正しい同人誌即売会の過ごし方(?)

23 急病人は速やかに救護室へ

注意事項を確認する


 逃げ道は塞がれている。状況としてはもう、完全に抜き差しならない。相手が暴力に訴えかけるのなら、反撃するか無抵抗でやられるか、二つに一つだ。そして後者を取る趣味は、少なくとも裕也にはなかった。だからこの際とばかりに言いたいことも言ってのけた。「殺す」などと、いい加減な冗談などではなく言ったのは、初めてだ。
 そしてそれも、何も考えずに感情を叩きつけているのではなかった。
 裕也と美月がこの場で一休みしている間に、この連中は走り回って二人を探していたらしい。すっかり汗だくだ。それでもストーカー本人は一応、人並みはずれた粘り強さを発揮して元気がある。だが、それにつき合わされている残り二人は、もうふらふらだ。戦力としては明らかに、低下している。それに本来備わっている持久力も、裕也などに比べればだいぶ劣るのだろう。
 今のうちなら三対一、あるいは美月を計算に入れて三対二で、何とかなるかもしれない。休まれて体力を回復させれば、それだけこちらが厳しくなる。それにやや狭い場所だから、人数の多い方がその有利を活かしにくい。
 ただ、やるなら本当に覚悟がいるだろうな。裕也はそう感じる。手ぬるいことをしていては、突破することも難しい。どうせ攻撃をするのなら一撃で大きなダメージを与えないと、複数の人間に捕まってしまうだろう。そうなっては、一対一の場合の能力の優位など、ほとんど意味を持たない。
 行きがかり上、「殺す」などと口走った。しかし本当に、真剣勝負だ。
 武器こそ持っていないが、しかし殺すことまでの覚悟が必要かもしれない。現実問題として、全く加減なしで殴らなければ、気絶させるなどして人間の動きをしばらく止めることは難しいのだ。空手などその道の経験者ならばある程度加減が聞くだろうが、少なくとも裕也に素手での格闘の心得はない。しかし大の男の腕力であるから、当たり所が悪ければ危険なことになる。
 さて、自分にそこまでのことができるかどうか…。やるしかない、頭でそれは分かっている。しかし実際に可能か否かは、別の問題である。何しろ自己防衛の本能が関わってくる事柄だからだ。
 人間がその潜在力の全てを開放すれば、通常よりはるかに大きな能力を発揮することができるらしい。ただ、それにはその人体そのものが耐えられない。例えば普通の人間が全力で何かある程度硬い物を殴ったなら、対象の損傷はともかく、まず自分自身の指の骨を折る。
 人体とは、それほどまでに脆いのだ。その破壊を防ぐために、人間は本能的に自分の能力を抑制している。
 その限界を超える、少なくともそうする覚悟がなければ、本能的な抑制などとても突破できはしない。そして例えそれが本能であっても、自分ひとりの安全を優先させているようでは、とてももう一人など守りきれはしないだろう。
 そこまで考えた上での挑発だったが、実際のところ効果は至極簡単なものだった。
「この野郎…」
 疲労に怒りが混在して、実に醜悪な形相になる。やはり、この男には単純な罵声の方が効果的なのだ。そもそも、もしやろうとしても光樹ほどに口が回る自信はない。あれのどこが内気なんだか、とつくづくそう思う。他はともかく、あの自己評価だけは日本語として明らかに間違っている。 
 一か八か、とにかく身構える。その瞬間だった。
 何かが動いた! それは分かるが、しかしまともな対応など全くできない。その「何か」が、あまりに速すぎるのだ。裕也にできたのは、美月を後ろにかばいながら一歩後ずさっただけである。
 そして、三人が倒れた。その光景を、裕也と、そして美月が上から見下ろしている。呆然と。
 悪い夢の、終わりのように思えた。あるいは今朝、光樹が迎えに来たときから、それが始まっていたのかもしれない。そんなふうにさえ、感じられる。
 ただ、そうではないことを、現れたもう一人の男が物語っていた。
「いけませんネエ。トレーニングを積んデモいない人間が、コノ暑い中水分も取らずに走り回ッタラ、それは倒れマスよ」
 いつの間にかそこに立っていて、そして肩をすくめている。ケンだった。
「先生…?」
 確かに、理屈としては彼の言うとおりだ。しかし何かがおかしい。この男、何が起こったかも悟らせないはずの凄まじい動きで、一体何をしていたのか。
「自業自得ですね」
 裕也の後ろにいたせいもあるだろうが、美月は素直に信用している。そうなると、ケンが動いていたこと自体、そもそも自分の気のせいのように裕也にも思えてきた
「全くデス。しかし熱中症は時に命ニモ関わりマス。死なれテモ後味が悪いデスから、我々が救護室マデ連れて行きマショウ。菱乃木サン、長見サンは今のうちニ外へ出て下サイ。待ち合わせは新橋の駅デ。里中サンとリサは、もう向かっていマス」
 本来なら後始末までしっかりするのが筋だが、この場合そうしようとしてもあとくされが残るだけである。二人とも異論なく、言われたとおりにすることにした。二人と入れ違いのようにしてアレクが入ってきて、ケンを手伝っている。
 ともかく、一通り片付いた。歩きながら、美月は伸びをした。
「ふう、やれやれ。何とかなったね」
「ああ、何とかな」
 大きく息をつくが、何しろ会場内は暑いのであまり爽快な気分がしない。早くどこか、クーラーの効いた場所へ行きたい所だ。
 ただ、それだけではないものが、まだ少しわだかまっている。それを、美月は察したようだった。
「どうしたの? 浮かない顔で」
「いや、ちょっと。しょうもないこと考えてた。ケン先生って、何の『先生』なのかと思ってさ」
 教師も医師も弁護士も、それから議員も日本語では皆「先生」である。それに教師と仮定しても色々な科目がある。何をやっている人なのか、その呼び方からでは良く分からない。
「日米比較文化論。大学の非常勤講師だって」
「へえ、大学の先生か。でも、講師でも非常勤じゃあ食っていけないだろう」
 大学で教えているとなると社会的なステータスは高いが、収入がそれほど多いとは限らない。特に非常勤の職だけで生活していくのはまず不可能だ。週に一、二コマ授業を受け持っているだけの、いわばアルバイト教員である。定年で引退した教授や、別に本業がある人間が、その肩書きを持っていることが多い。
「うん。本人としては学者が本業のつもりなんだけど、現実としては外資企業が日本に進出する時のコンサルタントなんかで暮らしているんだって」
「なるほどねえ」
 少なくとも、武道の先生ではないということだ。あるいは日本の武道がきっかけで文化にも興味を持った人間かとも思ったのだが、少なくともその経歴からはそうだと判断できない。
「でさ、裕也」
 話が一段落したところで、美月がやや身構えたような口調になる。別に促さなくても言いたいことを言う性格だと分かっているので、裕也はただ顔を向けて聞いていると示した。
「ありがとね」
 真剣な顔で言い終えてから、優しく笑う。元来表情豊かな人間であるが、今のような顔は、珍しいように思えた。裕也はまた、髪をかきあげる。
「朝言ってた礼、弾んでくれよ。ケン先生が今日おごってくれるのとは、別口だからな」
、覚えてたか。色々あったから忘れてるって期待してたんだけど」
 わざとらしく顔を引きつらせる。裕也は冷然と応じた。
「当たり前だ。俺が酒の話を忘れるか」
「ちっ、そう来たか。でもなあ。お酒の良し悪しなんて、あたしには分からないよ。いつか、高ければいいってもんじゃないとか言ってたでしょ」
 多分かなり酔っ払っているときに言ったのだろう。確かにそう思ってはいるのだが、美月に対して語った覚えはない。
「別に酒は高くなくてもいいさ」
「話が矛盾してる。もう酔っ払ってるの?」
 何故か自分の方を見ないで話す裕也の目を、美月が覗き込もうとする。しかし身長差があるので、うまく行かない。それに構わず、裕也は答えた。
「まだ素面。今度一緒に飲みに行って、払いはそっちもち。ということで」
 飲食店でつまみも一緒に、となると当然ながら酒を買って持ってくるより高くつく。そのような計算である。
 美月は少し考えてから、冷たそうな半眼を作った。
「…デート代を女に持たせる気?」
「男女平等」
 珍しく、この言い合いは美月の完敗だった。
「はあ、しょうがない。一回おごって差し上げますわよ、まったく。でも飲みすぎないでよ。酔っ払いの介抱までやらされたら、割に合わないもの」
「分かってるって」
 いくら酒好きでも、そこまで馬鹿ではない。そもそも、言われなくとも量は抑えるつもりだ。折角誘っておいて、みっともない状態をさらす気など全くない。
「やれやれ。じゃあ、光樹君へのお礼も考え直さないとなあ…」
「ああ、そう言えば。あいつと一緒に動いてたときに担当編集者に出くわしたんだけど、あいつに渡した情報、相当有益だとか言ってたぞ。今度の機会にもまた教えてやるってことでいいんじゃないのか」
「ほほう。人を見る目があるじゃない、その人」
「まあ、そうかもな」
 そんな話をしながら、二人は会場を後にするのだった。
 結局、今日新橋で一杯、という約束をしていた六人のうち、最後まで会場に残ることになったのはケンとアレクである。後始末は最後にやるものだし、それを引き受けたのだから仕方がない。
「ようやく四人、片付きましたね」
 ぱんぱん、と手を払いながらアレクが言う。まるで掃除でも終えた後のようなしぐさだが、彼の主観では似たようなものである。ちなみに光樹を追っていった一人を「片付けた」のも彼だ。
「まあね。つき合わせたあげく、余計な仕事まで押し付けちゃって悪かったね」
 ケンは苦笑してうなずく。なお、この会話で使っているのはロシア語だ。アレクは別にロシア人ではないのだが、出身が旧ソ連の国であるため一通り話せる。最近ようやく日常会話に不自由しなくなった英語よりは、だいぶましなのである。
 一方のケンは、母国語である英語のほかに、日本語だけでなくロシア語も話せる。むしろイントネーションがややおかしい日本語と異なり、ロシア語は全く流暢だ。リサがいる場面ならともかく、この二人の間ではロシア語の方が理解が早いので、それを使うのが暗黙の了解となっていた。
「別に、僕は気にしませんけれど。先生こそ、あなたともあろうものが、この極東の島国で、ええと、ストーカーの後始末とは、お疲れ様でした」
 時代は変わるものだ。アレクは年若いが、何しろ出身地がかつての共産圏であるだけに、つくづくそう思う。ソ連邦崩壊は、ちょうど彼が物心ついた頃だった。
 その激動の時代、マフィアも軍も、そして悪名高い諜報部をもものともせずにそこで活動をしてのけた男がいた。その名をケン=シャーという。それが本名かどうか、そして彼がどのような目的で、あるいはどのような組織を背景にしていたのか、アレクには良く分からない。肝心なことは、何一つとして語らない男だ。
 確かなのは、彼がアレクを救い出し、アメリカで永住できるよう手配してくれたということだ。そうでなければ、マフィア同士の抗争に巻き込まれていただろう。詳しいことは本人として思い出したくもないが、アレクはそんな生い立ちを持つ人物である。
 恐らくCIAの関係者だろう。アレクはケンのことをそう見ている。そうではないかと本人に直接問い質したこともあるが、その際彼は「確かにCIAだが、アナリストだよ」と言ってのけた。前半はともかく、後半に関しては全く信用できない。その頃ちょうど、CIAアナリストが主人公、というハリウッド映画が公開されていたのだ。
 あるいは陸軍特殊部隊、デルタフォースかもしれない。ともかく、恐るべき力と知恵を兼ね備えた人間であることは確かだ。 
 それが今や、極東の島国でストーカー退治である。才能の無駄遣いであること極まりない。
「職業に貴賎はないよ」
 たとえ極めて低次元な人間に対する対処であっても、それによって救われた人間にとっては何より貴重な援助である。だから、ケンはそう諭した。
 アレクは反省して、小さくうなずく。
「なるほど。しかし連中、というかあの男。また彼女に付きまとったりしないでしょうか。いえ、というより十中八九そうなると思うのですが。本来僕達に関係のないことだとはいえ、心配です」 
 苦労を重ねたからこそ、他人の痛みを理解できる。彼はそういう人間である。逆に苦労の結果性格が歪んでしまう人間もいるが、そうならないだけの柔軟さと強靭さを兼ね備えている。そのまっすぐな性格を見込んだがために、ケンも彼がアメリカで暮らせるよう援助を惜しまなかった。逆にアレクはそれを、日本風の表現を使えば恩義と感じており、今でも付き合いが続いている。
 今日彼がここにいるのは、純粋に、ケンの要請があったからである。リサとはケンを介して知り合ったのだが、少なくとも彼女の頼みではわざわざ日本まで来たりはしなかっただろう。
「正しい分析だね。まあ、大丈夫。何とかなるよ、多分だけれど」
 聞くだけ聞いていると、なんとも無責任な発言である。しかしアレクは、ケンがそんな人間でないことを知っている。手の内をさらさないために具体的なことは一切言わないのだが、やるときは本当にやる男だ。初めて会ったときも、確かそんなことを言っていた。
「そう言えば、先程彼の持ち物を探っていましたね。あまり無茶はしないで下さいよ」
 住所氏名、その他諸々。財布からほとんど全て個人情報を把握した。悪用する気になれば、素人であっても本当にいくらでもやり方がある。ましてケンは並の人間ではない。危険な知識を山のように抱えている。
「さあ。そもそも私は手を出すとも言っていないよ」
 本当に、油断のならない男だ。今のアレクに対してさえ、尻尾を出そうとしない。
「そうですか。今は一応、そう思っておくことにしますよ」
 ケンにしゃべる気がない以上、アレクとしては引き下がるしかない。ただ、あのストーカーは近いうちに、最もそうしてはならない人物を敵に回したのだと、思い知ることになるだろう。それも相手の正体は全く知らないまま、だ。その確信が、アレクにはあった。だから一応、納得することにして話を変える。
「それで、先生。今回のお仕事は大丈夫ですか。色々と余計なことに時間をとられてしまいましたが」
 過去の経歴はともかく、今のケンが日本在住の大学の非常勤講師兼、コンサルタントであるということは事実だ。
 今回は日本のサブカルチャー業界への進出をもくろむ、とある企業からの依頼があったのだ。世界的に評価の高い日本のアニメ、ゲームのノウハウを取り込み、さらにアメリカ的に効率化して世界へ配信することで世界市場におけるその分野を寡占する、という中々壮大なプランである。
「ああ、別に。どうせ私がどんなレポートを書いた所で、結局あの会社の日本進出は頓挫するだろうから。気にしなくていいよ」
 笑って、きっぱりと言ってのける。アレクはため息をついた。
「ひどい…」
「何でも自分達のやり方でやればうまく行く、っていう根拠のない自信さ。良くも悪くもそう、アメリカンだね」 
 特殊な立場にいただけに、ケンは自国であるはずの国家、その文化に対しても第三者的な見方をする。「愛国心あふれる」と、評価されるような性格は、軍人には向いているかもしれないが、自分のような人間になることは難しいだろう。そう思っている。
「確かに、日本のサブカルチャーに目をつけた点は評価できるよ。しかし何しろ文化だから、グローバリゼーションに名を借りたアメリカナイズをしたのでは、ちぐはぐになってしまう。まあ、それでも強引に成功させてしまうのが『フロンティアスピリット』ではあるけれど、そこまでの力があるなら逆に私のレポートは必要ないさ」
「なら何故また、そんな失敗すると分かりきった仕事を引き受けたんです?」
「いや、私の仕事はそう簡単に失敗しないよ。調査報告を書いて出す、それが私と先方との契約だ。事業が成功する保障なんてものは、絶対にしていないからね。契約社会とは、つまりそういうこと。覚えておかなければいけないよ」
「はあ…」
 理屈は分かる。しかし何故か釈然としないのは、やはりケンの背景事情を把握し切れていないからだろう。その形跡は今の所見られないが、しかし彼がかつて所属していた組織と完全に手を切ったという証拠もない。民間からの依頼を隠れ蓑に、政府からの命令を実行しているという可能性もあるのだ。
 ただ、もし彼が政府関連の仕事を今も続けているとして、それならばどのような用事がここにあるのか、アレクには良く分からなかった。奇妙な人々がやたらと多い、彼としてこの場所の印象はそれに尽きる。そんな場所に、「帝国主義の牙城」が、興味を持つものなのだろうか。政府関連であると仮定するなら、そんな疑問も発生する。
 ただ、そもそも膨大な人数が集まるという時点で、商魂たくましい人間であれば様々なビジネスを思いつく。即売会主催者は集まる人間を「客」とは定義していないが、しかし客観的に見て、この集客力は凄まじいとさえ言える。動員力数十万、それはポップミュージックのトップアーティストに匹敵する、あるいはそれ以上の規模である。
 また、近い将来の高度情報化社会において、アニメ、ゲームなどのいわゆる「コンテンツ」、発信される情報の内容は欠くことのできない要素だ。その可能性、予兆、あるいは結果が、このイベントには山とある。
 さらに、かつての共産主義政権が一面では正しかった通り、資本主義国家の政府は経済界の動向にどうしても左右される。そのためその時代には敵国諜報部員と渡り合った人間達が、今や産業スパイに転用されているとも言われる。そんな時代だ。
 そのような資本主義社会ならではの事情というものは、共産圏で幼少時代を過ごしたアレクにとっては、中々分かりづらいことなのだった。実の所ケンはそれをある程度察しているのだが、しかし敢えて語ろうとしない。
「まあ、つまりは一件落着ということで。とりあえずリサや美月さんと合流しよう」
「分かりました」
 今この場でとやかく言っても、本当に詮無いことだ。それは承知しているので、アレクとしてもこれ以上問い質そうとはしなかった。ただ、正体はどうあれ自分の恩人に、ついて行くだけである。

続く


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