死を撒く男

U 殺した男


 銃を持った男と彼が拉致してきた人質の女。外は警官隊が包囲している。一応、交渉の経路は確保されたが今の所犯人側にこれという要求はない。
 様子を見てから、店主が口を開いた。
「警察としては手詰まりでしょう。この中の様子は見えませんし、近づく口実もありませんから」
 手持ち無沙汰なので、とりあえず皿を拭き始める。凶漢はつまらなそうに、それを眺めやった。ただ、反射的にだろうがそれにつれて銃口も動いているので、安心はできない。
「いつだったか、高速バスををのっとった奴に使われた奴があっただろう」
 やはりこの男、頭は悪くない。大々的に報道されていたとは言え、所詮はテレビ画面の向こうの出来事だったはずだ。大概の人間は、そこでの小道具のことを思い出すことなど不可能だ。しかし彼は「人質をとって立て篭もる」という自分とその事件との共通性をきっかけに、少なくとも彼自身にとっては有益な可能性のある情報を、誰の手も借りずに自分の記憶から引き出していた。それも自ら招いた事態であるとは言え、極度に緊張を強いられたこの状況下においてである。
「ああ…スタングレネードですね」
 相手の能力を値踏みしつつも、店主は極力平静に、それこそ天気の話題にでも付き合うかのように応じた。知的なレベルはともかく性格がゆがんでいることは明らかなので、下手に世辞を言えば逆上するおそれもある。
「強烈な光と音で感覚を数十秒麻痺させるそうですけれど、引き金を引くのを止められるわけでもないようです。見えないまま撃つことになりますので、どこにどう飛ぶか分かりません。下手をしたら味方に当たりますから、警察もそこまで無謀ではないでしょう」
 スタングレネードを直訳すれば「麻痺擲弾」、ということになる。またフラッシュバン、「閃光轟音」とでも訳すべき別名もある。基本的にそれだけでは殺傷力を持たず、負傷者を出さずに制圧する手段となるものだ。警察の装備としては犯人を傷つけないことも目的だから、人を殺せる武器である手榴弾という意味を持つ「グレネード」との言葉を使わず「フラッシュバン」と呼ぶことが一般的である。逆に「スタングレネード」は主に軍隊での用語だ。
 この場合包囲しているのは警察だから、もし使うなら用語としては「フラッシュバン」が正確だろう。店主は言い終えてからそう気がついた。しかし細かい薀蓄であることも確かなので、訂正しないことにする。別に立て篭もり犯相手でなくとも、相手が求めない能書きを垂れたのでは客商売失格である。
「あの事件は確か…犯人と人質が離れた瞬間を見計らって使ったんだそうですね」
「ずいぶん詳しいじゃないか」
 胡散臭いと眉をひそめながら、散弾銃をゆする。店主は軽くではあったが肩をすくめた。
「テレビでやっていたのを覚えていただけですよ。商売柄、世間話にはそれなりにお付き合いできないといけませんからね。ちなみに、プロ野球ならお客様が巨人ファンでも阪神ファンでも、一通りお話ができますよ。サッカーなら日本代表の試合は一通り分かります。Jリーグの各チームとなると厳しいですが」
 プロ野球パシフィックリーグが完璧に抜けているのは、言ってはいけないお約束である。ただし、一時期連日トップニュースになったので、合併や新チームの設立、あるいはプレーオフ制については実の所ある程度押さえている。
 さておき、バスジャック事件云々については、最近やっていた報道特集番組で取り上げていた。治安が悪くなったという文脈で、ここ数年の重大事件をまとめたものだ。実際、散弾銃を持った男が人質つきで押しかけてくるようなご時勢だから、当を得た企画だとはいえる。それが有益かどうかはまた別の問題だが。
 野球やサッカーに興味がないのか、少なくともそんな場合ではないとの意識はあるのか、男はその話に乗りはしなかった。当面店主に対する興味を失って、つけっぱなしになっていたテレビを眺めやる。店主はカウンターにおいていたリモコンを手にとって、ラジオを聴こうとして一時下げていた音量を上げた。それからあごで示されたのに応じて、チャンネルを変える。
 二局目で、その手が止まった。
「…これ、ここの近くですね」
 カメラ位置からは、他の建物が邪魔になってこの喫茶店を直接見ることができない。また、もし見えたとしても、ゆっくり眺める余裕がなかった人間にはとっさに判別ができなかっただろう。しかしそれでも、残る二人はその画面に視線を釘つけにした。それを見届けてから、店主はそっとリモコンを置いて軽く下がる。
「現場から酒井がお伝えします。人質をとって逃走した容疑者は、現在この先の建物に立て篭もっている模様です。繰り返します。逃走した容疑者は、この先の建物に立て篭もっている模様です」
 息が切れ、活舌も若干怪しい。アナウンサーではなく記者のようだ。そんな男が、画面の隅でまくし立てていた。この場ではそれに好感を持った人間は一人もいなかったが、ともかくも聞き続けている。
「警察の非常線が周囲一帯に張られているため、その建物を見ることはできません。また、現時点では公式発表もなく、詳しい状況は不明です。ただ、付近住民からの聞き取りによると、犯人が立て篭もっているのは営業時間中のレストランであるとのことです。つまり、内部では従業員や居合わせた客など、さらに人質が増えている可能性があります」
「喫茶店じゃなかったのか?」
 そこで犯人と呼ばれた男が、皮肉一杯に笑った。何であれ、彼がここに入ってから笑ったのはこれが初めてである。人質の女が不気味がって震える脇で、店主は恨めしそうな顔を見せた。
 珈琲が売りであるので、店としては「カフェ」を自称している。言葉の元々の意味としても、それで間違いではない。しかし今時いわゆる「カフェ」のイメージには程遠いのも事実なので、「喫茶店」で通りがよければそれで済ませていた。ただ、いくら軽食も出しているとは言え「レストラン」はあんまりだ。近隣住民にも業態が知られていない、要するに流行らない店の証拠である。
 その傷ついた表情に満足したのか、男はゆがんだ笑みを浮かべたままテレビ画面に視線を戻した。
 その後、現場中継からはこれという話は聞けなかった。無理もない。真の現場はカメラや記者がいるそのあたりではなく、まさにここなのだ。これ以上情報の密度が濃い場所はありえない。報道はもちろん警察も、内部の様子を切実に知りたがっている。
 この場にいる人間にとって、大事なのはこれからだ。現場中継の後に、スタジオや報道フロアなど、本局の情報中枢からの発信が始まる。
 中継現場は、基本的にそこにいるスタッフが見聞きした範囲しか分からない。突入が始まったなどそこで大きな動きがあるならともかく、そうでないなら手持ちの情報の価値は実の所高くないのだ。
 一方報道機関の中枢は現場に限らず様々な経路から資料を収集し、整理し、分析しているため発信できる情報は質も量も優れている。たとえば現場で撮られたVTRを編集するという作業を経るだけでも、映像の分かりやすさは格段に違う。これまでの経過のまとめ、あるいは背後関係などを知りたいのならまずこちらである。
 そもそもそれ以前の問題として、ここでは誰も、今の所自分の名前を名乗ってさえいないのだから…。
「それでは、これまでの事件の経過をお伝えします」
 日本人の大半が顔くらいは知っているであろうアナウンサーが、そう前置いてから話し始めた。
 神林春仁二十六歳、元飲食店店員。悪い接客態度が改まらないのに加えて同僚に一方的に言い寄ったのをとがめられたのをとがめられ、それを逆恨みして店の主とその同僚を殺害。アルバイトの面接のために居合わせた女子大学生を人質にとって逃走、現在に至る。
 この凶器となった散弾銃は銃砲店から強奪されたもので、その際金属バットで殴られた従業員は重傷、はちあわせたオーナーの妻は現在意識不明の重態である。
 そもそもこの神林容疑者、いわゆるフリーターだがどの職場でも長続きせず、トラブルを起こしては辞めさせられるということを繰り返していた。私生活ではギャンブル好きで、消費者金融だけでなくいわゆるヤミ金融にも借金があったと言われている。またアルコール依存症であると見られ、経済状態をさらに悪化させるとともに接客時のトラブルの一因にもなっていた。
 この荒廃ぶりは今に始まったことではなく、中学時代には既に札付きの不良で同級生の中に良く言う人間は一人もいない。教諭は全員、取材拒否をしている。
 要するに人間のクズだ。
 放送でそんな形容はもちろん使われない。しかし番組の構成自体が、そう断定するようにできていた。事実に反してはいないのだろうが、弁護する材料がひとかけらもない。
 そうして神林の凶暴性がさらに明らかになるにつれ、人質の女子大生はさらに青ざめ、震え上がっていた。恐慌状態寸前だ。
 一方、自分の悪行を暴き立てられる不快な内容であるはずなのに、神林自身は薄笑いを浮かべてそれを聞いていた。
 そもそもとがめられて後悔するような殊勝さを持ち合わせていれば、ここまでの暴走はしないだろう。店主はそんな目で、神林を眺めやる。その視線に凶悪犯であるはずの男は気づいたが、やはり怒らなかった。むしろ、今度は声を上げて笑い始める。
「何がおかしいかって? さっきも言っただろう。俺は親殺しなんだよ。俺を悪く言いたきゃその一言で済むものを、そこだけおっかなびっくり避けてやがる。少年法様々だな。連中そのくらいは当然調べているだろうし、今頃歯軋りしてるに違いないぜ」
 確かに、言われてみれば十代後半から二十代前半にかけての言及が抜けている。番組の構成はそのことを極力隠そうとしているものの、少なくとも本人が気づかないはずがない。そしてその間何をしていたのかは、もう言われなくとも分かる。
 殺人の罪を犯したため、少年院に入っていたのだ。そこで矯正教育を受けて、成人が刑期を終えるよりも短い期間で出所したのだろう。とは言え、さすがに一年や二年で出られるものではないからその時点で少なくとも二十歳前後だ。以後は報道されたとおりだが、定職に就けなかったもう一つの理由がその経歴なのだろう。いくら公に報道されないとは言え、悪評がついて回るのを防ぐことは難しい。
 喫茶店の主はそれを理解しながら、表情を変えなかった。非難すれば、もちろん敵意を持って応じてくるだろう。とは言え、迂闊に擦り寄るのも考えものだ。何か魂胆があると疑われる可能性が高い。
 他人の善意を素直に受け入れられる人間ならば、そもそもここまですさんだ人生は送らなかっただろう。被害者にはなったかもしれないが、こうして加害者にはならなかったはずだ。しかし現実としては疑り深いため余計な敵を作り、味方をなくし、今に至ったと思われる。
「社会正義を気取っても所詮は一企業、勤めてるのは要するにサラリーマンですからね。色々しがらみもあるんでしょう」
 非難のようでも同情のようでもある、つまりは当たり障りのなさ過ぎることを言いながら、皿を拭き続けていた。
 つまらない奴だ。神林はそんな軽蔑の色をあらわにした目で眺めやったが、しかし視線を外しはしなかった。そのまま、顎だけで残る一人を指し示す。
「そいつの名前を言わないのもそのしがらみって訳か」
 殺害された飲食店の店長と従業員、そして負傷した銃砲店の主人夫妻の名は既に堂々と報じられている。ただ、情け容赦のない表現をすれば、彼らは過去の被害者だ。死んだものはどうあがいてももう帰ってこないし、生きていたら生きていたで、これから危害を加えられる見込みはほとんどない。
 しかし、今この場にいる女子大生だけは違う。今なお、そしてこれからも当面は、危険にさらされている。現時点では最も重要な被害者であるはずだが、その名は今のところ明らかにされていなかった。採用面接に来ていたのだから履歴書を出しているはずで、少なくとも警察が身元を把握していないとは考えられない。そして報道機関がそこから情報を引き出したり、あるいは別の方法で特定ができないようなら、取材者としては単なる無能だろう。
「おそらくは。まあ、そのうち出てきてもおかしくはないとは思いますが」
 マスコミとしては、情報を得ていて自粛している可能性が高い。誰が囚われているなどという話は、親族などにだけ伝わればよいことだ。他の人間が知っても混乱が拡大するだけの可能性が高く、犯人をさらに刺激する結果にもつながりかねない。
 ただ、絶好の素材ではあるから支障がないと見ればすぐにでも、そして我先にスクープとして公開するはずだ。例えば捜査が難航する児童誘拐事件のように、公表することが事件解決につながるなどという大義名分が立てばそれで良い。
 後は生い立ち、家族構成から異性との交際歴まで、ありとあらゆる個人情報が、しかも伝聞という尾ひれを伴って垂れ流しにされる。二言三言挨拶を交わした程度の人間が、画像処理されて自分自身は特定されない状態でしたり顔をして、何のかのと論評するに違いない。
 普段はべつにテレビ嫌いでもないのだが、映される側に立ってみると、何故か不快なものだ。店主はそんなことも考えていた。
「ふうん。しかし待つのも面倒だな。お前、名前は何だ。俺も名乗り忘れてたが、今紹介のあったとおり三人殺しの神林だ」
 どういう自己紹介だろう。しかも、話す対象を変えると同時に銃口の向きまで変えている。しかしもちろんそれをとがめられるわけもなく、店主は口を閉ざした。
 一方、問われた女は震えるのも忘れて答える。
「な…中村、良子、です」
 しかしさすがに、他のことに触れる余裕などない。言い終えるとすぐ、すがるように店主に視線を向けた。
 凶悪犯の注意を戻されるのはありがたい話ではないが、ここは仕方がない。今更無視もできないので、口を開くことにした。どういう形にせよ他二人の名前が分かった以上、ここは名乗っておくのが無難だろう。中村と違って、報道で紹介される見込みもない。
「私は…」
「お前はいいよ」
 神林がさえぎる。恐れをなしたよりもまず驚いて、名乗り損ねた男は口を閉ざした。反対意見あるいは無駄話をやめさせるなどならともかく、自己紹介を制止するなどさすがに予想外だ。
 当面その様子に満足したらしく、彼は続けて告げた。
「流行らない喫茶店のマスターに、一々名前なんていらないだろう。なあ『マスター』?」
 内容自体は決して間違っていない。こういう店の人間は客という主役が楽しむためのものを用意し、環境を整える、言ってみれば黒子である。でしゃばりすぎても客の妨げになるだけだ。それを信条としているから、今現に彼が着ている服も没個性的だ。純白のワイシャツに、黒のベストとスラックス、さらには革靴も黒。ここまで来ると、一般的な場では浮くに違いない黒の蝶ネクタイも決して不自然ではない。バーテンダー、ギャルソン等々他の業態、それも比較的格式を重んじる店でも従業員として通用する服装である。
 とは言え、この人質立て篭もりという極限の状況下で、その店と客という関係は既に破綻しているはずだ。神林に金を払う意志があるとも思えない。そうである以上、店の人間であっても一個人に戻っているはずである。その上で名前すら名乗らせないのは、その名で呼ばれる個性そのものに対する侮辱だ。
 その「マスター」は、憮然とした顔を見せた。たちの悪い客は他にいくらでもいたから、実の所無表情を保ったままでいることも、あるいは笑っていることさえできる。しかし、相手としては自分が傷つけて楽しんでいるはずだ。そうだとすれば、何も感じていないようなそぶりを見せるのが最も良くない。
「お客様がそうおっしゃるのであれば、それで」
 少し力を入れて、もう十分に磨き上げられた皿を拭いてみせる。
 それに安心したらしく、彼はまた、中村という名前だと先程初めて分かった女に声をかけた。
「で、中村ちゃんよ、今の気分はどうだい?」
「き、気分って…」
 良い訳がない。仮に銃を突きつけられているという極限状況ではなかったとしても、初対面の男に今のような馴れ馴れしい話しかけられ方をされるだけで不快だ。とは言え、否定的な言動ができるはずもない。
 神林はそれを承知で、聞いている。恐怖に困惑が加わるのを、眺めて楽しんでいた。それから、鼻を鳴らしてもう一人に銃口を向け、狙いを定める。目が、鋼の銃身よりもさらに光って見えた。
「それにひきかえ、こっちのマスターは可愛げがないな。腰は低いがそんなに怯えてない」
「一応、男ですからね。女性ほどには」
 苦笑して流そうとする。普通の人間ならそれで騙されたかもしれないが、凶悪犯は違っていた。さすが、と言うべきかどうかは微妙である。
「違うな。さっき殺った男は、がたがた震えてたぜ。普段偉そうで恩着せがましかったくせに、死ぬかもしれないと分かると土下座して命乞いをしやがった。それがむかついたんでつい、その後頭部にこれをぶち込んでやったがな」
 実体験があるので分かる。現に殺されそうになったら、男も女も関係なく、震え上がって当然なのだ。それを考えれば、店主の一貫した沈着冷静さは驚異的なほどだ。
 目撃してしまった凄惨な光景を思い出したのだろう。中村が口を押さえてえづいた。店主はそれを横目で眺めやってから、答える。既に笑ってはいなかった。
「感受性が鈍いんですよ。今でこそこうして落ち着いた仕事ができていますけれど、子供の頃にちょっと、色々と」
 もっともらしいことを言う。悲惨な生い立ちを匂わせてもいるので、常識的な人間ならこれ以上詮索はしなかっただろう。しかしこれも、神林を納得させることはできない。育った環境が悪く不安定な性格をしている、そういう人間も少なくない。少年院に入ったことがあれば分かる話だ。
 生まれ持った性分もあるだろうが、修羅場慣れしているらしい。そこで思い当たる可能性があった。
「まさか、元警官だなんてことはないだろうな」
 引き金に指が触れる。取り囲んでいる男たちと似たような人間であれば油断がならない。銃によってはそれだけで弾が出るんだが…と思いつつ、店主は首を振った。
「そんなことはないですよ。宮仕えができるようなまめな性分じゃありません。体育会系の職場では特にね」
「だとすればやくざか?」
「暴力団でも武闘派と呼ばれる人は、実の所そんなに多くはないらしいですけれどね。あの人達だってお金は必要ですから、振り込め詐欺やヤミ金融の元締めとか、色々しなければならないでしょうし。まあ、そういえば警察は警察で、最近は現場よりも内部勤務を希望する人が多いそうですが」
「自衛隊?」
「自衛隊も宮仕えだと思いますけど…まあ、それはともかく。実弾の入った銃を向けられた自衛隊員って、いないはずですね。ああ、航空自衛隊のパイロットなら緊急発進で一触即発、なんて経験があるかもしれませんが…それもソ連邦崩壊前の話ですか」
 確かに、柔和そうな表情、話しぶりからは警官や自衛官、あるいは暴力団員といった、合法非合法はともかく強面の経歴は想像しにくい。ただ、単に平凡な人生を送ってきたのではないと思われる面があることも確かだ。
「そういえばさっき、この店は持ち主と名前が変わったばかりだと言っていたな。お前、ここを始める前は何をやっていた?」
「ジャーナリストです。色々危ない現場に踏み込みもしましたからね。物事に動じないのはそのせいでもあるんでしょう」
「例えば?」
「一番洒落にならなかったのは、取材に行った先で放火殺人があったことですね。トラブルがあったとはいえ、別にそれを予期していた訳ではないのですが、結果的には巻き込まれる寸前でした」
「他には?」
「そうですね。これは具体的に何かあった訳ではないですけれど、暴力団が絡んだ事件の取材をしていて、後をつけられたことがあります」
 緊迫した事態から犯人自身の注意をそらすため、これまで店主は無駄なことも喋っていた。しかし今のくだりでは、妙に遠回しな言い方をしている。言いたくないことがあるようだ。そのことが、神林の直感に触れた。
「どんな事件なんだ」
「しばらく前のことになりますが、入院中の少女が、暴力団同士の抗争に巻き込まれて射殺されるという事件がありました。元々はその病院に勤務する医師を狙っての犯行だったのですが、その医師が慌てたあげく自分の受け持ち患者の所へ逃げ込んだんですよ。そして暴力団員は病室へ押し入ったあげく無差別に発砲したという訳です」
 その事件なら、知っている。当然ながら大々的に報じられたものだ。もっとも自分自身を含め凶悪事件など枚挙に暇がないから、それだけならやがて忘れてしまっただろう。記憶に残っていたのは、その後の経過も報道されていたためだ。そこで、何故言いたがらなかったのか分かった。
「母親が犯罪者をもっと厳しく罰しろって言い出した奴だな」
「良くご存知で」
 正確には、暴力団規正法や被害者救済策の強化なども訴えていたのだが、それは彼にとって興味のない話題のようだ。
「さすがに気になるさ。他人事とは思えなかったし、実際今そうなってる訳だ」
 つまり、神林のような犯罪者に対立する内容だったから、店主としては言うのを避けようとしていたのだ。冷たい光をたたえて、その犯罪者が問い質す。
「で、結局どうなったんだ?」
「どう、ということは特に。そう簡単に法律が変わるものでもありません。まあ、多少厳罰化の方向に動いたこともありますけれど、それは以前から言われていたことであって、別にあの人の主張が通ったのではありません」
 神林が経過を覚えていながら結果を知らなかったのも、そのためだ。法律改正云々についてももちろんニュースで報道されているが、担当大臣や評論家が語っているだけの内容など、相応の興味を持っている人間でなければ覚えているはずもない。
「それで、マスターとしては俺らのような犯罪者が野放しになってるのが許せなくて、取材をしていたって訳か。いや、その時はマスターじゃなかっただろうがな」
 あざけりの色が強くなる。それを、店主はゆっくりと首を振ってかわした。
「許せないということが動機なら、今でも同じことを続けていますよ。しかしそうではなかったので、今こうして喫茶店のマスターをしているんです」
「へえ。じゃあ、許せるわけだ。今こうしていつ死ぬかも知れない目に合わされていても、あるいは、現に殺されても」
「別にそうではなく…ただ、結局他人事だとしか感じられなかったんです。許すとか許さないとかの関係がないって。その後当事者になった今は、何ともいえない気持ちですよ」
 自嘲して、店主は磨きすぎた皿を置いた。敵意がなく、かといって媚びることもない。そんな中立的な姿勢に、神林は興味を失ったようだった。
「ふうん…じゃあ、お前はどうなんだ、中村」
「え、わ、私…」
 急に話を振られて、人質の女が顔を引きつらせる。愛想笑いをしようとしたらしいが、上手くできなかったようだ。猫なで声で、再度、神林が問いかける。
「ねえ中村さん? どうしたらあなたは、こんな僕を許してくれるのかな?」
「ゆ、許すだなんて、そんな…ぶ、無事に帰してくれれば、私はそれで、もう」
 銃を目の前にぶら下げられている以上無理もない、卑屈すぎる反応。それが誤りであることをマスターは知っていたが、彼女は知らなかった。
 ここまでされた以上、怒り、あるいは恨みに思わない人間などいはしない。それはこの状況を強制している男が誰よりも承知している。
 要するにただの嘘だ。そして、神林は騙されることが特に嫌いだった。とは言え、正直であってもぶつかってこられれば腹を立てる。要するに、大概のことを不快感を持ってしか受け止められないのである。
 人格としては最悪の部類に入るが、銃を持って押し入ってくるような人間である以上むしろ当然と言えば当然の気性だ。とにかく、無視をしたと受け取られない範囲で当たり障りなく済ませるしかない。マスターとしてはそれを伝えたかったが、そんな時間はどこにもなかった。
「見え透いた嘘なんてついてんじゃねえよ、てめえ!」
 拳が彼女の顔にもろに入る。唯一幸いだったのは彼女がこの時点で既に意識を飛ばしていることだな、と傍観するしかないもう一人は思った。肉体的なダメージ、あるいは痛み以前に、殺されるかもしれない状況下で攻撃されたという事実に精神が耐えられていない。
「後で殺してやるって、そう思ってるんだろ? ええ! それとも俺が惨めにつかまる様でも見てみたいってか! さもなきゃそもそも俺みたいな犯罪者は相手にしてないとでも思ってんのか!」
 倒れた所へ二度、三度と蹴りこむ。しかし彼女はもう、苦痛を感じることもできない状態だった。そこへ、冷静な声がかかる。
「その辺にしておいたらどうです」
「俺に指図をするなと言っただろう!」
 中村の体を踏みつけながら振り返り、銃を構える。悲しそうな顔をして、マスターは首を振った。
「指図ではなく…外の人達もさすがに、大声出したら何事だと思いますよ。向こうとしてはあなたの注意が自分達からそれるタイミングを待っていますし」
 すくなくとも、理屈そのものは通っている忠告だ。それだけに、神林は自制はしたが、警戒は解かなかった。
「何のつもりだ?」
「一か八かの突入をされれば、今一番困るのは我々ですからね。警察が殺すつもりであなたを撃つ可能性は高くないですが、あなたは恐らく、ためらいなく誰に対してでも発砲するでしょう」
 引き続き敵意がないことを示すべく、店主はゆっくりと歩いてカウンターを出た。それから倒れた中村の傍らに膝をつく。
「しばらく…静かにしていてください。それが皆のためです」
「あ、う…」
 いっそそのままだった方が楽だったろうが、彼女は意識を取り戻していた。ただ、何かをする余力もなくよどんだ視線で店主を見返しただけだ。それを見た神林が、鼻で笑う。
「傷の舐めあいか?」
「そのくらいはさせてください。私はあなたほど強くはありません。恐らくこの人も」
「好きにしろ」
 このときの神林は、別に寛大だったわけではない。既に制圧している二人に構っている余裕がなかっただけだ。店主が指摘したとおり、外に人の気配がある。
「ただし、カウンターの中でだ。そいつを連れて厨房まで引っ込め、早く」
「はい」
 間に犯人を挟んでいない厨房の方が、銃撃戦という最悪の事態になった場合には客席よりも安全だ。そこで、店主は迷わず女を引きずって行く。一方で神林自身は、カウンターを盾にする形で銃を構えた。
 もちろん防弾処理などは施されていないただの木製品だが、この国の警官が装備しているような小口径の拳銃に対してなら、ある程度は防御力が期待できる。一方で拳銃以上に強力な火器は、周囲の人間を巻き込むおそれがあるので人質事件というこの場にはそぐわない。そう観察していたのは神林ではなく、店主だった。
「仕事熱心だなあ、警官諸君! その熱心さを称えて、入ってきた順に弾をぶち込んでやる。さあ、真っ先に死にたい奴はどいつだ!」
 立て篭もり犯自身は、威嚇するのに忙しい。カーテンを全て閉めてあるので、中から外の様子をうかがうこともできない。結果、全ての方向に注意を向けなければならなかった。しかし、その努力の大半は、徒労だった。
「別に死にたくはないが…そもそもこの近くには俺しかいないぞ」
 予想に反して、しかも堂々と声が上がったのは正面入り口付近からである。神林は反射的にそちらへ銃を向けたが、結局あまりの無防備さにすぐには撃つ気をそがれてしまった。言われてみれば、現に人が近づいている気配はそこに限られていた。
「たった一人で乗り込んで手柄を取ろうって腹か。それとも、自分が囮になっている間に何かするつもりか?」
 単独犯であることは既に警察も重々承知している。後日裏付け捜査をしたところで、「あの男に仲間など作れるはずがない」と、みな口をそろえるだろう。そうである以上、一対一の対決に勝ちさえすればよいのだから、日頃から鍛えている警察官であれば十分に成算がある。あるいはそれを装いつつ、別の警官に制圧させるのも、人質救出が最大の目的である以上立派な手段である。それらの可能性を意識した神林の質問は、少なくともこの場に関しては常識的なものだった。
 むしろ、近づいてきた警官の方が型破りだったかもしれない。
「どっちでもない。ただ、とりあえず話をしようと思ってな。電話でも良かったんだが、俺は顔が見えないのはどうも苦手で」
 居所のはっきりしない相手に向けて呼びかけるべく、少し大きい。それを聞き取ったのは、奥の厨房に隠れている店主だった。
「この声、さっきの倉田さんだと思います。自分がここの指揮を取っていると言っていたはずですが…」
 対照的に、相手に聞こえるのがやっとの小ささで告げる。一瞬考えてから、神林は問いただした。
「そうやって、中の様子を探りに来たんだろう?」
 そして不意に、銃を店主に向ける。それから外へ向けて、顎をしゃくった。
「だとしたら、おやめになった方がよろしいでしょう。お客様には皆、奥の厨房へ移っていただきました。席にはどなたもいらっしゃいませんから、ご覧になっても何も分かりません」
 店主が説得する。彼は使いようによって自分の手先にもなる。神林のその読みに、少なくとも今は間違いがなかった。
 ただ、それにも、外の男はひるまない。
「ああ、その声、マスターだな」
 懐かしい知り合いに合ったような、温かみを感じさせる声で応じる。しかし「マスター」は思わずよろめき、神林は遠慮なく噴き出した。もちろん、その内部の様子、あるいはそれ以前のやり取りは、相手には分からない。
 一瞬後、さすがは「マスター」と言うべきなのかどうなのか、ともかくも彼は態勢を立て直して応じた。調子は、完全に営業の愛想笑いである。
「はいそうです。私の声をご存知だということは、やはり倉田さんですね」
「ああ」
「嘘をつけ…」
 つまらないという顔を見せつけながら、銃を近づける。店主は慎重に言葉を選んだ。
「少し、うかがってよろしいでしょうか」
「俺は構わないが」
 自分に拒否する理由はないものの、無視してかかれば何をすれば分からない男が傍らにいるはずだ。その言外の意味は、十分に伝わっていた。
「こちらの方も構わないそうです。どうやら同じことが気になっているようで」
「そうか。それで?」
「失礼ながら、本当に指揮官の方でいらっしゃいますか。正直に申し上げて、単身そこまで乗り込んでいらっしゃると言うのは、もっと下の立場の方がなさることだと思えるのですが」
 そもそも先程の電話が指揮官だと称するだけの現場の一警官からのものだったか、あるいは声が似ているだけの部下を寄越したか。いずれにせよ、身分に偽りがあるとの疑いがあった。地位が高いにしては、軽率なように思える。
「ああ…まあ、警察ってのも色々ややこしくてね。実際俺もそんなに偉いわけじゃない。ただ、書類の上での責任者はここじゃなくて本部にいるから、俺がここを指揮しているってのに嘘はないよ」
 厳格な階級社会であるだけに、地位の高い人間が現場まで出てくることが稀なのだろう。そう理解してから、店主は思い切って要約してみた。
「現場監督という所ですかね」
「んー…なんか違う気もするが、それが一番分かりやすいならそれでもいいさ。所で俺が言うのも変かもしれないが、立ち話もなんだ。入っていいかな。一応営業中だろう?」
 そういえば、施錠をしてカーテンは閉めたものの、「OPEN」の札はかけたままだった。とは言え、まともな営業などできるはずもないことは彼も良く分かっているはずだ。店主は相手に見えないと承知で、大げさに肩をすくめた。
「申し訳ありませんが、貸切です。それを出しておくのを忘れていました。一応席には余裕がありますが、こちらのお客様にお伺いを立てないことには何とも」
 冗談交じりに振られた神林であったが、怒らず、しかし笑いもせずに切り捨てた。
「飲み屋やレストランじゃあるまいし。喫茶店を貸切にする馬鹿がどこにいる。しかもこんな流行らない店を、だ。大方始めから、貸切の札なんてないんだろ」
 事実である。「OPEN」の札を裏返しにすれば「CLOSED」になるが、他にはない。そしてまた、きちんと料金を払って貸切にされたということもなかった。
「そうですが…この前あるカフェで、結婚披露パーティーをやったことがあるそうですよ。まあもちろん、ここよりはずっと洒落た店ですが」
 相手がまがりなりにも話に乗っているうちは良い兆候、と判断して店主は応じている。ただ、さすがに埒もない言い訳であったので、神林はそれ以上絡んで来なかった。
「聞いての通り今日は俺のためだけの貸切パーティーだ。招待されたかったら、そうだな…とりあえずドレスコードは守ってもらおうか」
 直接、外の男に向けて呼びかける。店主の発言を受けた、それなりにひねりの聞いた台詞だったが、反応は鈍かった。
「…ドレスコード?」
 どうやら、ただ単純に知らないらしい。こじれるとまずいと判断して、店主がすぐに助け舟を出す。
「例えば格式の高いレストランならジャケット着用でないと入店禁止、などという規制のことです」
 とはいえ、まさか服装の話ではあるまい。理解はしたものの、相手の声には困惑があらわだった。
「ああ、ディスコや何かの入り口で黒服がやってるあれか。一応背広にネクタイだから、レストランなら断られないはずだが…何しろただのおっさんだからな、こっちは。ファッションセンスとやらを求められるとどうしようもない」
 語彙が「ディスコ」という時点で既に年齢を感じさせる。今なら「クラブ」だ。そしてドレスコードが盛んに行われたのはバブル期、若者が平気で高級なスーツを買っていたという、最早過去の時代の話だ。
 ともかくも、何とか会話が続いた。そこで、神林が今日のコードを説明する。
「武器の持ち込みは止めてもらおう。拳銃はもちろん、警棒もだ」
 世間一般の基準に照らせば、これはドレスコードではなく単なる常識である。それを非難するでもなく、相手は軽く応じた。
「分かった。というよりも、ここへ来る前に置いてきているよ。喧嘩を売るつもりはない」
 中の男二人は、思わず視線を合わせた。大胆にもほどがある。いや、無謀というべきか。しばらく考えた末、口を開いたのは店主だった。
「丸腰かどうか確かめるなら、中に入ってもらうかこちらから出てゆくか、二つに一つしかありません。あるいはこのままお引取りいただくか、ですね」
 不自然なほど大きな態度は、何かのはったりだとも受け取れる。その正体が見極められない以上、混乱を望まない立場としては安易に信じることができなかった。
「せっかく衣裳持参でここまで来たんだ。いくら飛び入りでも、追い返したら主催者の面目丸つぶれだろう。もちろん本当にその通りなら、の話だが」
 豪気そうなことを言う。しかし裏がありそうだと思いつつ、店主は提案した。
「上着を脱いだ状態なら、拳銃や警棒を持っているかどうかは見ただけで分かると思います。もちろんもっと小さい武器もありますが、警察の装備としては考えにくいです」
 小口径の拳銃や伸縮式の警棒ならポケットに入らないでもないが、不自然に膨らむので却って目立つ。より小型のものは純粋な護身用、あるいは暗殺用だから、いずれにせよまともな警察官が持つものではない。
「マスター改め黒服って訳だ。ま、今でも似たような格好だが?」
「ジャケットもあるにはありますが…とりあえず、鍵を開けてきます」
 スリーピースに蝶ネクタイの黒服もないだろう。内心そう思いつつ、店主は事務的に応じた。しかし従順なはずのその言葉に返ってきたのは、意外な反応だった。

続く


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