死に挑む男

前編


 プラカードやら横断幕やらを持った人間たちが行進している。それをブラインドの隙間越しに見ている男は、吐き捨てた。
「馬鹿どもが」
 その視線は、ゴキブリでも見るかのように冷たく、嫌悪に満ちている。いや、むしろ彼の場合、種類によってはゴキブリを見ているときの方が、もう少し好意的だ。
 何しろゴキブリは実験素材として有益だが、人間、特に今外にいる者たちはそうではない。むしろ騒音を撒き散らすばかりで邪魔になるだけだ。もっとも彼らであっても、実験材料に使えるのならずっとましな視線を向けるだろうが。
「自然の摂理に反する遺伝子操作の研究を許すなー!」
「許すなー!」
 シュプレヒコールが窓ガラスを揺らす。それが流行っていたのは一体いつの話だ。大方その時代の左翼の闘士とやらが、今の時代にやることがなくなって「環境派」とやらに鞍替えでもしたのだろう、などと思う。
 しかし同時に、それが少なくとも嫌がらせの手段としては有効であることを、彼は認めざるを得なかった。特に自分のように、論理的思考力のみならず想像力をも極めて高い水準で必要となる研究に携わっている人間には、なおさらだ。そんなことを考えながらではあるが。
「先生、お電話です。取材をお願いしたいということなのですが」
 秘書的な仕事もしている助手の女性が、そう言いながら部屋の扉を叩く。男は吐き捨てた。
「そんなもの受話器を叩きつけて切っちまえと、言ってるだろう。新聞もワイドショーも、三流週刊誌もだ」
 ここで使っているのはコードレスフォンなので、彼女は恐らく回線がつながったままの電話を手に持っている。大方保留状態になっているだろうが、しかし相手に聞こえても構うものか、と思っていた。
「あ、はあ、それが。どうもそれとは違うようでして。もしかしたら先生のお知り合いではないかと思ったのですが」
「ふん。誰だ」
「ハジメさん、とおっしゃる方で」
「始…? そんな奴、いたかな」
 あるいは一、と書いてはじめ、と読むのかもしれない。ともかく姓ではなく名を名乗ったということは、よほど親しい、少なくとも本人にとってはそのつもりだということだ。しかし彼には、そんな心当たりがなかった。
 ただ、友人知人の下の名前まで、全て覚えているという自信もない。元々他人の顔と名前を覚えるのは苦手だという自覚はある。仕方なく、彼は受話器を取った。
「はい、お電話かわりました、遠江です」
「お忙しい所を恐れ入ります。わたくしは岸先出版の始太一と申します」
 そんな名前は、聞いたことがない。珍しい姓名だから、多少なりとも印象に残る人間なら今まで覚えているはずだ。逆にそんな名前を持っていてもなお忘れ去られているということがあるなら、所詮その程度の価値しかない人間ということだ。今から接触する価値も、当然ながらない。
 ともかく、丁寧に接すべき人間でないことは間違いないはずだ。乏しい社交心を、このとき彼は完全に使い果たしていた。
「ああ、実際全く忙しいよ。それが分かってるんなら、一々電話なんてかけてくるんじゃない」
「申し訳ありません。ただ、無知な大衆の妨害に煩わされながらの研究よりは、取材に応じていただいて先生のお考えをそのままお伝えになったほうが、有意義なお時間になるのではないかと思いまして」
 これが世辞、おだてであることは分かりきっている。しかし現にそうされてみると悪い気はしない。特にそうされた経験の乏しい遠江としては、なおさらだ。何しろ基本的に孤立した人間なので、近寄ってきて利益を得ようとする人間も少ないのである。
 そこでとりあえず、問答無用で電話を切ったりはしないことにした。
「へえ。大きな口を叩くじゃないか。悪いが、岸先なんて出版社、聞いたこともないぞ」
 しかしとりあえず相手を見下すようなことを言ってしまうのが、彼の悪い癖である。ただ、実際聞いたこともない名前だ。例えば一般社会ではマイナーな出版社でも、彼の専門に関連のあるものなら一通り記憶している。
 そんな応対に対しても、相手は少なくとも不快感を一切表さなかった。
「確かに、名もないといっても差し支えのない会社です。しかし、先生の独占インタビューや独占手記を掲載できるなら、かなり名を上げられるのではないかと思うのですが」
「ほう…」
 鼻で笑う。しかし、結局彼は決断した。
「つまらなくもない話だな」
「ありがとうございます」
 相手の声が少しだけ弾む。それが十分な計算の上での演技であるとは、彼が気づくよしもなかった。元々他人の心情など察せず、ただ己の才能にだけ頼って生きていたような男である。わざとらしい演技を見破るだけの知性はあるが、しかし微妙な偽りを見破るほど人間関係に長けてはいない。
 だから喜んでいる相手を窮地に落とすのが楽しくて、少なくともそのつもりで、つけ加えた。
「しかし条件がある」
「はい。何でしょう」
「取材場所はこの研究室。時刻は三十分後だ」
「三十分後にそちらへうかがえばよろしいのですね。承知しました」
 ごく何でもない、事務的な確認が返って来る。遠江は思わず、声を荒げた。
「馬鹿か、君は? 取材をしようとしているのに、相手の状態も分かっていないのか」
 自分が出した課題は、要するに無理難題である。入ろうとするだけで大騒ぎになるであろうデモ隊が取り囲んでいる建物へ、しかもごく短時間に来いといっているのだ。それが分からない程度の知性しかない人間であれば、実際取材になど絶対に応じるまいと思う。
「まあ、これでも取材者の端くれですのでね。いや、むしろ端くれならではの、大新聞やテレビではやらないことも致しますもので、かいくぐる方法は色々と承知しています。それに幸い近くにおりますし、問題ありません」
 始は簡単に笑って、相手の返答を待つ。彼が気分を害していることは百も承知だったが、しかしそこで前言を翻すには意地を張りすぎる性格だ、と、分かっていた。別に自分から、何かつけ加える必要はない。
「いいだろう。お手並み拝見と行こう」
「はい。他に何かおありでしたらお申し付け下さい。まあ、もちろんその次第によってはもう少しお時間をいただくことになりますが」
「別にいい」
「承知しました。それではまた後ほど」
 そして通話の終わった受話器を、遠江は何となくぼんやりと眺めていた。話はごく、少なくとも始の側からすれば常識的に進んでいた。しかし何故か、狐につままれたような気がするのだ。
 ただ、筋金入りの無神論者を自認している彼としては、そんな感想を強引に脳裏から追い払った。人魂はプラズマ、幽霊は見間違いや暗示、さもなければ磁場の乱れの類、百パーセントその立場にある。
 よし、とりあえず言うだけ言ってやろう。その覚悟を固める遠江だった。その一方で例えば取材に関する謝礼などについて、全く決まってもいないことに気がついてはいない。知的好奇心、探究心は人一倍どころの騒ぎではないが、金銭への執着はそれが研究費でない限り強くない。遠江とは、そんな人間なのである。
 そして約三十分後、窓の外にこれという変化はなかった。デモ隊は飽きもせずシュプレヒコールを続けている。
「やはり口だけの人間か」
 鼻で笑う。元々そこまで期待をしていた訳ではなかった。しかしそこへ、予期しない声がかかる。
「先生、先程お電話のあった始さんがお見えです」
「なに?」
「始さんがいらっしゃっています。先程取材をしたいとおっしゃって、お電話をいただいた方です」
 単に聞こえなかっただけかと思ったのか、助手が実質的には全く同じ内容を繰り返す。遠江は時計を見て、今この瞬間が電話が切れてからちょうど三十分だと気がついた。個別の顧客相手の職業だと、必要な時刻はとりたてて意識していなくても頭に入るようになるものなのだが、彼のような研究職は基本的にその対極にある職業だ。言われてみないと、気がつかない。
「ん、ああ、通してくれ」
「はい」
 彼女は特に、疑問にも思わない。いつもの気まぐれだ、そんな所なのだろう。
 そして、始太一が、姿を現した。声の質から中年あるいはもう少し上、と感じていたが、少なくとも顔立ちはもう少し若い。三十歳を過ぎてはいないように見えた。ただ、もっと若いかどうかが良く分からない。その皺のなさは明らかに若い人間のそれだったが、しかし表情はどこか老いに任せたものを感じさせる。
「お忙しい中お時間を割いていただき、ありがとうございます」
 そして丁寧に頭を下げる動作にも、年齢不詳の感がある。今時の若者は…などとは実の所二千年前から使い古されている悪口だが、それには明らかに当たらない。実に丁寧な、年季が入ったように見える動作だ。しかし年齢を経ているにしては、確かな力強さが感じられる。
「いや、別に…」
 むしろ遠江の応対の方が、素朴でおぼつかないと感じられるほどだ。端的に言えば、接客に慣れるような業種ではない。むしろその、全く逆だ。それを承知しているのか、始はまずごく事務的に説明を始めた。
「さて。それではまずお許しをいただけるのなら、これ以後の会話を録音させていたただければと存じます。取材者としてはなるべく、素材は多いほうが良いものですから」
 始は懐から、さほど大きくもない機材を取り出す。それは電子式の、音声記録機器だった。音質の面からすれば大したことのない製品であるが、しかしパソコンを使って編集を簡単にできるのが売りだ。
 この研究室にある事務処理用のコンピュータでも、情報を吸い出すことができる。情報機器の知識は最先端の研究には必須と言ってよいものなので、それだけのことは見て分かる。
「いいだろう。ただし、録音が終わったらそのデータのコピーをそのままこちらに渡す。その内容についてはその場で我々が調べて、もし不具合があるなら公開は認めない。それが条件だ」
「ええ。その程度でよろしければ、無論問題はありません」
「一筆書くかね」
「先生がそうお望みでしたら。念のため印鑑も持参しておりますし、念書の書き方でしたら承知しているつもりでおります」
 すっと、始は懐から印鑑を取り出した。プラスティック製の安っぽいケースであるが、しかしかなり大きい。三文判ならどう考えても余ってしまうサイズだ。そもそも「始」というそれなりに珍しい姓が、すぐに用意されているかどうか微妙である。
「ほう、なら、書いてもらおうじゃないか」
 喧嘩を売られれば売られるほど買いたくなる。それが最早若くないと言われても文句の言えない遠江になお残った悪い癖であると、例えば彼の助手兼秘書の女性は承知していた。
「かしこまりました。それでは少し、失礼を致します」
 持参した鞄から便箋とボールペンを取り出して、始は条件を書き記した。
 インタビューとして使う内容は録音する、そのデータのコピーを改竄することなくその場で遠江に引き渡す、そして遠江ら研究に携わる側が不適当と判断する内容に関しては、公開しないことを約束する。
 以上と日付を自筆で記した上で、始は署名捺印した。
 実の所民法上契約の効力としては、本質的にそこまでする必要もない。契約は文書など必要とせず、双方の合意によってのみでも有効に成立する。ただ、きちんとした書類を作っておけば、裁判の際有力な証拠になる。それを知識としては承知しておいてなお、彼はわざわざ書面を作成したのであった。
「これでよろしければ、早速ですがお話をうかがいたいと存じます」
「いいだろう」
 さすがにそこまでやられては、遠江としてももうとやかく言うことができなくなってしまう。元々研究以外のことには疎いのだ。
「それでは」
 簡単にうなずくと、始はレコーダーのスイッチを入れた。
「まず、先生のご経歴を確認させていただいてよろしいでしょうか。先生にとっては退屈な話で恐縮ですが、記事を作る上ではどうしても必要なもので」
「分かった」
 確かに、略歴が抜けているインタビュー記事というのは文字通り間抜けである。枕として不可欠だ。それにそもそもその程度の下調べはできていないと、きちんとした内容のあるインタビューにならない。
 そこでさらに、始は懐から手帳を取り出した。特段膨らんでいるようには見えなかったのだが、色々と入れているらしい。
「極東医科大学付属幼稚園に入園後、以後大学院生命科学研究科博士課程まで系列教育機関を全て優秀な成績でご卒業」
 系列校一筋、世間一般では「エスカレーター」と目される学歴を、始はかなり省略して話した。しかし同じ名前を一々繰り返して聞かされるのも面倒なので、遠江としても黙ってうなずくしかない。
 極東医科大と言えば、医学生理学方面では強力な学閥を有する大学だ。付属で幼稚園まであるのも、医師の子弟を生徒にしてそのまま跡を継がせるためだと言われているし、その典型的コースをたどった遠江としても、それと同様の感想を持っている。そして万が一出来損ないで国家試験に受からなかったとしても、同窓生などと結婚してくれればその婿または嫁が跡継ぎになる、という仕組みである。その高い社会的ステータスを見込んで、幼稚園の段階から医師の家庭以外からも人気が高い。
 ただし、普通の大学付属学校と少々毛色が違うのは、進学の仕組みがいわゆる「エスカレーター」とはやや異なることだ。国公立付属ならともかく、一般的な私立の付属なら極度に成績や素行が悪くない限り最終的にその大学までは入学できる。その保証がなければ、大学付属校の魅力は激減するからだ。しかし極東医科大の場合、高校卒業の段階で医大に入れる程度の能力がないと判断されれば、大学への入学が認められない。
 なぜなら医科大学の場合、国家試験の合格率がその大学の教育水準を測る最も分かりやすい指標となるためだ。何しろ他の私立医大と比べれば標準であるにしても、世間一般の基準からすれば冗談抜きで高い学費を六年間も払わせておいて、免許が取れなかったでは洒落にもならない。そのため無制限に能力の劣る人間を入学させれば合格率が落ち、大学としての社会的評価も大きく落とすことになる。
 よって、付属学校の時点で既に、進路指導はかなり厳しい。さらに大学入学後も、成績不良で留年となる学生の率が他大学よりも相当高い。
 そんな中で、遠江は始が言う「優秀な成績」を、社交辞令では済まされない水準で維持して、大学院まで進んだ。要するに、紛れもない秀才なのである。当然ながら、医師免許も持っている。
 その確認を終えてから、始はさらに話を先へ進めた。
「そして、ブラウンアンドレイカーズ生命科学研究所日本法人へ。現在同法人主席研究員でいらっしゃいます」
 名前からして分かる通り、外資系の研究機関である。主席研究員とはその生命科学分野の研究におけるトップを意味しており、待遇は法人の中でナンバーツー、いわゆる副社長級だ。ナンバーワンは本国本社から派遣された、外国人である。経営、管理面に関してはその外国人が掌握しているが、この日本における研究そのものに関しては遠江が全権を掌握していると言って良い。
「その通りだ」
 世間的には人もうらやむ身分だ。そしてまた報酬面でも、欧米の有力企業役員と遜色のないものを得ている。少なくとも日本のサラリーマン出身重役などとは比較にならない。
 しかしそれでも、それを認める言葉のどこかに、引っかかるものがあった。聞いている始としてはその理由を、承知していないではない。
 要することに徹する表現をしてしまえば、この男は秀才であるにもかかわらず、あるいはだからこそ、落伍者なのだ。
 学閥の強い大学でであればこそ、将来を嘱望される人材なら、大学または大学院卒業の時点で大学付属病院に採用されるはずである。その勤務経験を経て母校の助教授、そして教授となる。それが本流だ。
 その本流を若干外れたとしても、母校の出身者が多い病院や大学に半ば以上縁故で勤務をするなどして、そこでの実績を認められて最終的に母校へ教授として戻ってくるというルートもある。そこからさらに外れていても、結局のところ縁故で母校の関連病院へ戻る人間が少なくない。
 その全てを、遠江は外れていた。今の勤め先は彼が就職した直前に設立されたものであり、社会的な基準からすれば歴史はないに等しい。当然、その関係での縁故もない。よって彼が、少なくとも母校で「教授」の肩書きを得る見込みも、まずありえなかった。日本にはそれぞれの学校ごとに、それなりに学閥があるため別の大学で教授の肩書きを得ることも簡単ではない。強いて可能性を探るのなら、何か研究の実績が認められて欧米の大学で客員教授として認められる、その程度だ。
 なぜこの秀才が、そんな支流へ向かってしまっているのか。それは少なくとも、始にとっては答えを導き出すのが簡単な問題だった。何しろ性格に難がある。様々な面で良好な人間関係を築いてゆくには、その能力が著しく乏しいのだ。なまじ以上に頭が切れるだけにそれ以下の能力の人間を見下すし、逆に自分より上の実績を作る人間に対しては敵愾心を燃やす。それは少なくとも一人の人間としては強烈な向上心として評価できるかもしれないが、集団の構成員としては問題要素である。
 そして学閥というのは、所詮人間関係だ。それも同じ学校を卒業したという、閉鎖的な関係である。そのとき同じ学校にいなければ、後からいくら入ろうとしてもどうにもならないし、逆にそこにいた以上抹消することもできない。学歴とはそういうものだ。
 大学であれば一応、相応の学力さえあればいつでも入学できるが、遅れて入学すればいくら年齢が同じであっても扱いとしては後輩、要するに下になる。何もかも自由には、どうやってもならない。
 そしてこんな濃厚な人間関係に対して、この男が適性を欠いていることは誰の目にも明らかだ。一匹狼、良くも悪くもそんな形容の似合う人間である。才能面では際立っているが、しかしそれだけに協調性を期待できはしない。
 選択を間違えた、研究者を目指すなら目指すで別の大学を考えるべきだった。そんな批判もできないではない。しかし、何十年も前の、まだ愛息子の可能性を見極めることなどできはしない彼の両親や、あるいは幼稚園入学前の彼自身に責任を負わせるのは酷というものである。
 要するに、誰も責めることはできない。そしてその成り行きとして、遠江本人が幸福にはならなかった。それだけのことだ。
 それがわざわざ同情しなければならないことの成り行きであるなどと、少なくとも始は思わない。その程度の不幸なら、世の中にはいくらでも転がっている。一々同情などしていられない。むしろ医学の研究に携わろうとして、実際にそうなっている。そこまでの能力と、そして金銭的な基盤を有している時点で、世間一般の基準からすれば余程幸福な部類に入るだろう。そもそも能力を問われる以前に金銭的な制約で進路を決めざるを得なかった人間、あるいはそれ以前に食べてゆくことさえできなかった人間を、彼はいくらでも知っているのだ。
 だから始は、取り立てて感情を交えるでもなく話を先へ進めるのであった。その経歴に関することを聞く必要があるかもしれないが、それはあくまで、彼自身がそれを望んでからのことだ。自分から切り出さなければならないとは、考えられない。
「お手数をおかけしました。それでは、早速本題に入りましょう。まず、そもそもなぜ遺伝子操作の研究を始められようとお考えになったのか、その動機をお聞かせいただけますでしょうか」
 経歴を聞いておいて無神経だな、と、遠江は思う。しかしそれが、実は始が相当程度考えた結論であると察せられないのが、つまるところ彼の無神経さだった。
「別に、動機というほどのこともない。私は最先端の研究分野を常に追っていた、それだけのことだ」
 系列大学病院勤務であれば、また別の臨床に関連した研究分野があったかもしれない。しかし遠江には、実質的にそれしか残されていなかった。それをやっていなければ、今のような就職口も残されていなかっただろう。それが、彼の言う「それだけのこと」なのである。
「なるほど。それでは、その研究が生命倫理に反すると文字通りうるさく言う人が多いようですが、それに関してはどうお考えでしょう」
 始はやや意図的に、その「うるさく言う人」に対して距離を置いた口調を作った。もっとも実際、同調はしていないのだが。
「下らん、その一言に尽きる。考えてもみろ、分別もつかないガキどもが性病をうつし合いながら欲望に任せてまたガキを作る、そんな『自然の営み』とやらの何が高尚だ? 試験管の中で人間の可能性を追求するほうが、余程創造的だぞ」
「ははは。おっしゃるとおりです」
 極端で、また表現も毒々しいが、しかしある種筋の通った考え方ではある。自然を礼賛しているくせに先進国の都会に住んでいる、そんな人間もいるものだ。その矛盾を鋭く突いている。だから始は反論しなかった。
 その一方で、無軌道な性交渉もクローン技術も、神の定めた摂理に反するという考え方もあると始は知っている。ただ、この遠江という男誰がどう見ても無神論者であるから、その宗教的な価値観をぶつけてみても話が全くかみ合わないだろう。つまり聞く価値がないので、それに関しては切り出さないことにした。
 始自身、信仰心などというものは全く持っていない。彼にとって宗教とは、詰まる所科学技術と同様、人間が作り出したものだ。すなわち自然と人間を対比させるなら、人間の側に属するものだと考えている。
 もっともそもそも人間も所詮は自然の一部に過ぎない。だから対比させること自体に、人間の驕りが背景にある場合が多い。始太一とは、そんな考え方をする性格である。だからこそ、自然の摂理に対する挑戦とも言われる研究をしている遠江に対しても、平静に接することができるのだ。
「それでは、そろそろ本題へ入らせていただきます。ご研究の具体的な進捗状況なのですが…」
 それから始まった質問は、非常に高度なものだった。答えさせる内容が、一般誌ではなく科学系の専門誌に載せるべきものだったのだ。
 質問者自身に、第一線の研究者ほどではないにせよ、少なくとも生命科学系大学卒業程度の知識と論理的思考力がなければできないことである。専門用語を使ってくるし、それに対して専門用語で答えてもその内容を特に確認したりはしない。遠江独自の理論に関して不明な点があればその内容を確かめることもある、その程度である。
 遠江は「分からない人間がどうしてつまづくのか理解できない」という、頭が良いといわれる人間としてはある種典型的なタイプだ。教育者の立場からすればそれは本当の知性ではない、などということにもなるのだが、少なくとも研究者としては不自由しないのでそのような非難は気にならない。だから人にものを教えるのは本来苦手なのだが、この時はむしろ調子よくしゃべることができた。研究そのものを非難されることも、あるいはその内容の不備を指摘されることもない。そんな経験は、むしろ初めてではないかとさえ思えた。
 結果、自分でも考えていなかったほど長時間話している。始が結びの言葉を切り出したときには、時計の針がかなり回っていた。
「本当に、色々とありがとうございました。それでは最後に、遺伝子操作研究の究極の目標をお教えいただけますでしょうか。先生が研究者として現役を終えられた後の話でも構わないのですが」
 にやり、と笑ってから遠江は口を開いた。
「最終的には不老不死さ。それに尽きる。まあ私も自分が生きているうちにそれが実現できるとは考えていないが、しかし今の研究の成果はその遠い目標への大きな一歩になるだろう。そうでなければ、研究はする価値がない」
「なるほど。ありがとうございました。それでは私からの質問は以上なのですが、先生から何かおっしゃりたいことはございますでしょうか」
「ふむ。そうだな…」
 さて、何を言おうか。むしろわくわくしながら考えていた、その瞬間である。研究スペースのほうから、ガラスが割れたらしい音が聞こえてきた。始が首をかしげる。
「事故でしょうか」
「機器類は震度七でも転倒しないよう固定か保管してあるから、人為的なものだな。しかし…」
 折角の研究が不注意で台無しにされてはかなわないので、そのような可能性が高いとみなした人間は、遠江の権限でやめさせられている。いるのは少数精鋭、優秀な研究者ばかりだ。機材を壊すほどのごく基礎的な過失は、考えにくい。
 そして、今度はさらに大きな破砕音が聞こえてきた。過失ではない、明らかに故意だ。
 遠江は慌てて立ち上がった。ジャーナリストらしい好奇心を発揮したのか、始も立ち上がる。事態の把握ができていないとはいえ、不祥事であるのはまず間違いないから、遠江としては制止したいところではある。しかしその話をしているうちにさらに何か起きてもまずいと思って、結局放置した。

続く


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