ご主人さまとしおりさん 百鬼昼行編

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 黒塗りのリムジンが停まる。運転手がその後席のドアを開けてからようやく、その車によって運ばれていた人物が姿を現した。
「お疲れ様でした!」
 その瞬間、そこに居並んでいた使用人たちが深々と頭を下げた。彼らの列は、正確に屋敷の入り口まで平行線を描いている。
 時代錯誤的な光景では、あった。時は21世紀、場所は日本、天皇が現人神から人間に退いてから、既に半世紀以上が過ぎている。
 ただ、それはある意味現代的な光景でもある。その列の末席にあるものは時間給で働いているのだが、それはこの国でもっとも高名なファーストフード店で働く人間のそれの5割増しに達するのだ。一日に多くて数回程度のこの出迎えと、その他雑務、それでそれだけのものがもらえるなら楽なものだと、そう思う人間は少なくない。
「はい、皆さんもご苦労様」
 その出迎えを受けた彼は、優しい笑顔でそう言った。一見したところ、小柄で華奢な体格の少年である。ただ、少なくともこの屋敷にいる限り、彼が少なくとも既に18歳は過ぎていることを知らない人間はいない。橋本高也、この屋敷の主の一人息子であると共に、主の経営する企業の非常勤研究員であり、子会社の役員でもある。また、都内の理系国立大学に通う学生でもあった。
 そして今、彼は黒のスーツに黒のネクタイ、つまり喪服に身を包んでいた。
「しおりさん、お願いね」
「はい、かしこまりました」
 彼は末席に近い位置の女性に声をかけた。彼女は紺色のスカートの広がったワンピースに白いエプロン、そしてフリルのついた髪飾り、つまりメイドの服装に身を包んでいる。艶やかな黒髪は、襟の辺りで切りそろえられていた。
 彼が彼女に声をかけるのはいつものことだから、誰もそれに異を唱えるものはいない。二人はそんな関係だった。
「…下らない! 下らない死に方だよ」
 少し歩いて他の使用人たちに聞こえない位置に達した所で、高也は吐き捨てた。苛立ちに任せて黒いネクタイを外そうとするが、うまく行かない。しおりはそっとその首元に手をやって、ネクタイを解いた。
 高也はネクタイを解くときのみならず、結ぶときもしおり任せにしている。自分でやらないものだから、いつまでたっても上達しない。そして少なくともしおりには、彼にそのあたりの身の回りの仕事を覚えさせるつもりはなかった。それはメイドの、そして自分の仕事だと思うのだ。
「亡くなった方の悪口を言うのは、あまりいいことではありません」
 そしてまた、年若い主をたしなめるのも、自分の仕事だと思っている。彼女は彼より何歳か、年上だった。法律の上で彼女は成年だが、彼は未成年である。だから解きながら言う。しかし彼女の主は、むしろ態度をさらに硬化させた。
「死んだこと自体が許せない! 自殺だって? 冗談じゃない!」
 歩きながら黒いネクタイを解かれる。その間にも、高也は非難を止めなかった。
「それまで信じていたものに裏切られていたのです。致し方ありません…」
 しおりは小さく首を振った。彼女は今話題になっている人物の死の理由を、新聞記事から把握していた。
 新聞にその死が報道されるほどの人間、それは高也が通う大学の理工学部の学部長だった。先日、学内の自室で首を吊っている所が発見されたのである。直接の原因はノイローゼであると報道されている。何やかやの縁があったので、高也も一応その葬儀には顔を出していた。今日はその帰りなので、喪服なのである。
 彼を精神的に追い詰めた原因、それは学内の教授同士の対立でも学生の嫌がらせでも、まして家庭のいざこざでもなかった。
 それは、「霊」の出現である。
 21世紀初頭、突如として出現した「それ」ははるか古代より多くの学者たちが営々と築き上げてきた科学というものの信用を、根本から揺るがした。質量の計測できない「それ」は、しかし確かに現実世界で人間に影響を与える「存在」だった。もしとりつかれれば、確実に肉体に変調をきたす。
現に霊にとりつかれたとしか説明のできない事件が既に多々、発生していた。そしてまた、その霊を目撃した人間もいくらでもいる。それらのいわゆる心霊体験を持っていない人間のほうが、むしろ少ないほどになっていた。そしてこの現象をいくばくかでも抑制すべく、多くの宗教家たちが奔走している。彼ら宗教家たちがこの心霊現象らしきものに対して無力であったのなら、それは科学者たちにとってある意味救いとなっただろう。しかし現実は、宗教家たちの努力がある程度の成果をあげるというものだった。
 結果、これまで信奉されてきた「科学」はそのとき少なからず社会からの嘲笑の対象になった。「霊」など存在しない、そんな言説を展開していた研究者たちが、全く信用を失ったのである。かつて「火の玉」がプラズマであると説明したある教授などは、自宅に群衆による激しい投石を受け、失踪してしまった。それ以外でも、「霊など存在しない」と言っていた多くの学者が、いまやすっかり鳴りを潜めている。
 そしてとうとう、死人が出たのである。先日、彼自身の研究室で首吊り死体となって発見された。つい数年前まで科学万能主義の先端に立っていた国内有力大学の理系学部長であるから、少なくともその死に疑念を挟むものはなかった。ただ、同情したのみである。しおりもそんな一人だった。
「わたくしは、ご主人さまを失ったら生きてゆけませんわ…」
 だから、廊下の途中で、ほかの人間が見ていないと見計らってから彼を抱きしめる。高也ももう少しで成年に達するのだが、身長はかなり低い。童顔でもあり、いまだに中学生と間違えられることがある。一方しおりの身長は、女性としては比較的高い部類に入る。結果、彼女が思い切り彼を抱きしめると、低い位置にある顔を胸の辺りにうずめさせるような格好になる。
 そうしてしばらく、女性特有の香りと柔らかさを堪能してから、高也は軽く彼女の腕を叩いてそれを外させた。
「違うよ、しおりさん。それはちがう」
 そう言う顔は、笑っている。とりあえず、機嫌を直したようだ。そして彼は、自分の寝室と彼専用の書庫の前を素通りして、研究室に入った。これも彼専用である。
「『科学』は誰も裏切らない。決してね。いつか、そもそも科学とは何かって、話さなかったっけ」
「はい、うかがっております。『科学』とは『真実を追究すること』、でしたでしょうか」
 黒のジャケットを脱がせて、研究室にしおりが必ず用意している白衣に袖を通させる。そのあたりの手際は、二人とも慣れたものだ。
「その通り。じゃあ、次の質問。魑魅魍魎が出現するようになってから、『真実』は変わったかな? 正直に、直感で答えて」
「変わった、と思います」
 そうでなければ今現に起きていることの説明がつかない。しおりは科学者ではないしそれを目指すつもりもないが、その程度の科学的な思考は十分にできる。
「そうだね。どうやら何かが変わったらしい。それが何なのかは、今の所判然としていないけれどね」
 高也は窓の外を眺めながらうなずいた。真実が変わってしまったのだからそれを追い求めている科学、そして科学者は大きく揺らいでいる。しおりはそう思うのだが、彼に言わせればそれが違うということらしい。そして彼女に向き直って続ける。
「でもね、しおりさん。変わったのは高々『真実』なんだ。『真実を追究すること』が変わった訳じゃない」
「ええと…重要なのは結果ではなく過程、そういうことでしょうか」
 そうだとすれば、それはある意味正論だ。例えば児童教育の現場で結果ばかり追い求めていたら、子供の人格は少なからずゆがむだろうと思える。
 ただ、しおりの見る限り、高也はそのような道徳的な考え方があまり好きではない。科学の道に進んだ人間だからか、結果を重視する傾向がある。それに未成年で企業の研究員も務まるような天才型の人間であることが影響しているらしく、才能のない人間の無駄な努力に対しては、はっきり言えば冷淡である。
 正直なところ、真意をつかみかねる。しおりは表情で、困惑を表した。
「んー…少し、違う。科学だから、結果が出なければ意味がない。それも自然科学は、その結果が唯一解でなければならない。文学・哲学のように、あれも正しい、これも正しいはなしだ。僕に言わせればいわゆる人文科学は学ではあるけれど科学ではない」
「申し訳ありません。それでは何をおっしゃりたいのか、わたくしにはつかみかねます」
 結局しおりは降参した。高也は苦笑して謝る。
「ああ、ごめんごめん。分かりにくかったみたいだね。まあ、本職であるはずのあの学部長もそれが分からずに死んじゃったんだから、科学者じゃない人が分からなくても恥じゃないよ」
 言いながら、いつも使っている机の前の椅子にかける。しおりも、彼女の指定席であるもう一脚の椅子に落ち着いた。
「要するにね、探求すべき『真実』がまた新しく出てきたんだよ。そうだね…じゃあ、科学者を探検家に例えてみようか。今まで天文物理学者は宇宙という名の大陸を、原子物理学者は分子、原子、そしてクォークという名の深海を、それから医学・生理学者は人体という名の人跡未踏の密林を、それぞれとにかく行けるところまで行こうと探検して来たんだ。他にも理由はあるだろうけれど、その根底にあるものは大体共通しているよ。それは、その先には何があるのかという、好奇心だ。それをニュースで知るのではなく、自分の目で自分の足で確かめたいから、わざわざ研究という苦難の道を乗り越えていくんだよ」
「はい」
 高也を見ていると、それがよく分かる。とにかく好奇心が旺盛なのだ。彼が友人づきあいをしている学生も、そのようなタイプの人間が多い。
「そしてね、そんな彼等はこの間、一つの大ニュースを聞いたんだ。なんとまあ、あろうことか伝説でしかないとされていた大陸が浮上したってね。その名前を、『心霊現象』という。それが実際どんなところなのか、まだ誰も知らない。ああ、いや、実はこの大陸にはお坊さんとか神主さんとか、あるいは霊能者とかいう先住民族はいるんだけど、彼らも地殻変動を経験したばかりで身の回りのことは分かっていても全体像はまるで分かっていない。さて、それでは探検家としては、この新大陸に対してどうしたらいいと思う?」
「とりあえず乗り込んでみますか?」
「む。その探検家を僕だとするなら、それは大正解。何しろ新しいもの好きだからね」
 ひょいと腰を浮かせて彼女に軽く口付けをしてから、高也は元の位置に戻った。
「でも、探検家全体で考えれば、ぎりぎり合格点があげられるかどうかだね。行ってもいいけれど、でも別に行かなくてもいい。それまで彼が探検してきた所にまだ先があるのなら、その先へ進んでいけばいい。それだけのことさ」
「つまり科学者にとっては、自分の好奇心を満たしてくれる真実があることこそが、大切なのですね」
「その通り。だから僕なんて、むしろ心霊現象大発生が嬉しいくらいさ。当分退屈しなくて済みそうだ」
 高也の表情は生き生きとしている。困った人だが、それは何も今に始まった話ではない。これまで彼の好奇心の被害者になった回数が最も多い人間が誰かといえば、それは間違いなくしおり自身である。それでも、あるいはそれだからこそ彼をいとおしいと思ってしまうのが、しおりの困った所だ。
「つまりね、今この状況は、『科学』というものを取り巻く状況である『真実』が変わっただけであって、『科学』そのもの、唯一の答えを求めようとする人の営み、好奇心が変わった訳じゃないんだ。おそらくその時は永遠に来ないだろうけれど、全ての真実が解き明かされてしまうまで、つまりそれ自体完成されてはいるが最早動かしようのない知識の集積、言ってみれば標本のような状態になって死んでしまうまで、『科学』は誰も裏切らないよ。決してね」
 しおりは二度、うなずいた。
「だからね…そうそう、さっきのしおりさんの喩えで言えばさ、今この時期に科学者が科学者であることをやめちゃうっていうのは、最愛の恋人に意外な一面を見つけただけでそれを諦めちゃうっていう、そういうことなんだよね。ちょっと…いや、かなり…いやいや、ものすごく、ナルシスティックかつエゴイスティックだと、そう思わない?」
「そうおっしゃられると、確かにそう思います」
「科学の対極だよ。あの人のやった行為は。だから許せない。レベルとしては最近あわてて新興宗教に入信して壺やら掛け軸やらを買い漁っているアーパーどもと同列だよ。しかも下手に地位も名誉もあったものだから、僕を含めて科学者みんながそんな連中だと思われかねない。はた迷惑もいい話さ」
 育ちがいいくせに、高也はかなり口が悪い。「アーパー」ならまだましなほうである。ひどいときには蔑称、差別語を連発する。文学に対する関心はそこそこなのだが、読む場合にはその種の悪い語彙ばかり拾っている節がある。しおりが微妙に困惑しているのを、高也は気づかなかったようだ。
「ねえ、しおりさん。しおりさんは、どうかな。僕の環境が変わったら、僕は見捨てられちゃうのかな?」
 冗談めかして、笑って、しかしその目はまっすぐ彼女を見据えている。しおりは何の迷いもなく、即答した。
「いいえ、とんでもない。この命の尽きるまで、ご主人さまのお許しがある限り、お供させていただきますわ」
「例え何かの手違いで、莫大な借金を背負って貧乏のどん底だったとしても?」
「もちろんです。その時は、不肖ながらこのわたくしが働いてご主人さまを養ってさし上げます」
 バイタリティだけなら確実に、高也よりしおりのほうが上である。そもそもしおりがこの屋敷にやってきたきっかけは、それこそ彼女の父親が莫大な借金を背負って…という事情だったのだが、その清算はもうだいぶ前に済んでいる。
「それじゃヒモだよ、僕…」
 高也はさも情けない、という顔をしたが、しおりは胸を張った。
「世間一般ではそう申すかもしれません。しかし、わたくしにとっては、ご主人さまはご主人さまです」
「なんかヤダ、それ。しおりさんが外に出て働くよりは、四畳半一間でもそこで待っててくれるほうが嬉しいな。そうならないように努力するよ」
 自分で振っておいて、高也はこの話題を打ち切った。
「んでね、僕は僕なりにこの心霊現象を考察してみた訳なんだけれど、少し興味深いことが分かったよ」
「何でしょう」
「墓地だとか自殺の名所だとかのいわゆる心霊スポット以外で、最近その手の現象が頻発するようになったと思われる場所にはある傾向があるんだ。実際どんなところに多いかというと、空港、放送局、放送塔、発電所、高圧送電線の付近、電話会社の中枢、警察、消防、それに自衛隊や米軍の基地や艦船…」
「ご主人さま」
 珍しく、しかし強い意志をもってしおりは高也の台詞をさえぎった。気迫負けして、高也は黙る。
「空港や放送局などに心霊現象が多発していることはわたくしもニュースなどで存じております。しかし警察や自衛隊、米軍の実態など、どうやってお調べになったのです」
 報道は連日心霊関連のニュースを取り上げている。局内でその種の現象が多発するのを、むしろネタがあるとして喜んでいるふしもないではなかった。一方、しおりが記憶している限り自衛隊、まして米軍に関してその内部での事態が報道されたことは一度もない。高也と普通に会話をする必要もあり、新聞は毎日きちんと読んでいる。
「ああ、いや、大丈夫。初歩のアクセス解析だよ。以前と比較して、特に現場と中枢との通信回数が明らかに増大している。何かこれまでにない問題が発生していることは間違いない。暗号の解読とか、施設のホストコンピュータへのハッキングまではしていないから、大丈夫。そういうソフトウェア関連は専門外だからね」
「無線傍受自体が犯罪ではないのですか」
「だったらもうちょっと細々とやるべきだね。公共の場所にあれだけ強烈な電波を垂れ流しにしていたら誰だって分かる」
 つまり犯罪である、という事実を高也ははぐらかした。しおりもそれを咎めはしない。ただ、まっすぐな目で訴えかける。
「本当に、危ないことだけはなさらないで下さいまし」
「分かってますって。んでね、話を元に戻すけれど、今言ったものの共通点は、分かるかな。まあ、重大なヒントがもう出ているけれど」
 さらにごまかす。仕方なく、しおりはそれにつきあった。
「電波…でしょうか。いえ、でも、発電所や送電線は違いますよね」
 それ以外は全て、無線を使って交信することが多かったり、レーダーを使ったり、あるいは広域に放送を行ったりと、ほぼ日常的に電波を使っている。
「ほぼ正解。正確に言えば電磁波だよ。電流は磁場を形成するからね。日常レベルなら問題はないようだけれど、発電所やそれに続く高圧送電線クラスになると、周囲の電磁波の乱れは馬鹿にならない」
「なるほど…つまり心霊現象には何らかの形で電磁波が関係している、と考えられるのですね」
「どうやらね。そこでちょっと、試しに特殊な電波発生装置を作ってみたんだ」
 ごそごそと、高也は奥から箱状の物体を取り出した。この部屋の掃除をしているのはしおりなので、そこにそれがあることは作成を始めた段階から知っている。ただ知識はないし、主の許しなくその辺りにあるものをいじるほど愚かでもないので、正体を知るのはこれが初めてだった。元々しおりは、高也ほどには好奇心旺盛ではない。
「ご、ご主人さま…危険ではないのですか」
 しおりは思わずあとずさった。彼女はむやみやたらと怖がったりするような人間ではないが、しかし今の話の流れで電波発生器はまずい。高也はくすくすと笑った。
「大丈夫。出力は低いし、性質もごくごくおとなしいものさ。実害はないよ」
 その言葉を裏付けるように、彼はその装置を家庭用百ボルト電源に接続した。この研究室にはもっと電圧の高い電源もある。
「性質、とおっしゃいますと?」
 しおりはまだ、やや不安そうである。高也はまだ笑っていたが、それを引き締めて誇らしげに告げた。
「これは、ネコミミ電波発生装置なんだ」
「…は?」
 二拍間を置いてから、しおりは聞き返した。これは極めて稀な事態である。彼女の聴覚神経は主の声を最優先で拾うようにできているので、会話をしていて聞き間違えるということはほとんどない。かなり遠くから呼ばれても、それをきちんと認識することができる。
 高也もそれを承知している。にやにやしながら、繰り返した。
「だから、ネコミミ電波発生装置!」
「…………」
 これがしおりでなかったなら、「何でやねんっ!」などと言いつつ全力で突っ込まなければならない所だ。しかし彼女はメイドである。主に手を上げるなど思いもよらない。だから、その場で呆然と立ち尽くすしかなかった。
「技術的な説明は難しいからしないけれど、要するにこの装置からの電波を照射されると、人体にネコミミが発生するんだ。あと、しっぽもね。だから正確に言えばネコミミおよびネコしっぽ発生装置、なんだけどそれだと何となくごろが良くないからネコミミ発生装置、なのさ。まあ、それは設計上のことであって実験はまだなんだけれどね」
 まさかそんな…と思いつつも、彼の天才を誰よりも信頼しているのはしおりである。やりかねない、と感じる部分もある。
「という訳でぇ…」
 高也が満面の笑みをうかべる。しおりがまずい、と思ったときにはもう手遅れだった。さりげなく彼女に向けられていた装置のスイッチを、高也が入れる。
「しおりさん、被験者第一号決定!」
「きゃあ!」
 目をつぶりながら、反射的に手で頭をかばう。しかし、特に、何かが起こったようには感じられない。しおりは恐る恐る目を開けた。
まず見えたのは、高也の満足そうな笑顔である。大成功、といわんばかりだ。しかし、ただ自分を担ぐためにそんな顔をしているのではないか、とも思える。
 しおりはゆっくりと、自分の頭に手をやろうとした。しっぽの毛が逆立っているのがよく分かる…。
 …しっぽ?
 慌てて振り返ったしおりが見たものは、形の良いお尻を包む濃紺のスカート、そしてそこから生えたように見える、一本の毛の逆立ったしっぽだった。
「にゃああああああああっ!」
 自分の悲鳴がネコ化しているのにさえ気づかないパニック状態のまま、しおりは頭に手をやった。感じられるのは、明らかに髪の毛とは違うふわふわした毛の手触りだ。そして高也が、大き目の鏡を取り出した。さすがに確信犯だけあって、抜け目がない。
「大成功!」
 彼が見せてくれた鏡の中で、しおりは心底情なさそうな顔をしていた。その頭の上方両側面についている黒い耳も、すっかり垂れてしまっている。
 しおりは深く深く、ため息をついた。
「はあ…それで、これはいつもとに戻るのでしょうか」
 後ろに手を回して、自分のしっぽをなでてみる。色は黒、どうやら彼女は黒猫らしい。手触りは悪くないのだが、しっぽの方の感覚はあまり良いものではなかった。猫はしっぽを撫でられることを好まない、ということを何となく思い出したので、触るのを止める。
「実験第一号だから正確には分からないけれど、そんなに長い間じゃないと思うよ。繰り返すけれど所詮家庭用百ボルトの低出力だし、もう照射はしていないからね」
 高也は腕組みしてうんうんとうなずいている。すっかりご満悦である。そして視線を上げた彼の目にまず飛び込んできたのは、力が入ってぴんと上を向いたしおりの耳だった。彼女のしっぽはぱたぱたと揺れ、そして目がらんらんと輝いている。
「…え?」
 今度は彼が、最早手遅れ、という状況を堪能する番だった。それが獲物を狙う目だ、と気づいたときにはもう遅い。しおりの身体能力は女性の平均をはるかに上回っており、取り立てて武道の経験などないはずなのに、大の男を簡単にのしてしまう。運動に関してまるで才能のない高也では、正面切って格闘をしても絶対に勝てない。
「にゃあああああっ!」
「にゃあっ!」
 いきなり飛び掛られて、高也はあっけなく組み伏せられた。しおりはごろごろとのどを鳴らしながら、彼の頭にほお擦りをする。耳がいやにくすぐったい。
 耳…?
 高也ははっとなった。彼の耳はそんな、上の方にはついていないはずだ。とりあえずしおりはじゃれついて来ているだけで実害はないので、多少の妨害を受けながらも取り落とした鏡を引き寄せる。幸い、割れてはいなかった。
「なう…」
 そこに映っていたのは、執拗にほお擦りを繰り返されて変形しかかっている茶色のネコミミだった。
 しおりにとっては最愛のご主人さまの、可愛らしいネコミミ姿である。自制心の限界を一瞬で突破して、問答無用でじゃれ付いてしまうのだった。
 が、しかし、されるがままでは「ご主人さま」としての沽券に関わる。それにそもそも、大好きな彼女のネコミミ姿が見たくて誰がどう考えてもしょうもない装置を開発したのである。高也だって、同じように力一杯じゃれつきたい。
「にゃあっ!」
「にゃああっ!」
 高也の反撃に、しおりも嬉しそうに再反撃する。そうして、壮絶なじゃれつきあいが始まった…。

 数時間後、二人は乱れた呼吸と服装を整えていた。途中で、場所を研究室から寝室に移している。当然、そちらのほうがじゃれあいに向いているからだ。
「ふう…指向性を持たせるのに失敗したかな?」
 姿見の前で、高也は髪をかき上げた。その上には、相変わらずネコミミがついている。白衣の後ろから突き出た尻尾は、彼の困惑を表すように左右に揺れている。
 何しろ電波発生器を持っていたのは自分である。特殊な処理をしなければ、真っ先に自分に影響が出るとは重々承知している。そのあたりにも抜かりはないつもりだったが、しかし実験に失敗はつきものだ。
 なお、耳やしっぽは一応ある種の心霊現象なので、触ってみると感触はあるし、慣れれば自分の意志で動かすこともできるが、服や髪はすり抜けてしまう。ちゃんと生身のお尻から生えているように見えるのに、服を着てみると何もしないのにひょっこり姿を現してしまう、ということをじゃれあいながらも高也は確認していた。
また、耳で音を感じることもできない。聞いているのはあくまで本来の人間の耳である。要するに飾りだ。実害はない、という面での設計には問題はなかった。
「それに意外と長く効果が持続しますものね」
 高也の身支度を優先させたので、しおり自身の身だしなみはまだ整っていない。今はブラシでその黒髪を梳かしている所だった。
「そうだねえ…」
 とりあえず電波の効果が切れるのを待つしかないようだ。それから装置の指向性に関する部分を再点検して…と、頭の中で予定を組み立てる。
 現状では手がつけられない。さすがの高也も、今この格好で出歩くつもりはなかった。そこでしげしげと、しおりを鑑賞する。
 良い。実に良い。従順なメイドさんと奔放な猫、という取り合わせのアンバランスさがたまらない。可愛いくせにどこか、危険な香りがするようだ。
 高也の手はまたじゃれつきたくてうずうずと動いたが、しかしここはどうにか自制した。彼に比べれば、しおりの体力はほとんど無尽蔵だ。じゃれあっているうちに抵抗できなくなるに違いない。
「高也様、郵便が届いております」
 部屋の外から声がかけられたのは、そんな折だった。高也はしおりに目配せをする。しおりも小さくうなずいた。
「はい、ただいま」
 そう言って、しおりが応対に出る。二人とも声だけで分かるほど良く知っているこの家の使用人、言ってみればしおりの同僚だ。二十代半ばの女性である。
「失礼致します。じゃあしおりちゃん、よろしくね。…あら、また高也様のプレゼント?」
 彼女はしおりのネコミミに気づいたが、さして驚きもしなかった。しおりほどではないにせよ、ここで働いている以上高也の奇行には慣れっこなのだ。
「ええ」
「はー、さすがによくできてるわね。まるで本物みたい。ねえ、触っていい?」
 慣れているとはいっても、感心はする。とりあえず何かの作り物だと思わせることには成功したようだ。しげしげと眺めていた。助け舟を出したのは高也である。
「まだダメ。実験してる最中だから。終わったら触らせてあげる」
「はい、ありがとうございます。それではわたくしはこれで」
 彼女は彼女でそれなりに仕事があるので、長居をするつもりもなかったようだ。すぐにあきらめて立ち去ることにする。そして彼女が頭を下げた瞬間、しおりは息をのんだ。
「え? なに? どうかした?」
 当然のことだが、不思議そうに首をかしげる。しおりはとっさにごまかした。
「あ、いえ、何でもありません。少しのどの調子が悪くて」
「そう。ならお大事にね」
 そして改めて一礼してから扉を閉める。その頭には、白っぽい猫の耳がついていた。しかもそれは、しおりの目の前でにょきりと生えてきたのである。
「ご主人さま!」
「いや、確かに装置は止めたはずだ!」
 ばたばたと、白衣とスカートのすそを翻しながら慌ててまた研究室に入る。確認してみたが、やはりネコミミ電波発生装置は作動していなかった。それでも念のため、電源を外しておく。
「一体…あれ、なんだこりゃ」
 困惑してあたりを見渡した高也は、計器の異常に気がついた。しおりも意味は分からないが、それを覗き込む。
「何でしょう」
「この周波数の電波を計測しているんだよ。反応している。発生装置以外に発生源があることになるけれど…」
 そのまま高也は考え込んでしまう。邪魔をしないように、しおりは少し距離を置こうとした。すると、計器の示した数値が下がってゆく。
「あれ…? しおりさん、ちょっとまたこっちへ来てくれる?」
「はい」
 彼女が接近するのに比例して、数値が上がってくる。高也は今度は自分で、離れたり近づいたりを繰り返してしおりに数値を読ませた。結果はほぼ同様である。
「…つまり、僕らの体が生体電波発生装置になっちゃってるらしいね」
「なぜでしょう」
「さあ、それは研究してみなければ分からないけれど…。そうか、いつまでたっても収まらないはずだよ。お互いがお互いの発生させる電波で、ネコミミ化してたんだ」
「それ以上ない状態でくっついていましたからね…」
「うん…。あ、まずいかも」
 高也がはっとしたので、しおりも今後どのような事態が発生するかについて思い至った。
「それでは、この電波は…」
「うん。急速に拡大する。その速度は、空気感染する伝染病の比じゃない。心霊現象が発生している関東南部全域の人間がネコミミになるまで、一ヶ月とかからないだろう。いや、数日…下手をすれば数時間単位で」
「止めないと!」
「もう、遅いっぽい」
 屋敷の中が、ざわつき始めていた。
「治す方法は?」
「それもこれから研究してみないと、だね」
 その方法があるという保証も、高也にはできなかった。
「どうしましょう…」
 彼女自身には全く責任はないのだが、しおりはすっかり落ち込んでいる。だから高也は、笑って言った。
「大丈夫だよ。別に実害はないんだし。それに何より可愛いじゃない。しばらくこのままっていうのも悪くないと思うよ」
「そんな…」
 しおりは眉をひそめて誰よりも信頼する主を見据えた。しかしその視線が、徐々に変わってゆく。何気ない動作につれてぴくぴくと動くネコミミを見ているうちに、どうにもまたじゃれつきたくなってしまった。たしかに、もったいない気もする。
「…それなら、まあ、そういうことにしておきましょう」
 少し顔を赤らめて、肯定してしまう。相変わらず高也には甘いしおりなのだった。
「うんうん。じゃあ、そういうことで」
 という訳で、少なくともとりあえずの現状維持が決定された。

 関東南部全域に発生した特異な事態が解消されたのは、その発生が確認されてからさらにしばらくたってからのことである。



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