正しい同人誌即売会の過ごし方(?)
2 会場へは電車・バスなどの公共交通機関で
そして出発後の、この暑い中の催しだからどうせ空いているだろうという認識を改めたとき、裕也はとりあえず毒づいた。
「どうしてこんなに人が多いんだよっ!」
見える限り人々々。駅の通路には人があふれ帰っていた。一瞬通勤ラッシュかとも思ったが、しかし今日は平日ではないはずだ。夏休みでしかも不定期にアルバイトを入れていたため、曜日の感覚を取り戻すのに少し時間がかかってしまった。
それに見た所その場にいる人間の「層」が、明らかに通勤客ではない。服装に気を使っている様子が全くない、あるいはそのつもりなのかもしれないがはき違えているとしか裕也には思えない、「ぶっちゃけた話オタク風」の男が多いように見えるが、どうもそればかりではないようだ。ともかく、ネクタイを締めたサラリーマン風がほとんどいないことは確かである。
そもそも、裕也には通勤ラッシュに揉まれた経験があまりない。高校までは実家近くの学校に通っており、現在は大学から徒歩で行けるところへ下宿している。慣れたところでも不快なものは不快なのだが、しかしそういう人間以上に疲労せざるを得ないのは確かだ。
「交通都市基盤整備の立ち遅れが原因だ。展示場など日によって利用者数が極端に変わる特殊な施設が多くあるにもかかわらず、大量輸送手段である鉄道が今の所都心に直結していない」
光樹が裕也の部屋の最寄り駅から目的地へ向かうのに選んだルートは、鉄道で都心を西から東へ抜けて、そこから南西方向の埋立地へ、というやや遠回りにも思えるものである。確かに不便だ。無駄が大きい分、人も渋滞しやすいのだろう。
しばらくすればこの鉄道は延長されて都心と直結する鉄道と相互乗り入れし、さらに便利になる云々…などという案内も大々的にされているが、少なくとも今の二人にとっては関係のない話である。正直な話そんな案内については、もうちょっと速く完成させやがれ、という怒りを覚えるだけだ。
「もう一本の方を使えばよかったんじゃないのか」
埋立地に向かう路線はもう一本あったと記憶している。ただ、東京西部の郊外が生活の本拠で、このあたりの鉄道路線には詳しくなかったので、裕也としても無理にそちらにしろとは言わなかった。東京在住とはいっても、自分に縁がない路線については中々覚えないものだ。何しろ路線が多すぎる。
「接続を考えればこちらの方が時間を短縮できる」
一方の光樹は、裕也と似た状況で生活している割に知識がある。まあ、元々色々とものを知っている人間ではあるが、以前はもっと都心に近い場所に住んでいたのかもしれない。どう移動するのが便利なのか、それを自然と心得ている。
「それに向こうはもっと混む。土台鉄道ではないからな」
「そう言えばなんか、変わった奴だったっけ」
レールの上を走るものではない、という程度の記憶が、かすかによみがえってきた。
「車体が一回り小さい上に編成の車両数も少ない。さらに路線が、埋立地を半周するように遠回りをしている。今日のように大量輸送が必要な際にはあてにならん」
ああ、そう。で、裕也としては話を終わらせようとしたのだが、しかし光樹が続けるほうが早かった。
「バブル全盛の時代に大々的に造成して、しかも新機軸を導入したはいいが、結果はこの有様だ。とにかく大きければ、人出があれば、新しければ、等々、要するに派手であればそれで良かったという、華やかなでうつろな時代の遺産だな。本質を見失っている。
公共交通機関の使命は大量輸送を迅速かつ確実に実現することであって、それ以外は二次的な要素でしかない。
低公害車を導入するのはけっこうだが、その性能を一般の車両より落とすことで、何より環境悪化の原因となる人間を溢れさせたのでは何にもならん。駅を増やしすぎるのも然りだ。資源的にも時間的にも無駄が大きく、縮減…リデュースと言った方が分かりやすいか? ともかく、環境保全の大原則の一つに反している。
それにこれは私がこれでも一応健康な男だからかも知れないが、駅が多すぎる路線というものはどうも胡散臭い。一駅程度なら歩いた方が速いからな。駅から徒歩数分という範囲を増やして地価を吊り上げる目的があるとしか思えない。まあ、商業としては巧妙だが、一々用もない駅に停車する列車に乗らなければならない利用者としては、単に迷惑な話だ。
確かに足腰の弱い人間などにとっては、駅間が狭い方が便利かもしれない。ただ、弱者に対する手当ては別途手段を講じるべきであって、主要基盤の構造そのものをそれにあわせるのは考えものだ。多少の配慮など、構造自体に欠陥があれば何の意味もなくなる。弱者にとって、過剰な混雑は文字通り殺人的だ。どこぞの花火大会の混雑が原因で、老人や子供が死んだ事件を思い返すといい。
そう言えばよく、『日本人は水と安全をただだと思っている』などというが、もう一つつけ加えるべきだな。『時間』もだ。忍耐強いのは美徳だが、それも過剰になれば時間という取り返しのつかない資源の浪費にしかならない。待つより有益なこともある。人間は余暇時間を労働という形で売却して生活している、つまり時間そのものに金銭的な価値があるという経済学の初歩的な観念を、一考しても良かろう」
光樹は相変わらずの調子でとうとうと語る。始めのうちは聞き流していたのだが、不快感が限界に近かった裕也としては、一瞬本気で理由を必要としない殺意を覚えてしまった。
しかし、どうにか自制した。この暑いのに生暖かい返り血など浴びたなら、さらに暑苦しくなるに違いない。絞め殺すにしても、他人の体温に触れるのが嫌だ。しかしあいにく、離れたところから人を殺せるような銃火器は持ち合わせていない。純粋に、そういう理由である。
それを承知でか、光樹は涼しい調子で続けた。
「しかし土台、都市という巨大な言わば有機体を、人間が計画するという時点で無理がある。担当者を責めても仕方がないといえばそれまでだがな。合衆国のようにそもそも国自体が人工的なものならばともかく、この日本で理想的な都市計画など不可能だ。質に対する配慮をしたらしたで、別の問題が浮上しただけだろう。所詮人間は、その状況に縛られるしかない生き物の一種に過ぎない」
「お前が誰かに同情するなんて、珍しいんじゃないか」
何とかストレス解消にならないものかと反論をしてみる。しかし相手は、動じなかった。
「別に同情はしていない。私はただ、批判をするばかりで建設的な代案のない、三流マスコミュニケーション的、あるいは万年野党的精神が嫌いであるだけだ」
こちらはこちらで毒舌全開である。確かにまあ、高級誌を自認するなら、あるいは次期政権政党を目指すのなら、しっかりとした、実現可能な政策がなければならない。それがないようなら所詮周囲からの信頼を得ることのない、愚痴ばかり達者な人間と次元は同じである。
さておきこの男、横顔を見た所平静そうだが、実は裕也同様かなり不快なのかもしれない。そう言えばそもそも、人間嫌いの性格であるはずだった。
そこで少し、からかってみたくなる。普段、特にゼミでの学問に関する話題については何かと鋭い指摘で煙たがられる人間だが、冷静でないとするなら今は反撃をするチャンスかもしれない。
「理想に近い都市はないって言うけれど、例の学園都市はどうなんだ?」
思いついた所から言ってみる。彼のアカデミックな雰囲気から、何となく連想したのだ。光樹は目を見開いて、それを伏せて、最後には同情したそうな視線を向けてきた。彼の感情の動きがこうまではっきりと見えるのは、かなり珍しい。少なくとも裕也にはそう思えた。
「な、何だよ」
「長見。君は学問をしたことがないのか」
「どういう意味だよ!」
そう言われると、実の所結構痛い。試験前になるとつてを頼っては、ノートやら全訳やらを入手する裕也である。
しかしそれでも、いくら何でも、大学にある程度いて、とりあえず留年は免れている人間に対して言う台詞ではないように思われる。しかし相手は、学問は知っていても情け容赦というものは知らない人間だった。
「最新、あるいは古今の学説、すなわち研究者にとって何より大切な情報源である書物はどこにあると思う? 専門性の度が増せば増すほど、例えば関東なら神田以外でそれを調達するのは困難だぞ。そうでなくとも学術書は都市の大規模書店でなければ注文しないと、つまり必要なときすぐには手に入らない。
そしてその他購入が不可能な多くの資料も、大学等の都内の図書館に集中している。そうでなくとも、関東一円、あるいは全国に点在している資料、または研究者に当たるのであれば、都心の利便性が最も高い。
必要な情報を可能な限り収集し、さらに前衛の研究者と切磋琢磨する。そのために、学問とは都会でやるものだ」
「つまり例の研究学園都市は完全な誤りだった、と、二流マスコミとやらに同調するわけ?」
「いや。私が今まで言ったのはあくまで、自分が在籍している文系学部に関することだ。理系学部であれば、一定程度の容積を必要とする実験施設を地価の安い郊外に建設することは、対費用効果の面から考えれば相当の理由がある。むしろ地価がいまだに高騰している都心にこだわって最新の実験施設が建設できないとあれば、それも愚かというほかないだろう。
また文系学部に関しても、必要な情報が全て電子化されて地域を問わず利用できるのであれば、別に所在地自体がたとえ僻地にあったとしても問題はない。その他の誘惑に駆られやすい人間なら、むしろそこが理想的な環境にもなる。研究素材が限られる中世では、確かに山寺や修道院の研究が最先端にもなった。
ただ、少なくとも現状はそれに達してはいないから、時代を何十年か先取りしすぎた、という所だな。今から自ら電子化を推進すれば、何年か後には最先端にあるという可能性も否定はできない。もっとも、企業の例を見るとそれに至る前に破綻したものなど数限りもないが」
駄目だ。こいつは自分には止められない。そんな思いを抱きながら、裕也は人波に流されてゆくのであった。
幸い、かどうかはもうこの際定かではなかったが、この場にいる人間のほとんどが、裕也や光樹と同じ目的地に向かっているようだった。ほうっておいても嫌でも着く。そんな所である。心のどこか、あるいはかなりの部分に逃げ出したいという感情もあったのだが、しかし圧倒的な流れに逆らうまでの根性も持つことができなかった。
「ふう…車でも借りればよかったか」
ただ、愚痴っぽくつぶやいてみる。裕也は大学に入るとすぐ自動車運転免許を取っており、旅行や帰省した際などそれなりに運転経験もある。ただ、下宿している間は運転の必要に乏しいので、車は使っていない。というより、駐車場代や車そのものの維持費などを考えると、余程の必要がない限り、郊外とはいえまがりなりにも都内で車を持つのは非現実的だ。都内に住む学生で自分の車を持っているのは、極度のカーマニアか金持ちのボンボンだけである…と、少なくとも裕也は信じて疑っていない。
その鼻先へ、光樹は黙ってメモを突き出した。時刻と場所が指定された最後に、注意書きが添えられている。
「※必ず公共交通機関を使うこと。自家用車なんかできたら殺すわよ☆」
やや丸みを帯びて女性にしては大きめの、美月の字だ。さらにそこへ、光樹が追い討ちをかける。
「彼女の注意をひとまず置くとして、君があらかじめ手配をして、もう少し早起きをすれば、不可能ではなかったかもしれない。しかし駐車場があるだろうか。土台日本の都市に、十分な駐車スペースは期待できない。少しでも人の集まるような催しだと、すぐに『自家用車でのご来場はご遠慮下さい』などという注意が行われる。自家用車は大陸や群馬県など、広い場所で使うものだ」
「はいはい」
やぶ蛇だった。裕也はしばらく、黙ることにした。何故いきなり「群馬」が出てきたのか彼にとっては謎だが、また例の調子でしゃべられても困るのでたずねないことにする。ためにはなるかもしれないが、少なくとも今の環境が向学心を引き出すものでないことは間違いない。あるいは彼の中である意味での「田舎」の代表例が群馬だというただそれだけのことかとも思ったのだが、相手を無駄に刺激しないために黙っておく。
ちなみに自家用車の保有率全国一が、群馬県である。光樹はそれを知っていて、引き合いに出したのだ。裕也も地理で習ったことがあるはずなのだが、すっかり忘れていた。
さておき、唯一幸いなことに、光樹は彼自身が必要を感じたりしなければ黙っているし、沈黙を不快に思う様子もない。
※会場へは、必ず公共公共機関を使いましょう。駐車スペースが不足しておりますので、自家用車でのご来場はご遠慮下さい。
しかしふと、誰かに話しかけられたような気がした。
「あれ、里中、今何か言わなかったか」
「いいや。君こそ」
どうやら相手も同様だったらしい。普段より少しだけ、目が見開かれたままだ。しかしやがて、窮屈そうに首を振った。
「周囲の誰かの声を聞き違えただけだな」
「だろうな。ま、あまりの事態に聞こえた幻聴じゃないことを祈っておくけど」
「信仰があるのなら、それも悪い考えではないな」
彼の言い方は、このときものすごく投げやりだった。普段から感情表現に乏しいためそのように聞こえるが、これが彼にとっては本物の投げやりなのだろう。珍しく同感だと思いながら、裕也はまた流されていた。