正しい同人誌即売会の過ごし方(?)

24 買った同人誌は家に帰ってから読みましょう

注意事項を確認する


 ケンが知っている店、というのは新橋駅に程近い場所にあった。つまり交通の便としては好条件だが、しかし一般の通行人が通りかかることがまずないような裏通りに面している。
 また店のたたずまいも、誰でも歓迎するといった様子ではない。たとえば最近急速に勢力を伸ばした、居酒屋チェーン店の明るい雰囲気とは明らかに違う。また、おしゃれな大人向けの落ち着いた風情、というものでもない。
 それは昔ながらの、居酒屋だった。間口の狭い古びた木造の店構えに、洗濯のしすぎで色あせたのれんがかかる。ご丁寧なことに、赤提灯まで下がっていた。入り口の戸にはすりガラスがはめられており、中の様子を詳しくはうかがうことができない。辛うじて客が入っているかどうかが分かる、その程度だ。つまりどこか、一見の客を拒むような雰囲気が漂っている。
 知人の紹介がなければ、まず間違いなく入らない店だ。その扉を、ケンは陽気に開ける。
「どうも、大将」
「おお、ケンの旦那じゃないか。今日は大人数だね」
 カウンターの奥に陣取った初老の男性が、威勢の良い声をあげる。ケンは笑ってうなずいた。
「どうせお盆でお暇でしょうカラ、景気良く連れて来マシタよ」
 確かに、営業中のようではあるが、ケンの言う通り店内に見える人影はその「大将」一人である。ただ、まだ飲食店が本格的に混み合う時間帯ではない。途中の交通路も人で溢れかえっていたためかなり時間を食ったが、有明の展示場を後にしたのは昼下がりだから、まだようやく夕方というところだ。
「何寝ぼけたこと言ってやがる。盆なんてものはとうに終わってるさ。今更盆だなんだって言いだすのは、田舎者のすることだぜ。あんた生まれは外国でも、その程度のことは分かってると思っていたがな」
 いわゆる「お盆休み」は、旧暦に基づいて八月中旬に取られるのが普通だ。特に企業の場合、取引先との兼ね合いがあるのでどうしても全国一律、横並びになる。
 ただし東京、というよりかつての江戸を中心とした地域に長く住んでいる人間の場合、墓参などの宗教行事を新暦に基づいて、つまり七月ごろに行うことが多い。さらに親の代あるいはそれ以前から住んでいる、となると毎年恒例の帰省ラッシュにも関係がなくなる。
 つまりいわゆる「お盆」は、「江戸っ子」にとって、単なる夏休みでしかない。後は周囲の道路が空いていている代わりに商店の休みが減って不便、その程度のものである。それも一般的な会社勤めをしていればの話で、その間店を閉めることのできない自営業だったりすると、本当に自分とは無関係な年中行事になる。
 無論、ケンもそれは承知している。承知の上でさっきのように言ったのだから、当然反論した。
「しかし、お得意様は大概休みでしょう」
 この店を含めた新橋の飲み屋街は、サラリーマンの憩いの場だ。無論お盆でも休まない、あるいは休めない人や企業も少なくないのだが、客足が大きく鈍ることは確かである。
「まあな。しかし周りが休んでる中働いていて、ようやくひと段落して一杯引っかけにきたら行きつけの店が休みだった、なんてことになったら、さびしいじゃないか」
「さすが大将」
「おだてたって何も出やしないぞ」
「いつも通りに酒と肴を出していただけレバ、それで結構ですヨ」
「おうよ。なら、そんなところに突っ立ってるなんて野暮なことしてないで、座った座った」
「ハイ。奥のテーブルをお借りしマスよ」
 カウンターや狭いテーブルが多く、六人がまとまって座れそうなのはケンが示した卓一つである。残り五人は彼の合図に従って、ぞろぞろと入って来た。
「わあ、いい雰囲気じゃないですか」
 店内を見渡して明るい声を上げたのは美月である。作りも調度も、古い民家といったところだ。現に使い込まれている跡がそこかしこに見られるが、掃除は行き届いているらしく、汚いという印象は受けない。
「まだ客が入っていないからかも知れないが、煙草臭くないのはいいな」
 ついで光樹がそう評する。彼が飲み会嫌いなのも、一つには煙草の臭いが嫌いだからだ。大手のチェーン店などなら喫煙席と禁煙席を分けてくれるが、自分が同行するグループに喫煙者がいればそれまでの話である。
 自分や同じテーブルの人間が吸っていなくても、隣のテーブルで煙が立っているだけで、服に臭いが移る。しかもその臭いに関してはまず間違いなく吸わない人間の方が敏感で、家に帰ってから染み付いたものにうんざりすることが多い。
「料理の味が落ちるソウデ、大将がその点に関しテハ意外と気を使っているそうデス。換気扇が焼肉店並みに強力ダトカ」
 ケンが説明する。しかしすかさず、店主が言い返した。
「『意外と』は余計だ」
「失礼しマシタ。さて、長見サンはいかがデショウ」
「あ、いや、凄くいいですね」
 何故か、やや慌てて裕也が応じる。その理由を、店主はずばりと言い当てた。
「そっちの兄ちゃんは目が高いぜ。自分の好きな酒ばかり、自然と目で追ってる」
 彼の背後には、この店に置いてある酒の瓶が一通り並んでいる。ただし全て空き瓶で、メニュー代わりに置いてあるに過ぎない。中身の入った瓶は、劣化しないようきちんと冷暗所に保管されている。
 酒は生き物だ。強い光に当てたり温度が高すぎたりすれば、たとえ開栓していなくても簡単に味が落ちる。店主はそれを知っているのである。酒に関する深い知識があるからこそ、相手の目線を追っているだけで、その好みの傾向まで察することができる。
 美月はまた、ため息をついた。裕也はそれに、目を合わせようとしない。どうせまた、「このアル中が」と目で言っているに決まっているのだから。
「まあまあ。そっちの姐さんも、ちょっとくらいは大目に見てやってくれんかね」
 さすがは飲食業に従事しているだけあって、ここは店主が助け舟を出してくれた。酒を飲むのを一滴も許さない、と言うのならそもそもこんな店に来るべきではないのだから、そうなると彼女としてはばつが悪い。それに美月自身、全く飲まない訳ではないのだ。
「はあ…。あ、でもあんまり、勧めすぎないで下さいね。こいつ酒が入るとすぐ、調子に乗るんで」
「素面でも調子に乗りまくってる奴に言われたくないけどな」
「なんですってぇ!」
 そうして言い合いが始まる。
 もっとも、つまり最もたちが悪いのは、酔っ払い裕也に普段の勢いをさらに加速させたほろ酔い美月、という組み合わせである。しかも裕也のペースはある程度早く、逆に美月は遅いので、この組み合わせは決して珍しいものではない。そのことを、ゼミ仲間のほとんどが知っていた。
 ただ、その種の「つきあい」に本当に無関心な光樹だけは、その現場に遭遇していない。しかしそれにしては何故か、どこか距離を置いてそんな二人を見守っているのだった。本来の彼なら、「我関せず」を貫き通して、逆の意味でかかわったりはしないはずである。
「とりあえずビール、大瓶三つお願いしマス」
「あいよ。いつもの銘柄でいいな。つまみはどうする?」
「まず枝豆。次は串を適当に見繕って下サイ。その後はマタその時ニ」
「おう。今日は生揚げ納豆なんてどうだい」
「手抜きじゃないですか」と、ケンは少なくとも口に出しはしなかった。遺伝的には中国系だが文化的には見事なアメリカン、そんな豊かな表情で、その意図を余すところなく表現してのけただけである。
 確かに、生揚げも納豆も、日本ならばその辺のスーパーマーケットで入手できる食材だ。合衆国でも、日本食材を扱う店さえ見つけられれば両方とも手に入る。そもそもどちらも大豆が主な素材なので、日本でも合衆国でも、同時に置いてある可能性が高い。
 だから「生揚げ納豆」と言えば、生揚げの上にしょうゆを入れて混ぜた納豆をかけて、後は鰹節と刻んだ長葱でもかければ出来上がり、その程度でも少なくとも日本語としては間違いなく「生揚げ納豆」だ。そういえば、醤油も主原料は大豆である。
 ちなみに、「生揚げ」という表現でそれが想像できなければ、「厚揚げ」で問題ない。厚めに切った豆腐を油で揚げた食材を、主に関東は前者で、主に関西は後者で呼称する、それだけのことである。この店の主は江戸っ子なので、当然前者だ。
 ともかく、口が悪いようでも微妙なニュアンスをも見逃さない、そこは日本人だと賞賛すべきなのだろうか。店主はすかさず言い返した。
「大豆農家に知り合いがいてな、そのつてでいい納豆と豆腐をそろえてあるんだよ。その豆腐を揚げるのはこの俺だ。それから醤油も、その大豆で作ってるんだぞ」
 確かに手間がかかっている。だからケンは笑って、あたりを見渡した。
「なるほど。それは楽しみデス。皆さん、考えておいて下サイ」
「はーい」
「ではその、厚揚げ納豆をいただけますか」
 リサが簡単に応じ、さらに間をおかずにケンの通訳を受けたアレクが申し出る。アレクがこの店に来るのは初めてだし、状況から見て日本語も通じない。しかしそこから何かを感じ取った店主は、ケンが訳をするのと前後するように言った。
「あいよ! とびっきりの奴を食わせてやるからな」
 それを訳してから、ケンがつけ加える。
「…だ、ってさ。まあ、礼を言うのは食べてからでいいと思うけど」
「なら、楽しみにしています、と、お伝え下さい」
 アレクはどこまでも、まっすぐだ。だからケンは、素直にうなずいた。
「分かった。そうするよ」
 裕也と美月はまだやりあっている。そしてその二人にある程度関わりの深いはずの光樹は、彼自身の極めて特異な精神構造にもかかわらず、何故かむしろ逃げ腰ですらある。それを「我関せず」と言うのだと、ケンは何となく思った。
「私は、酒はあまり」
 さらに完全に逃げを決め込んでいるらしく、ビール以外飲み物を注文しないケンに対して、美月や裕也を無視した光樹がやんわりと抗議する。しかしそこへ、美月が割って入った。
「あたしの酒が飲めないっての?」
 いや、別に、美月の酒ではない。代金を払うのはケンだ、間違いなく。即売会会場での約束、さらにこの店へ至ってからの言動から、それは確かである。
 光樹は反論どころか反応すらしない。あまりにばかばかしくて余分なエネルギーを使うのが嫌だったのか、あるいはそのむちゃくちゃさ加減に実は呆然としているのか、微妙な所だ。
「まあ、それは冗談として」
 だったら相手を選ぶべきだ。通じる人間とそうでない人間がいる。光樹は明らかに、後者である。
「でも、一杯くらいは飲んだら? 折角なんだし」
「長見には飲むなと言っておいて、私に勧めるとはどういうつもりだ」
「裕也はいつも飲みすぎ。光樹くんは飲まなさ過ぎ」
 それぞれを指差しながら指摘する。裕也は聞こえないふりをして目をそらし、光樹は口をへの字に曲げた。
 他人に酒を勧める人間でも、実の所あまりアルコールに強くはないことがある。少なくとも遺伝的な体質としてはそうだ。
 根っからの酒好きは、「俺の酒が飲めないのか」などと間違っても口にしない。なぜなら、「俺の酒は俺のもの」だからである。放っておくと人の酒まで飲んでしまうやからが、他人に強いて勧めるはずがない。人の杯に注ぎはするが、断られればむしろ簡単に引き下がる。
 勧める傾向が強い人間は、多くの場合酒そのものより酒の席のにぎやかな雰囲気が好き、という性格の持ち主である。特に本来それほど強くなかったものの、半ば強引に勧められるうちに慣れて、飲み会が楽しくなったというタイプが危ない。何しろ苦労の末に勝ち取った楽しみだから、それに水を指されたりするのが不快なのである。それに自分自身の経験から、当初多少嫌がっていても大丈夫、などと他人を判断してしまう。
 つまり、前者の典型が自分であり、後者の典型が美月なのだ。伊達に飲んでいる量が多くない裕也にはそう分かっていたが、光樹がそれを理解しているかどうかは微妙な所だ。
「後で吐いても知らんからな」
 ともかく、少なくとも光樹はこの場での抗戦を諦めた。本来それほど飲まないはずの美月が飲ませる側に回った時点で、味方が一人もいない。
 裕也は論外として、ケンもこのような店に馴染んでいるくらいだから当然それなりに飲むだろう。それにアレク、リサの二人は白人だから、元来アルコールに強い。いわゆる白色人種や黒色人種にアルコールに弱い遺伝子を持っている人間は極めて稀、という知識はある彼だった。
「介抱くらいしてあげるって」
 美月は気楽に請けあったが、そこへすかさず裕也が口を挟んだ。
「どうだか。この前大館がへろへろになってたとき、指差してげらげら笑ってたじゃないか」
 ゼミ仲間で飲みに行った時の一件である。確かに、あの時の様子は傍観者からすれば面白かっただろう。しかし別に悪意がないのは分かるが、趣味の良い行いではない。ちなみに結局、そのとき介抱をしたのは裕也である。
「あたしそんなことしてないよ」
「しらばっくれる気か? 記憶飛ぶほど飲んじゃいなかったぞ」
「そうじゃなくて、『げらげら』だなんて、そんな下品な笑い方しないもん」
「つまり笑ったんだな、思い切り」と、光樹は目で言った。ゼミ仲間といっても、彼としては当然のように欠席だった。まあ確かに、「げらげら」は裕也の言葉のあやだろうが、調子に乗って大笑いした様が目に浮かぶ。悪い人間ではないのだが、しかし危なっかしい所がある。それは光樹自身を含めた、彼女の友人全員が知っている所なのだ。
「はいはい。難しい話は抜きにして、まあとりあえずビールってことでどうだい」
「どうも」
 それなりに深刻だが、しかしほとんど意味のない対立に、店主が盆ごと割って入ってきた。始めから相手にする気のないケンが、そこからひょいひょいとグラスや皿を取ってゆく。
「どうぞどうぞ」
 そして手際よく、六人分注ぎ終えた。全て泡三にたいして液体七、しかもふちまでぎりぎりという見事な腕前である。そしてさらに、そのままの勢いで乾杯の音頭に入る。
「それデハ、リサと美月さんと、お二人の本の完売を祝シテ!」
「かんぱーい!」
 さすがに乗り遅れてしまうのも情けないので、結局元気良く声を上げるリサに唱和する裕也と美月だった。
 光樹は黙って、グラスを持ち上げている。しかしそこへ、リサが危なっかしいほどの勢いで自分のグラスを触れさせた。その微妙に戸惑っている様が面白いので、美月も裕也もぶつけに行く。
 その間、ケンとアレクは黙って一杯目を飲み干していた。すばやく二杯目を注ぎながら、裕也が賞賛する。
「おー、いい飲みっぷりですね、二人とも」
「マア、一杯目はこうするのが我々のしきたりデスカラ」
 乾杯は「杯を乾かす」という字を書くが、文字通りそうする。つまり完全に空にしてしまうのが、中国式のやり方である。その辺だけは何故か、中国人のケンだった。アレクは酒の飲み方もケンから教わったので、同じようにする。
でも良い子は真似しちゃ駄目、だって」
 その後の彼のつぶやきを、リサが通訳した。すかさず裕也と美月が二人で指摘する。
「悪い子も駄目だってば」
 未成年者の飲酒は禁じられている。未成年者自身が逮捕されるわけではないが、しかし場合によっては補導されるし、そうと知っていて酒を売ったとすれば、その売った側が逮捕されることもある。
 まあ、未成年とはいっても大学に入っているような人間の場合、大目に見られることが多い。例えば新入生歓迎コンパなど、対象者のほとんどが十八歳か十九歳であるが、明らかにそれと分かる予約を断る店は小数派であるし、警察も取り締まるわけではない。裕也の場合初めて酒を口にしたのは中学生のとき、好奇心からであったが、習慣化したのは大学に入ってからだ。
 そして光樹は、まずそうにビールをすすっている。どうも飲酒の経験がまったくないか、それに近いようだ。自分の酒までまずくなりそうな気がするので、仕方なく裕也が助言した。
「一気飲みしろとは言わないけど、ある程度流し込んだ方が旨いぞ。ビールは味じゃなくて喉越しで飲むものなんだから」
「炭酸飲料も最近は飲んでいないのだが」
 愚痴っぽくつぶやきながらも言われた通りにする。どうやら、アルコール自体に弱いわけではないようだった。一応酒が飲めても、味の好みでビールだけは駄目、だとか日本酒だけは駄目、だとか、色々な人間もいるものである。
「ん、そっちの兄さんはビール好きじゃないのか」
「そのようですネ。失礼しマシタ。大将、何か飲みやすいお酒ヲ一本お願いシマス」
「あいよ」
 串を火にかけながらも、店主はしっかり客の様子を見ているらしい。ケンの言葉に応じて、器用に銚子を用意する。それに驚いたのは、ほかならぬ光樹自身である。
「いや、しかし…」
 彼にしては珍しく口ごもる。基本的に冷静で理知的な人間だが、それだけにそれを壊すおそれのあるアルコールには苦手意識があるのだろう。
「無理に全部飲めとは申しマセン。苦しくなったら後は私が片付けマスヨ」
「俺も」
 裕也はしっかり、店主がどんな酒を注いでいるのか確認している。口当たりが良くて飲みやすい、それでいて値段も手ごろと、中々良い酒だ。
「何が何でも自分が飲む分は確保する気ね。でも飲みやすいなら、あたしもお猪口もらおうかな」
 好奇心旺盛な美月も加わってくる。これで、光樹に拒否権はなくなってしまった。
 さらにリサが、話の流れを微妙に変えてしまう。
「あ、じゃあねじゃあね。ビール終わったらあたし、いもじょーちゅー! え、なに? アレクもそれ?」
「あんた何頼んでるか分かってる?」
 イントネーションが微妙におかしかったこともあり、いきなり強烈な注文に呆れた美月が口を挟む。少なくともリサが日本語を覚える主な素材になっている日本のアニメやゲームには、中々「芋焼酎」などという単語は出てこないだろう。しかしリサは涼しい顔だ。
「だって、少なくともここ、『お洒落なカクテル』ってお店じゃないでしょ」
「そりゃそうだ」
 店主本人がきっぱりと認める。置いてあるのは精々サワーどまりだ。
「雰囲気楽しまなきゃ」
「そうこなくっちゃいけねえよ。芋焼酎二つ、ロックでいいかい?」
「お願いしまーす」
 そんなこんなで、全員がそれなりの量を飲むことがこの時決定されたのだった。光樹は悟られないように、小さくため息をついた。
 そうなれば後は飲んで食べるだけ。実際紹介したケンの言葉に偽りはなく、酒も料理も中々のものだった。ただ、黙々と食べていたのでは、面白くない。わいわいと騒いでこその、飲み会である。つまり飲んで食べて、それから喋る。世の中には静かに味わう店もあるが、ここは明らかにそうではなかった。
 しばらくして、ふと美月が一人だけ喋っていない人間に気がついた。光樹である。いつの間にか、隅の方で下を向いて黙っている。
「なーにやってんのようっ!」
 自分が嫌いな人間でない限り、美月は積極的に話の輪に参加させる。気づく神経は繊細に、かける声は大胆に、それが彼女のポリシーである。
「いや、別に」
 しかし光樹は別に、話の輪から外れてしまったわけではないらしい。どうも自分から離脱したようだ。その証拠は、彼が今手にしている物である。それは今日彼が買った、同人誌だった。
「あはははは。家まで待ちきれなかったんだ。光樹くんにも意外と子供っぽい所があるんだね」
 力一杯笑われて、光樹はあからさまに不機嫌そうな顔になる。別に悪意のある笑いではない、むしろ「微笑ましい」を発展させたようなものだったのだが、だからこそである。悪意を感じ取ったのなら、すかさず何か言い返しただろう。しかし根っから正直な反応そのものを否定することは、極めて難しい。感情的になって怒鳴り散らす、などという反応をする人間もいるだろうが、彼の人となりにそのような傾向は全くと言って良いほどない。
 そして結局、彼は薄く笑った。
「まあ、小説家だからな。空想癖をいまだに持っているのを大人気ないと言われれば、それまでかもしれない」
「いやに素直だなあ。酔っ払ってるのか?」
 裕也自身はこの時点で、酔ってる。同じことを逆に聞かれたら、勢い良く「酔ってまーす」などと口走るだろう。そのために飲んでいるのだから酔って当然、悪びれるいわれはない。ただ、アルコールの影響が思考面にも出ているため、ややからみ気味だ。もっとも、完全に回っているのに「酔っていない」などと強弁するような、そこまでの状態でもない。
「少なくとも君ほどではない」
 すかさず切り返してから、光樹は少し考えた。
「しかし機嫌がいいのは確かだな。いい経験になった」
「でしょー? 来て良かったでしょー? さすがあたしよねー」
 美月の自画自賛にも、小さくではあったがうなずいている。何となく、対応に困ってしまう裕也だった。
「今後の作家活動の参考になりそうデスか」
 ケンが加わってくる。光樹は先程よりも大きくうなずいた。
「ええ。単に作品の受け手にとどまるのではなく、作り手でもあろうとする人間の考え方が見えますから。同じ作り手として、いい刺激になります。それに色々な絵柄の人がいますから、イメージも膨らみますよ」
「へー、プロでも同人が参考になるんだ。まあ、小説家さんが絵を色々見たいっていうのは何となく分かるけど」
 はるばる海外からの参加、よく考えてみれば筋金入りの同人作家であるリサが声を上げる。光樹はゆっくりうなずいた。
「書いたときに、受け手の反応が全て読めるはずもないからな。だから参考になる、と言うより参考にして次の作品につなげていかなければ、仕事にならない。職業だからこそ」
「ふうん。今まであたし、とにかく自分が好きだから本作ってたけど、もしかしたらそれは、大好きな作り手の人に対する、ちょっとした恩返しになるかもしれないんだね」
「そうだな。まあ、表現をする以上その全てが伝わると思うのは禁物だが」
「うん。それに気をつけて、これからももっと頑張るよ」
「それがいいだろう」
 今まで光樹とリサはあまり話す機会がなかったのだが、このやり取りで彼女もある程度、本来興味のない小説に関心をもったようだ。
「所でさ、光樹の本って、挿絵はついてないの? 挿絵があれば作家さんでも読み手でもある程度イメージが固まるから、その分作家さんとしては同人を参考にしにくくなると思うんだけど」
「いや、入れてもらっている。それも癖の少ない先生にしてもらったから、大体の同人誌がそれに似せて描かれているのは確かだ」
 そう言えば美月から奪ったままになっていた彼自身著の文庫本と、今日入手した同人誌を比べて見せる。確かに同人作家ごとの差は見られるが、それがイメージを膨らませるほどのものとは感じにくい。
「でも例外があるってことよね」
 美月は光樹の話し方の癖を理解しているので、流れで続きを促した。多数例を出したら、ほぼ間違いなく少数例も出てくる。それは原則を書いてから例外も書く法律の基本的な構造であるし、また小説家としては読者の目から意外な展開を隠蔽する基礎的な手法である。
「ああ。これなどはそうだ。少女漫画的、とでも形容すればいいのかな」
「なるほどねえ。そんな描き方もあるわけだ」
 口を開いたのは裕也である。少年漫画で育って今は比較的対象年齢層の高い雑誌から気に入ったものを読む、という人間である彼にとっては、どうにも少女漫画の画風というものはどれも似たり寄ったりに見える。頭では色々な画風があるとは分かるのだが、感覚の問題なので仕方がない。
 そしてその感覚で処理する限りにおいて、光樹が今度取り出した本は、彼が言うとおり少女漫画のような描き方の表紙だった。ただ、描かれたキャラクターはかわいらしい女の子ではない。戦友同士なのだろうか、武装した美貌の少年が二人、手を取り合ってる。そんな図柄だ。
 つまり、この場面では、裕也より余程漫画に詳しく、そして口数もそれなりに多い女性陣二人が、さほど長い間ではないとは言え完全に沈黙していたのである。不審に思った光樹が、顔を上げる。
「何か?」
「え? あ? あー…い、いや、ええと。べ、別になんでもないけど」
 あると言っているとしか思えない態度だ。口ごもっているだけでなく、顔も赤い。当然光樹としては追及しようとしたのだが、しかしリサが横から凄い勢いで割り込んで来た。目がらんらんと輝いている。
「ね、ねえ! 光樹って、そういう趣味があるの? もしかして書いている本も、そういう系?」
「こ、こら。ちょっと、リサ!」
 動揺を引きずったままの美月の制止など聞き入れもしない。圧倒的かつ意味不明な力の前に、さすがの光樹がやや引いていた。
「そういう、とは、どういう趣味だ? 少なくとも私は、少女漫画に耽溺しているわけではないぞ。それにそもそもこの同人誌は騒ぎの中で偶然発見したものだから、まだ中身を確認していない」
「なーんだ、知らないで買っちゃっただけなんだ」
 がっくりと肩を落として、リサが引き下がる。訳が分からない。
「説明してもらおうか…と言うよりは、中を確認したほうが早そうだな」
 光樹は一旦美月を見やってから、再び手にした本に視線を落とす。彼女の顔には引きつった笑みが浮かんでいた。
「う、うん。そうだけど…でも、見ずに済ませるって選択肢もあると思わない?」
「そんな、呪いの何とかでもないだろうに」
 確かに、開いた本から何かが這い出しても来たら、絶対に怖い。何しろテレビ画面と違って手元だから、逃げることもできない。
 しかしリサの反応を見る限り、少なくともその種のものではないようだ。それを裕也に指摘されて、美月が完全に追い詰められる。別にそこまで光樹に関連したものに興味がありはしないのだが、しかし彼女がここまで動揺するとなると、是非知りたい。
「とりあえず見る。話はそれからだ」
 そう宣告して、光樹は本を開いた。
 それはヲトメの浪漫にして秘密。禁断の薔薇の花園。めくるめく愛の世界が濃厚に展開されている。
 美月と、そしてリサには、表紙の画風から分かりすぎるほど内容が分かっていた。
「何を騒いでいるんです、さっきから」
 日本語からして分からないアレクが、ロシア語でケンに尋ねる。しかし彼は、苦笑して首を振った。彼は彼女達の反応から、本の内容を察している。
「世の中には知らないほうがいい事実もあるってことさ。彼女がそう言ったのには、私も全く同感だよ」
「そんな言い方をされると、余計に気になってしまいます」
「でも実際、精神衛生上見ないほうがいいと思うよ、本当に。まず間違いなく『ヤオイ』本だから」
「『ヤオイ』とはなんでしょう?」
 何も知らない美貌の白人青年が、実はとんでもないことを口走っている。この光景はこれはこれで、その手の作家にはたまらないだろう、と、ケンは笑いをこらえながら考えた。
「まあ、歴史の浅い言葉だから意味がかなり曖昧だけどね。男性同士の恋愛、そして多くの場合性交渉まで描いてあると考えておけば間違いないよ。で、あの本のテーマは彼の作品だ」
「ど、同性愛を、しかも性交渉まで…」
 これが本当の、「あなたの知らない世界」である。理解不能の現実を前に、アレクは驚くばかりだ。そこで、状況を整理しようとする。
「あの人の書く作品には、そういう傾向があるんですか」
 差別は良くない。それは分かっているが、しかし男性にとって同性愛をする男というのは、どうしても気持ちの悪いものなのである。
 特にアレクの場合、容姿が良すぎるので現に不快な経験をしたこともあるのだ。もっともその件はその場で、相手を力一杯蹴り飛ばして一撃ノックアウトという結果に終わっている。見た目綺麗でも、格闘術に関してはケンじこみだし、それ以前の複雑な生い立ちの中で厳しい訓練をつんでいたいるする。
 もし光樹にそのような傾向があるなら、距離を置くのは間違いない。しかしケンは笑って否定した。
「全然。戦友同士の友情とか葛藤とか、そういうのはきちんと描かれてるけどね。あの本でネタになっている二人は、文章を普通に読んでいれば異性愛者だって分かる書き方をしてあるし」
「ならなんでまた」
「さあ。まあ、いろいろな面から学術的に研究してみれば、ある意味面白い結果が出るんじゃないかな。あるいはもうそれなりのものができているのかもしれない。私は興味がないから知らないけれど。ともかく例えば典型的には友情と葛藤の物語を、愛憎劇に置き換えてしまうのが『夢見るヲトメ』なのさ」
「はあ…」
 説明している人間が分かろうとする努力を頭から放棄しているのだから、アレクとしては最早理解のしようがない。まあ自分には関係のない話だし、立ち入らないでおこう。そう心に決めるのだった。
 もっとも、実はアレクにとってその話題は既に他人事ではない。そのことを、ケンは承知していた。何しろその種の素養があると思しき、リサが身近にいる。
 彼女が彼をそのような目で見ているとは、お見通しだ。何しろここまで美貌の青年は、中々いない。自分に対する視線も時折妙なことがあるし、大方彼女の頭の中にある構図は自分×アレクだろう。そこまで見当がついている。しかしそれを口に出したところで人間関係が悪化するだけなので、黙っているのだった。日本的な事なかれ主義、というのもことと次第によっては悪くない、むしろ見習うべきときもある、ケンはそう考えている。
「まあ、こんなこと言うべきじゃないのかもしれないけどさ、大体光樹くんの作品って、美少年とか美青年とか美中年とか美老人とか、そうそう、それから美幼児とか、とにかくそういうのにこと欠かないのよね。それ系の趣味を持った人にとっては格好の餌食よ」
 美月が結論めいたことを口にする。一応、裕也は指摘しておいた。
「美中年とか美老人、それから美幼児ってのは何だよ」
 美少年、美青年までは日本語としてあると思う。しかしそこから先は、少なくとも彼自身が聞いたことはなかった。
 明らかに、この場合は瑣末の議論である。しかし正直な所その本質に、裕也としては踏み込みたくなかった。何か怖い気がする。と言うか、ちらっとその一端を見た時点で、十分に怖すぎる。
「あら、なに? 中年や老年、それに幼児は、人として美しくないって言うの? それは年齢による差別だと思うけど」
 美月の反論は、ごくごく正論である。例えば光樹だったら「中年」あるいは「老人」という用語を用いる時点でそこには既に美的ではないニュアンスがある、などと情け容赦なく口走っただろう。しかしそこは、裕也である。思わず口ごもってしまう。
 そして彼女は、つけ加えた。
「ていうかまあ、光樹くんの作品に出てくる人の場合、一応生まれてから百年は軽く超えているんだけど不老の術で見かけは二十いくつとか十台半ばとか、そういうこう、ヲトメ心をくすぐるキャラクターが色々と、ね」
「お前それ、何か間違ってる。何がかは知らないけど、とにかく何か!」
 滅茶苦茶な反論であることは誰よりも自分自身が分かっている。アルコールの影響も否定はできない。しかしともかく、裕也はこの場で言いたいことを言いきった。
「いや、それは確かに、そうかもしれないけどさ」
 そして何故か、おそろしく簡単に美月が折れる。逆にそれが、裕也としてはむしろ怖かった。やはり「そこ」には、とり立てて得意な分野のないと思っている自分、そして博識でいながら風変わりな側面も持つ光樹も知らない「何か」が、横たわっているらしい。
「っていうかさあ、リサ。やっぱ戦争ものはやおいの王道よね」
 そして突然、話を別のところへ振る。正直な所裕也としてはそんな理不尽な流れへの拒絶を期待したのだが、しかしそれはそうではなかった。
「あたしはそっち系の王道と言えばスポーツものだと思うけど。あと、戦争者とスポーツものと、二つの要素が含まれている、格闘ものっていう極めて強力なジャンルもあるわけだし」
「うーん、なるほど」
「この際言っちゃうけどさ、ミッキーの趣味は、少なくとも世間一般の傾向かすればちょっと『濃い』方向に傾いてるんじゃないかとあたしは思うよ。友達の光樹だって、ライトでポップっていう感じじゃないし」
「そりゃあねえ。この人は本質的にダークでディープだし」
 美月の言いようは情け容赦がないようだが、しかし確かに、少なくともそういった印象を与えることは否定のしようもない。人間の暗い側面を鋭くついてくることがあるし、底の浅いようなことは決して言わない。
「ミッキー自身がどうかはともかく、そういうものを気に入る、共感できる部分が、ミッキーのどこかにあるっていうことよ」
「んー」
 美月自身の感覚としては、とにかく微妙だ。だから彼女にしては珍しく、曖昧な返事ではっきりとした答えを与えようとしない。
 確かに、自分は里中光樹という人間を気に入っている。それは確かだ。だからこそ、他多くの人間が彼を敬遠しているにもかかわらず、友人として付き合っている。
 ただ、それが共感なのかどうかは、良く分からない。菱乃木美月は自他ともに認める明るい人間だし、また飽きっぽい気分屋の側面があるとは親しい人間ならまず間違いなく知っている。しかし確かにリサが言うとおり、本当にそれだけの人間だったのなら、共感ができるかどうかは疑問の大きいところだ。
 美月は基本的に感性で生きている人間だが、しかし知的、特に論理的な思考力の面において決して劣悪ではない。それは、特異なほど論理的な思考をする里中光樹と、それなりの人間関係を構築できたという点から既に証明されている。だからこそその疑問に気づかざるを得ない。
 そして結局、彼女は自分自身に対する判断を留保した。話を変えてしまう。
「いやさあ、実はあの本描いた人、ネット上でチェック入れる以前に知ってたんだよね」
「ん。というか、『その筋』じゃあある意味有名人でしょ。おそろしく緻密な描画と幻想的な美しさ、そして性描写の過激さを併せ持つ最強レベルハードコアやおい作家の一人。あまりに濃すぎるんで絶対に大手にはならないけど、でも逆に根付いたファンが見放すことも決してない。そういう人に目をつけられただけ凄いって、原作者の先生に教えてあげたら?」
 いや、実際、本当に。男の目からしてもその「局部的な」生々しさは凄まじいとしか言いようがない。辛うじてそのさらに一部に修正された跡が見られるが、しかしその程度でその描画の迫力はなんらも損なわれていない。むしろその修正を計算に入れて読者の想像力をより掻き立てる、そんな描画であるらしい。
 よくもまあ、一律に行われているチェックを通過したものだ。おそらく、その限界に挑戦した絵であろう。
 しかし、詳しい分析は、少なくとも裕也には不可能だった。端的に言って、彼としては見ていて気持ちが悪い。折角飲んだ酒を、戻してしまいそうだ。とりあえず、しかし断固として目を逸らす。
 そんな、ケンやアレクを含めて完全に引いている男性陣をよそに、女性陣の話は続いている。
「あたしはわざわざ、光樹くんに渡したサークルチェックから、そこを外したのよ。ほら、自分の作品がねたになったやおい本を見て激怒したっていう、そんな作家さんもいたじゃない」
「そうだっけ?」
 リサは至極簡単に首をかしげる。自分の記憶を探ろうとする努力の跡も見られない。おそらくそれは彼女の頭の中に始めから入っていないことなのだろうと、美月は察した。
「ああ、そうか。小説の話だから、リサはわかんないか」
 日本語は流暢だが、しかし漢字の多い文章は苦手な彼女である。台詞や擬音を多用した、やや低年齢層向けの易しい作品でない限り、小説は手に取ろうともしない。
 その激怒した作家は、少なくとも彼女の読むものからは明らかに外れた作風であると、美月は知っている。さらにその一件の後で刊行された作品では、男色家の悪役が血祭りに上げられたという。
「ちょっとね」
 そして別に恥じるでもなく、リサはうなずいた。土台母国語でもない、趣味で覚えた言語であるから、教養がないと指摘されたとしても腹は立たない。
「まあともかく。光樹くんって傍観者的なようでも、気に食わないことに関してはものすごく攻撃的だったりするから。こういうエネルギーのある人が、あたしのせいで反やおいの急先鋒になっちゃったら、やっぱまずいかなあと、そう思ったのよね」
「楽しみにしてる人はいっぱいいるからね」
「いっぱい」なのか、と、裕也は内心思ったが、しかし相変わらず精神的に萎縮したままなので、黙っていた。ケンも本質的には似たようなところで、沈黙を守っている。彼が通訳をしないので、アレクは既に局外だ。結果、当然ながら話が進んで行く。
「しかし結局、あそこに連れて行った以上それに遭遇する危険は覚悟するべきであって、あたしの読みが甘かったという他なかったのかな」
 今日半ばはふざけて「エロは偉大」などと口走った自分さえ、悔やまれる。「男性向け」のいわゆる「エロ」が強大な力を持っているのと同様、「女性向け」とされる「エロ」、やおいも、同人誌即売会においては極めて強力な分野なのだ。
 ただ、今日の催しは「男性向け」が主なので、光樹をこの日に連れてきてもその「女性向け」に遭遇する可能性はごく低いと踏んでいた。「女性向け」が強い催しは、同じ主催者の下昨日既に行われ、無事終了している。
「でもさあ、『腐女子』だったら自分の本が作者本人や編集者に渡らないよう、それなりに注意するのが筋ってものだとあたしは思うけど。芸能ジャンルとか、特に綱渡りの所もある訳だし」
 漢字に弱いはずの彼女だが、しかしこの時はきちんと「腐女子」がどのような字を書くのか、それを分かった上での発言だった。もちろん美月も、それを承知している。少なくとも、この場合は決して「婦女子」の誤植または誤解ではない。
 それは主に、「やおい」好きの女性が自分たちに関して用いることのある名称だ。腐った、などという漢字を使っている通り、そこにはやや自嘲的な意味合いもある。それは、少なくとも一般社会に抵抗なく受け入れられるような趣味ではない、その自覚を少なくない数の人間が持っている証拠なのだろう。
 なお、リサ本人や美月がその「腐女子」に該当するのか、あるいは本来自嘲である名称を軽蔑の意味を込めて用いている、つまり該当しない類の人間であるのか、その真実は「ヲトメの秘密」である。ケンにしても、リサはそうであろうと読んでいるだけであって、証拠を押さえている訳ではない。
「芸能ジャンルはさすがに話が別なんじゃない?」
 それは文字通り、漫画やアニメのキャラクターではなく、実在の芸能人をテーマにしたやおい作品のことである。人気があるのはやはり美少年、特に男同士が一緒になって行動する、アイドルグループが素材になりやすい。
 ただし、何しろ実在の人物なので、やおい作品にしてしまうと色々と問題がある。下手をすると名誉毀損で訴えられかねない。そうでなくとも、肖像権の侵害などというおそれもある。さらに、彼らが所属しているプロダクションというものは、そもそもそのイメージやそこから得られる収益、要するに広い意味での商品価値を守るために存在しているので、権利の侵害に対しては概して敏感なのだ。
 それゆえ、芸能ジャンルを描いている人、そしてそれを好んでいる人のほとんどが、本人やプロダクションなどに本が渡らないよう、相当神経を使っているという。
「うん。現にトラブルになるかどうかなら、確かに別だけど」
 リサはちらりと光樹に視線を向けてから、美月に再び向き直った。
「でも、お金はともかくやおいが駄目な作者が受けるメンタルなショックって、芸能人本人がそれを見たときに受けるショックと、そんなには変わらないんじゃないかな。ほら、作品のキャラクターって、その作者の分身だってよく言うし。あたしだって、同人描くだけでも自分の一部だってくらい入れ込まなきゃできないからね」
「ふうん…。まあ、聞けば頭では分かる話ではあるんだけど」
 少なくとも美月自身に、そこまでの感覚はない。彼女自身同人誌を描いてはいるが、その登場人物を強いて現実の人間関係で形容するとしても、「友人」程度である。つきあっていると楽しいが、決してその全てを理解できるわけではない。逆に分からない部分があるからこそ、意外性や、あるいは発見する喜びがある。
「でも本質的なところは、光樹くん本人とか、そういう人しか分からないよね」
「まあね。それもまた、人それぞれだろうし」
 とりあえず、結論らしいところに話が落ち着く。そしてそれを締めにかかったのは、ケンだった。
「これは一般論デスガ、人間の人格あるいは個性と呼ばれるもの、英語で言う『キャラクター』は、それ自体では全く意味を持たないとも考えられマス。もし他に何も存在しない世界にあれば、働きかける対象も、逆に影響を与えるものもナク、そもそも『個』として他と区別する必要がなくなりマスから」
 日本語では難しい概念を理解しにくいリサにも分かるように、はっきりとしていながらゆっくりとした、そんな調子で語る。日本語が分からないアレクをのぞいてそれぞれの思いはあるが、少なくとも反論するものはいなかった。
「ツマリ、家族や友人と言った親しい人々、逆に敵対者も含めた親しくない人々、そして動物、さらには無生物、要するに人間を取り巻く世界全てが我々にとってハ我々自身だということデス。その意味デハ作品の『キャラクター』も、それがその人の外世界にあるのでアレ、内世界にあるのでアレ、他の事象と変わりがないのでショウ。あとは彼女あるいハ彼自身の『キャラクター』の問題デス」
 言い終えてから、ケンは同じ内容を、アレクに対してロシア語で説明した。ただ、さすがの彼もまず日本語と英語を交えて話すつもりで考えたことを、純粋なロシア語に置き換えるのにはやや苦労したが。
「なんか、真剣に考えてると訳わかんなくなっちゃうよね。でも、それを考えてるだけじゃ外へ対して何の働きかけもしない、いるんだかいないんだか分からない人間になっちゃうし」
 美月が口を開いたのは、アレクが内容を理解した後である。そして飲み物に少し口をつける。それを受けたのは、その間飲んで、そして考えを少し整理したらしいリサだった。
「ただがむしゃらにやる方がいいこともあるってことよね」
 その息にはややアルコールが混じっているはずなのだが、美月は大きくうなずいた。
「うんうん。そゆことそゆこと」
 一件落着、とばかりにもう一口飲む。そこへ、どこか無機的な声がかかった。
「…で?」
 いかにも彼らしい口調の里中光樹、ではない。裕也である。しかし何故か、光樹の生霊が乗り移ったような、そんな響きがある。
「なに?」
 そして何故か、美月とリサの声がそろう。裕也はそのままの調子で、小さく首を振った。
「哲学は分かった」
 ケンの考え方は、ある種の哲学を土台にしたものである。光樹と比較するとともかく、裕也にも、聞いた上であればそうだと分かる程度の学はある。具体的にそれが何哲学の何々、と説明はできないのだが。そしてとにかく前向きという美月とリサに共通した事柄も、少々意味は違うが立派な哲学、いわゆる人生哲学だ。
「しかし今の問題は、この『キャラクター』を何とかすることじゃあないのかね」
 誰もが認める恐るべき知性を持っている反面、あるいはその結果として周囲からすれば奇怪なほど理知的で、情動を欠いているように見える。そして究極の傍若無人人間で、自分に興味のない事柄にはとことん無関心。
 そんな強固な自我を持っているようで、いや、あるいはその固さこそがもたらすのかもしれない、脆さをも持ち合わせている。例えば自分が家庭を持っているという想像をさせられただけで、おかしくなってしまう。それはまるで、実は金槌で一定の方向に叩いただけで割れてしまう、ダイアモンドのように。あるいは鍛えすぎ、研ぎ澄ましすぎた剃刀の刃先のように。
 そんな「キャラクター」を持った人間の名前を、里中光樹、という。
 そして里中光樹は、この時、止まっていた。目を点にして。
 まるで「見るべきでない光景」、退廃の極みにあったソドムとゴモラの滅びの光を見たアブラハムの甥ロトの妻だな、とケンは思う。滅びの直前町を脱した彼女は、神の使いが「決して振り返ってはならない」と警告したにもかかわらずそれを破った結果、塩の柱になってしまった。
 もっとも、キリスト教的な価値観からすれば、光樹が見てしまった光景こそ、ソドムとゴモラそのものに近いのだが。ついでにそんなことまで考える。
「でも、どうしようもないじゃない」
 おそろしく情け容赦のないことを、美月が口走る。しかしケンなどは、それもいたしかたのないことだと思った。
 天罰による滅びを目前にした退廃の町、そんな中へロトは住んでおり、そして神はわざわざそこまで、使いをやった。つまりそこまで、ロトは敬虔だったということだ。彼の選んだ伴侶が敬虔であろうことは、いうまでもない。
 しかし彼女は、わずか一度、「見てはならない」との御使いから与えられた禁忌を破っただけで、塩の柱になるなどという、筋金入りの悪党でも滅多にしない尋常でない終わりを迎えてしまった。旧約聖書にはそう、明記してある。
 世の中、そういうものだ。理不尽なことなどいくらでもある。聖書はありがたくも、それを教えてくれているに違いない。と、信仰心を全く持ち合わせていないケンは考えているのだった。
「裕也にだって妙案があるわけじゃないんでしょ」
「まあ、そりゃそうだけど」
 裕也自身も濃厚な男色描写には、かなり気持ちの悪い思いをした。しかし端的に言ってしまえば、それだけのことである。
 そう言えば、高校時代に友人が悪ふざけで男性同性愛雑誌を学校に持ってきたな、と思い出したりもする。気持ち悪い気持ち悪いと言いつつ、皆でその内容についてげらげらと笑っていたものだ。現にそういう傾向を持っている人がどう感じるかどうかはともかく、笑っていた少年達には別に、同性愛者を差別する意図があったのではない。
 自分自身が全く興味をそそられない性的描写というのは、どうにも滑稽だった。土台理性で理解できるような事柄ではないし、かといって感覚も共有できない。つまり完全に理解不能の事柄を、ある意味真剣にやっているので、おかしい。言ってみれば、「シュール」なのである。
 だから一般的な男性向けの性描写も、行き過ぎたりしていれば女性にとっては気持ちが悪いと同時に滑稽だったりするのだろう。当時はただ笑っていただけだが、今になってみれば、そう思える。
 しかしそれは所詮は他人事、という前提があってのことだ。もし自分に同性愛者からお誘いがあったら、丁重かつ厳重にお断りするだろう。丁寧な応対が事態をかえって悪化させる可能性が高いのなら、威圧的に対処するかもしれない。
 無論差別はいけないと承知しているが、しかし同じ理由により、相手の趣味を押しつけられるいわれもない。その理由こそ、個人の自由というものである。
 そして光樹にとって、自分の小説の登場人物たちは、一体どんな存在なのだろうか。
 一から育て上げようやく晴れて世に送り出した、わが子? それとも現実世界の誰よりも仲の良い、親友? あるいは理想を託した、憧れの人? さもなければ作中で執拗に弄ばれる、最もお気に入りの玩具? 
 その全てが、ケンによれば「彼自身」なのだという。
 確かに難しく考えればそうかもしれないが、しかしそれ以前の可能性に、裕也は思い至っていた。
 理屈ぬきに、「自分」だと思える存在。つまりこれこそ「自分」だと思える、自意識の中で中核をなすもの。要するに自分自身。英語で言えば「アイデンテティ」だ。
 もし「それ」を、あのような形で扱われたとしたら、その人間は一体どうなるのか…。
 裕也には正直な所、想像の彼方だった。
「どうしたい、兄さん。手が止まってるぜ。もう終わりかい?」
 考え込んでしまっているのを見取って、店主が声をかけた。飲ませるのが商売なのだから、まあ当然のことである。店内で吐かれたりしても困るので限度はあるが、とりあえず裕也はまだ大丈夫との判断だ。
「ああ、いえ。もう一杯いただいていいですか」
「ドウゾドウゾ」
 一応出資者に了解をとることにしたのだが、ケン自身飲んでいて気分が良くなっているので、景気も良い。実にすんなり通る。
「そろそろつまみも少なくなってきたけど」
「デハ煮込みをお願いしマス」
「あいよ。で、そっちの兄さんはどうする?」
 店主は当然、光樹の手も止まっているのを見ている。ただ、裕也の方が飲みそうなので、彼を先にしたのだった。
 光樹は反応しない。裕也はすこし慌てて口を開いた。
「飲みなれていないんで、このくらいでいいみたいですよ」
「ふうん。顔色からしてそれほどでもないようだが、まあいいか。喉が渇いたら言ってくれ」
「はは」
 答えようとしない彼に代わって、裕也は笑ってごまかした。そして考え込んでいても仕方がないので、早速運ばれてきた酒を飲むことにするのだった。

 酒も肴も実に旨かった上、払う心配もなかったので、その日は裕也としても少々飲みすぎてしまった。おかげで記憶が途中から、やや曖昧になっている。ただ、翌朝何事もなく自室で目が覚めたので、極端な無茶はしていないはずだと分かる。新橋から東京の西側郊外まで帰ってきたのだから、それなりの時間で切り上げたのは間違いない。
 そしてその後は何ということもない、大学三年目の夏休みだった。生活のためのアルバイトをして、それ以外の時間はのんびりと過ごして、それだけの生活である。たまには遊びにいったりもするが、金銭的な制約を考えればそれもほどほどだ。
 その間たまには帰省しろと親から電話がかかってきたりもしたが、それならば交通費やアルバイトを休職する間の生活費を負担してくれと言って黙らせた。まあ、これも年中行事のようなものである。一応正月には帰省しているので、自分としてはそれで良いつもりでいる。
 休みの終盤は例によってレポートの類を追い込みで片付けて、一応無事に後期授業が開始される九月を迎えた。そうして日常の感覚を取り戻した分、その頃には、あの暑い日の出来事はただの悪い夢であったのではないか、と思えるほど現実感を欠いて想起されるようになっていた。
 裕也が光樹とあれ以来初めて顔をあわせたのは、後期第一回のゼミ教室においてである。今後のゼミの予定を決める日であるため、下手に欠席をすると自分の不利になることがあるのだ。嫌でも出ざるを得ない。まあ、裕也はともかく光樹の頭にはサボるなどという発想はないらしいが。
 彼の様子は別段、以前と変わりがないように思えた。世間話には付き合わず、勉強の話になると的確に発言する。理知的だが、感情の起伏には乏しいように見える。
 もっとも、裕也はそもそも彼のことを詳しく知っているわけではない。つまり、同じゼミに所属してはいるがそれ以上ではない、そんな関係に戻ったのである。
 一方美月とは、その間メールのやり取りをしたり、直接会って遊びに行ったりもしている。おごらせるという約束も、しっかり履行させた。それらの際彼女は特に光樹がどうなどとは言っていなかったので、彼に関しては特に問題はなかったのだと、思うことにした。
 彼女の口から光樹の話題がでたのは、秋もすっかり深まった頃になってからだった。何でも、彼の新刊が発売されたのだという。
「作風がね、変わったのよ」
「ふうん」
 裕也はそれだけ言って流し、美月も無理に話して聞かせようとはしなかった。市販の本であるから、興味があるなら以前のものと新刊を購入して比較検討する、ということもできるなとは思う。しかし実際にやろうとは、しなかった。自分は美月ほど好奇心旺盛でも怖いもの知らずでもない、そう思ったから。

正しい同人誌即売会の過ごし方(?) 了


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