そらのやま「旅行記」Yukito Shimizu

旅行記 思いでぽろぽろ インドネシア』

 私たちが二人で海外旅行をするようになって8年になります。もちろんそれ以前にもそれぞれに出かけることはあったのですが,こうしてきちんと(とまではいきませんが)手記をまとめるようになったのは,このインドネシアの旅からでした。この手記は旅行の仲間に配った程度でしたが,せっかく残しているものですから,ここに発表しておくことにしました。
 その後インドネシアでは,政変や東ティモールの独立などがあって,国の様子が変っているかもしれません。でも,変らない景色,変わらない人々の様子が今も見られるのではないかと,読み返しながら思っています。(2002.6)

思い出ぽろぽろ インドネシア
   1994年8月             清水 行人
                        清水 稔子 

キラキラ・ポコの話
 デンパサール空港は離着陸しやすい空港という感じだ。なんの抵抗もなく着陸する。穏やかな海の近くの空港だからなのかも知れない。
 デンパサール空港で入国手続き。この国も入国手続きに時間がかかる。一昨年、中国桂林でも猛暑の中ずいぶん待たされたものだった。
 待合室に度々案内放送がある。インドネシア語なので、意味はまったくわからない。その中に「キラキラ」という言葉が耳に飛び込んできた。そのゆっくりとした発音とイントネーションが、なんとも言えずおもしろい。よく聞いていると、「キラキラ」のあとに「ポコ」と付く(なにしろインドネシア語などまったく知らないのだから正しく聞こえているのか怪しいのだが)。同じグループの人たちも同じことを感じたのか、この言葉が放送される度に軽い笑いとざわめきが広がる。それは、決してこの言葉をあざけったりしているのではない、意味はわからないがこれからの旅の楽しさを予感してのざわめきだったと思う。
 あとでガイドに聞いてみたところ、「キラキラ」は「大体」という意味ではないかということだった。とすると、「〇〇便は,何時何分頃到着予定」と言うようなところで出てきたのだろうか。夜遅くなって、しかも長い入国手続きも、こんなわずかなことで和むものだ。

気 候
 赤道直下の熱帯に行くというので、暑さを覚悟していた。特にこの夏、日本の暑さは大変なもので、出発の前日には鳥取で三十九度台という猛暑となった。インドネシアはもっと大変だろうと思ったのである。
 ところがどうして、飛行機から降りてみると、何と涼しいのである。バリ到着が夜だったから、そのせいかとその時は思った。しかし、日中もさっぱりと爽やかなのだ。汗もでない。ただし、日の当たるところはやはり暑い。つまり、湿度が低いのだ。温度計や湿度計で計っているわけではないが、感覚としてそうだ。ガイドも「今日は涼しい」などとは一言もいわなかったから、普通のインドネシアの気候なのだろう。
 実に過ごしやすい、というのが私たち全員の共通した感想だった。ケチャックダンスを見た二十七日が少し蒸し暑かった。と思ったら、ダンス見学中に雨。やはり雨の前で湿度が高かったのだろう。
 二十八日午後福岡着。焼けたアスファルトの熱気が肌にむっと触る。
 ああ、日本の夏は、熱帯など比べ物にならないほど暑いのだ。

ホテル
 バリもジョグジャカルタも一流のホテルであった。特にバリのインターコンチネンタルは、ジンバランというリゾート地の海岸に沿ったところにある大きなホテルである。建物が大きいというより、敷地が広く(十四ヘクタール)さまざまな施設がある。三つのプールやテニスコートなどは普通のこととして、海岸もホテルの所有地だから、海水浴もできる。マリンスポーツ施設もある。海岸に沿って歩くと五百メートルもあるので,翌朝ホテルのまわりを散歩するのに三十分以上もかかってしまった。
 廊下は吹き抜け,客室が六つの棟に分かれていて、棟を間違えると部屋さがしが大変である。
 七百人ものスタッフがいるという。ジンバラン全体の人口が三千五百人ということから考えてみても、この地域の中の一大企業だということがわかる。仕事もかなり細かく分けてあるらしく、ホテルのまわりにも多くの従業員の姿が見られた。
 ところで、私たちは七月二十四日このバリに到着、宿泊。二十五日はデンパサール市内視察の後、夕刻の便でジョグジャカルタへ飛んだ。二十五、二十六日両日ジョググジャカルタ宿泊。二十七日再びバリに帰る予定であった。そのため、ジョグジャカルタへ持って行く必要のないものは、このホテルに預けて行くことにした。
 さて二十七日、バリに帰って日本人学校など視察の後ホテル着。「預けた鞄は部屋に届けます」というのでひとまず部屋に落ち着き、夜のケチャックダンス見物までの時間を過ごす。明日の朝の出発が早いので、その準備をすることにした。
 ところが、いくら待っても預けた鞄が届かない。仕方がないのでフロントまで交渉に出かける。日本語は大体通じるのだが、私たちの二十四日から今日までの行動がなかなか理解できないようだ。フロントはボーイと話をしろという。ボーイのチーフらしいのと机をはさんでやり取りをしていると、「お客様のバッグはこれでしょうか」と別のボーイが持ってきた。どうも担当のボーイがまだ運んでなかったらしい。
 あとで他の人たちに聞くと、預けた荷物はすぐ部屋に届いたというから、担当のボーイの怠慢か。日本語の通じにくい国だったら、もっと面倒なことになるところだった。
 なお、事前の説明会で、ホテルにないものとしてパジャマ、スリッパ、歯ブラシ、虫除けスプレーなどとあったが、はじめのホテルにあっても、次のホテルにないということもあるので、一応の準備はした方がいいようだ。夜は少しだが蚊がいる。香取線香を準備した方がよい。

食 事
 毎日のことだから、食事は楽しみにもなり、苦痛にもなる。
 朝はホテルのバイキングだから、好きなものを食べればよい。コーヒーはお代わりをしないかとボーイが度々持ってくる。コーヒーの産地でもあるから、まずまずうまい。
 果物もいろいろあった。スイカ、パイン、パパイアはどのレストランでもホテルでも出てきた。ドリアン、バナナもあった。プランバナンで樹から落ちた黄色い実を拾った。聞いてみると、スターアップルという。なるほど上から見ると星の形である。ランブータンといったか、栗のいがいがのような果物もあった。
 昼夜はレストランでの食事となる。何が本当のインドネシア料理か知らないけれど、中華料理にしても何にしても、香辛料がかなり効かせてあるから、これに抵抗を感じる人はまずだめだ。外国人向けのレストランでは、できるだけそのくせをおさえるようにしている、ということだったが、やはりかなりのものだった。ごはんは例の長粒米。パサパサしているから、なにかと混ぜて食べるのがよい。
 ケチャックダンスの後の夕食は、四日間のうちでもっとも食べやすい料理であった。

「夕食は、デンパサールの中華料理店だった。……(中略)……
 料理は、広東料理で、日本人好みの味だったし,日本では食べられない珍しい魚や野菜が使われ、種類や分量も多かった。」
              (山村美紗「京都・バリ殺人旅行」より)

 ひょっとしたら同じ店だったのかも知れない。私たち日本人には,味に対する共通した体質が出来上がっているのである。

通 貨
 100Rp(ルピア)=5円 換算はRpを十分の一にしてさらに二で割る。Rpそのままで考えていると、膨大な数字になってしまい、わけがわからなくなる。例えば1万円は20万Rpなのだ。
 土産物店ではRp、円、ドルのいずれも使える。ただし、ドル表示をしている店、Rp表示をしている店などがあり、一律でない。しかもレートが店によってまちまちで、1ドルが99円台から105円の店もあった。私たちが日本を出たときが98円台だったから、そのことをいくら言ってもわかってくれない。
 物価は安い。ジョグジャカルタのマーケットで下着(男物のパンツとシャツ)を買ったら300円くらいだった。土産物も町の店とかマーケットで買うと安く上がる。これは、ヨーロッパでも感じたことだった。一ヶ月の生活費(中流家庭)は日本円にして1万3千円くらいという。

子どもの物売り
 観光地では必ずといっていいほどまとわりついてくるのが物売りである。フランスのパリでも、香港でも,中国でもそうだった。ただ、インドネシアでは、子どもの物売りがやってきたのには驚かされた。中国桂林の子どもたちは「十円、十円」とねだるだけだった。しかし、ジャワ島のブランナバン遺跡などの観光地では「千円、千円」と小学校三・四年生くらいの子どもたちが迫ってくる。「いらない」と言うと、キーホルダーの数を増し、Tシャツの枚数を増やす。大人顔負けだ。さらに、通路に側溝があると、「アシモトニキヲツケテ」と日本語で注意を促すなど、正にサービス業に徹している。バスの入り口まで「千円」を繰り返し日本人客を追っかけるが、いざ出発となると、「サヨナラ」と挨拶を忘れない。おそるべき物売り根性である。
 インドネシアの学校は、午前と午後に別れていると言うから、この子どもたちは授業のない子どもたちだろう。親や大人のリーダーの指示に従ってやっているのだろうか。それにしても生活がかかっていると言うことはたいしたものだ。


 稲刈りをしている田んぼがある。鎌で刈りとっている。人がいっぱいいて、よく見ると、あまり根元からは刈りとっていない。なんとなく、教科書に出てくる弥生時代の稲刈りの絵を思い出す。完全な手作業である。機械はまだほとんどなく、人手と牛による農業である。しかも乾期と雨期しかない熱帯は、気温に大きな変化がないので、いつでも米が作れる。乾期と言っても毎日晴れているわけではなく、ときにはスコールもある。(私たちが滞在した四・五日の間にも一度雨が降った)雨期と言っても、日本の梅雨のように毎日雨が続くということではないらしい。だから、いつ田植えをしても米がとれる。
 従って、インドネシアでは、日本のように田植え、稲刈りの決まった時期がない。いつ田植えをするかは、家によって異なるという。実際、道路横の田んぼも、田植えをして間もないところ、青々と繁っているところ、稲刈りをしているところとまちまちであった。そして,年間二・三回、米をこの田んぼから収穫するのである。

椰子の木
 屋敷の中にも道路の横にも、実のなっているものいないもの、椰子の木はいっぱいある。一軒の家で、十本あれば、くらしに困らないという。高さは十五〜二十メートル、梯子をかけても実の位置までとどかないから、手足で登る。旅行中、梯子を使って葉を落としているところを、ホテルで見かけた。また、民家で登っているところを一度だけ見かけた。実はもちろん、葉も幹もすべて役立つのだという。
 ちなみに、若い実は飲料水として利用し、熟した実は椰子油になる。椰子油作りはもちろん各家庭で行う。
 幹は建築材料、株は家の土台や家具として加工される。
 さらに葉は、若いものは祭祀用の飾りになり,古いものは屋根に葺く。私たちが食事をしたレストランでも,別の小さな建物で,女の人が二人,祭祀用や食事用の飾りを作っているところであった。


 バリは年中花が絶えない。日本でもおなじみのものを上げてみても、ブーゲンビレア、ハイビスカス、カンナ、キョウチクトウ、ニチニチソウ、ハマユウ、洋蘭の仲間、池にはハスなどがあちこちに咲き乱れている。名も知らない花も多い。カンボジャという花も教えてもらった。国花はマダガスカルジャスミンだそうだ。自生のマダガスカルジャスミンは大きな樹になっている。
 なにしろ熱帯だから、年中気温に変化がない。だから日本では温室や一時期しか咲かない花々も、ここでは自生し、年中咲くのだ。島の人々も花が好きである。ホテルの庭にある置き物に、ハイビスカスの耳飾りがしてあった。毎日取り替えるのだそうだ。
 ヒンズー教のこの国では、毎日のお供え物も欠かさない。そのお供え物にも必ず花をそえるという。自然が宗教や生活習慣と結びついているのである。

星空・二つの太陽
 デンパサール空港に着いたのは夜の十時頃。飛行機から降りてふと空を見上げると星がいっぱいだった。星座や方角がわからない。日本で見る星空なら、主な星座はわかるのだが、感覚がぜんぜん違う。北斗七星に似たのが見えたから、なんとなくそうかな、とするとあっちが北か、などと思っていたが、あとで考えてみるとどうもおかしい。
 夜はたいてい晴れていたから、星を見るチャンスはたくさんあったが、星座盤か何かもってくればよかった。ただ、さそりはアンターレスが確認できたから間違いないと思う。低い位置に見えたのが白鳥だったのだろうか。南十字も見たかった。
 ジョグジャカルタの夕日がすばらしかった。「バリのサンセットが美しい」とガイドは言っていたが、なかなかどうして、ジョグジャカルタの夕日もいい。
 遺跡などの見学から帰って、ホテルの窓から見ると、何と太陽が二つ見える。窓ガラスに映っているのかと思って,窓をあけてみたが間違いない。一つは赤く明るく遠いジャングルに沈もうとしている。それより少し高い位置にあるもう一つの太陽は、円く見えるが輝きはない。やがて、下の輝いている太陽が沈むのと同じように、輝きのない太陽も下から形が欠け、なくなっていった。蜃気楼のような現象だったのだろうか。不思議な思いに包まれた。

宗 教
 ジョグジャカルタの朝四時半頃、町に流れるコーランで目がさめる。ジャワ島はそのほとんどがイスラム教である。毎日五回決まった時間に教徒である人たちは礼拝を行う。イスラム教徒は早起きである。もっともこのような熱帯では、早起きをして仕事に取りかからなければ、昼間が暑いので、その分朝早く起きるよう宗教で制約しているのかも知れない。とにかく宗教が、生活や彼らの物の考え方に深くかかわっていて、「日本人が信仰している宗教」からはとても考えられないことが多いと思う。
 ジョグジャカルタの近くにあるボロブドール(Borobudur)の遺跡と、プランバナン(Prambanan)の遺跡をたずねた。ボロブドールの遺跡は、まわりの彫刻から、釈迦が悟りを開くまでの説話が読み取れる。つまり仏教寺院の遺跡である。そう離れていないところにあるプランバナンの遺跡は、やはりまわりの石ににラーマーヤナの物語が彫られている。つまりここはヒンズー教の寺院である。仏教、ヒンズー教、イスラム教と三つの宗教が、時代が異なるとは言え同居しているのである。
 どちらの寺院も石造りの建造物だが、近くの火山の噴火で崩壊したものを再建したものである。日本もこの再建には多くの援助をしているということで、私たち観光客にも友好的だ。しかし、ブランバナン寺院が再建完成するのは五十年後という。その年月と、はめ絵パズルのような作業を想像したとき、気の遠くなるような感じがした。
 バリ島は、ヒンズー教の島である。バリの民家を見学できることになった。特別お金持ちの家というのではなく、普通の民家ということだ。門の外からは中が見通せないようになっている。魔除けの意味があるそうだ。
 入ってすぐトイレ、そして台所の家。親の家。若夫婦の家。仕事の家。祀りごとの家。穀物の家。そして、家族の寺院。長方形の屋敷の中に、これだけの建物が間隔をおきながら立っている。これがバリの普通の家屋敷全体の造りである。
 家と言ってもそんなに大げさなものではない。椰子の葉で葺いた屋根。建物によって異なるが、簡単な壁。板間に敷き物がある程度だ。気候が安定して、台風もないこの地方では、これで十分らしい。たまには龍巻があるらしい。しかし、それによって被害を受けるのは、いくつかの家族にすぎない。また、火事があったとしても、家と家に間隔があるので、被害を最小限に食い止めることができるという。バリの人々の合理的なものの考えに感心するとともに、屋敷の中に寺院を造って祀る信仰の厚さをここにも感じた。
 畑があり、鶏が歩き、椰子の木には実がたわわに実っている。

ケチャックダンス
 ……昔、ケチャックは恍惚状態にある娘たちが踊るサンヤンという踊
 りに伴ったコーラスのことでした。サンヤンダンスは恍惚状態にある
 娘たちを通じて、祖先の願いを聞くことを目的としています。現在で
 は、ケチャックダンスはラーマーヤナ物語をもとに踊られています。
                   (現地でもらった解説文より)

「旅のしおり」に、「ケチャックダンスとロブスターの夕食」と書いてあったので、観劇しながら食事でもするのかと思いながら出かけた。
 ケチャックダンスの会場は、バスでかなり走った郊外にあった。「今日は屋根付きの会場で行います」という。食事はダンス終了後町のレストランでとるのだそうだ。バラック建てのような建物に入ると,正面にステージ、観客席は椅子席である。二〜三百席くらい。ほぼ席が埋まり、定刻通りに始まる。

「ゆらぐ松明を中心に、猿の軍団となった百人あまりの半裸の男たちが輪になり、ケチャッ、ケチャッと低く叫ぶ声は,まるで地の底からきこえてくる呪文のようで、迫力にみちていた」
              (山村美紗「京都・バリ殺人旅行」より)

 ラーマーヤナの語りを聞きながら、日本の人形浄瑠璃を感じていた。どちらがどう影響を与えたか、受けたかは知らない。あるいは何の関係もなかったのかも知れない。しかし、似ている。舞台で演じられている状況と語り。もう一つのこの地方の民族文化影絵劇も浄瑠璃と同じ語りの口調である。人類の文化はどこかで共通しているのだろうか。
 途中雨の音が聞こえた。このスコールを予想して屋内の公演になったのか。外に出ると、雨が降ったあとさえ見えないくらいにからりと乾いている。爽やかな夜の空気を吸って、会場を後にした。

ガイド
 人口一億五千万、一万三千余もの群島国家インドネシア。どうしてこんな国家が統治できるか不思議なくらいだ。海を隔てたそれぞれの島のそれぞれの部族が、異なる歴史や言語や文化を持ちながら、インドネシア語という共通の言語を持ち、一つの国家としてまとまっている。宗教はそのほとんどがイスラム教だというが、バリ島ではヒンズー教が90%を占めている。
「私はシュードラです。」
 バリでガイドをしてくれた髭のスシーラさんはそう言った。ヒンズー教徒のカースト制度は,今も厳然として残っているという。私たちが、中学か高校かで昔勉強した、バラモン(僧侶)・クシャトリア(王候貴族)・ヴァイシャ(平民)・シュードラ(隷民)の階級制度である。シュードラが、人口としてはもっとも多いという。バリの自然のこと、人々のくらしのこと、風習のことなど、彼は一生懸命に語ってくれた。
 ジョグジャカルタでガイドをしてくれたワルーノさんは、少し足が不自由に見えたが、遺跡の間を身軽に歩きまわり、ラーマーヤナを語ってくれた。また、年代、大きさ、高さなどめっぽう数字に強かった。冗談を交えながら、自分を語り、自分の妻のことも話した。
 彼は日本のことも実によく勉強していて、日本のすばらしさ(特に経済力)をほめあげたが、「インドネシアの男は料理の違う日本人とは結婚しない方がよい」と文化の違いを強調した。
 どちらもまじめで熱心なガイドで、インドネシア語などまったく覚えようともしない私たちも、安心して旅ができたのである。
 トゥリマカシ(ありがとうございました)

あとがき
 インドネシア四泊五日の旅。思い出すことを少しずつまとめてみた。メモをとっていなかったので聞き違いや記憶違いがあると思う。実際に見て来られた方々で整理・訂正しながらお読みいただきたい。
 また、日本語補修授業校のことなど、書きたいことはまだまだ多い。この学校については、校長先生からいただいた紹介文がうまくまとめられているので、あえて重複を避けた。
 さらに、帰国して本屋で見つけた山村美紗の推理小説の文章を少し使わせていただいた。
 何にしても、私たち自身にとってなかなか得るところの多い旅であった。こんな機会を与えてくださった県教育委員会(旅行費用のほとんどはは個人負担ですよ)、互助会、主催してくださった日通鳥取航空営業所及び同行お世話いただいた添乗員の和田さんに厚く感謝しながらペンを置く。

  平成6(1994)年8月