死に挑む男

後編


 実験室の騒ぎを聞きつけてやってきた遠江らがまず耳にしたのは、おろおろとした声である。少なくとも遠江には、それに聞き覚えがある。研究員の中で、最も若い男だ。
「や、やめて下さい! どうしてそんな…」
「何事だ!」
 機先を制そうと思って、事件が起きているらしい部屋に入るなり大声で叫ぶ。しかし、次の瞬間誰よりもまず、彼自身がひるんでしまった。
 最悪の事態である。よりにもよって、研究にとって優先順位の高い機器から破壊されている。明らかに研究に対する詳細な知識と機器の配置を熟知した、内部の人間の犯行だ。そしてその人物は、逃げることもなく立ち尽くしていた。
「何の、真似だ…」
 呆然とつぶやく遠江の後ろから、始は状況を確認している。犯人は、今日彼を案内してくれたあの女性だ。手にはやはり研究資材であるらしい、金属管を握り締めている。そしてその暴挙を前にして、その他の研究員達はなすすべもなく遠巻きにしていた。
「何の真似、ですって?」
 彼女は、笑った。いや、笑おうとしたのだ。始にはそう分かっていた。しかしその他の人間にとってその形相は、純粋な悪意の表現でしかなかっただろう。研究者としては比較的若いその顔を、ひどくゆがめている。
「それはわたくしが是非お伺いしたいことですねえ、遠江先生。この前の実験に使った素材、あの出所は、どこですか」
「ふん。そんなこと、君も科学者の端くれなら自分で確かめてみたらどうだ、工藤君?」
 一瞬の自失から開放されて、遠江に普段の威圧的な姿勢が戻る。最悪の事態を招いたことに対する怒りが、どう考えても常軌を逸した行動に出ている相手に対しても彼をひるませない結果となっていた。
「私の卵子を!」
 助手、工藤が叫ぶ。その一言によってその他の研究員達は状況を理解し、そして凍りついた。
 遠江と工藤は男女の間柄、要するに愛人関係にある。それはこの研究所の日本人スタッフの中では、公然の秘密だった。工藤も一応理系大学の出身者だが、能力的には明らかに他の人間より劣っており、そのため本業の研究分野からしてみれば雑用に当たる秘書的な業務もしている。要するに、縁故採用である。
 そんな女性の卵子を、実験材料にしてしまったのだ。そもそもこの前の素材は遠江がどこからともなく持ち込んだので、この状況を考えれば正規の研究分野のルートではなく、工藤との個人的な関係を利用して入手した可能性が高い。
 しかも、だ。彼女が言う『この前の実験』、外部からの倫理的な非難が極めて大きいものだった。だからこそ、デモ隊が今この建物を取り囲んでいるのであり、また通常の方法での実験材料の入手が難しかったのである。
 越えてはいけない一線を、越えてしまった。ほとんどの人間がそう思った。この研究所で遠江の下働いているくらいだから、彼らの倫理観もどちらかと言えば主席研究員に近い。宗教的な倫理観よりも、科学の発展こそが人類に貢献すると考えている。
 しかし、である。自分達もその人となりを良く知っている、まして工藤本人にとって愛人でもある女性の卵子を使うとなると、生理的な嫌悪感が先に立つ。
 この男には人としての情が一切ないのだろうか、そんな色が研究員達の目にちらついていた。能力のあまり高くない縁故採用者ではあるが、少なくとも工藤の人柄は悪くなく、彼らの間からは嫌われていなかったのだ。むしろ本質的に対人関係に問題のある遠江と彼らとの間に立ってくれることもしばしばで、少なくともその意味では有用な職場仲間でもあった。
 動揺していないのは、よりにもよって当の遠江だけだ。
「言いたいことはそれだけかね」
 土台、彼本人としては全てを承知の上でやったのである。いまさら非難されても、一々動揺したりなどしない。確かに本人に黙っていはしたが、発覚したとしても彼女がここを去る以上の損失はないだろう。その読みが間違っていたことを後悔する、その程度である。
「なん…ですって…」
 怒りによって赤く染まっていた顔面が、とうとう蒼白になる。その方面の研究をしている人間なら喜んで観察しただろうな、と、遠江は本題とはかけ離れたことを考えていた。
「それだけのことで研究室をぶち壊しにしたのかね、と、そう聞いている。あの実験が今後の研究にとってどれほど重要か、それは説明したはずだし、君自身喜んで手伝いもした。それが、たまたま、自分のものだからと言って、とやかく言ういわれはないぞ。それとも何かね? 君は他人の卵子なら平気で実験材料にするが、自分のは駄目だと、そう言う…」
 理屈だけなら、確かにそうかもしれない。しかし…だ。自分達のしてきたことの意味を正面から問われる形となった研究員達は、思わず目をそらした。確かに時には、合法的な範囲でではあるが人間の細胞を実験に使ったこともある。ただ、それを自分やあるいは自分の肉親がされると考えるとひるんでしまう。不合理ではあるが、それが人間なのではないだろうか。
 目をそらさなかったのは、工藤本人だけだ。そして遠江が空疎な能書きに注意を取られ、他の人間達もよそを見ている。それだけの時間があれば、彼女にとっては十分だった。
 うなりを上げて、実験器具を破壊した金属管が襲い掛かる。そのことに遠江自身が気づいたのは、既に直撃を受けた後だった。飛び散る血しぶきが、視界を暗くする。
「う、うわっ、だ、誰か警察を!」
「その前に救急車!」
「どっちでもいい、どっちかがどっちかに連絡してくれるから!」
 とうとう器物損壊にとどまらず、傷害事件になってしまった。いや、頭部を強打しているし、もしかしたらもう致命傷かもしれない。そう見て取った研究員達がばらばらと動き出す。少なくとも女性とはいえ凶器を振り回す人間に対し、直接行動で制止しようとするある種の腕自慢は、この場にはいなかった。
 しかし、工藤はそれに構わない。最後の一人である遠江は無論、とっさに動けるような状態ではない。そして始が、それをただ傍観している。
「こんな研究…」
 遠江とは別の意味で、ある一線を越えてしまった工藤があたりを見渡す。そして彼女は、棚に保管されている薬品の一つに目を留めた。血塗れた金属管で棚の鍵を破壊し、その瓶を取り出して撒き散らす。
「うわ、警察の前に消防を!」
「馬鹿! その前に逃げろ!」
 全員、慌てて部屋を出る。それは正しい取り扱いをしなければどうなるのか、嫌でも覚えておかなければならないものだった。
 発火性の高い、劇薬である。しかも、今この部屋には叩き壊された機器という、これ以上はないであろう火花の発生源がある。結果は自明であり、そして実際ほどなくその通りになった。
 一瞬で火柱が上がり、研究室は直射日光の下のような明るさになる。ただ、発火性が強すぎ、また量としてはあまり多くないため、燃焼が長続きはしない。工藤にはなぜかそんなことを判断する理性だけはあるらしく、手当たり次第に可燃物を放り込み始めた。まずは手近にあったアルコールなどの薬品の類、それから文書類だ。
「燃えろ、燃えろ、燃えろ! 全部燃えろ!」
 止めようもなく、そして止めるものもなく、火の手が広がってゆく。やがてそれは、工藤自身にも燃え移った。どこかで薬品が付着していたらしく、その体も一瞬で火柱に変わる。
「あは…ははは…は…」
 なぜだろうか。彼女は、笑っていた。それを単なる狂気のなせる業だ、などと片付けてしまうのは一応簡単ではある。しかしそれは例えば学究的な、知的好奇心を欠いた態度だろうな、と始は思った。
「一片の悔いもない死に様、か。話す暇もありはしない」
 何となく、つぶやく。もし死者の魂などというものがあって、そして死後も思考力があるのなら、それはもちろん悔いだらけの人生だったと思ったろう。ただ、そもそも彼女自身はその存在を否定する立場に立っていたはずだ。それに、少なくともあの瞬間、誰がどう見ても、後悔はしていない。
 そして始でさえ、死者の魂などというものがあると、確約することはできなかった。あまりに多くの死を見てきたにもかかわらず、だ。ただ、真っ向からの否定もできない。「亡霊」を否定するのなら、自分は一体何者だろうか。吹き上がる炎を見ながら、ふとそう思った。
「た、助けて…くれ…」
 その足首を、遠江がつかもうとする。辛うじてだが、まだ息があるのだ。熱気によってどうにか、意識を取り戻している。しかし、始は小さく首を振った。
「無理だ。頭蓋骨陥没、脳挫傷。もし炎と煙にまかれなかったとしても、手術を受けるまでもたない。まあ、あなたの他に医師免許を持っている人もあの中にはいただろうけれど、脳外科の知識も、それに治療に必要な設備もない」
「そんな、はずは…」
 まだ自分にははっきりと、会話ができる程度の意識がある。それほどの致命傷であれば、そこまでの意識を保てるとは考えにくい。そんな彼の希望を、始はしかし正面から叩き潰した。
「それに、私は死神だし」
「はん…」
 遠江は笑った。本当に、おかしかったのだ。
「なるほど、俺ももう駄目だな。幻覚とはね」
「分かってくれると話が早くて助かる」
 軽くうなずいてから、遠江を見下ろす。始には特段の意図もなかったのだが、遠江としてはそれが癪に触った。
「偉そうに…これが『報い』だとでも言うつもりか」
「まさか、そんな冗談を。これが悪行の報いであるとしたら、それをかぶるのはあなた一人で十分だ。彼女まで死ぬいわれはない」
 いつの間にか、火柱から炎の固まりに変わった「もの」を見やる。そして彼はその場に座り込んだ。
「少し話そう。どうも何か誰かに言い残すような柄でもないようだしね」
「話すことなんて、ない。ただ、データを、あれを、持ち出すことができればいい」
 それが、それだけが、遠江勝の生きてきた証だ。しかし、「死」は残酷に、それを否定する。
「もう駄目だね。紙媒体は燃えてしまっているし、電子情報も熱と煙と、それから薬品でやられている。かといって耐火金庫、あるいは外部へのバックアップの退避など危機管理は…その顔色を見る限りないようだ」
「そんな…そんな…俺は一体、何のために…」
「生きてきたんだろうね」
 笑って、死神は疑問を投げかける。遠江は思わず噛み付いた。
「畜生! 科学の何たるかもわからないクズどもに、それみたことか天罰だと言わせるためじゃないぞ!」
「それは私も同感だよ。ちょっと繰り返しになるけれど、『天罰』とやらで、だまされて利用されたあげく死んでいった人の命をも、一緒に片付けるべきじゃない」
 始は、今の所燃え残っている、かつて人体であったものを眺めやっていた。しかしそれにも気づかず、遠江は続ける。
「ユダヤ人のエジプト脱出のために犠牲になったのは、異教徒、エジプト人であるという以外に何の罪もない子供だったさ」
 イスラエル人を奴隷として虐げていたエジプト王国に対し、預言者モーセはその開放を迫った。しかしファラオ、すなわちエジプトの王ははこれを拒み、結果神罰により、エジプト人の初子は全て、ファラオの長子も含めて死んだ。
 そのエジプト人の初子自身が罪を犯したか否かに関らず、ただ親がエジプト人であったというだけの理由によって、神の手で命を奪われたのだ。無論その中には、罪を犯しようもない赤子も含まれていたはずだ。それが、旧約聖書の一説である。そして現在、キリスト教を称するほとんど全ての宗派が、この旧約聖書を完全に否定してはいない。
 遠江自身は無神論者なのだが、生半可な知識で自分を非難する人間を黙らせるために、いくつかそのような話のタネをもっている。概して似非宗教者ほど、声高に他人を非難するものだ。
 逆に深い信仰心と宗教的知識を有している人間は、そのほとんどが慎重である。むやみやたらと他人の悪口を言うべきではないという、どんな宗教、あるいは道徳にも共通の価値観を考えれば、当然のことだ。
「そうだね。しかしそもそも、私はキリスト教徒じゃないよ。というより、何の信仰心もない。だからそういう反論をされても困るな。大体、例えばキリスト教の天使だったら絶対に、畏れ多くて『神』などとは名乗らないさ」
 始は軽く流す。信仰心を持ち合わせてはいないのだが、それに関する知識は少なくとも遠江以上にあるのだ。仕事の上で、いや、自分自身が存在する上で、それはどうしても必要なのだ。
 遠江のような筋金入りの唯物論者を理解できるように、信仰心に篤い人間も理解したい。始はそう思っている。
「大体だよ。少なくとも私は、あなたが罰せられなければならないような罪を犯したとも思っていない」
「死神のくせに、ずいぶんと、無頓着だな。世間とやらのほとんどの人間が、俺を極悪人というだろうのに」
「それは論理的な思考によって導かれた結論じゃないな。ただの先入観だ」
 死神と、道徳的な観念を結びつける論理は、実の所何一つない。死は、善人のもとにも悪人のもとにも、平等に現れるからだ。
 遠江は死神と、例えば閻魔を混同している。もし始が閻魔であるなら、死者の罪を断罪したかもしれない。いわゆる閻魔大王の役割は、善人を天国に上げ、悪人を地獄に堕とすことだからだ。しかし自分はあくまで死神だ。そして少なくとも、閻魔あるいはそれに類する存在に遭遇したこともない。
「考えてみるといい。例えばこの宇宙に、どれほどの星々があることか。君はきわめて独善的な人間だから、今までその意味を深く考えはしなかっただろうけれどね」
 地球、というのは太陽系を構成する主要な九つの惑星のうちの一つである。しかし質量の面から考えれば、太陽系の中でもごく微細な部分に過ぎない。そしてその太陽系も、それが属する銀河系の中では、辺縁部に属する極めて小さな存在である。さらにはその銀河系さえも、銀河団と呼ばれる存在の一部に過ぎないのだという。そしてその先もある。遠江の知っている限り、現代の天文学における宇宙観とは、そんなものである。
 このとき、始が「あなた」ではなく「君」という、同格あるいは目下に対する二人称を使ったことに、遠江はもう、気がつかなかった。やっている側としては当然ながら、始としては相手の判断力の減退状況を見て、使う言葉を選んでいる。
 遠江は、始の言葉の意味を、自分の力で探り当てようとしている。独善の染み付いた思考回路でも、しかしある面で優れた論理性を有するそれは、やがて答えにたどりつくだろう。それも分かっていながら、敢えて始は続けた。時間は、あまりない。
「あまたの星々のたった一つ、その程度のもののごく表面にへばりついている『存在』が、例えばその研究目的である不老不死を得たからといって、だからどうなんだろう。結果は、その生命体が惑星上にわらわらとあふれかえる、それだけのことさ。あるいはもうちょっと先へ進出するかもしれないが、あくまでそれも、それだけのこと。それが、もし存在するのならば全宇宙の造物主である『神』にとって、わざわざ断罪しなければならないほどの、大事件だろうか? 例えば生命体のあふれる地球を『奇跡の星』と言う人間もいるが、宇宙全体からすればそれは、単なる希少であるがゆえに全体に影響を与えざる事例に過ぎない。そんなふうには、考えられないだろうか」
 始は、閻魔に遭遇したことがないのと同様、造物主とやらに遭遇したこともない。
 しかしもしそんなものがいるとして、の話である。この少なくとも、始などにとっては果てしない宇宙の中で、たかが人間の動向に一喜一憂しているとしたら、それはなんと卑小な存在だろうか。それでは、一人一人の人間の死に一々反応している「たかが死神」、始太一と次元の上で変わりがない。自分自身でさえすでに、少なくとも感情に任せることはないというのに、だ。
「お前は…お前は…一体、『何』だ」
 遠江は「何者」いや、「者」という、人間に対する表現を使わなかった。それがある意味、正解だ。始は既に、少なくとも自分自身を人間だとはみなしていない。そうでなければ、あのような言い方はできないはずだ。
「死神だよ。さっき言った通り。それだけさ」
 自明だと、念を押す。しかしそれでも相手の最も重んじるもの、知的好奇心を満たすのであればそれでよいだろう。そう考えていた。
「なら、俺は、何の、ために…」
 先程と同じ疑問が、繰り返される。だからまた、始は挑戦的に笑った。
「遠江勝ともあろうものが、そのザマかい? 他人がどう言おうと、君は自分が世界で一番価値のある人間だと、そう思って生きてきたじゃないか。それを、この期に及んで、今更なんだね。それとも今までの君の高圧的な態度は、全て虚勢だったのか」
「違うっ! 俺は、俺は、オレハ…」
 よくもまあ、そんなことができたものだ。それをもし、他の人間が知ったのなら、ほとんど誰もがそうつぶやいたことだろう。しかし、それでも、遠江は、その瞬間に自らの存在の全てを、肯定した。そして少なくとも始太一は、それを否定しようとはしなかった。
「そうさ。大丈夫。君のしたことは、決して無駄じゃない。決して、ね」

 そして、その黒っぽい人影が、可燃性ガスに引火したことによって生じた爆発の中に、消えた。

 ブラウンアンドレイカーズ生命科学研究所日本法人の研究室が、「爆発事故」によって炎上した。その新聞記事を、一人の老人が笑みを浮かべて眺めやっていた。そしてその老人が陣取る部屋に、初老の男が入ってくる。そもそもその老人が彼を呼び出したので、用件について確認が行われることはなかった。その程度のわきまえができないような無能な人間は、この老人の周りにはいない。
「ブラウンアンドレイカーズ生命科学研究所日本法人の件について、申し上げます。当該法人をそのまま本国研究所から買収する第一計画、および生き残りの研究員のうちから利用可能な人間を引き抜く第二計画、骨子がまとまりました。こちらになります」
「よし。すぐに実施にかかれ。どちらの案を採るかは、別命のない限り今後の君の判断に任せる」
「はい。それでは」
 内容を見もしないで発動を命じるし、命じられた側にも動揺がない。少なくともその程度の信頼関係が、この上下関係の中にはあった。初老の男が立ち去ってから、老人はまた笑みを浮かべる。
「くくくくく。無駄にはせんよ、遠江君。残骸に過ぎないものではあるが、精々有効に利用させてもらう。科学の進歩に貢献できるのなら、それで満足だろう」
 老人は、遠江勝という優秀な研究者の存在を知ってはいた。しかしその才能はあくまで個人的なもので、研究チーフとしては性格にあまりに難がありすぎる。それゆえ、大きな成果をあげることはできない。そう判断して、放置していた。
 しかし彼は、ブラウンアンドレイカーズ生命科学研究所日本法人で、現に大きな成果をあげる兆しを見せ始めていた。つまりその可能性を見極め損ねた、老人としては失策である。
 おかげで好機を逸するかとも思えたのだが、しかし結果はこの通りである。研究は遠江本人がしていたよりも数年遅れるだろうが、成果はこれで自分の物になる、そう思える。
「そうだ、あの研究が自分のものになれば、わしも…」
 血が昂ぶる。そしてその瞬間、その皺ばんだ体躯がぐらりと揺れた。年老いた肉体は、既に極度の興奮には耐えられなくなりつつあるのだ。しかしそれを、辛うじて、精神力で持ちこたえる。
「いや、少なくとも例の研究が一定の成果をあげる前に、君の体が老病に蝕まれるほうが早い。手遅れだ」
 誰かが、ある種その努力をあざ笑うかのような間で指摘する。しかしその声調には何の価値観も存在しない。ただ事実だけを告げる、そんな声だった。
「誰だ!」
 老人は椅子にかけたまま、緩慢な動作でその人物の姿を探した。しかし、誰もいない。彼の目に映るのは、高価な調度品の群れだけだ。
「まあ、そう急かなくてもいいじゃないか。どうせ、そう遠くないうちにゆっくり話す機会があるさ」
 始はそれだけつぶやいて、きょろきょろとあたりを見渡す老人に構わず立ち去った。

死に挑む男 了


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