死と向き合う男

後編


 何も見えない。最後に視覚が捕らえていたのは、敵手の刃だった。
「取られた」
 殺されたのだ。相打ちかも知れないが、とにかく、命を奪われたことは間違いない。色を失った視界の中で、一尉はそう感じていた。痛みがないのは既に、それを感じる余力すらないからだろう。
 そして、その血に重く塗れた刃を下げたはずの男が、小さくため息をつく。それから、彼は刀を鞘に納めた。刀身が鞘の中に滑り込むその音も、どこかため息のようだ。
 血をぬぐっても、振るい落としてもいない。それでいて、納刀に無理がない。そこでようやく、気がついた。
 斬られてなどいない。痛みがなくて当然だ。
 呆然として振り返る。部屋の隅では侵入者が、刀を納め終わっていたところだった。そう言えば、彼はその鞘を後ろに投げ落としていた。その事実をようやく思い出す。
 そして彼も、どう見ても無傷だ。
「なぜ…」
 双方余力のない中であればこその、渾身の一撃を放っていたはずだ。それがどうして、二人とも無事でいられるのか。皆目見当もつかない。
「さあ」
 自ら死力を尽くしたはずの戦いの奇怪な終結を、彼はまずその一言で片付けた。そして間を置いてから、つけ加える。
「速かった方が寸で止めて、それを見たもう一方が慌てて同じく止めたのか、あるいはほぼ同時で、期せずして双方止めたのか。そのいずれかでしょうが、私には分かりません」
 首を振る動作にも、投げやりになった感情が見て取れる。息は全く上がっていないのだが、しかしどこか、精神的に疲労しているようだった。
「何にせよ、ここまでしておきながら明確な形で勝負をつけられないのでは、致し方ありません。これで失礼しますよ。まあ、元々勝手に押しかけた時点で失礼極まりないですしね」
 ふらふらと、隙だらけの態勢で手を振る。今斬りかかれば、まず間違いなく倒せるだろう。
 しかし、そのあまりに気の抜けた姿に、そう見ている人間もやる気を完全にそがれていた。ここで戦いを挑むのは、単なる虐殺に近い。
 とりあえず、今は仕切り直す他ないようだ。
「名を聞いておこうか。階級、所属はどうでもいい」
 剣を交える前「誰か」と聞いたとき、この男は答えなかった。ひどく昔のように感じられるが、しかし現実としてはつい先程の出来事だ。
 本人が述べたところの理由は、無位無官であるからだ。確かに本当に所属も何もなければ、その人間がどんな個人名を持っていようと、軍組織にとっては意味のないことである。しかしそれでも、一尉は聞いていた。
「私は藤堂誠だ」
 それから、気がついてすぐにつけ加える。名を問うからには、まず自ら名乗るのが礼儀だ。軍隊や警察の場合はそうでもないが、これはそれらの身分にある人間が任務につくのは制服を着て、その素性を明らかにしていることが原則であるからだ。
「始太一」
 簡単に、それだけに気負うことなく、彼は答える。そして、笑みを浮かべた。それは苦笑ではあったが、藤堂にとっては初めて見る、危険さを秘めていない笑顔だった。
「しかし、私の名など聞いてどうするつもりです?」
 そこに暗に込められた意味を、藤堂は感じ取っていた。「この道」で、藤堂誠の名を知らないものはいない。数々の優勝暦を誇る人間を知らないとすれば、ただのもぐりだ。
 一方藤堂は、始太一なる名を聞いたことがない。彼は現にそこを勝ち進んできたので、大会で上位を占めるような技量の持ち主は大概知っているはずだが、それでもだ。
 それでも知らない、それでいてここまでの力を持っているとなると、元来表舞台に立つことを嫌う、あるいはそうできない事情のある人間なのだろう。まあ、堂々と不法侵入をやってのけるような人間であるから、それも納得できる。
 つまり彼が再びその姿を聞くどころか、名を聞く機会がある可能性も決して高くない。それでも、胸を張って答えた。
「聞いておけば、いずれ再戦の機会もあるだろう」
 はるかに遠い先かもしれない。そうであるならそのときには、互いの肉体ともとうに衰えている。しかしそれでも、この男と技量を競えるならそれでいいと、そう思った。
 その純粋な思いを、しかし、始はまた笑った。それから小さく首を振る。
「一期一会ですよ、藤堂さん」
 聞いたふうなお説教だ。人との出会いはその機会一度きりかもしれないのだから、その一瞬一瞬を大切にするように、という、そんな意味である。この場合、始としてはその機会があることを期待しないほうが良い、そう言いたいのだろう。
 一般論として考えると、その言い草はごく初心者向けだ。
 確かにその心構えは、いつどんなときにも欠かせない。茶道などでも重んじられる事柄ではあるが、こと武術の場合、いわゆる真剣勝負であればそれが文字通り最後の機会になる。例え実際には命の奪い合いではない試合であったとしても、その切迫した認識がない人間が、それを有する人間に勝つことは難しい。
 ただ、常に必要である以上、それはつまり基礎の基礎と言っても良い。その程度のことは一々注意されなくとも分かる程度でなければ、上達はおぼつかないのだ。
 今更そんなことを、と、言っても良かったのかもしれない。しかしそう片付けるにはなぜか、その言葉が、内臓にもたれるように重く感じられた。とっさに藤堂が言葉を返せない間に、始が続ける。
「先程までのあなたの太刀筋には、後があるなどと期待する、そんな甘さなどみじんも感じられませんでしたよ」
 すっと目を細める。黒い瞳の奥へ消えようとする鈍い輝きが、刀剣の切っ先を思わせた。
「その刹那の時も、未来へと続くためにある。そう考えるのは、欲をかき過ぎだろうか」
 直接口に出すのは気恥ずかしいので避けたが、それが希望というものだ。未来を信じない者が、現在を大切にできようはずもない。未来を見据えずただ刹那にのみ、しかも剣の道に生きるとすれば、それは血塗られただけの修羅の道だ。
「ええ、恐らくね。しかしまあ、私も人のことが言えた義理ではありませんが…」
 始は軽く首を振る。彼がどんな未来を見据えているのか、藤堂は尋ねようとした。しかし、それよりも、彼が話を打ち切るほうが早い。
「少しおしゃべりが過ぎましたね。いい立ち合いでしたが、それで少し調子に乗ってしまったようです。それでは…」
「おい…」
「さようなら」
 引き止める間もない、というところへ強引に声をかける。しかし彼は、それに構わず立ち去った。
 後に残るのは、そこに確かに凄まじいまでの力を持った人間がいたという存在感、それだけだ。
 いや、そうではない。そのことに、遅ればせながら、一尉は気がつく。そこにはこの道場の実質的な主である藤堂を含めて、誰も承知しない侵入者がいたのだという、確かな事実があったはずだ。
 それに気がついて、慌てて出入り口へと走る。ただ、その途上で、さらに慌てて、右手に握り締めたままの刀を鞘に納めた。自分が抜き身のままの刀を下げていると、そのときようやく気がついたのだ。銃刀法に明らかに引っかかる、そんな代物を素でさらしていれば、事情を知らぬものなら当然よけるか、あるいは止めにかかるに違いない。そしてこの場では職務上、止める人間の方が多いはずだ。
「待て!」
 とりあえず、この国で合法的な体裁を整えてから声をかける。藤堂は銃刀法などこの国における武器に対するの規制の範囲内で、一定の要件の下刀剣を所持する資格を与えられているのだ。必要だと言われるたびごとに、然るべき書類を所管の官公署に提出している。そして、それが拒絶されたこともない。
 抜き身の長刀を握り締めているならまだしも、鞘に収めて持っている分にはそう簡単に処罰されることはない。だからこそ、この刀をこの場所に置いているのだ。
 しかし、その確認の間に、あの敵手は姿を消していた。
「はっ!」
 衛士が、教本どおりに士官に対する礼節の姿勢をとる。道場の外で歩哨に立っていた男だ。
 その時点で既にこれはもう駄目だと、藤堂は悟っていた。それ以前に、見慣れぬ人物が先程通り過ぎたことに対して、相応の警戒をしていなければならないはずだ。そのあたりの警戒心が、完全に欠落している。
「いや、別に君を呼び止めたのではないのだが…」
 最早叱責する気力さえない。その意味を、相手は完全に誤解していた。
「二曹どのでありますか? 残念ながら、あの方は既にお引取りです。失礼ながら、少なからずご自分の未熟さに衝撃を覚えておいでのようで」
 言葉遣いそのものに、非とすべき所はほとんどない。何しろ、礼節に始まって武術に至るまで、藤堂自身教えられると思われることは、惜しまずこの青年に与えているからだ。自分が保有していてなお教えなかった知識もあるが、それは単に彼の進捗状況からしてまだ早いと判断したに過ぎない。意欲も才能も十分にある、教え子の中でも有望な人物だ。
 そして、一尉は自分が思い違いをしていることに気がついた。彼の口ぶりは、警戒していない以前にそもそも始を見ていない、そんなものなのだ。この場で立って寝てでもいなければ、それはありえないはずである。
「何か?」
「いや、何でもない。ご苦労」
 不審が顔に出たらしい。適当にごまかして、ひとまず立ち去ることにした。どうにも分からないことが多すぎる。それをある程度確かめてからでなければ、具体的な行動は起こせない。そんな気がしたのだ。
 結局藤堂は、刀を手に持ったままである。そんな彼の後姿を、若い歩哨は不思議そうに見つめていた。いくらこの施設の中とはいえ物騒だとは気が付いていたのだが、それを使って人を斬りに行くにしては、全く気迫が感じられなかったので止めもしなかった。
 それに、この敷地の中にはもっと物騒なものがいくらでも置いてある。例えば彼自身が現在持っている小銃がそうだ。いくら藤堂が剣の達人とはいえ、本当に何かする気なら銃火器を使うはずである。一人の戦士として、軍用品の威力を最大限に発揮させる方法を当然心得ている。
 しかし、砥ぎに出す必要もないはずである。手入れは普段から行き届いている。据え物切りなどをすれば話は別だが、そんな気配を、少なくとも彼は感じなかった。何をする気なのだろうと、純粋に不思議だった。
 さすがに藤堂も、段平を持ったままあちこち出歩こうとするつもりはない。一度自分のロッカーに立ち寄ってそれを入れ、施錠してから柵をめぐらしてある施設の外周部へと向かった。
 広大な敷地の外周全てを調べることは、実質的に不可能だ。しかし、あの道場まで、人目につかずに侵入する経路となると自ずと限られる。建物や樹木の配置、高低差、さらには巡回のスケジュールまでごく自然に把握している藤堂にとって、可能性の高い場所を特定することはさして難しくない。
 しかし結果は空振り、進入したらしい形跡を発見することはできなかった。そこでまさかと思って正門の出入記録を調べてみたが、当然のことながらそれらしい人間の記録はなかった。かえって、当番の人間に藤堂が不審がられただけである。
 夢でも見ていたのだろうか。そんな気味の悪さが体内に広がってゆく。それを払拭できぬまま、しかし他にすべきことも見当たらず、とりあえず藤堂は自分のロッカーまで戻った。
 寄り道をしたこともあり、定時はもう過ぎている。あたりには既に、同僚や部下の姿はなかった。土台、残業すればそれだけ業績が上がるなどという職種ではない。無論訓練は受ける人間の体を壊さない範囲でするに越したことはないが、それにも上の許可がいる。国家に仕える者として法を遵守しなければならないので、いわゆるサービス残業は原則として認められていなかった。非常時とあらば実質的に二十四時間態勢で働くことになるが、今は明らかに平時である。
 とりあえず制服から私服へ着替えて、帰り支度を済ませる。そしてふと気がついて、ロッカーの中の刀を手に取った。見咎められると面倒なので、念のためもう一度周囲に人がいないことを確認してから、鞘を払う。
 あれは夢ではない。あるいは、まだ夢の続きを、見ているかだ。無残にこぼれて、のこぎりとみまごうばかりに成り果てた刃が、それを物語っていた。
 砥ぎに出さなければならない。そうしなければこの刀がかわいそうだ。いや、しかしそもそも、ここまでの損傷となると砥いでどうにかなるものかも怪しい。よしんば可能であったとして、決して高くない自分の給料から、困難な作業に対する対価を払えるものだろうか。
 それでも、別に給料に不満があるわけではない。いや、何しろ金銭問題であるのであると言えばきりがないが、しかし自分を納得させるだけの心構えは十分できている。自分は官吏の一員だ。そして、官吏が高給を貪る国家よりは、薄給に甘んじる国家のほうが、余程健全である。その認識ができないほど自分は病んでいない。それが、藤堂にとってはささやかながら誇りする所なのだ。
 ともかく、この状態のものを職場に堂々と飾り続けるのも恥ずかしいので、一尉はついでにこれを持ち帰ることにした。所持の許可証は机の引き出しに入れてあるので、これも一緒に持って帰れば問題はない。土台この施設の敷地内で士官、要するにお偉いさんである藤堂を誰何するような間抜けはいないし、そこを出た後も借りている部屋までは目と鼻の先なので、警官に呼び止められるような可能性は乏しい。しかしそれでも、念のための用心である。
 実は、職場の自分の机から正門までの距離よりも、門からそこまでの距離のほうが近い。そんな所が、藤堂の借りているアパートである。六畳一間の風呂、トイレつき。築十五年で最寄り駅まではバスで十五分。家賃が安いだけがとりえの部屋だが、男の一人暮らしには特に不自由しない。むしろ広ければその分だけ掃除などに手間がかかり、面倒なだけである。
 もっとも、家賃や通勤の便のみを考えれば、広い敷地の一角にある単身者向け職員寮の方がさらに条件は良い。社宅の類にありがちなプライバシーに乏しいという問題は避けて通れないが、それでも士官であれば、大部屋に詰め込まれる兵員などよりははるかにましな私的領域を持てる。
 現に藤堂自身、若い頃はその寮に住んでいた。ただ、その後結婚したため、世帯住宅に移っていた。もっとも結局は別居状態になり、そこを引き払うに至っている。それからまた単身寮に戻るのもどうかと思われたので、民間のアパートを借りることにしたのだった。
 部屋に帰れば、後は一通り身の回りのことを済ませて、後は晩酌をして寝るだけである。明日も早いし、仕事から帰ってからわざわざするような趣味を持ち合わせているわけでもない
 刀は他人に預ける気がないので、とりあえず砥ぎ士に見てもらうだけでも今度の休みにするしかない。あるいは寝て起きてみたらやはり夢で、刀も何事もなかったかのようにもとの場所に収まっているのだろうか。そんなことを考えながら、藤堂は床に就いた。
 
 寝ていたのは、一瞬だろうか。あるいは数時間だったのだろうか。
 少なくともそれは、時計を確認しない限りその当人には分からない。眠るというこういは、そんなものである。そして彼に、その時計を確認する暇は与えられなかった。
 目が覚める。その原因の余韻が、彼に自分が目を覚ました理由を教えてくれた。それは、強烈な振動だ。木造アパートが、小刻みに震えている。そして、その振動の原因が地震ではないと、藤堂は察していた。地震であれば、持続時間がもう少し長いはずだ。そして何より、窓が鮮やか過ぎる橙色に染まっており、その光が否応なしに狭い部屋へ流れ込んでいる。
 これは爆発だ。そう察したそのとき、藤堂の体が思考より先に反応する。それまで寝ている自身を覆っていた布団を、膝立ちになりながら改めてかぶりなおした。
 爆発、という現象は、それ一回で終わる可能性が低い。工事用にダイナマイトを安全に対する十分な計算した上で配置したような場合ならともかく、事故であれば最初の爆発による被害によって次なる、そしてさらに大きい爆発を生じさせる場合が多い。爆発によって飛散した火種が新たな爆発物に着火したり、また、その高熱が、それまで発火に至らなかったものを燃え上がらせたりする。要するに誘爆だ。
 とっさにそれを危惧した藤堂の行動は、少なくともそれに関して決して間違いではなかった。最初の爆発には辛うじて耐えたらしい窓ガラスが、二度目の爆発によってあえなく吹き飛ばされる。前者の時点でだいぶ耐久力が弱まっていたのか、あるいはそもそも後者には始めから窓など簡単に吹き飛ばすだけの威力があったのか、それは分からない。
 しかしともかく、中にいた人間が布団をかぶりなおしていなければ、二度目の爆発によって砕かれ、そして飛び散る窓ガラスの破片によって、切り刻まれていたことは確かだ。何しろ次の瞬間生じた二次爆発が、安アパートの窓ガラスを粉々に砕き、しかもそれを部屋の内側に向けて吹き付けている。爆発に伴う騒ぎが一応終わったと思われたそのときには既に、部屋中にガラス片が突き刺さっていた。
 いや、辛うじて、少なくとも布団の塊ができていた向こう側の部分は、ある程度無事に残されている。そして、その範囲は出入り口へと通じる道筋と一致していた。
 別に、偶然の一致ではない。日当たりの良い側に居間など最も窓を広く取るべき部屋を配し、反対側には玄関や台所などを置く。狭い間取りをそれなりに有効活用する配置としては、当然の結果だ。
 そこの安全地帯向けて、藤堂は走りこむ。鎮火していない以上、もう一度爆発が生じないという可能性はどこにも無い。むしろ、大いにあると考えるべきだ。それを計算に入れれば、自分の身を守る行動として当然のことだ。さらに爆発が起これば、今度は窓さえない部屋へ熱風と火の粉が、下手をすれば火炎そのものが流れ込んでくることになる。長居をすべき理由は、どこにもない。
 状況が許すなら現金その他貴重品の類は持ち出すべきだが、それも場合によりけりだ。少なくとも今、藤堂はそれが最重要だとは判断していない。
 何よりも必要なのは、自分以外に被害者がいた場合の、人命救助だ。状況から判断して集合住宅に面した場所で爆発が生じた以上、被害者は自分以外にも複数いると考えた方が良い。自分はとっさに被害を最小限に防いだが、そうでない人間がそれよりはるかに多いと考えるべきだ。
 そのためにはまず、自分自身が生き残らなければならない。それが鉄則だ。自分を犠牲にしてまで他人を救う、その精神が崇高であることは誰も否定し得ない。しかし現実は、自分自身をも救えない人間が他人を救えるはずもない、そんなものである。
 もし彼が何もなしえないまま倒れたとしても、あれほどの爆発が起こっている以上、程なく誰かが119番通報をするだろう。ただ、その「程なく」までの間、わずか数分、あるいは数十秒が、時として生死を分ける。人間の生死の境界線は呼吸が止まってから概ね五分といわれているし、バケツで消火できるような小火でも数分放置すれば大火につながりかねないのだ。
 だからこそ、ともかくも部屋の出口へと向かう。しかし、その足が、もつれた。
 何かにつまづいたらしい。大して物があるわけでもない殺風景な部屋だが、爆風が吹き込んでいる以上どこに何が転がっていても不思議ではない。
 少なくとも痛みはないので、飛び散ったガラス片ではないようだ。それを幸いだと思うべきだろう。
 そんなことを考えながら、態勢を立て直そうとする。いや、そもそも一通り脳が活動している人間としては当然の反応として、反射的にそうしているのだ。思考は、それを後追いしているに過ぎない。
 当然、力強く足を踏みしめて姿勢を保つ。そのはずだった。
 膝をつく。それから、肘をつく。そして、それでもなお留まらずに、背中が床につく。いけない、と思ったときには既に、藤堂の体は廊下に転がっていた。別に長い廊下でもない。部屋と玄関、そしてその脇の手洗いとをつなぐ、それだけの空間だ。
 その狭い場所で、しかし四肢が思うように動かない。ガスだ。吸った当人がそう気がついたときには既に遅い、と、藤堂は嫌と言うほど教わっている。
 先進国であるはずのこの国においても、有毒ガスへの対処としてはカナリヤがつい先ごろ用いられた。空気の変化に対して敏感、要するに有毒ガスが充満している空間では真っ先に死ぬ生き物であるものだから、それが息絶えるのを観察して速やかに脱出すれば、その鳥篭を持っている人間らは助かるのだ。
 別の方法で危険を回避できれば、それに越したことはない。何もカナリヤの鳥篭を持っている人間は、自分の手の中にある可憐な小鳥が死ぬことを望んでいるわけではないのだ。しかしあいにく人体にとって有害な気体を全て、かつ致命的な危険が生じる前に検出する機械は、今のところ存在しない。自分が生き残るためには、むしろ最も「弱い」生き物に頼るしかないのが現状だ。
 もう遅い。つまづいた際痛みがなかったのは、既に神経を冒されている証拠なのかもしれない。
 しかしそれならばせめて、と、藤堂は声を張り上げた。
「ガ…!」
 大声を上げるためには、それだけ息を吸い込むことを必要とする。そして、この場合その行為が有毒物を大量に摂取することになる、藤堂にはそれが分かっていた。それでも、そうしようとしたのだ。
 ガス、正確に言えば有毒ガスだと、伝えなければならない。別にこのアパート、また、近辺の住民に愛着があるわけでもない。そもそも隣室の人間についてさえ、良く知ってはいないのだ。そもそも興味がなく、知ろうという努力もしなかった、その当然の帰結である。しかしともかく、周囲の人間を、何にも変えて逃がすべきだとの認識に、揺るぎはなかった。
 そして、彼はそこで止まった。伝えるべき内容を全て言いきることもなく、そもそも、そうすべき相手が最早いなかったことを、認識してさえいない。人一倍頑健で、しかも危険に対する感覚が鋭敏な彼がそこまでであった時点で、その他の民間人はそれよりはるか前に、当然、死んでいるのだ。
 結局、無駄な行動だった。そう断じるのならば、それも論理上不可能ではない。
 しかし…と、始は思った。力尽きたその顔は、穏やかだった。
「そう…悔いはありませんか」
 その理由を、始は無論知っている。なぜならばそのために、今日はあの道場へ姿を現したのだ。
 少しだけ、目を伏せる。それから、彼は姿を消した。

 ニュース番組は嫌いだ。難しくて良く分からないし、何よりチャンネルをそこにされてしまうと、裏でやっている自分好みの番組が見られなくなる。特に朝の番組は見ていないと、友達との話題について行けなくなるから絶対に見たいのだが、それに気を取られて支度が遅くなり、遅刻するという理由をつけられて許してもらえない。
 朝食をパンにしてもらえればもっと早く食べ終わり、その分だけ支度をする時間にも余裕が出るのだが、そう頼んでみても駄目だった。箸をうまく使えるようになればパンでもご飯でも時間は変わらなくなるのだから、まず箸の使い方を覚えなさいと、そう言われてしまったのだ。
 教育ママってやつだ。豊は自分の母親を、そう思っている。とにかく、あれをしろこれをしろと、うるさくてかなわない。
 その点父親は、穏やかだ。礼儀や行儀に厳しいことは厳しいのだが、がみがみとした所がない。きちんと筋道を立てて、根気強く教え諭してくれる。
 どうせなら父親の所で暮らしたい、豊はしばしばそう思うのだが、それは色々あって駄目らしい。特に昨日など、母親と喧嘩をしたあげく父親の所へ行くと言い出したら、ひどく怒られてしまった。
 叱られたのではない、怒られたのだ。その区別は、子供にもできる。前者は教育であるのに対し、後者は単なる感情の発露に過ぎない。昨日の一件は、明らかに後者だった。朝からなぜか苛々としていて、特に父親を話に持ち出したときの怒りようは、気味が悪いとさえ思えるものだった。
 あまりに理不尽だったので、家出をして父親の所まで行こうかとも思ったのだが、しかし一人でそこまでたどりつける自信がなかったので諦めざるを得なかった。途中で迷子にでもなったら、余計に怒られるに違いない。子供って不幸だ。つくづくそう思う。
 土台興味がない上に考え事をしていたので、豊はテレビニュースを全く見てはいなかった。もっとも、見た所で難しい単語が多すぎて、理解できなかったに違いない。
「…化学薬品を満載したタンクローリーに乗用車が衝突するという事故が起こりました。これによって爆発が発生、さらに有毒ガスが流出し、付近住民が一時避難するという事態になっております。警察発表によりますと死傷者も出ている模様ですが、まだ現場周辺の安全確認が済んでおらず、正確な数は不明とのことです」
 やや興奮気味に、記者が報告する。彼が一息ついたのを見計らってから、キャスターが質問した。
「事故の原因について、何か情報は入っていますか?」
「現場検証がまだ行われていないので未確認ではあるのですが、車の位置関係から判断してどうやら乗用車が対向車線にはみ出したのが直接の原因ではないかということです。それも、特に頑丈に設計されている化学薬品用のタンクが破損している所から見て、乗用車は極めて大きなスピードを出していたものと見られています」
「つまり乗用車の運転手に過失があった可能性が高いのですね」
「はい」
「その運転手の身元については?」
「今の所は…」
 言いよどむ記者に、一枚のメモが横から渡される。彼は大きくうなずいていた
「今、新たな情報が入ってまいりました。問題の乗用車から、覚醒剤が発見されたとのことです。警察はこの運転手の薬物使用が事故の直接の原因と見て、捜査を進める方針のようです」
「そうですか。また、何かありましたら報告をお願いします」
「はい」
 ひとまず中継が終わる。その画面を、豊の母親は冷たい目で見据えていた。昨日、正確に言えば昨夜は訳もなく苛ついて、血を分けた息子にずいぶんきつく当たってしまったものだと、反省している。だから今日は、少々栄養バランスに疑問が残ることには目をつぶって子供の好きなものを、と先程まで台所で弁当を詰めていたのだが、その優しい気持ちも、あんなニュースに接するとどこか冷める思いだった。
 例えば、ヤク中が車をぶっ飛ばして、あげく罪もない人間を多数殺傷する。しかしその当時は心神喪失状態にあったなどとして、罪に問われない可能性も少なからずある。そして問われた所で、ついこの間までその罪状、業務上過失致死の最高刑は五年だった。さらにどういうわけか裁判所が求刑を割り引くものだから、相場は四年だった。ここは要するに、そんな国だ。他にも形容の仕方は色々とあるが、しかしそれを一々考えると精神衛生に悪いだけなので、敢えてそうしようとはしない。
 そんな「国」に仕える、それもどんな官吏よりも過酷な身分となって、一体誰のために、何を守るというのだろう。つくづく、そう思う。
 その思いが募った結果、彼女は子供までもうけた男と、事実上離別する道を選んだ。籍だけは残しているが、それはその「縁」とやらを取り持った別の人間、戸籍上の夫の上司に対する義理立てにすぎない。
 個人的な体験からしても、「国」に、恩を感じたことはない。結婚して程なく子供ができて、ちょうどその頃夫は多くの大会に連戦連勝という身であったため、みすぼらしいことはさせられなかった。何かのプロ選手なら実績の分だけ実入りも増えるのだが、そこは所詮官吏の端くれに過ぎない。「これまでの実績を考慮して」と、昇格、昇給があったのは、少なくとも家計を預かる人間にとってずいぶん後のことだった。結局、その間の負担は家族がかぶるしかなかったし、昇給自体も期待されすぎる身分に照らして十分だとは感じられなかった。
 そして、そのためにはじめたパートをきっかけにして、視界が開けた。自分がいかに狭い世界に生きていたのかと、気づかされたのだ。大学を出るまでアルバイトも許されない家庭に育ったが、それは世間で言う「厳格」ですらない、未知のものを忌避する狭量に過ぎなかった。
 父親は自分の価値観にそぐわないものを一切拒絶する人間だったが、それは相手の存在を正面から蹴散らす、いわば横暴ではなかった。対立する価値観からひたすら逃げて、自分の思いのままになる「家庭」という空間に閉じこもる、要するに臆病だったのだと、今の彼女には分かっている。
 その「家庭」を構成するもう一人の主要な人物であるはずの母親は、それを受け入れるだけの、事実上の奴隷に過ぎなかった。決定要素としては、いなかったとも別に差し支えない。つまり「別に」で、片付けられる、それだけの人だったのだ。
 そしてそこで育てられた娘は、何も知らなかった。知らされなかった、と言うべきかもしれない。大学を出て就職をして、その職の意味を深く考える前に、勧められた見合いに応じて「寿」退社だった。会社は会社でそもそも採用の時点からそれを予定していたらしく、実に快く送り出してくれたものだ。女子社員というものは若くて綺麗であればそれで良い、そうでなくなれば用済みだからできる限りその前にいなくなって欲しい、そんな考え方が幹部の間で横行していたと知ったのは、彼女にとっては後の話である。
 しかしその後、自分の子供を育てるために懸命に仕事を見つけて、そして自分としてはかつてないほど真面目に物事に取り組んだ。結果、それまで見えてこなかったものが、色々と見えてきたのである。
 世の中には色々な人間もいる。無論、男もそうだ。その中で、当時彼女が夫と呼んでいたのは、私生活の上では真面目で誠実という以外にとりえのない、面白みのない人物だった。彼女の父親は「いい男だ」と言っていたが、それは所詮その父親の尺度による評価に過ぎないと、今の彼女は知っている。夫である、あるいはその候補となる人間を評価するのは、あくまで妻であるべきだ。 
 そうやって、いろいろなことを知った結果、とりあえず別居した。その後子供の養育費が滞るようなら即座に離婚してやる、と思っていたのだが、少なくともその面に関しては、相手の方が人間ができていた。言われたとおりの額を、それも期日を一日も破ることなく、指定口座に振り込み続けている。
 もっと吹っかけてやればよかったかと思わないではなかったが、しかしそうするのはあまりにさもしすぎる。現にそうするのは人の親として、恥ずべきだ。そう思って要求を吊り上げることはせず、余剰は息子のために貯蓄に回していた。
 仕事ぶりが認められて先ごろ待遇が変わったため、収入には以前より余裕がある。場合によっては自分自身にも危険の伴う出来高制だが、それは少なくとも彼女にとっては望むところと言って何ら問題のないものだった。例えば現在より多くの月給をもらっている公務員の方が珍しい、そのことを彼女自身が知っている。年齢的な要素を加味すれば、成功と評価して差し支えはどこにもない。
 彼女には彼女の生き方と、価値観と、そして何より、その根源である人生があるのだ。それを、誰も否定できはしない。どこかの誰かのような、実質的には単なる拒絶でしかない頭ごなしの否定ならともかく、彼女自身を揺さぶるような、そんな否定は不可能だ。
 だから…安月給に甘んじてまで、何のためにあるのかさえ定かではない「国」とやらに仕えて、挙句その「国」の守るべき国民の一人である薬物中毒者に殺されて、さらには結局誰も守ることができなかった人間を嘲うことも、できるのかもしれない。何しろ彼女は、金銭的にはそこそこの収入があり、また問題がまったくないとは自分自身でも思っていないとはいえ、生活面で一人の子供を、破綻することなく育てている。成し遂げたことを考えれば、後者の方が明らかに、実りというものがある
 では、現にそうできるのか。それは、彼女自身もまだ知らない。彼女が台所からテレビのある今に戻ってきたのは、つい先程のことである。そのときには既に中継カメラは事故現場を写すのを終えて、記者を正面から捕らえていた。
 住所等に関する報告はすでに終えられているし、また事故現場に対する直接の映像もない。元々、彼が住所を変えた時点で疎遠になっているので、それを一度聞いただけ、また見ただけで判別できると言う保証はなかった。そして無断欠勤は論外として、体調不良等を理由に休暇を申請したことさえない男が、この日に限って定時になっても姿を現さないことを同僚が不審がるのは、もう少し先の話だ。
 ただ、そもそもそんな彼女に、始はそれこそ始めから、注意を払ってはいなかった。まだ十分に若く、健康で、そして運が悪いわけでもない人間が相手では、できることは限られる。昨日意味もなく苛立たせた、それで十分であるはずだし、そしてそれが限界でもある。
 その点、子供はいい。生まれてからそれほど時間がたっていないから、まだ「生」というものが体に染み付いていないのだ。
 中でも特に男の子は、扱いやすい。
 進んで無茶をすることを、平気で「勇気」だとはき違える。何しろそれこそ「男らしい」のだと、そのように教えられることさえ珍しくない。
 それでいて疾病への耐性は、異性より弱い。例えば江戸時代の大名家、当時としては最も栄養状態が良く、進んだ医療を受けられたであろう階層が、しばしば婿養子を迎えていた。跡継ぎを設けるために側室という存在まで公然と認められながら、男児が病没するため結局無事な女児を介して家を存続させるしかなかったのだ。そんな現実は、少なくとも数限りない死に臨んだ始にとって、「たった百年と少し前」の、ごく最近の出来事でしかない。
 つまり少年は、始にしてみれば、どちらかと言えば自分に「近い」存在なのだ。だからそっと、ささやきかける。
「なあ、坊や。いや、こんな言い方をしたら、誇り高い君は怒るかもしれないね」
 返事はない。それは予定の範疇に過ぎなかったので、始は構わず続けた。むしろ返事があった方が、彼と言えども驚いてしまうだろう。
「豊君、覚えているかな? お父上が何よりも大切にしているものを。それから、それを見せてもらったことを」
 鮮明に、覚えている。危険だから決して触れようとしてはいけない。その日そのときだけでなく、今後ともずっと。そこまで固く戒められたというその事実だけをもってしても、幼心にとはいえ忘れるはずがない。
 そしてそれ自体が持つ妖しいまでの美しさも、忘れがたい。専門家に言わせれば「高々現代刀」に過ぎないものだが、しかしまだ十年と生きていない少年にとって、時代区分など関係なかった。むしろ真新しいからこその、生々しく危険で、そしてとろけるような香りを漂わせている。大人なら例えば、酔わせながら殺す毒酒、あるいは人を誘って取って食う怪異のようだなどと形容して自分の印象を整理するところだが、幼い豊はそれにただ圧倒されるばかりだった。
 その記憶を、始はそっと掬い出す。彼にとっては、別に困難な作業でもない。いや、そもそも、それ以外にできることの方が少ないのだ。
「大事にしてくれ」
 栄養バランスが良いらしい和風の朝食も、興味のないテレビも、視界にあるもの何もかもが、急速にぼやけていく。涙が溢れたのだ。幼子にも、それは分かっていた。いや、幼いからこそかえって、自分の状態を素直に感じ取ることができたのだ。大人であれば、頭では理解できない事態を前に混乱を広げるばかりだっただろう。
「豊? ど、どうしたの、豊! どこか痛いの、ねえ、豊!」
 母親が心配そうに呼びかける。いくら口うるさいとはいえ、そうやって心配をかけることが良くないとは、豊にも良く分かっている。しかし、それでも、どうすることもできなかった。
 ただ悲しかった。
 
 遺品の一部に関して相続に必要な書類一式を持参して、故人の部下だという青年が訪れたのは、数日後のことである。彼によると美術品としてのみ所持が認められているため、何らかの瑕があれば問題が出る所だがさすがに全く問題がない、とのことだった。
 しかし豊はその時のことを、全く覚えていない。全てのいきさつを改めて聞かされたのは、彼が成人に達してそれを合法的に所持する要件を満たしたため、母親から譲渡する手続きを取った際である。

死と向き合う男 了


前へ 小説の棚へ