そらのやま「旅行記」Yukito Shimizu

旅行記 4『北京・西安の旅』
(大陸の空はかすんで)

1、スーツケースの止め金が……
 夏休みも終わりに近づいた八月二十二日、なんとかこの一週間だけは都合をつけて空け、今年の海外旅行を計画した。学校は相変わらず忙しく、この期間にも、夜の会合、校長会の出張、職員研修などが入ってきたが、断るところは断り、頼めるところは頼んで自分のスペースを守った。
「とても海外など出かけていられない」という声も耳にするが、少々人に迷惑をかけてしまうことは覚悟の上、ちょっと心を鬼にして、と言えば大げさだが、その気になれば時間は作れるものだ。
 最近は、いちばん時間の作りやすい年末年始に実施してきたのだが、2000年問題が気になる。特に交通事情等ちょっと心配な中国なので、早めにやった方がいい。そんな判断から夏休み実行ということにした。
 関空出発は二十三日午前十時だが、鳥取を出てそんな時間には間に合わない。空港ホテルに前泊。交通不便な山陰の悲しさだ。大阪行きのバスは渋滞にあって一時間遅れ。しかし、ホテルは満室とかで、ワンランク上の部屋に、頼んだ料金のままで泊まることができた。ラッキー。
 翌日八時ホテルを出発。
 J社のカウンターで搭乗券など必要なものをもらい、説明を受けて手荷物検査に行く。X線検査を受けるところだ。係員にスーツケースを渡す。係員がベルトに乗せた途端に持ち手の止め金がコロッと外れてしまった。幸い鍵をかける部分ではないのだが、それにしても今後の持ち運びが不便だ。
「どうしよう。」
 係員も受け取った後の出来事だから、責任を感じてドライバーを持ってきて修理をしてくれた。ネジの相手が外れてスーツケースの中に入ってしまっている。大勢の人のいる前でスーツケースの公開。検査に引っ掛かったのじゃないかと興味津々の目もある。ネジは無事発見でき修理完了。ついでにほかのネジも締めてもらった。出発準備のときにはそんなところも点検する必要があるようだ。我が家のスーツケースは八年前に買ったもの。そろそろくたびれるところがあるのかも知れない。

2、遅れた飛行機
 関空から北京首都空港まで搭乗時間三時間ほど。時差がマイナス一時間だから、北京へは十二時過ぎ到着した。入国手続きも予想外に早くすみ、北京市内へ。JTBからもらった日程表では、ここから西安までの乗り継ぎ便の出発時刻十六時四十分まで、何をするのか全く書いてない。それでも現地ガイドの案内でバスに乗り込む。市内観光を少しするという。
 中国は左ハンドル、車は右通行。間もなく高速に乗り制限速度110キロの道路をぶっとばす。空港と北京市街地は約60キロ離れていて、中心部までは一時間位はかかるそうだ。道路に沿ってずっと木が植えられている。ほとんどがポプラ、アカシアらしい木もある。成長が早く街路樹に適しているという。空は薄曇りの感じで、遠くはぼんやりとかすんでいる。黄砂なのかも知れない。
 やがて高速を降り、都心へは向かわないで、とある店に入った。中国茶専門のお茶屋さんである。
 私たちのグループ(北京に着いて初めて九人と知った)を席に着かせて、チャイナ服の女性店員が、日本語で説明しながらお茶をいれてくれる。何種類ものお茶を少しずつ味見させてくれた。もちろん店は味見させるのが目的ではない。味見の後は販売だ。店員がかなりしつこくついてまわる。そう広い店ではないし、旅は始まったばかり、土産をたくさん買う者はいない。ガイドを促し、店を後にして空港に帰る。
 午後三時過ぎ空港着。搭乗手続きをして少し時間待ちすればよかろう。ガイドは、十六時四十分発の2128便の受け付けカウンター等を指示して帰っていった。後は我々だけでするしかない。指示された搭乗手続きのカウンターに向かう。しばらく並んで待つ間、ガイドから渡された航空券を見ながら、えらいことに気がついた。便が違うのだ。航空券には2108便、十七時十分発となっている。いったいどこでこんな違いが起こったのか。ガイドはなんの説明もしてくれなかった。グループに動揺が走る。しかし、航空券の記載を変更することは今となっては不可能だ。やむをえず2108便のカウンターに並ぶ。予定より三十分遅れるが、そのくらいは我慢できる。手続きをすませて、十六時ごろには待合室に入る。
 さて、ここからが中国だ。発着の状況を見に行っていたグループの一人が私たちに知らせに来る。なんと、十七時十分発の飛行機は十八時三十分まで遅れることになったのである。理由が知らされれば理解できることもあるのだろうが、全くわからない。「遅れる」こと自体、中国語と英語の放送しかないようだ。掲示板で理解するしかない。日本語の話せる人はいないかと見回すが、回りに聞こえるのは中国語ばかり。もっとも、たとえ理由がわかったとしても、飛行機が早く飛ぶわけではないから、あきらめて静かに待つしかない。これが中国だ。
 結局待つこと三時間、やっと2108便で西安に向かうことができたのだが、グループの人たちは憤懣やるかたないといったところ。それでも西安では我々の到着を待つガイドがあり、遅い夕食にもありつくことができた。
 説明がない、時間はわからない。私たち日本人は非常に許せないことと思う。しかし、中国人の立場から見ればどうなのか。
 帰国して、一冊の本を読んだ。

「中国では、待てなくなってから待つことを待つと言います。」
               「中国旅行がしたくなる本」(連合出版・和田正信 著)

 この言葉にずいぶん説得力を感じてしまった。

3、勇気が勝つ
 西安は城壁に囲まれた街である。といっても城壁に囲まれているのはその一部、もとの長安は現在の城内の八倍の広さがあったと言われる。城壁は周囲14キロ、その上は人も車も通行可能。ただし、車は電気自動車だけという。主な寺院などは城外にあり、有名な秦の始皇帝の兵馬俑坑、玄宗皇帝と楊貴妃の華清池などは、市街地からかなり離れた郊外である。
 中国どこでも、とは私には言えないけれど、この街の交通事情はものすごいものである。車と人と自転車と、まさに雑踏と喧騒の町である。
 ガイドの趙さんが私たちに尋ねる。
「この街の交通で優先するのは何でしょう。」
「人?」…「いやいや」…「自転車?」…「いやいや」
「勇気です。この混雑の中を渡っていくのは勇気なのです。もし躊躇して待っていたら何時間たっても 横断はできません。」
 三車線の道路に四台の車が並んで走り、少しの車間にさっと割り込む。自転車も人もそうだ。車の間を縫って横断して行くのは正に「勇気」か、あるいは「厚かましさ」か。バスは車幅が広いから、すぐに割り込まれてしまうが、バスの運転手も負けずに割り込んでいく。
 信号機は少なく、お巡りさんの手信号もかなりある。取り締まりもしていて、時々捕まっている車もあるが、どんな基準なのはわからない。ひょっとしたら運の悪いのが見せしめのために挙げられているのかも。
「こんな様子ですから事故も多いと思うでしょうが、ほとんどありません。」
……「そんなはずはなかろう」と私は思いながら聞く。事実、接触事故はこの旅行中二・三度見かけた。ただ、重大な事故でなければ、示談ですませてしまうのだろう。接触事故の当事者がやり合っている。それを何十人かが取り巻いている。そんな姿も見かけた。でも、公には報告がないから数字にはならない。
 もっとも、車の運転は六十歳が限度だという。そうだろう。こんな状況はかなりの運動神経の持ち主でなければ乗り切れまい。

4、ことばと文字
 隣国だから、漢字の国だから、大丈夫だろう通じるだろう。などと考えていたら大間違いだ。私たちは、国語と言えばもちろん日本語で、外国語と言えば中学校から何年間か英語を学習してきた。その英語が、文法中心だとか、会話が大切だとか、ヒアリングだとか、いろいろ言われてはいるが、海外に出ればなんとか単語でも並べてみようと努力する。そして、わずかながらでも通じる。
 しかし、中国語はどうか。ニー・ハオとイー・アル・サン………私がしゃべることができるのはそのくらいのものではないか。空港で手続きを待つ行列の中で、後ろに並んでいた中国人が私に尋ねる。
「ホワッチュアネーム?」
「マイネームイズ・ユキト・シミズ」彼は私のスーツケースの名札を確かめながら言う。
「シミズ・ユキト?」
「イエス・イエス」
 名札には確かに「SHIMIZU YUKITO」とある。私は彼の英語の問いに英語で答えたつもりなのだが、この小さなやりとりで何かを指摘されたような感じがした。
 観光地に日本人は多いが、空港など人混みの中で飛び交っているのは中国語である。私には全くわからない。隣国と言いながら、この言葉の問題はどうなのか。英語だけを外国語と思わせているような外国語教育にはやはり問題があると思う。(だからと言って、小学生の英語教育の一部を塾に認めるというような方針に賛成はしかねるが。)
 さて、文字はどうか。少しはわかる文字がある。それは私たちにとってはわずかな救いだ。しかし、中国での漢字の省略はものすごい。

 何となく感覚で読めるものや、日本でも略字として使われているもの、クイズにでもなりそうなものと多岐に渡る。ただ、何が基準になっているかがわからない。また、日本では日常使用しない文字も多く使われており、文法も違うから、街の広告看板を拾い読みしてみるくらいのものだ。

5、ガイドの趙さん
 海外に出ると、特に言葉が自由でない私たちはガイドに頼らなければならない。ガイドが旅行の成否を決めると言ってもいい。これまでにもいいガイドに出会った。ヨーロッパ旅行のイタリア、フランス、イギリスのガイトなど、いずれもよい案内をしてもらった。
 中国でのガイトは日本の旅行業者が直接頼めない仕組みのようだ。つまり、JTBが中国の旅行社に依頼し、そこから派遣されたガイドが案内する、という仕組みのようだ。
 西安を案内してくれた趙さんは、ある意味ではその範疇を越えたガイドだったのかも知れない。
 北京から西安まで、なぜ待たされるのかわからないままで我慢していた私たちのグループが出会った西安のガイドが趙さんだったのである。
 私たちはいらいらしていた。西安のホテルにようやくたどり着いたという感じで、このガイドに文句を言ってもしょうがないが、どこに文句の言いようもないというあきらめの感じだったのである。
 翌る日は兵馬俑、華清池などの観光である。彼は実に熱心に説明をした。マイクを使わないサービスもしばしば。空港での手続きもすべて行い、すっかり我々の信頼を得た。北京の空港での説明不足についても、身内であるかも知れないのに彼は評価した。
「いけません。それは、ガイドがいけません。」
 バスの中から携帯電話で旅行社にその旨を連絡し、「明日からの北京観光もよいガイドを」とお願いしてくれた。
 観光案内の途中には、自分の家族のことも語り、家庭教育についても自分の方針を語った。自分を語れることはガイドでなくともすばらしいことだと思う。そんなこんなが私たちに受けて、昨日のいらいらをすっかり忘れて西安の予定を終了できた。
 しかし、彼の電話による依頼は必ずしも通らなかったようだ。翌る日の北京のガイドは彼ほど気がきかなかったし、「これぞ中国」という旅を私たちは続けざるを得なかったのである。

6、「長恨歌」と「ふるさと」
 華清池は、玄宗皇帝と楊貴妃の話でよく知られたところである。西安から車で四・五十分、多くの観光客が訪れる。なんのことはない風呂場跡なのだ。もっともこのあたり温泉が出ることも事実で、近くには共同浴場が現在もある。
 ガイドの趙さんは、西安生まれの西安育ちということもあってか、この玄宗皇帝と楊貴妃の話が好きらしい。たびたび私たちに聞かせてくれた。また、白楽天の「長恨歌」も大好きという。最初は日本語訳(そう言えば学校で少し習ったのを思い出す)で四分の一ばかり、二日目には華清池に向かうバスの中で、中国語で120行の全文を暗唱してくれた。漢詩を中国語で聞くのは初めてだったが、そのリズムと抑揚がすばらしい。意味はわからなくても引き込まれてしまいそうな感じがする。漢詩はやっぱり中国のものだ。
 趙さんは、独学で日本語を習得した努力家である。しかし、彼の日本語はたいへんよくわかる。最初、「私の日本語はわかりますか。」と確かめている様子も見えたが、なかなかどうして立派なものだ。敬語がわからないらしく、「いただく」が謙譲語か尊敬語かゴチャゴチャになっているが、ほかは正確に話せる。
 また、前章でもふれたが、家族のことなども語ってくれて、なにか日本人的な感じもした。彼の家族観によれば、
「親を大切にすることです。それがまた自分が子に大切にされることになります」
という。日本人の私たちと同じだ、と思う。
 そんな彼が、ガイドをしながら、
「日本の歌を歌います。」
と言って「ふるさと」を歌った。何となく正調「ふるさと」という感じで、作曲の岡野貞一が鳥取県出身ということが私の意識にあることもあって、これまた好感がもてた。

7、不景気 中国経済
「中国は今不景気ですから。」
ガイドは言う。日本だって不景気だ。給料は上がらない。物は売れない。金利は低い。就職はない。だから私の息子二人も就職に苦労した。いや、ここは中国だ。中国はどうなんだ。為替相場は新聞に載ったり載らなかったり。中国国内の景気の様子もほとんどニュースにならないから、その不景気加減はわからない。
 西安の街角に二・三百人の人たちが坐り、話し合い、また、ぼんやりと佇んでいる。朝十時ごろの風景だ。
 中国では家の前で何かをしている人があれば、必ずと言っていいくらいそれを見ている何人かの人がある。昼だろうと、夕方だろうと、夜だろうとだ。あの「見ている人」というのはなんだろうか。一日そうしているのだろうか、不思議な人たちだ。
 西安で見かけた群衆は、しかし、それとは違っていた。道具(二、三本の工具)を持っている人がある。それも建設関係の道具だ。「水道工」などの札を胸に下げた人もある。何かを待っている様子だが、いつまで待つというようなはっきりしたあてがあるようには見えない。そのうち交渉のようなことが始まった。それに近寄っていく人もあるが、そのまま待ち続ける人もある。ここは、街頭の職安なのだ。群衆は仕事を求めている人たち、そして、時々労働者を求めて求人側がやって来る。その場で賃金等の交渉が行われ、成立すると現場に向かう。求める職種の求人がなければ、また、需要が少なければ、当然その日の仕事がない人もできる。
 もう十時を過ぎている。仕事にありつけるあてはあるのか。明日はどうか。
 交差点で小さな車同士の接触事故があった。群衆の一部がそれをとりまく。
 ところで、街のあちこちで工事をしている。私的工事なのか、公の工事なのか私にはわからない。ただ、工事に関わっている人間がずいぶん多いことは確かだ。機械よりも人に頼っていることが多いのだ。だから、街角で仕事を求めている人が道具を見せている意味が理解できる。工事の速さよりも人に仕事を与えることを優先する。そんな経済の状況かも知れない。
 北京の京劇の劇場の前には、物売りはもちろん、乞食が私たちに寄ってくる。「プーヨー、プーヨー(不用・いらない)」と言って通り過ぎるが、中国の人々の生活、経済、十億の人々、それぞれさまざまだ。

8、物価・食事など
「一か月の生活費は一万円位です。」
 ガイドがそう言う。とすれば物価は安いはずだ。しかし、ガイドが案内する土産物店での買い物は、決して安くない。今度の旅行は全部食事付きだから、旅行中はあまり金はかからない、と思っていたのだが、なかなかそうはいかない。
 ビール。ホテルの冷蔵庫(ミニバー)では、罐ビールが20元以上もする。(1元=約14円)街で食事にビールを頼むと、地ビール大瓶1本で10元。これは安い。でも、中国の人が飲むとすれば、それでもけっこう高いのかも知れない。私たちのいくレストランはやはり観光客向けのところだから、庶民の店はもっと安いのだろう。
 家の前で食事をしている風景がよく見られる。煉瓦の平屋では夏のこの暑さ、食事には向かないかも知れない。都心は高いビルが建ち並ぶ北京でも、ちょっと郊外に出ればそんな暮らしが見える。
 我々の方は、朝はホテル。朝食はインターナショナルコース(要するにバイキング)、和食コース、中華コースと三コースの中から選べるようになっている。西安も北京も日本の企業が関係するホテルだから、客の多くは日本人。和食とバイキングの客がほとんどだ。もっとも昼食、夕食は中華だから、それ以外のものを求めるのは仕方のないことかも知れない。
 昼・夕の中華料理は、様々な味を味わうことができた。北京ダックとか、餃子料理とか、それぞれの店の個性だろうか。ただ、我々日本人は、本格的中華は口にあわないかも知れない。日本人向けの味にアレンジされたものに人気がある。
 北京のレストランで小さな酒の瓶がだされた。猪口に一杯、口に含んで、
「なに、これっ!。」
まるでアルコールそのもの。瓶を確かめる。「清香型白酒」アルコール56度。高梁を原料にした蒸溜酒らしい。こんなの飲んでるのか。土産に持って帰ろうと思ったが、ふたの部分から蒸発するのか匂うので、冷水で薄めて飲んでしまった。くせもなくおいしかった。
 ここで、おまけに作物の話。
 兵馬俑坑近く、道端に果物を売っている。それも右に左に何十か所もだ。なんだろう、形からりんごかな、そう言えば果物畑が続いている。よく見てわかった。柘榴だ。大きい。このあたりは柘榴の産地なのだ。
 北京近くでは桃畑が続いていた。
 畑にはとうもろこし、雨の少ないこの地方では米はとれない。

9、歩く (1) 万里の長城
「中国旅行は歩くところがいっぱいある」
 そんな覚悟をしてやってきた。これまでの海外はほとんど革靴で過ごしたが、この度は少し底が厚めの軽い運動靴にした。確かにバスを降りたら相当距離歩かなければならない。万里の長城は初めからわかっていたことだが、兵馬俑坑も明十三稜(定稜)も故宮博物院もしっかり歩いてみて回った。
 万里の長城は、八達嶺から登る観光用コースが設定してあり、男坂と女坂があったが、私たちのグループはほとんど年配の人ばかりで、女坂を選んだようだ。急な坂や階段を二十分ぐらい登る。登ったところは終点ではない。万里の長城だから全長六千キロにもおよび、ずっとずっと続くのだが、長城の一端に触れてみたというところだ。それでも「長城に至らざれば好漢にあらず」とか。これで好漢(よい男)になれたか。
 しかし、いったいなんのために造ったのだ。外敵の侵入に備えてというが、これで効果はあったのか。心理的な効果はあっただろうが、実際のところはどうか。日本人観光客の一人が長城から下を見ながら、「なるほど、これなら攻めにくい。」
とつぶやいていたが、これは守る方もたいへんだろう。
 兵馬俑坑も明の十三稜(定稜)も故宮博物院も、現在の天安門広場だってばかでかい。そんなのが好きな人間性なのかも知れない。
 汗をかきかき登って降りて、団体集合場所でみんなを待つ。記念の集合写真の注文を私たちはしなかったので、早く登り降りしてゆっくりできた。

10、歩く (2) 兵馬俑
 兵馬俑坑は、秦の始皇帝の陵墓を守る素焼きの陶製の人形地下軍団である。日本でいえば埴輪。しかし、その規模は桁外れで、その数八千体といわれる。現在発掘され、修復されているのは約二千体。全貌が明らかになるのにこれからどれだけの年月がかかるのだろうか。そう言えば、インドネシア・ブランバナン寺院の修復には後五十年はかかるということだった。イタリア・ポンペイはまだ二十%の発掘が残っているときいた。発掘修復にはどこの遺跡も多くの人手と金と時間が必要だ。
 坑は三つあり、発掘、修復の現場も見られた。
 ここは写真撮影禁止。集合記念写真を業者が撮って売る。一枚1500円(日本円)、高いよ。
 三号坑まで見て、バスへ。一人足りない。帽子を二つかぶって目立つおじさんだ。ガイドと連れの人が捜しに引き返す。しばらくして見つかったが、他の団体についていってしまったらしい。私たちのバスは四十人近くもいて(我々のグループ以外にもいろんなグループが一緒になっている)、ガイド一人ではなかなか把握できない。学校の引率みたいに並んで行けばいいのだろうが、いい大人がそんなことはしない。団体の作り方にちょっと問題ありだ。
 もっともこのおじさん、定稜でも勝手に一人バスに帰っていて、また迷子かとみんなを心配させたから、そんな性格なのかも知れない。

11、歩く (3) 大雁塔・青龍寺
 大雁塔は、唐の時代いわゆる三蔵法師・玄奘がインドから持ち帰った教典を納めた塔である。時の皇帝高宗は仏教を厚く信仰していて、慈恩寺の境内にこの大雁塔を建てた。現在七層のこの建物の高さは62m、最上階まで248段の階段を上る。
 さすがに一気には上れなくて五層で休憩。窓からの風が涼しい。
 最上階で西安の街を眺める。道はまっすぐ延び、建ち並ぶビルや民家。相変わらず黄砂がかかっていて、遠くの景色は濁って消えている。
 隋、唐の時代、日本は遣隋使、遣唐使による交流が盛んに行われていたことは歴史で勉強したとおりである。このころ中国は、仏教の盛んな時代であった。九世紀初め唐に渡った空海(弘法大師)は、恵果阿闍梨に師事して真言密教を伝授され、日本に持ち帰った。そして、高野山・金剛峰寺に真言宗を開くのである。
 大雁塔から車で十分ほどのところにある青龍寺は、隋の時代の建立、唐代になって恵果が住職になった。空海はここで恵果に師事し学問に励んだに違いない。
 この青龍寺は十一世紀には廃寺となり場所さえわからなくなってしまうが、1973年畑の中から寺の跡が発見され、青龍寺であることが確認された。日中友好が進められるようになって、この寺は、日本の真言宗徒の協力で再建、現在では観光名所の一つとなっている。
 かなり疲れていたが、ガイドの趙さんがせっかく友達に頼んで無料で見せてもらうことができたところ。ここは、お遍路さん〇番のお寺とか。これからお遍路さんをする予定は今のところないが、確かにここにもお参りしたことは覚えておこう。
 大雁塔、青龍寺、いずれも仏教が盛んなころの中国を代表する建物である。

12、歩く (4) 天安門広場・故宮博物院
 天安門広場、首都北京のシンボルと言ってもよかろう。毎年この広場の何十万人の集まりはテレビでや新聞で紹介されるから。このあたりには、毛主席記念堂、人民大会堂、革命博物館などがあり、北京の中心部である。
 南北880m 、東西500m、50万人を収容できるという。とにかくやたら広い。朝なのでまだあまり人はいないが、いや、それでも何百人かはいるのかもしれない。
 天安門には、おなじみ毛沢東の肖像画が掲げられ、どうぞ記念写真を撮ってくださいとガイドが言う。毛さんのファンでもないし、別にここで撮らなくてもいいが、まあ、郷にいれば郷に従うか。
 天安門の裏に当たるのが故宮博物院である。
 明の永楽帝の宮殿。東西735m、南北965m、周囲を高さ10mの城壁が巡る。ここにある建物を含めてすべてが博物館である。壮大、カラフル、まさに中国の宮殿。映画「ラストエンペラー」の舞台となり、ロケも行われたところだというが、私はその映画を見ていない。
 門をいくつかくぐる。大きな水がめがある。ガイドは言う。
「火災発生のときにはこの水を使ったのです。」
「それで、実際に火事はあったのですか。」
「はい、度々ありました。」
 ガイドブックにも火災が頻発したと触れられている。
 天安門広場からずっと歩き続けで、少々くたびれる。

13、商 売
 西安の朝。少しホテルの周りを散歩する。夜まで車と人でにぎやかだった街も、朝まだ六時半、ようやく通勤の人たちが動きはじめたところだ。朝早くから(あるいは昨夜の続きだろうか)店が出されていて、人の寄り付きが見られた。そのあたりにゴミが散乱している。自転車や歩行者の動きも見られる。などと観察しながら歩いていると、後ろから声をかけられた。
「おはようございます。早いですね。」
振り向いてみると、三十代位の中国人である。
「あ、おはようございます。」
「私、日本語の勉強をしていまして、日本人を見ると話しをしてみたいのです。いいですか。」
「いいですよ。日本語うまいですね。」
「いつもこんなに早いのですか。」
「そうですね。仕事の関係がありますから、だいたいこのくらいの時間には起きていますよ。」
などと言いながら、少し歩く。だいぶホテルから離れたので、
「もうそろそろホテルに帰ります。」
「この近くに私の家があります。寄って行きませんか。」
「いえ、もう食事の時間になりますから。ここで失礼します。」
「そうですか。実は、私の父は絵描きでして、私も絵の勉強をしています。ここに少し持っていますか ら見てください。一枚どれでも千円です」
 なんだ、そういうことか。結局絵の商売。道理でうまく話しかけてくると思った。いちおう持っている絵(水墨画)を全部見て、丁重に断ってホテルに帰る。

 北京では、ガイドが念を押した。
「ホテルの周りで、いっしょにカラオケ歌いましょう、などと声をかけてくる女の人がありますが、気 をつけてください。たいへんなことになることがありますから。」
 それでもちょっと興味があるから、夜出てみる。ああ、いるいる。これも商売か。声をかけられている男性もある。二人がその後どうしたかは知らない。

14、現代中国トイレ事情

「中国人が、日本人に較べ、排泄に関しておおらかで開放的なことは確かである。街の公衆トイレには、 普通確かに、仕切りはない。家庭にはトイレがないことが一般的であるので、人々は用を足しに集ま ってくる。並んでしゃがみ、新聞を読んだり、談笑をしたりさえする。」
                     (和田正信「中国旅行がしたくなる本」)

 中国旅行をすると言うと、すぐにトイレが話題になる。仕切りがないとか、囲いがないとか、戸がないとか。穴に板がわたしてあるだけとか。
 もちろん私たちが利用したホテルは、日本人を中心にした観光客の多いホテルだから、トイレを初め、設備はきちんとしている。
 また、観光地の私たちが利用する施設はだいたいよい。「だいたい」というのは、あまりよくないところもある、ということだ。「戸がきちんと閉まらなくて、交代で閉めていた」という女子のトイレとか、「戸のないトイレ」が実際にあった。
 閉鎖するのが高い文化か、開放するのが文化なのか。それはわからないけれど、やはり日本人にはなじめない生活様式だろう。一般の家庭を訪れる機会はなかったけれど、外から見る庶民の家の造りはあまり変わってはいないようだから、トイレも昔と変わらないのではないか。ただ、北京の郊外の住宅地で建設中の公衆便所を何か所か見た。日本に普通にある公衆便所と同じように見えた。中国人のトイレに関する見方・考え方も少しずつ変わりつつあるのかも知れない。

15、旅の終わりはラッキーで
 この旅の初めはずいぶん様々なことがあった。
 バスの遅れ、スーツケースのアクシデント、飛行機の遅れ、まだまだいっぱいあったような気がする。でもまあ、予定通り進行したという方かもしれない。
 帰路、北京空港から関西国際空港へ。出発は一分の遅れもなく、それどころか、何と関空には十五分も早く着陸した。さすが日本の航空機、たいしたもんだ。
 いや、私たちはそんなことに感心している暇はない。旅行会社の立てた計画では、大阪難波発の高速バス二十一時三十分、家に帰れば翌日未明。できればそれよりも少しでも早いバスに乗れないか。
 飛行機の関空着陸十七時二十分。入国手続きをして、あのベルトをグルグル回る手荷物を受け取り、大阪難波行きバス乗り場へ。何と、十七時五十分空港発のバスにセーフ。
 そして、難波発鳥取行き十九時発の高速バスに間に合った(しかもキャンセル待ちで)のである。多分これは新記録と言ってもよかろう。。旅の終わりはまさしくラッキー。一日得したような気分。

 これに気をよくして、またどこか出かけるか。

終わりに
 中国の旅、と言ってもわずかに、北京、西安とその周辺しか見ることはできなかった。数年前に桂林を訪れたが、それを合わせても広い中国から考えれば、小さな点に過ぎないのかもしれない。でも、数年前と現在の相違点と類似点、南方の町桂林と首都北京、あるいは古都西安、それらの比較がぼんやりとながらできるように思う。
 相変わらず記憶をたどりながらの記述なので、まちがいやとらえ方の違いがあるかも知れないが、そのときはご容赦願いたい。もし、確かめたかったら、実際に足を運ばれることをおすすめしたい。自分の目や耳ほど自分にとって確かなものはないから。
 なお、文中にも触れたが「中国旅行がしたくなる本」(連合出版・和田正信 著)を参考にさせていただいたことを書き添えておく。

    ─────1999年 初秋  清水行人  
                   清水稔子