そらのやま「旅行記」Yukito Shimizu

海外旅行二人連れ『アルプスの山々の語らい』

3.マッターホルンに火がついた
「6時頃かな,もう少し早いかもしれない。マッターホルンは,天気のいい朝真っ赤に輝きます。」
 吉村さんからこんな情報が出された。寝不足で疲労も重なっているが,そんなすばらしい光景を逃すわけにはいかない。明日の朝の楽しみだ。

 ツェルマットのホテル・アドミラル(ADMIRAL)は,駅から500mばかりのところにあった。アルプスの地にふさわしく,村内では排気ガスを出す自動車は禁止,恵まれた自然を壊さないように鉄道,電気自動車,馬車,ソーラーバスが主たる交通機関となっている。
 電気自動車は音が小さい。後ろから近づいていても分からないことが多い。しかし,運転者は観光客に親切だ。クラクションを鳴らすことはなく,声をかけて注意することもない。ゆっくりと避けて通るか,後ろで止まって待つか,とにかく観光客優先である。(写真:ツェルマット駅前の電気自動車)

 このような小さな町のホテルでは,設備が十分に整っていないところも多いという。
 夕食までに少し時間があったので,駅前のスーパーでミネラルウォーターと缶ビールを買ってきた。あまり冷えていなかったので冷やしておこうと思ったが,部屋に冷蔵庫がない。去年ギリシアでは冷房の吹き出し口に朝まで置いて冷やしたことを思い出したが,ここには冷房もない。仕方がない,水道の水で冷やすか,と,水道の水に手をつけて驚いた。実に冷たい。これならちょっとした冷蔵庫代わりになる。

「スイスの水は飲んでもよい」と聞いた記憶があったが,吉村さんは,
「飲めないことはありませんが,硬水なのでお腹の調子を悪くする人もあります。」
と言う。でもこんなに冷たい水を飲んでみたいものだ。少しコップに入れて飲む。うまいじゃないの。その後も何度か口にしたが,特に問題はなかった。

 ホテルの前を流れる川(マッターフィスパ川)がすごい。ゴーゴーと流れている。アルプスの氷河のとけ水を流しているのだろうか,白く濁った水のものすごい流れだ。白いのは石灰分か何か溶かし込んでいるのかもしれないが,きっと冷たい流れに違いない。

 昨日あまり寝ていないからと,早めにベッドにはいったが,時差(日本と−7時間)の関係からか2時ごろに目が覚めてしまい,その後はうとうとと浅い眠り。
 5時半起床。天気は晴れ。朝のマッターホルンを見なければならない。スーツケースは6時45分に出せばよいので,帰ってからでも間に合うだろう。外に出るとまだ真っ暗,時々自転車や,近所の人らしいのに出会うだけ。川にゴミを捨てている人がある。なんということだ,自然を壊すのは自動車ばかりじゃないんだぞ。

 マッターホルンもまだ暗く,ぼんやり見えるだけ。今日は火星大接近の日だが,山に囲まれたこの地からは,西の空にかかった星を見ることはできない。
「(朝焼けのマッターホルン)見えそうにないからいったん帰るわ。」
と,妻はホテルに帰っていった。
 私は街灯の光にあまり影響されない場所を探して,少し川の上流まで移動する。吉村さんは高い橋(この橋は2重になっている)の上が観察のポイントだ,と言っていた。そこでは何人かの人がカメラを持って待ち構えている。どうも日本人が多いようだが私たちのグループの人はいない。次第にマッターホルンは明るくなっていくがなんの変化も起こらない。だんだん寒さが身にしみる。

 6時半近くなっている。「何が6時だよ」と,ぼやきながらその場を去ろうとしたそのときである。少し頂上が赤みを帯びて見えるかな,という感じになった。
 始まった。その先端は次第に赤く輝いて,下の方へと広がって行く。マッターホルンに火がついた。
 私は何枚か写真を撮ると,ホテルに向かって走った。
「早く出て見るといい。」
 スーツケースに荷物を詰めていた妻も飛び出してきた。
 わずか5分ほどだったが実に神秘的ともいえる現象だった。後は何もなかったかのようにマッターホルンの青い槍が晴れた空を貫いている。

 ずいぶん時間が遅くなってしまった。あわてて荷物を仕上げて部屋の外に出すと,朝食に向かう。みんながマッターホルンの話でもちきり。
 旅行中のホテルの朝食はバイキングが多い。パンは種類が豊富で,いろいろ選べるし,食べたいほど食べられるが,他のものは多くない。特にスープがないこと,野菜が少ないことである。最初のジュネーブの朝食など,パン以外何を食べればいいのか分からないくらいだった。後で聞くとどうも朝が早かったので,作るのが間に合わなかったらしい。終わるようになってから卵が出てきたりした。
 私はふだんからそんなに朝食を多く食べる方ではないが,このところ一日の運動量が多いから,腹が減っては戦ができぬ,とハムや果物などなんとか口に合いそうなものを取って食べる。コーヒーは何杯でもお代わりができるが,そんなに飲めたものではない。
 あわただしい朝のひとときが終わり,7時30分出発。ホテルの前の温度計を見ると9℃,寒いはずだよ。

 今日は氷河特急でアンデルマットまで行き,バスで峠を越えてインターラーケンまで行くことになっている。
「世界一遅い」氷河特急が出発すると早速検札があった。検札をする車掌さんは公用語であるドイツ語,フランス語,イタリア語,それに英語の4つの言葉が話せなければならないと言う。スイスは多民族・多言語国家なので,独・仏・伊の3カ国語は学校教育で必修になっているそうだし,観光で成り立っている国として英語も欠かせない言葉となる。10年間習っても英語一つしゃべれない私など恥ずかしい。(続く)