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空の山通信11

No.612  新修気高町誌刊行間近

 私がこのことに関わったのは一昨年(平成16年・2004)の春のことだった。当時の横田気高町教育長から,
「なんと,新しい気高町誌を出すことになったので手伝ってもらえんかいな」
と,頼まれたことに始まる。同じ勝見の住人だから気心が知れているということもあったろうし,校長会では『鳥取県校長会五十年史』編纂に当たっていたので,そういう仕事に対しては使える人材だと思ってもらっていたのかもしれない。

 当初の話では17年度で仕上げたいということであった。
「2年間で出来るの?」正直なところみんながそう思っていた。昭和52年に出された『気高町誌』は,昭和41年に委員を決めて編纂事業が出発している。つまり,10年以上もかかる大事業だったということだ。
 それを2年余り(私以外の委員は15年秋からこの仕事にかかっていた)という短期間で仕上げようというわけだ。しかも,私が入った段階ではまだ分担も決まっておらず,原稿の1枚も出来ていなかった。

 私は自分が執筆を担当する部分について書き進めることは当然のこととして,集まってくる原稿を新町誌の原稿の書式に入力することに没頭した。手書き原稿については,すべてキーボードをたたいて入力する。
 こうして少しずつ原稿が集まりだした段階で市町村合併を迎えた。それに関しては「この事業は新鳥取市に引き継がれることになっている」ということで心配はしていなかった。しかし,旧気高町の教育長は当然退任となり,担当課も担当者も代わった。
 原稿はかなりのペースで集まりだし,これなら何とか間に合うかもしれないと,みんなが原稿書きに没頭した。当然私の忙しさはピークに達した。

 そして,年度が変わって17年度。
〈印刷製本費の予算がつかない!〉〈A5判にせよ〉〈1200ページにおさえよ〉。
 これまでやってきたこととずいぶん違ったことが出てきた。印刷は18年度に回され,これまで計画し制作に当たっていたものよりもずいぶん縮小しなければならなくなった。原稿すべての見直しである。委員はしぶしぶ従うしかなかったが,最終的な直しは私の手に回ってきた。

 それでも1年間という余裕期間のおかげで,早い時期に印刷屋も決まり,印刷に取り掛かることが出来た。しかも,1冊3500円というこれまで(52年版8400円)とは比べ物にならない安い価格で配布できそうである。800部という印刷部数が足りないくらいに注文が来ればいいのだが。そうすれば私たちの苦労も報われるというもの。
 ちなみに私は,我が家の1冊は当然のこととして,息子たちにも1冊ずつ買って送ってやろうと思っている。おそらくこれから『気高町誌』という形でまとめられることはなかろうと思われるので。気高町の歴史や文化の足跡を残してやれる最後の機会だと思うから。
(写真・『新修気高町誌』のPRパンフレット)