死神を名乗る男

Y 母親


 しゅう…こぅ…しゅう…こぅ…しゅう…こぅ…しゅう…こぅ…。生命維持装置の発する、人間的を装った音だけが聞こえてくる。
「何だ、生きてるじゃない。とりあえずは、だけどね」
 雪は苦笑しながら肩をすくめた。そのつもりだったが、実際どうなっているかも、良く分からない。少なくとも、生命維持装置の主要な部分をなす人工呼吸装置を取り付けられている時点で、表情、特に口元によるコミュニケーションは不可能になっているはずだ。口に出したつもりの声も、常識では相手に伝わってなどいない。それは頭では、分かっている。
 しかし始はただ、黙ってうなずいた。その姿に、負傷したらしい様子はみじんもない。あの乱射の真正面に立っていたはずなのに、だ。もし万が一とてつもない幸運によって負傷を免れていたとしても、それならばその後ろにかばわれていた雪も、致命傷は負っていないはずである。
 しかし現に傷ついたのは、雪だけだった。そしてまた、彼は親族でも、まして医師や看護師でもないにもかかわらず、集中治療室にいるはずの彼女の傍らに立っている。だから彼女は、認めざるを得ない。
「実際何だかは良く分からないけれど、少なくともあなた、普通の人間じゃあなかった訳だ」
 彼は反応しない。そもそも彼自身としては、一貫して「死神」だと言っているのだから、今更何か言う必要を感じていないのだろう。
「分かってたのならさ、教えてくれたっていいのに。あたしはこの前そこで殺されたヤクザの親分の敵討ちの巻き添えになって、死ぬんだって。そうしたら、こんな病院さっさと逃げ出したのに」
 先に生命維持装置の故障、とやらで暴力団幹部が死んだ。その真相を、雪は悟っていた。悟らざるを得なかった、というべきかも知れない。手を下したのは、彼女の名目上の主治医だ。事情の細部は分からないが、適当な診断をして健康体の人間を入院させるくらいだから、危険な方面の人間ともつながりがあった、あるいは付け込まれる隙があったのだろう。
 苦笑混じりに言う。少なくともそのつもりでいると、相手は答えない。ただ表情を消して、うなずいている。雪はそれを、笑った。
「言い訳、しないんだね」
「そうしても意味がありませんから」
 彼はようやく、答えた。よそを、つまり窓のないこの部屋では、あらぬ方を眺めながら。
「そうね。下らない冗談言ってごめん。時間もないのにさ」
「時間のことなら、気にしなくていいですよ。私はそれに、煩わされませんから」
「ふうん」
 どうもやはり、先程までの雪の常識によって測れるような「もの」ではないらしい。だから彼女は、もう一度、笑った。
「ありがとね。最期に、話し相手になってくれて」
 さいご、と言えば普通、「最後」、と書く。それは純粋に、「一番後」という意味だ。しかしこの時のそれが正確には「最後」ではなく「最期」であることを、始はきちんと理解していた。何しろ彼が立ち会ったのは、これまでほとんどすべて後者であったから。
 それは生命の「一番後」、つまりは終わりだ。
「まさか。私はそんな、優しい『人間』じゃあ、ありませんよ」
 にやりと、彼は笑う。今度は雪が淡々と、笑い返した。
「なに? あなた『死神』っていう、神様の端くれじゃないの? それならもう、明らかに『人間』じゃあ、ないじゃない」
「ああ、それは複数の意味で、示唆的なおっしゃりようですね」
 彼は相変わらずの、彼だった。淡々と、言った内容を受け止めてくれる。だから思わず、雪はどこか安心して、うなずいてしまう。
「確かに死神である以上、私は神々の端くれです。キリスト教のような一神教の世界観においては絶対神の使いに相当する存在でしょうが、少なくともこの日本においてはその話はせずとも良いでしょう。ただ少なくとも、一神教であれ多神教であれ、どんな世界観でも、神々あるいは神というものは、不死あるいはそれに近い存在なのです。少なくともあっけない死を迎える脆弱な人間とは、明らかに一線を画しています」
「ああ、なるほど、分かったわ。要するに『死ぬ』っていうことを当たり前のようにする時点で、それは人間とかその他獣とか、神様よりはずっと下等な存在だっていう証拠なのね。そしてそんな現象に関わることを専門にしている時点で、『死神』も、大したものじゃない。神様の基準で考えれば、つまりそういうことでしょ」
「半分は正解、とでも言えばよいのでしょうかね」
 始は少し、苦笑した。
「上下関係というのは、つまり人間的な観念なんですよ。接する相手が違うということは、単に役割が違うに過ぎません。人間関係で例えるなら、別々の職場で働いている以上、お互いに指揮命令の関係はない。それだけのことです。ただ、少なくとも最も人に接するというその面において、私は最も人に近いのです」
「ふうん」
 投げやりにうなずく、少なくともそのつもりの相手に、始は真摯に告げた。
「言いそびれていましたね。どんな意味を見つけて、私が大人になったのか」
 少しだけ不思議そうにして、雪は続きを促す。始はうなずいた。
「あれは、私が生まれて始めて自分はもう助からないと思った、その瞬間でした。まあ、実の所それまでも危ない場面はいくらでもあったのですが、それを真剣に反省しようとしたことはありませんでした。何しろ当時の私は知識も教養も、それを活かす知恵も持ち合わせていませんでしたからね。おかげでその瞬間ではもう、まず間違いなく手遅れでしたよ」
 それは矛盾しているはずだ。彼は自分を、端くれではあるが少なくとも神々の一員である、と言っている。しかし生まれてみたり死にかけてみたり、それは明らかに人間やあるいはその他動物のすることである。しかし少なくとも、彼の観念においてそれは誤った考えであるらしい。
 話の流れからそれを理解しているので、雪はただ続きを促した。始はその彼女の意志を汲んで、そのまま続ける。
「周りには本当に誰も、いませんでした。痛くて、怖くて、それから不安で…。だからそのとき決めたんです。もしできるならそんな人の力になろう、と。そのとき初めて、私は大人になりました」
 ああ、何だ。もしかしたら自分は本質的にはこの男よりも強いのかもしれない。繊細でも優しくもないものを「強い」と形容できるなら、の話だが。雪はふと、そう思った。
「さて、私の仕事ももう終わりです。それでは、失礼しますよ」
 始の姿が消える。それは立ち去ったのでもかがみこんだのでもない。文字通り、病室の光景に溶けるように、消えてしまった。
「さよなら死神さん」
 そこに彼がいないことも、そして自分に言葉を発する能力がないかもしれないことも承知で、少しだけ笑って告げる。それは彼が死神であること、そして自分が死ぬこと、その双方を認めた、認識だった。
 恐らく自分の意識も、あのようにして溶けてゆくのだろう。そう思う。
「雪!」
 しかしそれを、空気を引き裂くような悲鳴が中断させた。
「誰ようるさいなあ、人がせっかくゆっくり休もうとしてるのに」
 眠りにつくその心地よい一瞬を邪魔された。ただそんな感じがして、雪は眉をひそめた。無視して寝ようとも思ったのだが、どうやら相手はそれをさせてくれないらしい。
「雪、雪!」
 繰り返し、しかも大きな声で名前を呼ばれる。仕方なく、雪は目を開けた。
「ん、ママ」
 見慣れた中年女性の顔。自分では分からないのだが、似ていると言われることが多い。それは紛れもない、雪自身の母親だった。
 そして彼女を「ママ」と呼んでしまってから、認識が追いついてくる。ここへ入院する少し前、雪の姓が「河原」に変わってから、彼女をそう呼んだことはなかった。以前の、つまり母親と同じ姓であった頃には、そう呼ぶことに何の疑問も感じていなかったのに。
「雪!」
 母親が、横たわる娘の体にしがみつく。雪は軽く、鼻で笑った。
「何しに、来たのよ」
「何しにじゃないわよ! 急に胸騒ぎがして来てみたら、こんな、こんな…」
 後はもう、言葉にならない。ただ、泣き崩れている。雪はその頭を、そっとなでようとした。昔はほかならぬ母親が、良くそうしてくれたように。
 しかし駄目だ。どうやら彼女自身の腕には、そんな力が残されていないらしい。それもそもそも、腕がまともな状態で残っていれば、の話だが。
「ただの胸騒ぎで、マスコミのさらし者になりに来たって訳? 馬鹿じゃない?」
 最近「大人の事情」とやらが分かるようになってからは、本当に、馬鹿だと思っていた。事実上の夫が政治家として人気を得る、それだけのために昔で言うところの「日陰の身」で生きてきた女性である。しかし今言っている「馬鹿」は、意味が違う。
「わ、私はあなたの母親よ! こんなことを言う資格はないかもしれないけれど、でも、でも…」
「分かってるわよ、ママ。あたしはママの娘よ」
 体は動かない。だから精一杯、あの頃自分が聞いていた声を真似てみた。
「雪…?」
「来てくれたんだね、ありがと」
 どうしてこう、自分は素直になれるのだろう。それが誰よりも、自分自身にとって不思議だった。
「あぁ…」
 ぼろぼろと、涙が落ちかかってくる。雪はしばらく、それを受け止め続けていた。
「ごめん、ごめんね、雪。もうちょっと早く来れていたら、あなたを守れたかもしれないのに」
 そしてようやく話せるようになると、彼女はごめんと繰り返す。首を振る自信がなかったので、雪は口を開いた。
「やあねえ。現場を見てないから、そんなことが言えるのよ。あの場にママがいたら、二人そろって死んじゃってたわ。何しろ部屋中滅茶苦茶だったんだから」
 少し、息をつく。そうしないと、話せない。
「これで良かったのよ。虫の知らせって奴は、その辺きっと考えてるわ」
 あの男の腹のうちを見せない微笑が目に浮かぶ。最初から母親を呼ぶつもりで、そして彼女が来ることを分かっていて、しかし黙っていたのだろう。本当に、しらばっくれるのがうまい男だ。
「何がいいものですか! 親より先に逝くなんて…」
「そうね。それはあたしだって、全部に納得が行っている訳じゃない。でも、でもね、ママ。あたし、思うことにしたの。これでもあたしが生きてきたこと自体は、無駄じゃないって」
 駄目だ。思考が飛躍し始めている。元来頭の回転の速い人間だけに、雪はそれを悟らざるを得なかった。しかし構わず、続ける。
「どうして無駄じゃないかって今すぐに考えられるほど頭も良くないけど、でも、でもね…少なくとも親を巻き込んで死ぬなんてことはしない人間には、なった、つもり、だから…ねえ、ママ…」
 すっと、涙が流れる。しかしそれは、悲しみの表れでも、そして悔し涙でも、ないつもりだ。
「雪、雪!」
「ありが…とう」
 それは、さっきも同じ相手に言った。また、別の存在に対しても言った。しかし何度言っても良い台詞だと、このとき雪は思った。

 始はそれを、見守っていた。
「さようなら、もう会うことも、ないでしょう」
 そっとそれだけつぶやくと、その場を後にするのだった。

「死神」を名乗る男 了


前へ 小説の棚へ