死神を名乗る男

X 医師


 そして始がまた姿を現したのは、翌朝だった。
「もう来ないかと思った」
 読んでいた新聞を畳みながら、雪が目を合わせずに言う。始は軽く肩をすくめた。
「どうしてですか?」
「だって、人に顔を見られたくないんでしょ」
「それはまあ、そうですが」
 今始には、自分から何か言おうとするつもりがないようだ。雪が何か言わなければ、会話が途切れてしまう。少し間があってから、雪は口を開いた。
「あのおばあちゃん、死んじゃった」
「ええ、知っています」
「そうね。今思い返してみれば、分かっているような口ぶりだった」
 病院関係者を呼んで来いと言っていた。相手がただ眠り込んだだけだと思っていたら、そのような話し方はしなかったかも知れない。
「後ね、この前そこで起きた事件の記事を読んでみたんだけど」
 雪の手元にある新聞は、今日の日付ではない。発行日にはロビーに置かれていたのだが、既に片付けられて古紙回収処理される予定だった。それをかなり強引に引っ張り出してきたのだ。
「何か」
「死因は出血性のショック死だって。頭を撃ち抜かれたはずなのに、おかしいよね」
「人間の死因というものは、最終的には心停止だけですよ。まあ、この国の場合臓器移植が行われる場合だけは脳死も加わりますが」
 その表情に変化はない。この程度では、あるいは何を持ってしてもこの男の精神の壁を打ち破ることができない。それを雪も覚悟していた。
「それからね、誰もあなたの姿を見ていないのよ。昨日はかなり長い間、あそこにいたはずなのにね」
「そうですか」
「見たのはあたしと、あのおばあちゃんと、それからあそこで死んだ人だけ。後は、今になったらもう確かめようもないけれど、機械の故障とやらで死んだやくざの親分も、見たんじゃないかとあたしは思ってる」
「例え私がその場にいたとしても、その人にはもう何かを見る力はなかったと思いますよ」
 始は徹底してしらばっくれる。雪はため息をついた。半ばは演技であるが。
「何だか本物の『死神』みたいね。死ぬ人間が分かって、そしてその人間にしか見えない」
「私は始めからそう言っていますよ。しかし自分で言うのもなんですが、嘘をついたりすることは珍しくありません。現に今も、あなたは私がしらばっくれていると思っています」
「やな奴…」
 露骨に顔をしかめる。それを振り払うべく、もう一度ため息をついた。繰り返しそんなことをするのは柄にもないと思うのだが、仕方がない。
 そして呼吸を落ち着けてから、まるで休日の予定を尋ねでもする軽い口調で、雪は尋ねた。
「ねえ、あたし、死ぬの?」
「聞いてどうするんです、そんなこと。あなたが私を信用していない以上、私が何を言っても無意味ですよ」
 始の口調にも重みはない。特に予定がない、ただそれだけを伝えているかのようだ。
「そうね。嘘をついているかどうかを挙動で判断する、なんてこともできなさそうだし」
「ええ。それに、そもそもそう気にすることでもないでしょう。あなたは死そのものを怖れてはいない。どちらでもいいと思っていて、敢えて現状を変える気がない。それだけのことです」
「そうだけど、人からそうやって言われるのは、ムカつく」
「確かに。あなたは向こう気が強そうですからね」
 始はくすくすと笑う。そこへ向けて、雪は枕を投げつけた。狙いは悪くなかったが、しかし相手が悪い。始にとってそんな物を避けるなど、なんでもない作業だった。それに構わず、雪が怒鳴る。
「あー、ほんとに、もう! あらゆることがばかばかしくなってきた! 『あたしって結局何のために生きてきたんだろう』とか、古臭いことを昨日の晩一瞬でも本気で考えちゃった自分自身を含めて! 大体死神だなんて、そんなことあるわけないじゃない」
 かなりの部分、八つ当たりである。それは本人も分かっている。しかしだからこそ、やる。往々にして、ある程度正当な攻撃よりも理不尽な暴力の方が、ストレス解消にはなるものだ。
「それは若いときにはほとんど誰もが経験する悩みですよ。まあ、ひと昔前と違って近頃はそれをストレートに表現することが好まれていないようですが」
 そして始はというと、ごく真っ当に応対する。本気で黙らせる意志と力の差を兼ね備えていない限り、暴力に暴力で対抗してもエスカレートするだけだと、彼は良く承知していた。
「やあねえ、年寄りは。昔を懐かしんじゃってさ」
 言葉の暴力は止まらない。始は苦笑して首を振った。
「別に。他の人はともかく、私は昔が良かったなどとは思っていませんよ。本音で語るなどと言って空っぽの中身をさらけ出すのが、しばしば関の山だったりしますしね。それにもう少しさかのぼれば、そもそも悩みを打ち明けること自体が女々しいなどと、性差別意識むき出しの非難を受けた時代もありますよ」
 あくまで理知的に返す。そこですかさず、雪は理知的な面で切り返しを行った。頭が切れる分、たちが悪いと言えばたちが悪い。
「あなたはどうなの? 悩んだりしたのかな、若い頃に」
「いえ、全く」
 ことこの話題に関して、始は正直だった。確かに今までの言動からして、少なくともそのような面でのデリカシーがあるとは考えにくい。
「はあ?」
 鼻で笑う彼女に対して、始はもう一度苦笑しながら首を振った。
「その頃は辛うじて食べるのに精一杯で、他のことを考える余裕もありませんでした。強いて言うなら生きることそのものが自己目的だった、つまりその他の獣と変わりはしない暮らしでしたよ」
 さすがの雪にもとっさに言葉がない。デリカシーのなさと同様、あるいは根源を同じくするところで、まともな育ちではあるまいとも考えてはいた。しかしそこまでひどいとなると、口の開きようがなかった。
 少なくとも雪は、今まで一度として食べるのに困ったことはない。だから単なる空腹とは違う「餓え」は、知らないのだ。想像で推し量ろうとしても、その苦痛は限界を大きく超えてしまっている。結局少なくともその面において、自分は恵まれた人間なのだ。それを自覚せざるを得ない。
 そして彼女は、少しの間むっつりと黙り込んだ。それが彼女なりの、根の部分での優しさの表れであると、始には分かる。恵まれていることを当然だと思って、あるいはそれと気がつくだけの想像力もなく、自分より弱い立場の人間を平気で虐げる、そんな人間をいくらでも知っているのだ。彼女は素直に謝る方法を知らない、それだけのことである。
「大人になるとは、その意味を見つけることです。年老いるとは、その意味がどうでも良くなることです。これは私の、勝手な意見ですがね」
 だから、自分の思いを素直に話す。雪はぽつりと、つぶやくように尋ねた。
「じゃあ、あなたは、どんな意味を見つけて、大人になったの? それとももう、年老いた?」
「まだ年老いてはいませんねえ。ずいぶんと長い時を経て来たとはいえ、ね」
 にやりと笑う。自信に満ちてはいないが、しかし何かの確信を内に秘めている。彼のそんな顔を見るのは、雪にとって初めてだった。
「ふうん。なら、教えてよ。あなたはどんな意味を見つけた、大人なのか」
「それは…」
 言いさした表情が、にわかに曇る。次の瞬間、奇怪な音が上がった。
 つなげた爆竹をさらに複数一斉に点火したかのような、切れ目なく連鎖する破裂音。しかしそれがどこかくぐもっている、そんな違和感がある。そしてそれに、雪はどこかぞっとするものを覚えていた。正体は分からないが、しかしとにかく、何か嫌なものだ。連続ではなく単発なら、思い出すのはもっと早かったかもしれない。
「まさか!」
 それは今傍らにいる男を初めて見たときに聞いた、あの音に似ていた。銃声だ。しかし拳銃のように間をおかない。形式的な入院の暇に任せて見た映画の中でなら、そのような武器も何度か見たことがある。
 サブマシンガンだ。拳銃よりは二回り以上大きいが、軍用ライフルよりは小さく小回りが効く。射程や命中精度はそれほどでもないが、弾丸を撒き散らす、つまり破壊力に関してはかなりのものがある。屋内で用いるものとしては最も危険な火器の一つだ。
 しかし映画の中でならともかく、その種の音を立て続けに、この日本で聞くとはどういうことだろう。しかも音源はどうやら、屋外ではなく廊下のようだ。有り得ない。その先入観が、雪のとっさの判断を遅らせていた。
 そして行動を定める暇もなく、彼女自身の病室の扉が乱暴に開かれる。
「来るな!」
 瞬間、雷鳴のような叫びが響き渡った。獲物に襲い掛かる猛獣さながら、音もなく滑らかな、しかしすさまじいまでの力を見る者に感じさせずにいられない、そんなしぐさで立ち上がった男がいる。その声も、人間の限界を超えているかのようだった。
 始太一だ。程近い場所で危険な火気が火を噴いていると思われているこの場で、雪は何より彼がそんな声を上げていることに気をとられてしまった。
 彼女は一貫して、彼が殺し屋であると思っていた。だからそんな、ある意味凶暴と言える行動に出たとしても、驚くにはあたらないはずだ。しかし彼が、同じように一貫して、少なくとも彼女に対しては丁寧な言動を崩さなかっただけに、大きな違和感があったのだ。
 例え相手が猛獣であっても、あるいは野生の存在であればそれだからこそ、危険を感じて近寄ってはこないだろう。そんな制止をしかし突き破って、一人の男が病室へと転がり込んできた。
 その形相はこれ以上ないほど恐怖に歪んでいて、人の話など聞いている余裕が全くないらしい。だから雪がその顔を判別するまでに、また少しではあるが時間を浪費してしまった。それは紛れもない、彼女の主治医だ。
 無論彼女自身は本来健康体であるから、その関係も形式的なものに過ぎない。適当な診断書を書いてもらって検査入院の体裁を整えた、その程度の間柄である。ただ、少なくとも数少ない範囲で直接会った印象は、そのような落ち着きの対極にある状態とはかけ離れていたことは確かだ。
 いや、違う。余裕がなくて聞いていないのではない。本当に、聞こえていないのだ。そこまで追い込まれた過程で鼓膜が破けでもしたのか、あるいは元々、始の声が聞こえないのか…。
 ともかく雪に聞こえたとおりに伝わっているなら、恐慌状態に陥っている人間であればなおさら震え上がって足を止めたはずだ。それでもその医師は、さらに部屋の隅へと逃げ込んでゆく。
「オヤジの仇ぃ!」
 それを追ってまた、別の男が病室へ姿を現した。両手で握って腰だめにした、サブマシンガンが黒々と光る。しかしその銃口は、少なくとも雪の目にはすぐに見えなくなった。
「なん…で?」
 没個性的なダークグレーのスーツが視界を塞ぐ。どうやら暴力団員らしい危険な武器を抱えた男の前に、始が両手を広げて立ちはだかっていた。
 彼にはそうする理由などどこにもない。元来雪をかばう理由などない。そして理由なくかばうことにしたのだとしても、それならば苦もなく敵を倒す力がある。何しろ彼は、恐るべき技量を持った殺し屋のはずだ。そのはずなのに。
 そしてサブマシンガンが火を噴く。それを雪は目ではなく耳で確かめることとなった。
「うそ…?」
 次の瞬間に起こった現象もまた、彼女にとっては不思議なものだった。体が、彼女自身の体が、破裂して血を噴いている。目の前には自分より体格の良い、始がいるはずなのに。そして彼の体に、傷ついた様子がないのに。
 そんなことを考えている時点で、痛覚神経など、普通に生きている人間には絶対に必要なものが完全にやられてしまっている。そうと気がついたのは、その後だった。
 やばい、これはもう、本当に。始などと違って、自分には観察によってどこが負傷したのか理解する力もない。雪はそう思った。目に見える範囲全てが、真っ赤だ。どこか一箇所どうしようもない所がやられてしまってそうなっているのか、あるいは複数箇所が損傷した結果として、全体に広がっているのか、良く分からない。
 ああ、死んだな、これは。
 純粋に、そう思った。

続く


前へ 小説の棚へ 続きへ