が良いのが売りの一つで、女性有権者の支持が特に厚い。それは無論芸能人などと比べてしまうと見劣りはするが、少なくとも脂ぎっているあるいは老いさらばえた姿を隠しもせずにテレビにさらすような、そんな旧態依然とした政治家像とは明らかに一線を画している。
 しかし実は内縁の妻があり、その女性との間に一女をもうけていたことがこのほど明らかになった。そんな報道がなされていることを、始は知っていた。
「ほう。シンプルでいながら、誌的ですね。なるほど、気に入るのも分かります」
「ふふ。あなたもしかして、自分の名前、気に入ってないでしょ」
「いえ…。いや、ええと、少なくとも自分では、まんざらでもないつもりなのですけれどね」
「でも、子供の頃とか、変な名前だとか言っていじめられなかった?」
「友達、いませんでしたから」
 さらっと、自分自身に対して、ひどいことを言う。これにはさすがに、雪も閉口した。
「そういうこと平気で言うから、友達できないんじゃない? というか今も、友達いなかったりしない?」
「友達は作りません。何かっていうときに、別れるのが辛くなるだけですから」
 彼は少しだけ、本当に少しだけ、悲しそうに笑った。それが強烈に癇に障って、雪がはき捨てる。
「それでよく生きてられるわね」
「言いましたよね。私はものを食べる必要もない、『死神』だって。だから生きていられるかどうかの話は、されても困ります」
「その話はもういい!」
 叫びも、しかし始めにとって驚くべき反応ではなかったようだ。
「何をそんなに怒っているんです? 死さえ怖れない、修行僧でもそう簡単にたどり着けないそんな境地に達しているあなたが、何をそんなに感情を動かされることがあるというのです」
 むしろまず相手の長所を認め、立場を作ってやった上であくまで優しく、彼は問いかける。何故だかそれこそが、何より雪の癪に障った。
「うるさいっ!」
 とりあえず手近にあったバナナの皮を投げつける。もっともそれは実の部分が完全に食べつくされてはおらず、幾分かは残っていたため、皮付きの実と形容した方が正確かもしれない。ともかく、物体として錘が入っているに近い状態だったので、投げつけた本人が思っていた以上の勢いがつく。
 ゆらり、と、むしろゆっくりとした様子で「それ」は動いた。先程まで「それ」がいた所を、皮付きのバナナが空しく通過してゆく。そしてその果実は、結局窓ガラスに弾かれて落ちた。
「もったいないおばけには、私もお目にかかったことがありませんけれどね」
 始が小さく首を振る。彼に対して投げつけられたはずのものを、しかし彼自身は何もなかったように眺め下ろしていた。その姿はあくまで人間そのものだ。先程の一瞬に直撃軌道から消えた「それ」とは、少なくとも同じでないように見える。
「必要ならば、また来ます」
 今何か話をしようとしても、全くの無益だ。それを承知しているらしく、始は病床を離れて歩き出した。その後頭部へむけて、厳しい声が浴びせられる。物理力の行使ならともかく、彼は言葉による攻撃に対してはかなり丁寧に反応する。それを把握した上での、行動だった。
「二度と来るな!」
「実行するかどうかはともかく、おっしゃることは理解しましたよ」
 顔をみせずにただ手だけを振って、始は病室から姿を消した。
 そしてそれと入れ違いで、看護婦が入ってくる。それは雪を担当している、彼女にとっては見慣れた顔だった。正確な年齢はともかく、中年だと雪は思っている。看護婦は入ってくるなり、まず病室を見渡した。
「あら、何だかにぎやかなようでしたが」
「え…?」
 タイミングからして、その看護婦はすれ違いざまに始の顔を見ているはずだ。あるいはそうでなくとも、個室である雪の病室から出てゆく男の姿を見ていなければおかしい。しかしその口ぶりは明らかに、先程までそこにもう一人いたとは、気がついていないものだった。
「ん、あ、いや、多分別の部屋じゃないですか。あたしは何も」
「そうですか。それではいつもの…」
 そして看護婦が言う通り、いつもの検温等が行われる。雪はそれをぼんやりと眺めていた。

続く


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