正しい同人誌即売会の過ごし方(?)

1 時間に余裕のある行動を心がけましょう

注意事項を確認する


 それはある、蒸し暑い夏の日のことだった。いわゆる熱帯夜という奴で、早朝からすでに十分不快指数が高い。クーラーでもつければよさそうなものだし、またこの部屋にはやや旧式ながらもそれがある。学生向けの安アパートなのだが、何故か何代か前の住人が、取りつけたきりそのまま置いていったものだそうだ。
 しかし使いたいだけ使ってしまうと、電気代がたちまち暮らしを圧迫する。何しろ旧式のため、エネルギー効率が悪いのだ。さらに部屋自体の構造としても、断熱性に優れていないきらいがある。
 使いすぎの結果趣味にかける金銭がなくなるくらいならまだ良い方で、下手をすると冗談抜きに飢えてしまう。別に裕福でもない両親をもち、下宿をして私立大学に通っている身としては、止むを得ない生活環境だった。少なくともその面で見る限り決して珍しくもない学生、それがこの部屋の現在の主である、長見裕也(ながみゆうや)である。
 そんな訳で、暑いものは暑い。寝ているだけで体力を消耗しそうだ。しかし、それを打開すべく努力をするような気力もない。寝汗と体温を吸い込んで、生温く湿ったシーツは絶対に心地よいものではないが、しかしそれを洗う人間は彼自身しかいないので、今のところ不快感よりも面倒を厭う気持ちの方が上回っていた。
 唯一幸いなのは、今が夏休みであるということだ。とてもではないが、まともに活動などできるような状態ではない。ここの所生活のために深夜のアルバイトを頻繁に入れている裕也としては、朝っぱらから行動する気などさらさらなかった。
 たが、しかし。この日はまるで熱気と同様に否応なしに、ここを訪れる者があった。
 とんとんとん。
 と、扉を叩く音がする。狭い部屋だし扉も決して分厚くはない。そのため大家も、またクーラーの件からも分かる通り多少の改造は大目に見られている歴代の住人たちも、インターフォンを取り付ける必要を感じていなかった。それは、裕也も同様である。
 そしてとりあえず、裕也は居留守を決め込んだ。時計を見るのも億劫なので正確な時刻は定かでないが、こんな朝から男の一人住まいを訪ねる人間などろくなものではあるまい。押し売りまがいの訪問販売か何かだろう。内心そう決めつけている。
 とんとんとん。
 完全に無視された訪問者は、しかし苛立つこともなく正確に、同じリズムで戸を叩いた。
 無視無視。そのうち諦めて帰るに違いない。そんな甘い期待の下、裕也は寝返りを打った。これが他の季節なら頭から布団でもかぶる所だが、しかし今ばかりはそうも行かない。
 とんとんとん。
 メトロノームでも置いてあるのではないか、そう思えるほどまたしても正確に、扉が叩かれる。しかし今度はそれにとどまらず、向こうから呼びかけがあった。
「長見。いるのは分かっている。早く出て来い」
 字面だけを追うならば、まるで刑事ドラマか何かのような台詞だ。しかし今のその声には、それらしい熱も凄みもない。ただ淡々と、自分の認識と要求を口に出している。そんな男の心当たりが、裕也にはあった。
 とんとんとん。
 そして彼は、また同じ調子で戸を叩くのだった。
「出てくるまで続ける。寝るのは諦めろ」
「あー畜生!」
 毒づいて、裕也は起き上がった。根気比べなら、絶対に向こうに分がある。嫌でもそれを、分からざるを得なかったのだ。
「何だよ、こんな朝っぱらから、俺の部屋まで!」
 勢い良く外開きの玄関扉を開ける。内心それで叩きつけてやれないものかと期待したのだが、完全に無駄だった。招かれざる客はきちんと、長見が起き上がってから玄関先に立つまでの間に、後ろへ下がっている。
「出かけるぞ。十五分で支度をしろ」
 彼は裕也の顔を見もせずに、腕時計を確認していた。姓名は里中光樹(さとなかこうき)、裕也とは大学で同じゼミに所属している。


 痩せて眼鏡をかけた、いかにも勉強のできそうな容貌で、実際何故自分と同じ大学に通っているのか不思議なくらい、頭が切れるし博識でもある。ただ、その反動なのか、感情の起伏に乏しく、また常識とずれた言動をすることがあった。
「はあ? 何でだよ」
 今日がまさに、それだった。裕也の知っている限り、光樹の人付き合いは極端に悪い方だ。親睦名目の飲み会など、平気で「酒は嫌いだ」などといって断るような人間だ。それが今日に限って誘いに来るなど、こいつも冷静そうな顔をして実は頭がやられているのではないかと思えてくる。
 しかし実際の所、光樹はいつも通り、冷静だった。暑さで呆けているのは、裕也である。
「忘れているな。今日は美月に呼び出されているだろう」
「あ…」
 ようやく思い出した。二人と同じゼミに所属する女子学生、菱乃木美月(ひしのぎみつき)から「とにかく来て」と、言われていたのだ。別に用事もなかったので生返事でうなずいていたのだが、それだけにきちんと覚えていなかった。
 美月の顔を見たのなら、あるいは思い出したかもしれない。しかし何しろ相手が光樹だったので、言われるまで気がつかなかった。
「迎えに来たのか」
「彼も大人なのだからそんなものは必要ない、と、言ったのだがな」
 光樹も裕也と同様、大学の近所に部屋を借りて暮らしている。一方の美月は、少し離れた所にある実家からの電車通学だ。確かに、光樹がやってきたほうが合理的ではある。ただ、今日の用事に彼も同行するとは、裕也としては初耳だった。
 むしろ非難がましい視線を突き刺されたのならまだましだっただろう。しかし彼は相変わらず、淡々としていた。
「それと、着替えとしてこれを持って来いとのことだ。中にはその他、必要な物を列挙したメモも入っている。用件は以上」
「はあ?」
 裕也の疑問にも答えず手にした紙袋を押しつけると、光樹はさっさときびすを返した。
「先に行っている。指定の時刻に待ち合わせ場所へ到着するためには、駅を二十分後に出る電車に乗らねばならないから、必要なら間に合うように走って来い」
 言い捨てて立ち去ってしまう。彼はそういう男だった。
 考える余裕がない状態だと、人間は指示された通りに動いてしまうことがある。とりあえず手早く、裕也は身支度を始めた。どういう用件かは記憶にないのだが、ともかく最早あまり決まった装いができるような時間は残されていない。それにもしそんなものをしたところで、暑さに負けてすっかりよれよれになってしまうだけだろう。特段の指示もないことだし、みすぼらしくならない範囲でできる限り動きやすく、気楽に着ていられるものを選んだ。
 大き目の鞄、タオル等々、の指示された用具をそろえると、裕也は部屋を後にする。唯一飲みものだけはないが、これはどこか途中のコンビニかキオスクでペットボトルでも買えば良いだろう。
 早足で、指定された時刻ぎりぎりに駅に到着する。光樹が彼を待っていなかったのは、正解だった。
 裕也は長身で、相応あるいはそれ以上に足も長い。中背をやや上回る程度の光樹が一緒に出発したのでは、彼は小走りにならなければならなかっただろう。見るからに勉強ができそう、その反面運動はできなさそうという外見上の印象は、光樹の場合そのまま事実でもある。
「で、あの馬鹿は俺たちに何をさせようって言うんだ」
 電車を待ちながら、とりあえず裕也はそう問いかけた。いきなり対象の人物に関して馬鹿呼ばわりであるが、問題はあるまい。
 菱乃木美月、彼女を知性に劣っているなどと冗談抜きで評したら、おそらくそうした人物自身の知性が疑われたことだろう。決して、その面に関しては劣悪ではない。むしろその逆、機転の良く効く人間だ。初対面の人間からすればそれが軽薄と受け取られるかもしれないが、そうではないことは、少なくとも裕也が良く知っている。
 しかしそれでも、馬鹿と形容して然るべき人間だ。裕也はそう思っている。何しろ彼女自身が、馬鹿と非難されることを承知でしばしば無茶をする人間なのだ。おとなしくしていて面白いことなどそうそうない、それを彼女は良く知っている。馬鹿だといわれる覚悟で無茶をやっている、だからその点に関して馬鹿だと言っても、それは決して不合理なことではないのだ。
「さあ」
 相変わらず淡々と、つまりこの場合にはやや投げやりに、光樹は返した。こちらは美月とは対照的に日々を穏当に、はたから見たところつまらなさそうに過ごしているのだが、少なくとも今日は美月の馬鹿につきあうつもりらしい。
 実の所、裕也は光樹とそれほど親しくはない。正確に言えば、光樹と親しい人間など、知っている範囲では美月くらいのものだ。その二人にしても、裕也の目からすれば美月の方が一方的に話しかけているような状態だ。光樹が彼女へ自分から話しかける場面など、一度としてみたことがない。
 この前美月に白状をさせた所、光樹は自分が受けている授業の全てに詳細なノートをとり、さらに試験前になるとそれをまとめて自分用のレジュメを作っているという。美月は先の試験で、それに助けられたとのことだった。
 裕也にしてみれば、ゼミの仲間として必要最小限の情報を交換しているという、その程度の間柄である。正直なところ、美月はよくもまあ、この男からレジュメを入手するまでこぎつけたものだと思う。
 裕也はできる限り友人を作ろうとするタイプだし、実際交際範囲も広い。努力してそうしているのではなく、純粋に人と話をしたり、一緒に酒を飲んだりするのが好きなのだ。
 逆に光樹は孤独を好む性格だ。同じゼミであるのではじめのうちは機会を見て声をかけてはみたのだが、全て断られたので大体そんな感じの奴だと分かった。それに対して別に、文句をつけるつもりもない。裕也は顔が広いだけに、世の中みな社交的な人間ではないと承知しているつもりである。能力面は素晴らしいので味方にできるのならそれに越したことはないが、そうする努力が無駄に終わる可能性の高さを考えれば、自分自身で努力をするなり他の人間を頼るなりしたたほうが余程効率的だ。里中光樹とは、そんな人間であると思っている。
 しかしそれにしては、だ。そんな彼が何故か今はおとなしく美月の言うことを聞いて動いている。それが裕也には不思議だった。
「あのさ。言いにくいんだけれど」
「はっきり言うか黙っているか、どちらかにしろ」
「じゃあ言う。もしかして美月に、弱みでも握られてるのか?」
 じろり、と、彼が見据えて来る。そう意図しているかどうかは定かではないが、ともかく無感動に上を向いている表情というのは険悪に見えることがある。時折こうなるので、身長が高いのもそう良いことばかりではない、と、裕也は思っている。
 そして光樹は、ゆっくりと首を振った。
「いや。逆に聞くが、彼女は君に対しては、弱みを握って脅迫をするような人間なのか」
「そうじゃないけどさ。ああ、いや、半分冗談でたわいもない脅しをしたりはするけれど」
「なら、そういうことだ」
 光樹は持っていた鞄から文庫本を取り出した。裕也同様、その鞄はやや大きめだが、彼の場合少なくとも大学に来る場合はいつもそんなものを持ち歩いている。重い資料でも、授業に必要であればきちんと持ってくる、学生としてはまじめな人間である。
 ぱらぱらとページをめくって、この前まで読んでいた箇所を探し出す。この男は人間離れした記憶力の所有者でもあるので、そのページ数を覚えている。そのため、読みかけの本にしおりを挟むという習慣は持っていないようだった。
 ただ、そのまますぐに書物に没頭はしなかった。
「何をさせるかどうかまでは分からないが、少なくとも何の催しに連れて行くつもりかなら概ね見当はついている。調べれば分かることだ」
 活字に目を落としながら、しかし会話の流れは続いている。当然ながら、裕也としてはその先を問いかけた。
「何の催し?」
 光樹は文庫本の上端のわずかに先を、眺めているようだった。
「分からないなら、会場についてから知っても遅くはないだろう。少なくとも彼女は我々が驚く顔を見たいようだ。事前に教えてしまって、その場で何のかのと文句をつけられたくはないな」
「お前も何だかんだと言って、美月にだけは弱いよな」
 実の所裕也は、光樹が美月に対して弱い理由ならある程度分かっている。人づき合いが嫌いな人間というのは、美月のようにテンションの高い人間がある意味苦手なのだ。その強引さに押し切られてしまうことが多い。避ければ済むならそうして通るのだが、美月には必要な範囲でしつこい所もあり、そうも行かない。余計な面倒を避けるために、結局自分から引いているのだろう。
「お互い様だ」
 それだけ言うと、彼は本を読み始めた。実際裕也は裕也で言われたとおりこうして出かけている。反論できないので、とりあえず彼の読書の邪魔はしないことにした。
 ひとまず自分で考えてみる。指定された場所は有明、「国際展示場」だった。 裕也の記憶によれば、そこはモーターショーやゲームショーなど、非常に大規模なイベントが行われる場所である。しかしこの「くそ暑い」なか開かれるイベントなど、彼にはちょっと思いつかなかった。
 正体不明だが、どうせがら空きの催しに違いない。裕也はそう、たかをくくっていた。その後しばらく経つまで。

続く


注意事項に戻る 小説の棚へ 続きへ