(アンコールワットの旅) |
7.アンコール遺跡1 世界的に有名な「アンコール遺跡」の築造は、今述べてきたカンボジアの苦難の歴史よりもずっと遡る。12世紀から13世紀にかけて、クメール帝国は北はラオス、東はベトナム、西はタイのチャオプラヤ川、南はマレー半島の北部までを制する一大勢力をなした。その都がアンコールであった。 ガイドはこの地方の遺跡は200余りと言う。アンコール王朝の王は在位中に必ず王都を造営し、寺院を建立しなければならなかったため、このような膨大な寺院遺跡が造られることになった。(河出書房新社「世界遺産の凄さがわかる本」より) そして、それがまた王朝の寿命を縮めることにもなった。つまり、そのことに王朝の勢力は費やされてしまったのである。次第に勢力を強めてきた隣国シャム(タイ)、ベトナムに圧倒されたクメールは、1431年アンコールの都を放棄する。 それから約400年の後、フランス人博物学者アンリ・ムーオによって発見される(1860)まで、この遺跡はジャングルに覆い隠される。というが、実際にはムーオ以前にもこの遺跡を見た人は多くあるらしく、1632年もリボン右近太夫一房という武士が仏像を奉納したという記録もある。 アンコール遺跡の中でもっとも有名なのがアンコール・ワット。これは後世の呼び名で、スーリヤヴァルマン2世が12世紀初めに建立した石造寺院である。周りを囲む濠は東西1.4キロ、南北1.3キロと大規模なもの。 特にこの寺院の回廊のレリーフはすばらしい。インドの叙事詩「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」は、インドネシアの寺院遺跡でも見たが、これほどの規模ではなかった。また、ヒンドゥー神話に関するもの、天国と地獄など、当時の生活をかなりリアルに、また、コミカルに表したものもあり「これは凄い。」とうなるだけだった。 |