死を撒く男

T 押し入った男


 暇だね。
 カウンターの中でカップを磨きながら、男はそんな感想とともに苦笑をもらした。
 多彩なフレーバーがあるわけでも、評判のスイーツがあるわけでもない。流行から取り残された、昔ながらの喫茶店である。
 それに立地も悪い。郊外で、しかもその中心地さえ外れている。幹線道路に面してはいるが、それは他の地域に直結しているということに他ならない。要するに町外れで他へ出て行くことに便利なのである。流行を取り入れたところで、それに敏感な人間が集まってくるとは期待しない方が良い。
 そんな現状をいまさらながら再確認したのだが、彼はそれを深刻に受け止めていなかった。土台生活のためにしている店ではないのだ。売り上げに乏しいどころか全くなくとも苦にならない。寂れた店の奥で一人黙々と食器を磨き続けている姿からは想像もつかないだろうが、これでも働かずにいられる身分なのである。
 それでも何故店にいるのかというと、この雰囲気が好きだからだ。静かな店内、漂う豊かな香り、白いカップに映える闇の色…。そんなものを気に入っている。そのため喫茶店としては当たり前の音楽さえ、今はかけていない。テレビも成り行き上置いてはあるのだが、今まで彼がそれをつけたことはなかった。
 ただ、そんな静寂が簡単に破られるものであることを、店主はよく知っていた。表の道路を爆音とともに自動車がやってきたかと思えば、次の瞬間耳を刺すブレーキ音とともに急停止する。場所はよりにもよって店の駐車場だった。まあ、現在客が一人もいない店であるから、停車しやすかったのだろう。
「いらっしゃいませ、と言いたい所だが…」
 一応は客商売であっても、招かれざる客というものはあるものだ。また別の、そしてけたたましい音を聞きながらそんなことを考える。それは、パトカーのサイレンだった。しかも上り下り、その双方から響いてくる。どういう罪状かは分からないが、ともかく今駐車場に入った車には、警察から大掛かりな追跡を受ける人間が乗っているらしい。
 考えている間に、店正面の扉が蹴り開けられる。どんな相手でも笑顔で挨拶をする、それが客商売の基本だが、今はその例外に属する。とりあえず反応を保留して、相手の様子を見る。
「う、動くな!」
 目元だけが、いやに印象に残る男だった。血走った眼球をぎょろぎょろと動かし、その下には黒々と隈ができている。
 もっとも、常識で考えてそれ以上の観察ができるような状況ではなかった。男の右手には猟銃があり、一方左手で若い女性の襟首を掴んでいる。凶器と人質、最悪の取り合わせだ。
 店主は慎重にうなずいてから、ゆっくりと両手を挙げた。今の所銃口は人のいない方へ向けられているが、下手に刺激をしたら自分か女性か、どちらかが即座に撃たれる可能性がある。見たところ、相手が冷静であるとは思えなかった。
 他に客はいない。そしてただ一人の店の人間は、抵抗しないと態度で示している。とりあえずそれを確認して、男は少しだけ落ち着きを取り戻した。もっとも、その結果として出てきたのは脅迫の台詞である。
「出入り口…それから窓の鍵も全部閉めろ。カーテンも閉めるんだ。言う通りにしなければ殺すぞ。逃げたらこの女を殺す。そうすればお前も、殺人の共犯だぞ」
 論理ともいえない、勝手極まる言い分だ。ただ逃げただけで犯人にされるいわれはない。しかしそもそも人質を取るような人間に道理を求めても仕方がないので、店主は反論しなかった。
「分かりました。そうしますから、その人を傷つけないで下さい」
「俺に指図するな!」
 やおら、銃口が火を噴く。店主が背にしていた食器棚が砕け散った。人質の女は小さく息を呑んだが、悲鳴を上げはしなかった。そんなことをすれば男を余計に刺激して危険だと、本能的に察しているのだろう。
 狂っている。今安全装置を外した様子は見られなかったから、恐らく車に乗っていたときからいつでも撃てる状態だったのだろう。しかもあれほど乱暴な運転だから、いつ暴発してもおかしくなかった。人質だけでなく、自分自身も既に高度の危険にさらしていたはずである。
 また、今撃ったのも全くの考えなしだ。店主に命中はしなかったが、散弾を使う猟銃で細かい狙いをつけることなど不可能だ。意図的に外した結果ではない。
「分かりました」
 指図ではなく懇願だったのだが、どうやらそんな話の通じる相手でもないらしい。とにかく、今は従うしかない。
 不幸中の幸いで、あれだけ乱暴にされたにもかかわらず正面扉は壊れていない。そこからまず、鍵をかけることにする。
「近づかないで下さい!」
 パトカーから降りた警官が、慎重に接近を試みている。犯人が銃を所持していると知っているのだろう。ただ、それに刺激された結果また発砲させるわけには行かないので、店主は制止した。とはいえ、警察もそれが仕事だから、引き下がってはくれない。とりあえず包囲は続けている。
 それ以上しゃべっても実りがないので、店主はともかくも作業を続けた。出入り口に続いて窓の鍵も閉め、カーテンを引く。そうしている間ずっと、男は女に銃を突きつけていた。
「終わりましたよ」
「裏口は?」
 彼にも飲食店の基本的な構造に関する知識があるのか、あるいは異常なまでの警戒心の結果か、ともかく必要なことを確かめてくる。食材の搬入、あるいはごみ出し、従業員の出退勤など客に見られるのが好ましくない出入りのために、こういう店には裏口があるのが普通だ。
 店主は淡々と答えた。
「始めから閉めてあります。店番が私一人なもので」
「本当だろうな」
「私も命は惜しいですから。嘘はつきません」
 命が惜しいからこそ、人間はなんでもするものだ。そう思えたのだが、もちろん顔には出さない。
「おい、お前、確かめて来い。もし逃げようとするなら、後ろから撃ち殺すぞ」
 結局彼は店主を信用せずに、女にそれをさせることにした。自分でそうしないのは、警察からの狙撃を警戒しているためである。
「は、はい…」
 彼女はおぼつかない足取りで歩き出す。迅速に行動しなければ銃を持った凶漢の怒りを買うとは分かっているのだが、恐怖で足がすくんでいるのだ。
「さっさとしろ!」
 そしてやはり、怒鳴り散らす。余計に怖がらせるだけで強制の手段としても最悪だ。傍観している店主にはそう見えたのだが、しかし何か言えばそれだけ事態を悪化させかねないと思って、黙っている。
 結局彼女は、震える手で厨房にある裏口の鍵が閉められていることを確認した。その他裏手の窓は小さいうえに格子がはめられており、人間が通れるような状態ではない。元来広くもない店で、開口部は限られているのだ。またそのため、人質としては拘束されていなくとも、銃を持った相手から逃げることが困難である。
「じゃあ…じゃあ次はそうだ。テレビをつけろ。それからラジオもだ」
 彼女が戻らないうちに、銃を持った男は休みなく指示を出す。つまる所同時につけて何の意味があるのか、などという疑問はおくびにも出さずに、店主はその通りに行動を始めた。
 まずはテレビの電源を入れる。待機電力を嫌っているのか、彼はリモコンを持っているにもかかわらず手動でそうしていた。その後その手のリモコンを、相手に示す。
「チャンネルはどこにします?」
 珈琲豆の銘柄をたずねる、その程度の口調だった。ただ、その落ち着きがさすがというべきかどうかを判断するだけの余力を、聞く人間は持っていない。
「どこでもいい。いやとにかく、俺のことをやっている所だ」
 そもそも自分がどこの誰であるのか、それを彼は名乗っていない。店主にとっては当然ながら、初めて見る顔だ。だから唐突に「俺」などと言ってもあまり意味がない。
 しかしその点を非難しても相手を刺激するだけだ。そしてこの極度に興奮した男は、刺激に対して予想外の反応をする可能性が否定できない。それをよく承知しているため、店主は逆らわない。
「探してみます」
 言いながら、まず最も可能性の高いチャンネルにあわせる。大手民放の一局だった。
 この時間帯、生放送でワイドショーをやっている。事件現場の中継ならまずこのあたりだろう。そして今この事態は、どう考えても事件だった。
 しかし、現に画面に映し出されたのは芸能ニュースである。顔がいいだけの、いやそもそもいいかどうかも好み次第で微妙な人間が何かしゃべっている。
 スキャンダルか礼賛か、その内容を確かめる時間も惜しいので、店主はチャンネルを変えた。今度は国営放送だ。
 だがこれも外れ。情報知識番組の再放送が垂れ流されている。
 その他も念のため確かめたが、全て外れだった。もっともこの店はたたずまい同様家電も時代遅れになりつつあるので、衛星放送やケーブルテレビは入れていない。地上波放送各社を当たっただけである。
「偶然居合わせるかあるいは別目的で密着取材でもしていない限り、報道はどうしても警察より遅くなります。少なくともすぐには無理でしょう」
 つとめて冷静に、しかし要するに言い訳をしながら、店主はテレビを諦めてラジオに切り替えた。とってつけたように置かれたテレビと異なり、こちらはアンティークで店内に良く映える。
「うるさい! ごたくはいいからさっさとしろ!」
 もう一人の男が叫ぶ。興奮した彼にとって、自動選局機能もない「ぼろ」はどうにももどかしいだけだった。
 最早返事をする意味もない。そう判断して、店主はそれらしい音はないかと注意しながら周波数を変え続けた。
 テレビと変わらないらしい大手には早々に見切りをつけ、地域密着型の局に絞る。洗練は期待できないが個性的な番組構成を、彼は気に入っていた。新しく機械を買い足したりする必要のない親しみやすさも良い。
 ただ、問題はこの店の電波状況だ。ラジオは市販のままの単体で、特に外部アンテナなどを用いてはいない。元来それほど出力の強くない地域局の電波を捉えるには、やや不足があるのだ。結果どうしても音質が不安定になる。その古めかしさがある意味この店の「味」だったのだが、そんなものがこの相手に通じるはずもなかった。
「なめてるんじゃないだろうな、てめえ!」
 どこか空疎な、しかしそれだけに純粋な怒りの叫びが響き渡った。
「!」
 身をかわそうとするが、引き金を引くより速く動けるはずもない。結果的に為すすべもなく、彼はラジオが散弾混じりの破片に変わるのを見守るしかなかった。幸い手には当たらなかったが、これは射撃手の技量が悪すぎたからに過ぎない。狙いもせずに、発砲していたのだ。おかげでラジオが置かれていたカウンターまで大きく傷ついている。
「ひああああああっ!」
 もう一人の人質が悲鳴を上げ、無闇に手足をばたつかせている。その勢いで自分も殺されると思ったのだろう。ただ、彼女はすでに腰を抜かしているので、その行動は少なくとも逃げる役には立たなかった。
「おとなしくしていて下さい。騒げば騒ぐほど、追い詰められた人をさらに追い詰めるだけですよ」
 今一人、店主が注意する。彼にしてみれば、明らかに常軌を逸している侵入者を、これ以上刺激したくないのだ。しかし、彼女にそれを聞いた様子はない。
「ひ…あ、あ…」
 幸い、というべきかどうか分からない。ともかく彼女は結局、震え上がって何もしようとはしなかった。
「あまり性能が良いとはいえないものだったのですが…まあ、今となってはどうでも良いことですね」
 店主が諦めの表情を浮かべて、敵対心がないことを示す。そしてこれ以上刺激をしないようゆっくりと、話しかけた。
「一息、つきませんか。飲み物でもどうです」
 とりあえず落ち着かせなければ危険極まる。幸いここは喫茶店だから、手っ取り早い手段があった。
「毒でも入れるつもりじゃないだろうな」
 しかし相手の警戒心が尋常ではない。そこを非難したいのをこらえながら、店主は首を振った。
「滅相もない。そんなものありませんよ」
 万一何かの手違いで客に出すものに混入したら洒落にならない。殺虫剤などならあるが、それも口に入るものとは明確に分けて保管されている。
「まあいいです。封を切っていないミネラルウォーターがありますよ。それにジュースも」
 メニューを広げて見せる。業務用の大きなパックで開けるのはもったいないが、背に腹は代えられない。珈琲にはそれなりにこだわりがあるものの、それ以外についてはごく普通の品揃えだった。普通の営業をしようと思ったら、ジュースは全てその場で生絞りという訳には行かない。
「ならオレンジだ」
「分かりました」
 冷蔵庫から指定のものを持ってくる。通常はグラスに氷を入れてからジュースを注ぐのだが、今回は省略した。氷に何か細工があるなどと疑われたくない。作業も、客に見え内容に作られたカウンターの中ではなく、上で行って見せる。
 激しく動いたり一々怒鳴ったりで、のどは渇いていたのだろう。男は店主の手からグラスをひったくると、すぐに飲み始めた。しかしがぶ飲みはしない。それに注意をとられて警戒が薄れるのを嫌っているらしい。
 ともかくも、一応はこちらの言うことに耳を傾けるようになったのは前進だ。そう解釈することにして、店主は注意を別の人物に向けた。
「そちらもどうです? お勧めはブレンドですよ。下手な店では安い豆をいい加減に掛け合わせたものをそう呼んでいますけれど、ここでは本当に自信作なんです」
 人質の女性に声をかける。彼女も銃を持った男とは別の意味でだが、精神的な安定を強く必要としているはずだ。しかしまた、反応はない。これでは出しても味が分かるどころか、のどを通りもしないだろう。
「ま、いいですけれどね」
 結局彼は、二杯分の珈琲を淹れた。気が変わったのであればもう一人の女性が飲む分と、そして自分自身の分である。加減はやや薄め。追い詰められた人質が水分を補給するのにふさわしいものだ。店主としてはもっと濃いものが好みだが、そこは客商売を心得ている。
 しかし、彼女はそれを見ようともしなかった。ただ、ちらちらと銃を持った男を警戒しては、何もない方向へと視線をやってこれ以自分に危害が及ぶことを避けている。それも賢明な判断だと思って、店主はこれ以上注文を促そうとはしなかった。
 今この店の雰囲気を奇妙に受け入れる珈琲だった。芳醇な香りが、広くもない店内を満たす。
「お気持ちがお変わりでしたら、いつでもどうぞ。クリームかミルクが御入用であれば、ご遠慮なくお申し付け下さい」
 店主はそう言いながら、自分のカップに少しだけ砂糖を入れた。日本人の珈琲党にはブラック以外を認めない言わば原理主義者が少なくないが、彼はそのような人間ではない。それぞれの人間が好みに応じて心地よく飲めればそれで良い、そう思っている。その考え方を他人に強制するつもりはないが、逆に強制されるのが嫌いなのだ。ちなみに現在の珈琲の飲み方を確立した欧米では、ブラックはほとんど飲まれていない。
 クリームやミルクがテーブルやカウンターの上に常時置かれていないのは、生のものしか用意していないからである。気が向けば店主自身も使うのだが、今はそうしてやわらげられたものを飲みたい雰囲気ではなかった。
 手詰まりだが、どうしたものか。店主は珈琲を飲みながら思案した。丁寧に淹れたものではあるが、実の所彼自身味わってなどいない。落ち着いて味覚や嗅覚を満足させる状況でないことは明らかである。近代以降、珈琲はしばしば間を持たせるためだけに飲まれてきた。不本意ながら、その歴史に追従したのだった。
 これ以上相手に働きかけても、悪い方向に刺激するだけに終わる可能性が高いように感じられる。とはいえ、何もしないでいれば状況が改善されるという保証もない。この店はすでに警察に包囲されているが、彼らが事件のすべてを円満に解決してくれるなどという甘い認識を、店主は抱いていなかった。最終的に犯人は逮捕または射殺されるだろうが、その過程で自分かもう一人の人質に危害が加えられる可能性は決して低くない。
 ただじっとしているというそれだけの決断でも、文字通り命がけだ。自分ひとりなら一か八か打って出るが、しかしもう一人のことを考えるとそうもいかない。
 店主が迷っているうちに、ほどなく事態がまた動き出した。そもそもこの場には、彼よりもはるかに気が短い人間がいたのである。
「おい、外の連中と話がしたい。何とかしろ」
 銃を持った男が口を開く。女はびくりと身を震わせたが、結局何も言わなかった。男もそれを無視する。そもそも彼女には期待していなかったのだろう。結果やむを得ず、店主が応答することになる。
「所轄署にかけてみますね。百十番にかけてもいたずらと混同されてしまうでしょうから」
 備え付けの電話機は、黒いプラスチック製の安っぽいものだ。アンティーク風で統一された店の雰囲気には合わないので、カウンターの裏に設置されている。実際、機能もそれほど多くない。従業員がごく限られるこの店はデリバリーなどをしていないので、これで十分なのだ。かつての喫茶店にはほぼ必ず客用にピンクの公衆電話が置かれていたものだが、今は皆携帯電話を使うので必要がなくなっている。
 電話帳をめくって最寄の警察署の番号を探し出す。そして手早く、ボタンを押した。
「こちらはカフェ・エルデストワンと申します。ええと…銃刀法違反とか、そういう担当の部署をお願いします。はい、はい。まあ…そんな所です。緊急ですよ」
 電話の向こうで誰かが話している、とまでは分かる。しかし正確な内容は聞き取れない。それを察しているらしく、会話が途切れた際に店主は補足した。
「今、内線で係に回してもらっています」
 間違った相手に聞こえないよう受話器を手で押さえる慣れた手つきは、喫茶店のマスターというより多忙なビジネスマンを思わせる。そして程なく、その担当の係につながったようだ。まず相手が何か早口でまくし立てたらしく、店主はそれを聞いてから返答する。
「ええ、そうですよ。確かにエルデストワンです。どうやら話はすぐ通じるようですね」
 今の所、この事件に関して報道はされていないらしい。それは先程確認したばかりだ。その状況下で警察に包囲されている店の名前を告げるとなると、関係者か警察無線を傍受できる人間以外にありえない。後者の場合悪質な無線マニアという可能性もあるが、それはそれで無視できない問題だ。
 ともかく、電話を取った人間はいたずらなどではないと判断し、真剣に聞く気があるらしい。ついで店主に対してされた質問は、警察としては当然のものだった。
「私の名前ですか? 私は…」
 相手がどこの誰かを確認する。犯罪捜査以前に礼儀として当然のことだと思ったので、店主は何気なく答えようとした。しかしそれを、凶漢は許さない。
「余計なことをしゃべるな! お前はただ俺の言うとおりにすればいい!」
 怒声とともに、銃口が店主のこめかみへと突きつけられる。受話器を耳に当てている、そのすぐ脇だ。店主は一度口を引き結んでから、小さくため息をついた。恐怖よりは不快に思っているのだが、反抗的な態度は益がないと承知している。やり過ごすようにして、電話回線越しの会話を再開した。
「お聞きの通りですので、ご容赦を。こちらのお客様が外の方々とお話がしたいとおっしゃるもので、こうしてお取次ぎをいたしております。…ええ、はい。簡単ではないことは承知しております。ただ、事情が事情ですのでこちらもあまり待つ訳には…」
 会話が途切れて、少し目を伏せる。そして不自然にならない範囲で注意深く、目を合わせないようにしながら、再度説明した。
「上司や、現場の人間と相談するそうです。担当しているのが先方の警察署ではないようで、少しかかると言っています」
「そうやって時間稼ぎでもしてみろ! すぐさまこいつを殺すからな!」
 取り次ぐ必要もない。店主は二秒ほど、すぐに引き金が引かれるかどうか様子をうかがってから口を開いた。
「…だ、そうです。お願いですから、早くしてください」
 すでに恐怖や怒りを感じる気力もないのか、無感動な声で店主は要望した。そして電話回線の向こうであわただしいやり取りが行われているのを、じっと聞いている。やがて、軽くうなずいてから視線を上げた。
「一度切って欲しいそうです。この辺りにいる人が、すぐにかけ直すと言っています」
「いい加減なことを言ってるんじゃないだろうな」
「大丈夫でしょう。表の看板に書かれているここの電話番号を言っていました。この店、最近名前と持ち主が変わったばかりなので、電話帳にもまだ載っていません。すぐに思い出すか、知ることができるのは、私と周りにいる人だけのはずです」
 少なくとも表面上は、落ち着いた様子で説明する。相手を落ち着かせるためにはまず自分が落ち着くこと、それが接客、というより人間関係の鉄則だ。
 それが功を奏したのか、銃を持った男はあごでそうするように命じた。
「では」
 日本語で最も簡単な別れの挨拶をして、店主は電話を切る。急いではいるが、まずフックを押してから受話器を置くという配慮は忘れていなかった。
「こちらが電話を切った、と警察署が確認してから出先の人に伝えるまで少なくとも数十秒。さらにその出先の人が、未登録の電話番号にかけるまでももう少しかかります。携帯電話ですから接続にも多少時間がかかるでしょうし、すぐに反応があると期待はしない方がいいでしょう」
 こうして、話し終えるだけでも十秒以上。それだけ時間を稼いだが、これは同時にその間彼に対する危険を増してもいた。その手は受話器を置いてはいたが、放していない。
 そんな姿を、凶漢は戸惑いと苛立ちの混ざった視線で見据えた。
「何か気に触るな、お前。俺の考えを読もうとしてるのか」
 極力相手を刺激しないよう、店主は極力先を読んで言葉を選んでいる。しかしその姿勢自体が、異常に攻撃的になっている人間にとっては不快なのだった。
「いえ、別に…」
 実際は、その通りである。普通の客相手にそのようなことを言われたら、「お客様のお気持ちに沿うのがこの仕事ですから」などと接客業としては当然の台詞で返したことだろう。しかし、今はそれが賢明な選択であるとは思えなかった。「滅相もない」などと言葉を飾ることもなく、むしろ不器用そうに否定する。
 そして、沈黙がよどんだ。これまでか、と、店主は何故か冷め切った視線を伏せる。その先に、彼がまだ手を置いたままの受話器があった。
 やや小さい、しかしそれでも十分に場違いな、せわしないが重みを欠く電子音が響く。電話の呼び出しだ。
 店主は一瞬、息を飲んでから銃を持った男を見た。驚いた彼がとっさに引き金を引いてしまうのではないかと思ったのだが、さすがにそれは心配のしすぎだったらしい。凶暴な男だが、少なくとも自分が言い出した結果電話がかかってくるはずだということは覚えていた。銃口を動かして、受話器を取るよう促す。
 店の雰囲気に合わせるためには音量を下げるので精一杯で、音そのものを変えることさえできない。つまり機能としては一般的な携帯電話にもはるかに劣る。そんな安物も、このときばかりは頼もしく思えた。
「はい」
 敢えて、名乗らない。こちらが待っている、つまり事情をよく知っている人間なら、向こうからそれなりのことを言ってくるはずだ。
「エルデストワンか」
 やや様子をうかがってからの第一声が、それだった。
「そうです。そちらは?」
「県警の倉田という。ここの指揮を取っている者だ。あんたは?」
 初めて会話をする相手にその口調はどうかと感じたが、それがこのような現場では常識なのだろうと判断して、とやかくは言わないことにした。実際、こちらとしても礼儀を云々している場合ではない。何しろ先程名乗ろうとしただけで、銃を突きつけられた。
「余計なことをしゃべるなと言われているので、今はご容赦を。…倉田さんとおっしゃる方です。指揮をしている人だそうですが、代わりますか?」
 後半部は、銃を持った男に対しての言葉である。男は小さく首を振ったが、目は店主から離していなかった。銃口も向けたままである。
「俺が電話に気を取られている間に何かされたくない。お前がしゃべれ。変なことをしたら自分が殺される、そう言うんだ」
「はい。何かしたら私を殺すと、こちらの方はおっしゃっています。私に銃を向けるのにお忙しいようで、代わりに私が話すようにとのことです」
 異常なまでに警戒心が強い。倉田はまず一瞬あきれてしまったようで、二の句を告ぐまでに少し間があった。
「分かった。じゃあ何の話がしたいのか、聞いてもらえるかな?」
 電話口に出ているのが被害者だと理解してくれたらしい。倉田の口調から少し角が取れた。
「はい。どういったお話でしょうか、とのことです」
「取り囲んでいる警官を下がらせろ。今すぐにだ。さもなければここにいる奴らを殺す。下がるまで、何人でも殺してやる。そう言え」
 何人でも、とは言うが店内には彼自身を入れても三人しかいない。本当に自分の言うとおりにしたら、むしろ彼の方がすぐに追い詰められるだろう。
 冷静な判断ができなくなっているのではない。はったりだ。言外に、余計なことを言うなとの意図が感じ取れる。
 中にいる人間の数を多く見せかけることで、交渉を有利に運ぼうとしているのだろう。店が取り囲まれた直後にカーテンを閉めたから、警官達は中に人質が何人いるのか、正確には把握していないはずである。事実としては電話に出ている店主、そして当初から人質とされている女性の二人だけではある。しかしここが流行らない店で他に客がいなかったという保障が、少なくとも彼らにはない。
「今すぐ下がってください。さもなければ我々を、何人でも殺すと」
 凶暴だが、思ったよりも頭が回る。最も危険なタイプだ。そう判断した店主は、注意深く言葉を選んだ。うかつに、あるいはそれを装って警察側に有利な情報を伝えれば、その瞬間に撃ち殺されかねない。
「分かった。しかし命令が行き渡るまでに時間がかかる。少し待ってもらえないだろうか」
 条件つきではあるが、むしろ拍子抜けするほど簡単に要求を呑んでくれた。店主はそれをそのまま伝える。しかし、銃を持った男は安心しなかった。
「そうやって時間を稼ぐつもりじゃないのか。嘘をついているような口調じゃなかったか」
 そうかもしれない、とは店主自身も思っていた。ただ、それをそのまま伝えてしまうと自分の身が危ないので、引き続き慎重に話す。
「さあ…今日初めて声を聞く人ですし、顔も見えませんから」
「チッ…。まあいい。ちょっとなら待ってやる」
 また気分を害するかと思われたが、こちらはこちらで意外と冷静だった。さすがにいつまでも突きつけているのに疲れていたのか、銃口を下ろす。店主はさすがに、ため息をついたのを隠そうとしなかった。それから倉田に伝える。
「少しならお待ちいただけるそうです」
「そうか、良かった。できる限り早くさせるから、そちらも頑張って欲しい」
 最後の言葉は、犯人ではなく人質達に向けたものだろう。だからこそ、店主は敢えて表情を消して簡単に応じた。
「はい」
 それから、銃を持った男に対して必要な情報だけを伝える。
「できる限り早くする、そうおっしゃっています」
「…向こうの電話番号を聞き出して、一度切れ」
 少し考えた末、彼はそれだけ指示した。仕方なく、店主は言われた通りにする。犯人側から連絡の手段を確保したことが良い材料だと判断したのか、倉田も自分の携帯番号を教えただけで、無理に引き延ばしはしなかった。
「さて…これから、どうなると思う?」
 ある程度は冷静になったのだろう。銃を持った男は、これまでよりも低い調子でたずねた。
 人質の女にめぼしい反応はない。いくら様子が変わったとはいえ、相手がまだ引き金から手を放していないのだから当然と言えば当然である。それに期待はしていなかったらしく、男は店主へ視線を転じた。
 凶器、人質つきで押しかけてきた挙句意見を求めるなど正直な所迷惑極まりない話だが、理不尽である分苦情も言えない。店主はとりあえず、考えていることを正直に伝えた。
「警察も下がるとは言え撤収はしないでしょう。連絡方法も確保したわけですし、説得というのがパターンですね」
 犯人の目の届かない所に警官を配置して突入の機会をうかがいつつ、交渉によって投降を促す。どちらに比重を置くかは国によっても状況によっても異なるが、警察組織の対応としては万国共通のはずだ。もちろん、前半部の物騒な部分は余計な刺激をしたくないので省略した。
 その部分もどうやら察したようだが、彼は激発しなかった。ただ、顔をゆがめて吐き捨てる。
「はん。生き別れの母親でも連れてくるか? 生憎だがあの女はもう何年も前にこの手で殺してやったぞ」
 女が息を飲む。店主はひとまず、そのことから注意をそらすことにした。事実だとすればそんな凶悪な事件を思い出させるのは問題外だし、はったりだとしてもその自分の言葉で再び興奮状態に陥るおそれがある。
「まずは食べ物や飲み物の差し入れをして、話すきっかけを作る所から始めるでしょう。人質がいる場合、その人間に食べさせない訳にも行きませんしね」
 ただでさえ精神的に追い詰められている篭城犯が、飢餓状態に陥れば何をするか分からない。自殺で済むならまだましな方、その場にいる全員道連れということもありえる。体力はつけさせることになるが、それも止むを得ない。それに満腹状態で眠気を覚えてくれればしめたものだ。突入の絶好の機会になる。
「この店ならその必要はないな。喫茶店なら食い物くらいはあるだろう」
 指摘は至極冷静だった。表情を消しつつ、店主がうなずく。
「ええまあ。一応、軽食もやっていますから」
 トースト、スパゲティ、カレーと言った定番メニューを出している。ただしはっきり言えば珈琲の片手間なので、味は良く言ってそこそこだ。栄養バランスとしても炭水化物に偏りすぎており、褒められたものではない。本当に美味しいものが食べたいならそれぞれ心当たりの専門店を紹介し、健康が気になるなら自炊をお勧めすることにしている。
「三人で何日分ある?」
 とりあえず、残り二人にも食べさせるつもりはあるらしい。内心やや安堵しながら、店主は考えた。
「営業ベースでしか考えたことがないのですぐには分かりませんけれど、当分はもちますよ。ただ、生鮮食品などは食べ切るよりも悪くなるほうが早いでしょうね」
 通常の仕入れは考えられないのだから、食材は時間がたつにつれて劣化するしかない。冷蔵庫に入れてはいるが、限界はある。スパゲティなら麺はそのままでも相当長期間保存できるし、ソースも缶詰のものがあるからどうにかなりはするだろう。しかしそれだけというのもぞっとしない話ではあった。まあ、大方その前に人間の方が限界を向かえるだろうが。
「電気やガス、水道を止められたらどうなる」
 極度に後ろ向きの考え方をする男だ。あるいは実際止められたことがあるのかもしれない。前二つはともかく最後の水道は余程のことがない限り止らないはずだが、この場では警察の非常手段としての可能性を否定できない。
「そのまま口をつけられるのは、今のようなジュース類と一部の缶詰だけということになります」
 缶詰とは言っても業務用の素材が中心で、開ければそのまま食べられる一般用のものは多くない。迂闊にジュースを一パック開けてしまったのはまずかったかと思えたが、これは成り行き上仕方がないと相手も考えてくれたようだ。
「じゃあとりあえず奴に電話だな。当面差し入れの必要はないからそのつもりでいろ。それから電気ガス、水道を止めたら人質を殺す。そう伝たら、すぐに電話を切れ」
「はい」
 番号が控えられたメモは、まだメモ帳から引き剥がされてもいない。これ以上記録する必要があるとも思えないので、店主はそのままにしてその番号を呼び出した。
「どうも。エルデストワンです。倉田さんですね」
 客商売ならもっと丁寧な挨拶が望ましいし、そうでなくとも「こんにちは」くらいは言っても良いものだが、今回は省略した。長丁場になるかも知れず、今後何度もやり取りをするかもしれない。そのたびに挨拶をするのも馬鹿馬鹿しい。自分も人質にとられている状態で「もしもし」ではなく「どうも」の一言が出るだけでもましだ、そう思うことにしている。
「そうだ」
「すぐに電話を切れと言われているので用件だけ。こちらは喫茶店ですので、当面食べ物や飲み物の差し入れをいただく必要はありません。それから、電気ガス、水道は止めないで下さい。もしそんなことをしたら、我々の命がないそうです。聞こえましたね?」
「差し入れの件は分かった。気が変わったら教えてくれ。電気ガス水道も承知した。この電話も含めて、切れないようにする」
 手早く、倉田は内容を確認した。元々喫茶店ということで食料の心配がないとは了承済みであり、ライフラインについても始めから切るつもりはなかったのだろう。最後の電話に関してだけは彼からの働きかけだが、唯一確実な連絡手段を警察の側から遮断することなどありえない。ただ、聞いている人間に対して孤立感を抱かせないためのメッセージではあるようだ。
「はい」
 しかしこちらからその意図を了解したと伝えるのはもちろん、承諾にとどまらない意志の表明があったことを示すことも危険だ。犯人をいたずらに刺激するおそれがある。そう判断した店主は、簡単に応じてから迷わず電話を切った。
「分かったそうです」
「そうか」
 会話が途切れる。そこで店主は次の話題を探っていた。
 喫茶店には黙って珈琲の味を楽しみたい客もいれば、話し好きの客もいる。見極めは難しいが、今回はそもそも珈琲を飲みに来たのではない。先程からある程度積極的に話を聞いていることもあるので、今は黙らない方が良いと考えていた。

続く


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